最終話 視線
ぼくのお父さんとお母さん――高山陽一と高山佐恵子――は、昔から、この町に住む神様を大事にしていた。
ぼくのおじいちゃん、おばあちゃん――今は死んじゃってもういないけど――も、そして、近所に住む人たちも、みんな、神様が好きだった。
もちろん、ぼくも……神様を特別に思っていた。
『いいか、ヒトシ。ここの神様はな、大昔から町のみんなを守ってきたんだ。この土地、この自然、いや、それだけじゃない。今、目に見えているものすべては、すべて、神様のものなんだよ』
お父さんはぼくを大天山に連れて行っては、よくそんなことを言っていた。
『でもな、最近は、ここの自然を壊し、奪おうとする
立派に伸びた木の幹をさすりながら、お父さんは悲しそうな顔をしてつぶやいた。
ぼくは首をかしげる。
『どうして、他のみんなはそんなことをするの?』
『お金のためだ』
『お金?』
『そう、お金だ。今の人たちはな、みんな、神様よりもお金の方を大事にしているんだ。まったく、嘆かわしいことだよ。これまで何千年にも渡って神様に守ってもらってきたというのに、その恩を仇で返そうとしているんだ。ひどい仕打ちだ、本当に』
唇を噛んで俯くお父さんの顔を、ぼくは忘れたくはないと思った。
『だから、お父ちゃんたちが、神様に酷いことをする人たちから、神様を守らなきゃいけないんだ』
『神様を、守る?』
『ああ、今まではお父ちゃんたちが神様に守られてきた。今度は、お父ちゃんたちが神様の恩義に報いる番なんだ』
『ぼくたちが……守る……』
『ああ、この自然を守るのは、ヒトシ、お前なんだ』
『ぼくが?』
『そうだ、お父ちゃんたちだけじゃ、ダメだ。この町に暮らす人々が一丸となって神様を守らないと、神様は救われない。神様がお父ちゃんたちを守ってきたように、お前も神様を守るんだ』
『……うん、ぼく、神様を守るよ』
大きく頷く。
お父さんは、まぶしいくらいの笑顔を浮かべた。
『よし、よく言ったな。それでこそ、お父ちゃんたちの息子だ』
くしゃくしゃとぼくの頭をなでる。
ごつごつとした大きな手は、とても暖かくて、とても頼もしかった。
ざわざわと揺れる、たくさんの木立。緑の絨毯の上に柔らかく降り注ぐ太陽の光。
こんな日が、ずっと続けばいいと思った。
――でも、すぐに、そんな思いが叶わないものと知った。
後日、お父さんとお母さんは死んだ。
新国際空港開発計画反対集会の抗議活動中、突っ込んできたダンプカーに
即死だった。
葬式で、白い布が被されたお父さんとお母さんの身体を触った。
まるで氷のように、とても、冷たかった。
お墓は、大天山にある祠の入口に建てた。名前さえ彫られていないそれは、お墓というよりも石碑だったけど、神様をずっとそばで守りたいというお父さんたちの遺志を叶えた結果らしかった。
当時のぼくは、そう、信じて疑わなかった。
……これは後で知ったことだけど、ダンプカーを運転していたのは木田組という地元では有名な暴力団で、お父さんを筆頭とする反対集会の人たちは、この怖い人たちに敵視されていたとのこと。
そして、その怖い人たちは、町の偉い人や、国の偉い人に命じられてお父さんたちの邪魔をしているとも聞いた。
だからだろう、町の偉い人や怖い人たちに睨まれていたお父さんとお母さんの子供であるぼくを引き取ろうとする親戚の人はいなかった。みんな、ゴミでも見るような目でぼくを遠巻きに眺めていた。
じつを言うと、お墓だって、親族の人がお父さんとお母さんを除け者にしたかったから、だから、あんな場所に建てたんだと、そう思った。
神様は、ぼくを、お父さんたちを、守ってくれなかった。
土地を売却し、大金を手にしたおじさん、おばさんの気持ち悪い笑顔が、脳裏にこびりついていた。
厄介者払いされたぼくは、半ば追いやられるようにして町の孤児院に預けられた。
『こんにちは、坊や』
俯きながら孤児院の中庭を歩いていると、黒い服を着た、小さなおじいさんが話しかけてきた。
『私はここの院長をやっていてね。坊やは、私たちの新しい兄弟かな?』
『兄弟?』
『そう、兄弟だ。この場所を訪れる者は、皆、私たちの家族みたいなものなんだよ。共に笑い、共に悲しみ、共に祈り、助け合う。それはまさに家族だ。坊やも、遠慮することはないよ。ここではすべてが許される。いつでも助けを求めても構わないからね』
『……でも、ぼくは……』
顔を逸らす。
お父さんとお母さんが死んでからというもの、大人は汚いものなのだという先入観が植え付けられていた。親戚の人は相続する土地に関して揉めに揉め、結局、お父さんたちが神様のために取っておいたその土地は、怖い人に目を付けられるのが嫌だという理由で売却されてしまった。
何も、信じられなかった。
そんなぼくに対し、院長さんは、しわだらけの顔でにっこりと笑った。
『だいじょうぶ、何があっても神様が常に守ってくださるよ。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』。神様がそう仰られているように、ここでは争いや
小さく、固い手で頭を撫でてくれる。
『ここには神様がいる。すべてを許し、愛してくださる偉大なお方が』
『神様が?』
『そうだよ、坊や。なにせ、ここは神様について学ぶところでもあるからね。ほら、あそこに三角形の建物が見えるだろう? あそこで兄弟たちは、日々、お祈りを捧げるんだ。日頃の感謝を、神様に伝えるためにね』
『神様に……感謝を……』
『うん? どうしたんだい、坊や?』
ぼくが突然黙り込んだからだろう、院長さんは少し困ったような表情でぼくを見る。
『……神様について勉強すれば、ぼくも、神様を守れるようになるかな……?』
『……うん?』
『ぼく、神様について知りたいんだ。院長さん、だから、ぼくに、もっと神様のことを教えて……教えてください!』
縋りつくように訴える。
院長さんは目を丸くした後、ややしてその目をうっすらと細める。
『そうか、そうか。坊やは、神様に守られるだけでなく、神様を守ろうというんだね』
うんうんと、院長さんは嬉しそうに何度かうなずく。
『坊やはとてもいい子だね。信心深く、また、慎み深い。きっと、神様が祝福してくださるだろう』
そう言って、ぼくの手を取る。
『それなら、私から、ひとつ、神様について教えてあげよう』
『お願いします』
院長さんは、ぼくの両手をしわくちゃの手で包み込むと、そっと、目を閉じた。
『決して、人を憎んではいけないよ。たとえ、どんな目に遭ったとしても、その人を憎んではいけない。『汝の敵を愛せ』。神様がそう仰られているように、人を憎み、裁いてはいけない。右の頬をぶたれたら、左の頬も差し出す。それくらいの深い情念と慈愛がなければ、とても、神様の御心に適うことはできない。だから、よく愛するように努めなさい。美しく磨かれた魂にのみ、神様は宿る。坊やの魂の中にこそ、神様は宿るんだ』
『ぼくの中に、神様が……』
『そうだ、坊やだけの神様だよ。その神様が、他の困っている人々を助けることができる。そうして神様は皆の魂に宿っていく。神様は私たちの内から出て、外に向かう。神様は――人の魂の中にある』
『……院長さん、ぼく、いっぱい勉強するよ』
この時、ぼくは決意した。絶対に、神様を守れるような、強い人になることを。
『いっぱい勉強して、神様を守ってみせるよ』
――『汝の敵を愛せ』
周囲の大人たちを憎んでいたぼくだったけど、この言葉で救われた。少なくとも、変われた気がした。
どうか、願わくば、この思いが、未来永劫、変わりませんように。
ぼくは、そう、神様に誓った。
『絶対に、神様を守るんだ』
――かつて交わした幼い日の約束は、しかし、果たせそうもなかった。
おれは――すべてが憎い。
5年前、風祭宗吾に引き取られたおれは、徐々にその思想を塗り替えられていった。
弱者は悪。神とは権力。
国に逆らった愚か者は、必ず、むごたらしい最期を迎える。おれの元両親のように。
だったら、従えばいい。頭を垂れて平伏して、追従すればいい。そうすれば、生き残ることができる。
ただで死ぬのはごめんだ。
おれは――勝ち上がってみせる。
時に強引に、時に暴力的に政治学と経済学の教えを叩きこまれ、おれの人格は歪みに歪み、いつしか、自分が一番嫌悪していた権力の権化になり果てていた。
金と地位しか目に入らないおれの心の中には、すでに神は宿っていなかった。
父が問う。
『周平。強い国家にとって必要なものとは何だ?』
おれは答える。
『絶対的な力と、それを維持できるだけの圧倒的な地位です』
『では、お前の言う、力とは何だ?』
『
迷いはなかった。
『その通り。日本には金が必要だ。列強諸国を上回るだけの経済力。そのためにも、新国際空港開発計画は絶対に成功させねばならない』
父の方にも迷いはない。
『協力は惜しみませんよ、父さん』
おれは真っ直ぐに頷いた。
弱者を守ることが 正義ではない。強者となることこそが正義なのだ。
力がないから、食われる。
だったら、こっちが食ってやればいい。
弱者を食らい、強者となればいい。
おれは草であるよりも、それを食らう歯でありたい。
大切なものを守るためには、祈っているだけでは駄目だ。そんなものは慰め意外に何の意味も持たない。
『周平、お前に今一度問う。支配とは何だ?』
『圧倒的な暴力によって徹底的に弱者を蹂躙し、抵抗の意思を奪い取り、こちらの言いなりになるよう
『いかにも。お前も知っての通り、それはまさに日本を取り巻く情勢そのもの。敗戦後の日本は欧米の言いなりだ。貿易については言わずもがな、外交もまた同じように、我々は常に主導権を握られている。対して、我が国民はと言うと、牙の抜かれた獣に等しい。かつて
『はい』
大きく頷く。
薄く張った氷の表面に小さな亀裂が走るように、鉄仮面のごとく冷徹な父の表情がわずかに
勝て。
勝つんだ。
踏みつけろ。
蹴散らしてやれ。
知恵をつけ、力を蓄え、いつか、彼女を――。
……はて?
