1952年 柳生家の記録

 目が覚めたのは、物音がしたからだ。

 念のためにとあたりを見渡す。

 藺草のいい香りがまだ残っている畳に布団を敷いて、私はそこで寝ている。薄い紗のように蚊帳が周囲を覆っていた。これなら虫の1匹も入れないだろう。隣で福木ふくきが鼾をかいていたので、「ああこれか」と得心したとき。


 ざぁ、ざぁ。


 向こうの座敷から、明らかに畳を擦る音がした。蚊帳越しに目を凝らす。襖はぴっちりとしまっている。また、恐ろしい程の静寂が戻る。私はまた目を閉じた。


 ざっ、ざっ。


 またしても何かが聞こえる。

 首を吊った人間が揺れて、足袋を履いたつま先だけが畳に擦れている。──そんな情景を生々しく想像する。

 

 昔向こうの座敷で首を吊った人間がいたとは、聞いた事もないのだが。




 

 私が潤土うるんどを最初に知ったのは、カストリ雑誌のおどろおどろしい記事だった。

 戦国時代に潤土うるんどの人魚が村の男達を呪い殺したという物語。

 ──私は人魚が好きだった。幼い頃見たミイラに魅了されてしまったのだ。

 しかし実際に潤土うるんどを訪ねてみると人魚伝説の片鱗も見当たらず、とはいえイルカ漁がとても興味深かったため、最後の記録を残したいと思った。

 私の逗留する柳生やぎゅう家の面々はこの地の漁師の一族で、今年のだ。若い後家と前妻の娘が睦まじく暮らす旧い屋敷に泊まるというのは安いロマンスを思わせる状況だが、彼女らは貞潔な母娘だ、よからぬ事など起こるはずもない。


 昨晩の何やらおどろおどろしい体験を目を擦りながら書きつけたが、朝食の済んだ今考えると、きっと気のせいだろう。カストリ雑誌の記憶が脳に作用しただけだ。


 朝食は非常に美味であった。芋の澱粉から作った麺は色こそ悪いもののほんのりと甘く、食感はぷるぷるとしている。干物で出汁を取ったすまし汁は寝起きの胃にもするすると通った。


「どう、美味しい?」


 柳生やぎゅうナミはにこやかに尋ねた。私が首肯すると、彼女はこの郷土料理の話をしてくれた。


「もとは飢饉の時に発明された料理なの。戦争中にもよく食べた。あんまり美味しくなかったけどね。今年はサツマイモが豊作だったから一番甘そうなのを干してセンダンゴにしたから、ちゃんと甘いでしょ。普段は青葱を刻むだけなんだけど、ふんぱつしてかまぼこと椎茸まで載せちゃった」


 私は昨日椎茸が大の好物だと話したのだ。

 ナミ達母娘の気遣いが嬉しかった。

 カメラマンとして連れてきた福木はといえば、大欠伸をした瞬間に美人後家のキヤカと目が合って、顔を赤らめていた。キヤカは狐のように眦が吊り上がっていて、しかも海の女と思えぬ程の色白である。迫力のある女だから、目が合うだけでだらしなさを見咎められたような気分になるのだ。


 私は明日のイルカ漁の前に寺の坊主と話したいという旨をキヤカに相談した。彼女は承諾した。寺では果たして写真を撮らせて貰えるだろうか。

 キヤカはベークライトの蓋のついた水筒2本に茶をなみなみと注ぎ、アルミの弁当箱2つを手毬柄の風呂敷で包んだ。彼女の料理の腕は昨晩でよく知っているので、研究の合間の昼食が楽しみだ。





 

 寺での様子は流石に罰当たりだというので撮らせてもらえなかった。明日のイルカ供養の時もカメラマンが入るのはお断りだと言う。

 派手な袈裟をきて無愛想な禿頭の男は、イルカが当地で神の化身として見られている事を語った。ならば仏式の供養は不要と思われるかもしれないが、平安の御世に伊勢へ下った六条御息所とのちの秋好中宮でさえ、斎宮の任期に仏道を疎かにした事を憂いた。そういうものなのだ。

