第4話 出撃

 目の前にぶら下げられた封筒をひったくろうとした俺を、ひらりと柳井が躱す。頭に血が上ってつかみかかろうとした肩を、柳井が容易く押しとどめた。

「相良さん、落ち着いてください。アナタはそんな人ではないはずだ」

「落ち着けるか!」

「落ち着けますよ。僕の知っている相良さんなら、落ち着ける」

「お前が俺の何を知ってるって?」

「アナタを構成する全てです。僕が散々質問したのを、忘れたんですか」

 眇めた目が、俺を試すように諭すように、静かに煌めく。

 柳井の真意を測りかねて、俺はその瞳の奥を覗き込もうと、息を殺す。落ち着け、あいつは、背後にとんでもない武器を隠している。無闇に乱射したところで、どうにもならない。

 俺は胸の中のショットガンを捨てて、ナイフに持ち替えた。接近戦ならば、銃よりもナイフに利があるはずだ。

 大きく一つ息を吸い込み、俺はもう一度、柳井を真正面から睨み付けた。

「どうしてこんなことを。厭がらせにしては、質が悪い」

 俺は自分の人生を振り返る。決して品行方正な思い出ばかりではないが、しかし。

「これほどまでの意趣返しをされるほど、悪事を働いた記憶はないぞ」

 何事も、目立たぬ人生だったはずだ。

 柳井がわずかに気配を和らげ、いつもの生真面目な態度に戻る。真っ直ぐに伸びた背筋、特徴のない無表情。それでいて、分厚い前髪の下の整った顔は、どこか人懐っこくもあった。

「ヘッドハンティングですよ」

「は?」

 問い返した声が、間の抜けた音を響かせた。人気のないフロアは、いつの間にか薄闇に浸っている。

「引き抜きです」

「まさか。誰を……え、俺を?」

「相良さん、アナタほどの逸材、なかなかいませんよ。仕事ぶりは真面目で、新人の非常識な質問攻めにも根気よく応えるだけの、理性と知識がある。加えて、体格や健康状態もすこぶる良好で、趣味や生活習慣にも問題はない。その上、プライバシーに踏み込まれても怒り出さない寛容さがあり……若干の嘘を吐いても平気だ。アナタ、個人的な情報については、適宜解答を誤魔化したでしょう。しつこい相手には時に、答えることを拒むより、差し障りのないハッタリでやり過ごすのは良い手です」

 楽しげに目を細めた柳井の顔から、生真面目さの仮面が剥がれ落ちた。そこにいるのは陽気なひとりの若者だ。掻き上げた前髪の下で晴れやかに微笑みを浮かべて、こちらを見ている。

「あの質問攻めは……」

「僕らの仕事は新人が入ってこなくて。だからこうして探して回ってるんです。それでも、適合者が見つからない年もあって、大変なんですよ」

「そのために、うちの会社に?」

「当たり前でしょう。しらみつぶしに試験を仕掛けるのは本っ当に面倒臭いんです。でも、これを怠ると、後が大変で。やあ、でも、その甲斐がありました」

 今や抱きつかんばかりの喜びが柳井の全身から溢れていて、俺は隠し持っていた心のナイフを取り落とす。

「相良さんほど我慢強い人は、近年見たことありません。あんなに質問攻めにされたら、僕だってキレます」

 半ば呆れたように肩を竦めて、柳井はあはは、と声を上げた。

「俺を試していたのか?」

「僕らの仕事には、忍耐力が欠かせないんです。それも生半可なものでは駄目だ。他の方は早々に脱落でしたが、相良さんは優秀でした。あからさまな苛立ちが垣間見えたのは最初だけだ。それに、アナタの人となりを知る必要があったので、ついでにプライベートに突っ込んだ質問もしたのですが。まさかあんなに無防備にペラペラ喋るとは思ってなかったけど、それもアナタの良いところだ、相良さん」

