行き先

ながる

行き先

 電車っていうのは、なんであんなに眠気を誘うんだろう。

 線路の継ぎ目をリズムよく鳴らすから? その振動がゆりかごだと錯覚するから?

 久しぶりの飲み会で、ちょっと気持ちよく飲みすぎたから?

 ここのところテレワークばかりで、体力が落ちたのかも。ジムでも通おうか。マラソンでも始めようか。

 うとうとしながら、それでも乗り過ごしちゃいけないと、必死に頭を現実に繋ぎ止める。

 降りる駅はそろそろのはずで、でも瞼はなかなか持ち上がらなかった。


 ――次は×××、×××です。お降りの方はお忘れ物のないよう……


 最寄り駅の案内が聞こえて、スピードが落ちる。

 ガッタン、と傾いた身体が引き戻される感覚に一瞬覚醒して頭を上げると、プシュッと圧が抜けて開く扉が見えた。

 降りなくちゃ。

 そう思うのに立ち上がれない。三秒ほど扉を見つめて、それから慌てて駆け降りた。

 ホームを踏むとすぐに後ろで扉が閉まり、ゆっくりと電車は走り出す。

 ほっとしたのも束の間、改札へ向かおうとした足が止まる。

 いつもより暗いホーム。ちかちかと瞬いている蛾のたむろする街灯。歩き始めた方向に改札はなく、あれ、と振り返っても人の気配もない。

 電車の赤いライトはカーブしてするすると離れていく。


「……やべ」


 思わず独り言が出てしまうくらい、一気に目が覚めた。

 なんだよ。ここ、どこだ?

 ちかちかしてる街灯の近く、ところどころ錆の浮いた駅名標に目を凝らす。削れたのか剥がれたのか、掠れた文字は良く読めない。前後の駅名は完全に判読不明だった。


「は……×……ま?」


 ひらがな三文字。真ん中が読めない。はりま? はざま? どちらにしても、いつも乗る区間にそんな駅名は存在しないはず。眉間に皺が寄る。

 実はとっくに乗り越してしまっていたのだろうか。

 次の電車を待つか、戻るか、一駅二駅くらいならいっそ歩くか。

 ともかく、現在地は、とスマートフォンを取り出して地図を開こうとした。


「……んだよ」


 アプリは立ち上がるものの、繋がらない。圏外の表示を見て眉を寄せる。

 駅だぞ? 山ン中じゃあるまいし、圏外とかあるか?

 高く掲げてみたり、場所を移動してみたりしたけれど、アンテナの立つ気配はなかった。後ずさりしていて危うくホームから落ちそうになって、そこで諦める。

 もう一度辺りを良く見渡すと、ようやくドアのようなものを見つけた。上部についているはずの照明は完全に沈黙していて、代わりに闇をカーテンのように下ろしている。

 近づくと古くなって曇り切ったアクリル板がはまった引き戸で、ほんのりと中の明かりを漏らしていた。

 改札があるといいなと薄い期待を抱きながら戸を開ける。思ったよりも滑りはよく、滑らかに戸袋に収まっていった戸板は奥にぶつかって少し戻ってきた。その音が無人の駅にいやに響いて「うぉっ」と声が漏れる。

 どうせ誰もいないのだから、と、ひとりにやついて中へと足を踏み入れた。


 ぐるりと見渡しても、やはり改札のようなものは見当たらない。ベンチが二つと網に囲まれたストーブが一つ。そして自動販売機が一台。照明は点いていなくて、薄く漏れていたのは自動販売機の明かりだったようだ。待合室なのだろう。

 時刻表や路線図がないかともう一度視線を巡らせようとして、心臓がはねた。

 ベンチに誰か座っている。

 うつむき気味に制服……黒っぽいセーラー服を着た髪の長い女。

 いたか? 戸を開けた時、何で気づかなかった?

 バクバクと心臓が騒ぎ出すけれど、薄暗がりに黒ずくめの格好なら見逃してもおかしくはないの、かも。

 これがいかにもなギャルがスマホでも弄っていたなら、迷わずに声をかけたのに。じっと黙って足元に視線を落としている女に声をかけるのは躊躇われた。

 しばらく張り詰めた緊張が続いたけれど、こんなところに座っているのだから、彼女はこの駅の利用者のはず。貴重な情報源なのだ。意を決して口を開く。


「すみません」


 少しかすれた声に我ながら情けないと思いつつ、彼女がびくりと肩を揺らしたことで、こちらも警戒されているのだと知って急に緊張が解けた。

 そうだ。そうだよな。女の子の方が怖いよな。


「いや、寝ぼけて降り間違えちゃって。〇〇〇って駅どっち方向かわかりますか?」


 たっぷりと間があってから、彼女は小さく左右に頭を振った。


「そうか……ありがとう。困ったな。次の電車は……」


 すぅっと黒い袖から伸びた白い指が一点を指す。それを目で追って、時刻表らしきものを見つけた。

 もう古ぼけて染みも多い紙をスマホのライトで照らして覗き込む。

 現在時刻は二十二時三十八分。無人駅だからなのか、二十三時台にもう一本あるだけで終わりのようだった。


「マジか」


 その時間を待つなら、戻るにすれ進むにすれ一駅歩けば上りも下りもまだあるだろう。そうだ。タクシーもいるかもしれない。財布の中身は寂しいが、行けるとこまで行ってもらうのもアリかも。