 私と福木の帰り際、坊主は尋ねた。


柳生やぎゅうの家で何か怪事が起こらなかったか?」


 こんな坊主に正直に答える気はなかったので、首を振った。すると坊主は言った。


「ならば、あの邸の奥の座敷には、今後もゆめ入るでないぞ」





 午後は役場の図書館へ行った。

 弁当は海を見ながら食べた。鰹節の入った海苔弁と絶妙に甘い卵焼き、赤いウインナーとほうれん草のお浸しは定番だが、感動したのは脂ののった焼き魚の味わいだ。この海で獲れた新鮮な魚だ。

 海はいい。私は実家が山の中だったので、海は憧れだった。老後は海に住みたいものだ。


 さて、今日は新たな収穫があった。

 住民の誰も知らなかった人魚伝説を、『雅芝風説集』なる江戸時代初期の典籍にて発見する事ができたのだ。この伝説のもとになる事件も実在し、あの淫猥な雑誌の記事通り87人の男が死んでいる。──陰茎を切除されたというような記述は当然ないので、おそらくは非常に珍しい伝染病が猛威を振るったのではないか。


 夕方に近隣地域のキリシタンの処刑地を見物し、柳生やぎゅう家に帰った。10年も前にはクリスチャンも肩身が狭かった。300年も前には拷問されて殺されていた。非常に哀れかつ無惨な話で、現代になって信教の自由が認められる事は、非常に幸福な事と思う。




 


 例の物音で目が覚めた。


 坊主が入るなと言った奥の座敷は、キヤカからも決して入らぬよう言われていた。キヤカは私達を泊める時、「鎮祭の事を論文に書くかもしれないのならうちに泊まってください。けれども奥の座敷にだけは入らないでくださいね」と言ったのだ。奥の座敷にあるのはキヤカの部屋、──であるはずだ。

 だから私は初めそれを、女性が異性を宿泊させるにあたって当然の警戒だと思った。

 しかしナミとキヤカは、亡夫の部屋で2人で寝ているようだ。







 ナミはトマトのように真っ赤な着物をたすき掛けにし、真っ白な鉢巻きをしめていた。16歳の少女の溌剌としたさまはりりしかった。継母のキヤカとは正反対の浅黒い肌がいかにも活動的である。だから赤い晴れ着がとにかくよく似合う。同じ服装をした女と1艘の舟に乗り、揺れる舟の上なので地下足袋を履く。手には銛を持ち、きりりと前を見据える。舟は男衆が漕いでいる。


 福木は海に向けてシャッターを切った。


 舟の端を木の棒で叩く音がけたたましく鳴り渡り、向こうの水面に灰色の背鰭がぐるぐると回る。時には白いしぶきをあげて飛び上がる。湾内に追い込まれたイルカの群はゆうに50頭を超えているようだった。流線形の体は陽光の下につややかにきらめき、雄大な美しさを感じさせる。

 バンドウイルカ、マイルカなどは以前には1000本以上も取れたというが、大規模な漁が行われなくなってなって久しい。潤土のイルカ漁も今年が最後になると言う。


 5艘の舟から女性達は競って長い網のついた銛をうち、ビニールのように滑るイルカの皮膚から鮮血を迸らせた。

 真っ赤な晴れ着には返り血がかかる。白い鉢巻きにぱっと花が咲いたようになり、海の色も濁った。

 潮の香りにむせ返るような鉄臭い匂いが入り混じり、あたり一面に広がる。

「■■■■■■ヒムジ!!」

 女性達はくちぐちに奇妙な掛け声をあげ、熱心な顔つきで銛を打った。

 イルカの骨は硬いため、銛の先がなかなか深くまで刺さらない。異様な熱気のなかでのたうち回るイルカにナミがようやく3番銛までを打つと、一斉に男達が動き出した。

 女が銛を打つとそのイルカは「ハツモン」と言って女性達が獲っていい事になるのだ。

 銛を刺したイルカの鼻先には長い鉤を引っ掛けて浜へ揚げ、首を切って血抜きをする。それ以降は男性も自由に獲っていい事になり、本格的な漁が始まる。


 ──この流れは対馬のイルカ漁に酷似しているが、参加する女性が未婚の少女あるいは寡婦である事は大きな違いだ。

 したがって昨年夫を亡くしたキヤカもこの漁に参加している。私の知識上、死の穢れに触れた女が海に出るのは非常に珍しい事だ。

 キヤカはぐったりとなったイルカの首を長刀で切る。際立って白い淑やかな顔が血に染まり、切れ長の目を彩るまつげにまで赤いものが滴る。キヤカはタオルで顔を拭って吐息を漏らした。