彼女とは、誰のことだったか。
頭が痛くなる。
この時のおれは、すでに風祭周平その人だった。
おれは思い出していた。おれが風祭周平になるまでの途方もない道のりを、悪夢のような日々の足跡を。
これまでの5年間、周囲の人間はおれが風祭周平であるように強いた。口調、仕草、外見、性格。そのすべてを完璧なまでに似せるよう、徹底的な努力を課した。それは一種の洗脳のようなものだった。
ただし、通常の洗脳行為との大きな違いは、おれ自身が望んで風祭周平になったことだ。
そうしなければ、おれはとても生き残れなかった。いつか鏡花ちゃんを助けるという以前に、奴らに殺されてしまう。そう思い込ませるほどの執念が、奴らにはあった。
父は、風祭宗吾は恐ろしい男だった。政府高官という立場ゆえの豊富な人脈を駆使し、裏稼業の人間を始め、人体改造の専門家や心理学の研究者などにおれを紹介しては、人道に反する施術を次々と行った。戸籍は書き換えられ、顔は作り替えられ、記憶は上書きされた。
過去の捏造と、現在の修正。奴らの非道な行為は、高山ヒトシというひとりの人間を完膚なきまでに抹消した。
『これもまた、ある種の実験ですね』
どこぞの学者風の男が、愉快そうに言う。
それを受けて、風祭宗吾は酷薄に笑った。
『計画、ですな。社会学的な、あるいは人間工学的な計画。つまり、ある特定の思想を植え付けるために必要な手段と、効率的な方法論の確立。この試みが成功すれば、それこそ、欧米諸国に対抗できるほどの頭脳を持った人材を育成するのも不可能ではないでしょう。そして、もっと素晴らしいことに、この計画の正当性が実証されたとなれば、いずれは、様々な分野に応用できるはず。足掛かりですよ。我が息子は、栄えある計画の
『違いない』
人を人とも思わない怪物どもの冷酷な含み笑いが、意識が朦朧とするおれの耳に届いた。
この世界は不公平だ。風祭宗吾のような悪党が罪に問われることはなく、おれの本当の両親みたいな善意の塊のような人間が無残に潰されるのだから。
こんな非情な世の中を生き抜いて、一体、何の意味があるというのか?
自問自答する日々。
ただし、それも長くは続かなかった。
陰鬱とした
味方はどこにもいない。おれは、おれ自身ですらも敵だった。
当時のおれは、かなり危険な状態にまで追い込まれていた。要するに死の一歩手前だ。苦しみから逃れたいと一心不乱に願うあまり、舌を噛み切って死んでやろうと考えてさえいた。勉強中だろうが何だろうが、頭に思い浮かぶのは死ぬ方法ばかりだった。
そのたびに、鏡花ちゃんや、露木、天宮、孤児院の仲間たちの顔が浮かんだ。神様――イイヅナ様――や、彼らと交わした約束が、死に急ごうと狂気に走るおれを正気に戻した。
その循環は何度も繰り返された。何度も、何度も、おれは自殺を企てては、すんでのところで踏みとどまり、どうして自分が風祭宗吾に従ったのかを、苦痛に頭が歪む中で必死に考えた。
復讐のためだ。神を殺し、鏡花ちゃんや、孤児院の皆を追い詰めた風祭宗吾に従うことで、逆におれは奴を利用する準備を整える。
そして、いつか奴らを殺す。そのために、おれは――。
育ての親を殺すという鼻持ちならない計画を企て、念入りに組み上げることによって、からくも平静を保ってきた。
だが、それもいよいよ限界に近付いてきた。
おれは究極の手段に出た。
自らを、騙せ。おれは自分にそう言い聞かせることにした。この身を切り裂く痛みも、苦しみも、悲しみも、それらすべてはまやかしであり、錯覚に過ぎないのだと。でなければ、おれは、自分に屈服してしまう。時折、不意に顔をのぞかせる精神的な弱さは、おれがまだ甘さを捨て切っていないことの何よりの証左に他ならないと、そう考えていたからだ。
抗わなければならなかった。負けるわけにはいかなかった。全身を支配する恐怖を、絶望を、どうしても克服しなければならなかった。
そうでないなら、おれは、国に、政府に、風祭宗吾に逆らうことができず、永遠に堕ちたままだ――。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。自分自身を騙していくうち、徐々に四肢の感覚は失せていった。感情は消え、おれは機械のように定型的な受け答えや行動をするようになっていた。それはおれの意思に反して行われていた。
いつしか、おれは、自分の存在を疑問視することさえしなくなった。どうして自分がここにいるのか、何のために動いているのか、考えることはなくなった。
なぜなら、おれは、風祭周平だから。
その時からだった。おれが、風祭周平を完璧に演じられるようになったのは。
確かに、おれは生き残った。
生き残ったがゆえに、死んだ。
皮肉だった。
おれは、おれを殺すことによってのみ、生き長らえることが可能だった。
高山ヒトシなんていう無力な小僧は、この時、すでに――いや、最初から――存在しなかった。
そして、あの地獄のような日々から5年が経過した1966年7月1日。おれは、再び、尾前町に戻ってきた。
神を救うためではなく、神を抹殺するために――。
かつて愛した人のことなど、すっかり忘れて――。
神は死んだ。否、おれが殺した。おれの中にあった高山ヒトシという名の最後の良心もまた、その小さく儚い灯火を燃え尽きさせた。
高山ヒトシは、もういない。そしておれは、風祭周平ではない。
では、おれは一体誰なのか?
