第三話 泥だらけの里芋
トリの演目が始まった。
さすがこのサークルの代表さんだ。落ち着きと安心感がある。
昨年もこの人がトリで、怪談噺を演じて暑い夏を涼しく締めてくれた。クライマックスへの盛り上げがすごくうまい人だ。
でも、さっき、怪談をやっていた若手さんがいた。今年はどうするんだろう。
聞いていると、現代もので縁日の夜店を老夫婦が回る話だった。その人の創作らしい。
オレンジ色の明かりの中、くじを引き、イカ焼きやりんご飴で口元をべたべたにしながら老いた夫婦がはしゃぎ、ひととき若い日に戻ってデートを楽しむ。そんな光景を切り取ったような可愛らしい噺だった。
落とそうとするでもなく、軽いくすぐりを挟んで淡々と語っているだけなのだが、幻燈が緩急をつけてくるくる回っているような美しさと、不思議に迫ってくる哀切さががあり、いい噺だった。
最後、代表さんはしばらく言葉を切った。
皆静まり返っている。
「お越しの皆様、こういう
みんなハンカチで目頭を押さえていた。
どういうことだか訝っていると、妹が私に向かってテーブルに身を乗り出した。
「そういえばね、トイレで誰か話してたんだけど」
ハンカチを握りしめて小声で妹が言う。
「代表さん、去年の秋に奥さんを亡くされたんだって」
プロでこそないが、落語の演じ手として、笑いに来ている客の前で辛気臭い
そう思うと、私もちょっとハンカチを出さずにはいられなくなった。
妹はマスカラが溶けるのを恐れて、あかんべえをするように下瞼を引き下げ、目の中にハンカチの端を入れて水分を吸わせていた。人前でそれはないだろう、と思ったが彼女にとってはパンダ目になることのほうがあり得ないらしい。
隣のイケメンはというと、ものすごい勢いで洟をかんでいた。涙もろい
はね太鼓が鳴る。
賑やかにお仲間とお客さん方の交流が始まる。
ここから先は、花もご祝儀も持ってこない一介の客である私たちには少々居心地が悪い。
私たちは楽しいひとときと涼しい冷房とに後ろ髪をひかれつつ、店を出た。
妹はこの後彼氏と何か約束があるらしく、道路向かいの停留所にちょうど停まっていたバスに駆け込んでいった。さっきまで相席の客に愛想を振りまいていたのに、忙しい愛され女子だ。
私も日傘を差して、駅へ向かって歩き出す。すると、いつの間にかあの芭蕉布男が寄り添うように私の右側を歩いていた。まるで妹がいなくなるのを見計らったようなタイミングだ。
「駅方面ですか」
「はい、電車に乗って帰るので」
素っ気なく答えても、彼は気にしない様子だった。
「落語を生で聴くなんて初めてだったんですけど、面白かったですね」
「迫力が違いますよね。あのサークル、十月の市民芸能祭にも出演する予定だったし、見に行くといいと思いますよ」
「十月かあ、いいですね。その時にもやっぱりおきもので来られますか」
彼がデートの約束でも取り付けるような雰囲気で訊ねてくる。誘ったと思われたのだろうか。こっち見んな、と思った。
「いや、私は行くかどうかわかりません」
「……そうですか」
しばらく、彼は私の右側を黙って歩いていた。私は居心地が悪くてたまらない。
行き交う人々が振り返って着物姿の私たちを見るが、すぐに芭蕉布男のほうが視線を集めてしまう。
彼は考えあぐねたように口を開いた。困った口調だった。
「……すみません、僕はあんまり話すのが得意じゃなくてあれなんですけど」
「はい」
彼は立ち止って、まっすぐ私の方を向き、私の目を見た。
「僕のこと本当に、全然覚えてないんですね」
「はい?」
「名前もあのハンカチも、薄荷飴も、こうやって見せても、何一つ思い出さないんですね」
彼はひどく残念そうだったが、私は何が何だかわからない。
「え、どういうことでしょう」
「あー、えっと、どこから話すのがいいかな」
彼は弱ったように額に手を当て、おもむろにその手を降ろすと姿勢を正した。
「ご挨拶が遅れてすみません。その薄荷のおきものを縫わせていただいた糸井薫です。ご用命ありがとうございました」