 一見残酷に見えるけれどもイルカは全身の筋肉に血が行き渡っている。切り取った肉は少し持ち上げただけで血が滴るので、血抜きをしなければとても食べられたものではない。

 この「ハツモン」のイルカはその場で振る舞われる事になる。お多福のような面をつけた娘がイルカを解体し、薄く切った肉や臓物、鰭の部分を取り分ける。浜で火を焚き、大きな鍋でその肉を茹でる。


雲夢うんぼうさんたちもいかが?」


 キヤカはにっこり笑い、私達に話しかけた。

 カメラマンの福木は断って写真を撮り続けたが、私は色々な方法で食べてみた。特に私が気に入ったのは、味噌、醤油、砂糖で和えたワタだった。塩水で綺麗に洗ってからよく茹でてから、食べやすい大きさに切ってある。それが身よりも美味く、噛めば噛むほど味わい深いのだ。酒とも合いそうだった。

「楽しいですね、お祭り。今回でおしまいだなんて勿体ない」

「そうですよね。でももう安定した採算も取れないし、外国からは残酷だと言われてしまうしねぇ。……雲夢うんぼうさんたちが記録してくれるだけでありがたいわぁ」

 狐のような目は笑うと更に細くなる。

 キヤカをはじめとする血を浴びた女性達は、着替えに戻っていく。しかし宴はますます盛り上がっている。これはヒムジ鎮祭という大漁を願う祭りの一環らしい。私の専門ではないが、おそらくはエビス信仰の影響を強く受けている。

 潤土うるんどではヒムジの夫婦神体を祀るのだ。オヒムジとメヒムジ──、男ヒムジと女ヒムジを示す名であろう。メヒムジの方の神体は、当番となる家の女によって1年毎に選ばれるそうだ。──つまりはキヤカが選んだという事だ。

 これはエビス神体が夫婦である地方がある事やエビス神体を元旦に海中から拾う一部地域の風習と重なる部分がある。またメヒムジを模したお多福の娘は水死体を想起させる。

 メヒムジによって振る舞われた肉を食った後は坊主が呼ばれて、経をあげるそうだ。その後イルカの骨はヒムジの碑で丁重に祀られる。


「おい、福木くんも食べないか」

 私が上機嫌で話しかけると福木は困った顔をした。

「ボクはいいですよ。ボクぁ肉を食う気にならんのです」

「君はベジタリアンじゃないだろう」

 福木は言い淀んだ。

「……いや、ね。どうにもかわいそうな感じがしてしまって」

 南方帰りの福木はむくつけき大男だ。

 そんな彼が繊細な事を言い出すのだから可笑しくなってしまう。

「潔癖だねぇ福木くんは」

 福木は恥ずかしそうにした。


 ナミが紺の着物に着替えて帰ってきた。

 ぱっちりとした二重瞼がまばたきをしながら福木のカメラを見る。彼女は手に焼いたイルカの肉を載せた皿を持っていた。

「福木さん、また写真撮ってくださいな」

「さっきまで散々撮っていたじゃないか」

「えー。さっきのは銛投げ、今度は鎮祭。服も違うやん」

 柳生やぎゅう家はヒムジ鎮祭の当番なので寺で弔った後にイルカの骨の一部を持ち帰り、自宅の仏壇に供える。

 


