第二十五話 約束

 日が落ち、辺りはゆっくりと闇に近づいていた。

 ぼくは息を切らしつつも、懸命に自転車をこいでいた。不安定な道に何度も車輪がぐらつき、そのたびに体が上下左右に大きく揺れたけど、なんとか踏ん張って転倒を防いだ。

 こんなところでつまづくわけにはいかない。

 急げ。

 急ぐんだ。

 これからの時間は、持参した懐中電灯と、自転車のライト、それと、山間部にちらほらとうかがえる小さな明かりだけが、徐々に閉ざされる視界を確保する、数少ない頼みの綱となる。

 すでに悲鳴を上げている足にむち打ち、全力でペダルを踏みこぐ。

「くうっ……」

 全身に力を入れ直した途端、刺し貫くような痛みが背中からふくらはぎにかけてビリビリと走り、変な声が出る。

 でも、そんなことは気にしていられない。

(鏡花ちゃん……、鏡花ちゃん……)

 頭の中に浮かぶ彼女の姿。これがぼくの原動力だった。

「はぁっ、はぁっ……」

 もはや気力だけで足を動かしていた。無我夢中だった。なりふり構わず、やみくもに突き進んだ。

 その甲斐あってか、自転車をこぎ始めた当初は遠目に伺えた黒い壁のような目的地が、いよいよ間近に迫りつつあった。

 スパートをかける。今まで以上の力を両足に込めて大天山の到着を目指す。

「……よしっ!」

 ぼくは顔を上げる。尾前町の象徴とも言うべき霊験れいげんあらたかな山が、圧倒的な存在感をまとって目の前にそびえ立っていた。

 祭りの日以外には滅多に訪れる機会のない霊峰は、しかし、今やぼくにとって絶対に辿り着かなくてはならない、旧約聖書で言うところのカナンのような、まさに約束の地だった。

「ようやく……、着いた……」

 肩で息をしながら、全身に飛来する達成感に打ち震える。

 でも、感慨に浸っている場合じゃない。まだ、すべてが終わったわけじゃない。むしろ、これから始まるんだ。

「待ってて、鏡花ちゃん……!」

 自転車を木の陰に置き、登山道を目指す。息や体勢を整える間もなく、そのままの勢いで大人たちのあとを追う。

 腕時計で時刻を確認したけど、儀式まではもう少し時間がある。

 多分だけど、大人たちはお寺の住職さんと儀式の下準備か最終的な打ち合わせをしているはずだ。

(鏡花ちゃんの話が本当なら、今、彼女は……)

 改めて気を引き締める。

 休んでいる暇なんてない。

「……よしっ」

 迷いなく大地を蹴る。

 最後の覚悟を決めたぼくは、いよいよ不気味な沈黙を保つ大天山の裾野すそのから中腹を目指す。

 ただし、お寺に続く参道とは異なる、獣道に近い道筋を伝って山の中を突っ切る。

 ぼくには、ある考えがあった。

 足元にまとわりつく草葉を踏みしめ、視界を覆うつる草を掻きわけて前に進む。

「はあ、はあ……」

 額に流れる汗をぬぐい、緩やかな斜面を登っていく。

 登山用にある程度は整備されているとはいえ、少しでも気を抜けば怪我をしかねない。

 ここでは、今まで以上に慎重にならないといけないだろう。

(でも、急がないと儀式が始まってしまう……)

 足場の悪い登山道では思ったように身動きが取れず、そんな自分の不甲斐なさにやきもきする。

 しかし、焦ってはならない。ほんの少しの油断が、ここでは命取りになる。

(そうだ……、これは、ぼくだけの問題じゃない)

 今回の作戦に乗ってくれた露木くんをはじめ、鏡花ちゃんの安否もかかっている。

(ぼくは、約束したんだ……、彼女を救うと……)

 頭によぎる、彼女と交わした約束。そして、彼女の口から伝えられた儀式の真実。それらがぼくを否が応でも奮い立たせる。

 今年の儀式。今までに行われたものと違う、昔ながらのやり方を踏襲とうしゅうした儀式。それが何を意味するのか。

 鏡花ちゃんから説明されたことを思い出し、身の毛がよだつ。

 つまり、今年に行われる儀式は、史実をなぞらえた、過去に行われたという儀式の内容を忠実に再現したもの。より具体的に言うなら――あまり想像したくはないけど――巫女役の鏡花ちゃんが、のだ。人身御供ひとみごくう――生贄として。

 町に伝わるイイヅナ様の伝承では、好奇心旺盛なキツネに化けたイイヅナ様を疎ましく思った心無い村人が、それをとらえて傷付けてしまい、そんな、ボロボロの状態で横たわるイイヅナ様の姿を見かねたお坊さんが、イイヅナ様を助けて介抱したあと、美しい女性がお坊さんの前に現れて、以後、二人は一緒に仲良く過ごすというものだけど……、本当は、少し内容が異なるらしい。

 町に残る一番古い伝承は、こうだ。イイヅナ様がキツネに化けて村に下りてきて、村人がキツネとなったイイヅナ様にひどいことをするところまでは共通だけど、最大の相違点は、自分が神様だということを知らずにとはいえ、土地の守り神である自らに暴力行為を働くという、まさに恩知らずで不届きな行為を働いたことに怒り狂ったという点だ。イイヅナ様は、己を傷付けた村人のみならず、村全体に対して恐ろしい復讐をもたらそうと企てる。以来、村では不可解な事件が起き始める。村の住人が、次々と消えていくのだ。それも、小さな子供から順番に。この怪現象を(キツネを傷付けた因果関係とは結び付けずとも)イイヅナ様の祟りだと考えた村人たちは恐怖する。そこに、旅の修行僧が現れる。村人たちは、修行僧に向かって必死に頼んだ。どうか、イイヅナ様の怒りを鎮めてくれと。村人の願いを聞き入れた修行僧は、早速、イイヅナ様が住まうとされる大天山に向かう。そして、イイヅナ様に出会い、交渉をする。村人たちは、あなたの行いを前に恐れを抱き、ひどく悲しんでいる。どうか慈悲をかけてほしいと。イイヅナ様は答える。彼らを許してもいいが、それには条件があると。そして、こう続けた。今後、村人が、生き物に対する感謝の念を忘れぬよう、年に一度、生贄を差し出せ。この要求に、修行僧は食い下がる。しかし、それはあまりに酷ではないか。修行僧は懇願するが、それでも、イイヅナ様は譲らない。結局、修行僧は、イイヅナ様の求めに応じるしかないと悟り、これを受け入れる。下山した修行僧は、村人たちに事の顛末を伝える。この知らせを受けた村人たちは絶望し、自らの運命を受け入れる。イイヅナ様の要求通り、年に一度、生贄を捧げることに決めたのだ。修行僧は、イイヅナ様を説得し切れなかったことに責任を感じ、自らを最初の生贄とするべく、単身、大天山に向かう。そんな、自らをかえりみない修行僧の心意気にいたく感心したイイヅナ様は、彼を入定にゅうじょう――つまり、生きたまま仏にする。修行僧は現世にとどまり続け、永遠に生きることとなった。生贄に選ばれた子供をさらう『天狗』として。結局、一番最初に生贄に選ばれたのは、村一番とも言われる聡明な女の子で、その少女は、背中に大きな翼を生やした怪物に連れ去られたと言う。――のちに、『天狗攫い』と呼ばれる怪異の発端が、これである。

 にわかには信じられなかった。最初、鏡花ちゃんからこの伝承を聞いた時、後頭部を思い切り叩かれたような衝撃を受けた。まさに天地がひっくり返ったような気分だった。今までに築き上げられた価値観が全部否定されたんだから、当然だ。ぼくは、イイヅナ様の伝承を気に入っていた。神と人とのきずなが感じられる話だからだ。

 けれども、真実は残酷だった。イイヅナ様はおとぎ話に語られるような、みんなに愛される神様ではなく、むしろ誰からも恐れられる存在だった。だから人々は、神様を信仰していた。嫌われたくないから、ひどい目に遭いたくないから、仕方なく神様を受け入れた。

『神なんて、所詮、自分勝手な利己主義者よ』――鏡花ちゃんは不敵にせせら笑った。

 ぼくは何も言い返せなかった。

 そして、今年度の儀式も、鏡花ちゃんがイイヅナ様に捧げられた人身御供となることによって進行する。旧約聖書のイサクの燔祭ばんさいを思わせる残酷なやり方は、しかし、かつて実際に行われた方法なのだ。

 こうした町の歴史と神様の本性を思い知った時、ぼくは驚愕すると同時に憤慨した。

 鏡花ちゃんが、死ぬ?

 そんなこと、絶対にあってはならないことだ。

 怒りと悲しみに打ち震えるぼくに反して、鏡花ちゃんは至って涼しげだった。

『別に、死ぬことは怖くないわ』

 そんなことを、いとも簡単に言ってのけた。

『だって、このまま無為に生きていたって仕方ないわ。それに、今回の儀式は、絶対に必要なことだもの。そして、巫女の役目はわたしにしかできないことも充分に承知している。逆に言えば、ここでわたしが断れば、わたし以外の誰かが不本意にも強制的に引き受けることになる。巫女役というの名の生贄の役目をね。ただ、それだけのことよ』

 理解しがたかった。意味がわからなかった。

 だから、ぼくはこう言った。

『ぼくは鏡花ちゃんに死んでほしくない』

 彼女は驚きに目を見開かせていた。

 ぼくは続けて言った。

『簡単に死ぬなんて言っちゃダメだ。そんな簡単に死んでいいはずなんてない。そんなこと、許されるはずがない』

『あら、そんなことないわよ? 人が生きるにはあまりにも貧しい時代には、それこそ死は珍しいことではなかったわ。病弱な者や老人は次々と死んでいったし、長子以外の子を捨てる間引きも当時はざらだった。それに、あなたがこよなく愛する聖書のヨハネ伝にもこう書かれているわ。『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、その麦はひとつのままである。けれど、もし死ねば、豊かな実を結ぶ』と。人の死は悲しいことではないわ。むしろとても名誉なことよ。だって、死は、この世の苦しみから解き放ってくれる唯一の概念ですもの。

 そもそもの話、わたしは、産まれてはいけない命だったのよ。だから親に捨てられて、こうして惨めに生き恥を晒している。こんな生活はもうごめんだわ。

 それに、わたしの犠牲は必要なものよ。だって、わたしが死ぬことで、より大勢の人々が救われるのだから。わかるかしら? 『自分の命を愛する者はそれを失い、自分の命を憎む者は永遠の命を得る』。――あなたになら、わかるはずよ。これらの言葉の意味が、ね。少なくとも、無神論者のわたしよりもずっと。それこそ、痛いほどに』

『……でも、それでも……』

『だったら、あなたはわたしをどうするの? 由緒正しい儀式を中止させてまで、わたしを生かしておくつもり? そんなことしたって意味ないわよ。結局、彼らは代役を立てて是が非でも儀式を強行するでしょうね。そうなったら、わたし以外の誰かが犠牲になるかもしれない。あなたはそれでもいいのかしら?』

 挑戦的な不敵な笑み。

 彼女は続ける。

『これは誰かがやらなきゃいけないこと。背負わなければいけない運命。誰かの犠牲の上で誰かの生活が成り立っている。その事実に揺らぎはない。最終的に人は死ぬ。絶対に死ぬ。永遠の命なんてありえない。パラダイスはどこにもない。わたしは楽園での生活よりも、虚無を望む。それとも何かしら? あなたは生と死という、そういった因果律すらも捻じ曲げるとでも言うのかしら?』

『――できるさ!!』

 断言した。

『人がそんな理由で死んでいいはずがない! イエス様だってそう言った! こんなことは間違ってる! 正しいはずがない! ぼくがそれを証明してやる!!』

『ふふ……』

 前のめりになって息巻くぼくを、彼女は優しい眼差しで見つめる。

『なら、どうやってわたしを儀式から救い、外の世界に連れ出してくれるのかしら? かっこいい救世主様?』

『そんなの、簡単だよ……、うん、できるにきまってる。決して無理なもんか』

 先ほどの自信はどこへやら。勢いに任せて啖呵を切ったにもかかわらず、口ごもる。

『あら? どうしたの? 急に声に元気がなくなったけど。もしかして、何も方法がないなんて言うんじゃないでしょうね?』

『ううん、そんなことはない! ……確かに、今はちょっと考えがまとまらないけど……、けれど、きっと思いついて見せる! 絶対に、鏡花ちゃんを死なせたりしない!』

 消えかけた気力の炎を再び燃やす。

『約束するよ! 鏡花ちゃんを絶対に助けるって! 神に誓って、絶対に!』

『……そう、約束、ね』

 ふと、彼女が寂しそうに笑う。

『そこまで言うなら、ひとつ、賭けをしましょうか』

『賭け?』

『そう、賭けよ。わたしは神を信じていない。けれど、その神様のための生贄になる。なぜなら、わたしは神に殺されるのではなく、神を信仰する人々の手によって殺されるから。もしも本当に神がいるのなら、その慈悲深き御手をわたしに差し伸べるでしょうね。でも、そんなことはありえない。わたしは神が存在しないことを知っているから。そんな奇跡は起こることがない』

『いいや、違う! 神様は存在する! だから、鏡花ちゃんは絶対に死なない! そんなこと、絶対にありえるもんか!!』

 神は、存在するかしないかのいずれかである――。

 この矛盾律に、ぼくは真っ向から立ち向かう。

『期待しないで待ってるわ。タカ……、あなたの、その約束とやらをね』

『うん、約束だよ!』

『……約束』


「ふう、はあ、はあ……」

 ぼくは山の中にいた。夕闇が迫る山道は濃い緑に染まり、本能的な恐怖を呼び起こす陰影を作り出す。

 林立する木々の間を縫って歩いてから、どれくらい経ったのだろうか。

 湿った空気がじんわりと全身にまとわりつく。

 すでに目の焦点が合わなくなってきた。肉体的な疲労もそうだけど、それよりも

胃が痛くなるほどの空腹感の方が耐え難かった。時間の都合上、仕方なかったとはいえ、夕食を抜いたのは致命的だった。

「うっ……と!」

 足が思ったように上がらず、危うくけつまずきそうになる。

 どうにか踏ん張り、姿勢を整える。

 だけど、すでに限界は近かった。

 もしも叶うのなら、今すぐに近くの木の根っこに腰を下ろして休みたい。

 でも、それはできない。

 今、足を止めてしまったら、もう二度と、立ち上がれないような気がした。

 だから、ぼくは進む。迷わず突き進む。一心不乱に駆け抜ける。

 ぼくが、どこを目指しているのか。

 昔、来た覚えがある。

 お父さんが死んでから少し経った日……、ぼくは、この山を訪れた。ここに、お父さんのお墓があるから……。

 その時に、ぼくは山の中を見て歩いた。自由に外を出回れるのは、これで最後だと聞いたから、思う存分、昔ながらの自然に溢れた緑の大地を駆け巡った。

 そうだ、忘れられるはずがない。

 ぼくの体と心を覆いつくす深い悲しみを忘れさせてくれるかのように、突如として目の前に現れた、あの光景を……。

 2年前の記憶が、不意に、今と重なる。

 不思議な場所に出た。石碑の役割を果たす大きな岩の横に窺える、開けた空間。今まであれほど視界を覆っていた木々が、周囲にまったく見当たらない。ただ、古ぼけた祠がぽつんと存在を誇示している。複雑に入り組んだ薄暗い山道にあって、まるでここだけにまぶしい光が差しているように感じた。

