第二話 相席の客
さて、きものの世界では、季節をちょっと先取りするくらいがかっこいいとされる。
我が薄荷の着物は、というと、初夏あたりがいいのではないかと思う。
あの緑色の匂いが、五月の
清涼感があるから、じめじめした六月もいいかもしれない。
着てもせいぜい、七月の初めまでだろう。
今は八月。立秋が早々に来てしまい、月にちなむ意匠や秋の七草あたりが席巻する。
でも私は今年着たい。
来年の春の盛りまで待つなんて到底できない。
きものにうるさい人、俗にきものポリスと呼ばれる怖い熟女の皆さんはこういうことに目くじらを立ててごちゃごちゃ言ったりする。
あの人たちは大人しそうなきもの初心者を見ると、干渉したくてたまらなくなるのかはたまた親切心か、ひたすらあら探しする。そこら辺の強気なギャルファッションには一言も言わないくせに。そういう人たちがきもの文化を衰退させるのだ、と私は思う。
ともあれ、言いたきゃ言え。
結局、私は薄荷のきものを着ることにした。
今年も社会人落語サークルの寄席で、祖母のお弟子さんが出囃子を弾き、演目の合間に祖母が仲良しの小唄のお師匠さんたちと何曲かやらせてもらうことになっている。芸事の発表会は秋に行われることが多いが、この寄席は仲良し同士のお楽しみ会のようなものだ。
会場はサークルメンバーの経営する大きなお蕎麦屋さんを貸し切りにしただけ。何もかもゆるくて、飲食もOK、演目の最中にずるずるっとそばを啜る音を立てる客をアマチュア噺家さんが
落語好きはお金持ちが多いから顔を売ってらっしゃい、との母の命令で、私と妹はここ二、三年ずっと客席を温めに行っている。周りはお年を召した方が多く、惚れたはれたという現象が起こりそうもないのだが、私は毎年楽しみにしていた。愉快なお話を聞きながらのお蕎麦もおいしいし、その後に食べる蜜豆も、葛粉を合わせた寒天がふるふるっと柔らかくて絶品なのだ。
その日、私は満を持して、コーディネートした。
テーマは、チョコミントとか、ミントタブレットとか。
まず、あの薄荷の着物。
半襟はミントブルーの綿レースをカットして作った。
帯は、これも自慢の一品、半幅でこげ茶に浅葱の縞を織り出した博多帯。
摺りガラス風のリーフビーズで
袂に入れる匂い袋も、会場が食べ物屋さんなので控えめに、ミントティと薄荷オイルを使って作った。
見よ。この小物の自作率。
どれだけ私がおニューのきもののデビュタントに力を入れていたかわかるだろう。
妹の方はシックな黒薔薇柄に市松の帯。華やかな彼女には
あまり隣に立ちたくない。
でも、今日の私は浮かれている。
卑小な劣等感など気にする暇はない。
誰にというわけでもなく、自分自身に向けて、こんなにキメッキメなのだから。
会場には早めに着いた。
UV透過率を犠牲にした薄荷色の麻の日傘を畳んで、店に入る。
店といっても昔、幕末明治あたりに大きな商いをしていたお宅で、大きいのなんの。広い広いお座敷から襖を取り払ってお蕎麦屋さんにしたというハイスペックリノベーション蕎麦屋なのだ。
草履を古い靴箱に入れて木札を抜き取る。
畳敷きの店内にはもうちらほら他の人もいて、めいめい蕎麦を啜っていた。このシチュエーションなので、きもの率が高い。浴衣をいい感じに夏きもの風に着ている人もいる。
私たちは若輩者なので、高座から遠い、店の入り口に近い四人席に妹と向かい合わせて座った。ハンカチで顔の汗を押さえ、扇子でパタパタ
妹は即決で天ざると、食後にクリームあんみつ。
私はざると、茄子のしぎ焼き、それから寒ざらし入りの蜜豆。
腰のあるそばをずるずるやっていると、ふと隣に人の気配がした。
「お食事中すみません、こちらの席、よろしいですか」
和服姿の男性が
「どうぞ」
しかし、彼の動きに沿う生地の感じと透け方に衝撃を受けて、私は彼のきものを凝視してしまった。
生成りの着流しに、黒っぽい帯とポケットポーチタイプの小さなサコッシュ。
最初、麻かと思った。
でも、繊維の絡み具合やシャリ感が違う。
「
思わず、その言葉が口から出た。
男性は穏やかに答えた。
「ええ、よくご存じですね」
ご存じも何も、夏きもの好きなら、憧れに憧れる最高級生地だ。もう作り手も原料も激減し、消えかかっている伝統工芸品だ。
これまで、博物館や老舗呉服店で指をくわえて眺めているだけだったそれが、メンズの着流しで目の前にある。
ちょっと触ってみたかったが、見ず知らずの人にそんなことは言えない。
彼は私の隣に座ると、献立表を手に取った。そして、私の前にある蕎麦と茄子のしぎ焼きに一瞬視線を走らせ、また献立の文字を追う。まあ、ごく普通の
その時、私の向かいに座っていた妹から手帖が渡された。渡しながら、
店員さんにざる蕎麦としぎ焼きを注文している男性を尻目に手帖を開くと、そこにはこうあった。
――隣の人、超イケメンじゃん。 モデルみたい!