この問いに答える者は、誰もいない。
すでに、おれは、誰でもない、誰かだった。
おれは――。
おれは――……。
…………………………。
……………………。
………………。
目を開けたら広がる、真っ暗な視界。
いつぞやの時のように目隠しをされていると気付いたのは、すぐだった。
「ようやくお目覚めか?」
ガンガンと鈍い痛みが頭部に走る中、不意にあの男の声が聞こえる。小さく反響して耳に届く辺り、どうやらおれは狭い部屋に閉じ込められているようだ。
四肢も拘束されているらしく、椅子か何かに縛り付けられた状態でおれは座っていた。
「気分はどうだ?」
あの男が尋ねる。
「今まで生きてきた中で最悪の居心地だぜ」
「そうか。おれは今まで生きてきた中で最高の気分だが」
こちらを挑発するようなあの男の物言いは、気味が悪いほどに誰かと瓜二つだった。
そして、その誰かとは、言うまでもなく――。
「……露木や天宮、それに、鏡花ちゃんは無事なんだろうな?」
おれは彼らの身を案じた。こんなおれを仲間と認めてくれた、大事な友。
男は、そんなおれの思いを嘲笑うかのように乾いた吐息を漏らす。
「美しい友愛だな。感動のあまり涙が出そうだよ」
その台詞には、明らかな侮蔑の意味が込められていた。
「あるいは、それもまた、おれの同情を誘うための演技か? なるほど、そうやって無知で無垢な町の人間をたぶらかし、抱き込んだというわけか。そうだろう? 特派員の風祭周平?」
「貴様……っ」
「なに、心配は無用だ。お前の大事なお友達は別室で眠っている。お前は約束を果たしたのだからな、こちらも誠意を示さなければ交渉の意味がない。違うか?」
「……信用できねーな」
「構わないさ。どの道、お前はお友達に会うことは叶わないのだから」
「……どういう意味だ?」
「いずれわかる。そう急くな」
「…………」
ここまで話して、おれはひとつの仮説を立てた。
人を食ったような言動と、どこか飄々とした、考えの読めなさ。
やはり、こいつの正体は……。
「しかし、またもこうしておれを縛り上げるとはな。あんた達は、よほど人を束縛するのが好きらしい」
「人間、誰しもサディズムとマゾヒズムの両面性を持っている。それはさておき、お前は自分が置かれている状況というのをきちんと理解できているか?」
「もちろんだ、おれは孤児院の院長室であんたに思い切り後頭部を殴られ、気絶し、こんな息苦しい場所に拉致された。違うか?」
「ご名答。よもや、頭を打って記憶が幾らか飛んだかと危惧していたが、それはどうやら杞憂だったようだな」
「らしいな。……もっとも、おれとしては、いっそのこと、過去の思い出なんてものは失くした方がよかったのかもしれないが」
ヒトシとしての記憶と、周平としての記憶が混在するおかげで、おれの記憶はめちゃくちゃだ。
「期待に沿えず、申し訳ない。何せ、おれとしては、お前に記憶を失ってほしくないからな」
「……だろうな」
ここまで会話という名のつばぜり合いを繰り返して、仮説は確信に変わった。
「やっぱり、お前だったんだな」
カマをかけるように言ってやる。
「だったら、どうだと言うんだ?」
おれの思惑など見透かしているとばかりに鋭く切り返す。
間違いない。
こいつは、この男は……。
……5年前の儀式の日、突如として姿をくらませ、おれが風祭周平としての名を
「――風祭周平」
5年前、天狗攫いに遭って行方知れずとなったはずである本物の風祭周平が、今、ここにいる。神田製鉄を倒産に追い込み、浅間一家を無理心中にまで追い詰め、十兵衛を北の国に売り払った挙句、孤児院を占拠し、尾前町の反国感情を煽った、国家転覆を企む『
「――ふ」
あざけるような薄笑い。
「面白いことを言うな、お前は」
くぐもった笑い声は、どこか風祭宗吾を彷彿とさせた。
「風祭周平とは、お前のことではないのか?」
確かにそうだ。
しかし、違う。
「ほざけ、お前の方こそとぼけるな。おれはあんたの父親に拾われ、風祭周平として育てられたに過ぎない」
「ふふ、所詮は紛い物だという自覚はあるのか」
「まあな。おれは、自分が、本当は何者なのかを理解しているつもりなんでね」
「ほう、それは驚いた」
そう言う割には、奴は淡々としていた。
奴の顔が拝めないのが、なぜか残念に思えた。
「その割には、お前は風祭宗吾に随分と肩入れしているみたいだったが?」
「お前こそ、血の繋がった家族である風祭宗吾に敵対するような反社会的活動に精を出しているじゃねーか」
「家族、家族か。ふふ」
「……何がおかしい?」
「おれに家族などいない。それに、厳密にはおれは風祭周平ではない。その名前はすでに剥奪された。5年前、『
「……なるほど、そういうことか」
妙に納得した。
要するに、おれたちは似た者同士だ。おれが高山ヒトシから、特派員の風祭周平となったように、こいつは風祭周平から、過激派の名もなき工作員となった。
運命などというものが、もしも本当にあるのだとしたら、これほど残酷なこともないと思った。
「さて、本題に入る前に、ひとつ、質問をする」
「どうぞ、ご勝手に」
抵抗は無駄だと嫌でも思い知っているおれは、表面では従う素振りを見せておく。
「風祭周平、いや、高山ヒトシ。お前は神を信じるか?」
ふと口にされるその名に、息を飲む。
やはりと言うか、当然と言うか、こいつは、おれの正体を……。
「……何かと思えば、やけに抽象的な問いかけだな?」
体内を駆け巡る動揺をおくびにも出さないよう、余裕の笑みを口元に貼り付ける。
「質問に質問で返すとは感心しないな」
「そうかい、悪かったよ」
精一杯の悪態をつく。
……それにしても、神か。
「お前がどうかは知らないが、おれは、神なんて信じちゃいねーよ」
吐き捨てるように言う。
「それは本当か?」
「嘘じゃねーよ」
そう、嘘であるわけがない。おれをこのような目に遭わせて
だったら、神なんて最初からいない方がマシだ。
「なるほど、それは正しい」
意外にも同意を示す。
「神とは、偶然的なものだ。人間存在が自由である限り、神もまた、自由でなければならない。そして自由であるということは、偶然性を帯びているのと同義である」
「……何が言いたい?」
「神とは絶対者ではなく、確率的なものだと、そう言っているんだよ」
奴は断言口調でそう言うが、おれには何のことだかさっぱりだった。
「お前が神を信じようと信じまいと、神は偶然的に存在する。そこに大きな意味が含まれているのだ」
「……興味ねーな、そんな、意味なんて」
「では、もうひとつ、質問をする」
「おいおい、今ので終わりじゃなかったのか?」
「お前に拒否権はない」
「そんなことはいちいち言われなくてもわかってるよ」
「では問おう。己を規定するものは何か?」
またしても曖昧な問い。
「それは知っているぜ、『我思う』だ」
どこかの誰かさんから聞いたことをそのまま口にする。
「残念だが、それは違う」
「なに?」
「己を規定するもの……それは『
「……眼差し?」
「私という存在は、私だけでは
「……要するに、おれが風祭周平なのか、それとも、高山ヒトシなのか、自分では確定できないと?」
「察しが良いな。まさしくその通りだ。他者なくして私という存在はありえない。自己を規定するのは私ではなく、他者だからだ」
他者がおれを確定させる。一見すると奇妙だが、しかし、的確な表現だった。
「自分が風祭周平であるべきだと、お前は努めた。それは誰によって? お前自身が自分に命じたからか? 確かにそれもある。しかし、それは二次的要因に過ぎない。私は、私であることを命じるが、何者かであれとは命じない。ゆえに、お前は他者である風祭宗吾によって自己を規定された。風祭周平として育てられたから、自らも風祭周平であると思い込めたのだ」
つまり、奴はこう言いたいのだ。おれが、おれであるためには、他者の眼差しが必要不可欠だと。
「高山ヒトシは存在しない。――いや、そもそもの話、お前という存在は存在しないのだ」
まさに矛盾。だが、真実。
おれは、おれとしては存在しない。だからこそ、個別的名称が与えられる。おれはおれではなく、別の誰かとなる。
「ヘーゲルは言った。『存在とは、否定の否定性である』と。否定とは、『~ではない』という意味だ。『お前は、風祭周平ではない』。そして、存在が、その存在ではなくなることが可能だということは、同時に、無であることが可能という意味でもある。では、無とは何か?」
この答えを、おれは知っていた。
「――時間」
夢の中、イイヅナ様から聞いた。自己の無化。すなわち時間化。無であるがゆえに、有であることが可能であると――。
「その通り。人間だけが、時間を持つ。ここで言う時間とは、いわゆる通俗的時間解釈――無限――ではない、人間存在に特有の根源的時間、すなわち有限のことだ。それは自分の命であり、意識であり、人間存在それ自体を指す。つまり、私という存在だけが、その固有の時間を有するということだ。これは『記憶』と言われる」
おれの記憶は、おれしか知らない。
「お前がお前という同一性を保持できるのも、お前自身が記憶を――連続的な時間を有しているからに他ならない。過去、現在、未来。それはお前という内面を構成し、形作る。では、高山ヒトシの記憶と、風祭周平の記憶を持つお前は、何者か? どちらが偽で、どちらが真か?」
「……………………」
「私という存在が提示できるのは、疑問形の私のみ。その外面性は闇に覆われ、内面性は自身によって無化される。私という人間存在の内外を完成させるには、他者を経由する他ありえない。『我思う』は、自己を構成するための出発点ではない。むしろその逆で、他人が私を承認する限りでしか『我思う』は出現しえない。お前は、高山ヒトシを他人として捉えることで、お前自身――風祭周平としての自己――を完成させた。お前にとって高山ヒトシは、究極の他者、すなわち神にも等しい存在だった。高山ヒトシはお前の中にありながら、しかし、それはどこにも見出せない。各々の人間存在が自己として存在するためには、私という存在が他者に対立する限りにおいてでしかありえない」
高山ヒトシと風祭周平は、常に相互的に影響しあっていた。おれは風祭周平としての同一性を保つために、高山ヒトシを措定した。『おれは、彼ではない』。奴の言う否定性が、逆説的におれを形成したのだ。
「私という存在は、連続的であるがゆえに分解と再構築を繰り返す。同じ場所にとどまり続けることはできない。『不完全な存在は、完全な存在を目指して、自らを超出する』。デカルトの第二定理だ。私は常に自分を飛び越えながら、しかし、再び自分の中に戻る。なぜなら、人間は絶対的に完全な存在にはなりえないからだ。それは例えばサナギが蝶になるかのごとき容易き変容ではない。完全な人間とは要するに神のことだが、人間は神にはなれない。人間は自由存在であるがゆえに完全にはなれない。完全であるとは、すなわち、不自由を意味する。永遠に次なる変化が見込めないからだ。人間はその逆で、あくまでも何者かであろうと努めなければならない。今の自分を超えようとする行為、それは『
おれはおれであって、しかし、おれではない。
なら、風祭周平であるはずのおれは、一体、何者か?