 風がぐ。音が消える。生き物の気配がなくなる。

 小さな神社にも似た、言い知れない神々しさを放つ祠。

 ぼくは気が付いた。祠のすぐ横に、ひとりの少女が立っていたことに。

「……あら、あなたは?」

 それは何の前触れもない衝撃だった。今まで、ぼくしかいなかった祠の前に、変わった意匠の服装をしたお姉さんが現れた。

 綺麗な銀の髪。紅白の着物を着たお姉さんは、にこやかな顔を浮かべてぼくを見ていた。

 ぼくは口をパクパクさせ、不意に現れたお姉さんを呆然と見上げるしかなかった。

 この場から一歩も動けない。

「こんな小さなお客様が来るなんて、ふふ、なんだか嬉しいわね」

 お姉さんはそう言って、その雪のように白い頬に細い手を当てる。

 ぼくは、お姉さんの上品で淑やかな仕草に心を奪われた。

「あなたは、どうしてここに来たのかしら?」

 思わずうっとりとしてしまうほど見事に伸びた長髪を揺らし、可愛らしく小首を傾げる。

 大人っぽいけど、どこか子供らしさも残る綺麗なお姉さんに尋ねられ、ぼくはどぎまぎしつつも、自分がここまで来た理由を思い出した。

「えーっと、ぼくは、神様にお願いがあってここに来たんだ」

 戸惑いながらも元気よく答えた。

「お願いごと?」

「うん、ぼくね、助けたい子がいるんだ。大事な友達なんだよ。でも、ぼくだけの力じゃ絶対に無理だから……、だから神様に手伝ってもらおうって」

「……そう」

 目尻を下げ、ゆっくりと頷く。

「あなたは良い子ね。相手の気持ちを思いやれる、優しい子」

 そう言って、ぼくの頭をそっと撫でる。

「ほら、彼らもそう言っているわ。あなたはとてもすてきだって」

 ざわざわと揺れる、周囲の木立。まるで、ぼくに笑いかけているかのようだ。

「あ、そうそう……」

 お姉さんは何かを思いついたように手を叩くと、ゆっくりと身をかがめ、足下に手を伸ばす。

「この子も、あなたと会えて嬉しいって。――ほら」

 ぼくに向かって、そっと手を差し出す。

 お姉さんが持っていたのは、白色の花びらが茎に沢山ついた小さな花だった。頭を垂れたような釣鐘型の花びらが、お姉さんの慎ましさを表しているかのようだった。

「綺麗でしょう? この花は珍しい種類の花なの。スズランって言って、この辺りにしか咲かないのよ」

「へー、そうなんだ!」

「その可憐さから、『谷間の姫百合』とも言うわ。ふふ、こんな山の中に咲くスズランにピッタリの名前ね」

 我が子を慈しむような穏やかな微笑み。

 ぼくは、姫百合という言葉に鋭い胸の痛みを覚えた。

 お姉さんも、すぐさま真面目な表情に変わる。

「でもね、この花には毒があるの。見た目はこんなにも可愛らしいんだけど、綺麗な花にはトゲがあるって言葉どおりに、怖い一面も持っているのよ」

「え、そうなんだ!」

 愛嬌がある外見なのに、いざ口を開けば毒を吐く。スズランの花は、まるで、鏡花ちゃんそのものだった。

 ぼくは、スズランの花に、より一層の興味を覚えた。

「はい、どうぞ。わたしからの贈り物よ」

「ありがとう!」

 笑顔で白色の花を受け取る。

 そして、スズランの花とお姉さんを交互に見比べた。

 この人は何者なのだろう?

 少しのあいだ考えたけど、すぐに答えが出た。

「お姉さんは、もしかして……」

 言い切る前に、お姉さんは、シッと人差し指を口に当てる。

「……あなたの言いたいことはわかっているわ」

 ぼくはきょとんした。

「どうして、わかるの?」

 小首を傾げる。

 お姉さんはくすりと小さく笑った。

「わたしは、あなたの思っている通り、神様だから」

 笑顔で告げられた言葉に、ぼくの頭に驚きが広がる。

 でも、同時に、安心感もあった。

「あ、やっぱり!」

 ひと目見た時から、そうじゃないかって思っていた。まとっているオーラというか、雰囲気が、他とまるで違っていた。とても神秘的で、まぶしくて……、それこそ、あのイエス様みたいに恐れ多い存在だと直感した。

「でもね、神様と言っても、わたし自身がそうであるわけじゃないの」

「……? どういうこと?」

「わたしは、神様の代わりにみんなの声を聴いて、それをみんなの代わりに神様に伝える役目を負っているの。巫女みこって言うんだけど、わかるかな?」

「うん、なんとなくは。……お姉さんは、モーセみたいな預言者? それとも、イエス様みたいに、人であり、神様でもある人なの?」

「ふふ、あなたは賢いのね。確かに、そうかもしれないわ。本当の神様は、目には見えない。だから、こうしてわたしが神様の意思を代行している。だから、わたしは神様なの。人間であると同時に、ね。だから、この町のことなら、何でも知っているのよ」

「なんでも?」

「そう、なんでも」

「じゃあ、鏡花ちゃんのことも?」

 思い切って尋ねた。

 お姉さんは驚いたようなそぶりを見せることなく、ゆっくりと、そして深く頷く。まるで、当然のことだとでも言いたげに。

「……ええ、もちろん。あの子のことは、わたしもよく知っているわ」

 目線を落とした悲しげな表情。それを前に、ぼくの胸が痛くなる。

「神様、お願い、鏡花ちゃんを……、鏡花ちゃんを助けて!」

 思わず叫んだ。

「ぼく、ぼく……鏡花ちゃんを……」

「……大丈夫」

 ぼくの体は、暖かくて柔らかな感触に包まれる。

「何も、心配いらないわ」

 お姉さんはぼくの耳元でそう優しくささやくと、ゆっくりと頭を撫でさする。

 ぼくの胸は、キュッと締めつけられた。

「わたしは、この町が好き。山も、自然も、動物も、植物も、この町の人々のことも……、全部好き」

 体を離したお姉さんが、ぼくを見る。

「あなたは、この町が好き?」

 ぼくは頷く。

「……うん、ぼくも、大好き」

「そっか、なら、安心して」

「……あんしん? どうして?」

「わたしはね、この町を、自然を、守らなきゃいけないの」

「……そうなの?」

「そうよ、あなたが生まれるずっと、ずーっと前から……、わたしは、この土地を、山を、守っているの」

「じゃあ、どうして……、鏡花ちゃんは……」

「……あなたも知っての通り、もうすぐ、この町の自然がなくなっちゃうの。けれども、それは、神様にとって到底許されることじゃない。神様は、この町そのもの。これまでわが身を呈して土地や人間や動物を守護してきたにもかかわらず、その人間が自然を破壊する。だから、あの子は、神様の怒りを鎮めるために犠牲になる。……神様の機嫌を取るための供物として」

「……そんな……」

「だからこそ、わたしが守るの。この町のことも、あの子のことも、そして……あなたのことも」

「……ぼく、も?」

「ええ、そうよ。だって、あなたは、わたしの大事な人だから」

「……神様の、大事な、ひと?」

 そう言われて、なんだかもどかしい気持ちになった。

「ふふ、恥ずかしがらなくてもいいの。あなたはわたしを信じてくれた。わたしも、あなたを信じる。ただ、それだけのことよ」

「……ぼくも……」

 全身に力を込める。

「ぼくも、神様を守るよ!」

 ありったけの勇気を振り絞って、そう宣言した。お姉さんは、我が目を疑うかのような顔でぼくを見ていた。ぼくは構わずに続けた。

「ぼくは鏡花ちゃんを助けたいんだ! だから、ぼくも神様のお手伝いをするんだ!」

 心の底から訴える。

「そうすれば、そうすれば、鏡花ちゃんは、鏡花ちゃんは……」

 自然と涙が溢れ出る。ぼくの顔はあえなく下を向く。

「……やっぱり……」

 もう一度、ぼくの体が柔らかいものに包まれる。鼻をくすぐる花の匂いが、ぼくの心を落ち着かせてくれた。

「……やっぱり、あなたは優しい子……」

 ギュッと、もう二度と離さないように、力いっぱいにぼくを抱きしめる。

 ぼくも、お姉さんをそっと抱きしめる。

「……だって、ぼくも、この町が好きなんだもん! 鏡花ちゃんだって……、ぼくは、ぼくは……!」

「……うん、うん、そっか、そうよね……」

 何度も、何度も、ぼくの頭を撫でる。

「優しいのね、あなたは……」

 我が子を慈しむような、そんな温かな眼差しを感じた。両親を失って久しいぼくは、お姉さんから与えられる底知れない愛情をむさぼるように受け取った。

 やがて、お姉さんはぼくの体を離す。悲しみに満ちたお姉さんの眼差しが、涙でかすんだ視界に映る。

「神様、約束だよ! ぼくは、絶対に、神様を助けるよ! だから、神様も、鏡花ちゃんを助けて! 絶対だよ! 絶対に、絶対だよ……!」

「……そうね、約束ね」

「――うん、約束だよ!」

 お姉さんとぼくは約束を交わす。

 固く、固く――決して破られることがあってはならない、大切な約束を。


 ――ガサッ


 背後で物音がしたことで、ぼくはびっくりして我に返った。

 慌てて振り返ると、そこにはひとりの青年が立っていた。お坊さんが着るような紺色の着物の上に袈裟けさを羽織った、独特の恰好をしている。

「どこにいたかと思えば、やっぱりここか」

 ぼくよりも1、2歳は年上と思しき目つきの鋭い青年は、ぼくのことなど目もくれず、お姉さんのもとに近寄って声をかける。

「もうあまり時間がないぜ、そろそろ戻らないと」

「ごめんなさい、くん。ちょっと、やり残したことがあったから……」

「そうは言ってもな、儀式はもうすぐ始まるんだ。きみの祖父はもちろんだが、おれの父さんもきみが来るのを待っている。大事な神様役の人間が、みだりに出歩くもんじゃないぜ」

「……わかっているわ」

 と呼ばれた青年が告げた言葉に衝撃を覚える。

(神様の、人間?)

 それに、儀式って……。

「あ、あの……」

 難しい顔で話し合う二人に向かって、おずおずと声をかける。

「お姉さんと、お兄さんは、一体……」

 二人は一斉にぼくの方に振り返る。困ったような表情のお姉さんと、怪訝そうな顔つきのお兄さん。

 ぼくは、急に、自分が場違いなところに立っているのだと自覚した。

「きみは……」

 怖い顔のお兄さんが尋ねる。鋭い眼差しが痛いほどに刺さる。

「えっと、その……」

 うまい答えが思いつかなくて、視線を辺りにさまよわせる。

「……まあ、いいさ。深くは追及しないでおこう。今はその手間が惜しいからな」

 冷たそうな印象のお兄さんは、やれやれと溜め息をついてお姉さんの方に向き直る。

「さあ、戻るぞ、。儀式の最後の調整だ。あの子はすでに、準備の最終段階に入っている」

 と呼ばれたお姉さんは、周平と言う名のお兄さんに腕を引っ張られる。

「あ、待って――!」

 咄嗟に手を伸ばす。

 でも、伸ばされた手が届くことはない。

「約束、約束だからね!」

 遠ざかるお姉さんに向けて、ぼくは叫ぶ。

「また、絶対に会いに来るよ! 約束するよ!」

 深く、深く、胸の奥に刻み込むように。

「神様に会いに行く――!」

 お姉さんがぼくに微笑む。それが答えだった。

「おい、少年」

 お姉さんの動きを手で制し、足を止めたお兄さんが、ぼくを睨み付ける。

「きみに何があったのかは知らないが、今すぐにこの場所から離れた方がいいぜ」

「え……?」

「もうすぐ、ここは立ち入り禁止区域になる。おっかねえ黒服の連中に連行されたくなかったら、少なくとも、この祠の半径30メートル以内には近付かないことだ。一年に一度の、大事な儀式の場が、どこの馬の骨ともわからない部外者に踏み荒らされたとわかれば、やっこさん、黙っちゃいねーだろうからな」

