第四話 クロアゲハ

 糸井氏の言う「近くにある仕事場」は、確かに近かった。

 駅の裏に回り、寂れた商店街を通る。

 幽霊か、暴漢でも出てきそうな錆の浮いたシャッター街。

 芭蕉布男もとい糸井氏が歩くと、シャッター街でもまるで祇園あたりの小路のように見える。


「ここ、もうすぐ取り壊されるんですよ」


「あ、区画整理されるんでしたっけ」


「こういう街並み、好きなんですけどね。狭くて、救急車も消防車も入れないから仕方ないんですよ」

 

 廃業した魚屋さんの角から左へ入って二本目の路地に、古い平屋アパートがあった。

 そこの一階角部屋のドアに鍵を差し込みながら、糸井氏は言った。


「古いでしょう。その分家賃が安くて助かってます」


「なんか、昔の長屋ながやみたいですね」


 さっきの落語に長屋のネタがありましたね、と糸井氏は笑った。

 ぼっち気質だというのに、さっきからよく笑顔を見せる。

 私はと言えば、今更自分の軽率さを反省し始めていた。兵児帯見たさに、一応昔のクラスメイトとはいえよく知らない男性のテリトリーに単独でやって来てしまった。


「看板は出してらっしゃらないんですか?」


「看板は、今のところネットだけで揚げてます。寸法なんかも全部お客様に入力してもらって、ネットと宅配のやり取りだけで納品まで行けるので」


「じゃあ、絵羽えばものは」


「よほどのことがない限り、一からは請けませんね。サイズ直しとか、仮絵羽かりえばまでいったお品ならOKなんですけど」


 扉を開けて、部屋の主は私を中へいざなった。

 一息分、躊躇する。

 扉を押さえて、私が入るのを待っている腕を見る。

 正確に言えば、その腕を覆っている芭蕉布を見る。

 この透け感、いいなあ。


「芭蕉布、お好きですか」


「はい、憧れてます」


「触ります?」


「わぁ、いいんですか」


うかうかと私は糸井氏の袖に触れてしゃりしゃりと感触を楽しみつつ、そのまま仕事場へ足を踏み入れてしまった。


――ここが、「かおるくん」第二形態の引き籠り場所かぁ……


 中は、昭和の映画に出てくるボロアパートそのものだったが、すっきりと片付いていた。

 六畳一間で畳や床はしっかりしていて、洋裁をやる人が使うような巨大な作業台が部屋の中央にあり、この空間の主役となっている。

 ベッドやソファは置かれていない。純然たる作業場としての部屋のようだ。

 白い長襦袢を着せてあるメンズとレディスのボディスタンドが壁際に立ち、和服用の桐箱がたくさん積まれたきもの箪笥だんすがある。棚の下に並べてある不織布の書類ボックスのへりには、様々な反物たんもの

 作業台脇に足踏みミシン。足で踏板ふみいたを踏んで動力にする、前時代の遺物だ。しかし、電動ミシンより稼働音が静かなので、こういう安普請のアパートなどでちまちまとやっている仕立て屋には重宝されている、という話を聞いたことがある。値引きや無茶な納期要求があったオーダーは、相手と交渉の上、彼はこれで一部縫っているという。

 壁ではエアコンが冷気を吐き出し、納期などを書き込んだシンプルなカレンダーが掛かっている。写真も花も、飾るものは何もない。

 部屋の隅の充電ステーションで、全自動掃除機が眠っていた。


「住んでるのは祖母の家なんですけど、祖母がインコ5羽飼ってるんですよ。お客様がアレルギーをお持ちだったらと思うと反物広げられなくて、ここを借りました」


「すごく整理整頓なさってますね」


「氷切沢さんから受注いただいてから、僕、ここをものすごい勢いで片づけたんですよ」


「はあ」


「いつ来られてもいいようにって。でも、納品後も全然連絡がないし、こうして会いに行っても、僕のこと思い出しもしなかったし」


 ちょっと恨みがましい口調が、「かおるくん」第一形態っぽい。

 この人は本当に「かおるくん」なのだ。


「会いにって? 今日のあの寄席に?」


「はい」


「お祖母さんが三味線弾かれるからではなく?」


「それも3パーセントくらいはありますけど」


「純粋に落語聞きたいっていうのは?」


「ゼロです。今まで落語に触れたことありませんでしたし……でも、面白かったです」


 とにかくどうぞ、と作業台の椅子を勧められ、私は座った。紬の端切はぎれで作ったティーマットが前に敷かれる。


「麦茶でもいいですか」


「あ、お構いなく……すぐ失礼しますので」


 狭い台所から、糸井氏が氷が浮かんだ濃い目の麦茶を運んでくる。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 アダルトビデオのように睡眠薬が入っていたりしないか、と一瞬思ったが、それはないだろう。私と糸井氏が寄席で一緒にいたのを見ている人がいるし、糸井氏のお祖母さんにも累が及ぶ。

