第二十六話 対決

「伯父さん、自転車借ります!」

 返事を待つことなく、一方的に許可を取って自転車にまたがる。

 そして、屋敷の門を飛び出た。

 星明かりが周囲の闇を儚く照らし出す。

 おれは手元の懐中電灯を自転車にくくりつけ、光源を確保する。

 この時間、外出するのはかなり危険だ。町には外灯がほとんどなく、今のように晴れていなければまさに闇夜。下手すれば田んぼのへりにはまって身動きが取れなくなるなんてこともある。

 それでも、おれは行動しなければならなかった。

(待ってろよ、今、行くからな……!)

 目の前を照らす光に導かれるようにして、おれは不安定なあぜ道を進んだ。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「はあ、はあ……」

 ひたすらペダルをこぐ。

 未舗装の田舎道は果てしない直線が続くくせにガタガタとよく揺れる。気を抜けば即転倒だ。

 だが、不思議と恐怖はない。

 かつての……5年前の記憶が、おれを駆り立てる。

 もう、負けるわけにはいかない。

 おれはもう無力な小僧ではない。

 今度こそ……、今度こそ……。

 おれは……約束を……。

 車輪が小石を跳ね、道路に生じた凹凸おうとつの激しい溝に食い込むたび、身体が車体ごと大きく前後左右に揺れるが、ペダルをこぐ力を緩めることはしない。

 もはや理性では制御できない。足が勝手に動いている。おれを芯から突き動かすのは、言葉では説明の付けられない、もっと別の何かだった。

 ふと5年前の記憶が蘇る。無垢な少年だった頃。今と同じく、大切な何かを守るために、脇目も振らず、がむしゃらに突っ走っていた。

 いつの間に忘れてしまったのだろう。あの頃の感覚を。自分よりも何よりも大事なものが、確かに、そこにあったはずなのに。

 すでに失われてしまった大切なもの。ぽっかりと大きく開いた胸の穴。

 もう二度と、取り戻すことはできない。

 けど、それでも、追い求めようと思った。

「はあ、はあ、はあ……」

 無心で直線を進む。カエルのコーラスが応援歌のように鳴り響く。

 辺りを濃い黒で覆い尽くす闇夜がそうさせるのだろう……走馬灯のようにかつての光景が呼び起こされる。

 5年前のおれと、今のおれの行動が重なる。

(何も、変わっていないな……)

 息を荒げながら思う。

 やはりおれは高山ヒトシなのだ。いくら忌まわしい記憶の数々で上書きしようとも、その内実は……根本は、変わらない。

 おれがおれであることを自覚して安心すると同時に、一抹いちまつの寂しさを覚えた。

 風祭周平。それが今のおれだ。この事実はどうやっても覆らない。

 おれはおれを騙してきた。自分で自分を欺き通してきた。それは精神的な殺人だ。

 だからこそ、今まで騙し続けてきた自分に対し、申し訳が立たなかった。

(……終わらせてやる)

 かつてヒトシだったおれが自分の身と引き換えに託した、彼らとの約束。

 何が何でも、果たさなければならなかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 夜の尾前町ほど神秘的な情緒に溢れる場所もなかなかない。

 諸外国から渡来してきた神仏と、土着の神が根付く町。未だ手付かずの自然に囲まれた、神と人が共存する地。

 前者の代表格とも言える教会堂が重厚なおもむきを見せる、広大な敷地面積を誇る孤児院。は、その一角に身を潜めている。

 窓から窺える、かすかな外灯の光に照らされた辺り一帯は、不気味なまでの静寂を漂わせていた。

 は、ひとり、策を巡らせていた。

 奴は来る。

 奴を追い詰める算段も整っている。

 問題は、辿

 とはいえ、奴とて馬鹿ではない。むしろ頭は切れる部類だ。この孤児院で何が起きているか大体の察しはついているだろう。

 もっとも、事がそう運ぶように多少は仕組んでいたのだが。

 これまでに得た情報をもとに現状況を演繹えんえきすれば、誰でもわかる。

 無策に突っ込んで来るほど愚かなら、おれと相対する価値もない。

 だが、そんな懸念は杞憂に終わる。

 確信していた。

 用心深いあの男のことだ、慎重を期して敵地に乗り込んでくるだろう。

 ならば、おれは、奴の行動原理を利用する。

 罠にはめるのだ。それも、二重、三重に張り巡らされた罠を。

 果たして、奴は、おれの張った罠を掻い潜ることができるかな……?

 自然と笑みがこぼれる。

 奴にとって思い出深い場所である孤児院は、もはや、獲物を誘い込み、監禁する、恐ろしい檻へと変り果てていた。

 孤児院を占拠するのは非常に容易かった。あらかじめ、木田組の息が掛かっているから当然だが。

 計画は1年前から進めていた。明星晃介を偵察役として孤児院に潜入させていたのもそのためだ。

 彼はじつに良く働いてくれた。おかげで暁光会古参の重たい腰を上げさせる契機ができた。要するに橋渡し役だ。生贄とも言うが。

 まあ、その分、奴には散々甘い蜜を吸わせてやったのだ。ツケはきちんと払ってもらわなければ困る。

 今頃、奴は、不用品を押し込めた物置の中で自らのほぞを噛んでいることだろう。

 ひょっとしたら、すでに虫の息かもしれない。

 権力の奴隷の哀れな末路を思い、ほくそ笑む。

 協力者エージェントはどこにでもいる。自らの保身に走る弱者を手駒に仕立て上げるのは容易だ。

 例えば、葵とかいう女性職員がそうだ。人知れず子供を選別し、組織に向けて売却するのに一役買ってくれた。

 暴力に抗える人間など、ほんのひと握りしかいない。

 そして、暴力に耐えうるほんのひと握りの人間相手には、そいつ以外の別の誰かを酷い目に遭わせればいい。

 孤児院や教会堂関係者の場合は主に後者の方法が効果的に働いた。場所が場所だけに、当然の帰結だが。

 何せ、子供たち全員が人質のようなものなのだからな。

 利用価値のないものでさえ、捨て駒としての価値はある。人身御供と同じ理論だ。

 十兵衛と言う名の少年には最初の犠牲になって貰った。卑怯にも日和見ひよりみを決め込む愚鈍な連中相手にはいい見せしめとなった。

 だが、まだまだ足りない。こんなものでは済まされない。

 これは計画の初歩的な段階に過ぎない。ゆえに、絶対に成功させる必要がある。

 そのためにも、今後の活動に支障を来たしかねない邪魔物は徹底的に排除しなければ。

 さて。

 おれは段取りを確認する。

 各フロアには見張りをつけてある。何か不審な点が生じれば、こちらに連絡が入る手筈になっている。

 孤児院の正面玄関には配下のヤクザどもを多めに配置してあるため、正攻法での突破は不可能。

 なら、奴はどう動くか?

 ゲーム理論的に戦略を読み解く。

 答えはすぐに出た。

「お手並み拝見といこうか」

 まずは洗礼。この関門を突破しなければおれと対峙する資格さえない。

 はエントランスの椅子に繋がれている。

 果たして、奴は彼らを、そして彼女を救出することができるか?

「無事に辿り着くことを願っているよ、風祭周平……」

 頭痛は、計画の案を練ることによって掻き消える。

 長い夜が、始まろうとしていた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……はあ、ふう……」

 蔵屋敷の門を抜けてからどれくらい経っただろうか。

 ようやく、おれは外灯の薄明りに照らされる孤児院に到着した。

 体感的には1時間くらいだが、あまり悠長に構えていられない。

 奴は言った。午後10時までに孤児院まで来なければ、露木と天宮を酷い目に遭わせると。

 嫌な汗が全身から噴き出る。

 急がなければ。

 しかし、焦ってはならない。

 相手は、政府に挑戦状を叩きつけた『亜細亜八月同盟AAA』、その可能性が非常に高い。

 今まで水面下で動いてきた彼らが、ここに来て大々的に行動を開始した。そこに裏がないはずがない。おそらく、と言うより確実に、用意周到な罠が仕掛けられてあるはずだ。

 逸る気持ちを抑え、おれは慎重に辺りの様子を探る。

 正門は不気味な静けさに包まれている。

 ご丁寧に、普段は閉じられているであろう門が開かれているのが怪しさ満点だ。

 そう、おれは見た。孤児院の正面玄関付近、数人規模でガタイのいい男たちが守りを固めているところを。

 あれはおそらく、木田組に属する連中だろう。もしくは、『亜細亜八月同盟AAA』に賛同する反対派の人間か。

 いずれにせよ、おれの立場と敵対する陣営であることに変わりはない。

 気掛かりなのは、どうして奴らがおれに接触を図ったのかということだ。おれはそれをずっと考えていた。

 そして、あるひとつの答えに達した。

 おれが特派員であることはすでに明るみに出ている。明星が知っていたのだから間違いない。

 とすると、その明星が、『亜細亜八月同盟AAA』に、おれが特派員だという機密事項を漏らしたとしたら、どうだ?

 木田組と接点のある明星経由で奴らに情報が伝わり、さらに『亜細亜八月同盟AAA』と流れて、今に至る。

 そう考えれば辻褄が合う。

 明星と木田組と『亜細亜八月同盟AAA』は、グルだ。それだからこそ、連中の手先と思われる人間が、孤児院を占拠している。

 では、なぜ、奴らはおれを孤児院にまでおびき寄せたのか?

 理由のひとつとしては、おれと露木が顔見知りだという点が挙げられる。明星が一枚噛んでいるなら、おれの交友関係も割れているはずなので、そこをついた形だろう。

 電話の男も、露木たちを餌におれを釣り上げようとしていた。これに関しては疑う余地はない。

 しかも、さらに用心深いことに、鏡花ちゃんまで人質に取っている。おれを絶対に逃さないために。

 問題は、連中がおれを誘い出してどうするかだ。

 考えられる目的としては、おそらく、こうだ。特派員であるおれを籠絡ろうらくし、国家の反逆者に仕立て上げること。

 新国際空港開発計画を妨害するのに、これ以上の効果的な方法はないだろう。

(……すべては、奴らの思惑通りってことか)

 おれがこの町に来た時から、運命の歯車は動き出していた。破滅に続く悪趣味な脚本がつづられていたというわけだ。

(ひょっとしたら……)

 懸念すべきことは、もうひとつあった。

 嫌な仮説が脳裏によぎる。

 おれの本当の正体と、孤児院という特別な場所にまつわる因縁。

 それに、電話の男……。

(……何かを知っているような口ぶりだった)

 あるいは、そう思わせるだけの虚勢か。

(……いずれにせよ、今夜で、すべてが明らかになる)

 そんな予感があった。

 以上の点を踏まえ、改めて現状を確認する。

 目の前には、おあつらえむきに開かれた正門と、遠目に窺える男どもの姿。

 さて、これを罠と言わずしてなんと形容したものか。

 つまり、ネズミ取りの要領だ。敵が無防備に胸襟きょうきんを開いていると見せかけて油断したところを――襲う。

 まさか、こんな手に引っ掛かるわけにはいかない。

 身をかがめながら、おれは裏に回る。

 

 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「なるほどな……」

 外壁を伝って裏門まで辿り着き、息を吐く。

 裏門は、その重たい口を固く閉ざしていた。厳重に施錠されているのか、押しても引いてもびくともしない。

 だが、これではっきりした。やはり正門ルートは危険だということが。

(しかし、どうする?)

 おれは少し考える。

 裏門、正門共にこんな状況だとすると、このままでは足止めだ。そうなると、制限時間である10時を迎えてしまうだろう。

(正門に戻って強行突破か?)

 とはいえ、それはあまりにもリスクが高い。下手すれば、おれも露木たち同様、お縄に掛かり、最終的にはお陀仏だ。

(どうしたものか……)

「……あの……」

「……ん?」

 不意に思考が中断される。

 気のせいだろうか。どこからか、声がしたような……。

「……誰か、そこにいるんですか?」

 いや、気のせいなんかじゃなかった。

 門の向こう側から、その声は届いていた。

(誰だ……?)

 息を潜め、相手の出方と正体を探る。

 声質は若い男のもの。若いと言うよりはむしろ幼さを感じさせる。おれと同じか、年下か……。

(孤児院の子供か? あるいはこれも罠なのか……?)

 疑心。

 神経が張り詰める。緊張で口が渇く。

 身動きできない膠着状態がしばらく続く――そう思われた。

「ぼくです……、高井戸です……」

(なに……?)