「それって……」

「わかったなら、悪いことは言わねー。早いところ、家に帰りな」

「う、うん……、でも……」

 ちらりとお姉さんの方を見る。

「周平くん、この子なら大丈夫……。全然、悪い子じゃないから」

「まあ、そりゃあ、見ればわかるけどよ」

 仲睦まじくやり取りする二人の身なりを改めて見て、ぼくは悟った。

 なぜ、お兄さんとお姉さんは、儀式の舞台となる祠を訪れたのか。そして、二人が羽織った象徴的な衣装の意味は……。

 考えるまでもなかった。

 多分、このお兄さんは、儀式に参加するお坊さんの役目で……。

 そして、お姉さんは……。

 きっと、イイヅナ様の……。

 真実に気付き、愕然とする。

 お姉さんは、本当に……。

 神様……、イイヅナ様……。

「……はああ……」

 その場にへたり込む。

 腰が抜けて、うまく力が入らない。

 でも、そうやって息をついている暇はなかった。

「……ねえ、ぼく」

 お姉さんが、神妙な表情でぼくを見る。

「は、はい」

 声が上擦りそうになるのを必死でこらえながら返事する。

「もしも、あなたが、本当に心から彼女を救いたいと思っているのなら……」

「それは、もちろんだよ! 鏡花ちゃんはぼくの大事な友達なんだ! 助けたくないはずないじゃないか!」

「うん、そうね……、ごめんなさい、変なこと言って」

 口に手を当て、困ったように苦笑する。

 でも、すぐにもとのような真面目な顔つきに変わった。

「……あの子はお寺の講堂の中にいるわ。場所は、本堂と呼ばれる大きな建物の隣にあるから、すぐにわかると思う」

 ぼくは、お姉さんが何を伝えようとしているのか、すぐに理解した。

「! うん、わかった! ありがとう、お姉さん!」

 大きく頷き、感謝の言葉を口にする。

「おい、そろそろ……」

「……そうだね、それじゃ、わたしたちはもう行くね」

「うん、それじゃ、約束だよ! 必ず、鏡花ちゃんを助けるって! 約束だからね!」

「……ええ、約束」

 そう、小さく言い残して、お姉さんとお兄さんは、ぼくの目の前からいなくなった。

 お姉さんの浮かべたどこか悲しそうな顔が、とても印象に残った。

 辺りには静寂が広がる。ざわざわと風に揺れる木立だけが、ぼくの視界に映りこむ。

 二人のあとを追いかけようとも、すでに体力は限界を迎えていた。もはや立ち上がることもできず、ただ、膝をつくのみ。

 腰砕けになったぼくには、興奮と動揺で荒くなった呼吸を整えるぐらいしかできることがなかった。

「イイヅナ様……」

 ぽつりとつぶやく。

「あのお姉さんが、今年の儀式の……」

 ぼくは、儀式の概要を思い出す。儀式に参加する主な人間は、3人。お坊さん役の子と、イイヅナ様役の子、そして――巫女であり、また、生贄役でもある子の、3人だ。

 あの、周平と呼ばれたお兄さんがお坊さん役で、鈴蘭と言う名のお姉さんがイイヅナ様の役。それで、鏡花ちゃんは……。

「…………っ」

 唇をギュッと噛む。

 でも、あまり悲観することはないのかもしれない。

 ぼくは、お姉さんに――イイヅナ様に、訴えた。どうか、鏡花ちゃんを死なせないでと。

 お姉さんは、ぼくの願いを聞いてくれた。頷いてくれた。

 でも――。

「ダメだ、それだけじゃ、まだ……」

 ぼくは約束した。鏡花ちゃんを、彼女を、必ず助けると。

 だったら……。

「――行こう」

 やるべきことが、まだ、残っている。

 それも、どうしてもやらなきゃいけないことが。

 もうすぐ、儀式が始まってしまう。

 その前に、鏡花ちゃんのところまで辿り着かないと……。

「急がなきゃ……」

 震える足腰を無理やり立たせ、目的の場所に向かう。

「……そういえば……」

 獣道を掻きわけたところで、少し足を緩める。

「……露木くんは、だいじょうぶかな……」

 ひとり、医務室でぼくの帰りを待つ彼のことが頭をよぎった。

 とはいえ、彼は彼で門限があるから、すでに自宅に帰ったあとだろうか?

 ひょっとしたら、今頃、孤児院では、ぼくがいなくなったことが明るみに出て、大騒ぎになっているかもしれない。

 想定されうる最悪の事態が頭をよぎり、気分が落ち込む。

 でも、そんなことを気にしていても仕方ない。

 すっかり重たくなった腰を上げ、よたよたと、生まれたての小鹿みたいなおぼつかない足取りで、神聖な祠をあとにする。


 ――この時、ぼくは想像もしていなかった。思いもよらなかった。純粋な気持ちで願った鏡花ちゃんの無事が、まさか、あんなことになるなんて……。


 事件は、ぼくが鏡花ちゃんの居るという講堂に向かおうと、来た道を引き返した時に起こった。

 夕焼けに染まった山道。行く手を阻む草木を掻きわけ、進んでいく。

 黒い、大きな影が、視界の端に映り込んだ。

「え?」

 突然の違和感に驚いたぼくは、思わず動きを止めた。

 ギャーギャーと、頭上で鳥の鳴き声がする。それ以外に、目立った気配はない。

(……気のせいかな?)

 多分、疲れているんだろう。あまり深くは考えずに歩みを戻す。


 ――ガサガサッ


「んんっ??」

 今度は確実な違和感。背後の茂みが、突如、大きく音を立てて動き出したのだ。

 慌てて身構える。

 じっと、


 バサバサッ――!


「うわっ!」

 茂みから飛び出す、黒い物体。それは野鳥か、猪か。

 けれど、そのどちらも違った。

「――?!」

 を前にして、ぼくは言葉を失った。がくがくと四肢が震え、腰が抜けそうになる。

 放射状にぼうぼうと広がった腰蓑こしみの。手に持った長い錫杖。白髪だらけ頭髪。背丈はぼくの1.5倍はあるだろうか。二足歩行のは、こちらに背を向けた状態で、のっそりと立ち尽くす。

 一見すると、ただの登山客のようにも思える《それ》だけど、しかし、普通の人間とは大きく異なる部分がひとつだけあった。

 ぼくは見た。見てしまった。の姿を、顔を――。

 長く伸びた鼻に、多く蓄えられた口ひげ。血のように真っ赤な顔色が、の異常性を如実に表す。

 ――天狗だ!! ぼくは直感しながらおののいた。

 全身にゾゾゾっと鳥肌が立ち、背中からぶわーっと冷や汗が噴き出る。

「う、うわああああーっ!!」

 直後、弾かれたようにしてぼくは駆けていた。

 手足を引っかく枝葉など気にしていられない! すぐ背後に、天狗がいるのだ!

「はあ、はあ、はあっ……!」

 動かない体に無理やり鞭打ち、獣道に等しい山道を急いで駆け降りる。何度も、何度もつまずきそうになりながら、それでも、懸命にくだっていく。

 周囲の風景が目まぐるしい勢いで移り変わる。

 が追ってきているのかはわからない。背後を確認する勇気はとてもない。

 無我夢中だった。どうにかして、背中から全身にまとわりつく恐怖を振り払いたかった。

 だからだろうか、周囲に対する警戒心というか、注意力が散漫になっていた。


 ――ドンッ!


「うわっ!!」

 目の前に現れた障害物の存在に、まるで気が付かなかった。

 そのままの勢いで正面衝突し、尻もちをつく。

「いてて……!」

 何が起こったのか理解が追い付かない。ただ、お尻が痛い。

「おい、小僧……」

 頭上から注がれる低い声に、ぼくの意識は急速に我に返った。

「え、あ……」

 震えながら上を見上げる。

「お前……、こんなところで、何をしてるんだ?」

 黒服の男が、ぼくの顔をのぞき込んでいた。

「わあ、ごめんなさい!」

 思わず謝る。

 相手は、ぼくが恐れていたような天狗ではなかった。

 けれど、気が動転していたぼくは、とりあえず平謝りする。

「ここは、お前のような子供が来ていい場所じゃない。普段ならともかく、こんな大事な時に……。親御さんも一緒か?」

「いや、ぼくは……」

「なんだ、ひとりでここまで来たのか? だったら、なおさら、見過ごすわけにはいかないな。ちょっと、私と一緒に来てもらおう」

 黒服の男は、おもむろにぼくの腕をつかむと、有無を言わさず無理やり直立させる。

 すでに抵抗するすべも力も持っていないぼくは、あえなくお縄についた。

 そのまま、男のごつごつとした手に引かれ、半ば強引に山の中腹にまで連れられる。

 道中、何度か、背後を顧みる。

 ぼくが恐れていた天狗の姿は、もう、影も形もなかった。

 次第に、ぼくの心は平静を取り戻していった。

 同時に、この黒服の人物が何者なのかを理解し、別の意味で恐怖した。

 やがて辿り着いたのは、山の入口に通じるふもとではなく、山中にあるお寺だった。

 境内では、薄明りを放つ提灯を手に持った黒服の大人たちがわらわらと並んでいる。少なくとも、十人はいそうだ。

局長、妙な子供が祠の近くにいたので連れてきました」

「ほう……」

 列の先頭にいる、ひときわ背の高い男性の前に出される。

 黒いスーツ姿という、他の大人たちと同様、小綺麗な身なりの男性は、しかし、まとっている空気が他の人たちとまるで違った。

 冷たい。空気が冷え切っている。彼と対峙したとき、夏の暑さが一瞬でかき消えた。むしろ寒い。寒気が襲う。ぼくの体はぶるぶると、小動物みたいに震える。

「きみ、名前は?」

 オールバックの男性は、腰をかがめ、口元を緩めた優しい口調で尋ねる。

 しかし、目が笑っていない。鋭く光る切れ長の目が、ぼくを威圧するようにぎろりと向けられる。

「ひ、ヒトシです。高山ヒトシ」

 ここで正直に答えなければ自分がどうなるかを直感的に思い知ったぼくは、ガチガチに緊張しながら名前を名乗った。

「ヒトシくんか。私は。ゆえあって、この寺に訪れている」

「は、はい」

「ヒトシくん。きみは、なぜ、この山の中にいる? 親御さんや町の人から、今日がどんな日か聞いていないのかな?」

 卑劣な本性を見掛け倒しの純粋さで装った質問は、ぼくの胸を深くえぐった。

「いえ、その……」

 どうしよう。何と答えるのが正解なんだろう。

 わからない。

 わからないけど、とにかく、なにか答える必要があった。

「局長、何も、こんな子供に……」

 そばに控えていた女性が、局長と呼ばれた男性に難色を示す。

「いや、待て……。私だって、坊や相手にあまり手荒な真似はしたくない。だが。この子が奴らの手先ということも充分に考えられる。何せ、あの見張りをかいくぐって、ここまで忍び込んでいるのだからな」

「それは……、そうかもしれませんが……」

「だったら、私が指示するまで余計な口出しは控えてもらおう」

「……承知しました」

 にべもなく叱責された女性は、小さく一礼したあと、すごすごと引き下がる。

 ぼくは、この短いやり取りで、この男性が恐ろしい人物だということを痛いほどに理解した。

(そうだ……、この人は……)

 今、思い出した。彼がふと見せた、鬼のような恐ろしい顔つきで、ハッとした。

(以前、院長と話していた……)

 つまり、彼らは政府の要人。尾前町の土地を調査しに来た、お偉いさん。

 鏡花ちゃんから、自身が生贄になる経緯を聞いた時、ぼくは初めて今年のお祭りに国が絡んでいることを知った。

(どうして、そんな雲の上の人たちが、この大天山のお寺に?)

 答えはすぐに出た。

(鏡花ちゃんは、こうも言っていた。今年の儀式は地鎮祭の役割も兼ねていると)

 ということは、彼らは、土地神様であるイイヅナ様にお伺いを立てに来たのだ。あなたの支配する土地を拝借してもよろしいですか、と。

 もちろん、嫉妬深いイイヅナ様がそんな横暴なことを許すはずがない。

 だから、生贄を用意した。古代と同じ方法で、神に許しを請うために。

(この人たちのせいで、鏡花ちゃんが……!)

 いや、それだけじゃない。彼ら政府の人間が、ぼくたちの大事な孤児院の土地を取り上げようとしている。本来ならぼくたちの味方であるはずの偉い人たちが、弱者であるぼくたちを追い詰め、いたぶっている。そんな無法が許されていいのか。

 恐怖に勝る怒りが込み上げる。

「すまないね、少し、横槍が入ってしまった」

 居住まいを正した風祭宗吾は、厳めしい顔つきを一転させた作り笑いで取り繕う。

「それで、きみはなぜこんなところにいるのかな? ここで何が行われるのか、知っているのかい?」

 虫も殺さぬ笑顔で問い詰める。ぼくに逃げ場はない。

 しかし、逃げるつもりなんてなかった。

 憎しみが胸の中で燃え上がる。ゆらゆらと揺れる炎が、ぼくを突き動かす。

「あなたたちの方こそ、どうして、こんなことをするんだ」

 キッと目つきを鋭くさせ、はっきりと言ってやった。

 温和な表情を装う風祭宗吾の眉が、ピクリと跳ねる。

「こんなこととは、どういうことかな?」

「しらばっくれないでください。ぼくは知っています。あなたがたが、罪なきひとりの少女を手にかけようとしていることを」

「…………」

 直後、威勢よく啖呵を切ったことを激しく後悔した。

 風祭宗吾の表情が一変した。人畜無害の菩薩顔ぼさつがおから、怒り狂った修羅のごとく、眼下のごみを見下すような恐ろしい目つきに変貌したのだ。

「貴様、どこでそれを知った?」

 口調は穏やかだが、言葉遣いは強烈だった。

 でも、ここでひるむわけにはいかなかった。

 冷や汗で滲んだ手のひらをギュッと握り、風祭宗吾の顔を見据える。

 そして、小さく震える口を開いた。

「あなたたちに少しばかりの良心が残されているなら、今すぐに、今回の儀式を見直してください。尊い他人の命を犠牲にして得られる幸福になんて何の意味もないことを、あなたたちは知っているはずです」

 ぼくは賭けに出た。一か八か、一世一代の大勝負だ。

 本来なら機密情報である儀式の内容を話したことにより、周囲の大人たちがざわつき始める。

 わずかに生じたその隙を、ぼくが見逃すはずがなかった。

「生贄を用意したからといって、イイヅナ様の怒りが収まるはずがありません。いいえ、むしろ、火に油を注ぐ結果になるに決まっています。旧約聖書にも、このような人身御供を非難する言葉が記述されています。『主は言われる。あなた方は息子、娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった』と。今からでも遅くありません。このような残虐非道な行為は、即刻、取りやめるべきです。あなたがたの名誉のためにも――!」

「こいつ、局長に向かってなんてことを……!」

 ガードマンのような屈強な男が猛然と歩み寄り、ぼくを思い切り押さえつける。

「ぐっ……!」

 全身を駆け巡る凄まじい衝撃。ぼくは硬い石畳の上に組み伏せられ、身動きを取れなくさせられる。

「くっ、離せ……! こんなことをしたって、なんにもならないぞ……!」

 背中に覆いかぶさる黒服の男を跳ねのけようとする必死の抵抗は、しかし、頭上の風祭宗吾が漏らす嘲笑にむなしくかき消される。

「……ふ、まさか、こんな年端もいかないような子供に説教されるとはな」

 真上に窺える、悪魔のような男の残酷な笑み。

「高山ヒトシと言ったな?」

「っ……、そう、です……」

「なかなか、生意気な口を利くな?」

 くくく、と低く笑う。その恐ろしい響きは、獲物を狩る猛獣のうなり声を思わせた。

「他人の犠牲は、不要だと?」

「――その通りです!」

「見事なまでの綺麗事だな。貴様は、親や教師から、この世は弱肉強食と習わなかったか?」

「……あなたこそ、スケープゴートに選ばれた人の気持ちを……考えたことはあるんですか……っ?」

「知らんな、ただ食われるだけが能の草葉の考えなど、歯である我々に一切の興味が湧くはずもない」

「だったら……、なおのこと、思い知った方がいい……。あなたがたが、神を恐れている時点で……、自分が、支配者ではなく……、被支配者だと……、自ら認めているのですから……っ」