 そもそも、私はあまり男好きするタイプではない。おそらくAVのような展開はない。

 それよりは、農薬だとか青酸のほうが心配だ。

 つらかった小学校生活を引きずって恨みに恨んで、何もかも放り出して復讐しようとしていたら……


 しかし、糸井氏はそういう、いわゆる無敵の人には見えない。

 とりあえず、私は喉が渇いている。

 芭蕉布を着る人に悪い人はいない。たぶん。

 私は、麦茶を一気に飲み干した。

 異味も異臭もなく、おいしかった。

 糸井氏は麦茶ポットを持ってきて、間髪を入れずにおかわりを注いでくれた。

 三杯目が注がれたとき、私はここへの訪問目的を切り出した。


「あの、そろそろあれを見せていただいてもいいでしょうか……この後、用事があるので」


「え……」


「兵児帯を作ってらっしゃるとか」


「ああ、あれですね。ちょっと待ってください」


 彼はさっそく女性のボディスタンドを抱えて私の前に出し、箪笥から紺の絽のきものを着せた。そこへ、作業台の大きな抽斗ひきだしからひらひらした黒い布を取り出し、メッシュの帯板を包んでボディに巻き付ける。

 ポリレーヨンのごく薄い楊柳ようりゅう。薄くて軽そうで、涼やかだった。長めなので、帯結びで遊べそうだ。


「あ、黒……」


「クロアゲハみたいできれいでしょう?」


 私は虫が嫌いなので、他のたとえが欲しかった。例えば、黒出目金でめきんとか。

 しかし「かおるくん」には羽化して飛び立つクロアゲハのほうがイメージに合ったのだろう。


「大人の兵児帯って、おしゃれだし便利ですよね。私も一本持ってますけど生地が麻でしっかりしてるんです。こういう透けるのも欲しいな」


 よく見ると二重仕立ふたえじたてで、結ぶ部分だけ二重の部分が縫い付けられずに分かれている。要するに二本あるはずの帯の端が、四本ある仕立てになっていた。これで帯結びでひらひらがふんだんに作れる。

 きゅっとシンプルに二重リボン結びした後、彼は座っている私の横に立って、私からどう見えているかを確認するように少し屈んだ。


「柔らかくて薄い生地の兵児帯って軽くて涼しそうなんですけど、だんだんれて着崩れしますよね。それに帯板の凹凸が出るとえげつない感じがしますし」


「わかりますっ!」


 つい大声を出してしまった。

 そうなのだ、ゆるふわ兵児帯はそこが問題だった。兵児帯用の帯板は表面に響かないよう薄いメッシュでできているので、ともすると帯板込みで、ぐしゃっと撚れじわが入ってしまう。