高山ヒトシは、もはや存在しない。
風祭周平は、目の前にいる。
では、おれは……。
「さて、現象学的存在論の講義の時間は終わりだ」
冷たい声で、悪魔は言った。
「そろそろ本題に入ろうじゃないか」
恐ろしい悪魔が、いよいよその支配権を広げようと動き始める。
おれに、成す術はなかった。
「――『高山の 草葉の陰に 在りし日の
ふと耳にする、懐かしい記憶を呼び起こす懐かしい旋律。
驚きのあまり、咄嗟に声が出なかった。
……なぜだ?
おれと、天宮、そして鏡花ちゃんしか知らないはずの短歌を、なぜ、こいつが……?
その疑問を口にする前に、奴が小さくせせら笑う。
「お前は、何もわかっていない」
「……どういうことだ」
「そのままの意味だよ」
重要なことは口に出さず、はぐらかす。
とても、歯がゆかった。
「では聞こう。お前は、この短歌を、誰が書き残したと思う?」
「それは……」
取り戻した自分の記憶を辿る。
「……鏡花ちゃん」
「残念だが、違う」
にべもなく言う。
「確かに、姫百合鏡花は、この短歌を知る数少ない人物のひとりだが、短歌の本来の唄い主からそれを聞き、書き写したに過ぎない」
「じゃあ、一体、誰が……」
「これは、5年前の儀式の日、発狂寸前の蔵屋敷鈴蘭が残したものだ」
「鈴蘭が……?」
全然、知らなかった。
「その様子だと、この短歌に込められた意味すらもわかっていないようだな」
「意味? 意味だと?」
思わず食い下がる。
「そう、この短歌の一句一句には意味が含まれている。例えば、最初の『高山の草葉の陰』というのは、高山……つまり、本来のお前の両親の墓を指している」
「な……」
またしても言葉が出なかった。
「では、なぜお前の両親の墓のことが短歌に詠まれているのか? それは、その墓石の下に重要な秘密が隠されているからだ」
「秘密、だと……?」
「お前は知らないだろうが、お前の両親である高山陽一、佐恵子夫妻は、風祭宗吾と共謀した蔵屋敷与一の命令によって殺されたのだ」
「……!」
「鈴蘭は、それを知っていた。だから、このように短歌に書き残したのだ。いつか誰かにこの事実に気付いてもらうために」
「…………」
「しかし、おれは短歌の意味だけは解読できたが、肝心の墓の居場所がわからない。おれの見立てでは、おそらく、そこに、現政策を揺るがすほどのスキャンダルが眠っているはずだ。例えば、蔵屋敷与一が今まで犯してきた罪の数々を捉えた写真か、あるいは……」
おれは、あの爺さんのことを思う。鏡花ちゃんの母親を犯し、追い出し、彼女を苦しめた張本人であり、かつての諜報員。あまつさえ、おれの……ヒトシの親さえも殺していたとは。
だが、それは一面的な見方に過ぎない。なぜなら、彼は、新国際空港開発計画の重要性にいち早く気付き、所持していた膨大な土地を早々に国に売却し、田園地区の土地収用に多大に貢献していたからだ。無論、親戚である風祭宗吾との兼ね合いも多分に含まれているだろうが、それでも、新国際空港開発計画における立役者のひとりには間違いなかった。
「次に、姫百合と閑古鳥の部分についてだが――」
答え合わせの時間は、まだ終わっていなかった。
「姫百合とは言わずもがな、お前のよく知る姫百合鏡花のことを指す。そして、閑古鳥は……」
「――おれと、お前か」
「その通り。閑古鳥は、自分とは別の種類である何らかの親鳥の巣から卵を持ち去り、素知らぬ顔で自らの卵を置いて、そのまま親鳥に孵化させる。これを
産まれるはずだった子供を本来の場所から追いやり、別の子供に我が物顔で占有させる。その様子は、ずる賢い閑古鳥の生態に酷似した卑怯な大人の思惑に巻き込まれたおれたちそのものだった。
「巫女としてイイヅナ様と交信していた鈴蘭は予見していた、こうなる未来を。だから、おれたちに託したのだ。絶対に、この結末に陥ってはならないと、詠んだ短歌にすべてを込めた」
「…………」
「それにしても、お前には失望したよ」
全身の血が凍り付くような、冷たいひと言。
「お前はこの一週間、一体、何をしていた? 自分の過去にまつわる出来事や、この町に伝わる神の謎を解き明かすために動いていたのではなかったか? なぜ、こんな簡単なことがわからないんだ?」
「それは……」
返す言葉もない。
地位と権力を得るために今まで行動していたなどと、口が裂けても言えない。
おれがヒトシとしての記憶を思い出した時には、もう、手遅れだったのだ。
「まあ、いい。すべては過ぎたことだ。おれは自らの計画を
感情の起伏に乏しい口調に戻る。
奴が、一歩、踏み出す。そんな足音が聞こえた。
「かねてより言っているように、おれはお前を買っている。どうだ? おれ達と一緒に、憎き日本を変えようじゃないか」
「……断る」
「なぜだ? お前が国家に
「……お前たちのやり方が、気に食わねーんだよ」
「ほう」
「お前たちだってわかっているはずだ、風祭宗吾のようなやり方は人々の反感を買うだけだってな。それがどうして理解できない?」
「国家に相対する実力をつけるには仕方のないことだ」
「やむを得ないなんて決まり文句は、権力者が言うもんだぜ?」
「権力に対抗するには権力を。外交では常識だ」
議論は平行線をたどる。
おれには、ひとつ、疑問があった。
「なあ……お前は……」
「む?」
「じつは、お前は、国を相手取ろうなんて思っていないんじゃないのか?」
「なぜ、そう思うんだ?」
「質問に質問で返すなんて、随分と行儀が悪いじゃねーか?」
「おっと、これは失礼。ならば教えてやろう。おれは国が憎い。同様に、利潤を追求するがゆえにおれを見捨てた父も、憎い。国家を敵視する動機はこれで充分だ。そうだろう?」
「確かに、お前の言うことに嘘偽りはないだろうけどな……」
国と風祭宗吾が憎いという点だけは、な。
「だからといって、それが今回の空港開発計画を妨害することには直結しない。そんな婉曲的で迂遠なやり方をしなくとも、最初から風祭宗吾個人を狙えばいいはずだ」
「――お前は甘いな」
あまりにも冷酷な口調。
「風祭宗吾それ自体を追い詰める、たったそれだけで、あの悪魔が思い知るとでも?」
「…………」
「奴を屈服させるには、奴が推進させている新国際空港開発計画を中止に追いやるしか方法はない。違うか?」
「…………」
否定はできない。それくらい、風祭宗吾という人間は悪魔的な傑物だった。
「教えてやろう、風祭周平。おれがこの5年間、どのような思いで過ごしてきたのかを……」
感極まったのか、奴は、自らの生い立ちをとつとつと語り始める。
