2000年 ミキトと黒い柱
幼稚園生の頃はお父さんが好きだった。
ミキトのお父さんはほかの家のお父さんよりだいぶ歳を取っていたけれど、少しも気にならなかった。運動会で一緒に走って一番になったときの写真は子供部屋に飾っていた。お父さんは誰よりも息切れが激しくて、心配になって水筒を渡してあげた。そうするとお父さんは顔をくしゃくしゃにして笑った。大好きなお父さんだった。
けれどもミキトが小学校に上がった頃から、お父さんはお母さんを殴るようになった。お母さんは「お父さんは病気なのよ」と言い、お父さんは「こうやってお母さんに取り憑いたものを祓っているんだ」と言った。つまり、お父さんは病気だった。
気づいたら毎日家にいるようになって、いつになったら仕事に戻るんだろうと思った。いなくなれば気が楽なのに、ずっといた。散歩も行かなかった。いつも漢方を飲んで、独り言をぶつぶつと言って、書斎には変な物ばかり集めた。
「壊したらただじゃ済まないから」とお母さんの方がかえって怖い顔をして、ミキトは自分の家では静かに息を潜めて過ごすようになった。
人の出入りもどんどんなくなっていった。昔はお父さんの教え子もたくさん来ていたようだけれども、女の人は特に、イヤイヤ来ていたようでもあった。暴力が本格的に始まるまえ下宿していたユキノお姉さんは「先生は男尊女卑だから」と呆れていた。お父さんがおかしい事に気づいていたのだろう。彼女がいなくなると、
ミキトは他の友達に対して劣等感があった。ケンジの母親は社長だし、ユウキの父親は県会議員だ。みんなの家に行くのは楽しかった。それでも今度はミキトの家に行きたいと言われた時、いつも言葉に詰まる。
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だから、お父さんが死んだ時も悲しくなかった。
「塾とか学校はどうなるの?」
学費の心配をしたのだ。
けれどお母さんは「忌引きと言ってね、何日か休めばいいのよ」と直近の話をした。お母さんは教科書の戦中の女の人みたいに喋る。お父さんに対してはいつも敬語だったので、本当に戦中みたいだった。ケンジのお母さんが旅行の時「ご主人」って言葉を使われたので激怒したのとは大違いである。
「そんなに大変なものじゃないわ。お葬式は唐揚げもお寿司も食べられるわよ」
お母さんは少し笑って言った。
ミキトは驚いた。お母さんの笑顔を見たのが久しぶりだった。お父さんが死んでよかったとすら思った。病気の人にそう思うのは残酷かもしれないが、ミキトもお母さんもすっかり疲弊していたのだ。
お葬式の日、ミキトはおじいちゃんとおばあちゃんと一緒にお父さんの入っている棺を何回も覗いた。お父さんはロウ人形のようだった。お母さんを殴った時のお父さんに取り憑いていた悪魔はもういない。好きだった頃のお父さんに見えて、ちょっぴり涙が出た。おばあちゃんも泣いた。少し腹がたった。お父さんがお母さんを殴っていたと知らないくせに、この人は泣くのだ。
座布団の上に戻ると、おばあちゃんはミキトのためにお寿司をよそった。
「ミキトくんはお寿司が好きだもんねえ」
と何回目かもわからない事を言われる。本当は普通だった。お寿司が出たとなれば喜ばなければいけない雰囲気があって、お父さんを不機嫌にしないためにそうしていた。おばあちゃんはそれを信じている。お母さんならミキトの本当に好きなネタだけ分けて、ちゃんとサビ抜きにもしてくれていたからよかったけれど、おばあちゃんにそんな配慮はない。びりびりと変に辛いマグロを涙目でお茶と一緒に喉奥へと流し込んでいるミキトに、おばあちゃんが猫撫で声を出す。
「ところでミキトくん、これからおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らさないかい?」
「……?」
「マリカさんはまだお若いし、ミキトくんのお勉強の事もわからないでしょ。あんな中卒の女」
中卒、というのはお父さんがお母さんを殴る時によく使う言葉だった。
「何言ってるの、おばあちゃん?」
おばあちゃんの顔が知らない人みたいに歪む。
「ミキトくんにはまだ難しいかもねぇ。でもおばあちゃんはミキトくんの事を思って言ってるんだよ。マリカさんが何を言ったって、結局ミキトくんの意志次第なんだからねぇ」
おばあちゃんとお母さんの仲が悪いのはミキトもうすうすわかっていた。それをミキトはおばあちゃんが空気の読めない人だからだと思っていたけれど、違った。おばあちゃんはお父さんと同じくらいおかしい。ふつうの家のおばあちゃんは孫にお母さんの悪口を吹き込むような事をしない。
「……おばあちゃんとは暮らしたくありません」
ミキトはこわばった表情で声を荒げた。
「そんな怖い顔する事ないじゃない」
