第3話 裏切り

 今年の新人からは、脱落者は出なかった。大型連休が明けた頃には新社会人の幾人かが失踪するのが世のセオリーとも言われているのに、我が社の新人たちはしぶとかった。まあ、うちの会社が仕事内容も人間関係も、それほど厳しくも緩すぎもしないからだろう。それでも毎年、一人か二人は消えていくのだ。

 だから、新人が辞めるには遅い夏の盛りの頃、その始めの一人が柳井だったことに、俺はまさに度肝を抜かれた。

「俺の何がいけなかったんだ」

 当然、柳井の教育係であり、チームのパートナーであった俺に、全ての責任が問われた。課長は冷ややかな目で俺を見下し、同僚たちは横目で俺を嘲笑った。だが、そんなことは問題ではない。

 やけに機嫌のいい同僚たちが早々に帰っていた無人のフロアで、俺と柳井は向かい合っていた。

「俺に落ち度があったなら聞かせて欲しい」

「落ち度なんてありませんよ」

「だったら、どうして」

 手渡された退職届をじっと見つめて、俺はぽつりと零す。

「上手くやっていると思っていたのは、俺だけだったのか」

 突然のことに、痴話げんかのような台詞しか出てこない自分を鼻で嗤う。

「そもそも、こういう場合は退職願だろ」

「違います。願うんじゃなくて、辞めるんですから、合ってます」

「揉めるぞ、いいのか?」

「構いません」

「……どうしてだ」

 何故、何が、なんで、どうして。

「質問ばかりですね」

 柳井が眼鏡の奥で柔らかく微笑む。夕陽の残りの弱い光線が、その輪郭をぼんやりと浮き立たせていた。

「どうして笑うんだ。それに、お前が言うな」

「相良さんならこういう時、引き留めるのかと思っていました」

「辞めるなと言えば、辞めないのか」

「辞めますね」

「だろう。だったら、無意味だ」

「理由を言えば納得してくれますか」

「俺が納得できる理由なら、納得する。お前だって、そうだっただろう」

 ぼろぼろの負傷兵の気分で、俺は柳井を睨む。柳井は無傷のまま、俺を真っ直ぐに見つめ返した。

 たった数ヶ月とはいえ、共に戦った仲間だと思っていたのに、傷ついたのは俺だけか。

「……もういい。判った。これは受け取っておく」

「何がもういいんですか。質問はおしまいですか。ちっともよくない顔していますけど」

 落ち着いた口ぶりに、俺はかっとなって拳を握る。平和な日々にのうのうとあぐらをかいていた俺は、柳井に退職という不意打ちを食らわされ、対抗しうる武器など持ち合わせていなかった。

「お前と話しても無駄だって言ってるんだ。どうせ辞めるやつにこれ以上時間を割く理由はない」

「僕にはありますけどね」

「自惚れるなよ」

「相良さん。僕とアナタは良いパートナーだった。違いますか」

「どうだか。本当に良いパートナーだったなら、こんなことにはなっていないだろうよ」

 話はおしまいだ、と俺は片手を振って、手にしていた退職届を無人の課長の机に叩きつける。既に話は通っているが、本来ならば直接手渡すはずのものだ。だが、知ったことか。

 柳井の目が、封筒に注がれて、それからニヤリと三日月の形に歪む。

「なんだ、その顔は」

「いいえ。置いてしまったな、と思って」

「どういう意味だ」

「さあ」

 柳井は肩を竦めて、髪をかき上げた。

 生真面目に整った顔に乱れた影が落ちて、俺は狼狽える。

「どうしてアナタはそんなに慌てているんですか、相良さん。僕が辞めたところで、別にアナタが変わる訳じゃない」

「当たり前だ」

「……でも、本当に?」

 柳井はすっと目を細めて、俺に笑いかける。こいつは、こんな笑い方だっただろうか。

「そもそも、僕が来る前は、どんな人だったんですか、相良さん?」

「今と変わらない」

 言いながら、俺の目が泳ぐ。柳井が来るまで、俺は社内でこれほどめざましい業績を上げたことなどなかった。目立たず、騒がず、何事もそこそこに。だから、始めは新人教育から外されていたのだ。

 こいつの質問の爆撃に、ひとりふたりと倒れ、辺りが屍累々となった中に立っていたのが俺だっただけだ。最前線で戦う度胸も術も持たない俺は、木の陰に隠れ盛り土の後ろで息を潜めていたが為に、撃たれず残れたに過ぎない。

 その後の業績は、全て柳井の戦闘能力の高さ故だ。俺がしたことと言えば、柳井が思う存分戦闘に集中できるように、目の前の小石を片付けることくらいだっただろう。

 ただの幸運から勲章を授けられた俺が、これからひとりで戦場に放り出される。今まで隠れていたはずのジャングルは、もうすでに遠い。ここは、見晴らしのよい原っぱで、敵も味方も区別の叶わぬ最前線だ。唐突にその事実に気付いて、俺はぶるりと身を震わせた。

 今更、他の新人とチームを組んだところで、上手くいく訳もない。あいつらは俺を質問攻めにはしない代わりに、こちらからの質問も受け付けない。仕事はそこそこにそつなくこなし、突出することを厭い、穏やかな日々を好む。

 彼らだけではない。俺と柳井以外の、大抵の会社員はそうだろう。それなのに、俺のパートナーは、一際目立つ方法で退社を選んだ。

 社内中から注目を集める俺と、チームを組みたがるやつなど、いる訳もない。

 俺は愕然として、柳井を振り返る。

「どういうつもりだ、柳井」

 あの質問攻めが、社内で注目を集めるためだとしたら。

「何が目的だ」

 めざましい業績でチームをトップに押し上げたのも、今日のこの日のためだとしたら。

「何のためにそんなことを」

 柳井が上目に俺を見て、にたり、と嗤う。

 俺は机の上に叩きつけた退職届に手を伸ばす。俺の指が届くより先に、柳井のしなやかな手がそれを攫い、俺に突きつける。

 裏の差出人は柳井ではなく、俺の名になっていた。

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