「5年前、おれは大天山に潜んでいた偵察総局の工作員によって拉致され、北の国に拾われた。そこでは地獄のような日々が待っていた。要するに工作員養成所での暮らしだ。少なくとも、おれはそこで2年間は生死の境目をさまよい続けていた。同じように拉致された工作員候補生は、皆、次々と死んでいった。養成所と言えば聞こえはいいが、要するに強制収容所みたいなものだ。ある者は飢えと渇きに倒れ、ある者は流行りの疫病で苦しみ、死んだ。他の連中の死因も似たり寄ったりで、一週間に及ぶゲリラ戦の訓練中に発狂して同志に銃を向けた瞬間に、上官が発砲した銃弾に倒れた者もいれば、養成所の生活に耐え切れず、拳銃自殺した者さえいた。おれはと言えば、運良く、あるいは運悪く生き残ってしまった。お前は特殊工作員養成のための訓練というのを知っているか? 忘れもしない真冬の時期の深夜、四肢を縄で拘束された状態で、極寒の海に放り込まれたことがあった。体が痙攣し、意識は飛びかける。上手く息ができない。まさに死に物狂いだ。敵に捕縛されたうえで証拠隠滅を図った敵対組織の破壊工作を想定した訓練だが、もはや殺人と変わらない。実際、ここで命を落とした者もいる。ある時は、そう、同じ小隊の候補生との模擬戦闘と称した、事実上の集団リンチもあった。奴らは、まず、指揮能力は高いが戦闘能力に乏しい後方支援の者から狙う。味方に指示を出す有力な人間を排除すれば、敵部隊を無力化させることができるからだ。無論、敵を始末する際は、それこそ見せしめのように、思う存分、痛めつける。敵部隊の士気の低下を狙ってな。人間の命など軽い。結局は代替可能な消耗品に過ぎない。おれが学んだ一番の教えは、それだ。そして、工作員としての課程を命からがら修了したおれが、再び祖国である日本の大地を踏んだ時、言いようのない虚無感に襲われた。ここが、かつて、おれの住んでいた場所なのかと。平和に買い物などする家族連れを目に入れながら、おれは悟った。おれはすでに、風祭周平ではないのだと。では、こうして思考し、行動するおれは、一体、何者か? ……あの時、おれが奴らに拉致された瞬間に、風祭周平は死んだのだ。変わって生まれたのは、かつて無力だった小僧とは全く異なる、もっと別の何かだった。『深淵を覗くものは、自らが怪物にならないよう注意しなければならない』。ニーチェがそう言ったにもかかわらず、おれは怪物となった。あの過酷な環境の中で過ごすあいだに、風祭周平と言う人間存在の内実はドロドロに溶け出し、知らず知らずのうちに外部へと分泌され、空気中に霧散し、消えてなくなったわけだ。そして、今や、おれの正体を知る者は誰一人として存在しない。おれがかつて風祭周平だったという事実も、今、おれがどのような素性を騙っているのかさえ、ほとんどの人間は知らない。もはやおれという人間はどこにも存在しないのだ」
息が詰まり、頭がくらくらした。めまいがするようだった。視界を完全に塞がれている中、延々と語られる奴の壮絶な過去は、まるでおれ自身が経験したものなのではないかと、あらぬ錯覚を呼び起こさせるほどだった。それくらい
「似たような境遇を送らざるを得なかったお前には、おれの無念、そして憎悪が理解できるはずだ」
悪魔が囁く。
「故郷を追われ、人格を破壊され、将来の道筋すらも他者の手によって左右される。そこに自由はない。あるのは魂の抜け殻、国家の
お前は存在しない。おれは存在しない。では、おれたちは一体どこにいるのか? ……どこにもいない。どこにもいないという形式で、ある。有と無の狭間で宙づり状態となって揺れ動く……」
「…………」
「これが最後のチャンスだ。おれに協力しろ、風祭周平。お前を追い込んだ国に、風祭宗吾に、復讐を果たすのだ。自身の祖父を恨む蔵屋敷武彦もまた、そうしたように……」
「……断る」
「……ふ」
まるで初めから答えがわかっていたかのような、乾いた笑み。
「なら、仕方ない」
奴の気配が遠ざかる。
「では、奥の手を使わせてもらおう」
「奥の手……?」
聞いた瞬間、拷問か何かが始まるのだと思った。
自然と身体が強張る。
「安心しろ、お前に危害を加えるつもりはない」
その言葉を信じろというのは無理があった。
「拷問で最も効果的なのは、捕虜の身体を痛めつけることにはない。もちろん、それでも充分な効力を発揮するが、お前のように、自分がいつ死んでもいいような、
知ったような口を利く。
事実、こいつはおれを知り尽くしているのだろう。だからこそ、今までずっとおれの思考を読み取り、その上で先手を打ち続けた。彼が本来の風祭周平なのだから、考えてみれば当然なのだが。
奴は、本物の風祭周平は、おれの持つ知識を
おれは、奴には絶対に敵わない。そう思わせるほどの歴然とした差があった。
「捕虜を心身ともに屈服させるには、たったひとつの方法しかない。お前も薄々勘付いているように、捕虜にとって大事なものを痛めつけることだ」
平然と言い放つ。
おれには、この男の神経が理解できなかった。
「ただし、その対象は個人によってしばしば異なる。ある捕虜にとってそれは愛する家族かもしれないし、死線を共に潜り抜けた仲間かもしれないし、国家そのものかもしれない。そして、お前にとっては、かつて約束を交わしたあの少女――違うか?」
恐ろしい。何と恐ろしい男なのだ、この、風祭周平という人間は。
おれでありながら、しかし、おれではない酷薄な男を前に、怒りよりも恐怖が勝る。
「……鏡花ちゃんに、何をした?」
絶え絶えに言った。
奴は鼻で笑う。
「そう気を急くな。戦場では、冷静さを失した者からまず死んでいく。自分を見失い、感情的になった時点で負けだ」
「っち……」
そんなこと、言われなくてもわかっている。
「特別に、彼女と面会させてやろう」
「なに……」
「先ほども言っただろう、お前は約束を守った。となれば、当然、姫百合鏡花とも面会する資格があるということだ」
奴がそう言うと同時に、どこかで扉が開く音がした。
「目隠しを取ってやる、が、振り返るなよ」
背後から、奴の声。
そこまで自分の顔を見られたくないのか。
(眼差しが、自己を確定させる、か……)
もしや、この男も恐れているのかもしれない。おれの眼差しによって、自分の存在が確定してしまうということに。
そう思うと、この男もやはり哀れな存在だった。自分が何者かをいまだに決定できず、仮に誰かであろうと努めても、それを信じ込めないのだから。
「さあ、感動のご対面だ」
そんなことを考えているうちに、目の前を黒で覆っていた目隠しが取り払われる。
ぼやけた視界……。
徐々に周囲の輪郭がはっきりとするにつれ、心臓がバクバクと大きく高鳴る。
鏡花ちゃん。あの時、自分の身を挺しておれたちを助けてくれた鏡花ちゃん。
彼女が、目の前にいる。
今の今までイイヅナ様の怒りに触れて気が狂っていたのではないか――そんな疑問は脳の片隅に追いやられる。
薄暗い部屋の中央。そこに彼女は立っていた。
――いや、違う。
すぐに気付いた。
おれの見間違いじゃなければ、彼女は……。
彼女は……
――鈴蘭だ。
なぜか、鈴蘭が立っていた。
最初、幻覚か何かだと思った。
しかし、彼女は間違いなく鈴蘭だ。左右に分けられたお下げと、白いワンピース。俯き加減で立っているため顔は窺えないが、その出で立ちはまさしく鈴蘭そのもの。
「どうした? 感激するあまり声も出ないか?」
尚も奴は的外れなことを言う。
……いや、違う。
……やはり、違わない。
おれは錯乱する。正常な思考ができない。
なんだ? 一体、どういうことだ?