 漁が終わった後、派手な袈裟を着た坊主に「私だけでも」と頼み込んだが入れてもらえず、キヤカに謝られた。

「ごめんなさい。鍵はあいているので先に帰って、お食事はお隣にお願いしてくださいな」

 若い女性の2人暮らしにしては無用心すぎると思うのだが、これが都会と田舎の感覚の違いなのだろうか。

 少々心配になってしまう。

 それでも、

「ありがとうございます」

 と言った。


 帰路を辿りながら福木が肩を竦める。

「変わった村ですな」

「こういうの、慣れてない?」

「慣れないどころか初めてですとも」

 道理で若干の距離を感じる訳だ。

「過剰に珍しがるものではないよ。勿論独自の素晴らしい文化はあるけどね。……とは言ってもシティボーイには珍しいか」

「ボーイという歳でもないですけどねぇ」

「あはは、そりゃそうだ」

 福木はこれで三十路、ちなみに私はもっと上だった。


 ──ここまで見た通りなら、ヒムジ鎮祭は世間で言われているような奇祭ではなさそうだ。


 隣家からはイルカとゴボウの生姜煮を分けてもらった。隣家でそのまま食べる事を断り、柳生邸に入る。昔ながらの立派な邸だ。

 夕食を始めると、

「──」

 沈黙が落ちた。

 多弁なナミがいないと邸は静かだ。無垢の木の床が僅かな音も吸い込む。その静謐はどことなく不気味だ。

 古い建物は木と土と、微かな花の香りがする。

 臭みの消された肉を噛みながら、私は2人の女性が戻ってくる事を待ち望んでいる。

 立派な邸なのだ。大きい割には掃除が行き届いて、置物もなかなかに立派なものだ。だから大の男がこんな事を言ってはいけないと思うのだが──、不安だ。

 襖の方を私は見る。

 私はこの家を訪れてから毎晩、奥の座敷に異様な気配を感じた。何かの擦れるような音がするのだ。

 何かがある。──そんな想像をしてしまう。今にもひた……、ひた……、と暗闇が忍び寄り、私達を飲み込むのではないか。

 夜は福木が隣にいなければ眠れなかったかもしれない。

 むろん、学者ともあろうものがこんな非科学的な感覚を抱くのはおかしい。福木だけでなくずっと暮らしているナミとキヤカも平気そうにしているのに、不甲斐ないと思う。

 ──そう思っているのだが、不気味な感じはどうにも否めない。

 

 私は首を振り、襖の向こうからまとわりつく嫌な雰囲気を振り払おうとする。

 怖がっていると美味しい食事がもったいない。

「福木くん……。折口翁がイルカや鯨をマレビトだと言っていたのを知っているかい?」

「……いえ」

 福木は興味のなさそうな顔をした。

 しかし私にはそういう話題しかないのだ。

「海という異界から来訪した賓客──豊漁をもたらす神さ。昼間の漁の華やかさを見たろう。全盛期にはあの収入で村が保っていたんだ。イルカ漁や鯨漁というのはエビス信仰と結びつきやすいのも道理だ。自らの肉をもって幸をもたらすメヒムジというのも、その類型だね。この潤土の信仰もイルカを漁撈神ヒムジに見立て、それが他の地域のエビス信仰の影響を受けて今の形になったのではないかと思うんだ。……気になるのは女性がメヒムジの神体を拾う風習だね。たしか九州じゃないかと思うんだけど、南方系海底捜神型といって、海中から石を拾い上げて新しい神体にするという話がある。……けれどそれを女性がやるというのは聞いたことがないな。あと、石に限定せず本当に何をメヒムジの御神体にしてもいいらしいからなぁ。……潤土うるんどにも昔は漂着物を拾うと大漁になるという信仰があったらしいから、その影響かも。もう一方のオヒムジには固定された御神体があるらしいけど、奥の座敷には入っちゃいけないしなぁ──」

 イルカ肉を白米と合わせながらつらつらと語った。福木がへらりと笑った。

「あっ。今誰もいないですし、ボクがささっと撮ってきましょうかぁ?」

「それは駄目」

「えー」

 民俗学など今時はやらない。

 キヤカやナミは私を柳田翁の如き偉大な人物だと思ってもてなしてくれるが、私はそんな大層な学者ではないのだ。けれど流石にそういう倫理に反した事をする程には、腐ってはいないつもりだ。

 ──そうは言っても、詳しくない福木にきちんと通じるかはわからないが。

「とにかく、絶対に駄目だぞ」

 あと、倫理の問題を置いておいてもあの座敷にだけは入らない方がいいとも思う。


 食後皿を洗い終わった頃になって戸が開く音がした。キヤカ達が帰宅したのである。

「ごめんなさい、……お皿もう洗っちゃいました?」

 彼女達は妙に疲れた顔をしていた。

 儚げなキヤカはともかく、あのナミもだ。

「いやー、気にしないで下さいよ奥さん」

 私は内心、「儀式を見たかったなぁ」と思った。彼女達は一体何を見てきたのだろう?