もうめちゃくちゃだ。おばあちゃんは被害者みたいな態度を取った。けれど実際はお母さんをいじめているのだ。クソババアだと思った。けれどミキトは我慢する。ミキトが汚い言葉を使うとお母さんのせいにされてしまう。
──。
本当なら今日はケンジの家でプレステをやらせてもらう約束だった。それがクソババアの相手をしてお母さんの悪口を聞くことになるなんて最悪だ。これなら塾の方が──ミキトは勉強が嫌いじゃない。テストの点が良くてコースが上がればプライドを満たせるし、勉強をするといえば家族を刺激せずに嫌な事から逃れられる。けれどもいくらなんでもお父さんの葬式から「勉強します」と言って逃げる事はできない。
所在なく唐揚げをつつきながら、ミキトはおばあちゃんの方をなるべく見ないようにする。お母さんがお父さんの元教え子とお話している方を見る。お母さんは真珠のネックレスをいじったり目元を拭いたりしていた。泣き真似だった。お母さんは女優志望だったので、普通の人より演技が上手い。けれどお母さんが本当に泣く時は、こんなに儚げな感じではないのだ。
そう思って唐揚げを食べて、けれども冷めた唐揚げを何個も食べるのは飽きるなぁと思った時、
──ブゥゥゥゥゥゥン。
蝿の羽音とともに、突如黒い柱が立った。
黒い柱を見て、お母さんは、愛おしげに泣いた。
本物の涙だった。
ミキトはフラフラとお母さんの方へ行った。
お母さんは涙を拭いて笑った。
「……昔うちに下宿していたチュウヤくんよ。だいぶ久しぶりに会ったものだから驚いちゃった。ミキトは小さかったから忘れちゃったかしら?」
「いはしすびらでん。おぶこのことおべえつる?」
「……ごめんなさいね。ミキト、まだ人見知りが直ってないのよ。もう5年生になるのにね」
「いみこともそんあおちさか。はははははっ!」
お母さんと黒い柱の間には当然のように会話が成立していた。むしろ、お母さんは誰と話している時より楽しそうだ。黒い柱は平気でビールを飲み、寿司を食べた。お父さんの教え子はみんな黒い柱を取り囲み、旧交を温め合う。
クソババアでさえ全くの無反応だった。
何故なのだかわからない。
今までの不快とは全く違った意味で、異常な現象が起こっている。
ミキトは泣きそうになる。けれど誰も気づいてくれない。クソババアだけが同情を示した。父親に死なれた子が泣いているのは当たり前だからだ。
──どうしよう。
変な声がする。虫の集まって立てるような音がする。明らかにおかしいものがお葬式の席にやってきているのに、誰も気づかない。それどころか友好的なのだ。……いつあの怪物がビールやお寿司ではなく人を喰い始めるかわからないのに。みんなあの怪物に殺されてしまうかもしれないのに。
ブゥゥゥウウウウン。
……本当に聞こえていないの?
ザザザザザザ……。
「おさんになうここたにあどる?」
ブゥゥゥウウウウン。
……うるさいうるさいうるさい!
食欲なんてありっこない。むしろ胃の中身が全部ひっくりかえってきそうなのにクソババアがミキトの機嫌を取ろうとしてくる。悪い夢のようだった。
黒い柱がいる。こいつが邪悪だということはわかる。ひどい匂いがするし、嫌な音もする。
こいつを受け入れた途端に全てがどうにもならなくなると、ミキトにはわかっていた。
/
ミキトは何かの間違いだと思って忘れる事にしていた。この話を誰にしても仕方ないとわかっていた。葬儀の日からすぐに親戚の男の人が死んでいても、だ。
お母さんは話さない。けれど異常な死に方だったというのが、週刊誌では書かれている。テレビでは放送されないくらい残酷な死に方だったのだ。
お母さんと一緒にお父さんのコレクションを片付けながら、黒い柱について打ち明けようかと悩む。けれど病院に連れて行かれるかもしれない。だから怖い。お母さんはお父さんが死んでからどこかスッキリした顔をしているのである。オシャレな服を着る事が増え、土日もよく遊園地へ連れて行ってくれる。そんなお母さんを心配させるような事はできない。
お母さんはお父さんの書斎の片付けを始めた。次々に箱やらなにやらをより分けて行く。
「これは捨てないの?」
ミキトは大きめの箱を見つけ尋ねた。
「駄目よ。これはお母さんの家族から送られてきたものなの。──お母さんが初めてもらったプレゼントなんだけどねぇ、それからすぐにみんな、竜巻で死んでしまったの。あまり必要な感じはしないけれど、折角いただいたものでしょう」
実際、その箱は埃をかぶっていた。
永久に使わなさそうだった。
けれどお母さんはその箱に風呂敷を被せ、にこにこした。
「楽しそうだね」
「楽しいわ。お父さんのコレクションね、すごく高く売れるかもってチュウヤくんが」
またチュウヤだ。
お母さんは頬をリンゴみたいに赤くし、嬉しそうに話す。ほほえむ。
お母さんは黒い柱を愛しているように見えた。
お父さんよりもずっと。
もしかしたら、ミキトよりも。
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