「ほう……、我々が支配者か。これは一本取られた。確かにその通りだ。くくく……」

 負けを認める言葉とは裏腹に、口元を邪悪に歪める。

「なるほど、なかなか見上げた根性だ」

 おい、と風祭宗吾が声を上げると、ぼくを押さえつけていたガードマンが離れる。

 全身を襲う圧迫感は薄れたけれど、ぼくの身体は依然として石畳の上に釘付けにされたまま。風祭宗吾の仕掛ける威圧的な心理的拘束に抗える術はなく、倒れ伏す。

「今回のところは、貴様の命知らずな胆力に免じて非礼を許そう」

「……げほっ、げほっ……、……ぐっ、はあ……、はあ……っ」

 何度かむせつつ、どうにか息を整える。

 無様に這いつくばりながらも、悪魔の権化である風祭宗吾を、もう一度、睨み付ける。

「いいぞ、いい面構えだ。目つきからしてまず違う。家畜ではない、生きた人間の顔だ」

 愉快そうにせせら笑う。

「我が息子も、貴様のような不屈の精神を見習ってくれればいいものを……、まったく、あの軟弱者は……」

 直後、自らの発言を恥じるように押し黙る。

「……高山ヒトシ、か。その名前、覚えておこう」

「………………」

「局長、この子供は……」

「構わん。放っておけ」

「し、しかし……」

「たかが子供一人に、何ができる? まさか、彼に、我々の計画を水泡すいほうに帰させるだけの力があるとでも?」

「いえ、そういうことではなく……」

「なら、捨て置け。必要以上にわめき立てるな」

「……ですが、万が一ということも……」

「案ずるな。私の見立てでは、この少年は『亜細亜八月同盟AAA』とは何ら関係はない。もし、何か問題が生じれば、私が全面的に責任を負う。これで文句はあるまい?」

「……局長が、そこまで言うのでしたら」

 何やら数人の黒服と揉めていた風祭宗吾だが、話をつけたのか、再び、ぼくの方を見る。

「聞き分けのない子供のわがままをたしなめるのも、我々のような大人の役目だ」

 高圧的な態度と鋭利な目つき。

 ぼくは、彼の放つ圧倒的な雰囲気に飲まれまいと、全身に力を込めた。

「質問がいくつかある」

「……なんですか」

 よろめきながら立ち上がり、息も絶え絶えに問い返す。

「貴様は、孤児院の出だな?」

 値踏みするような視線。

 思考を見透かす冷徹な眼光に見入られ、ぞくりと背筋が波打った。

「なぜ、それを……?!」

 反射的に答えてから、しまった、と後悔した。

 ぼくの動揺を素早く見抜いた風祭宗吾は、我が意を得たりとばかりにほくそ笑む。

「別に、カマをかけたわけではないぞ?」

「え……?」

 なら、どうして……。

 疑問を口にするより早く、風祭宗吾は得意げに口角をつり上げた。

「簡単なことだ。土着信仰が深く根付いた尾前町で、キリストの名前を出す子供など、孤児院で生活している人間に以外に考えられない」

 あっ、と思った。風祭宗吾の言う通り、タネはすぐにわかるところにあった。

(そうだ……、彼は、孤児院に何度か訪れている。とすれば、そこで暮らす孤児たちの特徴を知らないはずがない)

 うかつだった。あの場面で、イエス様を引き合いに出したのは失敗だったかもしれない。あれでは、おのずから孤児院に住んでいると暴露しているようなものだ。

 ぼくはどうなっても構わない。その気持ちにウソはない。

 でも、ぼくのしたことで孤児院のみんなに迷惑が掛かってしまうのは嫌だった。それだけはどうしても避けなければならなかった。だから、ぼくは、孤児院の誰かではない、限りなく第三者に近い露木くんに協力してもらい、そして、ここまでひとりで来たんだ。

 ぼくたちのような身寄りのない孤児が、周囲の心無い人々のあざけりと侮蔑ぶべつの対象になっているのは知っていた。鏡花ちゃんもそのことを自虐していた。それこそ、かつてのキリシタンのように、偏見や差別、奇異の目で見られていた。

 このままでは、あらぬ疑いの目が孤児院のみんなに向けられてしまう。極端な話、国の事業に逆らう反乱分子とみなされかねない。

「その顔……、自身の身はもとより、他の人間に降りかかるであろう懲罰を恐れているな?」

 図星だった。

 ことごとく思考を読み取られた衝撃のあまり、硬直するぼくの体。

 おそらく顔面蒼白で立ち尽くしているであろうぼくの姿を、風祭宗吾は鼻で笑う。

「うぬぼれるなよ、小僧。孤児院に住む有象無象など、何の価値もない。罰を与えるほどの値打ちもない。我々にとって重要なのは、孤児院と教会堂の土地だけだ。その他の物事に、我々は何ら関心を持たない。今から奪い、追い出し、支配しようという土地に住む住人のことを、いちいち気にかけると思うか?」

「――っ!」

 目の前が、一瞬、真っ白に染まる。混み上がる怒りで我を失いそうになる。

 悔しい。

 悔しいけど、何も言い返せない。

「儀式さえ上手くいけば、すべては丸く収まる。ならば、貴様の存在など所詮は塵芥ちりあくた。その身を挺して投じた一石は、わずかな波紋をすら呼ばずに終わる。あまりにも無謀で無策な試みだ。我々の計画にまったく支障はないのだからな」

「…………っ」

 間違っている。こんなことは、間違っている。

 それなのに、ぼくは反論できない。このひどい仕打ちを、屈辱的な現実を、なぜか受け入れようとしている。すべてを諦め、あろうことか認めようとしている。

 そんな卑怯で卑劣な弱い自分が、たまらなく嫌だった。

「随分と反抗的な目つきだな。まるで手負いの野犬だ。まさか、ここまで悪しざまに言われる筋合いはないと、事態を楽観視していたわけではあるまい?」

 ぼくは答えない。それが答えになった。

「子供だからといって、すべてが許されると思ったら大間違いだぞ、小僧。孤児院の連中に余罪の追及はしないが、貴様は別だ」

 恐ろしいことを平然と言ってのけるが、もはや何も感じない。

 ぼくの心は、まるで霜が降りたかのように冷え切っていた。

「すべての行動には責任が伴う。それが自らの意志でなされたものなら、当然、責任は重くなる。権利と義務。自分が自由に行動するという権利には、責任という義務が付随する。この両者は共に不可分だ。ゆえに、貴様は責任を負わなければならない。恐れ多くも儀式の中止を目論み、あまつさえ神聖とされる祠付近にまで足を踏み入れた責任を、な」

 彼が何を言っているのか、理解できない。怒りと悲しみに染まった思考回路が、苛烈な意味合いを帯びた一言一句のことごとくを拒む。

「まるで要領を得ないと、その不満そうな顔に書いてあるな」

 尚も容赦なく責め立てる。

 四方八方から迫りくる理不尽な現実に、ぼくは押しつぶされる寸前だった。

「なぜ、貴様が、そこまでの危険を冒してまで儀式の中止を望んでいるのか、当ててやろうか」

 目を細めながら言われて、ぞくっとした。

 一気に目が覚める思いがした。

「貴様の狙いは、まさに、同じく孤児である姫百合鏡花にあるのだろう?」

 ――鋭い。鋭すぎる。

 提示されたわずかな情報を頼りにぼくの頭の中を的確に言い当てられては、もう、観念するしかなかった。

 とても、逆らえない。逆らおうだなんて、とんでもない。

 ぼくは、この世で最も敵対してはいけない恐ろしい人物相手にケンカを売ったのだと、まざまざと痛感するしかなかった。

 半歩、後ずさる。それは、危機に面した生き物が総じて取りうる本能的な逃避行動だった。

 忘れていた恐怖が今さらになってよみがえり、手足がぶるぶると小刻みに震える。

 胃液が逆流する不快感。

 息が詰まる。呼吸が苦しい。心臓が痛い。

 でも、それでも、逃げるわけにはいかなかった。

 今にも卒倒しそうになるのを懸命にこらえ、暗い光を放つ風祭宗吾の目を見据える。

 ――鏡花ちゃん。鏡花ちゃん……。

 動悸が段々と激しさを増す中、しきりに明滅する視界に鏡花ちゃんの姿が映る。


『人の死は悲しいことではないわ。むしろとても名誉なことよ。だって、死は、この世の苦しみから解き放ってくれる唯一の概念ですもの』


 ――違う。


『そもそもの話、わたしは、産まれてはいけない命だったのよ。だから親に捨てられて、こうして惨めに生き恥を晒している。こんな生活はもうごめんだわ』


 ――違う。


『それに、わたしの犠牲は必要なものよ。だって、わたしが死ぬことで、より大勢の人々が救われるのだから。わかるかしら? 『自分の命を愛する者はそれを失い、自分の命を憎む者は永遠の命を得る』。――あなたになら、わかるはずよ。これらの言葉の意味が、ね。少なくとも、無神論者のわたしよりもずっと。それこそ、痛いほどに』


 ――違うんだ。


『だったら、あなたはわたしをどうするの? 由緒正しい儀式を中止させてまで、わたしを生かしておくつもり? そんなことしたって意味ないわよ。結局、彼らは代役を立てて是が非でも儀式を強行するでしょうね。そうなったら、わたし以外の誰かが犠牲になるかもしれない。あなたはそれでもいいのかしら?』


 ――そんなこと、いいわけがない。


『これは誰かがやらなきゃいけないこと。背負わなければいけない運命。誰かの犠牲の上で誰かの生活が成り立っている。その事実に揺らぎはない。最終的に人は死ぬ。絶対に死ぬ。永遠の命なんてありえない。パラダイスはどこにもない。わたしは楽園での生活よりも、虚無を望む。それとも何かしら? あなたは生と死という、そういった因果律すらも捻じ曲げるとでも言うのかしら?』


 ――約束したんだ。


 ぼくは、絶対に、鏡花ちゃんを……!

 神様を、救うと……!


 あきらめちゃダメだ、あきらめちゃ……。


 約束を、約束を……約束を、果たさないと……!


「……ここまで完膚なきまでに叩きのめされたとしてもなお、顎を下げず、一時も視線を逸らさないか」

 どこか遠くで、最も憎むべき人間の口から感嘆の声が漏れるのを聞いた。

 不意に、意識が戻った。

 白と黒の世界に急速に色が付着した。夕暮れの境内に集う、大勢の黒い大人たち。目の前には、酷薄な作り笑いを携えてぼくを見下ろす大男が立っている。

「面白い小僧がいたものだ……」

 いや、違った。

 確かに、彼は笑っていた。いびつな三日月形に歪められた口角は、しかし、今までのような無機質な作り笑いとは似ても似つかぬものだった。嫌悪感すら抱かせる口元の微妙な変化が、彼が心の底からわらっているのだと気が付かせた。

「最期の手向けだ。あの少女にひと目会わせてやろう」

「え……?」

 予想だにしない言葉に、間抜けな言葉が漏れる。

「聞こえなかったか? 特別に、生贄に選ばれた少女に会わせてやると言ったのだ」

「ど、どうして……?」

「さあ、どうしてだろうな?」

 彼はぼくを試すように小さく笑った。

 混乱のあまり、まともに回らない頭を酷使して、ぼくは、風祭宗吾の狙いを探った。

 おそらく、彼は、あえてぼくの願望を最低限叶えてやることで、これ以上の余計な手出しができないように行動を操作するつもりなのだろう。……そうだ、そうとしか考えられない。

 なら、ぼくが取るべき選択肢は……。

「どうした? お友達の死に目に逢いたくないのか?」

 正常な思考を揺さぶる挑発的な物言い。

 ぼくは風祭宗吾の話術に惑わされぬよう、強く、決意を固める。

「……会わせてください」

 はっきりと言った。

「鏡花ちゃんと、話をさせてください」

「……ふ」

 神妙な表情を見てか、満足げに息を漏らす。

「いいだろう、それが貴様の望みなら。――というわけだ、三崎」

 そばで控えていた女性に顎で合図する。

「……よろしいのですか?」

「何度も言わせるな……、おい、小僧」

「……なんです?」

「――3分だ」

「え?」

「3分の間、姫百合鏡花との面会を許す。それで異存はないな?」

 反論を許さない強い口調には、

「姫百合鏡花は寺の講堂で心身を清め、儀式の時まで待機している。この三崎に案内してもらえ」

 小さく会釈した三崎さんはぼくの顔を気の毒そうな表情で一瞥すると、そのまま踵を返す。

「どうぞ、ついてきてください」

 言葉少なにそれだけを言うと、足早に歩いて行ってしまう。

「あ、待って、待ってください……!」

 慌てて、そのあとを追った。

「……ここです」

 石畳でできた参道を進み、本堂の横に造られた講堂に通される。典型的な入母屋いりもや造りのそれは、社寺有林の隙間から漏れる夕闇の風景に映え、厳かな雰囲気を放っていた。

