第五話 アイス談義
結局、糸井氏にメールを送ったのは三週間後だった。
もう九月中旬、暑さは残るが朝夕は涼しくなっている。
私の職場では、第二四半期の決算へ向けて、関係各所とのスケジュール調整で残業が続いた。
毎日乗る帰りの電車にはくたびれた老若男女が虚ろな目をしている。私もその一人で、無難なシャツとスカートを着け、暗い車窓に暗い顔をして映っている。
――ああ、きもの着たいな……
禁断症状だ。
別に出かけなくてもいい、着ているだけでハッピーになれる。カルタ結びや貝の口で平たく帯をまとめれば、ごろ寝もできる。
きものは大人のコスプレ、という言葉がある。着ていると自分の中に違う自分が生まれ、周りに世界が構築されるのは巷のコスプレと同じなのだが、いいトシをしていても大丈夫、周囲から「文化の継承者」として敬意を払われるという点で、きものは果てしなく大人にやさしい。
しかしきものの話ができる相手と言うのはうちの家族の女子しかいない。たまには血縁外の同志とも話したいのだが、友人たちは二分以上きものの話が続くと嫌な顔をするので、あいつらは同志ではない。
「次の停車駅は烏雀間、烏雀間です」
その車内アナウンスを聞いて、混んだ車内、すみませんとぼそぼそ言いながら人をかき分けて私はドアの前へ行った。
ドアが開く。
夜気が顔に当たるのを感じるなり、私は途中下車してしまった。
蛾が群がった灯の下、降りた客がめいめい改札へ向かう。
私は色褪せたベンチに座ってメールを打った。
――お久しぶりです。
――先日はありがとうございました。
――あの帯めちゃめちゃいいです。妹にもすごくうらやましがられました。
――今、烏雀間駅にいます。突然で申し訳ありませんが、もしお時間があったら、帯のお礼に、今からどこかでお食事でもいかがですか。
もう仕事場にはいないかもしれない。
夜の八時過ぎに夕食につきあえと言うのも遅すぎる。
送信後にそう気づいた。
――夕食がおすみでしたら、またの機会を設けますので、遠慮なく断っちゃってください
そう追記メールしようとしたら返信がきた。さっきの送信から20秒も経ってないのではないだろうか。
――行きます。店は決まってますか?
駅前に牛丼のチェーン店が見えたので、そこでどうかと提案すると、糸井氏は難色を示した。仕事場のすぐ近くにいい店があるのでそこへ案内したいと言い出す。私は身も心もよれよれなので近くで手軽に済ませたいのだが、帰りに仕事場へ寄って好きなはぎれを持ち帰っていい、と言われて俄然行く気になった。
きもの好きで、はぎれという言葉を聞いてときめかない人間はいないのではないだろうか。私は半襟や帯揚げ、帯締めをよく自作するので、ひとたまりもない。
きもの好きの急所を野蛮にぶっ刺してくるところは、さすが和裁士だ。
きっかり10分後に糸井氏はやってきた。
慌てて髭を剃ってきたのか、少し顎のあたりに
上がった息を少し整えて、彼は会釈した。
「こんばんは、お誘いありがとうございます」
「
「いえ、時間ならありますので」
とりあえず二人で
今日はさすがに芭蕉布ではない。
しじら織の作務衣にボディバッグ。
骨格が程よく浮き出したきれいな裸足が焼杉の下駄の鼻緒にとおっているさまは、女性のうなじと同じくらい好い。
それにひきかえ、私のパンプスを履いた足のむくみっぷりときたら、ひどいものだ。
「お帰りはいつもこのくらいの時間なんですか」
「いいえ、いつもはもうちょっと早いんですけど、ここのところ残業が続いていまして」
「忙しいんですね」
「時期によりますよ」
「じゃあ、行きましょうか」
糸井氏は進行方向へ体を斜にして掌を上に進行方向を示し、エスコートの体をとった。かおるくん第二形態はこういうボディランゲージが自然にできるようになっている。
私が育てたわけではないが、えらいねえ、と思った。
さっそく、並んで歩く。
「お食事、まだだったんですか」
「はい、ちょっとサイト巡りしてまして」
「糸井さんって、どんなサイトを見るんですか」
「今日はコスプレ用ハンドメイドのサイトですね」
「コスプレ?」
「先日、七五三の七歳きものを三歳用に仕立て直して、出たはぎれで和洋折衷のミニハットは作れないかっていう相談が来たので、どういうものか調べてみようと思って。そう難しくないので、作れそうです」
「へえ……」
「小さい子は草履で神社の境内歩くの大変ですからね。和洋折衷で大正浪漫っぽくコーディネートして、おしゃれなブーツを履かせる親御さんが増えてきてるんですよ」
