薄荷をめぐる思いの丈
江山菰
第一話 薄荷
今日、きものが届いた。
街着にするつもりの、カジュアルなきものだ。
私の祖母は三味線を教えて暮らしている。その祖母のお弟子さんのお孫さんが和裁をやっているそうで、お付き合い上、何か頼んでみようということになったのだ。
祖母の人脈はありがたいが、その人は和裁士としてはまだ駆け出しのひよっこだということなので、あまり高価なものを頼んで冒険はしたくなかった。大枚はたいた
だから、街着なのだ。
格安で縫ってもらえるというので、最初はほどほどの期待度だった。
しかし、かなりお値打ち価格で縫ってもらったというのに桐箱入りで届いたので相手もそれなりに気を遣って大変だったのかもしれない。
さっそくたとう紙の紐をほどいて開けてみる。
眩しいほどの白地へ、匂い立つように鮮やかな草の葉。
一瞬、胸が高鳴った。
これは実は洋服生地で、涼しげな綿ローンプリントだ。ボタニカルアートのような精密なミントの葉や芽が、地の色を埋め尽くすようにプリントされている。ところどころに葉脈の機械刺繍が入って生地の薄さを支えているので、
探して探してやっと見つけた、私にとっては奇跡の生地だ。
ほどほどにしか考えていなかったオーダーメイド案件だったが、生地探しをしてみると
和服、しかも夏の着物に仕立てるのに相応しい厚み、涼しさ、軽さ、なにより価格という点をクリアできる生地はそうそうない。
麻のドロンワーク、
もっと廉価な、例えば綿レースもおしゃれだし、ギンガムも可愛い。
しかし、ちょっととんがったデザイン生地で、でもとんがり過ぎないものが欲しい。イメージとしては、キッチュな感じで、でも品もあって、コーディネイトによっては軽いパーティにも着ていけそうな感じ。
さらに、できれば家でざぶざぶ洗えるもの。そのためだったら、少しくらいあて布アイロンが面倒くさくてもいい。
そういうことを思い描きながら、小売りから卸売りまで、ずいぶん生地屋さんを回った。母や妹の「もうその辺でいいじゃない」「早く帰ろう」の大合唱も、ものともしなかった。通販なんかじゃダメで、触って風合いを確かめないと納得できない。
そして、私が辿り着いたのは、灯台下暗しというべきか、近所にある手芸用品の量販店だった。何度もチェックに来たはずなのに、気が付かなかった。先日、急に降り出した雨の中、雨宿りがてら冷やかしに入ったときに、うずたかく積まれた在庫品の上にちょんとこの布のロールがのっかっていた。耳には
店長の名札を付けた優しそうなおばあさんは、ろくに測らず、かなりおまけした金額をレジに打った。ありがとうございます、と喜色満面の私に、店長さんはゆっくり言った。
「13年前まで、ここは舶来の
「じゃあ古いんですね、この布」
焼けも色褪せもなかったし、少しも古くは見えないが、繊維がもろくなっていたら……。私は布を入れた風呂敷の結び目を思わず握りしめた。
「まあ、古いけれど、ずっとしまい込んで紫外線にも埃にも触れてないから、しっかりしてます。お役に立つと思いますよ」
「きものに仕立てたりするのは、どうでしょう?」
私が意気込んで見えたのか、おばあさんはにこにこした。
「いいですねえ、おきもの作られるんですか。今の人は洋服地で着物を作るなんて珍しがるけれど、昔は珍しいことではなかったし、素敵なのが出来上がるでしょうね」
そうやって、薄荷のプリント生地を買った私は、それを水通ししてから折り目の歪みを直した。洋服地なの、と渋る祖母に鼻息荒く布を渡し、祖母はお弟子さんに渡し、お弟子さんは和裁士のお孫さんに渡し、三週間と少し経って、この布は着物に生まれ変わって、逆順のリレーで私の元へ帰ってきたのだ。しかも、かなりお値打ち価格で縫ってもらったのに桐箱入りだ。
早速細かくチェックしてみる。
生まれて初めてオーダーメイドできものを頼んだのだから気分は
柄のせいか、心なしか薄荷の匂いがする気がする。
目を皿にして、控えめな光沢のある薄い生地を見つめる。縫い目の手抜きや
型が注文通りにキマっていて、
和裁士さん側としては、江戸小紋や結城紬など名だたる布を正統派に仕立てたかったのかもしれないが、丁寧に仕上げてくれている。ミシンで仕立てた着物は、塗った部分に圧が掛かっているのか、薄くボリュームダウンして見える。フラットにすっきりとして、そういう風合いを好む人もいるのだが、私は断然手縫い派だった。手縫いで仕立てた着物は、同じ生地であってもどこかふっくらと
あぁだのうぅだの呻きながらうっとりときものを撫でまわしている私を、妹が呆れたように見ている。
「それ、普通の街着でしょ、大うそつきで着るやつ」
「うん」
うそつきというのは、きものの下に着る
「こんだけ上手かったら、色無地とかお
「だって相手はまだ独り立ちしたばっかりだって聞いたからさ」
「私も何か仕立ててもらおうかな」
妹は目鼻立ちがくっきりした美人なので、姉妹で歩くと私は引き立て役になる。私がやることをすぐ真似して私以上に見栄えがよい。
いいんじゃない、と適当に答えながら、私は胸がちくっとした。
「あれ? この箱、まだなんか入ってるよ」
「え?」
「ほら、たとう紙の下に」
妹の言うとおり、たとう紙の下に小さく、紙の端が見えた。
たとう紙をめくると、きれいな浅葱色の和紙封筒があった。
すうっと、緑色の香りがする。
封筒の中からは、サービスと思しきハンカチと、流麗な毛筆で……とまではいかず、プリンターで印字されたカードが現れた。内容はよくある販売者としての感謝の言葉だ。メンテナンスにも応じるとのことで、和裁士さんの名前と連絡先が載っていた。これまでは人づてだったので、直に連絡できるのはありがたい。
「あー、和裁士さん、
名前のとおり、ほっそりとしてきれいな人なんだろう、と思った。
「あれ? このハンカチ、見覚えがある」
私が小学生の時に愛用していたハンカチと同じものだ。
ガーゼって赤ちゃんみたい、と笑う子もいたが、私は風合いも彩りも気に入っていた。思えば子供のころから、白と緑の組み合わせには弱かったのだ。お気に入りだったのに、どこで失くしてしまったんだろう。
和裁士さんがおまけにしてくれるものにしては安っぽいような気もチラリとしたが、それよりは今もこうしてどこかでこのハンカチが販売されていることを知り、懐かしさが
ハンカチを広げると、中から薄緑の
これが、薄荷の匂いの元だった。薄荷の香りは
ずいぶん気遣いの細やかな和裁士さんだ。
また何かきものを頼むなら、絶対糸井さんに、と私は決めた。
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