 不用意にも、相手の方から名乗り出た。まさに拍子抜けと言わざるを得なかった。

 しかも、その名前には覚えがあった。おれの記憶が正しければ、間違いない。

 文芸部部員の高井戸淳が、なぜか孤児院を訪れていた。

「高井戸……? どうしてお前がここに……?」

 当然の疑問を口にする。

「そ、その声は、風祭先輩……ですか?」

「……ああ、そうだ。おれは露木に呼ばれてここまで来たんだ。高井戸、お前は?」

「ぼくも、えっと、露木先輩に呼ばれたんです……」

 門を隔てて言葉を交わす。

 相手の顔が見えない分、より慎重に腹の内を探る。

「露木はどうした?」

「わ、わかりません。先輩は、怖い人が孤児院に乗り込んで来た時、ぼくを逃がしてくれて……、でも、先輩を見捨ててひとりだけ逃げるのは忍びなくて……」

「…………」

 おれは考えた。高井戸淳、彼の存在は歓迎すべきかどうかを。

 確かに、彼の言い分は筋が通っている。不審な点や矛盾はないように思えるが……。

「高井戸」

「は、はい」

「ひとつ、質問がある」

「は、はい……なんでしょう?」

「お前の周囲には、何が見える?」

「え? え、えっと、花壇と、教会堂の裏口が……見えます」

「それ以外は、何もないのか?」

「……ええ、特には……」

「…………」

 一瞬、言葉に詰まったように思ったが、どうだろう。

 彼が嘘を言っているようには思えない。咄嗟におれを騙そうと策を巡らせるほど、機転を利かせるほどの余裕もないはずだ。

 どうやら、門をくぐった瞬間に強面こわもてのヤクザが現れ、おれを捕縛するという作戦ではなさそうだ。

 よしんばそうだとしても、状況が状況だけに、あまり選り好みをしている立場にはない。

 前門の虎に後門の狼。何が待ち受けていたとしても、おれは戦うしかない。

 もちろん、面倒事は回避するに越したことはないが。

「……高井戸、ひとつ、頼みがある」

「え、今度はなんですか……?」

「門の内側……、お前の方からなら、ロックを外すことができる。おれが通れるくらいでいい、門を開けてくれ」

「わ、わかりました……お安いご用です」

 そう言うと高井戸は門を開錠し、ゆっくりと門を開けていく。

「あまり音を立てるなよ……」

 鉄と鉄同士がこすれる不快な音が、闇夜の中に小さく響く。

 裏門周辺は警備が手薄なのか、幸い、奴らに勘付かれることはなかった。

「……しかし、本当にひとりとはねえ」

 門を抜けて教会堂の敷地に入ると、思わず心境が漏れる。

「へ、なんの話ですか……?」

 久しぶりに見る高井戸の顔は、おれの言葉の真意を図りかねているためか、ポカンと間抜けな表情をしていた。

「いや、何でもない。こっちの話だ」

「は、はあ……」

 何やら要領を得ない口ぶりの高井戸は放っておいて、懐中電灯の光を頼りに辺りを見回す。

 人影は見当たらない。教会堂の裏手は怖いくらいに静まり返っている。

「それにしても、今までよく無事だったな?」

 振り返って尋ねる。

「ええ、ずっと、ここに隠れていましたから……」

「裏門方面には誰もいないのか?」

「そう、みたいですね……、怖い人たちは、みんな、孤児院の方にいるみたいです」

「ふーん……」

 軽く情報のやり取りをしながら、高井戸の様子を観察する。

 辺りは暗いため、あまり顔色の変化はわからない。

「露木がどこにいるか知っているか?」

 高井戸は力なく首を左右に振った。

「すみません……、そこまではわかりません……」

「……そうか」

 しゅんと肩を落とす高井戸を見て、おれは小さく息をつく。

 高井戸……、こいつの言葉をどこまで信じるべきか……。

 おれは懐疑的な眼差しで彼を見ていた。彼の説明を字面通りに受け取るには、少々、というか、かなり不可解な点がある。無防備に開け放たれた正門に、厳重に閉ざされた裏門。そして、高井戸は、まるで示し合わせたかのようにその裏門で待機していた。それこそ、あらかじめおれが来るのを知っていたように。

 ……都合が良すぎるとは思わないか?

(いや、待て……)

 おれは思考を巡らせる。

「……そうだな、高井戸、ちょっと一緒に来てくれ」

「は、はい。それは構わないですが……」

「なんだ? 何か問題でもあるのか?」

「いえ、なんでもないです……」

「……ふむ」

 及び腰の高井戸を、半ば強引に孤児院の裏手まで引っ張る。

 ヤクザどもは孤児院正面の監視に注力しているのか、教会堂周辺は驚くほどに静かで、人っ子ひとりいやしない。

 これを好機と捉えるべきか、それとも……。

(いや……、迷っている場合じゃないな)

 辺りを警戒しつつ、孤児院の倉庫まで辿り着く。

「せ、先輩……、ここって……」

 不安そうに高井戸が声を漏らす。

 おそらく、露木たちを助けに行くのかと思いきや、正面玄関とは真逆に位置する倉庫に連れて来られたのを不審に思ったのだろう。

「大丈夫だ、心配するな」

 おれには考えがある。

 閉め切られた扉に耳を近付け、内部の様子を探る。

 ……特に物音らしい物音は聞こえない。

 問題は、ここの鍵が開いているかどうかだが……。

 倉庫の扉に光を当てる。

 おれは目を疑った。

 ――鍵が、かかっていない。

 倉庫の鍵は南京錠タイプなのだが、なぜか開錠されていた。

 さっきは暗かったから気付かなかったが……。

「……」

 試しに扉を開けてみる。


 ――ギギィ……


 鈍く低い音を立て、扉は無事に開いた。

 おれは息を飲む。

 どういうことだ?

 思わず高井戸を見る。

 彼は闇に包まれた扉の向こう側に目を凝らしている。

 おれは懐中電灯の明かりを、そっと室内に向けて当てた。

 光源が一切ない倉庫は、部外者の侵入をためらわせる重苦しい空気に満ち溢れている。

 中には誰もいないようだが……。

「……よし、入るぞ」

 誰に向かって言うでもなくつぶやく。

「高井戸は、入口の方を見張っておいてくれ」

「は、はい」

 もしもの時に備え、高井戸を扉の前で待機させておく。

 おれは、単身、闇に覆われた倉庫の中に突入する。

「……っう」

 足を踏み入れた瞬間に感じるほこりっぽさに顔をしかめる。

 面積にして4畳もない狭苦しい倉庫内は、木箱やら鉄くずやら雑多なものが無造作に散らばっていて足の踏み場も無く、加えて土臭い。

「変わってねーな、ここは……」

 5年前と同じ惨状に悪態をつく。

 まあ、倉庫ってのは概してこんなものなのだろうが。

 さて、おれがどうしてこんな、ふんづまりに等しい倉庫に入ったか。

 おれの記憶が正しければ……。


 ――ガチャ


「ん……?」

 突然、背後で物音。おれが入って来た裏口の方から聞こえた。

「どうした、高井戸? 何かあったのか?」

 外で見張っている高井戸に声を掛ける。

 返事はない。

(なんだ? 何が起こった?)

 おれは、今響いた物音の真相を確かめるため、裏口の方まで戻る。

 そして、扉を押し開けようとしたところで気付いた。

 ――まさか。

 果たして、予想は的中した。

 高井戸の奴は、あろうことか、。さっきの鈍い物音は、その時のものだった。

 倉庫は南京錠で施錠されているため、内側からはどうやっても開けられない。

 まさか、高井戸の奴は、おれを閉じ込める機会を狙って……?!

「すみません、先輩……、こうしないと、ぼくは……」

 閉ざされた扉の向こう、高井戸が涙声で謝罪する。

「おいおい、冗談だろ? まさか、このまま露木を見捨てるつもりじゃねーよな?」

 返事はない。

「は、なるほどな」

 そういうことか。

「……本当に、すみません……」

 それきり、高井戸は黙り込んでしまった。

 大方、明星の奴にでも脅されたんだろうが……。

「失望したぜ、高井戸」

 吐き捨てるように言った。

 高井戸に対する同情の気持ちは完全に薄れ、敵意が芽生える。

 だが、こんな姑息こそくな手を用いる三下さんしたをいちいち恨んでも仕方がない。

 この孤児院占拠の件に関しては、彼でさえ、氷山の一角に過ぎないのだ。

 敵は、別の場所にいる。

 おれにはもっと他に考えるべきことがあった。

 ――10時までに露木たちのところに辿り着かなければ、意味がない。

「……っち」

 おれは舌打ちする。

 ここで足止めをくらって、それで終わりか?

 ――馬鹿な、そんな結末はありえない。

 おれには果たすべき約束がある。

 それに、あいつらには借りがある。

 こんなところで終わらせられるものか。

 孤児院に続く木製の扉まで駆け寄り、ドアノブを回す。

 当然、開かない。

(何か……、何かないか?)

 周囲に懐中電灯の光を彷徨わせる。

 見えるのは、腐りかけた角材、空気の抜かれた車のタイヤ、用途不明の何かの部品など……、ここから脱出するのに役立ちそうなものはまったくない。

「ん……?」

 倉庫内にくまなく光を巡らせ、ふと動きが止まる。

 おれの背丈ほどまで高く積まれた木箱の隅。壁に寄りかかるようにしてうずくまる、黒い、大きな物体に意識が向かった。

 なんだ、あれは……? おれはそれに近寄る。

「――うわっ!!」

 心臓が大きく跳ね上がる。

 それの正体を理解した途端、反射的に、一歩、飛び退いていた。

「こ、こいつは……!?」

 ――人間だ! おれは思わず叫んでいた。

 そいつはピクリとも動かない。放置されたゴミ袋のようにボロボロの衣服からして、とてもまともな状況でいるとは思えない。

(死んで……いるのか……?)

 恐るおそる近付く。

 もしもこれが死体なら、こうして遭遇するのは2回目だ。

 眉をひそめながらそいつの安否を確認する。

「え……」

 2度目の驚愕は、絶句で表現された。

「明星……晃介?」

 顔を覗き込んで初めて気が付いた。ぐったりと項垂れるそいつは、明星晃介その人だった。閉じられた目蓋まぶたは赤く腫れあがり、額が割れているのか、べったりと乾いた血が顔面に付着している。

 一体、どんな暴行を受ければこんな悲惨な状態に陥るのか。

 想像したくなかった。

「……おい、明星……」

 泥と血で汚れた服の上から、奴をゆっくりと揺する。

 狭い倉庫に充満する、汗臭さと体液が雑じったような酸っぱいニオイ……。

 だが、身体は温かい。

 まだ息があるのか?

「う、うう……」

「! 明星……」

 予感は的中した。

 明星の奴は腫れぼったい目蓋を窮屈そうに開け、血にまみれた口を開く。

「……誰かと思えば……、てめえか」

 焦点の合わない目で、息も絶え絶えに言う。

 腐ったような吐息のニオイに、めまいがしそうになった。

「どうやら……、まだ……、地獄に落ちたわけじゃねえようだな……。くっく……」

「強がってんじゃねーよ、酷い傷じゃねーか」

 正視に耐えない、見るも無残な明星の姿。柄にもなく胸が痛む。

「しかしよお……、風祭、なんだって、てめえがここにいる? ……まさかとは思うが、夢を見てるってオチじゃあるめえな?」

「それはこっちのセリフだ……、まったく、夢であってほしいもんだよ、本当に」

 高井戸の裏切りによって閉じ込められた挙句、遭遇するのは瀕死の明星。これが悪夢以外の何だというのか。

「くっく、まあ、なんだっていいわな……。あんまりてめえと無駄口叩いてる余裕はなさそうだしよお……」

 奴が自嘲っぽく言うように、ぜえぜえと肩で息をしている辺り、相当に辛いのが見て取れる。

 ったく、強がりやがって……。

「とにかく、今は大人しくしてろ」

 こんなところでくたばられた日には、寝覚めが悪いからな。 

「ほう、特派員ってのは、オレみてえな死にぞこないにも情けを掛けてくれるのか? くっく、役人らしくねえな? てめえらみてえな頭でっかちのお堅い連中のことだ、自分らにとって不要な人間は腐った果実よろしく、とっとと切り捨てるもんだと思ってたぜ……」

「お前のその認識はあながち間違っちゃいないが、残念なことに、状況が状況だからな」

「なるほど、弱者に同情的なスタンスを見せることで自らの株を上げつつ、オレにひとつ貸しを作ろうって魂胆か。相変わらず役者だな、てめえはよお……」

「言ってろ」

 根っからのへそ曲がりは、こんな危機的な窮地にあっても憎まれ口を叩くが、おれはこれを無視し、安静を促す。

「いい加減、黙っとけ。傷の治りが悪くなるぞ」

 まったく、口の減らない野郎だ。

 こいつらしいと言えばらしいが。

「確かにてめえの言う通り、オレとしても、そろそろひと眠りしたいのはやまやまなんだが、そうは問屋がおろさないんだよなあ……くっく」

「? ……どういうことだ?」

「っへ、どうしたもこうしたもねえよ……」

 口元を苦しそうに歪ませ、血の混じったつばを吐く。

「……はめられたんだよ」

「はめられた? 誰に……?」

 奴は虚空を睨み付ける。

「あいつは恐ろしい男だぜ……、木田組と、オレを、捨て石扱いだ……。そうさ、これまでのことはすべて奴らの自作自演……、マッチポンプってわけだ、っへ、笑える話だぜ……」

「なんだ、どういうことだ?」

「……この際だ、てめえには真実を教えてやるよ……、くっく……うっ……」

 げほげほと咳き込む。

 ひゅーひゅーと、気道に穴が開いたかのような呼吸音が、妙に痛々しかった。

「あまり無理はするな……と、言いたいところだが、この様子じゃ、それこそ無理な相談か」

 明星の野郎にもう余力は残されていない。そんなことは、こいつの今の状態を見ればわかる。

 だから、聞くしかない。見届けるしかない。こいつの、最期かもしれない言葉を――その命のともし火を。

 目を逸らすな。耳を傾けろ。

 おれはもう――逃げないと決めたんだ。

「明星、話してくれ。お前に一体何があったのか。そして、この孤児院に何が起きているのか」

 真剣なおれの表情に満足したのか、奴は深く頷いた。

「……いいか、風祭……、あいつは……、あの連中は、元々、孤児院の土地になんか、用は……なかったんだよ」

「なに……?!」

 土地という興味深い単語が出たところで詰め寄る。

「間違っていたらすまないが、あの連中ってのは、例の反政府組織……『亜細亜八月同盟AAA』のことか?」

 恐るおそるの確認に対し、明星は驚いたように目を丸くする。

「……ほう、気付いてやがったか。まあ、てめえが特派員なら当然か。この町のことは隅から隅まで調べ上げているだろうからな……」

 感心したように息をつく明星の反応で、おれは確信した。やはり、奴らが裏で手を引いていたのだと。

「それで、奴らの真の狙いってのは何なんだ?」

 固唾を飲み込み、にじり寄る。

 明星は、神妙な表情で重たい口を開いた。

「……やっこさん、孤児院の土地はもとより、政府のやり方が気に食わねえのさ……。だからよお……、政策に賛同するような動きをする木田組の奴らを、叩き潰す口実が欲しかったのさ……、オレたちに、ここいらを監視するように命令したのは……、暁光会のジジイどもに……、恨みを買わせるため……」