 好奇心が湧き上がり、私はナミに根掘り葉掘り尋ねてみたが、女性は手ごわい。結局誤魔化されてしまった。






 また夜が来た。

 しかし柳生家に泊まるのも今夜で最後だ。


 午前1時頃に目を覚ますと、例の音がした。


 ざぁっ、ざぁっ、ざぁっ、ざっ。


 畳と何かが擦れる音を聞く。

 枕が違うので寝つけず妙な幻聴を聴いているだけだと、自分自身に言い聞かせる。

 襖は閉まっている。それを開けて中を確かめる勇気などありはしない。だから私は寝たふりをした。このまま寝ていれば、これ以上の事は起こらないだろう。昨日までもそうだったのだ。


 ──


 その時、私の心を読んだかのように、突如音が変わった。

 なまぐさい悪臭が鼻腔いっぱいに広がる。一気に恐怖が襲ってきた。

 ずるっ……、ずるっ……、ずるっ……、ずるっ……。

 這いずってくる何か。──何だ?

 ずずずずずと摩擦音を立てながらそれは来る。


 ずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっずるっ。


 少しずつ音が大きくなり、


 …………


 唐紙を弱々しく引っ掻く音がする。

 その音を聴いていると首回りが異常に痒くなる。枕や敷布団が触れるたび、ちくちくと小さな痛みが走る。私は耐えきれずに首を掻いた。

 隣で福木が寝返りを打ち、呻き声を上げ始めた。


「うぅぅぅうううううぅぅぅぅ」


 普段の声の高さではない。声だか音だかも判別がつかない、狂気のような泣き声だった。それは強いて言うのなら、産声に似ていた。

 私は跳ねるように身を起こし、福木を見る。

 彼はまだ寝ていた。寝たままこの声をあげていたのだ。


「起きたまえ、福木くん」


 肩を揺さぶった。


「うぅぅぅうううううぅぅぅぅ……。おぉあああぁぁぁぁぁん……」


 それでも起きずに奇声を上げ続けていたので、殴った。するとようやく声が止んだ。


 ほっとした。しかし声を掛けようとしたところ、彼は何かぶつぶつ言いながら強い力で私の手を振り払った。赤子のように仰向けになって四肢をバタつかせた。

 その顔はもう福木のものではないようにニタニタと笑っている。

 私は福木に話しかけ続けたが、もう駄目だった。


「今医者を呼んでくるから……」


 そんな声かけもそこそこに私はこの部屋を逃げ出し、キヤカの部屋へ向かった。医者を呼ぶと言ったのに言行が一致していない。

 しかし私は必死だったのだ。


 その背後から凄まじい勢いで何かが這いずっている。何故か女だと思った。ずるずるずると両手だけを使って這ってくるおぞましい女の姿を振り返る勇気もないのに思い浮かべて叫び声をあげ、廊下を走り襖を叩いてキヤカを呼んだ。彼女は初めから何かを知っているような顔をしていたが、私は何も聞けなかった。這いずる音はいつの間にか消えていた。彼女は真っ直ぐに私達の寝ていた部屋へと向かった。


 私は部屋に入るのを躊躇い、キヤカの入室した数十秒後になってやっと足を踏み入れた。


 奥の座敷の襖が微かに開いていた。

 その瞬間、私は、キヤカがスッと襖を閉めたのを見た。





 福木は既に死んでいた。

 ──彼の死因を心臓発作だと医者は診断した。




 絶対に嘘だ。

 潤土うるんどには二度と行きたくない。





《雲夢ソウジの手記より》

 

 

 

 

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