嫌な汗が噴き出る。
喉がカラカラに乾き、呼吸がしにくい。
「……ねえ……」
鈴蘭と思しき彼女が、ついにその重たい口を開く。
表情は見えない。
おれは固唾を飲み込み、次の言葉を待った。
「わたし……」
身体が震える。
「わたし……ずっと……待ってたの」
耳鳴りが治まらない。
「タカ……」
彼女が小さくおれをその愛称で呼んだ時、おれの中で何かが大きく音を立てて崩れ落ちた。
まさか……。
まさか、まさか……。
がくがくと手足が痙攣する。心臓は破裂寸前にまで大きく脈打ち、頭痛は今まで最大の痛みを発していた。
ありえないと思っていた。そんなことがあってはならないと信じていた。
それなのに……、それなのに……!
どうして……!!
『……久しぶりだね、周平……くん』
予兆はあった。
『一度でいいから、周平くんと学校に行ってみたかったな』
確かにあった。
『今は、こうして一緒にいられるから……、それでいいかな』
彼女は……。
『周平くんと、こうして一緒にいられるってだけで、なんだかいつもよりご飯がおいしく感じるよ』
彼女は……鏡花ちゃんは、ずっと……!
「やっと、あなたとこうして素直な気持ちで話せるのね……」
その言葉で、おれは一気に陥落した。
真っ逆さまだった。抗えるはずなんてなかった。
彼女は、ずっと、そばにいたのだ。
そう考えれば辻褄が合う。
5年前のあの日……、発狂した鈴蘭と、生贄にされるはずだった鏡花ちゃん……。おれが風祭宗吾に拾われた後、二人がどうなったのか。
導き出される答えは、ひとつ。
絶句する。言葉が出ない。
血の気が引くとは、まさにこのことを言うのだと、まざまざと思い知った。
自らの考えの恐ろしさに吐き気を催す。
つまり……、つまり、だ。
つまり……、蔵屋敷鈴蘭こそが……、姫百合鏡花……だった。
言い換えれば、姫百合鏡花が蔵屋敷鈴蘭を装い、その人となりを演じていた。
この5年間ものあいだ……ずっと……。
本物の鈴蘭が気が触れたと、町の人間に知らせないために……。
ということは……。
おれを……、風祭周平と化したおれを、初めから彼女は、高山ヒトシとして認識していたのだ。
知っていながら、おれを風祭周平として扱わざるを得なかった。
なぜなら、おれは、風祭周平だったから……。
逆に、おれは、彼女を蔵屋敷鈴蘭として扱っていた。
なんと罪深いことだろう。なんと残酷で、むごたらしいのだろう。
この時、おれは痛感した。『眼差し』。おれの視線が、その人物の人となりを形成し、決定すると。
おれは、おれが、彼女を鈴蘭と認識し続けていたから、だから、彼女は、鈴蘭だったのだ。
姫百合鏡花は、ずっと、おれのそばにいた。
それなのに、それなのに……!
今まで、まったく気付かなかったなんて……!!
「あ、ありえない……、ありえない……」
がくがくと体が震え、ガチガチと歯が鳴る。
「ありえないことなど、何ひとつとしてない。お前が自らを風祭周平だと認識していたように、姫百合鏡花もまた、蔵屋敷鈴蘭として認識された。それが現実だ。起こりうることは、すべて、起こりうるのだ」
「う、あ、あ……」
「……タカ、もう、いいの」
発狂寸前のおれに、鏡花ちゃんが、諭すように言う。
「もう、いいの……」
肩がわなわなと震える。
「おれは……おれは……」
過呼吸気味に声を出す。
目の前にいる鏡花ちゃんが、遠くに感じる。
「おれ、は……! おれは……っ!」
おれは、これまで、一体、何のために戦ってきたというのか。
「すべては、あの男……風祭宗吾と、蔵屋敷与一の企みによるものよ。だから、あなたに罪はないの……むしろ、被害者は、タカ……あなたの方よ」
「う、うあ、あああ……」
声にならない声が、だらしなく開けられた口元から垂れ流される。
「うあああああああああ!! ああ、あああ、ああああああっ!!!」
堰を切ったように溢れ出る絶叫が、暗い室内にむなしく反響する。
「この少女、姫百合鏡花は、おれたちの仲間として現地に潜入、諜報活動をしていた。工作員のひとり――
勝ち誇ったような風祭周平の声。
「本物の蔵屋敷鈴蘭は、5年前のあの日、儀式の直前で発狂し、そのまま蔵屋敷の土蔵に人知れず幽閉された。町の有力者である蔵屋敷家の長女が狐憑きにあったとなれば、あらぬ噂が立ち、与一が後押しする新国際空港開発計画に支障を来しかねない。だから、同じ蔵屋敷の血を引く姫百合鏡花を、鈴蘭の偽物として拵えられたのだ」
だから、だから……。
蔵屋敷武彦は、こいつらに加担を……!
おれが夜な夜な聞いていた、あの、土蔵からの唸り声は、鏡花ちゃんではなく、本物の鈴蘭が発していたものだったんだ……!