 おれは孤児院の状況を思い返す。正面玄関に配置された、数人の大男……。

 そうか……、今、ここを占領しているのは、木田組ではなく、暁光会の……。

「つまりだ、明星。お前と、木田組は、暁光会を釣り上げるための餌だったってわけか?」

 表現は悪いが、こう形容するのが的確だろう。

 事実、明星は不快そうに口元を歪めながらも、ややして小さく頷いた。

「……悔しいが、てめえの予想は正しいぜ。おそらくは木田組の奴らも……、今頃はオレと似たような目に遭っているに違いないぜ……」

 唇を噛み、吐き捨てる。

 血も涙もない一方的な暴力が、この狭い町の中で堂々と行われていることを知り、背筋が震えた。

 利害の一致によって運輸省と裏で繋がる木田組は、暁光会の重鎮に睨まれている。暁光会のお偉方は、自分らが長年にわたって抱えてきた領地シマである尾前町の土地を、政府に明け渡すことをよしとしていないからだ。

 ヤクザ同士の抗争は、いわゆるメンツの戦い。彼らの言葉を借りるなら、まさに仁義の応酬。暁光会から分裂した一派に過ぎない木田組が、暁光会会長の意向を無視して勝手に尾前町の土地を買い付け、あまつさえ国に売却するなど、彼らの顔に泥を塗る行為に他ならない。ここに、今も尚続く激しい対立構造が見出せる。

 逆に言えば、大した理由もなしに反目しあう組織同士がドンパチやるわけにはいかないわけだ。

 そこで、暁光会は、正面切って木田組と争うための口実を設けた。それが孤児院の土地というわけだ。

 現在、孤児院の土地は木田組が所有している。だから、みかじめ料や用心棒代と称して孤児院の敷地内に土足で踏み込んでは、好き放題やる。

 結果、そうした傍若無人な振る舞いが暁光会の怒りを買い、明星の言うように総攻撃を受ける羽目に陥った。

 因果応報。目の上のたんこぶである木田組を飼い馴らす明道銀行、その頭取の次男坊であり、木田組とも深い関わりを持つ明星も、血で血を洗う抗争の巻き添えをくらう形となった。だから、奴はこうして袋叩きに遭い、満身創痍まんしんそういの状態で放置されている。

「なおのこと気に食わねえのは……、奴ら、木田組の人間も買収していたことだ……、くっく、おかげでこのザマだぜえ……。羽鳥に……、郡司……、今までの恩義を忘れて……オレをはめやがって……」

 恨みがましく毒を吐く明星の言葉で、おれは、かつて孤児院で会った二人組を思い出す。露木に因縁をつけ、明星の後ろを金魚のフンのように付きまとっていたヤクザだ。

(明星は、あの二人組に裏切られたってことか……)

 権力は権力を。力というのは、より強大な力の前にあっけなく屈する。それが社会であり、世の仕組み――。誰にも抗うことのできない法則だ。

「てめえも気を付けな、風祭……」

 死んだ魚のような濁った目で訴えかける。

「あいつは……、ずっと、オレを騙してきた……。いいや、オレだけじゃねえ……、ギンバエの野郎や……、風祭、てめえでさえも……」

「なあ、明星、教えてくれ……、お前の言う、あいつとは、一体……」

 緊張に声を上擦らせながら尋ねるが、明星はこちらを見ようともせず、不気味な薄ら笑いを浮かべるのみ。

「ふざけた野郎だ……、次に会った時はただじゃおかねえ……絶対に殺してやる……くっく……」

 うわごとのように恨み言を繰り返す。

 もはや、まともな会話は成立しそうになかった。

「……オレは…………あいつを……許さねえ……。あの……、化け狐のような……、すべてを見透かしたかのような目つき……、思い出すだけでも憎たらしい……。許さん、許さんぞ………………」

 しばらくぶつぶつとつぶやいていた明星だが、やがて、糸がぷっつりと切れたようにガクリと項垂れ、その目が閉じられる。

「お、おい、明星……!」

 慌てて生死を確認する。

 ……息は、まだ、ある……。

 どうやら、気絶したようだ。

「っち、人騒がせな奴だな……」

 ひとまず安堵する。

 しかし、事態は好転したわけじゃない。それどころか、むしろ悪化する一方だった。

 おれは現在の状況を整理する。

 前方と後方には扉。どちらも鍵が掛かっている。

 扉を力づくでぶち破って突破しようにも、おれは体力を消耗し過ぎている。

 首尾よく孤児院側の扉を壊して施設に入れたとして、中を警備するであろう極道から逃げ切り、露木を助け出す自信は……残念ながら、ない。

 どうする……?

 どうすればいい……?

 約束の時間は刻一刻と迫っている。

 焦りはない。

 ただ、何をしても無駄だという諦観がおれの思考を阻害し、行動を妨げる。

 窓がない、淀んだ空気が滞留する暗い倉庫。

 孤児院側に続く扉のそばに積み上げられた木箱の隅には、死んだように失神する明星の姿。血と埃で汚れた苦悶の表情を浮かべ、とても見れたものではない。

 明星……、こいつは確かに悪党だが、しかし、それでもおれはこいつを憎み切れない。

 いわばこいつは国家に踊らされた哀れな傀儡くぐつ。そういう意味では被害者のひとりなのだ。

 そして、国の思惑に大きく人生を左右されているという点では、おれも明星と大差なかった。

 権力に付き従う人間の行く末。このままでは、おれも明星と同じ末路を辿ることは必至だ。

 ……くそ。

 結局、変わらないのか?

 5年前と、何も……変わらないというのか?

 またしても、おれは……。

 みんなとの約束を……。

 思わずへたり込みそうになる。無理もない。ここまで色々なことがあり過ぎた。

(鏡花ちゃん……)

 ゆっくりと目を閉じる。暗闇の中、おぼろげな彼女の姿が浮かぶ。

 いつも渦の中心からは離れ、独りで寂しそうな笑顔を浮かべていた少女。

 おれは、彼女を救いたい。約束を果たしたい。

 そうだ。

 まだ、終わったわけじゃない。

 目を開ける。脳に血を送る。

 さあ、どうした。

 頭を使え。

 お前が手に入れた力は、所詮はこの程度なのか?! 違うだろう!!

 何のために、憎き風祭宗吾のもとで屈辱を噛み締めながら生き長らえたというのだ!!

(……こんなところで……!)

 燃えつきかけた逆襲の炎が再び赤く灯る。

 脳裏にちらつく、ぐらぐらと燃え滾る真っ赤な炎……。

 その時だ。頭に閃光が迸り、おれの全身に戦慄が走る。

(炎……炎か!)

 神の啓示か、はたまた、おれの頭脳の賜物たまものか。突然、降って湧いたようにある考えが閃いた。

(もしかしたら……)

 ごそごそと、ポケットに手を突っ込む。

 取り出したのはマッチ箱。懐中電灯が切れた時のために用いる緊急用の光源として持参したものだ。

 そして、今度は上着の胸ポケットを探る。

 手に取ったのは、あのおっさんから思いがけずに貰った、一本の――。

 彼に対するとむらいの気持ちで持参したそれが、よもや、役に立つ時が来ようとは。

「なあ、高井戸」

 閉ざされた扉に向かって声高に問う。

「まだ、そこにいるんだろう? おれにはわかるぜ」

 小心者で臆病者のこいつのことだ、きっと、胸の内に生じる罪悪感のあまり一歩も動けないに決まっている。

 やはり、返事はない。

 じつは彼なりに責任を感じているのかもしれないが、おれの知ったことではない。

 だから、言ってやった。

「裏門を開けてくれたことに関しては、感謝してるぜ」

 あてつけではない。

 なぜなら――。

 おれはマッチをこすって火をつける。

 闇夜にゆらゆらと揺れる小さな炎。

 それは、おれの中に燃える闘志同様、たったひとつの希望の光になりえた。

 

 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「――そうか」

 雇った人間から連絡を受けたは、短く答えた。

「あの男は、我々の手に落ちたか」

 あの男とは、無論、風祭周平のことだ。

「引き続き、監視を頼む」

 無線機の通話を切る。

 自然と口元が歪んだ。

「ふふ……」

 獲物が罠にかかった。

 あの男は、おれの予想通り裏門からの侵入を試みた。

 ここまではいい。

 正門からの突破を試みるほど、奴は愚かではない。そんなことはわかりきっている。

 だが、そのあとの行動は少々予測しづらいものだった。

 確かにおれは奴のことを知り尽くしているが、それでも例外というものはある。

 だったら、こちらの思惑通りになるように誘導してやればいい。

 だからこそ、もうひとつの抜け道を用意してやったのだ。

 偶然を装った、必然の展開。おれはあらかじめ高井戸淳を裏門に待機させていた。

 そして、こう命令しておいた。『風祭周平が現れたら、なるだけ自然に裏門を開放し、孤児院の裏口まで誘い出せ』と。

 最悪、裏門を開け放すだけでもいい。あの男は孤児院の構造に精通している。どこの守りが手薄かどうか、ある程度の見当がついているはずだ。そうでなければならない。

 高井戸淳を使ったのは正解だった。

 いくら警戒心の強い奴とはいえ、顔見知りの人間を心の底から疑うのは難しい。

 なぜなら、奴は甘いからだ。

 今回の件に至っても、そうだ。露木銀治郎のことなど放っておけばいいものを、こうして愚直に助けに向かう。もしかしたら、これも罠かもしれないのに、その可能性をまったく考慮しない。

 さながら一端いっぱしの英雄気取りというわけか。

 気に入らないな。

 裏切り者のくせして。

 だから、簡単におれの術中にはまるのだ……。

 おれは彼のことを思う。国という巨大な檻に繋がれた、政府の犬。自由を奪われた機械的人間。

 本来、人間というのは自由な存在だ。己の存在理由を、己の望むままに規定することが可能だからだ。いまだ学者でない者は、自らが学者であろうとするがゆえに学者になる可能性が生まれる。ゆえに、学者になりえないという不可能性も生じる。それは当人の自由意志によって左右される。

 にもかかわらず、おれという他者が介入することでその自由は奪われ、凝固し、失墜する。『彼は学者である、または、学者ではない』。その外的性質――すなわち個性――をおれが付与させる。風祭周平が特派員なのは、奴がそう思っているから、そうなのではなく、むしろ、おれがそう思っているから、奴は特派員なのだ。

 なぜなら、奴は、あくまでも、からだ。せいぜいが役割を演じるにとどまる。特派員である人間が、生まれつき、特派員ではないように、その内実ないじつは、彼がそれであろうと望まなければ決して手に入らない。

 とはいえ、それでも彼は。彼が得られるのは、自分は特派員という不確定的な可能性のみ。

 しかし、おれが、奴を特派員だと認識した時、初めて奴は特派員になる。

 同時に、特派員になることも、ならないことも可能な自由性が、その特権を剥奪される。

 奴は指定される。おれが望むままの姿に固定される。それは一種の法則となって奴の四肢をからめ捕り、身動きを取れなくさせる。

 与えられた自由のゆえに、奴は不自由に陥る。

 明星晃介に至ってもそうだ。おれという他人が決定した事柄を、あたかも自分が決めたかのように誤認する。誰も、自分の行為の是非を信じて疑わないように、彼は己がどこに向かっているかを決して問題視しない。

 だから、おれの手によって死の淵に誘い込まれていると気が付かないのだ……。

 自分が何を行い、何を見ているのか、本当は何者で、どこに向かうべきなのかさえも知らない、哀れな奴ら。

 木田組の事務所は、今頃、暁光会きっての精鋭の奇襲に遭い、壊滅寸前にまで追い込まれていることだろう。

 すでに、木田組の人間の買収は済んでいる。組織の下位にある構成員は金に釣られ、おれたちの側についた。

 重要な手足を失う明道銀行も、弱体化は避けられない。

 当然だ。国家に加担する奴らは、すべておれの敵だ。

 風祭周平。奴もまた――。

 唯一の誤算は、天宮というネズミが紛れ込んでいたことだが、なに、そうした不安要素すらも利用してやればいい。

 おれには策があった。

「次は、どう出る?」

 現在時刻を確認する。

 ――9時48分。

 設けられた時間まで、あと15分もない。

(まさか、このまま終わりというわけじゃないだろう?)