「わたしはここで待機しています。時間になればお呼びしますので、そのつもりで」

 事務的に告げる。

 ぼくは返事もせず、階段を昇り、一目散に入口まで駆け寄ると、ぴったりと固く閉じられた引き戸を開けた。

 立派な見た目と裏腹に、畳敷きの中は簡素で、面積も狭く感じた。

 薄暗くて奥が満足に見通せない。

 目を凝らし、様子を探る。

 ……誰かが、こちらに背を向けて正座している。

 直後、ぼくは引き寄せられるように講堂の内部に足を運んだ。

 鼻に届く、畳の匂いと、線香の香り。

 くすんだ色合いの仏像が鎮座する正方形の講堂、その中央の壁際に面した場所に、彼女はいた。

「……、来たのね」

 ぼくの存在に気が付いたのか、鏡花ちゃんがゆっくりと振り返る。

 襦袢じゅばんを着た彼女の姿は、いつもよりも白く、透き通って見えた。

 瞬間、ドキリと胸が高鳴った。

「やっぱりって……、ぼくが来ることがわかってたの?」

「ええ……、お寺の入口の方がやけに騒がしかったから、もしかしたらって思ってたけど……、本当にその通りとはね」

 にやりと不敵な笑み。

 口調は穏やかで、表情も涼やか。狭くて暗い部屋に押し込められた死を待つ身にあって、どういうわけか、彼女はまさに『いつも通り』だった。

 わからなかった。

「どうして……」

「うん?」

「どうして、そんな、なのさ……」

 顔を俯け、唇を噛み締めながら言う。

 ぼくには、鏡花ちゃんの意図が図りかねた。もはや理解不能の領域だった。こんな、自分が死んでしまうって時に、どうして彼女は平然と、いや、堂々としていられるのか。

 だから、ぼくは腹を立てた。鏡花ちゃんの考えを理解できない自分の不甲斐なさと、そういった超然とした振る舞いをする彼女とぼくとの間に生じたへだたりが無性に悔しく、また、悲しかった。

「まったく、あなたは相変わらずね、タカ」

 感極まったぼくの問いにも、鏡花ちゃんはやれやれと言いたげに肩をすくめる。

「あなたはわたしにそんなことを聞きに来たのではないのでしょう?」

 ため息まじりに言われ、ハッとする。

「そ、そうだ、もう、あまり時間がないんだ」

 慌てて気を取り直す。

 それでも、鏡花ちゃんの方はというと、余裕たっぷりに微笑を浮かべるのみだった。

「わたしを連れ戻そうって魂胆なら、お断りよ?」

「……っ、わかってるよ」

 すげなく言われ、胸が痛む。

 けっきょく、鏡花ちゃんは鏡花ちゃんだ。ぼくがどれだけ彼女の身を案じようが、それは変わらない。

 理解しがたい。できるはずもない。

「でも、どうして……」

「言ったでしょう? 死は怖くない。むしろ歓迎するものだと」

 神を――イエスを信じていないのに、イエスと同じことを言う。

 やはり、理解に苦しんだ。

「あなたは知っているかしら? 道徳的な行いとはどういうものなのかを」

「…………」

「道徳的法則――すなわち自発性による実践的理性使用。発条ぜんまい仕掛けにも似た自然法則性に基づく理論理性とは全く異なる、先験的な、始動因しどういんとも言うべき。あたかも自らが発条を回す技師とみなすような、超越的な概念。それがカントが論じた道徳の定義よ」

 小難しい話を途切れさせることなく、むしろ流暢に捲し立てる。

 ぼくは、自分の無知さに恥じ入りながら、彼女の威風堂々とした弁論に聞き入った。

「――。行動の是非を主観で判断せず、むしろ客観的な視点に立って判断する。あたかも自分など存在しないように考える。つまり、道徳とは、

「じゃあ、ぼくの方が間違ってるって言うのか?」

 お前は甘いと風祭宗吾に嘲笑されたことを思い出し、激高する。

 彼女は自ら死を選んだ。自らの死によって、大勢を救おうと考えた。イエスと同じ行動を取った。

「きみが死んでしまうことが、正しいと?」

「考えてもみなさい、タカ。死からは、逃れられない。生きとし生けるものは、絶対に死ぬ。死とは、終わり。死とは、その人の可能性のすべてを奪い去る絶対的な不可能性。けれど、逆にこう言うこともできる。と。わたしは自らの不可能性を認め、受け入れることで、あるひとつの可能性を見出したの」

「ひとつの、可能性……?」

 一体、それは……。

「あなたよ、タカ」

「え?」

「わたしはね、あなたという存在に希望を見出したの」

「それって、どういう……」

「神が遣わした子羊。洗礼者ヨハネをしてそう言わしめた救世主。わたしにとってそれはあなた。生きていても死んでいてもどうでもいいと思っていたわたしを、この人のためなら死んでもいいと思わせてくれた、世界で一番、大事な人」

 ぼくの目を真っ直ぐに見て吐露された胸の内。その告白は、およそぼくの知りうる限りで最も美しく、最も残酷だった。

「神は、存在しない。でも、そう、だからこそ、

「…………」

「わかるかしら? 神にすがっていてはダメ、それでは誰も救われない。だからこそ、自らを神に仕立て上げなければならない。わたしは神がいないと知っている。だから、わたしは……神を否定し、欺き、裏切る。イエスを売ったイスカリオテのユダのように。神の存在を証明するために、神の存在を否定する」

「何を――」

 何を、言っているのか。脳が理解を拒む。わかっているからこそ、わかりたくない。

「じゃあ、今までぼくがしてきたことは無駄だったのか? こうしてきみを助けようと躍起になって……バカみたいじゃないか」

「……いいえ、そんなことはないわ。あなたが、わたしを助けてくれると約束してくれたから、わたしは満足に死ぬことができる。本来なら重く立ち込めるはずの不安の、その向こう側を覗き見ることができる。この時、初めて人は生きているって実感するの。。なぜなら、生と死は、互いを包含ほうがんし合っているから」

「…………」

 黒く淀んだ絶望が思考を支配する中、ぼくは彼女の言っていることの意味を考える。……死ぬということ、生きるということ。

 なぜ、人は死ぬのか?

 なぜ、人は生きるのか?

 死ぬために、人は産まれてきたのだろうか……?

 今のぼくには、何もわからない。わかるのは、暗闇の中で煌々こうこうと揺れる小さな灯火ともしびが、その最後の輝きを放ちつけているということだけ。狭い檻に閉じ込められた微かな光は、風のひと吹き、水の一滴でも垂らされればたちまちに消えてしまうほどに頼りない。

 それなのに……、それなのに……。

 ぼくは戦慄した。言葉が出なかった。ただ、意味を成さない嘆息が漏れ出るばかりだった。

 背筋をまっすぐに伸ばして正座する、凛とした彼女の姿。それはさながら一種の彫刻を思わせるほどにとてもまぶしく、また、美しかった。迫りくる死の恐怖におびえることなく、真正面から立ち向かう今の鏡花ちゃんより強くて、かっこよくて、たくましくて、それこそまさに神のごとく光輝燦然こうきさんぜんたる崇高な存在を、ぼくは知らない。おそらく、今後も知ることはないだろう、

 あたかも死の間際に瀕した夏虫が、最後の気力を振り絞ってひときわ高く切ない音色を奏でるように。痛々しいくらいに気丈な鏡花ちゃんは、己の命を削ってぼくに何かを伝えようとしている。それは何か。考えるまでもない。彼女はすでに明言していた。鏡花ちゃんは、自ら死に向かうことで、生きていることを……生命の神秘を証明している……。

 あまりにも逆説的。人間というのはかくも残酷で、これほどまでに尊い。

「最高善――神を前提として考える。そして、実際にそれに適うように行動する。実際には存在していない存在を、あたかも存在しているかのようにみなすこと――新たな因果性の創造。ただの可能性でしかない可想界が、現実的な現象界に干渉する……虚構と事実の逆転現象。カントはこれをと呼んだわ。……そう、人間には、自分をも含めた何者かを存在させるという能力がある。わたしはね、タカ、あなたを存在させたいの。……いえ、順序が逆ね。のよ。だから、今度は、わたしが……」

 もう、いい。

 もう、たくさんだ。

 もう、充分だ。

 ぼくの目には自然と涙があふれていた。視界が滲む。鏡花ちゃんの姿がぼやけ始める……。輪郭があやふやになる……。

「……ねえ、タカ。あなたには、本当のことを教えてあげる」

「本当のこと……?」

「わたしね、初めから、産まれてきちゃいけない存在だったのよ」

「なぜ――」

 なぜ、そんなことを言うのか。

 ここまで来たら、怒りよりも悲しみが先立つ。

って一族は知っているかしら?」

 理不尽な仕打ちの連続に震えながら、ややしてぼくは頷いた。

 蔵屋敷。この町に住んでいて知らない者はいない、地元の有力者。

「わたしね、あの家系の血を引いているのよ」

 衝撃だった。どう形容したらいいものか、とにかく、返す言葉に詰まった。

 鏡花ちゃんが、あの名家の血を……?

 一体、どういうことなのか。

 浮かぶ疑問が静寂に波紋を呼ぶ中、鏡花ちゃんは続けた。

「代々、蔵屋敷では、分家である姫百合家が使用人として仕えていた。光に寄り添う影のように、人目にほとんどつくことなく、半ば盲目的に付き従っていた。要するに満開の花に吸われつくされる養分、栄光の裏側に葬り去られる、生贄のような存在。そしてわたしは、巨人に踏みつけられる運命にある使用人の一人娘らしいのよ」

 鏡花ちゃんの口から語られる、世にも恐ろしい事実。

 これだけでも胸が悪くなるというのに、まだ話は続くようだった。そして、もっと恐ろしいことに、次に鏡花ちゃんの口から語られる真実こそ、この世で最も忌むべき現実のひとつだった。

「母が、孤児院にわたしを預けた時、一緒に手紙も添えたらしいの。そこに、すべてが書かれていたわ。今までは院長がひそかに隠し持っていたんだけど、わたしの最後だからって、その手紙を渡して、すべてを洗いざらい話してくれたわ。わたしは、

 ――不義の子。つまり、腹違いの子ということか。

 衝撃のあまり、一瞬、呼吸を忘れる。

 ハッとして鏡花ちゃんを見る。暗がりの中に映し出される、澄んだ瞳、わずかに持ち上がった、柔らかそうな口元。彼女は冷静さを保っているように見えた。

「そして……、あの、イイヅナ様役の女の子……」

 ふと――、自分に言い聞かせるようにつぶやく。

「……蔵屋敷鈴蘭……。あの子は、わたしの……」

 ――お姉ちゃん……。そこまで言って、口をつぐんだ。

 たったひとつの言葉が、バラバラだった欠片をひきつける。

 ぼくは、すべてを理解できた気がした。

「……偶然ではなかった。必然だったのよ。私は自らの意志で死を選んだというのに、あの恐ろしい男は、それさえも計算のうちに入れていた。ご丁寧に、自分の息子まで物語の演者に仕立て上げ、同じ舞台に立たせて――」

「息子? ――それって、もしかして……」

 淡々と語られる鏡花ちゃんの言葉に、ある、ひとりの人物が思い浮かぶ。

「……風祭周平。蔵屋敷家と親戚関係にある風祭家の一人息子。魔王サタン同然の悪辣あくらつな風祭宗吾の血を引いた、悪魔の子……」

 ――やはり、と思った。ぼくがイイヅナ様――蔵屋敷鈴蘭――と約束を交わした時に出会った、お坊さん役の子。彼が、すべての元凶である風祭宗吾の息子、風祭周平だったのだ。

「今日、初めて出会った彼女たちと少しだけ話して、すべてを理解したわ。そう……、すべては風祭宗吾の計画通りなのだと。……だから、わたしは、最後に一手を投じた。それがどう転ぶか予想もつかないけど、おそらく――」

 後半の話は聞こえなかった。ガンガンと、強い耳鳴りだけが、頭の中で響いた。

「計画って、何? 例の空港の話?」

 鏡花ちゃんは否定も肯定もしなかった。さみしげに伏せられた瞳から、その胸中を汲み取ることはできなかった。――それが無性に悔しかった。

「……なんだよ、それ。意味がわからないよ。どうしてそんなくだらないことに、鏡花ちゃんが巻き込まれなくちゃならないのさ! おかしいよ! 狂ってるよ! 何もかも、間違ってるよ……っ!!」

 腹立たしかった。憎々しかった。何が嫌かって、何もできない自分の不甲斐なさと無力さだ。それに一番、腹が立った。

「……残念だけど、もう、時間がないわ」

「え?」

 鏡花ちゃんが不意に手を伸ばす。ぼくの手に触れる。彼女の冷たい手が、ぼくを包み込む。

 手の間に、何か乾いた手触りの物が押し込まれた気がした。

「――ん」

 でも、その違和感は一瞬でかき消えた。

 唇に、温かな感触。

 目と鼻の先に、鏡花ちゃんがいた。

 確かなぬくもり。

 心臓が強く脈打つ。いや、この心臓の音がぼくの物なのか、もはや判然としなかった。

 鏡花ちゃんがすぐそばにいる。彼女の匂いがする。彼女が、確かに存在する。腕に収まる、小さな体。その中には、大海原よりも広くて大きな心が宿っている。冷たくて温かい、軽くて、しかも重みのある、矛盾をはらんだ存在。今にも儚く消えてしまいそうな、かけがえのない存在……。

 ぼくは考えることを放棄し、果ては自分自身の存在さえも忘却した。ぼくはぼくでありながら、しかし、ぼくではなかった。ぼくとは何か別の衝動が、心の奥底から沸き上がる。それは生命の息吹だ、と直感した。

 時間が止まる。空間と空間の境目がなくなる。ぼくと鏡花ちゃんは、今、この時ばかりは、ひとつに繋がっていた。

「……ん、ふぁ……」

 どれだけのあいだ、そうしていたのだろうか。一瞬か、はたまた永遠か。彼女が口を離した時、突然、時間は相対的であると誰かが言っていたのを思い出した。それが意識を取り戻したという合図だった。

「……好きよ、タカ」

 胸の中のすべてをえぐり取られるような衝撃。

「……さようなら」

 彼女は、笑顔だった。これまでに見たこともないような笑みを浮かべて、別れの言葉を告げた。

「ま、待って――」

 まだ、まだ、話し足りない――。こんなところで、終わりたくない、終わらせたくない――。

「こ、これ、これを……受け取って……」

 ぼくは、ズボンのポケットに押し込んだあるもの存在を思い出した。それを鏡花ちゃんの前に差し出す。

「あ……」

 驚きに目を見開き、ぼくとそれとを交互に見比べる。

「スズランの花だよ……、神様に……イイヅナ様にもらったんだ……」

「……そう、これを……、あの子から……」

 イイヅナ様が鈴蘭ちゃんだということをわかっているのだろう……鏡花ちゃんは優しく微笑んだ。

「ぼくは……、ぼくは……」

 鏡花ちゃんのことが……。

 ぼくの手の中で小さく揺れるスズランの花。

 でも、鏡花ちゃんは受け取らなかった。

「……それは、あなたが持っていて」

「え……、どうして……」

「スズランの別名は『谷間の姫百合』。……あなたになら、わたしがその花を受け取らない意味がわかるはずよ」

「あ……」

 姫百合……姫百合鏡花……。

 つまり、この花は……彼女自身……。


「――夏まつり よき帯結び 舞姫に 似しやを思ふ 日の嬉しさよ」


 耳に流れる穏やかな旋律。それは、発作的なぼくの衝動を止めるのに充分だった。


「君を見て 昨日に似たる 恋しさを 覚えさせずば 神よのろはむ」


 夏の日にそっと吹き抜ける涼風を思わせる、どこまでも澄み渡った調べ。


「このつかのま 悲みの日に 伝ふべき 甘さとふるへ 美くしと笑み」


 抜け殻となったぼくの心を、そっと、優しく撫でた。


「……辞世の句、とでも言いましょうか」

 束の間の静寂は、しかし、すぐに破られた。

 眠りから覚めるようにして我に返る。

 彼女が口ずさんだ短歌。それは与謝野晶子の『舞姫』の一節。そう気付くのに、時間はあまり要さなかった。

「……わたしは、姫百合鏡花は、死ぬ。わたしは、わたしとして、死ぬ。……そう、精神の死は、肉体の死を遥かに凌駕する」

「それって……」

 

 ――ガララ


 引き戸を開ける物音がして、反射的に振り返る。

「失礼、もう時間です」

 永遠とも思えた夢のようなひと時は、無残にも終焉を迎える。

 薄闇の向こう側。風祭宗吾の手先と思われる三崎さんが、残酷な終了を告げたのだ。

「――さあ、戻りますよ」

 無機質な声と共に、幽霊のような黒い手が伸びる。

 ぼくの手が掴まれる。物凄い力で、強引に引っ張られる。闇の向こうに――連れ去られる。

「待って、待ってよ……!!」

 訴えもむなしく、強制的に講堂の外へと放り出される。

「鏡花ちゃん――!!」

 鏡花ちゃんがいる! ぼくの目の前に、確かに、そこにいる!