「次に、この一週間のことだが、まず、お前を騙すところから始まった。彼女は完全に蔵屋敷鈴蘭に成りすましていた。事実、お前は目の前に現れた彼女を姫百合鏡花と疑うことは一度たりともなかった。もっとも、お前が下宿しに来た初日、彼女が自分の裸体を見られたとの報告を受けた時は、少々、肝が冷えたがな」
風祭周平の言葉にハッとする。
そうだ……、本物の鈴蘭は、幼児期に負ったやけどが原因で、今も背中に
それなのに……、あの時に見た彼女の背中には……。
「姫百合鏡花はじつによく働いてくれた。それとは悟られぬようにお前を言葉巧みに扇動し、誘導した。例えば、お前を土蔵におびき寄せたり、また、孤児院や大天山の祠に向かうように仕向けたり……、まったく、恐ろしいくらいに完璧な演技だったよ」
「お前は……、お前という男は……っ!!」
背後の風祭周平にどうにかして一矢を報いてやろうと身じろぎするが、自分の身体が固く締められた縄で痛めつけられるだけだった。
そんな、無謀で無策なおれの様子を見かねてか、鏡花ちゃんが膝を折り、おれと同じ目線に立つ。
「ねえ、タカ……。わたし、嬉しかったわ」
優しい眼差しと、柔らかな言葉。
「もう一度、あなたと、孤児院や教会堂に足を運ぶことができて……」
「くっ……!」
拭うことができない涙で前が滲む。
「っく、うぅっ、ううっ……!」
嗚咽が情けなく漏れる。
もう、止められそうになかった。
「お前が風祭宗吾の命令で特派員として活動する一方、姫百合鏡花は『
あまりにも遣る瀬無いすれ違い。
一番近くて、しかし、一番遠い距離。そこに、おれと、彼女は、いた。
森鴎外の『舞姫』のように、おれは、愛する
すべては、イイヅナ様の伝承の通りか……。
――完全なる敗北。
おれは、この町に来た時点で、本物の風祭周平の手によって踊らされ続けたのだ。
「お前はおれに従うしかない。そうだろう?」
奴の言う通り、もはや、抵抗の意志など、微塵も残っていなかった。
「結局は、おれの思い描いた脚本通りか……」
奴が何かを言っている。
「おれは、あの時、風祭周平として現れたお前に初めて会った時、こう言ったはずだ」
もう、よく聞こえない。
「物自体として現れる彼と、現象として現れる彼。肉体と精神。意志と現識。本質と実存。即自存在と対自存在。すなわち、その人の肉体が同一でも、意識が、記憶がごっそり違えば……、それは、果たして、同一人物と言えるのか? と……。あるいは、その逆もまた、しかり……」
遠くに聞こえる奴の言葉を耳に入れ、おれは悟った。
「やはり……、お前は……」
かつて、風祭周平を名乗っていた、この男の正体は……。
「話はこれで終わりだ。あとは、お前次第だ。姫百合鏡花を裏切り、敵に回してまで風祭宗吾に従うというのなら、もはや何も言うまい」
容赦のない冷笑。
おれに、残された手は、ひとつしかなかった。
「鏡花……ちゃん……」
「タカ……」
互いの名を呼び合い、見つめ合う。
その柔らかな唇に、自然と引き寄せられた。
「……ん……」
かつて交わした口づけ同様、その味は甘いものではなかった。
イスカリオテのユダが、イエスを裏切る際の合図として用いた口づけのように、悲劇的な涙の味付けがなされていた。
――鏡花ちゃんを救い出す。
かつて交わした幼い日の約束は、ついに果たされる。
この時、おれは、決意した。
愛する者を守るため、国を裏切る、悪魔になることを……。
…………………………。
……………………。
………………。
「どうも、偉大なる
孤児院占拠計画から一夜明けた昼下がり。
『
「彼――風祭周平――は、無事におれたちの手に落ちましたよ」
愛する女を利用した、卑劣な交渉。
しかし、人間有史以来、これほど効果的な手法もなかった。
「彼の存在を組織の皆に知らせるつもりはありません。だって、彼は、おれですから」
薄く笑う。
奴には、おれの代わりに
工作員には常に危険が伴う。組織の人間の裏切り、暗殺、公安による監視……枚挙に暇がない。
だからこそ、おれは一線を退き、安全な場所に立つ。
「よろしく頼みますよ、『A』。彼はあなたと縁がある。だからこそ、あなたはあの時、彼を拷問することなく見逃した。違いますか?」
おれは、『A』の正体を知っていた。
過去に、高山ヒトシと出会っていた男。天宮幸成。それが奴の名前だった。
天宮琴音の実父であり、世界を股にかける敏腕ジャーナリスト。ただしそれは仮の姿で、裏の顔は、自然を破壊する日本を根底から変えるため、悪魔に魂を売った破壊工作員の一人であり、5年前、儀式に参加するはずだったおれを拉致し、工作員に仕立てあげた張本人でもある。あるいは、天狗の恰好をして天狗攫いの再現を行い、大天山を政府の魔の手から守り切った、今回の計画の立役者。要は、そういうことだ。
「高井戸淳と明星晃介の処遇については、そちらにお任せします」
彼らは秘密を知りすぎた。おそらく、組織の下請けとして捨て駒の扱いを受けることになるだろう。
「あと、露木銀治郎のことですが、彼はまだ様子見の段階ですね」
あの時、完全に落とし切ったと思ったのだが、奴の中に残っていた最後の良心が、おれと同じ復讐の道を歩むのを押しとどめた。
まあ、いい。
いずれ、落としてやる。
「それと、浅間咲江についてですが……」
これもまた、予想外だった。明星呂久郎が面倒を見ていた浅間咲江が、意識不明の状態から、目を覚ましたというのだ。
「ええ、まさしく奇跡ですね」
さながら、ヨハネ伝に記述されたラザロの復活か。
明星呂久郎。面白い人間だ。
ひょっとしたら、彼が、国にとって最大の敵になるかもしれないな。
「天宮琴音は――あなたの寛大な処置に期待しましょう」
高山ヒトシとしての記憶を呼び覚まさせる、ただそのためだけに用意された、哀れな女。他ならぬ『A』の愛娘でもある。
顔見知りにはとことん甘い『A』のことだ、きっと、今回の計画に巻き込んでしまったことを後悔しているに違いない。
「では、風祭周平から聞き出したあの情報を元手に、次の計画を……、ええ、頼みましたよ」
そう言って、通話を切る。
運輸省と木田組、果ては尾前町の権力者――例えば蔵屋敷与一――との癒着を記した機密情報。高山の墓の下には、かつて高山陽一ら反対勢力が入手した書類が保管されていた。
目の上のこぶだった木田組が壊滅した今なら、権力の手によって揉み消されることもないだろう。
これが国民に公表されれば、風祭宗吾も終わりだ。
それだけじゃない、かつて『A』と師弟関係にあった中島哲夫が遺した記事もまた、おれたちに有利に働くものだった。新国際空港開発計画を敢行するために実施された、現地住民に対する口封じのための裏金、収賄、汚職などの不祥事を裏付ける写真、証言をまとめたメモなど数点が、彼の遺品の中から見つかっている。不幸にも南条に敵対組織の人間と間違われ、殺害された彼だが、やはり『A』と志を同じくするジャーナリストだけあって、能力は優秀だった。
もっとも、おれたち『
中島哲夫の働きぶりに敬意を表し、政府には、新国際空港開発計画に
ひとつ、伸びをする。
万事、上手くいった。
風祭周平がおれの情報を得ようと嗅ぎ回っていたようだが、
石蕗は山村地区出身の人間だ。尾前町の土地が奪われるのを良しとはしない。ゆえに、『A』経由でおれに協力していた。
計画は無事に終わった。
ひと仕事終えた解放感に包まれながら、おれは、これまでに辿ってきた道のりを回想せざるを得なかった。
そもそもの始まりは、国が掲げた新国際空港開発計画に対する妨害工作をどのように進めるか、その案を練っている時に起こった。
当初の計画の構想は、単純に新国際空港開発を中止ないしは延期させるため、かねてより関係が悪化していた木田組と暁光会を本格的に仲違いさせ、土地問題を顕在化、政府に対する住民の反感を買わせるだけで済ませる予定だった。
孤児院の十兵衛を北の偵察総局に売却し、引き換えに得た金と銃器を暁光会への貢物として献上し、交渉を有利に進める。それで終わるはずだった。
最初は何の冗談かと思った。信じられなかった。まさか、おれと同じ名前の男が、潜伏先である尾前町の高校に転入してくるなど、誰が思うだろうか。
今より10日ほど前、6月も終盤に差し掛かった頃、
以後、5年間、両家の関係は断絶されるが、あの男は神の祟り程度で踏みとどまるような玉ではない。
それが証拠に、いい加減に業を煮やした風祭宗吾は、ついに勝負を付けに来た。新国際空港開発計画の強行だ。
そのために、風祭周平を演じる高山ヒトシが派遣された。特派員として。あるいは、5年前の再現を行うため。不遜にもおれの名を騙って、尾前町に来たわけだ。
おれもまた、政府に内通する工作員の
運輸省の
おれの唯一の失態は、風祭宗吾に接近した際、奴の家族構成を深く調べ上げなかったことだ。まさか、おれが、戸籍上だけではなく、実際に生きていることになっていると、誰が思うだろうか。
とはいえ、風祭宗吾もそこは用意周到で、風祭周平は瀬津高校本校の学生寮を下宿先としており、おれが直接、奴と関わる機会は、この一週間以前ではありえるはずもなかった。そして、風祭宗吾自身、自らに近しい人物――例えば秘書の三崎――以外に息子の存在を明かしておらず、そのため、奴の存在の把握に時間を要する結果になった。
風祭周平を名乗る高山ヒトシの存在は、おれにとって非常に厄介だった。奴は『
曲がりなりにも、かつてのおれの名前を騙る男だ。実力のほどは未知数だが、警戒して損はない。奴がこの町を訪れるとの情報を仕入れてからすぐ、どういった手を打つのが最善策なのか、おれは考えた。
すぐに答えが出た。
よし、奴を利用してやろう。
迷いはなかった。
早速、作戦を実行に移した。おれはあえて奴を挑発するような言動を取り、イイヅナ様に接近するよう促した。とはいえ、あからさまに神の調査に乗り出すように勧めては怪しまれるので、少々、婉曲的にだが。
案の定、奴はイイヅナ様の謎を暴こうと躍起になった。それが転落の始まりになるとも知らずに。
同時期、おれは、以前、偉大なる
高山ヒトシの両親と言えば、町でも知られた環境運動家で、新国際空港開発に反対したために暗殺された人物だ。
どうにもきな臭い。何か、秘密が隠されている。
そう考えたおれは即座に人をやり、高山ヒトシの行方について調べをつけさせた。当時のことを知る人間を見つけ出し、拷問まがいの脅迫を行ってでも真相を吐かせるように指示を出した。
手柄をあげたのは明星晃介だ。彼は、宇治院長から、高山ヒトシの安否を強引に聞き出した。
すると、重大な事実が判明した。なんと、彼が風祭宗吾に引き取られたというではないか。
そして、鈴蘭から託された短歌。
『高山の 草葉の陰に 在りし日の
断片的だった情報が、点と線で繋がる。
脳に電流が走る感覚――。
おれはすべてを悟った。
奴は――高山ヒトシは、生きていた。しかも、風祭宗吾の息子として。
おれは憤慨した。
奴は、高山ヒトシは、尾前町の自然を守ろうとして散った両親の恩義を忘れ、あろうことか、国家権力の犬として、自らや両親を絶望の淵に追いやった風祭宗吾に尻尾を振っていたのだ。
許せない話ではないか。
沸き上がる私心を抑え、おれは考える。
運動家だった高山夫妻が、ただで死ぬとは思えない。おそらく、政府に狙いを付けられるのを承知で活動していたに違いない。
とすれば、当然、死後のことを考え、何らかの準備をしていると仮定するのが妥当だ。例えば、遺書がそうだ。
もしかしたら、と思った。それは論理的妥当性など皆無の、単なる直感だった。
気付けば、おれは、鈴蘭の残した短歌の一文を凝視していた。
……もしや、彼らの墓の下に、尾前町の土地問題に関する重要な秘密が記された遺書――それも、告発書の形式のもの――が、眠っているのではないか?