 もっと楽しませてほしいものだ。

 何せ、5年も待ったのだからな。

「――聞いたか、露木銀治郎」

 おれは、来客用に拵えられた椅子に繋がれた奴の背に向けて語り掛ける。

 相手からはおれの姿が視認できない。

 自らを拘束し、あまつさえ孤児院を占拠した正体不明の人間に声を掛けられるのだ。否が応でも恐怖は増長するだろう。

 それが証拠に、おれがこうして話しかけてやっても露木はだんまりを決め込むばかり。まるで、迫り来る絶望に耐え忍んでいるかのようだ。

 その隙を、おれが見過ごすはずがない。

「勇猛果敢なお前のお友達は、おれの優秀な配下の人間によってお縄に掛かったようだ。ミイラ取りがミイラになるとはよく言ったものだな」

 おどけた調子で話してやるが、尚も返事はない。ただ、肩を怒らせて黙りこくるのみ。

 ……所詮、こいつもあの男と同様、中途半端な臆病者。

 少しはできると買っていた部分もあったが、これ以上は時間の無駄か。

 途端に露木に対する興味が失せ、話を中断しようとした時だった。

「……黙れ」

 そう言われ、確かにおれは口をつぐんだ。

 今のが幻聴じゃなければ、奴は確かにこう言った。このおれに向かって『黙れ』と。

 そして、わかった。

 こいつは恐怖におびえていたのではなく、怒りに打ち震えていたのだと。

 おれは嘆息を漏らす。

「風祭を愚弄するのはやめろ……」

 小さな声での反論は、しかし、込み上げる怒りを押し殺しての激情を感じさせるものだった。

「あいつは……風祭は、貴様たちのような卑怯者とは違う……」

「ほう、お前はあの男を信頼しているようだな」

 露木がようやく挑発に乗ったのを見て、おれはほくそ笑む。

「当たり前だ……、あいつは、俺の、俺たちの……」

 そこまで言って、再び、口を閉ざす。

「どうした? あの男はお前のなんだ?」

 問うが、返答はない。

「まさか、仲間などと言うつもりではないだろうな?」

 ピクリと奴の背が跳ねる。この反応で、おれの指摘が図星だというのはすぐにわかった。

「ふふ、だとすると、なかなかおもしろい冗談だな?」

 あえて神経を逆撫でするように言ってやると、直情型の露木はすぐに乗って来た。

「貴様に……風祭の……俺たちの何がわかる?!」

「わかるさ。少なくとも、露木、お前よりは、ずっと」

「なんだと……?」

「露木、お前は知らないだろうがな、あの男――風祭周平は、ずっとお前たちを騙していたのだぞ?」

「…………」

「反論しないところを見ると、お前にも心当たりがあるんじゃないのか?」

 お前たちの交友関係など事前に調査済みだ。

 露木は疑っている。あまり多くを語ろうとしない風祭周平の素性を、その人格性を。

「お前は心から風祭周平を、いや、他人を信用したことがない。それが証拠に、お前は最初、孤児院が占拠されたことを風祭周平に伝えることを渋った。そうだろう?」

「……………………」

 ――堕ちた。

 おれは確信した。

「露木、おれはお前を買っている」

 そして、優しく言ってやった。

「おれにはとても理解できない。お前のような切れ者が、なぜ、いつまでも孤児院の維持や子供たちの保護に執着するのか」

「……そりゃ、わからないだろうさ。貴様たちのような卑劣な行いをする連中には」

「卑劣、卑劣か」

 くくく、と低く笑う。

「何がおかしい?」

「いや、なに、無知というのはこれほどまでに恐ろしいのかと思っただけだ」

「無知だと?」

「そうだ、お前は無知だ。大事なことが何もわかっていない」

「なんだと……」

「風祭周平の本当の正体を知っているか?」

「あいつの……正体?」

 案の定、食いついてきた。

 にやりとほくそ笑む。

「ならば教えてやろう。風祭周平は、国から派遣された運輸省の人間……新国際空港開発計画に加担する人物だ」

 束の間の静寂。

 奴が息を飲むのがわかった。

「……でたらめを抜かすな」

 絶え絶えに言う。奴が動揺しているのは確実だった。

「でたらめなんかではない。よく考えてみろ。どうして県外の学生が、何度も田舎の孤児院に足を運ぶ必要がある? 風祭周平のような理知的な人物の行動に裏がないはずがない。それが証拠に、あの男が国家の犬だからこそ、土地収用の対象である孤児院周辺を執拗に嗅ぎ回っていたのだ」

 ここぞとばかりに一気に畳み掛ける。

「明星晃介は知っているな?」

 沈黙が返って来るが、それは同意と同義だった。

「お前も知っての通り、風祭周平は明星晃介とも繋がりがあった。なぜだかわかるか?」

 返答を待たずして続ける。

「あの二人は、裏で結託していた。互いに共謀し、尾前町の土地を買収しようと行動していた。……お前も、じつは薄々勘付いていたのではないか?」

 さあ、吐け。

 俺は最初から風祭周平など信用していなかったと。

 それはつまり、信仰心の敗北。神を信じているお前にとっては最大級の屈辱。

 露木銀治郎というひとりの人間が抱える矛盾。おれはそこを突く。

「綺麗事や理想論を語るだけでは、誰も救えない。だからお前は、あの少年を助けられなかった」

 我が計画のいしずえとなった十兵衛――露木にとってはかけがえのない友――を引き合いに出されては、さすがに冷静ではいられないのか、ガタリと椅子が動く音がした。

「せっかくだから教えてやろう。この孤児院と教会堂に隠された秘密を」

 これから暴露する事柄に対する露木の反応を思うと、笑いが止まらなかった。

「あの少年……確か、十兵衛と言ったか。あの子が、どうして忽然とお前たちの前から姿を消したか……」

 今頃、露木は、胸の内から込み上がる無力感と屈辱に思い切り歯噛みしているに違いない。

 非常に残念だ。自分の素性を知られないようにするためとはいえ、奴の表情が見れないのが。

「この孤児院では、有志からの寄付などによる金銭の供給が滞る度にある金策を講じていた。通常、約束されるべき人権を無視した、非常に愚劣な手段だ。孤児院と教会堂の人間は、自らの沽券こけんのためにその事実を隠蔽いんぺいし、今までひた隠しにしてきた。露木、お前も例外ではない。残酷且つ悪辣なことに、周囲の大人たちは、一番重要な事実を告げず、お前を散々扱き使ってきた。卑劣にも他人の良心に付け込んだというわけだ。さて、そんな邪悪な本性を持つ彼らが、純粋無垢な子供たち相手に一体何をしてきたか。突然の失踪に、謎の遺言状。そして、子供の不在に対し、知らぬ存ぜぬを押し通す関係者。……皆まで言わずとも、わかるな?」

 露木の肩がプルプルと震える。無理もない。自分が命を懸けて守ってきた大事なもの、その化けの皮がはがされようとしているのだ。奴の心に生じた虚しさや悲しみ、怒りという感情の類はして知るべしだろう。

「お前も覚えているはずだ。忘れたとは言わせない。かつて、似たような失踪事件が起きていたことを……」

 思い出せ。

 そして、驚愕しろ。

 自分もまた、気付かぬうちに奴らの犯罪に加担していたという純然たる事実に。

「――『天狗攫い』。彼らは秘密裏に行っていた人身売買を正当化するため、尾前町に古来より伝わる伝承に罪をなすりつけていた。お前にも思い当たる節があるはずだ。どうだ、違うか? 違わないよな? ……そうだろうとも。それはお前が一番よくわかっているはずだ……。ふふ、驚きのあまり声も出ないか? だが、これは紛れもない真実だ。暁光会の連中も、人身売買に一枚噛んでいる。孤児院の者は、一方的に被害者面していたわけだ。これこそまさに卑劣の極みと言わざるを得ない。弱者のふりして利権を得ようとする人間ほど、性質の悪いものはないからな」

 露木は何も言わない。這い寄る絶望と憎悪の波を無言で耐えている。

 だが、おれにはわかっていた。こいつを守る防波堤は、すでに粉微塵に崩れ落ちていることを。

「お前は賢い。だからこそ、内心、こう思っているはずだ。このまま意固地になって現状維持に固執したところで埒が明かないと。違うか?」

 違うはずがない。

「お前も知っての通り、いずれ孤児院はなくなる。教会堂も同様に、無惨に取り壊される。お前が後生大事にしてきた両施設は跡形もなく消え去る、忌まわしい記憶や輝かしい思い出と共に。ゆえに、お前は迷っている。今後、自分がどのように行動をすればいいのか、そもそも何が一番正しいのか、今さらになって思い悩んでいる」

 さあ、頷け。同意しろ。

 おれはお前の悩みなど百も承知だ……。

 洗脳とも言うべき説得に、おれは確かな手応えを感じていた。

 もう少しで陥落する。

 今が好機だ。逃しはしない。

 露木……お前は……。

「――おれの仲間になれ」

「なに……?」

 今の今まで何を言っても無反応だった露木だが、ここに来て返答する。それはまさに、奴の行動基準である善悪の天秤てんびんがおれの方に傾いた瞬間だった。

「そうすれば、お前の拘束を解いてやる。孤児院の者も同様に、我々の支配下から解放してやろう。どうだ? 悪い取引ではあるまい?」

「一体、お前たちは……」

 この異常な状況下でおれたちの思想に感化されているのか、徐々になびき始めている。

 これもまた、おれの狙い通り。

「我々は、新国際空港開発計画に断固として反対している。今回の孤児院占拠も、抗議活動の一環だ。国に魂を明け渡した愚かな院長に、自らの罪を思い知らせるためにな」

 事実、おれは『亜細亜八月同盟AAA』に匿名で属している。

「今、我々のリーダーが直々に説得を始めている頃だろう。このまま孤児院の土地を予定通り売却する予定なら、何が起こるかわからないと」

「…………」

「なあ、露木よ。力がないのは哀れなことだ。あえて事を忍ぶにしろ、事を行うにせよ。そうだろう?」

「…………」

「お前のその類稀な頭脳と、胸に秘めた熱い情熱……もっと別のことに生かすべきだ」

 おれはもうじき組織を抜ける。後腐れなく円滑に脱退するためにも、後継者が必要だ。

 すでにひとりは頭数に入っているが、なに、弾は多いに越したことはない。

「露木、

 奴にとって最も忌むべき事実のひとつを突き付ける。

「かつて、邦訳ほうやくの聖書には、悪魔と訳される箇所が『天狗』と訳してあった。人を欺き、試す存在。そう、天狗だ。まさに今のお前には適役ではないか。仏教における天狗というのは、一説によれば、法道にいながらその道を信じることができず、かといって悪にもなり切れない、破戒僧はかいそうみたいなもの。まさしく日和見主義者のお前らしい。神に対して絶大な信頼を置いているように見せかけてはいるが、その実、お前は何ひとつとして信用していない。自らの心を砕いてまで他人を信じ抜くことができない器の小ささ。お前は弱い。臆病者だ。自らの矮小わいしょうさを知りたければ、己と明星兄弟を比べてみるがいい。兄の方は愚直なまでに神と、その神が愛した人間を愛している。まさに絵に描いたような信徒だ。反対に弟の方は神を嫌悪し、悪徳を崇拝している。だが、信奉する対象が対極的だというだけで、根底は一緒だ。。ただ、彼らの行いを遠巻きに眺めやるだけ。お前はもはや地に落ちたリンゴ。かつて抱いていた敬虔けいけんなる信仰心の残りかすが僅かばかりに付着しているに過ぎない。哀れな男だ。もはや搾り尽くされた善行の残滓ざんしを後生大事に舐め取っているとは」

 徹底的に説き伏せる。

「お前は冷たくもなく、熱くもない。要するに生ぬるいのだ。ダンテの『神曲』によれば、生前、善い行いも悪い行いもしなかった人間は、地獄の入り口にてハチアブの群れに襲われ続けるという。お前も所詮はその類のろくでなしだ。少なくとも、今のお前には、かつての輝かしさの欠片もない」

 ここまで一方的になじっても、露木は屈辱に身を震わせるだけ。

 もはや、奴には、反論する力さえも残っていないように思えた。

 弱り切った獲物にとどめを刺すべく、ここぞとばかりに畳み掛ける。

「――地を這う獣よ、空を見上げよ。無限に広がる宇宙を見据えよ。めくるめく時間の流れを感じよ。お前はその只中にひとりで放り出されている。あたかも寝てる間に無人島に連れられ、孤独のうちに取り残されたように。だが、自らの無力さに失望する必要はない。確かにお前は醜いうじ虫。いずれハエになるべき邪悪な存在。だが、お前は、人間だ。獣であって、獣でない、人間。どこにも属さない、何かである、何か。そして、お前は、。複雑に入り組んだ迷宮に惑わされるな。視点を変え、イカロスのように羽根を広げろ。天高く飛び立つのだ。お前にはそれだけの力がある。自由な意志がある。窮屈な檻の中に閉じ込められ、鎖に縛り付けられることはないのだ」

 まさに魔王サタンのように。

「世の中を知れ。善悪の果実に手を伸べるのだ。こんな箱庭でくすぶるほど、お前はまだ腐り切っていない。知恵を手にするのだ。権力に抗え。弱者を踏みつぶす偽りの神に一矢報いよ。生命の神秘に精通しているお前なら、世界の真理に肉迫できる。お前は天使にも悪魔にも――本当の意味での神にだってなれる。それこそ、永遠に生きるかもしれない」

 創世記の記述を引用し、言葉巧みに誘惑する。

「我々が手を貸そう。失ってしまった大切な物を取り戻すためだ。遠慮はいらない」

 さあ、思い知れ。

 お前の退路は断たれている。

 もう、おれに手を貸すしか道は残されていない。

「……その代わり、風祭周平、奴を――」

 その時だった。

 何やら、向こう側が騒がしい。

『煙だ!』とか、『水を持ってこい!』などの怒号が廊下の向こうで飛び交っている。

 確か、あの方角は……。

 おれは口元を持ち上げる。

 奴め……、なかなかしぶといな。

 だが、そうでなくては。

「返事を聞こう。イエスかノーか」

 あまり時間はない。

「さあ、どっちだ」

「お、俺は……」

 果たして、露木の返答は――。

 現在時刻は9時58分。

 ――ギリギリ、間に合ったか。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「――うおおおおおぉおおおお!!!」

 おれは絶叫しながら廊下を駆け抜ける。

 どうにか倉庫から抜け出したおれは、脇目も振らず、一目散にエントランスを目指していた。

 後ろは振り返らない。一時も足を緩めてはいけない。

 さすがのヤクザといえども、このように意表を突かれては咄嗟に動けないのか、しゃにむに突っ込むおれを呆然と見送る。

 しかし、一拍子遅れて後方から怒号が届くので、奴らが追ってきているのは確実だ。

 捕まったら只じゃ済まない。下手したら殺される。

 だから、死ぬ気で走れ! 絶対に足を休めるな!!