 一息吐き出して、出口へと身体を向ける。と、同時に引き戸の上にパッと明かりが灯った。そこだけ似つかわしくない電光掲示板の表示。

 黄色い「通過」の文字が点滅して、ほどなく電車が通り過ぎていく。生ぬるい風が吹き込んできた。


「……ず」

「え?」


 電車の通過音に紛れて聞こえた声に、思わず反応する。

 彼女は少しだけ顔を上げていて、わずかに両端の上がった口元が見えていた。


「お水、買ってくれない……?」


 なんで、と思ったものの、彼女の持ち物は辺りに見当たらなく、その雰囲気も、こんなところにいるのも何か訳ありなのかもしれない。質問には答えてくれたし、後味の悪い思いをするよりは、と、自販機に歩み寄った。

 幸い、電子マネーの使えるタイプだったので、スマホをかざして支払いを済ます。がたたん、と容器の落ちてくる音がいやに大きく響いて聞こえた。

 普段通りに取り出し口に手を突っ込んで、指先がペットボトルに触れる前に、何か柔らかいものを触る。え。と思ったときはもう遅かった。

 手の甲から手首にかけて、細長いものが巻き付こうとした。ぞわぞわと足の多い、ムカデかヤスデのようなもの。


「う……わっ!!」


 慌てて手を引っ込め、振り払う。刺されなかったのは幸運だ。

 二歩ほど下がったところで、取り出し口のカバーが小さく持ち上がって見えた。頭の中で訳もなく警鐘が鳴っている。ゆっくり足を引いていくけれど、目はそこから離せなかった。

 ずるりと一匹。ぼたりと二匹。

 見る間にその数は増えていき、波に乗るようにペットボトルが押し出された。床に落ちて転がるペットボトルを避けるように、虫たちは素早く四方に散っていく。たまたま向かってきた一匹を、声を上げながら思わず踏み潰した。


「……うふ……ふ」


 押し殺したような声に、自然に視線が向いた。

 おびえているのかとも思ったから。

 けれど彼女は嗤っていた。にぃっと口角を上げて、すだれのような前髪の奥から盗み見るようにこちらを見上げる細い目――

 笑われたことにカッとして、けれど彼女の手が走り寄る一匹を掬い上げるのを見て、ぞっと背筋が寒くなった。

 オカシイ。

 もう彼女には構わず、待合室を大股で後にする。脇目もふらずホームの端まで走って、階段を駆け下りた。



 #####



 運動不足の体では、そう長い間走っていられるものでもない。

 足を緩め、肩で息をしながら、どこかに住所の分かるものはないかと首をめぐらせる。

 信号もなく、特徴のない住宅街。明かりのついている家はなく、まるで巨大な住宅展示場にでも迷い込んだ気分になった。綺麗に整ってはいるが、人の暮らしている気配がない。単に暗いせいなのかもしれないが。


 幸いにも道は線路と平行に伸びている。スマホの電波は相変わらず捉えられず、障害でも起きているのかと舌打ちを打ちながら、せっせと足を動かした。

 誰か通りかかれば聞いてみるのに、暗く沈み込んだ街並みには人どころか犬も猫もいない。そういえば、そこそこ広い道なのに車も一台も走っていない。

 いったん足を止めて振り返る。

 救急車のサイレンもクラクションも聞こえてこない。風もなく、虫や鳥の声もない。息を止めて耳を澄ましても、どこまでも無音だった。

 じわじわと湧いてきた不安を振り払うようにまた歩き出す。

 隣の駅に着きさえすれば、気のせいだったと自分を笑えるだろうと。


 一心不乱に歩き続けて十五分ほど。

 線路沿いに駅舎が見えてきた。ちょうど背後から電車の音が聞こえてきて、ほら、大丈夫だと口元がにやける。

 快速なのかスピードを落とす気配のない車両を何の気なしに見上げると、ぎっしりと人が詰まっていた。

 利用客が多い路線ではあるけれど、この時間、そこまで混んでいるのは妙だった。さっきまで遅延していたわけでもなく、違和感によくよく観察してしまう。


 列車の窓に下から上までいくつもの頭が押し付けられている。こちらを向いている者、横顔、後頭部。腕や手のひら、足に臀部……ところどころに見える赤いものは座席の色ではなかった。座席を取り外した箱にぎゅうぎゅうに人形を詰め込んだような、そういうものが走っている。次の車両も、その次の車両も――