演繹を欠いた憶測。まったく、らしくない話だが、おれはそのわずかな可能性に賭けた。
もちろん、問題はあった。
肝心の墓の場所がわからないのだ。
当時、高山家の葬式は密葬という形で済まされたらしく、彼らの親戚筋はおろか、墓地を管理する住職でさえ、墓の場所について詳しいことを知らない様子だった。
さらに悪いことに、風祭周平は、過去の記憶を失っているように思えた。
これでは、奴から両親のことを聞き出そうにも、知らぬ存ぜぬで済まされてしまう。
だからおれは姫百合鏡花を使い、奴の記憶が少しでも取り戻せるように行動させた。孤児院、寺、大天山の祠……、思いつく限り因縁の場所に移動させ、奴の心に徹底的に揺さぶりをかけた。
話は少し前後するが、おれが姫百合鏡花の存在を知ったのは、今から3年ほど前にさかのぼる。
おれが尾前町に
まさか、鈴蘭が?
おれは目を疑った。事前の調査によれば、鈴蘭は、依然として、蔵屋敷の土蔵に幽閉されているはず。
期待に胸を膨らませながら調べてみれば、なんてことはない、5年前のあの日、本来なら生贄になるはずだった姫百合鏡花が、鈴蘭の名前と姿を騙っているだけに過ぎなかった。
他の人間の目は誤魔化せても、おれの目は欺けない。
しかも、『A』の話によれば、彼女は『
この時、おれのやるべきことは決した。
2年間、新国際空港開発計画に対する妨害工作を地道に続けたおれは、ついに、
鈴蘭の兄、武彦の存在も、同時期に知った。彼は、大学進学に伴って上京した際、自発的に左翼系サークルに所属し、学生運動に身を投じていた。いくら国策のためとはいえ、大事な妹を見殺しにしようとした町の人間が許せなかったためだ。特に、黒幕のひとりである与一に対して個人的な恨みと復讐心を抱いていたのは言うまでもない。結果、大学で知り合った運動家の伝を頼って『
武彦には、浅間一家心中事件の実行犯になってもらった。明星晃介が大天山まで浅間兄妹をおびき出し、身を潜ませていた武彦が二人を拉致。続いて両親の方も、木田組の人間に借金のカタがどうとか因縁をつけさせ、身柄を拘束。親子共々、もう使われていない工場の倉庫に閉じ込め、一酸化炭素による中毒死で始末する。偽の遺書を用意させたうえで、な。
これが事の顛末だ。
そこから先は、わざわざ語るまでもない。
おれは『A』に自分の考えを伝え、高山ヒトシを利用する旨を話した。
もっとも、『A』も、おれと同様に、奴が高山ヒトシだということを知っていたため、もとより『
話は決まった。高山ヒトシを、落とす。
作戦は上手くいった。奴が高山ヒトシとしての記憶を取り戻すにあたり、姫百合鏡花は多大な貢献をしてくれた。奴と旧知の仲である露木や天宮が所属する文芸部に配属されるという運も手伝い、奴は自らの過去を思い出した。
ゲームはおれの勝ち。
すべては、おれたちの思うがまま。
さて。
長い、長い述懐を終え、ひとつ、息を吐く。
……結局、誰も、おれの正体を知ることはなかった。
そうだ、誰も、このおれを知らない。
おれが――いや、僕が――。
――芥川伶一であるということに。
にやりとほくそ笑む。
かつて風祭周平だった僕は、偽名である芥川伶一を名乗って瀬津第一分校に潜入していた。特派員として。あるいは『
「何もかも、僕の思惑通りということです、か」
感慨深げに息を吐く。
だが、まだ終わりじゃない。
僕には、果たすべき約束がある。
「……鈴蘭」
僕は彼女を思う。
今もまだ、暗く、狭い、土蔵に幽閉されている彼女。
僕は、救い出さなければならない。
どんな手を使ってでも……。
「……諦められるはずがない」
風祭周平――つまり高山ヒトシ――が言っていたことで、ひとつ、正しいものがある。
僕は、風祭宗吾や、国に、なんの恨みも憎悪もない。
もちろん、最初は、奴に対する復讐心を糧に、いくつもの死線をくぐり抜けて来た。それは事実だ。
しかし、いつしか、奴への復讐自体が目的ではなくなり、胸のうちで燃える憎しみの炎は、計画を成就させるために必要な手段――言い換えればただの燃料――にまで成り下がっていた。
国家の言いなりでしかない盲目的な連中など、もはや眼中にない。
この地獄の5年間を辛くも生き抜いてきた僕にとって、風祭宗吾は、取るに足らない矮小な人物だと悟ったのだ。
要するに奴の存在は必要経費であり、突破すべき通過点に過ぎない。
僕は最愛の
ただ、鈴蘭を救うには、必然的に国家を相手取る必要があった。
なぜなら、天宮幸成が言うには、彼女はイイヅナの呪いによって気が触れたからだ。
あるいは、鈴蘭がそう強く思い込んだこと――つまり自己暗示――による発狂。
いずれにせよ、この忌まわしい呪縛から鈴蘭を解き放つには、彼女がそうなった原因の原因性を取り除かなければならなかった。
要するに、イイヅナそのものである自然や土地を奪い、破壊するという行為と真逆のことをする。
これによって初めてイイヅナ――そして鈴蘭――はすべてを許し、長年に渡る呪いは解呪される。
まさしく
それにもかかわらず、僕は非科学的な方法に縋るしかなかった。頼みの綱の医学が匙を投げた時、人は神に頼るしかないのだ。
だからこそ、僕は、『
最愛の
(自分と周囲を騙し、欺いていた……)
――
僕は顔を上げる。視線を、眼差しを、周囲に向ける。
果たして、僕の見ている世界は、本当の世界の姿なのだろうか?
僕は1枚の写真を取り出す。
古ぼけた写真には、控えめな笑みを浮かべた少女――鈴蘭の姿が写っていた。
今も色褪せることのない、風祭周平としての記憶。
とても、懐かしい感じがした。
「すべては、イデアの影に過ぎない……」
誰でもあって、しかし、誰でもない、僕という存在。
誰かの眼差しが、そのすべてを確定させるというのなら……。
僕は、是非とも見てみたいと思った。
この世界の、本当の姿を。
愛する
まちかみっ!~町に神様の居る日常~ かすていら @akatengu
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