 酸っぱいものが喉の奥から込み上がる。息が上がり、視界がぶれる。

 いくら白兵戦の訓練を積んでいるとはいえ、ヤクザとの直接対決は避けたい。

「あああああああああああああ!!」

 廊下に突っ立つデカブツどもを声で威嚇し、なりふり構わず駆け抜ける。

 ――『待たんかいコラ!!』

 ――『追え! 逃がすな!』

 耳をかすめる怒声に、一瞬、足が竦みそうになるが、勇気を奮い立たせて床を蹴る。

(……あ、あれは……!)

 やがて、幅の狭い廊下と違った開けた空間が視界に飛び込む。

 間違いない! あそこがエントランスだ!!

 おれは速度を維持し続け、大切な友のいる場所へと滑り込んだ。

「露木!」

 正面玄関から見て左の壁側。椅子にへたり込む露木の姿があった。

 ガックリと項垂うなだれる奴は、随分と憔悴しょうすいしきっているように見えた。

「おい、露木! 大丈夫か!? しっかりしろ!!」

 一目散に駆け寄り、声を掛ける。

「……ああ」

 虚ろな目でおれを見上げる。

「……なんとか、生きてるぜ」

 にやっと小さく笑うの確認して、おれは胸を撫で下ろした。

 顔色は悪いが、命に別状はなさそうだ。

 ……どうにか、間に合ったようだな。

 しかし……。

 おれは露木の姿に違和感を覚える。

 奴の話では、露木は拘束されているとのことだったが……。

 今の露木は、普通に椅子に座っているだけ。縄でがんじがらめにされていたりとか、そんなことはない。

 なんだか妙に気になるが、今はちょっと、というか、かなり、それどころじゃなかった。

 周囲に目をやる。

 いかにもな3人のヤクザが、おれを睨み付けながら取り囲んでいた。

「よお、にーちゃん。随分、派手に暴れ回ってくれたじゃねえか」

 真ん中にいる極道が首をこきこき鳴らしながらにじり寄る。

 腹巻にシャツ姿のラフな格好。

 しかし、腕や背中に彫られた厳つい龍さんが顔を覗かせ、無言の圧をかけてくる。

 手には短刀ドスが握られ、今にも切りかからんと刀身が鈍く光を反射する。

「こりゃ、少々、痛い目に遭ってもらわんとな」

「へへ、そうだな……」

 腕っぷしに自慢のありそうな周りの二人も舌なめずりしておれを品定めする。

 おれと露木は壁際に追い込まれている。

 絶体絶命の危機――。

 酸素の供給が足りなくて朦朧とする脳を、意識を、今この時とばかりに酷使する。

「……おい、露木、ひとつ、聞いてもいいか」

 声を潜めて尋ねる。

「……なんだ?」

「……他の孤児や職員は、どこにいる?」

「……おそらく、多目的室に全員集められているはずだ」

「……天宮も、そこにいるのか?」

「……わからん。そのはずだと願いたいが……」

「……そうか」

 ならば……。

「最後にひとつだけ、いいか?」

「……今度は何だ?」

「……まだ、全速力で走れるほどの体力は残っているか?」

「……多少は、な」

「それを聞いて安心したぜ」

 おれは目だけで時刻を確認する。

 現在時刻――午後10時ちょうど!

 さあ、今だ――!


 ――ポッポー、ポッポー、ポッポー


 午後10時を知らせる鳩時計の時報。

 間の抜けた効果音に、この場の緊張感が抜けかける。

 だが、これからが本番だ――!

「露木、耳、押さえてろよ!」

「なに……?!」

「いいから、ほら!」

「……っち、なんだってんだ……!」

 さあ、来るぞ――!!


 ――ジリリリリリリリリ!!


 おれと露木が両耳を押さえると同時に、けたたましい音量の火災報知器のベルが鳴り響く!

 予想だにしない騒音に意表を突かれた極道どもは、一斉に辺りを見回す。

「な、なんだ?!」

「火事か……?!」

「そういや、さっき、煙がどうとか……!」

 ヤクザの足並みが乱れ、隊列に隙が生じる。

 極めつけは遠くから聞こえる『火事だー!!』との叫び声。

「行くぞ、露木!!」

「ああ!」

 千載一遇せんざいいちぐう! この絶好の機会を見逃すはずがない!

 痛む脇腹の状態を無視し、思い切り床を蹴る!

「うらあああああああああ!!」

 ヤクザの脇を通り抜け、脱兎だっとのごとく駆け抜ける!

「あ、てめえ! 待ちやがれ!」

 我に返ったヤクザが叫ぶが、もう遅い。

「露木! お前は多目的室に向かえ!」

 走りながら言う。

「風祭、お前は?!」

「おれは、院長室に向かう!」

「なに?! どうしてだ!?」

「やり残したことがあるんだよ!!」

 そう、まだ、天宮の姿がない。

 おそらく、彼女は――。

「とにかく、ここからは別行動だ! わかったな?!」

 一方的に断言する。

「風祭、お前は、一体……」

 やはり向けられる疑いの眼差し。

 おれは迷わずこう言った。

「――約束を、果たしに来たんだよ」

「なに――?」

「ただ、それだけだ!」

 おれと露木は多目的室の前で別れる。

「さあ、どうした鉄砲玉ども! 目的の相手はこっちだぜ!」

 追っ手の気を露木の方から逸らさせるため、おれが身代わりとなる。

 露木は頭が切れる男だ。

 騒ぎが収まるまで、あの部屋で大人しく籠城ろうじょうするはずだ……。

(……借りは返したぜ、露木)

 5年前に交わした約束。素性も立場もまるで変わってしまったおれが、かつて守れなかった誓いを果たす。

 今度こそ……、おれは……。

 鏡花ちゃんを……。

 この手で……。

「……っ」

 感傷に浸っている場合ではないのはわかっているが、胸の奥から熱いものが込み上げる。

(すべては、この時のために、か……)

 おれは、倉庫からここまでの道のりを思い返す。


 ――あの時、おれは高井戸の裏切りによって倉庫に閉じ込められた。

 ついでに、明星の野郎も事切れる寸前にまで追い詰められていた。

 だが、そんなことで挫けている場合じゃない。

 おれは屋敷から持参したマッチと、自分の身体をまさぐって見つけた、いつぞやのタバコ――南条のおっさんから手渡された一本――を取り出し、そのタバコに火をつけた。

 もうもうと立ち込める煙。

 その煙を、まずは高井戸のいる扉の隙間から漏らす。

「火事だー!!」――おれは思いっきり叫んだ。

「えっ?!」――異変を察知した高井戸は、すぐさま鍵を開錠し、扉を開けて飛び込んできた。

 目を丸くして現れたそいつの首根っこを掴む。

「おい、高井戸」

 思い切り睨みを利かせる。

「す、すみません! すみません!」

 必死に謝る高井戸。おれはそれを無視してタバコの火を奴に向ける。

「このまま焼き入れられたくなかったら、ちょいとおれに手を貸して貰おうか」

「て、手を貸すって……」

「返事はどうした?!」

「は、はいっ!!」

「よろしい」

 元気の良い返答に満足したおれは高井戸を解放してやり、作戦の段取りを説明する。

 途中、奴は、死にかけの明星の姿を見て失神しかけたが、それはまた別の話。

「……というわけだ。わかったか?」

「は、はい……、えっと、つまり、そのんですね?」

「ああ、そうだ。さっき、おれがやった時と同じようにな」

「でも、それだったら、最初から先輩がそうしていればよかったのでは……?」

「馬鹿野郎、今言ったばっかりじゃねーか。お前にはおれに協力してもらうって」

「え、それって……」

「おれは今から露木たちを助けに向かう」

「え? そんな、無茶ですよ! この中にはいっぱい怖い人たちがいるのに……!」

「無茶でも何でもやるんだよ! そうじゃないと、おれがここまで来た意味がないじゃねーか!」

「そ、それは……」

「なあ、高井戸。確かに、お前みたいに、危険な場所からなるべく遠ざかるのも良い。安全を捨てろとは言わない。だがな、いつまでも逃げてばかりじゃ先に進めねーんだよ」

 自分に言い聞かせるように強く断言する。

「せ、先輩……」

「いいか? よく聞けよ。おれは、露木たちを助けるため、奴らがいるところまで突っ切っていく。お前は、おれが指示した通りに動け」

「……わ、わかりました」

「よし、ようやく人間らしい顔付きになったな」

 バシッと背中を叩いてやる。

「先輩……、結構、痛かったです……」

「景気づけだよ、景気づけ! ……ほら、いくぞ!」

 話がまとまったところで、早速、作戦を決行する。

 今も休みなく灰色の煙を吐き出すタバコを、上手い具合に扉の隙間に差し込む。

 部屋の外に流れて行くタバコの煙……。

「か、火事だー!!」

 そして、耳をつんざく勢いで高井戸が叫ぶ。

「さっきからなんだ、騒々しいな……!」

 扉の向こうから男の声。

「ん……? ……なんだ?! こりゃ煙じゃねえか?! ってことは、火事か!?」

 そして、ガチャガチャと鍵の開く音。

「おい、どうした?!」

 ガチャリと勢いよく開け放たれる扉。

 扉の向こうから覗く廊下の光と、大きな人影――。

 おれは、白いスーツを着た巨体の背後から強烈な一撃をお見舞いする――!

「ぐぅっ――!」

 頸動脈けいどうみゃくへの鋭い手刀。

 ニワトリが屠殺とさつされる際の断末魔のような呻き声を上げて、ガタイの良いパンチパーマのヤクザはくずおれた。

 ――そう、思われた。

「舐めてんじゃねえぞ……、このクソガキ……」

 首を押さえながらゆらりと立ち上がる。

 相手は幾戦もの修羅場をくぐり抜けてきたであろう暁光会の構成員。やはり、そう簡単には屈してくれない。

 廊下から漏れた電灯の明かりに照らされて光る獰猛な瞳の色が、不気味に鈍く輝いていた。

「殺してやる……」

 白いスーツのヤクザは懐から拳銃をおもむろに取り出すと、おれの眉間に照準を合わせた。

「死ね、クソガキ」

 眉毛のない、般若のような恐ろしい顔の上部には、ぶつぶつと血管が浮き出ている。

 ヤクザの言う通り、おれは死を覚悟した。

 ギュッと目をつむる。

 視界は闇に包まれる。

 死後の世界というのも、やはり、こんなふうに虚無が広がっているのだろうか――まるで他人事のように、漠然と考える。

「――ぐあっ!?」

 耳に飛び込む短い悲鳴は、しかし、おれの口から出たものではなかった。

 いつの間に正気を取り戻したのか。

 扉のそばで気絶していたはずの明星が、ヤクザの足を掴み、転倒させたのだ。

 ヤクザの手から投げ出された拳銃が、カラカラと音を立てて床に転がる。

「行けよ風祭……!」

 乾いた叫び。

「何をぼうっとしてやがる……、オレを……、てめえをこんな目に遭わせた連中に、一泡吹かせてやれや……!!」

「……明星……」

「っち、小僧、放しやがれ……!!」

 ヤクザから容赦ない肘打ちをくらう明星。

 だが、彼はスッポンのようにヤクザの両足を掴んで放さない。

「くっく……、効かねえな……。オレを殺すにはよお……、鉛玉の一発や二発撃ち込まねえとなあ……」

「くそっ、こいつ、化け物か……!」

 何度、顔面を殴打されようが、一向に笑みを絶やさない明星の狂気的な姿に、ヤクザは顔面蒼白になっていた。

 おれの足下には一丁の拳銃。

 普段の生活では絶対にお目に掛かることのできない物体に、おれの視線は釘付けになった。

(……護身用にはうってつけか……)

 あまり物騒な物は携帯したくないが、やむを得ない。

 戦利品とばかりに拳銃を頂戴する。

「悪い、明星……! 恩に着るぜ……!」

 我が身を顧みずにヤクザを足止めする明星の姿を前に、呂久郎が言うような良心とやらが、こいつにも僅かばかり残されているのかと、そんな甘い考えが頭をよぎる。

 ――さあ、あまりうかうかしていられない。

「人が集まって来る前に、さっさとここを出るぞ!」

「え、あ、ま、待ってください!!」

 呆然とする高井戸を急き立て、廊下に躍り出る。

「高井戸! お前は火災報知器の近くで隠れてろ!」

 廊下の隅にある赤色の機器を指差す。

「は、はい! わかりました!」

「いいか、10時になったら火災報知器のボタンを押して、もう一度こう言え! 

『大変だ! 火事だー!』ってな! 頼んだぞ!」

 おれは床を蹴り、猛然と突っ込んでいく――。


「……幸い、首尾よく運んだが……」

 露木と別れ、辺りを彷徨う。

 天宮はどこにいる?