 言葉にならない甲高い悲鳴が口から洩れた。一気に頭に上った血は音を立てて引いていく。ぐらりと頭が揺れて、思わず目をつぶった。何とか持ちこたえて再び目を開けた時には、赤いテールランプが遠くに見えるだけだった。


 何だっていうんだ。やめてくれよ……


 震え始めている足を無理やり動かして、駅舎に向かう。誰かに会いたい。誰でもいい。「飲みすぎたんですか?」って笑ってほしい。

 足をもつれさせ、何もないところで何度も躓きながら辿り着いた駅舎は、ひっそりと静まり返っていた。


「……嘘だろ……」


 駅舎に掲げられているはずの駅名は見当たらず、目の前にあるのはホームに直接続く階段。通勤圏内で無人駅がいくつも続いているなんて、考えられない。

 薄暗い照明に、ペンキの禿げた手すり。待合室の照明はここも点いていない。少し奥に見える駅名標も掠れていて……

 嫌な予感にか、運動不足の体が悲鳴を上げているのか、やけにうるさい心臓の音を聞きながら、何かに誘われるようにホームに上がる。

 はっきりと駅名が見えるところで、両足は凍り付いた。


 ――は……×……ま


「確かめた?」

「ひゃ……!」


 耳に吐息がかかる距離で囁かれて、カラカラに乾いた喉から妙な音が出る。飛び退りながら振り向くと、髪の長い、黒のセーラー服を着た女がごく近くに立っていた。


「……おま……おま、え……」


 痛いくらいに心臓が脈打って、息も絶え絶えな口からはまともな言葉が出てこない。


「行先も、降りる駅も、ちゃんと確かめないと」


 ぼそぼそと喋る彼女はニィと笑って、持っていたものを差し出した。


「飲む?」


 水のペットボトル。

 いらないと断るためにもっと酸素が必要だった。金魚のようにパクパクと口を開け閉めしながら、ふるふると頭を振る視界の端に、動く明かりが見える。


「ねぇ。飲む?」


 あの電車は止まるだろうか。止まってほしい。早くこの場から逃げ出したい。

 ゆっくりと、押しつけがましく差し出される水は四分の一ほど減っていて、目の前まで突きつけられると、中に細長く節の多い体の虫が複数の足をうぞうぞと動かしてもがいているのが見えた。


「やめろ!!」


 とっさにその腕ごと振り払う。

 質量を感じさせない黒い塊が半回転しながら宙に浮いた気がした。


「……は……?」


 とたんにけたたましいくらいの音量で踏切の警報音が鳴りだした。カンカンいう音に合わせるように赤いランプが瞬いている。

 踏切? 踏切なんて、どこに……

 黒いセーラー服はホームから飛び出し、闇の濃くなる線路の上へと落ちていく。

 ぷわん、と警笛が鳴った。


「え……?」


 闇に溶けるようにして見えなくなりそうな彼女を無意識に追って、線路の上を覗き込む。近づく電車のヘッドライトが照らし出した時には、もう彼女の姿は見えなくなっていて、ペットボトルが一本転がっているだけだった。ホームの下にでも潜り込んだのかと半分安心して、半分不可解な気分に眉を寄せる。


「これに乗りたいの?」


 楽し気な声と共に背中に感じた手のひらふたつ。

 ドンと押し出される身体はひどくゆっくりと感じられた。眩しいくらいのライト。近づく車体。運転手の影。ぼんやりと見えた行先表示の「岸」という字。目をつぶる暇もなく――



 #####



 つぶらなかったはずの目を開けた。

 止まってもおかしくなかった心臓は過去最速をたたき出している。詰めた息を吐きだすと、タタン、タタンと規則的な音と振動が足元から聞こえていた。

 冷や汗をぬぐう。

 もうひとつ深く息を吐きだして、震える両手に苦笑する。

 どの辺りまで来たのだろう? 乗り過ごしてしまっただろうか。

 スマホを取り出してみると、電源が落ちていた。充電はまだあったはずなのに、うんともすんとも言わなくなっている。

 顔を上げても、窓の外は車内の明かりが反射していてよく見えない。そろそろ次の駅についてもいい頃なのに、一向に入らないアナウンスに気持ちが騒ぐ。


 ゆっくりと車内を見渡す。

 立つ人も座る人もじっとうつむいている。スマホを持つわけでもなく、心なしか青白い顔をして……いや、気のせいだ。みんな疲れているだけだ。

 もうすぐ何処かに止まる。

 きっとすぐ。

 すぐに。


 ガサ、とマイクの入る音がした。


 ――ご乗車ありがとうございます。この列車は……ザザ……行き……次は「……の河原」「……の河原」に止まります……


 ほら。

 ……ほら?




 # 終点 #

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