 必死に、懸命になって伸ばした手は――しかし、届かない。

「……約束は……」

 鏡花ちゃんが何か言っている。よく聞こえない。ぼくがめちゃくちゃに叫んでいるからだとわかった。


 ――ピシャ


 講堂の扉が閉まる。いつの間に来たのか、数人の黒服が即座に講堂の脇を固める。

 もう、彼女の姿は、完全に見えなくなった。

 辺りは、闇に染まろうとしていた。

 視線を地面に落とし、落胆しながら三崎さんのあとを追う。

 憎い。すべてが憎い。身勝手で自分本位な大人たちもそうだけど、その大人たちに屈するしかない無力な自分が何よりも憎い……。

 初めてぼくは殺意と言うものを抱いた。それは神の不在証明を意味した。

 神はいない。だから、鏡花ちゃんは救われなかった。

 どうでもいい。神なんてどうでもいい。何が神だ。賭けはぼくの負けだ。それがどうした。

 ぼくは……、ぼくは……。

 鏡花ちゃんさえ無事でいてくれたら、それでよかったのに……。

 失意に沈みながら、どうやって周りの大人たちにひとあわ吹かせてやろうかと邪悪な考えに身を投じる中、不意に、自分の手に何かが握られていることに気付いた。

 なんだろう……ぼくは手を開いてみる。

 ぼくの手にあったのは、くしゃくしゃの紙切れ。それを広げてみる。


『高山の 草葉の陰に 在りし日の 姫百合啄み 堕つ閑古鳥』


 紙切れには、短歌が記されていた。それを鏡花ちゃんが書いたというのはすぐにわかった。

「う、うぅ……うっ……」

 またもや涙があふれてきた。鏡花ちゃんがどんな思いでぼくにこの短歌を託したのだろうと考えると、どうしようもなく胸が苦しくなった。

「鏡花ちゃん……、鏡花ちゃん……」

 脳裏によみがえる、彼女の姿。徐々に薄れていくその姿を、消えさせたくない。

 でも、現実はやっぱりむごかった。

 涙で滲んだ視界に何度かつまずきそうになりながら、ぼくは、再び、地獄の門の前に立った。

「……戻ったか」

 鉄仮面を被ったように無表情の風祭宗吾は、事も無げに言った。

「いやに大人しいな。先程までの威勢はどこに行った?」

 何も答えない。

 ぼくの心は荒んでいた。使い古されたぼろきれのように、至るところに穴が開いていた。その穴を覗くと見えるのは、黒々と渦巻いた激しい感情の波だった。

 ――儀式は、もう、始まる。

 鏡花ちゃんは、死ぬ。それは確実だった。

 ぼくには、もう、どうすることもできない。当の鏡花ちゃん自身が自身の死を受け入れているのだ。

 なら、ぼくに何ができるだろう? むしろ、

 けっきょくは、ぼくの独り相撲だったわけだ。勝手にぼくが喚いて、悲しんで、怒って、それで終わりだ。ただ、それだけの話だ。

 初めから、すべてを受け入れるべきだったのだろうか? ……でも、それだと、鏡花ちゃんの本心を聞き出すことはできなかった。それに彼女はこう言っていた。ぼくが鏡花ちゃんを救い出すと約束したから、死ぬことを選べたと。

(なんでだよ……、どうしてだよ……)

 まるでぼくが彼女を殺したかのような錯覚を覚え、慌てて振り払う。

 考えれば考えるほどわけがわからなくなる。思考の落とし穴にはまる。

(鏡花ちゃんは……、鏡花ちゃんは、最悪、それでいいのかもしれない……。けど、ぼくの気持ちはどうなる? この遣る瀬無い気持ちを……どこにぶつければいい?)

 到底、答えの出ない問いを、とりとめもなく考えていたら、不意に手のひらの違和感に気付いた。

(……紙切れ?)

 そうだ……、これは、あの時、鏡花ちゃんが……。

 大事なことを思い出したところで、ひとりの黒服が血相を変えて飛んできた。

「き、局長! お坊ちゃんが……、周平お坊ちゃんが……!」

「何事だ、騒々しい……。報告しろ」

「き、!」

「なんだと?」

 風祭宗吾の眉根が跳ねる。

「どういうことだ? 周平は先に祠へと向かったのではなかったか?」

「それが、坊ちゃんを護衛していた連中が、急に坊ちゃんの姿を見失ったと……!」

「そんな報告を聞きたいのではない! もっと、よく探せ! 草の根を掻きわけてでもな!! これは命令だ!!」

「局長の言うことはごもっともなのですが……! 部下のひとりが、坊ちゃんの捜索中、茂みの奥に恐ろしい怪物を見たとか言って、顔面蒼白で引き返してきまして……!」

「怪物だと?! なんだ、それは!!」

「……非常に申し上げにくいのですが、その……!」

「黙っていてはわからんだろうが! 正直に吐け!!」

 恐縮しきる黒服に向けた容赦ない恫喝どうかつが、境内に響き渡る。

「す、すみません! え、ええと、彼らは、その、天狗のような化け物が山道を徘徊していたと、なにやら要領を得ない証言を、うわごとのように繰り返していて……」

「天狗? 天狗だと? ……馬鹿な!!」

 にわかに騒然とする大人たち。

 ぼくも、天狗というおぞましい響きを耳に入れた途端、山中での出来事がまざまざとよみがえり、全身が震えた。

(あれは……見間違いなんかじゃなかったのか……?)

 そして、思い出す。尾前町に伝わるイイヅナ様の伝説の内容の一端を。選ばれた生贄を連れ去る『天狗』の存在を。

(まさか……、本当に……)

「局長、大変です!」

「今度はなんだ!!」

「先ほどから鈴蘭お嬢様の様子がおかしいと、住職が……!」

「なんだと……!!」

「いきなり全身が震え、白目をむいて痙攣けいれんしだして……! 目の焦点も合わず、口からはぶくぶくと泡吹いて……!」

「……ふざけるな……ッ!!」

 怒りに打ち震えた風祭宗吾の怒号がこだまする。

「あれではまるでですよ……! 住職が言うには、イイヅナ様の祟りだとか……! もう、我々の手には負えません……!」

「く……! 何が、どうなっている……!!」

 慌てふためく黒服と、冷静さを欠く風祭宗吾。

 ぼくは、状況がまったく飲み込めず、ただ、呆然と立ち尽くすのみだった。――風祭宗吾が、怒りに染まった顔をこちらに向けるまでは。

「――まさか、貴様の差し金か?」

 地獄の響きのような低い声色。

 対するぼくは、声が出なかった。憤怒ふんぬの形相でぼくを見下ろす彼に凄まれ、息が詰まる。

「なるほどな。確かにおかしいとは思っていた。貴様のような理知的な小僧が、何の打算もなしに私に近付くはずがない。それはあまりに稚拙ちせつだ、不用意すぎる」

 思わぬ方向に話が進んでいる。

「……貴様、仕組んでいたな?」

 誤解だった。

 しかし、そうではないと言い切れない自分がいたのも事実だった。

 なぜなら、心の中のどこかでは、こうなることを望んでいたのだから。

「もっともらしく行われた青臭い説法は、ただの時間稼ぎだったというわけだ。祠に出向いた周平を、我々の監視の目から逸らさせるためのな。それに加え、貴様は祠の周辺をうろついていたらしいではないか。じつは、先んじて祠に向かった鈴蘭にも、会っていたのではないのか?」

 舌鋒ぜっぽう鋭く問い詰められ、頭が真っ白に染まる一方、祠での出来事が脳裏をよぎる。

 その一瞬の沈黙が、決定的な答えになった。

「どうなんだッ!!」

「……その通りです!」

 大声で白状する。このまましらを切りとおせるはずがない。仮に鈴蘭お姉さんと会っていなくても、彼のこの剣幕を前にして平静を装うなど無理な話だ。

 にわかにざわめく周囲の黒服と、得心したように小さくうなずく風祭宗吾。動揺と沈黙。恐ろしいまでの対比が、事態の異常性をことさらに象徴した。

 瞬間、怒りを押し殺すように真一文字に結ばれていた風祭宗吾の口元が、思い切りつり上がる。

「……くくく、そうか、そうか。ようやく本性を現したか。なかなかの演技だったぞ、この偽善者めが」

 まさに悪魔的。地獄を治める首領とも称すべき恐怖の権化が、そこにいた。

「貴様は、この落とし前を、どうつけるつもりだ?」

 冷酷な光を宿した眼差しで睨みを利かせる。

「もはや言い逃れはできんぞ?」

 槍の雨のように注がれる鋭い視線に射抜かれ、ぼくはこの場に釘付けとなる。

 突然、行方をくらませた風祭周平と、急に気が触れてしまったという鈴蘭お姉ちゃん。今回の主役ともいうべき二人がこうなってしまっては、とても、儀式は実行できないだろう。

 そのうえ、ぼくが例の二人を儀式に参加できないよう手引きしたと、あらぬ疑いをかけられている。幸か不幸か、奇跡的な偶然の連続は、しかし、用意周到な計画性にもとづいた必然の出来事とみなされてもおかしくはない。

 ひとり、残された鏡花ちゃん。ぼくは彼女を思った。今も薄暗い講堂の中で、孤独に死を臨んでいる健気な少女。

 他の人のために自らを犠牲にする彼女に報いることはできないものか。 

 その時だった。ぼくはとても恐ろしいことを思いついた。まさに悪魔の誘いだった。

 意を決し、震える口を開く。

「ぼ、ぼくが……、代わりに……」

「貴様の命など、そこらの虫けらより軽い!!」

「ぃっ……!」

 容赦なく浴びせられる罵声にビクンと全身が跳ねる。

「死に方を自分で選べる立場か? このドブネズミ風情が。聖人よろしく英雄的に殉教しようなどという甘ったれた考えが、この私に通用すると思うな。日本の未来を占う大事な行事がふいに終わったのだ。貴様には、死よりも辛い現実を味わわせてやる」

「そ、それは……」

「貴様も知っての通り、我が息子、周平は、儀式に向かう最中で消息を絶った。部下は天狗がどうとかのたまっているが、現実的に考えてそれはありえない。だが、何者かに連れ去られた可能性はある。私は、この町の裏事情に精通している。ある組織が我々を敵視していることも、充分に承知している。大方、年に一度の儀式に便乗し、かつての伝説を踏襲したくだらん演出で我々の揺籃ようらんを狙ったのだろうが、今はそんなことはどうでもいい。重要なのは、貴様の処遇を決定することだ。奴らの捨て駒とも言うべきいやしい家畜の貴様を、どう料理してやるか、私はそれだけを考える」

 生気の失われた暗い目つき。

 もしも視線だけで人を死なせることができたなら、ぼくはきっと殺されていただろう。そう思わせるほどに、彼の発する鋭利な視線は胸を刺し貫き、全身をずたずたに引き裂いた。

 どのようにしてぼくをいたぶるのかを企む狡猾こうかつな表情は、しかし、不意に曇った。

「……小僧、貴様、学業の成績は良い方か?」

「え……?」

 いきなり、何を言い出すのか。

「答えろ。貴様の成績の順位は?」

「……に、2番です」

「1番は?」

「……鏡花ちゃんです」

「ふむ……」

 獲物を品定めする強者の所作。ぼくは身動きひとつ取れず、されるがまま。

「面白い……」

 ぐにゃりと歪む口角。醜くつり上がった表情を見て、ぼくはこれから発せられる恐ろしい言葉を予期した。この時ばかりは、自らの察しの良さを呪った。

「高山ヒトシ。

 事実上の死刑宣告。

「貴様は今日から私の息子だ。

 ぼくは耳を疑った。唖然とした。

 しかし、弱者をなじる高圧的で傲然ごうぜんとした風祭宗吾の狂気じみた表情が、これが性質の悪い冗談でないことを思い知らせる。

 あろうことか、この恐ろしい男は、ぼくという赤の他人を、第二の風祭周平その人として育て上げることを宣言したのだ。これは一種の殺人だった。それも、ぼくだけではない、現時点では行方不明でしかない風祭周平すらも殺すに等しい残虐な思惑だった。

「そもそもの話、周平は我が息子ながらかなり出来の悪い男でな。政治学や経済学よりも、むしろ抽象的な概念に心を傾けかけていた。小僧の信仰するような神が良い例だ。あんな出来損ないなど、このまま消えてしまった方がまだましだ。無様に生き恥を晒すよりは」

 じつの息子すら、彼にとっては軽蔑の対象だった――そんな、知りたくもないことを知ってしまい、全身を悪寒が襲った。

「くくく、いい機会だ。何をさせても中途半端な周平を見限り、敬虔けいけんな信徒である貴様を国の奴隷に仕立て上げる。貴様にとってはまさに神に対する反逆というわけだ。じつに面白い試みではないか」

 人を人とも思わないこの怪物を前にしては、ぼくがこれまでに築き上げた倫理観など無力に等しい。

 ――殺される。

 このままでは殺されてしまう。

 だから、どうしても生き残る方法を考え出さなければいけなかった。

 ――そうだ! 生きなければ!!