 息を切らし、視線を巡らせながら、思う。

 国家の犬に成り下がったおれを信じてくれた少女。かつてヒトシが存在していたことさえも覚えていてくれた。

 彼女にも借りがある。

 だから、助けなければ!

 万感の思いが募るが、同時に、妙な冷静さが不意に顔を覗かせる。

 しかし、どうやって……? どうやって、彼女を救う?

 孤児院は完全に包囲されている。内部に至っては、十人を軽く超える数のヤクザどもが束になって襲い掛かってくる魔窟と化している。

(とにかく、今回の首謀者に直接話を付けないことにはどうにもならねーか)

 おれは電話の主を思い返す。

 奴は言った。『お友達を助けたかったら、今すぐに孤児院まで来ることだ』と。

 おれが約束通り孤児院まで辿り着けたことが奴の耳に入れば、他の人間も解放するはずだ……。

 あとは、どうにかして、そいつのもとに辿り着くかだが……。

 考えはある。

 組織で一番偉い人物ってのは、最も良い部屋に居たがるものだ。

 だからおれは院長室に向かっている。

 それに、孤児院の土地を木田組に売却したのは5年前、院長が決定したことだ。おれはそう記憶している。

 ならば、孤児院を占拠した首謀者は、当然、院長に話を付けるために部屋を訪れているはずだ。

 ちらりと背後を見やる。

 痩せ型の背の高い男が、猛然とおれに迫ってくるのが目に入った。

「っち!!」

 おれは『院長室』の表札が下がったドアのノブを力任せに引っ張ると、そのままの勢いで部屋の中になだれ込んだ。

「はあっ、はあっ……」

 閉め切ったドアに身体を押し付け、追っ手を封じる。

 そして内側から鍵を閉め、荒く息をつく。

「……ふう、ふう……」

 これで、ひとまずは……。

「おやおや、敵を目前にしてひと息入れる余裕があるとは、なかなか見上げた度胸だな」

 高圧的な声を耳に入れ、慌てて背筋を正す。

 乱れた息を整える暇もない。

 おれの立つ入口の対角線上。部屋の中央に陣取る革張りのソファーの向こう。格式高い木製の机の奥。

 そこに、奴は立っていた。

「……!」

 天宮もいた。窓際に立つ、背の高い男の左側、手足を縛られ、身動きが取れない状態の中、涙目でおれを見詰める。

 よく見れば、院長も同じように拘束されている。意識を失っているのか、ガックリと項垂れているのが気になった。

 そして、二人をかばいでもしたのか、職員と思しき男性が、血だらけでうつ伏せとなって床に伏している。

 咄嗟に臨戦態勢を取る。

 直後、ドアが蹴破られた。

 ずかずかと、憤怒の表情をした数人の大男が突入してくる。

 だが、目の前で悠然と仁王立ちする、組織のリーダー格と思われる男が、彼らの動きを手で制する。

「待て、彼は大事な客人だ」

 感情の起伏を感じさせない、冷たい声色。

「余計な手は出さないでもらえるだろうか」

 不本意そうに口を尖らせながらも、ヤクザどもは大人しく引き下がった。

「そうだな……、これから大事な話を彼と行う。あなた達には、一旦、退出願いたい」

 男の言うことに一切反論することなく、ぞろぞろと部屋を出る。

 バタンと扉が閉まる音が、静寂の漂う室内に重く響いた。

 こいつは……、この男は、一体……。

 清潔感のあるワイシャツ姿の若い男性。痩せ型で、年齢は20代後半から30代前半と見受けられる。

 切れ長の目には鋭い光が宿り、目に映るものを射竦めるようだ。

 整った鼻筋の下にある口元は不気味につり上がり、その残虐性を暗に物語る。

「久しぶりだな、風祭周平」

 男は言った。

 演技調の作られた声には、覚えがあった。

「あの時以来だな? 不敬にもお前がイイヅナ様の秘密を暴こうと蔵に忍び込もうとした挙句、無様に囚われの身となった哀れな子羊よ」

 思い出した。

 おれを殺すと脅迫し、あまつさえ中島氏を殺害した――少なくとも、その容疑が掛けられている――あの冷徹な声の主。

「まさか、忘れたとは言わせないぞ? 私の警告を無視し、次にイイヅナ様に近付くような無礼な真似を働いた時、果たしてお前がどうなるのか――」

 おれは答えない。

 相手のペースに乗せられる前に、男がどのような人物か、また、武器を所持しているのか、所持しているとしたらどのような種類のものなのかを探ろうとした。

 その時だった。

「お前は、今、こう考えている。私が一体どういう人間なのか、危険性はいかほどか、武器の有無についてはどうなのか。――違うか?」

 心中をズバリと言い当てられ、背筋が凍る。

「そう驚くことはないだろう? こんなことは初歩的な推理だ。深く考えるまでもない」

 それもそうだ――おれは奴に言われてハッとした。

 これはいわゆるバーナム効果だ。誰にとっても当たり前のことを、さも個々人にしか当てはまらないように言い方を工夫して表現しているに過ぎない。

 だが、あたかもおれの心を読んだかのような口ぶりは、奴に対する恐ろしい印象を植え付けるのに効果覿面こうかてきめんだった。

 ゆえに、奴は余裕たっぷりの薄笑いを口元に携える。おれがこの場の支配者だとでも言いたげに。

 悔しいが、それは確かに真実だった。

 しばらく無言で見合っていたが、詮索は飽き飽きだとばかりに男は肩をすくめる。

「安心しろ、私はそこらの野獣とは違って紳士的だ。無意味に人質を傷付けたりはしない。もっとも、お前が下手な考えを起こさなければの話だが」

 そして、不敵に笑う。

(まさか、こいつは……)

 目の前に立ちはだかる男の威圧感に気圧けおされ、後ずさる。

 臆病風に吹かれて身体が本能的な拒絶反応を示す反面、頭の中では、残された理性が目まぐるしい思考回路を展開していた。

 おれはずっと考えていた。今回の孤児院占拠を企てた人間の、その人物像を。

 これが『亜細亜八月同盟AAA』の犯行であることは間違いない。今日という日付を始め、政府宛てに送られた脅迫状の内容とことごとく一致するからだ。

 父は以前、こう言った。脅迫状に記された字句に、尾前町の中でも限られた人物にしか知りえない神の存在が含まれていると。

 つまり、必然的に、犯人は尾前町の人間に限られる。

 では、犯人はどうして7月7日という日にちを選んだのか?

 知能犯というのは、自分と強い結びつきのある数字に特別性を持たせると聞く。

 予感があった。

 神と人と町との因縁を知り、国に恨みを抱き、尚且つ、かつて7月7日に何が起こったのかを知る人物……。

 自ずと選択肢は限られる。

 そして、おれが屋敷を出る前に確認した資料に記載された、とある人物の情報が、閃光のような鮮やかさをもって蘇る。

「なるほど、あなただったのか」

 目の前の人物に向けて、おれは言う。

「確かに、そう考えればすべての辻褄が合う」

 先に挙げた条件をすべてクリアーする人間。

 挑戦状を叩きつけるように目力を込めて、そいつを見据える。

 今夜の孤児院占拠に連なる暁光会への扇動を企てたのは――。

「――蔵屋敷くらやしき武彦たけひこ

 鈴蘭の兄、武彦。彼が目の前に立っていた。顔に、ゾッとするような冷たい笑みを貼り付けて。

 与一のじーさんが電話していた相手は、やはり……。

「ご名答。さすがは運輸省たっての精鋭が務める特派員、限られた情報から特定の人物を割り出すのはお手の物か」

「これまでのことは、全部、あなたがやったのか」

「どこからどこまでを指して言っているのか判断しかねるが、孤児院占拠の件に関しては同意しよう」

 事も無げに言う。

 おれははらわたが煮えくり返る思いだった。

「……違う」

 唇を噛み締める。

「何が、違うと言うんだ?」

「孤児院の占拠だけじゃない……」

「……なに?」

 冷たい光の宿る武彦の目が、僅かに曇る。

 余裕の表情を崩した彼を、おれは思い切り睨み付けた。

「あなたは露木を、明星を、高井戸を、そして、天宮を追い詰め、酷い目に遭わせた! あまつさえ鏡花ちゃんを拉致しただけではなく、これまで多くの人間をたぶらかし、傷付け、破滅に追い込んだ! 違うか?!」

「と、言うと?」

「とぼけるな! 浅間一家の無理心中を始め、あなたと、あなたがくみする組織は、神田製鉄の倒産にも関与している疑いがある! 十兵衛のことだってそうだ、無関係だとは言わせない!!」

「ふふ、そこまで嗅ぎ付けていたか。さすがは特派員。国家の犬らしく、とりわけ嗅覚には優れている」

「…………」

 義憤に駆られた渾身の訴えも、武彦にはまるで効き目がない。

 ……やはり、国を相手取る反政府組織を預かる身だけのことはある。交渉術にも精通しているのか、安っぽい挑発には乗りそうになかった。

「だが、証拠はないんだろう?」

「……」

 さすがの知能犯。おれの懸念を見透かしているかのように、痛いところを突いてくる。

「その反応からすると、図星のようだな?」

 冷酷無比な洞察力に、背筋が凍える思いがした。

「我々が簡単に足がつくような証拠を残す愚鈍な組織であれば、とっくの昔に瓦解がかいしている。そうは考えなかったのか?」

 奴の言う通りだった。おれの見立ては状況証拠からの憶測であり、確固たる物証があるわけじゃない。あるとすれば、浅間樹生と十兵衛の遺した遺書ぐらいの物だが、警察はこの文書の本当の意味を知らない。そもそも、十兵衛が人身売買の標的になっていたことさえ、ごく一部の人間しか知らない。さらに悪いことに、一連の事件の参考人になりえた浅間樹生や、組織に関与していた疑いのある南条のおっさんは――不可抗力とはいえ、おれが手に掛けて――死亡し、明星晃介も口封じのためかヤクザに半殺しにされ、今も死の窮地に瀕している。武彦の足元で地に伏している院長も、無事に五体満足でいるのか怪しいところだった。

 絶対的な決め手に欠けている。武彦を追い詰め、説き伏せられる切り札が……。

「いや……」

 一筋の希望。おれは、闇夜に輝く小さな光を見出す。

「咲江が、いる」

「咲江……?」

 ピクリと武彦の眉が動く。

「浅間咲江には、まだ、息がある。彼女が目を覚ましさえすれば、お前たちが浅間一家を破滅に追い込んだとの証言が取れるはずだ」

「……まさか、ありえないな」

 武彦の顔が僅かに強張る。

「奇跡は起こらない。神は死んだんだよ、風祭周平」

 涼しげな作り笑顔から一転、眉間にしわを寄せた恐ろしい形相に変容し、おれを睥睨へいげいする。

「時間稼ぎをしようとしても無駄なことだ。警察も、我々に手出しできない。もとより、土地のいざこざに端を発しているのだ。少なくともそうであるように見せかけている。要するに民事不介入だよ。それに、我々はこれまでの破壊工作の中で証拠を一切残していない。孤児院占拠についても同様に、後世に続く禍根かこんを残すつもりは毛頭ない。仮に、今回の件が刑事事件として立件されるとしても、せいぜいがヤクザのひとりかふたりが傷害で起訴されるぐらいのものだ。我々の組織自体にさしたる影響はないと言っていい」

「しかし、この土地はまだ木田組に所有権が……」

「それだからこそ、木田組にわざわざ暁光会の人間をやり、会長の意向に逆らった落とし前を付けさせ、我々がこうして、直接、院長と交渉するために孤児院を訪れたのではないか」

「……っち」

 そういうことか……。

 暁光会に罪を被せ、自分たちは警察の捜査が及ばない安全な場所から高みの見物を決め込む。

 どこまでも用意周到。

 対峙する以前からすでにわかっていたことだが、とても、一筋縄ではいかない。

「シューヘイ……、一体、どういうこと……? こいつは、一体、何者なの……? この町で何が起こっているの……? ねえ、シューヘイ……」

 恐怖に引きつった表情の天宮が、震えた声で尋ねる。

「おっと、私語を許した覚えはないぞ?」

「ひっ……」

 短い悲鳴。

 武彦の手には、白熱灯の明かりに反射して鈍く光る一丁の拳銃が握られていた。

「我々は彼の国と頻繁に商談している。武器の輸出入はお手の物さ」

「っく……」

 そうだった。『亜細亜八月同盟AAA』は人身売買を共産圏の国に対して行っている。

 奴らは、その見返りに、日本では手に入りにくい武器などを調達しているということか。

「やめろ、天宮には手を出すな」

「それはお前の態度次第だな、風祭周平」

 高慢にせせら笑う悪魔の表情。人を脅し、傷付けようとする姿勢にためらいは見受けられない。

 都内の大学に通う平凡な学生であるはずの武彦は、もはや完全に危険な極左思想に染まっていた。

「それにしても、武彦さん。随分と重要な情報をおれに漏らしましたね」

 注意をこちらに逸らすため、あえて強気に出る。

「いいんですか? もしもおれが、公安の人間にあなたたちの悪行の数々を垂れ込めば、タダではすみませんよ?」

「構わないさ。お前はここで死ぬか、我々の仲間になるか、その二択しか残されていないのだからな」

「へえ……、それはまた、どうしてです?」

「率直に言おう、風祭周平。我々にとってきみは非常に邪魔な存在だ」

「随分とおれを高く買っているんですね」

「当然だ、なにせお前は特派員。このまま野放しにしておくにはあまりにも危険すぎる」

「それはお互い様ですよ」

 武彦は一向に隙を見せない。おれと不毛な応酬を繰り返している間も、まったく視線を逸らさずにおれの手元を凝視し、かといって余裕の笑みを一切崩さない。

「さあ、種明かしの時間は終わりだ。そろそろこの劇の幕を引くとしよう」

 銃口が天宮の頭部ではなく、おれの眉間に向く。

「選べ、風祭周平。生きて、我々のしもべになるか。それとも、今すぐここで犬死にするか」

「……両方とも断る、と言ったら?」

「必然的に、後者の選択肢になるな」

 明確な殺意を感じさせる、暗い響き。

 奴は本気だ。

 本気で、おれを始末しようとしている。

 だが、おれをすぐに殺さないということは、奴は前者を選ぶということを期待しているわけだ。

 まだ、交渉の余地がある。そこに、付け入る隙がある。

 だったら……。

 おれは手に持った銃を構え、銃口を武彦の方に向ける。

 奴の眉が大きく跳ねる。

「天宮を放せ。孤児院の中にいる人質全員を解放しろ。そうすれば、あなたの要求に応じる」

「シューヘイ……」

「ほう、これは驚いた。お前のような、国の正義のために動いている人間が、脅迫まがいの行いを平然とするとは。あるいは、国の奴隷だからこその強硬策か?」

「黙れ、極悪非道で卑劣な行いを当然のようにしでかすあなたたちには言われたくない。死にたくなければ、今すぐみんなを開放するんだ」

「しかし、私を殺してどうする? 孤児院は完全に暁光会の極道によって包囲されている。奴らは銃声を聞きつけ、真っ先に部屋へとなだれ込んでくるだろう。そうしたらお前はどうする? まさか、映画の主人公のように、屈強な連中を相手取って華麗に勝利するつもりではないだろう?」

