朝焼けに飲まれた狂気

名取 雨霧

愛情のありか

「ねえ」

「......はい」

「カズくん浮気してるよね?」

「なんだよいきな......」


 バンッ、と重苦しい音が部屋に響いた。私が本気で怒っていると分かったのか、彼は固唾を飲んで再度姿勢を正した。二人でお茶をしたり、ご飯を食べたり、思えばこの円卓には沢山の思い出が詰まってる。こんなことはしたくないけれど、最愛だった彼を威嚇するためには、思い出をこうして叩き潰すことも必要なのだ。


「はいかいいえで答えて」


 冷淡にそう言い捨てると、ややあって彼は消え入りそうな声を出す。


「......はい」

「ふうん」


 私のはらわたが再びぐつぐつと沸騰し始めた。弁解の一つもない潔さと、歯切れの悪さが尺に障る。燃え上がる怒りを必死に抑えて、事実確認を続けた。


「相手は誰?」

「サークルの、同期......」

「私は誰かって聞いてんのよ!!」


 つい声を荒げてしまった。これは質問に答えなかった彼が悪い。顔を真っ青にして彼はしどろもどろに、口を動かし始めた。


「ごめん......なさい......鳩羽、葉月さんです」

「鳩羽さんね」


 自分の情報との一致を確認し、ひとまず落ち着いた。鳩羽葉月──面識はないが噂をよく聞く人物だ。彼の所属するハンドボールサークルのマネージャーで、気立てが良い美人という印象から大学内でも一目置かれている。私はまた別のサークルに入っているから、そこでの浮気ならバレないとでも思ったのか。その軽率さや不誠実さなど諸々を考えると、怒りを通り越して殺意すら湧いてくる。


「二人で何をしたの?」


 そして最後に、最も重要な確認を始めた。答えによっては何をしてしまうか分からないが、ここも冷静に様子を見ようと思う。


「二人で......」


 彼は右へ左へと泳いでいた瞳を突然こちらに合わせてきた。もしかして、こっちの様子を伺っているのか?その行動がまた私の逆鱗に触れ、私は棚にあった安物の花瓶を掴んだ。そして次の瞬間、


「さっさと言いなさいよっ!!」


 怒号と共に彼の後ろの壁へ投げつけた。聞いたことのないくらい悲惨な高音が鳴り響き、破片は辺り一面に飛び散った。当然、彼の背中にも刺さっただろうが、私の知ったことではない。彼は大きく見開いていた目を固く閉じて深呼吸し、覚悟を決めたかのように声を出した。


「星を見に行ってた。ただそれだけ」

「嘘でしょ。私知ってるんだけど」

「本当だよ。それ以外何もしてない」

「私はカズくんと鳩羽さんのトークのスクショも持ってるって言ったら?」


 さあ、これで彼も万事休すだ。一体、どんな告白をしてくれるのだろうか。彼を見る。今は憎くて仕方のない彼。


 汗まみれの中、とうとう薄っぺらくも重い唇を開き、「ごめん」と洗いざらい二人の関係が進んでいたことを白状──すると思っていたのだが。


「変わらない。僕は嘘なんてついていない」


 彼は迷いなくそう口にした。

 その様子を見届けてから、私は重苦しいため息をついた。そう、彼の言うことに一切の矛盾はない。私が友人から貰ったスクショの内容も、鳩羽さんを連れて真夜中に戦場ヶ原で星空を眺める約束をした場面だけであった。他にまだあるのではと思い込んだ私のハッタリにも引っかからないとなると、これは信じていいようだ。とはいえど......


「あなたは私に黙って、他の女の子を天体観測に誘った。それだけとはいえ、お互いどこに誰と行くかは必ず言い合うって約束を破ったあなたは、私にとって最低のクズよ」


 淡々とそう言い放つ。憎悪で多少は声が震えていたかもしれないが、花瓶を投げた時点で相手も私の感情を察しているだろう。


「私の前から消えなさい」


涙が溢れそうになりながらも最後の力を振り絞って、私は彼に命じた。その様子を見て観念したのか、彼は唇を噛んでぼそりと告げる。


「ごめんなさい。......さようなら」


 とぼとぼとガラスの破片を踏まないように部屋から出て行く姿を、最大限睨みつける。その背中は、とても小さくて滑稽なくらい情けない。こんな奴の一体何処を好きになったのか、甚だ疑問である。もはや自分が狂っていたとしか思えない。


 玄関の閉まる音が聞こえ、彼が出て行ってくれたことを実感する。しばらく考えこんでいると、新聞屋のバイク音が午前五時半の時刻を告げる。一羽のカラスがかあかあと泣き喚く三階のベランダで私は街を見下ろした。まだ暗い早朝の住宅街に響き渡るよう、全力で私は今の気持ちを吐き出した。


「死いいいいねえええええ!!!」


 辺りが再び静寂に戻った瞬間、真夏の朝陽が私を照らす。また気持ちを入れ替えて頑張ろうと思えたのは、清々しい風が「辛かったね」と私の頬を優しく撫でてくれたからだろうか。





「終わった?」

「ああ、きちんと別れられたよ」

「思った以上に長かったね......」

「はは、本当勘弁してほしいよな。悪いことしちゃったなとは思うけど」

「カズシゲ君は優しすぎだよ。だからあの子に意地悪されちゃうんだ」


 朝陽が住宅の屋根から顔を出し始めた頃、僕と鳩羽は近くの公園で落ち合った。事の顛末を見届けてくれるようお願いしたからである。鳩羽には迷惑を掛けっぱなしだ。


「え!てか首のところ血でてるよ!?なんかされたの?」

「花瓶投げられた」

「うわ......可哀想に。今消毒するから座ってて。こんなこともあろうかと救急セット持ってきたのよ」

「ありがとう、凄い備えだな」


 彼女のこういう気遣いができるところも、色々な男に惚れられる要素なのかもしれない。僕は手当てをしてもらっている間、これまでの出来事に思いを馳せた。


 半年近くストーキングされ、僕の行く先々で僕の腕にしがみ付いてきたのが先ほど別れた恋人である。彼女は高校の同級生であり、僕についてくるように同じ大学に入ってきたのだ。本気で嫌がればすぐに怒り暴れ、固い物を投げつけることもしばしばあった。恋人というルールに則り、正々堂々別れを切り出しても泣いて縋り付き、翌日には何事もなかったかのように彼女面をし始めるのだ。警察に届け出ようとしたこともあったが、高校の同級生という腐れ縁が何度も頭を過り、僕の行動を抑えた。


 様々な策を練って最終的に思いついたことこそ──嫌いにさせることだったのだ。


「スクショ、役に立って良かったね」

「そうだなぁ。鳩羽が星を見に行っただけに留めといた方が良いってアドバイスも、助かった。ホテルに行ったとか言ってたら生きて帰ってこれなかったよ」

「ひい......おそろしいわ」

「わざわざ偽装までしてくれて、本当に鳩羽には感謝しかないな」

「ふふ、カズシゲ君がそう思ってるんだったらさ」


 バンドエイドを貼り終えた彼女は、後ろから僕の顔を覗き込み、ねだるように告げる。


「今度は本当に星見に行こうよ?」


 朝陽に照らされた彼女の目は輝いていた。僕は微笑みながら、大きく頷いた。半年前には考えられなかった幸せに戸惑いつつも、僕は溢れ出る感情を噛み締める。


「......し......い....ね...え......ええ」


 背中の方から聞こえた不気味な轟音は、青い小鳥達のさえずりに掻き消された気がした。

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朝焼けに飲まれた狂気 名取 雨霧 @Ryu3SuiSo73um

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