 その点、ちょっとしっかりした兵児帯は帯板が見えにくくてとても楽だ。

 私の激しい同意に、糸井氏は得意そうだった。


「それで、薄くて軽い布芯を前と脇の部分に巻く部分だけ入れてみました。もうやってる人いるかもしれませんけど」


「あ、私、今のとこ見たことありません。売ってほしいです、ほんとに」


 糸井氏はボディの帯を解くと、新聞紙を芯にくるくると巻きつけ、和菓子店の紙袋に入れた。


「お礼に差し上げますよ」


「え、何の」


「僕を生まれ変わらせてくれたお礼です」


「きもの一枚オーダーしただけでそんな」


「いいえ、あの小学校の、遠足のときの」


 私は首を傾げた。


「生まれ変わる要素、ありましたっけ」


「あのとき、僕、死のうと思ってたんですよ。学校にも親にも、とにかく僕の周り全部への当てつけに」


 何と言えばいいかわからなかった。

 私の反応を観察するような沈黙の後、彼は明るく言った。


「でも、ちょっとケガしただけですごく痛くて、一人で泣きわめいてしまって……死にたいくせに、本当にポンコツですよね」


 彼が固い固い意志の持ち主だったら、もしかするとここには今いなかったのかもしれないのだから、ポンコツでよかったのだ。

 小学五年生が、人知れず死のうと思う。そんな状況を作り出した残酷なコミュニティに私もいた。

 申し訳なく、恥ずかしくなった。

 大人になって、俯瞰的に見なければわからなかった気持ちだった。


「ごめんなさい……あの、あのときは本当に……」


 ところが、糸井氏は爽やかな口調のまま、謝ろうとする私を遮った。


「もうどうしようかと思ってたら氷切沢さんが見つけてくれて、肩貸してくれてね……生きてるのもいいなって思ったんです」


「……」


「女の子の脇腹にぴったりくっついたことなんかなかったんで、あったかいし、いい匂いするし……生まれて初めて自分が男だっていうの、実感しました。ずーっとくっついていたいなって思いましたよ」


「はあ」


 ハイキングコースを歩いて、汗臭かったはずなのだが。

 語る糸井氏の目がちょっととろんとしている。色男だろうが優男だろうが、ちょっと気持ち悪い。

 もしかするとそのとき「かおるくん」の下半身は……。

 そんなことを思ってちょっと自分の思い出が汚れてしまった気がしたし、そういうことを考えてしまった自分にがっかりもした。

 私が何とも言えない顔をしているのに気が付いたのか、彼ははっとしたように居住まいを正した。


「いや、その、ですね……それがきっかけで、僕は他人とポジティブなコミュニケーションをとれる人間になろうと思ったんですよ。一念発起して、だいぶ社会適応できました」


 彼の目を見ていると、しんみりしたいい話なのか、単なるちびっ子のスケベ心が暴走しただけの話なのかよくわからなくなってしまった。

 とにかく、第二形態になれてよかったね。

 しかし、ここでいらんことを言ってしまうのが私流だ。


「でも、引き籠り一択になっちゃったんですよね?」


「あ、はい。頑張ることにちょっと疲れてしまって」


「今、頑張ってますか」


「仕事は頑張ってます」


「そうじゃなくて、私と今喋ってて、気遣いとか、気疲れとかしてませんか」


「そういうのは感じませんけど、後でどっと来るかもしれません。今、ハイテンションになってるので」


「ハイテンション……」


「これでも僕はすごくハイですよ」


 目の周りをほのかに赤くしたまま、糸井氏はゆっくりと瞬きをした。


「今日、氷切沢さんとまた会えて、きれいになって、でも前みたいに僕に構ってくれて……僕は、言いたかったことをほとんど全部言えて、……これでハイにならないほうがおかしいですよ」


 私をきれいと言うなんて、糸井氏はだいぶ目が悪いのだろう。

 言いたかったことを全部言えたなら重畳、長居は無用だ。

 ここで私は帰ることにした。


 駅まで糸井氏はついてきた。送ってくれた、というより、もっそりとついてきた、と言うほうが正しい。そんな彼を、やはり多くの老若男女が振り返って二度見する。

 改札のセンサーにプリペイドカードをかざそうとすると、彼はこう言った。


「次、いつ会えますか」


 悪く言えば、もの欲しそうに。

 好意的に言えば、名残惜しそうに。


「LINEとかやってますか」


「いいえ」

 

「あ、じゃあ、メールします」


「絶対ですよ、待ってますから」


 電車の到着アナウンスが流れる。

 私は雑に会釈すると、糸井氏に背を向けて軽く駆け出した。


 電車は空いていた。

 私は、夕日の当たらない席を選んで、浅く座った。

 車窓から、駅周りの景色が少し違って見える。

 膝に乗せた兵児帯の紙袋を見ながら私は複雑な気持ちになっていた。

 腕はいいのだが、またきものを誂えるとき、糸井氏に頼むだろうか。

 何も知らなければ、普通にまたオーダーしただろうに、なんとなく躊躇いを感じた。


 とにかく、疲れた。今日は本当に盛りだくさんの一日だった。

 第二形態に変貌した昔のクラスメイトに一方的に思い出話をされて、迷惑なような、ちょっと気持ち悪いような……でも面白くないわけではなかったのだ、たしかに。

 私はため息をついて目を閉じた。

 そして二駅寝過ごした。


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