 消えかけた命の炎が、その最後を迎える寸前であるかのように赤々と燃え盛る。

 生きるんだ! 生きなければいけないんだ!!

 鏡花ちゃんに繋いでもらったこの命を、無駄にしちゃいけないんだ!

 ぼくが生き残る唯一の方法。それはすぐ目の前に提示されているじゃないか!

 手を伸ばすんだ! 掴み取るんだ!!

 かけがえのない、未来を――!! たとえ、絶望の色に染まっていたとしても、ぼくは――!!

「……小僧。貴様の方も異存はないな?」

「……はい」

 腹は決まった。もう、迷いはない。

 これで……生き残ることができるというなら……。

 ぼくは両膝と両手をつき、額を固い石畳の上に押し付けた。

「これからよろしくお願いします、

 心を凍り付かせる。

 風祭宗吾に服従するということは国に忠誠を誓うのと同じであり、それは神を捨てることに他ならなかった。

 そう、神。神様。ここまでぼくが窮地に追い詰められてもなお、依然、沈黙を保ち続けている絶対善。

 神様はいなくなってしまった。ぼくの心から抜け出して、外にも、中にも、どこにも、見出せなくなってしまった。

 そして、痛感した。こうしてぼくから神様が抜け出したと実感するいうことは、確かに今まで、ぼくの中に神様がいたということを……。

 涙が、自然と溢れ出る。

 聖ペトロや聖ステファノのように、神のために死ぬことさえ許されない。あまつさえ神ではなく、風祭宗吾と言う名の権力相手にこうべを垂れる。これを神への裏切り行為と言わずして何と言おう。

 これは絵踏みだ。イエスを踏みつけ、なじるのと一緒だ。神を信じるぼくにとって、これ以上の恥辱はない。

 それでも、こうして地獄への一歩を踏み出してしまった以上、もう、後戻りはできなかった。

「いいぞ、いい返事だ。なかなかどうして貴様は見込みがある」

「……はい」

 再度、ぼくは返事する。

 気分の悪くなる屈辱感が、一気に喉の奥から込み上がってきた。

 ……これが最善の選択だとは思わない。ただ、最悪の選択ではないのは確実だった。

 もとよりぼくは孤児だ。唯一のよりどころである孤児院が取り壊されれば、みんなとも離ればなれになる運命にあった。

 だったら、すでにぼくの居場所はない。

 それに、ここでぼくが断れば、鏡花ちゃんがどうなるのか、わかったものじゃない。収まりきらない風祭宗吾の怒りの矛先が彼女に向かわないとも限らない。今のぼくよりも、もっと恐ろしい目に遭うかもしれない。

 なら、今度はぼくが、鏡花ちゃんを――。

 決心はすでに固まっていた。

 今、この瞬間から、ぼくは。少なくとも精神的には高山ヒトシは死んだ。

 そして、数年後には、戸籍上でも高山ヒトシは死亡する。

 は存在しなくなる。

「なかなか物分かりが良いな。私は賢い人間が好きだ」

 急速に心が冷えていく。

「それでこそ、叩き潰し甲斐があるというものだ……」

 恐怖も悲しみも感じない。

 まるで、自分が徐々に死んでいくのを自覚しているみたいだった。

 辺りは闇に包まれる。

 ぼくの手に握られたスズランの花が、力なく、こうべを垂れていた。

「どうか、お願いがあります」

 心を凍り付かせて懇願する。

「鏡花ちゃんは、鏡花ちゃんだけは助けてください」

 神様ではなく、悪魔に救いを求める。

 これほどの忘恩もなかった。

 気持ち悪い沈黙が流れる。

 石畳に接する膝の痛みが感じられなくなるくらいに、体の感覚が麻痺してきた頃だった。

「……ふ、いいだろう。

「え……?」

 予想に反した期待を抱かせる返答に、思わず顔を上げる。

 土下座するぼくを威圧的に見下ろす風祭宗吾の姿が、涙で滲んだ視界に入った。

「貴様の願い通り、姫百合鏡花は助けてやる。――、な」

 子に対する温情の欠片も感じさせない、冷酷で邪悪な笑み。

 ぼくは、これからずっと、こんな悪の権化に付き従うのだと想像し、気が遠くなった。


 ……それからのことは、よく覚えていない。

 ぼくは風祭家に引き取られた。風祭周平と名前を変えて。

 これも運命か……、ぼくは自らの行く末を悟った。

 でも、自分のことなんてどうでもよかった。鏡花ちゃんさえ無事なら、それでいい。ぼくがどうなろうと構いやしない。

 心残りは、神様と交わした約束のことだった。あの日、あの時、大天山で何が起こったのだろうか?

 果たして、ぼくは、あの夏祭りの日に交わした大事な約束を、いつまでも忘れずに覚えていられるだろうか?

 それだけじゃない。ぼくには守らなければいけないものがいくつかあった。露木くんにも、絶対に戻ると誓った。あの、ツンツンした琴音ちゃんとも約束した。もう一度、会うって。そう……約束したんだ。

 いつか、再び、ぼくは戻ってくる。

 みんなとの約束を果たすために――。


 ――天狗攫い。1961年7月7日。尾前町で。姫百合鏡花と、高山ヒトシ。年に一度の夏祭りの日に発生した奇怪な事件は、新国際空港開発を目指していた政府からの圧力によって揉み消され、表沙汰になることはついになかった。

 かつて存在したはずの少年少女の存在は、人々の記憶から薄れていき、そしていつしか消え去った。

 ぼく……、いや、


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。

 

「そんな、馬鹿な……」

 長い、あまりにも長い悪夢から覚めたような感覚。

 真っ暗な蔵屋敷の屋敷の一室。半身を起こして呆然と居つくす中、取り戻した過去の衝撃のあまり、思わずつぶやいた。――つぶやかざるを得なかった。

「ぼくは……風祭周平じゃなかったのか……」

 ぼく……、いや、おれは、思い出していた。5年前と、それ以前の記憶のほとんどを。

 胸が痛い。頭痛が鳴りやまない。涙が溢れて止まらない。

 嗚咽おえつを押し殺し、おれは、ただ、泣いた。

(鏡花ちゃんは……、鏡花ちゃんは……、どうなったんだ?)

 溢れ出る涙を拭うこともできず、絶望に打ちひしがれていたおれだったが、あの少女のことが無性に気になった。かつて、ヒトシだったおれを導き、命を賭して生きるということの意味を教えてくれた恩人。

 やはり、あの土蔵の中に閉じ込められているのだろうか? イイヅナ様の怒りを鎮めるための依り代として、今も……。

 ありえない話ではない。

 そうでないなら、夜な夜な聞こえる、あの呪詛のような唸り声の説明がつけられない。

「これが……、これが、あの時……、おれが選んだ選択の結果だと言うのか……」

 むごい。

 むごすぎる。

 純粋な子供の想いを踏みにじる卑劣な大人と、彼らを擁する理不尽な社会に対し、改めて憎悪が募る。

 もしも、今、目の前に、国家に与する公僕がいれば、おれはそいつを間違いなく殺していただろう。

 だが、皮肉にも、

 まさに悪夢だった。悪い夢だと思いたかった。今までがそうだったように、おれが風祭周平だと心から信じ込めたなら、どれほど良かったことか。

 だが、これは現実。嘘偽りのない真実の記憶。

 おれは……、おれは……。

「う、ああ……! ああああっ!!」

 頭を壁に打ち付けたくなる発作的な衝動。

 自殺衝動とも言うべき破滅的行為は、もはやおれでは止められない。

 壁に手をつき、思い切り頭を振り上げる。


『――生きるのよ、タカ』


「ぐっ……!」

 大きな風切り音が鳴り、勢いよく頭が壁に衝突する、まさにすんでのところだった。

「はあ、はあ……!」

 消えかけた理性の火を灯し、どうにかして正気を保つ。

 歯を食いしばりながら、荒く息を吐く。

 ――待て! 待つんだ!

 血気にはやるな! 暴力に身を任せてはいけない!

 一旦、自らに冷静さを課す。

 感傷的になっていても仕方ない。

 おれは、自らの心を鬼にする。

 そうやって感情を律することで、おれはあの地獄のような日々を乗り切ったのだ。

 憎き風祭宗吾の息子の名をかたることで生き延びたおれの精神力は、伊達ではない!

 さあ、考えろ。頭を使え。知恵を振り絞るんだ。

 5年前のあの日……、本物の風祭周平が消え、鈴蘭の気が触れた……。

 鈴蘭は……、彼女はどうなった?

 過去の記憶では、彼女の安否について知ることはできなかった。

 どうも、風祭宗吾の部下が言うには、儀式に臨む直前で発狂したとのことだが……。

(しかし、今の鈴蘭の状況はどうだ? まるで健康そのものだ。それこそ、5年前の事件など何もなかったとでも言うように……)

 その点が、どうにも不可解だった。

 しかし、今論じるべきは、そこではない。

 おれが確かめなければならないことは、他にも数多くあった。

 本物の風祭周平の行方は、どうなったのか? 5年前に見たあの天狗と、謎の男に捕まったおれを助けた天狗は、同一か? そもそも、なぜ、おれは、拉致されたのか? どうして中島氏が殺されなければならなかったのか?

(そうだ……、おれには、切り札がある……)

 起き上がり、電気を点ける。

 視界が黒から白に染まり、追って、畳敷きの部屋の内装が明らかになる。

 おれは床に放置されている小包に意識をやる。

 石蕗から手渡された、速達の小包。秘書の三崎さんに、過去に尾前町で起きた事件や、人物についてまとめてもらった資料が、この中に封入されている。

 そして、今日、高校で東から手に入れた情報……。これらを駆使すれば、今までおれを苦しめ、束縛する呪縛から、すべてが解き放たれるかもしれない。

(まだだ……、まだ、すべてが終わったわけじゃない……)

 むしろ、ここから始まるのだ。風祭宗吾を超え、イイヅナ様を超え、鏡花ちゃんを助けるための挑戦が――今、この瞬間から。

 国家の犬と化したおれが何を今さら、未練がましく過去にすがろうとしているのか。そんな、自分に対してのあざけりはもちろんある。

 だが、おれはむしろこう言いたい。今のおれだからこそ、鏡花ちゃんを救うことが可能なのだと。

(そうだ……、死に物狂いで知恵をつけ、従順なふりして国の懐に潜り込んでいるおれなら……)

 おれは机の上に置いてある一枚の紙切れに手を伸ばす。


『高山の 草葉の陰に 在りし日の 姫百合啄み 堕つ閑古鳥』


 写真。幼い頃の天宮と、殺された中島氏が写った写真。その裏側に記された、ひとつの短歌。

 これと同じものを、おれは目にしたことがあった。

 それは、他でもない、5年前のあの日、あの夜……。

 講堂での別れ際、鏡花ちゃんがおれの手に忍ばせた一枚の紙片。そこに、これと同じ短歌が記されていた。

 不可解とも言える一致が無意味な偶然ではないことは、すぐにわかった。

(この短歌には、何か、意味が隠されている。それも、隠された真相に肉迫できるほどの重要な意味が……)


 ――とんとん 


 その時だった。閉ざされたふすまの向こう側から、軽いノックの音がしたのは。

「周ちゃん、少しいいかしら?」

 この声は……和子叔母さんか。

 時計を見る。時刻は9時を回ったところ。

 どうやら、本格的に眠っていたわけではなかったようだ。

「ええ、少しなら構いませんよ」

 とりあえず返事をする。

「今、露木くんって子から電話があってねえ、周ちゃんの知り合いでしょ?」

 ……え?

「……今、なんて?」

 聞き間違いじゃなければ、露木の名が出てきたような……。

「ええとねえ、露木くんって子から電話があって、周ちゃんに変わってくれって」

「……露木の奴が?」

 慌ててふすまを開ける。

 きょとんした表情の和子叔母さんが、薄暗い廊下に立っていた。

「なんだか、焦った様子だったわよ。早く出てあげなさいな」

「……わかりました」

 小さく頷き、電話がある廊下の曲がり角まで急ぐ。

「……電話、変わったぞ」

 受話器を取り、やや緊張しつつ尋ねる。

 奴が直接、連絡を入れてくるなど、只事ではない。

 嫌な予感がした。

「……何か、問題が発生したんだな?」

 何かがあったであろうことは確実なので、そう尋ねる。

『風祭か……』

 電話越しに聞こえた露木の声は、心なし、なんだか息を切らしているように感じられた。

『問題、か……確かにその通りだ……、今は理由わけあって詳しくは話せないが……』

 そこまで言うと、奴が口をつぐんだ。

 不意に漂う沈黙。

 ……なんだ?

『……いや……、そうは言ってもだな……』

 電話の向こうで、露木が誰かと揉めているかのような話し声がした。

『……ああ、もう、じれったいわねえ! ちょっとそれ貸しなさい!』

『ちょ、おい! 勝手に受話器を……!』

 露木の非難を押し退ける形で、横から女が割り込む。

 このよく通る声は……。

『シューヘイ! 聞いてるんでしょ?! 今すぐに孤児院まで来なさい! これは命令よ!』

 鼓膜を突き破りかねない勢いで、あの天宮が声高に断言した。

 まさか奴が露木と一緒にいるとは思わなかったので、一瞬、呆気に取られた。

『おい……! あまり大声出すと、奴らに勘付かれるぞ……!』

『でも……! こうでもしないと、シューヘイは……!』

 奴らは何かを言い合っている。二人の声がもつれて内容までは聞き取れない。

 だが、それよりも気になることがった。

「待て、さっき、孤児院と言ったな? お前たちは孤児院にいるのか?」

 声を大にして問うと、二人の口論が収まる。

『……ええ、そうよ。ちょっと調べたいことがあったから、放課後、孤児院まで来たのはいいんだけど……。そこで問題が発生して……』

 問題。露木からも聞いた。孤児院で何かが起こっている。それは間違いない。

『でも、あたしたちだけじゃどうにもならないから、シューヘイを……』

『……俺の方は、あまり乗り気じゃなかったんだが、こいつがどうしてもと言うからな……』

「……そういうことか」

 何となく話は飲み込めたが、それにしても、いまいち要領を得ない。

 なぜ、二人はおれに助けを求めて来たのか。どうして孤児院に居るのか。そもそも、孤児院で何が起きているというのか。

 深刻そうな空気が電話の向こうで流れる中、おれはひとり、蚊帳かやの外にいた。

『とにかく、一大事だ……、今すぐに孤児院に来てくれ……』

 意図的に声を潜めているのか、奴は途切れ途切れに小さく言った。

「しかし、なんだって、こんな時間に……、孤児院の門限はとうに過ぎているはずだぜ?」

 何よりも不可解なのは、その点にあった。本来なら、露木も天宮も関係者に閉め出されておかしくない時間帯だ。

 二人はいつから孤児院にいたのだろうか? 天宮は放課後と言っていたが、それならどうしてこんな時間まで残っているのか?