「さあな、恰好悪く、窓をぶち破ってでもここから脱出するさ」

「では、孤児院に取り残された子供たちや職員はどうなる? よもや、見捨てるつもりではあるまい?」

「ヤクザも女子供には手出ししないはずだ。彼らにも極道としての矜持がある。あなたみたいに弱者を人質に取るような卑怯な真似はしない」

「ふ、なるほど。無策の末の出たとこ勝負というわけではないのか」

 乾いた笑み。

「惜しい、じつに惜しいぞ風祭周平。お前は只で死なせるのは非常に惜しい逸材だ」

「それはどうも」

「理解できないのは、お前がなぜ政府の犬という道を選んだのか、その点に尽きる」

 キッと睨みを利かせる。

「なぜ、いまだに風祭宗吾に従う? お前にとってあの男は、それほどの価値があるというのか?」

 おれは答えない。

「あるいはもっと別の要因があって、国家に忠誠を誓っていると?」

「……おれにも、よくわからねーよ」

 口元を緩め、自嘲する。

 おれは、もう、戻れない。

 おれは高山ヒトシではなく、風祭周平。今まで自分がしてきたことの責任を取らなければいけない。

 だからこそ、おれは、今夜、ここに来た。

 銃を構え直す。

「武彦さん、あなたの方こそ、鈴蘭を始めとした大事な家族がいながら、どうして平気で人を陥れるようなことができるんです? おれにはその神経が理解できない」

「簡単な話だ、祖父である与一は先祖伝来の土地を国に明け渡した売国奴。あんな老いぼれを家族だと思ったことは一度もない。奴の意向に盲目的に従った我が両親も同罪だ。それに、お前は未だに勘違いしているようだが、すでに鈴蘭は……」

 不自然な空隙くうげき

 バツが悪そうにふと逸らされた視線は、彼が初めて見せた人間らしい一面だった。

 しかし、それは、邪悪に歪められた口元によって塗りつぶされる。

「どうやら、説得は無駄なようだな」

「お互いに、な」

 奴の目の色が変わる。酷薄な表情に明確な殺意が宿る。

「銃の安全装置は外しているか?」

「ご忠告、どうも。あなたの方こそ、銃身が少し下がってきていますよ?」

 互いに牽制し合い、出し抜く機会を窺う。

 息もつかせぬ緊迫した場面。緊張の糸は限界まで張り詰め、わずかな衝撃でも弾け飛びそうだった。

 しかし、それは相手も同じようだ。

「なるほど、このままでは埒が明かないな」

 ふっ、と不敵な笑み。

「ならば、こうしよう」

 おれに向けた銃口を、再度、天宮の頭部に向け直す。

 冷や汗が額を伝って頬へと流れ落ちる。

「おれはお前を殺す代わりに、この女を殺す。これで譲歩してはくれないか?」

「あ、うっ……!」

「貴様ッ……!!」

 カッと目を見開き、敵意をむき出す。

 だが、こんな威嚇が通用する相手ではない。

 武彦は至って平然とした様子で天宮に銃口を突き付ける。

「さあ、答えはふたつにひとつ。我々に協力し、ともに国家転覆計画を実行するか、この女をみすみす見殺しにするか。どっちだ?」

「く……」

 背筋が異様なまでに冷える。口内はとうの昔に乾ききり、鉄の味が広がっていた。

 天宮が、おれの方を見る。すがるような目つき。目蓋はうっすらと赤く腫れ、淡い光を放つ瞳は潤んでいる。

 胸が締め付けられる思いがした。

 そして、おれの心に迷いが生じたことを見透かしでもしたのか、武彦は口元を三日月形につり上げる。

「やはりお前は甘いな、風祭周平。そんなことだからお前は何も守れないのだ」

 余裕に細められた目つきは、軽蔑の視線に変わる。

「そうさ、力がなければ何も救えない。だから、私はあの時、鈴蘭を……」

 ふと見せた、彼の人間らしい苦悶の表情は、一瞬で憎悪の仮面に覆いつくされる。

「これが最後通告だ、風祭周平。我々に従うか否か。イエスかノーか。5秒間の猶予を与えてやる。5秒だ。制限時間以内に返答がない場合、我々に従わないとみなす。さあ、いくぞ――」

 カウントダウンが始まる。

 おれは迷う。答えが出ない。出るものか。

「5……4……」

 考えがまとまらない。焦りばかりが募る。目の焦点が合わなくなる。

「3……2……」

 それとも、やはり、おれは……。

 風祭宗吾を裏切り、奴らの仲間に……。

「シューヘイ!! あたしのことなんかいいから、こいつを捕まえて!!」

 絶望が思考回路を支配しようとする直前、天宮があらん限りの声で叫ぶ。

 恐怖で声が出なくてもおかしくない状況なのに、彼女は、天宮は、果敢におれへと訴えかける。

「黙れ、お前に発言権はない」

 冷酷な声が、天宮の命がけの発言を遮る。

 それでも、彼女は口を閉ざさなかった。

「あたしは、あんたに、こいつらのような卑怯者の連中の仲間になって欲しくない!」

「馬鹿な女だ。私の話を聞いていなかったのか? こいつは今までお前たちを騙していたのだぞ? あたかも普通の転入生を装いながら、その実、政府の手先として尾前町の土地を取り上げようと卑劣にも画策していたわけだ。当然、そのためにお前たちを利用していた。そうだよな、風祭周平?」

 おれが首を縦に振るよりも早く、天宮が口を挟む。

「そんなこと関係ないわ! シューヘイはこうしてあたしたちを助けに来てくれたもの! そこに過去の行いもへったくれもないわ! だって、シューヘイはシューヘイだもの!」

「天宮……」

 我が身を顧みずおれをかばいたてる彼女の雄姿に、強く胸を打たれる。

 全身全霊を賭した自己犠牲。あの時の彼女と……鏡花ちゃんの姿と重なる。

 身体が張り裂けそうだった。

「っち、今まで大人しくしていたから、つけ上がりやがって……!」

 奴の指が引き金にかけられる。

「やめろ武彦! 殺すならおれを殺せ!! 彼女には何の罪もないはずだ!!」

 無我夢中に叫んだ。

「ダメ!! シューヘイは死んじゃダメよ!! そんなことあたしが許さない!! 絶対に、認めないから!!」

 髪を振り乱して首を左右にぶんぶんと振るう。

「撃ちなさいよ!! あたしを殺してみなさいよ!! そしたらシューヘイがあんたみたいな悪党なんか簡単にやっつけるんだから!!」

 もう、見ていられなかった。

 でも、それでも、目を逸らすわけにはいかない。

 おれは、彼女を守らなければいけない。

 どんな手を使ってでも……!

「揃いも揃って……馬鹿どもが……!!」

 身を挺した天宮の行動が予想外だったか、武彦は苦々しそうに口元を歪める。

 確かに、わからなかった。

 どうして、そこまでの危険を冒してまで、彼女がおれを守ろうとするのか。

 もしも可能性があるとすれば……。

 恐ろしい考えが脳裏に浮かぶ。

 果たして、予想は的中した。

「だって、あたし……あたし……」

 ギュッと唇を噛み、おれを真っ直ぐに見つめる。

「あんたのことが……シューヘイのことが……好きだから……!」

 目の端から流れ出る、大粒の涙。

 彼女の命懸けの告白が、ずしんと、肺腑に重たく響いた。

「天宮、おまえ……」

「しょうがないでしょ……! だって、あんた……似ているんだもの……! ヒトシに……あたしの、初恋の人に……!」

 胸がえぐられる思いだった。

 おれは……、風祭周平と言う男は、お前のその好意を利用し、あまつさえ踏みにじろうとした、最低の人間なのに……。

 それなのに……、それなのに……。

 どうして、こいつは……、こいつらは……っ。

 銃を持つ手がぷるぷると震える。

 今のおれに、天宮を犠牲にすることなど、できるはずがなかった。

「くだらないな……」

 絶望を告げる言葉。

「お寒い三文芝居はようやく終わりか?」

 無機質で冷徹な声が、大きく揺さぶられて地に足がつかなくなった意識を現実に呼び戻す。

「お熱くなっているところ悪いが、私もそろそろ我慢の限界が近くてな。いい加減、白黒つけようじゃないか」

 大きく見開かれた切れ長の目には、殺意だけが宿っていた。

「交渉を円滑に行うためだ、良いことを教えてやろう。――露木銀治郎は知っているな?」

「あんた……! ギンジに何をしたってのよ!!」

「いちいち小うるさい女だ。力ずくで黙らせたとしても、我々は一向に構わないんだがな?」

 言いながら、銃口を頭部に押し付ける。

「やめろ! ……天宮も、これ以上はよすんだ」

「……っ」

 おれの必死な呼びかけにようやく落ち着きを取り戻したか、ややして彼女は小さく頷いた。

「聞き分けのない人質と違って、お前は利口だな」

 称賛とは程遠い皮肉。

「そんなお前に、ひとつ、朗報だ」

「……朗報だと?」

「そうだ。――露木銀治郎は、すでに我々の手に落ちた」

「な……」

 ――今、なんて言った?

 サーッと、全身から血の気が引いていく。

 奴の言葉を理解することを、理性が拒んだ。

「お前の正体を明かしてやったら、我々の仲間になると、簡単に頷いてくれたよ。あの男はなかなか先見の明に優れているようだ。いまだ国家の鎖に縛り付けられるお前と違ってな」

 にべもない宣告を前に、力が抜け落ちそうになる。

 天宮の顔色も、真っ青に染まっていた。

「どうする? それでもお前は国に……風祭宗吾に従い続けるのか?」

 耳元で繰り返される悪魔のいざない。それは抗いがたい誘惑だった。

 もちろん、これがおれたちの動揺を誘うための嘘だという可能性は捨てきれない。

 けれども、奴を……露木を、心から信じきれない自分がいるのも、また、事実だった。

 おれは今まで、露木に恨まれても仕方がないような酷い行いをしてきた。彼が『亜細亜八月同盟AAA』側に付いたと言われても、完全に否定ができない。

 そんな自分が、たまらなく嫌だった。

 もはや、おれに後はない。

 落ちるところまで落ちている。

 進むも地獄、戻るも地獄。

 どうする……。

 どうすればいい……。

 おれは……。

 おれは……何を……信じれば……。


『あたしたちは、仲間でしょ?』


 かつて聞いた天宮の言葉が蘇る。

 仲間……。

 仲間か……。

(おれが、信じるもの……信頼しなければならないもの……)

 それは……。

 おれは、孤児院での露木の挙動を思い出す。

 院長室に向かう別れ際に見せた、あの力強い目つき……。

 もしも……。

 もしも、風祭宗吾なら……。

 ためらいなく、今ここで、引き金を引くだろう。

 国の繁栄のためならば、喜んで国家の礎となる。彼はそういう男だ。

 でも、おれは……。

 足が震え、手にはすでに力がほとんど入らない。

 銃の照準も、激しい手振れによって、とても合いそうになかった。

「どうした特派員!! 顎が下がっているぞ!!」

 おれの迷いを見抜いた武彦が言葉巧みに挑発する。

「視線を逸らすな!! 私の目を見て答えろ!! イエスかノーか、ふたつにひとつだ!!」

 奴の口車には乗らない。

 いや、乗れなかった。

 これ以上……。

 おれは……、大事な人を……失うわけには……!