「えっ……あの、和裁士の? え?」
「はい。こうやってきれいに着こなしていらっしゃるのを見ると、和裁士
いきなりの真面目腐ったビジネストークに私も善良なカスタマーとして応えた。
「いや、あ、こちらこそありがとうございます。とっても素敵に仕立ててくださって、うれしいです、大事にします」
少し声が裏返った。恥ずかしい思いをしながら、私は弁解した。
「あの、すごく驚いてしまってすみません……お名前から、あの、女性の方だとばかり思っていて……」
「ええ、よく間違えられるんですよね。子どものときなんか、女みたいで気持ち悪いって言われましたし」
その時だ。
何かもやっとしたものの中に突っ込んだ手が、手繰り寄せるべきロープの端っこに触れたような感覚があった。
それをぐっと掴んでみる。
私の右肩に人の重みの記憶が蘇ってきた。
小学校の、そうだ、あれは五年生のころ。
秋の遠足で、近くの里山にある自然公園へ行ったときの話だ。
仲のいい友達が二人とも風邪をひいて欠席し、とてもつまらない遠足だった。
お弁当を食べた後の自由時間もすることがなく、私はぶらぶら園内を歩いていた。
すると、泣き声が聞こえた気がした。
その声の方へ行ってみると、二メートルほどの崖があった。枯葉や草に覆われた崖の縁で、一か所、土の肌が見えている。その下に、クラスメイトの男子が一人、泥まみれになってうずくまっていた。気が弱く、いつもなよなよめそめそしている子だ。話しかけても目が合うのは一瞬で、すぐ下を向いて小声でぼそぼそしゃべるだけ。ちょっとやんちゃな連中から、正論を振り回したきわどいいじりをされることもしばしばで、正論だから誰も庇えず、ただ彼は泣くだけだった。
ちょっと離れた斜面から回り込んで駆け寄ると、もう涙と鼻水に泥がこびりついて汚いどころではないご面相だった。
なんでこんなとこに一人で来たのかと訊ねると、彼は黙っていた。誰かに落とされたのかと半ば怒りながら私が言うと、彼は、誰もいないところに行きたかった、としゃくりあげながら答えた。
立てるかどうか聞くと、立てないという。
ズボンのポケットからガーゼのハンカチを出して、顔と手を拭いて、と渡した。パーカーの大きめポケットで薄荷飴を入れた小さな缶がカラカラ鳴っているのに気づいて、食べるとすっきりするから、と一粒食べさせた。そうやって、手を引っ張って無理やり立たせ、私はしり込みする彼に肩を貸した。
彼はぐずぐずと鼻を鳴らしながら、右足を引きずって歩いた。
私は泣き止まない彼に少し苛立ちながら励ました。
「かおるくん、もうちょっとで先生たちがいる場所だから! 頑張ろう? ね!」
――あっ……
女のような名前。
ガーゼのハンカチ。
薄荷の飴。
「もしかして、あなた、あの……かおるくん?」
「もしかしなくても、あのかおるくんです」
「え……あの、暗くてぼっちですぐ泣いてて、丸坊主で鼻水垂らしてて、えっと、泥だらけの里芋みたいだったかおるくん?!」
和裁士「糸井薫」氏は苦笑いした。
「そこまで言わなくてもいいと思うけど、そのかおるくんですよ」
「かおるくん」はあの後、すぐに両親が離婚して転校してしまい、貸してあげたハンカチは戻ってこなかった。
家も学校も、落ち着ける場所なんかなかったに違いない。誰もいないところに行きたかったという彼の言葉は今思えば重くて苦しみに満ちたものだったろう。でも当時、そんなことを感じ取れるほど賢くなかった私は、次の学校ではいじめられないといいね、と思って、あとは忘れてしまっていた。
その彼が成長して、大人になって、目の前にいる。
変われば変わるものだ。
「あら……まあ……ずいぶん大きくなりましたねえ」
親類のおばちゃんのような台詞が口を衝いて出た。
「それはお互い様でしょう」
「だって相対的に見たら、私は糸井さんより小さくなってるでしょう」
「ああ、あのころはどの女子も僕より大きかったですよね。クラスで一番ちびだったし」
「大きくなっただけじゃなくて、すごく変わりましたね」