 さらに言えば、二人は何のためにおれを呼ぶのか……。

 おれは、もう、高山ヒトシではなく、孤児院の土地を奪った風祭宗吾の……。

『……待て、……まずい、奴らがこっちに来ている……!』

 突然、焦ったような口調に変わる。

 そこで、おれは我に返った。

「どうした? 奴らってのは誰のことだ?」

 しかし、返事は返ってこない。

 代わりに、『てめえ!』だとか、『どこに電話してんだ!!』とかいう、ガラの悪そうな男の怒号が聞こえた。

 およそ平和な孤児院のものとは思えない物騒な言葉に、おれは息を飲んだ。

 最後に、天宮の短い悲鳴と共に何かが壊れるような甲高い物音が響いて、通話が切れた。

 耳に痛い静寂は、おれの心臓の音ですぐさま上書きされる。

(なんだ? 孤児院で何が起こっている?)

 

 震える手で、そっと、受話器を置いた時だ。


 ――ジリリリリリリリ


 すぐに電話が鳴る。放心状態だったおれは、予想だにしないけたたましい音色に驚くが、半ば反射的に受話器を取る。

「もしもし? 露木か? さっきの騒ぎはなんだ? 誰か、無関係の人間が紛れ込んでいるのか?」

 矢継ぎ早に問う。返事はない。

『――

 電話の相手は、しかし、露木でも天宮でもなかった。

 妙な自信に満ちた、挑戦的な声。

 昔、どこかで聞いたことがある気がした。

「……誰だ、お前は?」

 慎重に出方を窺う。

『ご挨拶だな、せっかく念願の対話を果たしたというのに』

 念願? ……久しぶり?

「何の話だ? もう少しわかるように説明してくれ」

『そうか、なら、教えてやろう。は――』

 一瞬の間。

 おれは固唾を飲み込んだ。

『――

「……なんだと?」

 びりびりと体に電流が走る感覚。

 まさか――いや、そんな……。

 動揺を隠すので精一杯のおれに構わず、その男はさらに続けた。

『お友達を助けたかったら、今すぐに孤児院まで来ることだ。ただし、お前ひとりでな。このことを第三者に伝えるのは許さない。警察に連絡するなどもってのほかだ。仮にそうすれば、お友達がどうなるか……わかるよな?』

「っち、貴様……」

 こいつが誰かどうかはともかく、まともな精神の持ち主ではないことは確実だった。

『タイムリミットは今夜10時まで。その時までにお前が孤児院に来ていないことがわかれば、やはり、お友達には酷い目に遭ってもらう。責任重大だな、ふふ……』

 何がおかしいのか、電話の向こうの奴は不敵に笑った。

 おそらくは神経を逆撫でするための話術に動じることなく、おれは考えた。今、孤児院で何が起こっているのかを。

 おれの予感が正しければ、。その可能性が高い。

 あの冷静な露木の焦り具合と、ふと耳に入った何者かの怒鳴り声。およそ普通ではない状況にあるのは明らかだった。

 そして、今の怪電話。まるで、立てこもり犯の要求そのものではないか。

 では、孤児院が占領されていると仮定して、どういった連中が孤児院を占拠して得をするのか。

 争点となるのは、孤児院そのものではなく、孤児院が建っている場所柄にあった。

 暴力団によって差し押さえられた、政府に売却予定の土地……。

 もしや、この男は、風祭宗吾が口を酸っぱくして言っていた『亜細亜八月同盟AAA』の――。


『互いに離ればなれとなった星々が巡り合うその時までに決断を下さなければ、神はその鉄槌を無慈悲に振り下ろすだろう――』


 今、この瞬間を待ち構えていたかのように、奴らから送り付けられた脅迫状の一文が蘇る。

 互いに離ればなれとなった星々が巡り合うその時――7月7日。

 まさか……。

『どうした? やはり人質があの二人だけでは気が乗らないか?』

 おれがいつまで経っても返事をしないからだろう、男は試すように尋ねる。

『姫百合鏡花は知っているな?』

「――っ!?」

 男の口から出た思いもよらぬ名前に、おれの心臓が大きく飛び跳ねる。

『ふふ、その様子だと、どうやら彼女を知っているようだな』

「っ……」

 驚きのあまり言語を失したおれの反応から思考を読み取ったのか、男は勝ち誇ったような笑い声を漏らす。

と聞けば、さすがのお前も重たい腰を上げざるを得まい?』

「お前、鏡花ちゃんを……!」

 受話器を持つ手に力が入る。

 だが、どうして……?

 彼女は、今も土蔵に閉じ込められているはず……。

(……いや、違う……)

 考えて、すぐに自らの愚かさに気付く。

(そうだ、おれが土蔵に忍び込もうとした、あの時……!)

 土蔵の隣に立つ木から落ちて気絶したおれを、奴らは拉致した……。

 つまり、蔵屋敷家に簡単に侵入できる範囲に、奴らは潜んでいたということだ。

 ならば、当然、鏡花ちゃんだって、奴らがその気になればすぐにでも拉致することができる……。

 っち、おれとしたことが……! こんな簡単なことに、今まで気が付かなかったなんて……!

『待っているぞ、風祭周平。今度は尻尾を巻いて逃げないことを期待している』

「おい、まっ――」


 ――プツリ 


 そこまで考えたところで会話が途切れた。おれに発言の隙を与えず、奴は一方的に通話を切ったのだ。

「――くそっ!」

 力任せに受話器を置く。

 込み上がる怒りを抑えるのに、若干、手間取った。

 考えなければいけないことが沢山あるのに、現実がそれを許さない。怒涛のように押し寄せる狂った出来事の数々がおれを追い詰める。

(露木、天宮……、鏡花ちゃん……)

 5年前……、高山ヒトシだったおれと深い関係にあった人々……、かけがえのない仲間たち……。

(どうして……、どうして、こんなことに……)

 胸が押し潰されるような深い悲しみがおれを襲う。

 だが、弱音を吐いている場合じゃない。

 おれには果たすべき約束がある。

(落ち着け……、落ち着くんだ……)

 神経を目の前に集中させ、余計な雑音を排除する。

 おれは東に聞いた話を思い出していた。尾前町を裏で支配する、山村地区を根城とする暁光会の古株と、天狗攫いの相関性……。

 そこには、ある組織が深く関わっていた。

(『亜細亜八月同盟AAA』……)

 無関係とも思われた二者だが、しかし、裏では互いに結託していた。

 彼らが一体何をしていたのか。

 述懐するのもはばかれる非道なそれは、おれのよく知る5年前に起きた失踪事件にも通じていた。

 秘密裏に行われていた彼らの罪。それは、孤児院から手頃な子供を見つけ出し、ソ連を筆頭とした共産圏の国に売却すること。要するに人身売買だ。

 身の毛のよだつ真相を東から聞かされた時、おれはめまいがした。

 性質の悪いことに、彼らの目的は、何も、金銭だけではない。拉致した子供は外国の反社会的組織によって専門的な教育を施される。つまり、工作員の発掘と育成こそが真の狙いなのだ。

 地元民の戸籍を乗っ取り、他人がその人物に成りすます、いわゆる背乗りも、同時に行われていたらしい。

 その見返りとして、彼らは新国際空港開発妨害工作のための援助を受けていた。東が、すべて吐いた。尾前町は、自らの利潤のためなら古来の伝承さえも利用する、そういう罪深い町なのだと、洗いざらい喋ってくれた。

 彼女はこうも言った。涙目で頼み込んだ。この町で何百年も繰り返されている悲劇を終わらせてくれと。

 おれは、彼女の期待に大きく頷くことで応えた。

 そうだ……、おれは、そのために特派員になったのだ。くだらない迷信を打ち砕き、隠された真実を明らかにするために。

 失いかけた信念が鎌首をもたげる。

 おれは再び、思考を開始した。

 話を戻そう。孤児院と教会堂側は、常に、木田組に脅されていた。明星が頻繁に孤児院を訪れていたのもそのためだ。

 孤児院側も、苦肉の策だったに違いない。木田組を飼っている明道銀行からの援助が滞ってしまっては、元も子もない。孤児院を守るには、彼らの言いなりになるしかなかったのだ。それだから、十兵衛は、天狗攫いと言う名の拉致に遭ったのだ……。

 ここまでは繋がった。

 あとは、なぜ、今まで表立った活動を控えていた『亜細亜八月同盟AAA』が、今になって、突然、孤児院を占拠するという暴挙に出たのか……。

(それに……、あの電話の男は……)

 まるで、おれのことをすべて知っているかのような口ぶり。奴こそが、おれが倒すべき相手なのか?

(ひょっとしたら……、明星を使って浅間たちをたぶらかし、無理心中にまで追い詰めたのは……)

 それだけじゃない。時を遡って鑑みれば、神田製鉄の粉飾決算を暴露したのも、もしや……。

 可能性としては充分に考えられる。国内有数の鉄鋼会社である神田製鉄が倒産すれば、関連子会社も連鎖的に潰れていく。そうなれば、新国際空港開発を担う企業が相対的に少なくなり、工事に遅れが生じる。奴らはそれを狙っていたのではないか。

 次々と、点と点が線で繋がっていく。

(そうだ……、疑うべき個所はまだまだある……)

 あの中島氏が殺害されたのは、こうした尾前町の秘密に図らずとも迫ってしまったからではないか。

 そう、彼は、口封じのために殺されたのだ。

 庄屋出身の東ですら、絶対に口外することを許されなかったほどの町の闇。完全な部外者で、しかも記者である中島氏が真実を知ったとなれば、ただじゃ済まないだろう。

 だから彼は死んだ。無惨に殺された。おそらくは、奴らの手によって。

 だとすると、南条のおっさんも奴らの手先だったのか? ――いや、そうじゃないと逆におかしい。

 尾前町の農協に属していた彼なら、自分の農地を奪われるのは死よりも辛いことだっただろう。それゆえ、国家に敵対する『亜細亜八月同盟AAA』に加担したとも取れる。

 そして、彼も、もう、この世にはいない。

 ……おれが、直接、この手で……。――まさか、それさえも仕組まれた罠だったと?

 思った瞬間、戦慄が走った。

 確かにそうだ、今思えば不自然だった。どうして酒に酔った南条のおっさんが小屋に現れたのか? 無防備にもほどがある。まるで、と言わんばかりじゃないか。

 犯行現場の様子を見に来るほど用心深い人間が、普通、そんなことをするだろうか?

(誰かに、指示されたから……?)

 その『誰か』とは、おそらく……。

 おれは電話の主を思い返す。迷いのない、はきはきとした口調からも窺えるように、保持する自信に裏打ちされる相当な実力を持つと思われる人物。

 確証はない。

 しかし、確信していた。

 あいつが、あの男こそが……。

 この一連の事件の……。

(……とんでもない男が現れたものだ)

 他人を騙し、欺き、躊躇なく蹴落とす恐ろしい男が、おれに接触してきた。ご丁寧に、宣戦布告というおまけつきで。

 不思議と恐怖はなかった。それよりも怒りの方が大きかった。

(……ふざけやがって)

 おれは、名前はおろか姿さえ見たこともない人物に対し、肥大しきった憎悪のかたまりをぶつける。

(いいだろう。相手が一騎打ちをお望みなら、おれはそれに乗っかってやる。……このおれ自身の手で……決着をつけてやる)

 自然を保護する名目で活動している過激派の『亜細亜八月同盟AAA』と、国お抱えの手駒である特派員であるおれ……どちらが正しいか。

 沸々と煮え滾る怒りを隠し、部屋に戻る。

 ふすまの前には、まだ和子叔母さんが立っていた。心配そうな表情でおれの顔を覗き込む。

「何か、大事な用事?」

「……まあ、そんなところです」

 おれの心境を悟られぬよう、言葉少なに答える。

「あまり無茶はしちゃ駄目よ、若いからって頑張り過ぎたら、あとが大変なんだから。鈴蘭も、今日は早めに休んだみたいだしねえ」

「わかっていますよ……」

 他愛のない言葉を交わし、別れる。

 おれは、ひとり、準備を進めた。

 ふと、枕元に置かれた一冊の本に意識が向かった。 

 ――『舞姫』、か。おれは不意に小説の内容を思い出す。

 やはり皮肉だ。おれも豊太郎と同じ、愛する者を救うのではなく、権力の庇護に置かれることを望んだのだ。そうでなければ、守れるものも守れないと知ったから。

 豊太郎の愛したエリスと同じように発狂した鏡花ちゃん。今もまだ、冷たく暗い牢獄の中に囚われ続けている。この5年間は日の当たらない土蔵で悪夢のような時間を過ごし、そして、今夜に至っては、『亜細亜八月同盟AAA』に拉致されて……人質に……。

「許さねえ……」

 純粋な愛情というものは、いつの時代も国や権力に翻弄され続けると言うのか。

 だったら、おれが壊してやる。何もかも、ぶち壊してやる。権力など、おれが踏みつぶしてやる……。

「くくく、面白い……」

 憎き父を彷彿させるこもった笑みは、しかし、おれの口から漏れたものだった。

 おれは絶対に――。

「――あいつを殺す」

 顔はおろか、名前さえもわからない電話の主に殺意を向ける。

 資料に軽く目をやり、あるひとりの人物の情報を頭にとどめ、おれは屋敷を飛び出した。

 夜空には満点の星々。彦星と織姫が天の川を飛び越え、一年ぶりに邂逅を果たす日――7月7日。

 おれは、自分にまつわるすべてを終わらせるため、強く、大地を蹴り、大きな一歩を歩んだ。

 風が、冷たく吹いていた。

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