びっくりして、私は隣の男性の顔を盗み見た。
私は彼については、目が二つ、鼻と口が一つずつ、程度の認識しかしていない。要するに、芭蕉布のことで頭がいっぱいだったのだ。
なるほど。
妹の言うとおりだ。
イケメンという俗っぽい表現より、若干浮世離れした感じのきれいな人だった。
長めツーブロックの黒髪を後ろで束ねているところなど、柄が悪くなりがちなのに、極東アジアの伝統のスタイルと言ってもいいくらい落ち着いて品よく見える。
まあ、芭蕉布を着こなす男なら和風オタクのオシャンティなんだろうし、そういう風に見えるパーソナリティを持っているんだろう。和風オタクという点では同じかもしれないが、私のようなストレイ・キモナーには無縁だ。
早速、妹の手帖に、そうだね、と書いて返し、私はまた蕎麦を啜りだした。
花より団子、他人の容姿の品定めよりお蕎麦。
やがて男性の前にも、私のと同じものが並んだ。私の頼んだものが相当おいしそうに見えたらしい。
彼もずるずるやりだす。
見目よい人がやると何でもさまになるものだな、と思いながら、私たち姉妹はそばもサイドディッシュも食べ終えた。
同じテーブルの方でご一緒にどうぞ、と店員さんが
ここぞとばかりに妹が湯筒を捧げ持つ。
「蕎麦湯、いかがですか」
「ああ、お願い」
私が
最後の一口を食べ終えた男性も、つゆの残る器を妹の前に置いた。
「ありがとうございます、いただきます」
その時、私は彼がきれいな手をしている割に爪がぼろぼろで、特に親指の爪が荒れて傷だらけになっているのを見た。きっと、指先や爪を使う仕事をしている人なのだろう。
二番太鼓が鳴って、今年の幹事さんが開会の挨拶を始めた時に、蜜豆とクリームあんみつがやってきた。それをまたじっと見るなり、彼は運び終えて去ろうとする店員さんを呼び止めて、また私と同じものを注文した。
「すみません、おいしそうだったので」
少し気まずそうに彼が話しかけてきた。
「ええ、ここの店の甘味、おいしいですよ」
我ながら、何とも芸のない答えだった。妹が割って入る。
「甘いものがお好きなんですか」
「ときどき食べたくなる程度です。今日は食べたい気分で」
「あんみつもおすすめです。甘すぎなくて上品で」
「では、今度オーダーしてみますね」
彼はにっこりした。気品という文字が空間に印字されているのが見えそうだった。
妹は目に見えて浮かれ出し、そんなことは非常にどうでもいい気分の私は、スプーンを持つ手を伸ばして、妹のクリームあんみつにたっぷり絞られたソフトクリームを飾りのミントごと一さじ山盛りにかっさらって、口に入れた。
もう、行儀が悪いんだからと妹はぶつくさ言い、彼は目を細めて私を見た。
「薄荷、召し上がるんですね」
「ええ、好きなので」
「じゃあ、薄荷飴とかも」
「よく持ち歩いてます」
「そうですか……おきものも薄荷ですね」
彼はミントを薄荷と呼ぶ。
私はちょっとうれしくなった。
フランスの布なのでミント柄ではあるのだが、私は薄荷という呼び名にある、子どものころ見た青空のような懐かしさが好きなのだ。
ところが妹ときたらデリカシーがない。
「うちの姉、湿布してるみたいな匂いがするでしょう? もう、匂い袋まで薄荷なんですよ」
そこ突いちゃうんだ、というようなことをずけずけ言ってしまうあたり、さすが私の妹、似たもの同士だ。そして、自分の方へ話を持っていく。
「あ、ご
「ええ、あんまり似てませんけど」
「秋薔薇もすごくおしゃれですね、華があって」
「うふふ、母の若い頃のきものなんです」
そこで出囃子が始まり、ビールケースを逆さにして板を渡し、毛氈を敷いて作った高座に前座の噺家さんが登場した。