「どう変わりました」
「
糸井氏は声をたてて笑った。
「
「変ですか」
「いえ、うれしいです。ありがとうございます。氷切沢さんもすっかり大人になられて」
「生きていさえすれば、誰でも大人にはなりますから」
言い方がシニカルだったせいか、糸井氏は困った顔をした。こういう物言いのせいで私はいつも損をする。でもそれでいい。もの言わぬは腹ふくるるわざなり、なのだ。
「そういう意味じゃなくて、魅力的だって言いたかったんですよ」
「あははは、お上手ですね」
「いいえ、上手じゃないですよ。ずいぶん修業したんですが」
「修行ですか」
「あの後、いろいろと……もっと人と話せるようになりたいと思って」
「かおるくん」は転校してから、人と話すためのスキルを磨いた。
その手の本を読んでシミュレーションし、地元の大学の児童心理学科が夏休みに開催する、子どものための話し方教室にも通ったという。
カウンセリングにもかかり、ぐにゃぐにゃな自分をしゃんとさせた。
駅へゆっくり歩きながら、糸井氏はかいつまんでそういうことを話した。
その努力をクラスメイトだった時にやっていたら、友達になれていたかもしれないが、環境変化という大きな力がないと「かおるくん」は前を向けなかったのだろう。
「とっても頑張ったんですね」
「はい、頑張りました。でも、高校の途中あたりで急に、虚しくなって……これは本当の自分じゃないなって思ったんですよね」
「えっ」
「人と遊んだり喋ったりするのも、仕事みたいな義務感でやってましたから。自然体でいられる方法を考えたら、引き籠り一択で」
「えっ」
「引き籠っていてもできる仕事を探して、和裁士になりました。和裁技能士一級もとりましたよ」
「……なんか……起伏が激しいですね」
「いえ、僕はもともと、きものっていいなと思ってたんですよ。祖母が半襟とか帯揚げ帯締めとか選ぶの見てると面白かったし」
「あ、そのおばあ様がうちの祖母のところに三味線を弾きにいらしてるんですね」
「そうなんです」
「すごい偶然ですね」
「偶然じゃなくて、運命だと思います……」
その言葉が尻すぼみだったので、私は糸井氏の顔を見た。
彼は
「あの、……その薄荷のおきもののご注文をいただいたときに……氷切沢葉子様からのオーダーを祖母が持ってきて……その、びっくりして、ですね」
「はあ」
「すごくうれしかったんですよ。苗字がまだ変わってないなって」
糸井氏は今や耳まで真っ赤になっている。私は呆気に取られている。
「全身全霊で縫わせていただきましたよ、本当に」
「ありがとうございます」
「メッセージに連絡先を書いたし、ハンカチもレプリカを作って入れといたし、絶対連絡が来るはずって思ってたのになぁ」
「作った? あのガーゼのハンカチを?」
「ええ、もう一針一針、気合を入れて縫いましたよ」
元クラスメートの気安さでつい私は口走ってしまった。
「買えば早いのに」
「……でも縫いたかったんですよ」
彼は頬を紅潮させたままだ。私はやばいやつと歩いているのかもしれない。
「私が貸したほうは、今も持ってるんですか」
「ありますよ。あれは僕の宝物です」
ほら、なんだかやばい。
やっと、
駅の前にある赤いポストの前で、それでは、と離れ気味にお辞儀をする私に糸井氏はくっついてきた。
「あの、よかったら、お茶でもいかがでしょう」
「いいえ、さっき蜜豆食べましたから」
「ではお食事は」
「まだ四時前ですよ」
また困った顔をして、彼は額に手を当てた。これがこの人の癖らしい。
「あの……僕の仕事場がすぐ近くなんですけど、見ていきませんか」
「え」
「今、大人向けの、薄さと軽さを追求した
どうしてこうも、ぐっと刺さることを言ってくるのだろう、さすが和裁士。
私が兵児帯を欲しがっているのを見透かされたような気がした。
口が勝手に、答えてしまう。
「行きます」
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