「勉強することがたくさんあるんですね」
「どのお仕事もそういうものでしょう?」
糸井氏おすすめのお店は、彼の仕事場の目と鼻の先にあった。まだ
古い店に見えるのに、よく見ると新しい建材に焼きや削り、ウォッシュで古びた感じを出している。古さをファッションとして楽しんでいる人の店だ。
かまわぬ、の手ぬぐいで作った暖簾。内照式のスタンド看板には「たいこや」とある。
店内に入ると、昭和歌謡が流れてきた。昭和歌謡といっても、戦中戦後あたりのクラシックなタイプだ。
「いらっしゃい」
私たちより少し年下に見える男性が迎えてくれた。
厨房には年配の男性と女性、客はカウンターに年配の男性が三人。
店内に置かれた大きな水槽には地味な和金が二匹、真ん丸に太って泳いでいた。
壁にずらりと掛けられているのは、洒落た和てぬぐいを額装した縦長のフレーム。
モミジやサンマ、栗、稲穂などの秋の風物の柄だった。
計算されたレトロ感と、わざと少し的を外した和風の匂い。こういうのは嫌いじゃない、というか好きだ。
私は席について、メニュー表を見た。
載っているのは丼物が中心で、単品とお酒も少し。
「あ、ここ丼屋さんなんですね」
ちょうどお冷を運んできた店員さんがにこやかに答えた。
「そうなんですよ。うち、たいこやって言うんですけどね、なんで太鼓を屋号にしたかわかります?」
「いいえ」
「太鼓って、叩くとどんってなるでしょ? だから、丼物の店にたいこやって名前、いいと思いませんか」
「へえ」
僕が小学生のころ両親がこの店を開いたんですけどね、と彼は厨房の男女を視線で示し、続けた。
「僕がこの店の名前決めたんですよ」
それが、このたいこや若旦那の自慢なのだろう。
人通りの少ない裏通りという立地だが、厨房も接客担当も表情が明るいので店の雰囲気がよくなっている。
糸井氏はたぶんこのトークを経験済みなのだろう、聞きに徹している。
私はイワシのソースかつ丼のセットを頼み、また彼は私と同じものを頼んだ。
「自分の好きなものを頼んだらいいのに」
「だって氷切沢さんがどんな味のものを食べるのか、気になって」
「糸井さんが私と別のものを頼んでおいしそうだったら、今度頼もうって予習できるのに」
「そのメニューまだ食べたことなかったんで僕も食べたいです」
「この間の寄席のお蕎麦のときも、私の真似しましたよね」
「氷切沢さんの食のセンスがいいからですよ」
糸井氏のクオリア共有欲求と、このもやもやの落としどころを探すのが面倒だったので、私はそれ以上何も言わなかった。
料理が来るまでの間、席を立って手ぬぐいの額を見る。
全部で7枚が飾られていた。
小菊を散らしたものや紅葉とシカの意匠も素敵だったが、クマが七輪でサンマを焼いている柄のが一番気に入った。焼けるのを待ってパタパタと扇で炭を仰ぐクマがユーモラスで可愛いのだ。
驚いたことに、飾られているもののいくつかは百円ショップの品だという。明日百均を回ってみなければ。
半月盆に載って出てきた丼は、イワシがしっかり大きくておいしかった。ソースがウスターなのもポイントが高い。今度、妹や母も連れてきたい。
糸井氏も満足した様子だった。
食べ終わってからお会計をしようとすると、糸井氏はさっと私とレジの間に割って入った。私がさらにレジの前に出ようとすると、彼がレジ台に手を置いて割り込めないようにする。
「ここは僕が連れてきたお店ですから」
「え、でも私が誘ったんですし、帯もいただいたし……」
私がもぞもぞ財布を出しているうちに、彼はさっさとナントカPayで払ってしまった。
かおるくんのくせにコード決済か。
私が帯のお礼にと言って誘ったのに、なんで払ってしまうのだかおるくん。
舌打ちまではしないがちょっと悔しい気分になった。
店を出ると、雲が黒く浮かぶ中に、少しだけ欠けた月が
店を出てものの二分で糸井氏の仕事部屋へ着いた。
前に来たときと違うのは、作業台の上にノートパソコンが開きっぱなしになっていて、首のリブ編みが伸び切ったTシャツが押入れの前に落ちていたことくらいだ。
糸井氏が慌てて脱ぎ散らかした服を片付けだす。
「慌てて支度したので、つい散らかしっぱなしにしてしまって」
「そういう普通の服も着るんですね」
「ええ、まあ一応……現代人ですので」
彼はバツが悪そうだった。
「誰もこのご時世、365日二十四時間ずっと和装の人がいるなんて思ってませんよ」