『風祭くん。あなたは『チェーホフの銃』をご存知ですか?』


 絶体絶命の状況にあって、なぜか、いつぞやの芥川との論議が脳裏をよぎった。

『物語上で登場した小道具としての銃は、実際に登場した以上、必ず使用されなければならない』

 ……チェーホフの銃。何かがそこに存在する以上、絶対に従うしかない法則……。

 おれは、その法則に――。

「……わかった」

 逆らえない。

 逆らえるはずがない。

 無理だ。

 無理なんだ。

 勝てない。

 勝ち目がない。

 ……奴らに、勝てっこない。

 腕を下げる。銃が手から滑り落ちる。カランと、乾いた鉄の音が室内に響く。

 足元に転がる拳銃。ただの鉄塊となったそれの上を、おれはまたぐ。

「……参った、降参だ……」

 それは、5年前と同じ圧倒的な屈辱感。

「……お前に……お前たちに従う……」

「シューヘイ!!」

 天宮の悲鳴が空しく響く。

「ふ、ふふ……、そうか、そうか……」

 引きつった表情の武彦が、こもった笑い声を漏らす。

「まったく、余計な手間をかけさせてくれる。最初から素直に我々の求めに応じればよかったものを……」

 そこまで言って、奴は再び神妙な顔つきに戻る。

「交渉成立だ。抵抗をやめろ。手を首の後ろに回せ」

 おれは奴の言うとおりにする。

「その代わり、ひとつ、頼みがある……」

「返報性の原理か? お前もなかなかしたたかな男だ。その度胸に免じて、聞くだけ聞いてやってもいい」

「露木に、最後に、奴に、会わせてくれ……」

「それはまた、なぜ?」

「……どうしてもだ」

「ふ、いいだろう。それがお前の望みなら」

 おれの敗北を確信し、勝利の美酒に酔いしれる武彦は、その鉄仮面のような顔に愉悦の笑みを貼り付ける。

「……私だ」

 無線で人を呼び出す。

「院長室に、露木銀治郎を連れてきてほしい。……ああ、そうだ。丁重に扱うように」

「シューヘイ……どうして……」

 涙に濡れた、悲嘆の表情。

 胸が、ひどく傷んだ。


「連れてきやした」

 サングラス姿のヤクザが露木を連れてくる。

 一瞬、露木と目が合った。

 ……睨み付けるような視線。

 すべてを敵視する奴の目つきに、この身が竦みそうになるが、おれは、床と、露木を交互に見比べる。

(……頼む)

 藁にもすがる思い。

 おれの……おれの予感が正しければ……。

(気がついてくれ……!)

 露木は、強引に腕を引くヤクザの動きに抵抗するように、その身を硬直させていた。

「おら! さっさと歩けや!」

 なかなか一歩を踏み出さないことに業を煮やしたのか、ヤクザは露木のドンと背中を突き飛ばす。

「ぐっ……」

 ヤクザに強く押された露木は体勢を崩し、あえなく転倒してしまう。

 おれの真後ろで四つん這いとなってうずくまる露木……。

「困りますねえ、あまり手荒な真似をされては」

 ヤクザの不躾な行動を見かねた武彦が、すかさず物申す。

 口調は丁寧だが、語気は強い。

「すみませんねえ、あっしはちょいと不器用なもんで、へへ……」

 目が笑っていない武彦の形相に恐れをなしてか、下っ端と思しきヤクザは平謝りだ。

「まあ、いいでしょう。あなた方はよく働いてくれました。今回の非礼は不問とします」

「そりゃ、願ってもないことで……」

「では、あなたは引き続き孤児院内部の見張りをお願いします」

「了解しやした」

 そう言って頭を下げ、ヤクザはそそくさと退室した。

 ゆらりと立ち上がる露木。

「露木……」

 おれは奴の目を見る。

「…………」

 目線だけで、奴はおれの呼びかけに応じる。

 その時、おれは悟った。

「ふふふ、じつに壮観な眺めだ。我らが組織に新たな精鋭が二人も加わるとは」

 喜びを抑えることができないとばかりに武彦は薄く笑う。

「風祭周平に、露木銀治郎」

 おれたちの名前が呼ばれる。

 こんな状況でも奴の手には銃が握られ、天宮に銃口を向けたまま。

「我々はきみたちを歓迎する。これからは共に国家と戦い、我が同志に忠誠を誓うのだ」

 カルト宗教の教祖よろしく恍惚とした表情で熱っぽく語る。

 一方のおれは、やけに冷静だった。

 当然と言えば当然だ。

 これからしようとしていることを思えば、否が応でも身が引き締まる。

 おそらく、それは露木も同じに違いない。

 だから、おれは勝負に出た。

「武彦さん」

「なんだ?」

「最後に、もうひとつ、いいですか」

「ふむ、質問を許可しよう。何を聞きたい?」

「――残念ですが、今回はおれたちの勝ちですよ」

「なに?」

 露木が武彦に向けて銃を構えるのと、奴の顔が動揺で引きつるのは、ほぼ同時だった。

「露木、貴様っ……!!」

 驚愕に目を見開くが、もう遅い。

 奴は気が付かなかった。先ほど、

 武彦の慢心が招いた、逆転の一手。

 銃口は武彦の方に真っ直ぐ向けられている。

 迷いなく、露木は引き金を引いた。

 耳をつんざく発砲音と、辺りに漂う焦げた臭い。

 銃弾は武彦に当たりこそしなかったが、しかし、威嚇射撃としては充分過ぎた。

 意表を突かれて体勢を崩す武彦目掛けて、おれは猛然と突進する。

 反射的に体が動いたのだろう……、奴の構えた銃口は天宮ではなくおれを向く。

 だが、すでにおれは白兵戦に持ち込める範囲内にいた。

 おれは武彦の右手首を掴み、思い切り捻る。

「うぐっ……!」

 発せられる短い悲鳴。構うことなく、奴の身体を無理やり逆方向に逸らす。

 取りこぼされる拳銃。おれは素早くそれを蹴とばす。

 関節技に持ち込み、全体重を奴の背中にぶつける。

 全身に広がる重たい衝撃。

 勝負は一瞬のうちについた。

 おれは武彦を床の上に組み伏せていた。奴の利き腕を後ろ手に掴み上げ、抵抗できないように思い切り力を込める。

「貴様ら……っ、最初からこれを狙ってやがったのか……っ?!」

 目だけをこちらに向けて睨み付ける武彦が、歯ぎしりしながら絶叫する。

 ぜえぜえと荒い息を吐きながら、おれは直感した。

 おれは、こいつに勝ったのだと。

「俺がお前たちに加担する? 馬鹿も休み休み言え」

 ぺっ、と露木が唾を吐き捨てる。

「風祭は、俺の……俺たちの、大事な仲間だ。そんな奴を、俺が裏切れるわけがねえだろうが」

「っぐ……!」

 この言葉がよほど堪えたのか、武彦はそれきり黙り込む。

 決着。

 まさしく辛勝しんしょうだった。

「露木……」

 おれは奴の横顔を見る。引き締まった精悍な顔つき。

 注がれた視線に気付いたか、奴がこちらに振り向く。

「風祭、俺はようやく、目が覚めたぜ」

 迷いのない目の色。かつて疑いの眼差しでおれを見ていた人間と同一人物とは思えない。

 一方のおれは、賭けだった。初めから露木を信じていた、なんて口が裂けても言えない。

 天宮が、おれを信頼してくれたから……、おれもまた、露木という仲間を信じることができた。

 おれは、結局、打算でしか物事を計れない。

 しかし、それでいい。

 おれは、そういう男だ。

「恩に着るぜ、露木」

 小さく礼を言う。

 おれには、それが精一杯だった。

「……礼を言うのは、俺の方だ」

 ぽつりとこぼす。

「あの時、お前が天宮を助けに行くと言ったから、俺は……」

 続きの言葉は、奴の口から語られることはなかった。

 それでも、おれには、奴が何を言おうとしているのか、わかったような気がした。

 始末が悪そうに頬を掻く露木は、ぎこちない作り笑いを浮かべる。

「そんなことより、あとで、たっぷりと聞かせてもらうぜ。お前が政府から派遣されているだとか、確認しておきたいことが山ほどあるからな」

「それはおれもやまやまだがな」

 ふっ、と息を吐く。

 まだ、すべてが終わったわけじゃない。

 銃声を聞きつけ、数人のヤクザが部屋に乗り込んでくる。

 血走った奴らの目を見ながら、おれは叫んだ。

「見ろ! あんたたちの指導者はこのざまだ!!」

 床に組み伏せられている武彦を目の当たりにしてか、ヤクザたちの間に僅かな動揺が走るのがわかった。

 ここからが正念場だ。

 武彦は『亜細亜八月同盟AAA』の構成員ではあれど、暁光会とはほとんど関係がない。つまり、奴がどうなろうとヤクザどもにはまったく影響がないし、ついでに言えば生死に関して微塵も興味がないだろう。

 しかし、彼らが互いにビジネスパーソンだからこそ、付け入る隙がある。

「いいか? あなたたちの計画は事実上、失敗した。これが何を意味するか、よくわかっているはずだ」

 騒然とするヤクザども。

 この場を指揮する人間がいなくなれば、現場は混乱する。相手が下っ端の集まりなら、なおさらだ。

 おそらく、暁光会の中でも指折りの人間が木田組の方に乗り込み、逆に、いわゆる鉄砲玉とか、用心棒程度の地位の低い若い衆が孤児院占拠計画に招集されていると考えられる。

「そこで、ひとつ、相談がある。おれたちは、あなた方が、本来、望んでいた物、土地の件には関与しない。それは好きにして構わない。その代わり、孤児院の人たちを解放してほしい。これが交換条件だ」

 彼らにとって孤児院占拠は目的それ自体ではなく、目的に至るための手段に過ぎない。要は土地を得るための強硬策というわけだ。

 なら、おれはそこを利用する。

「これは、あなた方自身のためでもある。どうか、この話を飲んでほしい」

 ヤクザはメンツというものを異様に気にする。カチコミの失敗という結果が暁光会上層部に知れたら、彼らも只では済まない。幹部クラスの人間から落とし前を付けさせられるだろう。場合によっては指を詰める以上の制裁もありえる。

 さあ、考えろ。

 自身の身を犠牲にしてまで、孤児院の占拠に固執するか。そんな必要性がどこにあるのか。

 ヤクザもおれの提案を決めかねているのか、何やら揉めている様子だった。

「……この男の言う通りにしてほしい」

 敗北を認めたのか、あるいは死ぬのが惜しくなったか、眼下の武彦がやけに協力的になる。

「我々も、ここで終わるわけにはいかない……。土地さえ手に入れば……、敗北を免れるのだからな……」

 こんな状況にあっても、余裕ぶって口元に笑みを貼り付ける。

 確かに、奴の言う通りかもしれない。奴らの目的はあくまでも孤児院の土地。

 勝負に勝って、試合に負ける。

 だが、おれに言わせれば、土地なんかよりも人命の方が優先だ。いくらおれが政府の手先になろうとも、こればかりは譲れない。

(そうだろう? 父さん……)

 権力の権化である彼を思う。

 おれは、おれの道を貫く。

 いつまでも、あんたの言いなりにはならない。

「はっ、あんた達に次があるわけないだろ?」

 放心状態にある天宮の拘束を解き、次いで、院長の縄も解いている露木が憎々しげに言う。

「てめえらは俺の大事なものを傷付けた。当然、その罪は重い。相応の罰は受けてもらう」

「ふふ。どうかな……」

「なに?」

「お前たちは、ひとつ、重大な勘違いをしている」

「負け惜しみは、てめえの惨めさを助長するだけだぜ?」

「まさか……、事実を述べているまでだ」

「……だったら、なんだっていうんだ?」

「冥途の土産だ、特別に教えてやろう。私は、正確には、

「なんだと……?」

 どういうことだ……?!

「彼にとっては、この私でさえ使い捨ての手駒に過ぎん。……そうさ、彼は……、司令塔ハンドラーは、……」

「なに……?!」

「ぐっ?!」

 短い悲鳴。

 最初、それが露木が発したものだとは気付かなかった。

 彼が倒れる物音で、おれは状況を理解した。

「お、おい、露木……?!」

 慌てて振り返る。

「……?!」

 ば、馬鹿な……。

 目の前の光景を前に、理解が追い付かない。

 そんな、ありえない……。

 まったく予想だにしなかった展開。

 背筋が一気に粟立あわだつ。

 まさか……。

 あの、が、そんな……!?

 愕然とするおれを冷たく見下ろすのは、

 最初、何かの間違いだと思った。それは、何も、その男が、ついさっきまで瀕死と思われる状態で地に伏せていたからではない。

 なぜなら、その男の正体は……。

「私の勝ちだよ、風祭周平」

 武彦が、不気味に囁く。

 頭上の男も、にやりと不敵にほくそ笑む。

 振り上げられた腕には、一丁の拳銃が逆手に握られていた。

 それが、おれの見た最後の光景となった。

「が……っ!」

 おれは後頭部に強烈な衝撃を受け、そのまま床でもんどりうつ。

 暗転する視界。

 天宮の悲鳴が、どこか遠くで聞こえた気がした。

「本当にお前は甘いな、風祭周平」

 電話で聞いた、自信に満ち溢れた声。

 その時、おれは思い知った。

 しかも、その男は……。

「どうした? これで終わりか? せっかくの特派員の肩書が泣くぞ?」

 びりびりと後頭部が痛む。

 急所を殴打されたのか、体がまったく動かない。思考さえも、ままならない。

 もう、成す術はなかった。

「そうか、ゲームは終了か」

 あの男のものと思われる冷たい声が、消えかける意識の上に無慈悲に降り注ぐ。

 くっ、駄目だ……。

 意識が……。

「なかなか愉しめたよ、風祭周平……」

 どうして……。

 どうして、お前が……。

 見知った顔が脳裏にちらつく。

「この勝負、おれの勝ちだ」

 ここで、記憶が途切れた。

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