野球部員

 瞬きする度に乾いた涙が張り付きベタベタとしていて不快さを感じる。

 頬を擦ると手が黒土で染まった。


 涙が出たのは一瞬だった。すぐによく分からない感情でぐちゃぐちゃになり、乾いた笑みすら浮かびそうだった。



 そういえば何があったっけ?


 現実逃避。忘れたい記憶がまた一つ増えた。つい数時間前の記憶が曖昧だった。






「暑い・・・」

 乾いた空気に僅かな土っぽさが混ざる。

 グローブをはめていない方の手首で汗を拭うと同時に黒土が肌を擦った。

 前の回でスライディングしたせいか全身がザラザラとしている。


 敵チームの応援にも熱がこもる。

 吹奏楽部が奏でる音色とは違い乱暴に叩かれる太鼓、乾いた空気を震わす全校応援の声。


 太陽から目をそらす様に帽子を深く被りながら遠くにあるバッターボックスを見る。

 陽炎かげろうが見えた。

 あまりの暑さに視界が歪んでいたのかもしれない。

 ライトの守備に着いていた俺は軽く足を伸ばしてピッチャーが次のボールを投げるのを待つ。

 試合前に感じていた僅かな緊張も試合が始まるとすぐに無くなり代わりにこもるようなダルさが体にのしかかった。

 暑さのせいかとも思っていたがそれは自分がミスをしてしまうのではないかという不安によるものが大きかったのだと思う。

「頑張れ!!」

 そんな時声が聞こえた。

 熱気を貫いて一直線にその声は俺の耳に入ってきた。

 声の主を探すと案外とあっさり見つかった。彼女以外皆がバッターとピッチャーか、或いは得点ボードを眺める中で、彼女だけはスタンドの端でこちらを見ていた。


 ピッチャーがグローブを高くあげて振りかぶる。

 陽炎がより一層色濃く揺れて投手の指先からボールが離れた。


 金属バット特有の甲高くも気持ちの良い音がなる。

 いつもより見開いた目でその打球を探す。白球は少し目線をあげた先にあった。

 自分の方へと飛来するその白球に幼少の頃から培ってきた直感のようなもので後ろへと走る。

 首だけでボールを追いながら足に力を込めた。


 これなら間に合う。

 ツーアウト一塁。

 走者はもう走り始めていた。


 だが、この白球を取ればとりあえず俺の出番は終わりだ。

 そうすれば延長戦に入ることが出来る。

 しばらく打順も回ってこないだろう。

 とりあえず今は休みたかった。

 鉛のような体に鞭を打ち足を上げ続ける。



 ・・・・・・・・・。


 何が起こったのか理解出来ずにグローブで地面を叩いていた。外れた帽子が地面を転がる。


 しばらく転がった帽子は騒がしい球場の中であって尚はっきり、パタンと音を立ててゆっくり倒れた。

 コンマ数秒遅れて白球が地面を抉るように落ちて跳ねながら転がっていった。


 全てを理解するまでに時間を要した。

 意識が飛びそうだ。

 焼けるような紫外線が刈ったばかりの頭を撫でつける。


 打球を取ろうと振り向こうとした瞬間足が上がらずに、地面に刺さった自分のスパイクにつまずいたのだ。

 全てを理解して立ち上がろうとした頃にはセンターを守っていた同級生の高橋がボールを拾い投げていた。

「なにしてんだよ!!」


 高橋から怒声が上がる。

 スタンドを揺らすほどの歓声が耳に割って入ってきた。

 立ち上がってホームを見るとベンチから弾むように飛び出してきた敵チームが目に入る。

 歓声をあげていたのは敵チームの応援陣。

 一方でグラウンドに取り残された自分のチームの選手達は膝をつき、グローブで顔を覆って天を仰いでいた。

「並ぶぞ」

 後ろから走ってきた高橋が土を払いながら拾った帽子を俺の頭に乗せる。

 浅く乗せられただけの帽子を深く被り直して俺はホームへと並ぶべくゆっくり走った。



 ゲームセット


 主審がそう叫ぶように言ってすぐだった。

 周りの目が怖い。

 先輩はどう思っているだろうか。

 この後応援に来てくれた同級生や学校の皆にどんな顔で挨拶すればいい。


 そこからは頭が真っ白で何も覚えていない。

 顧問が話していた内容も先輩からかけられた言葉も全て覚えていない。





 午後四時半。

 バスで学校まで帰ってきてそのまま解散となった。

 だけど家に帰る気にもなれずジャージのまま教室の自分の席に座っていた。

 誰もいない廊下から一つ軽い足音が近づいてくる。


「また会えたね」

 開け放たれたままの教室の扉に手をかけて立っていた生徒に声をかけられた。

 その声には心当たりがあった。

 あの時俺を見ていた生徒だ。


「君は頑張ったんだろ?」

「・・・俺は」

「いいじゃないか。かっこよかったよ。来年は」

 来年また頑張ればいい。

 その先に待っているだろう残酷な慰めに顔を背ける。

 他人事のようなありふれた慰めに俺はなんて返せばいいだろうか。



「野球なんかやめて私とデートに行こう」

「え?」

 予想外の言葉に彼女の方をむく。

 それが面白かったのか優しく笑った彼女が言葉を続けた。

「多分野球向いてないと思うよ。下手くそだし。ボクは努力って言うのは諦め時を早めに見つけるためにあると思うんだ」

 謎の理論と共に放たれたのは想像とは五百四十度くらい違う言葉だった。

 慰めと捉えるにはあまりに暴力的なはずなのに彼女の言葉にはそれを感じさせない何かがある。

「今までお疲れ様」

 満面の笑みを浮かべた彼女が俺に何かを投げつける。咄嗟にそれを掴むと見慣れた硬式球だった。

 一目惚れという奴だったのかもしれない。

 彼女の笑顔に目を奪われた。

 何秒も見つめていたせいか照れたように再びボールが投げられる。


「なんで持ってんだよ」






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保存料無添加の短編集 サトー缶珈琲 @takanashi1101

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