『子ほめ』を現代アレンジして、お受験やママ友のしがらみを匂わせた知的な雰囲気で、笑うというより、そのセンスに皆引き込まれる。
次々にアマチュア噺家さんが上がる。
アマチュアと言えども、ちゃんとプロの講師を招いて指導してもらっている方々でとてもうまい。人生の円熟期に持ちえた趣味をオープンに楽しんでいる感じがよい。
このサークルでは人情噺が好まれていてほろりとさせられるのだが、毎年ぶっ飛んだ創作
私たちは笑い、ほろりとし、固唾を呑んで寄席を楽しんでいたが、相席の客はあまりリラックスしていないようだった。ときどき高座のほうから視線を移し、私の方をちらちら見ている。まるで、お葬式に慣れていない人が他人の焼香の作法を見て真似ようとしているような感じだ。イロモノのあたりになると、辛そうに下を向いてしまった。
いい大人の男が、艶噺が恥ずかしかったのか、それとも飛び交うヤジを真に受けて居心地が悪かったのか。
トリの前、
私はそっと、彼に聞いてみた。
「さっきの、ヤジで途中でやめちゃったやつ、可笑しかったですね」
「おかしいですよね……ああいうのはちょっとよくないと思います」
やっぱり、わかってなかった。
おかしいというのも、面白おかしいのではなく、常軌を逸する意味でのおかしさだと思っている。
「あれ、毎年恒例の仕込み芸なんですよ。喧嘩芸人みたいな感じで」
「あっ、……ああ、それで皆さん笑ってたんですね」
彼はほっとしたように呟いた。彼の目には下ネタをやった演者に暴力的なヤジが飛び、売り言葉に買い言葉の応酬をげらげら笑う非常識な人間の群れに見えていたんだろう。
「ああいう芸風で、あの方、すごく人気なんですよ。毎年盛り上がっちゃって」
「よかった……」
大人しそうなその台詞に、一瞬、何かを思い出しそうになった。
なんだろうか、この感じは。
その感じを追おうとしていると、相手がじっとこちらを見ているのに気づいた。会話の最中に急に黙りこくる非礼をはたらいてしまった私は、とってつけたように訊ねた。
「あ、今日は、どなたかのお招きで来られたんですか」
このお楽しみ寄席に来るのは演者たちの近しい親類縁者か友人、またはほかの落語サークルメンバーで、ぶらっと立ち寄る
「はい、親類が裏方におりまして」
そう言いながら彼は帯につけているサコッシュから小さな白いものを取り出した。
「よかったら、どうぞ」
昔から愛されているいろんな味の飴が詰め合わされている缶。
その中の、薄荷の飴玉だった。
今は個包装になっているのだなあとしみじみしながら受け取った。。
「ありがとうございます。子どものころ、よく薄荷ばっかり食べてました」
「……」
「妹とか友達とかと分け合うと、みんな薄荷を嫌がるんですよね」
「ああ、確かに」
「だから、これだけ残っちゃうんです。で、私が薄荷を食べる係になって、いやいや食べてたんですけど、今はもうメントールが入ってない飴には物足りなくなってしまって」
「そうだったんですね」
そこへ妹が帰ってきた。トイレがずいぶん混んでいたとぶつくさ文句を言っている。
きものを着たひとは用を足すためにめくりあげた裾回りなどをきれいに直さないといけないし、着崩れチェックなどを始めるのでトイレが長いのだ。きものでの外出を戦場への出撃と例えるなら、トイレは野戦病院だ。文句を言ってもしょうがない。
相席の客は、妹にも飴を渡した。そっちは赤い、苺の味。
妹はとても嬉しそうだ。
惚れたな、と思った。だが今の彼氏とケジメをつけてからにしてほしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます