第二十四話 過去

「――おい」

 声。

 声が聞こえる。

「――聞いてるのか」

 懐かしい声。

 ぼくの体はゆらゆらと揺れ動く。

「いい加減、起きろよ――」

 頭上から降り注ぐ聞き覚えのある声が、眠りに落ちるぼくの意識を呼び起こす。

 そうだ、ぼくは――。

「――聞いてるのかよ、!」

 世界が振動するほどの強い衝撃。

「うわあ!」

 たまらず身を起こした。

 咄嗟に辺りを見回す。周りにあるのは本棚。紺色のカーテンの隙間から漏れる、橙色の陽光が、ぼやけた視界に飛び込んだ。

 ここは孤児院の読書部屋。もう随分と見慣れた様相が、ぼくの意識をはっきりと覚まさせる。

「ようやくお目覚めか、この寝坊助ねぼすけ

「……露木、くん?」

 顔を上げると、怒りん坊の露木くんがぼくを不機嫌そうに睨みつけているのが目に入った。

 露木くんはこの町にひとつしかない診療所の子で、どういうわけかぼくたちとよく遊んでくれる。

「もう4時過ぎだぞ、とっとと用意したらどうだ」

 彼は腹立たしげに唇を尖らせるが、ぼくは寝起きということも手伝って、彼の言うことがまったく腑に落ちなかった。

「用意……?」

 一体、何の話だろう?

 首をかしげる。

 すると、露木くんの不愛想な表情がみるみる変容していった。いつも眠そうに半分くらい閉じられた目が恐ろしくつり上がり、鳥のくちばしのような鼻の先っぽが赤に染まる。

「高山、てめえ、まさか寝ぼけてんのか?」

 鬼のような形相でグイッと詰め寄られる。

「今日が何の日か忘れたとは言わせないぞ」

 ぴくぴくと跳ねる眉毛が、露木くんの怒りっぷりを顕著に表していた。

 ぼくは急かされるようにして必死に頭を捻る。

 今日……7月7日が、何の日か、だって?

「……七夕たなばた?」

 言うや否や、ぽかりと頭を叩かれる。

「バカ野郎! ちげえよ! ……いや、まあ、確かに今日は七夕ではあるが……、でも、そうじゃない!」

「それって、結局、どっちなのさ……」

 ジンジンと痛む頭を押さえて尋ねるけど、露木くんは相変わらずムスッとした表情でぼくを見下ろす。

「どっちだっていい! それより、もっと重要なことがあるだろうが!」

「ええ? 七夕よりも重要なこと?!」

 ぼくはびっくりした。目を丸くさせ、口をあんぐりと開ける。

 なんだろう、見当もつかない。

 でも、答えられないとなんだかヒドイ目に遭いそうなので、もう一度、頭を振り絞る。

「ええと……、今夜は、天の川が綺麗に見えるとか?」

「違う!」

「痛い!」

 またもや頭を叩かれる。さっきは頭頂部だったが、今度は側頭部だ。

 頭の中がぐらぐらと揺れる。

「一旦、七夕から離れろ! お前の頭の中ではお星さまでもまたたいているのか?!」

「ええ……」

 ものすごい剣幕で怒られてしまった。

「確かに、露木くんに叩かれたとき、目の前がチカチカって点滅したけどさ……、そこまで言うことないじゃないか」

 納得いかずに抗議するが、露木くんは聞く耳を持たない。

「お前がそんな能天気な態度なのが悪いんだよ」

 そう言って自らの行いを正当化する始末だ。

(なんなんだよ、一体……)

 わけのわからぬままこうむった仕打ちに顔をしかめる。

「まさか、本当に忘れてるんじゃないだろうな?」

 怪訝そうな目つきで、まじまじとぼくを眺める。

「それとも何か? まだ夢でも見ているのか? だとすれば、お前はおめでたい男だよ」

「夢……」

 額を押さえ、呆れたように溜め息を吐く露木くんをよそに、ぼくは今まで見ていたであろう夢の内容について思い出す。

 夢……。

 ぼくが見ていた夢……。

 ぼんやりと、ここではないどこかの光景が頭の中で広がる。

 確かに、露木くんの言う通り、なんだか、長い夢を見ていたようだ。

 かすかに覚えている。

 でも、一体何の夢を見ていたんだろう?

 よく思い出せない。

「まったく、こんな時に……、緊張感の欠片もない奴だ」

 やれやれとかぶりを振るう露木くん。呆れ果てた様子の彼の仕草で我に返る。

「なんか、ごめん」

 ぼくはなんだか申し訳なくって、ぺこりと頭を下げた。

「……謝るのは勝手だが、この場合は謝罪する相手が違うな」

「……え?」

 何のことかわからずにきょとんとしていると、露木くんは窓の外を顎で示した。

「……今夜、儀式が執り行われる」

 大真面目な顔で告げる。

「儀式……?」

 物々しい響きに背筋がヒヤッとする。

「そうだ、儀式だ」

 本で聞いたことしかないような品詞を露木くんは繰り返す。

「1年に1度、大天山で、尾前町の守り神――『イイヅナ様』を迎える儀式が行われる」

「イイヅナ様……」

 その言葉が、やけに引っかかった。

 ――イイヅナ様。どことなく不思議な響きが、頭の中で何度も反響する。

「……知らないとは言わせないぞ? 裏付けはすでに取ってあるからな」

 露木くんの声がやけに遠くに感じる。

 イイヅナ様……、イイヅナ様……。

「そうだ……」

 思い出した……。

「どうして今まで忘れていたんだろう……」

 後悔と一緒に凄まじいほどの寒気が襲う。

 イイヅナ様。古くからこの町に伝わる神様。ぼくはからそのことを教わっていた。

 ぼくにはやるべきことがあった。

 露木くんを見る。鋭い洞察力の持ち主である彼は、ぼくの表情から目敏く気持ちを読み取ったのか、ややして小さくうなずいた。

「ったく、ようやっとまともな顔つきになったか」

 ほんのちょっと口元を和らげる。

「ま、お前が鏡花のことを放っておくわけがないもんな」

 の名前を耳に入れ、胸がギュッと締め付けられる。

 姫百合鏡花。かけがえのない、ぼくの友達。

 彼女のことが頭に浮かぶ。物知りで、いつも自信たっぷりで、たまに怖いことも言うけれど、本当は心優しい、孤児院の象徴的な女の子。

 その鏡花ちゃんが、今夜、儀式に参加する。

 なぜかはよくわからない。

 ただ、露木くんが言ったように、周りの大人――スーツを着たいかつい男の人――たちと院長が話しているのをひそかに盗み聞きしたので、これは確実だった。

 そして、鏡花ちゃん自身も、ぼくにこっそり教えてくれた。自分が儀式に参加すること、なぜ儀式を行うのかも、洗いざらい話してくれた。本当は守秘義務というので他言はしちゃいけないらしいんだけど、彼女はそんなルールなんて気にしない子なので、儀式にまつわる色んなことを話してくれた。

 どうも、尾前町に空港を新しく作るみたいで、そのために、守り神であるイイヅナ様にお伺いを立てる必要があるらしい。鏡花ちゃんによると、いわゆる地鎮祭じちんさいみたいなものだということだったけど……。

 そこまでは、夏祭りでもよくある内容だ。

 恐ろしいのは、鏡花ちゃんが引き受けることになった役割だ。彼女の口から、直接その事実を告げられた時、ぼくは自分の心臓が大きく飛び跳ねたのがわかった。

 鏡花ちゃんが儀式でになう役目。それには、『イイヅナ様』にまつわる故事が大きく関係していた……。

 これから訪れる恐ろしい結末を想像し、手がプルプルと震える。

 ぼくは露木くんを見据える。強気そうな彼の面持ちは、不安を一切感じさせない意志の強さが滲み出ていた。

「高山、お前もわかっているだろう? あまり悠長にしていられるほど時間に余裕はない。奴らが動き出す前に、とっとと行動を開始するぞ」

「うん」

 大きくうなずく。

 尾前町の成り立ちを知るために呼んでいた数々の本を片付け、身支度する。

 ぼくたちが行動する理由。それは、鏡花ちゃんをどうにかして助け出すため。

 作戦決行に備える傍ら、ぼくは鏡花ちゃんのことを思い出していた。

 

 ぼくがこの孤児院に来たのは今から2年前、10歳の時の話だ。

「神は、存在するかしないかのいずれかである」

 鏡花ちゃんは、渡された聖書を読みふけるぼくに向かってそんなことを言った。それが彼女との最初の出会いだった。

「だったらわたしは、神が存在しない方に賭けるわ」

 自信たっぷりに腕組みし、余裕ありげに口元をつり上げる。

「あなたはどう? 新しい入居者さん?」

 肩まで伸びた淡い色素の黒髪を束ねたツインテール、透明感のある色白の肌、ちょっとたれ目がちな細い瞳に、小さな鼻、柔らかな微笑を携えた瑞々しい口元。背はぼくよりもひと回りほど小さく、顔のつくりもなんだか幼い感じがするのに、口調や仕草が外見に反して妙に大人っぽくて、ぼくはとても不思議な印象を受けた。

 鏡花ちゃんは、自分が生まれた時から孤児院にいると言う。

 だからだろうか、鏡花ちゃんはぼくと1歳しかとしが違わない割にはやけに大人びていた。頭もずば抜けて良くて、授業の合間に、いま進めている課題よりもさらに難しい質問をしては、しょっちゅう先生を困らせていた。それはぼくに対しても同じで、暇さえあればいつも難解な疑問や質問を振られていた。たとえば、神は本当にいるかどうかとか。ぼくが『いる』と答えると、ならどうしてそう思うのか、その根拠は……などというふうに、とにかく、理詰めで物事を追求する性質の子だった。本人いわく、数学的帰納法というやつらしい。現出する結果からさかのぼって原因を探り出すとか、そんなことを得意げに言っていた。彼女は常に目の前を見ると同時に、別の観点からも物事を眺めていた。彼女にとって自分の目に映るものというのは、無条件に信じられるまったくの真実ではなく、むしろ真実に至るためのきざはしに過ぎなかった。彼女は妙に冷めていた。達観した鋭い眼差しで世の中を斜め上から見つめている、とらえどころのない、独特な感性の持ち主だった。

 ぼくは彼女に強い憧れのようなものを抱いた。ちょっとした嫉妬心も、羨望と共に芽生えていた。

「古典的なものなんて何の役にも立たないわ。歴史を習うなんてもってのほか。大事なのは昔でも未来でも今でもない、そんなものはどこにもない。過去はもはや存在しないし、今はすぐに過ぎ去って過去となるし、未来は常に現在から過去に移り変わる。ただ、物体の変容――絶えざる空間の移行があるだけ。つまり運動と延長のふたつのみ。時間なんて概念は架空のもの。それは変化する対象に与えた仮称であり、真実ではないわ。なぜなら、変化もまた、運動の一種に過ぎないのだから。そして運動は質量保存の法則から逃れ出ない。生成と消滅という因果律は幻想以外の何物でもない。すべては等価的。この世界では何も起こらないし、何も失わない。よって、世界を作ったという神もまた、存在しない。無から有は生み出せない。この世界には始まりも終わりもない。ただ、。そこに意味も価値もない。無機物か有機物かどうかの違いがあるだけ。ただ、それだけの話」

 みんなが神様について熱心に学んでいるとき、鏡花ちゃんはそう言って真剣に勉強しようとしなかった。

 それでも、旧約と新約含めて聖書のあらゆる個所をそらんじるのだから驚きだ。理知的で現実的な彼女にとって、先人たちの知恵の結晶とも言うべきこれらの素晴らしい書物は、じつは暗記する努力すら要さない空想上の産物であり、数学の公式や幾何学の方程式を寸分の狂いなく記憶するような、気の遠くなる労力には遠く及ばない、まさしく子供の遊びのようなものに違いなかった。

「この世界のなにもかもが嘘で塗り固められている。聖書で教える奇跡なんてものはなく、隣人愛とかいうのはまったくの虚構で、むしろ世間は他者に対する悪意で満ちている。それが証拠に、わたしたちはこんな汚い掃き溜めに寄せ集められている。他の人たちからは絶えず侮蔑ぶべつされ、邪魔者扱いされている。そのうえ、わたしたちはいずれ無残にも捨てられる末路を辿るにもかかわらず、こうして無意味な学問と怠惰たいだな時間を過ごすことを強いられている。まるで出荷を待つ家畜みたいなものよ。わたしにとっては福音書ふくいんしょもゲーテも子供だましのごまかしに過ぎないわ。現実から目を逸らさせるだけの荒唐無稽な作り物。子供には幽霊、大人には神様。ただ、それだけの話」

 彼女はいつもぼくにそんなことを言っていた。施設のみんなが自然児的な追いかけっこや、いかにも子供らしいごっこ遊びに夢中になるなか、彼女はいつも木陰にもたれて何かを絶えず考えているように思えた。原っぱを駆ける野うさぎのように自由に外を走り回るみんなを、常に厳しい目つきで遠巻きに眺めやっていた。彼女は見事な頭脳を持っているのだけれど、その知識自体を軽視し、嘲笑していた。そして、そんな冷笑的な自分自身を軽蔑していた。

 彼女は決して他の子と群れようとはしなかった。表面的な付き合いはするけど、深いところにまでは絶対に踏み込んだりはしなかった。彼女は冷めた物の見方をしているからか、他の子に冷たく当たることも少なからずあった。おそらく無自覚に行われる無礼でそっけないふるまいは、けれどもすぐに改められた。彼女は学習能力が異常なほどに高く、失敗から成功を勝ち取る術に長けていた。計算高く、用意周到な彼女は、自分の思いを周囲に悟らせぬよう、常に(彼女が自分で明言した)作り笑顔を浮かべ、皮相的な人付き合いを演じていた。そこには、愛情とか、思いやりとか、そういったものが欠落しているように思えてならなかった。

 もっとも、他の子たちの評判はさておき、大人たちからの評価は軒並み高く、ともすれば威圧的になる彼らから寄せられる信頼は絶大で、そのことを裏付けるように学業も大変優秀だった。ぼくの前では反抗的な言動や態度を見せていたけど、授業中や大人たちの前では驚くほど模範的に振る舞っていた。いわく、『強者に逆らっては生きていけないから』だそうだ。彼女は自信家だったけど、身の程をわきまえていた。自分よりも立場が強い相手には決して普段の皮肉屋な一面を見せず、機械的に規則を遵守じゅんしゅしていた。いくら頭が良くても、腕力はもとより、有した肩書やこれまで得てきた人生経験など、たかだか十数年しか生きていない子供では、所詮、大人には敵わないということを熟知していた。そういう意味で彼女は非常に世渡りがうまく、他の追随を許さなかった。院長も、彼女の勉学に対する(表面的には)殊勝な姿勢を直々に褒めていた。みんなも彼女を見習って、より一層勉学に励むようにと引き合いに出されたこともあった。

 それでも、鏡花ちゃんがまじめに勉強に取り組んでいる姿を、ぼくは見ることがなかった。

「だって、躍起になって一番を争ったって何にもならないもの。別に最下位でも何ら問題ないわ。わたしが頭が良いのは数字で示されるからではなく、わたし自身が証明しているからよ。他のことは本質に付帯した外面的な副次的要素、いわば岩石に付着したこけみたいに、つまらない要素に他ならないもの」

 常に成績首位の彼女がそんなことを簡単に言ってのけるのだから、ぼくはすごい衝撃を受けた。

 だからぼくは、彼女に強く惹きつけられた。

「わたしにとっては、あなたの方がずっと愉快に思えるけどね」

 いわく、犬みたいに彼女の後ろをついて回るぼくを、鏡花ちゃんは苦笑してからかった。

 でも、決してこばみはしなかった。

「ただ、あなたのような自由奔放な人は、生きるのに苦労するでしょうね」

 ふと向けられたあわれみの視線と寂しげな微笑が、ぼくの心に深く突き刺さった。

 事実、しゃくし定規の形式的な学校教育は、ぼくをはじめとして大勢の子が嫌がっていた。時間厳守の大人の言いつけは必ず守らなければならず、ひとたび逆らったとなれば手ひどい罰が待っている。そこに温情の余地はない。だから、みんな、心の奥底で恐怖していた。

 ただし、彼女だけは例外で、ガチガチに凝り固まった厳しい教育体制を受け入れているように思えた。

「規則や規律を守ることは嫌じゃないわ。元来、人間は野性的なものだから、ともすれば自分勝手に動くものと相場が決まっている。その本能的な情動を律するには、それら無軌道な振る舞いが不利になるような罰則を設けるしかない。決まりを破ったものには例外なく罰を与え、徹底的に反省させる。自らの行動に責任を持たせるために。法律というのは、外的に与えられる一種の強制力。法治国家である日本では絶対に抗えない法的拘束力に抑えつけられながら、何が良くて、何がダメなのか学び取っていく。そうやって人間は学習し、成長していく。そうでないのなら、無慈悲に淘汰されていくだけよ。だって、この社会は、適者生存の世の中なのだから」

 なんだか小難しいことを平然と並び立てる鏡花ちゃんは、最後に、「とはいっても、わたしたちは産まれた時から社会に不要な不適合者なのだけれどね」と自嘲していた。

 こんなふうに鏡花ちゃんは、とても頭が良く、何に対しても物怖じしない、すごい度胸の持ち主だったけれど、別にみんなのリーダー的存在ということはなく、その役割を積極的に買って出ることはほとんどなかった。先生から命じられれば喜んで指図に従うをするが、自発的な思い付きで誰かのために率先して行動するというのは、ぼくの記憶の限りでは見たことがない。

 要するに彼女は、地頭がとりわけ優れていて、なおかつ要領も良く、なんでもそつなくこなせる分、ある特定の物事に対する情熱というか、いわゆる尊敬のような感情的なものがすっかり抜け落ちていた。

「ねえ、タカ。あなたは人がどうして生きるのか、考えたことはある?」

 彼女はよくそんな質問を投げかけてきた。

 その際、決まってぼくは聖書の言葉を引き合いに出した。

「神に少しでも近づくために、人は生きるんだ。だって、人は、神にかたどって作られたから」

 自信満々に答えるぼくを、彼女は鼻で笑う。

「バカね、人はサルと共通の祖先を持つ、ただの霊長類よ。そして、創世記につづられた、神が人を作ったというくだりも真っ赤なウソ。順序が逆だもの。単なる獣だった人が神を作ったの。自らの形に似せてね」

「だったら、人は、神と獣のどちらになるんだろう?」

「考えるまでもないわ。人は獣よ。醜く地表を這いずり回るトカゲやヘビと何ら変わらない。自分がどこから生まれたか、やがてどこへ向かうのかを知ることもなく、いずれ野垂れ死ぬ。ほんのひと握りの例外――たとえばトマスとか、アウグスティヌス――を除いて。そして今や、誰ひとりとして真理を追い求めることもなくなってしまったわ。なぜなら、じつは真理なんてものはどこにも存在しないということがわかってしまったから。アインシュタインの功績を筆頭とした目まぐるしい物理学の発展によってね」

「でも、人には、無限に広がる想像力がある。空を見上げて星の向こう側を思い描くことができる。宇宙の神秘を感じることができる。トカゲにそんなことができるなんて、ぼくにはとても思えないよ」

「空想は事実ではないわ。結局は現実的な物事を前提とした模造品――偽物。食材を適当に盛り合わせた原始的な料理に何種類かの香辛料を振りかけて、あたかも別の料理に見せかけるようなもので、表面を覆うきらびやかな装飾を貼り付けた張りぼてに過ぎないわ。人間が認識できる範囲には限界があるもの。論理的に考えられるもの以外を、人間は考えられない。ちょうど、理性が神の存在をきちんと認識できないようにね」

「なら、想像力とは何のためにあるんだろう?」

「さしずめ、寄る辺なき自分自身を慰めるための防衛機能といったところかしら。宗教がまさにその典型で、要は痛みに処方するアヘンみたいなものね」

「……確かにそうかもしれないけど、でも、それってそんなに悪いことなのかな? 鏡花ちゃんの言うように、科学は正確だけど、ぼくたちを助けてはくれない。逆に、聖書に記された物語は、たとえウソであろうとも、ぼくたちに親身に寄り添い、心を慰め、豊かにしてくれる。科学にそんなことはできない。ぼくたちに何も教えてはくれない。そこに、どっちが正しくてどっちが間違いなんて区別は必要なのかな?」

「なかなか面白い物の見方をするわね。科学は何も救えないですって?」

「そうだよ。現に、今の時代、科学が発展してるわけだけど、ぼくたちに何か恩恵があるわけじゃない。ぼくたちはこうして昔と変わらない暮らしをしている。何千年も前に書かれた書物を読んで、学んで、生きている。科学があろうとなかろうと、その事実は変わらない。科学の優位性とか、神学の信憑性とか、実際、どうでもいいことだよ」

「なるほど、一理あるわね」

「ほらね、鏡花ちゃんもそう思うでしょ?」

「でも、あなたの理論には致命的な欠陥があるわ」

「え? なんだい、それは」

「あなたの考えは、結局のところ主観によるものでしかない。なぜなら、わたしの意見は、あなたとまったくの逆だから。わたしは神に救われたことはない。一度たりともない。福音書に何ら感銘を受けたことはない。ルカ伝も黙示録も、わたしにとっては単なる文字の羅列に過ぎない」

「それを言うなら、鏡花ちゃんの考えだって主観でしかないじゃないか」

「そうよ。でもね、この世の法則性は科学が証明するの。科学は――物理はそこにある。それは客観であり、普遍的な事実そのもの。だからこそ、わたしたちの身近なところに根付いている。わたしもまた、物理的な法則性のもとに構成されているのだから、当然ね。けれど、神はそれについて何の保証も確証もしてくれない。ただ、婉曲的な表現を用いていたずらにほのめかすだけ。とんだ詐欺師よ、彼は」

「うーん、そうなのかなあ」

「あなたにもいずれわかるわ。神なんてロクな代物じゃないってね」

 頭を捻ってどうにか出したぼくの答えを、彼女がすげなく冷笑する。

 ぼくたちの交友は、いつもこんな感じだった。

「運命がカードを配り、我々が勝負する。ショーペンハウアーはそう言うけど、わたしたちのような哀れな子羊にはまともなカードなんて配られるはずがない。そういう意味では神は不平等だわ。そんな神なんてこっちから願い下げよ、いない方がましね」

「そんなことないよ。現に神様は、ぼくたちに公平で公正な眼差しを注いでくださっている。だからぼくは、神様を知っている……、本当に不公平なら、きっと、ぼくは、神様を知らずに過ごしていたはずだよ。うん、そうに違いない」

「相変わらず、あなたは能天気ね……、長生きするわ」

 溜め息ついでに天を仰ぐ鏡花ちゃん。ぼくもつられて宙を見る。

 視界いっぱいに映るのは、抜けるように青い空。お話の中に出てくる大海原のように、どこまでも、どこまでも……果てしなく続いていた。


 これが、孤児院で過ごすぼくの日常だった。

 いつまでも、平穏無事に続くと思われた生活は、しかし、最近になって一変した。

 鏡花ちゃんが、儀式に参加することになったのだ。

 少し儀式についておさらいすると、尾前町では、1年に1度、七夕の日にお祭りを行う風習がある。多分、彦星と織姫の伝説を、イイヅナ様の伝承になぞらえているんだろうと、彼女はそう言っていた。起源は古く、江戸時代には現在の形が完成していたようだ。

 儀式の内容だけど、特記事項は、儀式に参加する人間は全員14歳以下でなければならない点だ。これも由来はよくわかっていないらしく、鏡花ちゃんの見解では、無垢で多感な少年少女の方が、神とか妖怪とかそういうものに感情移入しやすくて、比較的降霊が成功しやすいとか、そういうことらしかった。

 配役は、イイヅナ様の役をする少女がひとり、巫女役の子がひとり、そして、かつてイイヅナ様を助けたというお坊さん役の少年ひとりが、お祭りの前に選出される。拒否権はないらしい。何の予告もなしに重要な役目を担わされた3人は、大人たちの先導のもとに大天山で引き合わせられ、あとは正規の手順に則って儀式が進行する。

 ちなみに、儀式に選出される人員だけど、大体は町の有力者からの推薦だったりする。鏡花ちゃんは、院長と町長の推薦によって、巫女さん役に選ばれたようだ。

 例年なら、これらはただの伝統芸よろしく、ただの風土的なお祭りで済むはずだった。儀式に参加するのも大変名誉なことで、みんなにうらやましがられる自慢話で終わるはずだった。

 でも、ぼくは聞いてしまった、知ってしまった。今年のお祭りが意味する真実を……。

 だから、ぼくはどうしても鏡花ちゃんを助けないといけなかった。そう約束したんだ。

 露木くんも協力してくれると言ってくれた。彼とはぼくが孤児院に来てから付き合いがある。彼に儀式のことを話したとき、快く相談に乗ってくれた。さすがに孤児院の子を巻き込むわけにはいかなかったので、彼の存在はとても心強かった。

 そうだ。

 こうしてはいられない。

 今夜、儀式が始まる。

 儀式自体を止めることはできない。あとのことを考えれば当然だ。大人たちは自らのメンツを異様に気にする。満を持して行われる儀式が中止となれば、どんな報復が待っているかわからない。

 だからこそ、他の誰にも気づかれることなく、鏡花ちゃんを儀式から連れ出し、かつ、儀式を無事に終了させる必要があった。

「露木くん、やろう」

 意識を目の前に向け直す。

 ぼくの言葉に、彼は強くうなずいた。

「それじゃ、最後に作戦の確認を取る」

「うん」

 ぼくと露木くんしかいない読書室。これまでと同じように顔と顔を突き合わせ、机の上に置かれた白い紙を睨み付ける。

 ぼくたちは、鏡花ちゃんが儀式に参加するとわかった時から、ひそかに作戦を立てていた。鏡花ちゃん奪還作戦とでも言おうか。今、その作戦の最終確認に入ったわけだ。

「言うまでもないが、俺たちに残された時間はごくわずかだ。チャンスは今しかない。失敗は許されない」

「わかってるさ」

 孤児院は午後5時に門限がある。正門、後門、ともに閉め切られ、施設の外には完全に出られなくなる。

 なら、その前に、外に出るのはどうか? ぼくは以前、そんな提案をした。

 しかし、これは露木くんに却下された。

『さすがに、お前がいなくなったとなれば施設の人間に勘付かれる。夕飯のこともあるし、あまり大事になってはまずい』

 そう、孤児院では夜中の6時、夕飯を食べるために全員が食堂に集まる必要がある。その時にぼくがいないことがわかれば、孤児院は騒ぎになるだろう。

 じゃあ、どうすればいい?

 しばらく考えた末、露木くんがこんな提案をした。

『よし、それじゃ、こうしよう。門限前の5時直前、お前は、体調不良を訴えて医務室に担ぎ込まれる。もちろん、俺も付き添ってやる。もっとも、付き添うだけどな。先生は高山を俺に任せて医務室をあとにする。その瞬間を見計らい、お前は孤児院を抜け出して大天山まで急ぐ。移動方法は徒歩だと厳しいから、そうだな、俺の自転車を貸してやる。お前は儀式開始の7時前までに大天山まで辿り着くように全速力で自転車をこげ。あとは、たぶん、なんとかなるはずだ。どうせ、現地には大勢の大人がいるはずだからな……、そこに、鏡花も紛れているはずだ。そして、隙を見計らって、彼女と合流しろ。それと、念のために、孤児院から抜け出す際は、教会堂と繋がっている倉庫から出ることだ。堂々と孤児院の正面玄関から出たとなれば、少々、目立っちまうからな。カギは事前に喜多八さんから拝借しておく。なに、抜かりなくやるさ。だからお前も、下手なところでしくじったりするなよ』

 いつも不愛想で怖い顔をしている露木くんだけど、お医者さんの子ということもあってか、孤児院に足しげく通い、ぼくたちにも分け隔てなく接してくれる懐の深さを持っていた。育ちが良い分、頭もよく、こんな時はとても頼もしかった。

「覚悟はいいか、高山――」

 彼の鋭い目が、めらめらと熱く燃えていた。失敗は許されないと、その目が語っていた。

「うん、だいじょうぶ。絶対に成功させるよ」

 緊張に震えながら、ぼくは強く、大きくうなずいた。

 午後4時30分。いよいよ、作戦決行の時が訪れた――。

「先生、高山がなんだかお腹が痛いらしいです!」

 露木くんに抱きかかえられながら、あたかも腹痛で立っていられないと言わんばかりの苦悶の表情を浮かべる。

「ちょっと、大丈夫なの?」

 先生は心配そうに駆け寄ってくるが、露木くんがそれを制する。

「先生、これから俺が医務室まで高山を運ぶ。この様子だと、夕食は取れそうにないから、みんなにはそう説明してくれ」

「わ、わかったわ。それじゃ、よろしくね」

 パタパタと慌ただしく去っていく。

 騒ぎを聞きつけた施設の子たちが、心配そうな目で遠巻きにぼくらを眺めていた。

(よし、うまくいったね)

(まずは第一関門突破だな)

 二人して廊下を歩く中、示し合わせたように含み笑いを浮かべる。

 でも、まだ油断はできない。

 本番はこれからだ。

「先生、失礼します」

「お、どうしたんだい銀治郎くん。それに、高山くんも……。何かあったのかい?」

 医務室にいたのは祐閑寺ゆうかんじ先生だ。彼は露木診療所に勤めている若いお医者さんで、月に何日か、孤児院の医務室に常駐してくれる。

「先生、高山の奴が急に腹が痛いって言うんで連れてきました」

「そうか……、でも困ったな。僕はもうすぐ診療所に戻らないといけないし……、とりあえず胃薬は処方しておくけど、容体が急変しないとも限らないからな……」

「ああ、心配いりませんよ。俺が先生の代わりにこいつの面倒を見ますから」

「え? 銀治郎くんが?」

「俺にだって医学の心得はありますからね。これくらいは当然ですよ」

「……そうだね、きみがそう言うなら間違いないだろう」

「ふ、任せてくださいよ」

「頼もしいね。それじゃ、お言葉に甘えようかな」

 温和な祐閑寺先生は優しく微笑む。

 医務室にいるのが彼でよかったと、この時ばかりは心の底からそう思った。

「ええと、この胃薬を飲ませたあと、ベッドで安静にするように指示してあげて。くれぐれも、無理はさせないようにね」

「わかってますって。これでも伊達に親父の手伝いはしてませんから」

 ニッと悪びれなく笑う。

 彼もまた、役者だった。

「というわけで、ほれ」

「うぐ……ん」

 手渡された強烈なニオイを放つ胃薬を飲むふりをして、ぼくは、早速、ベッドに横になる。

「何かあったら、遠慮なく周りの大人を頼るんだよ。万が一、容体が悪化したら、診療所にも連絡を入れて構わないからね」

「わかってるって。先生は早いとこ持ち場を片付けて、診療所に戻りなって」

「それじゃ、頼んだよ」

 帰り支度を済ませた祐閑寺先生はそう念を押すと、重たそうなカバンを持って医務室を退出した。

 足音が遠ざかり、やがてまったく聞こえなくなるのを確認してから、次なる行動を

開始する。

「わかってるだろうな、高山」

 心配性の露木くんが、怖い顔で尋ねた。

 彼の呼びかけに応じるように、ぼくは勢いよく起き上がる。

「わかってるよ、露木くん」

 言葉少なにそれだけを交わすと、ぼくは扉に手をかけた。

 ふと振り返る。

 露木くんは、親指をグッと突き出してぼくを激励していた。

 ぼくも同じように親指を立て、合図を送る。

「約束だ、高山。必ず鏡花を連れて、一緒に孤児院まで戻って来い。必ずだぞ」

「うん、約束するよ。絶対に、鏡花ちゃんと帰って来るよ」

「よし、行って来い!」

「うん!」

 そして、背中を押されるようにして廊下に出た。

 周囲を慎重に見渡す。人影はない。

(よし、今だ!)

 誰もいないタイミングを見計らい、素早く廊下を駆け抜ける。音を立てないよう最大限配慮しつつ、しかし迅速に突き進む。

 振り返らない。足を止めない、緩めない。

 祐閑寺先生が向かったであろう正面方向ではなく、裏手にある倉庫を目指す。

 孤児院の端っこにある倉庫は、露木くんが言ったように、教会堂と共用のため、裏口が設けられており、そこから教会堂のそばに出られる。

 いつもはカギがかかっているけど、今日に限っては露木くんが施錠を解いているはずだ。

(急げ、急げ!)

 はやる気持ちを抑えながら、廊下の隅に見える倉庫の入口まで辿り着く。

 あまり使用されることがないからか、すっかり錆び付いてしまったドアノブを回す。

 カギは……かかっていない。

(よし!)

 勢いよく扉を開ける。

 建付けが悪いため、開けるのに少々手こずったけど、無事に倉庫に辿り着いた。

 倉庫の中は窓が常に閉め切られているために薄暗く、ホコリっぽい。ただでさえ狭苦しい倉庫には所狭しと備品やら運動用具やらが詰め込まれ、足元には用途不明の木の板などが無造作に転がっている。

「あの陰に、裏口があるはず」

 破けて使われなくなったボールがいくつも放り込まれた鋼鉄製のボール入れに隠れるようにして扉がある。

 対角線上に位置するその一点に狙いをつけ、一直線に駆け抜ける!

「よっ、ほっ、……っと」

 辺りに散らばる雑多なガラクタに足をつまづかせぬよう、器用にそれらを避けながら、難なく扉の前まで到達――。

 そのままの勢いを維持し、扉を押して外に飛び出す。

 目の前に広がる、夕暮れのオレンジで染まった広い空。花壇に植えられた花々も、まるでぼくを出迎えてくれたかのように咲き誇っている。

「――ふうぅ……」

 大きく息を吐く。

 どうにか、ここまで誰にも見られずに来れた。

 けれど、まだまだ油断はできない。

 息を整え、裏門を目指す。

 周囲は異様な静けさに包まれている。ボールコートや遊具が設置された中庭に象徴されるような、だだっ広い正門側と違って、裏門方面はうっそうと茂る木々に囲まれ、ジメッとした空気に満ちていた。

 どこか陰気な雰囲気を放つ裏門を出る。

 門のそばには、露木くんが使っている自転車が停まっていた。

「露木くん、恩に着る……!」

 医務室で隠蔽工作に勤しんでいる彼のことを思いながら、自転車にまたがる。

 そして、勢いよく地面を蹴った。

 心臓がドキドキと高鳴る。

 普段なら、この時間帯に外に出ることはおろか、外出許可が下りなければ孤児院から出ることもかなわない。

 そういう意味でも、今回の『鏡花ちゃん奪還作戦』は滅多にできない貴重な体験の連続だった。次々と訪れる非現実的な非日常に、不謹慎にも自分が興奮しているのがわかる。

 期待と不安。希望と絶望。恐怖と勇気。様々な感情が胸の奥底から溢れ出て、それらごちゃまぜの衝動的な荒波がぼくの背中を思い切り押すように力強く脈打つ。

「うおおおおおお――!」

 ジワリと汗が滲む熱気に包まれながら、一生懸命ペダルをこいで、ガタガタのあぜ道をひたすらに進む。

 爽やかな風が頬を撫でる。景色が前から後ろに高速で流れていく。

 目的地である大天山まで、片道およそ1時間半――。

 ぼくは、細長いあぜ道の両脇に開いた水路用のくぼみにはまらないよう、特に足元に注意しながら、全速力で駆けるのだった。

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