 朝に夕に降り注ぐ質問を撥ねつけるのが億劫で、多少の誤魔化しはあれど、大半は問われるままに話した己のプライバシーのあれこれを思い返して、俺は頭を抱えて唸った。

「まあ、そういうことで。どうです。改めて僕とチームを組むっていうのは」

「チーム?」

「僕と一緒に働くのは厭ですか?まあ、でも、もう課長には相良さんも一緒に辞めるって言っちゃってるんですよね」

「は?! だからか!だから、課長があんなに蔑んだ目で俺を?」

「当然でしょ。相良さんくらいのキャリアの人が、僕みたいな新人に退職を伝言するなんてまずありえない。揉めますよ」

「嘘だろ?!」

「辞めるしかないですよねえ。退職届も書いてあるし」

「ちょっと、待て、いや、おい、駄目だろう」

「でも、相良さん今、怒ってないでしょ」

「頭が追いついてないだけだ」

「そんなことないですよ。ずっとそうしたいって、思っていたくせに」

 つと身体を寄せて、耳元で柳井が囁く。俺はぎくりと身を硬らせた。甘く痺れるような毒が、鼓膜から全身に流れ込む。

「さあ、僕と一緒に、いきましょう」

 柳井が俺に、手を差し伸べた。

 窓の向こうはすでに夜の気配が濃密で、部屋に満ちた蒼い空気が、さらに深く沈んでいく。

「さあ」

 柳井の目が、俺の目の底を覗き込む。鳩尾にわだかまっていた澱が、掻き乱されて舞い上がった。そうか、俺は、確かにこの会社に満足している訳ではない。使えない上司、煮え切らない同僚、指示待ちばかりの新人、もっと他にできることがあるのではという、己への期待。

 俺は震える息を吐いて、のろのろと腕を上げた。ちりちりと痺れる指先が、柳井の掌に触れる。しなやかな指が、俺の手を捕らえてきつく掴む。

 二つの掌が、固く握手の形で結ばれた。

「契約成立です。ようこそ、我が社へ」

 柳井が晴れやかに笑った。

 薄暗い社内の空気が一変する。何がとは、説明できない。見たところ、何一つ変わらない。だが、これだけは判った。俺はもう、後戻りは出来ない。

「これから厭と言うほど、毎日ひっきりなしに、新人亡者からの質問攻めにあいますよ。彼らは突然に前途を断たれるのだから、疑問や不満、不安だらけなのでね。しつっこいのなんの。でも、あなたなら大丈夫だ。僕のお墨付きですからね」

「亡者……?」

「説明してませんでしたっけ。僕、死神なんです」

 こともなげな軽い調子で言い放たれた事実に、俺はぽかんと口を開けた。柳井がなぜかはにかむように小首を傾げる。

 俺は、盛大に溜息を吐いた。そんなのナイフで太刀打ちできる訳がないじゃないか。それどころか、ショットガンでも手榴弾でも、歯が立つわけがない。俺は目の前のすらりとした姿を見上げて苦笑した。

 柳井がいつの間にかその手に携えていたのは、背丈ほどの大釜だ。

「負けだよ、俺の負けだ」

 俺は声を上げて笑う。妙にすがすがしい気分だった。

「お前の質問攻めに耐えたんだから、そりゃ何でもいけるだろう」

「同僚に話したら、千年に一度の逸材じゃないかって、大盛り上がりでしたよ」

「お前、しつこいもんな」

「ありがとうございます」

「誉めてないから」

「仕事のことなら、何でも聞いて下さい。僕も大概、我慢強いので」

「だろうな」

 俺は柳井から退職届をひったくると、それを課長の机に叩きつけた。

 ここから先は、また新たな戦場だろうか。だがきっと、その屍の山すら越えていけるだろう。俺のパートナーは最強の戦術を持っているのだ。

 俺は新たな目標を定めた。

 まずは、柳井を質問攻めにしてやろう。

 気配に気付いたのか柳井が俺を振り返り、お手柔らかに、と戯けた顔で笑った。

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試練 中村ハル @halnakamura

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