「氷切沢さんはおきものが好きなので、洋服も着るって言ったらがっかりされるかと思いました」
「それくらいでがっかりなんかしませんよ。私だって今日は普通の服ですし」
私がそう言いながら自分のシャツの胸元の生地をくいっとつまんで見せると、彼は安心したように軽くため息をついた。自分でイメージを作って演じないと落ち着かない性質なのかもしれない。
またあの椅子を勧められて座ると、糸井氏は台所の小さな冷蔵庫から何か出してきた。
「これ、お好きじゃないかと思って」
スーパーでよく見る、ちょっとお高めのチョコミントのカップアイスだった。
「薄荷のきものをオーダーするくらいですから、大好きです」
「よかった」
「ありがとうございます」
その悩ましいパッケージは、見る間にうっすらと霜を纏ってくる。
夕食を摂ってお腹いっぱいなのに、あのメーカーロゴの付いたプラスプーンを差し出され、ありがたく受け取ってしまった。
蓋を取って、内蓋になっているフィルムをはがす。
「この間の博多帯、どう見てもチョコミントでしたから、絶対好きなはずと思ってました」
「あの帯、一目惚れして買っちゃったんですよね、あの色合い、まさにって感じでしょう?」
「メンズのがないか、あの後探しましたよ」
「ありました?」
「ありませんでした」
一匙、口に含む。疲れを癒す、さわやかな香りが鼻に通る。心地よい甘さと冷たさが私の中で広がる。
小さな幸せがここにある。
私が食べだしたのを見届けると、糸井氏も自分のチョコミントを食べ始めた。
そのスプーンの動きが今一つ、ノリが悪い。
最初は考え込むように眉間に薄く皺をよせ、中盤からは味覚から精神を逸らすようにストイックな顔つきで食べている。
瞬く間に至福の時間を終えてしまった私は、訊ねてみた。
「もしかして、糸井さん、これ苦手じゃないですか」
「……いや、大丈夫です」
「歯磨き粉みたいだと思ってません?」
「本当に……飴とかガムならいけるんですけど」
すまなそうに言う。もう、苦手だと白状したようなものだ。
「苦手なら買わなくてもいいのに」
「喜んでもらいかったんですよ」
「そうじゃなくて、自分の分くらい好きなの買ったらいいじゃないですか」
「だって、ミルク金時食う男ってどう思います?」
「あ、私も好きですよ、ミルク金時」
「……宇治じゃないんですよ? 大の男がミルクですよ?」
私は糸井氏が何を言っているかさっぱりわからなかった。
ミルクだったらダメなのか。西部劇の酒場で笑いものになっちゃうからか。
でも、たしかその映画でミルクを飲んでいたのはどえらいイケメンヒーローで、美女に惚れられていた。
「おいしいじゃないですか」
「何年か前、女の子たちから、その顔でミルク金時とかあり得ないって言われたんです……」
「それで引き籠り一択になったということですか」
「まさかそれくらいで。でも、ミルク金時は女子には受けが悪い、と学習しました」
ギャップ萌えで押していけばあるいは、というのは思いつかなかったらしい。
この見てくれでまだまだ女子受けを気にしなければならないのか。
男という生き物の業は果てしなく深い。
「人の食べ物を貶す人って、ネタ感覚で言ってるか、単に品性が残念なだけですから真に受けちゃだめですよ」
「わかってますけどやっぱり、かっこつけたかったので」
幼い頃を知る人間に長いブランク後会うときは、誰しもそれなりに気取りたくなる。そういうものなのだろう。
同窓会なんかだとみんな自慢話しかしない。もちろん不幸自慢も含めて。
「かっこつける必要はないでしょう、女性には不自由しないお顔立ちですし」
「誰がですか」
「糸井さんがです」
糸井氏は、カフェでテラスでお茶を飲んでいたり、本屋で雑誌を選んでいたりするだけで絵になる。ただいるだけでおキレイさんの雰囲気をぷんぷんさせて、ランウェイでも歩いていそうだ。さらに、和装で持ち前の美貌が二割増しになっている。まさに鬼に金棒。
しかし、糸井氏は少し神経質そうな動きで、私がしっかりスプーンでこそげ取ってきれいにしたアイスカップをさらい、自分が食べ終わったべとべとのものと重ねてごみ箱に捨てた。
「女性には不自由中です」
そう言うと、さっと台所の流しで手を洗い、部屋の奥の棚から不織布の収納ボックスを降ろして、私の前に置いた。
「お好きなだけどうぞ」
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