第8話 零人目の被害者
フレデリックが帰って来た後、夕食を取り暫く長椅子に座りじっと、キャンバスと向かい合っている彼を眺めていた。
「リョウスケ」
「何?」
「来週には、アカデミーの方に戻らなくてはならない。どうする?…良ければ、君も一緒に来るかい?」
眉を八の字にさせ、訊ねる。
「其処まで迷惑は掛けられないよ」
「そうか…」
俺の手を握り、寂しそうな顔をする。握り返しふっと微笑む。
「また、会えるよ。お礼もしたいし」
下手したら、身ぐるみを剥がされて死体になっていたかも知れない。只々お荷物になるだけなのに、面倒を見てくれたんだ。感謝してもしきれないほどの恩がある。少々、物珍しさもあっただろうけど。
しかしながら、そんな者に目を付ける所は、印象派の画家だけはある。真新しい物に目がない。
さて、帰る方法を探さないと…それと、それまで生きて行く為の労働場所。
そうだ…フレデリック・アバーラインさんに使用人にならないかと誘われていたんだった。早速、甘えようかな。
「ねぇ、メッツェンガーさん」
「何だい?」
「絵に使う炭を持ってない?」
「あるには、あるが…何に使うの」
「ちょっとね」
午後六時。ビッグ・ベンの鐘が鳴る。
やっぱり、同じロンドンでも、見覚えの無い道ばかりだ。多分ウェストミンスター辺りだと思うんだけど…スモークで視界が悪い。身体に悪影響だから余り吸いたくは無いんだが。これは、もう仕方がない。ふと、道の端に小さな女の子が見えた。
よし、あの子に案内を頼もう。
「ごめん。君…この区間のOld Bill本部まで案内してくれないか?」
「あぁ、Metね。うん…連れて行ってあげる」
青い瞳の少女は、可愛らしく笑うと俺の手を取った。
一応、此処で違和感無く、目を付けられないように肌を炭で汚したのが効をきたしそうだ。
「あっ…エドマンドさん!」
カンテラを持ったスコットランドヤードが此方を振り向き近寄って来た。
「やぁ!嬢ちゃん。お使いかい?」
「うん!あのね。この子、用があるんだって」
「私達に?」
少女は、こくりと頷く。
あっ…そうだ。案内をしてくれたお礼にチップを渡さないと。
「有り難う。お嬢さん」
小さな手に硬貨を握らす。
「うん」
すると、少女は笑顔でさって行った。
「それで、君は何を言いに来たのかね?」
長身の男性が、屈んで視線を合わす。鼻下に生えた髭が洒落ている。後ろにいる男は、ブロンドの短髪だ。若干ヘンリーに似ている。
「CO区のフレデリック・アバーライン警部補に私用が有りまして。訪問者がリョウスケ・クラタだと申し上げれば、来て下さると思います」
亮輔は、淡々と告げる。
「…困りましたね。警部補」
「あぁ、君…此処が何処か分かるかい?」
「え…グレート・スコットランドヤードの近くでは?」
「違うな。此処はホワイトチャペルだ」
途端に、亮輔の顔が青くなる。
嘘だ!何で態々治安の悪いホワイトチャペルにたどり着いたんだ。しかも、日が暮れそうな時に!!
迷子か…あーあ、お金を無駄にしてしまった。
もう、背に腹は変えられない。
「仕方ない。おい、レイモンド!連れて行ってやれ!」
「…俺が、子守りですか。まぁ、上司命令なら仕様がないかぁ」
レイモンドと呼ばれた男は、深く溜め息をついた。
※※※※※※
「本当の名は何と言うんだ?」
金髪碧眼ありがちな如何にも言っていいほどの、端麗な顔立ちの男は、チラリと視線を送った。
「警官なのに、自分から名乗らないのか?ふんっ…流石だな」
その男の態度に、腹が立っていた俺は睨み上げた。
「…はぁ、だからガキは嫌いなんだ。俺は、レイモンド・アンダーソン。ホワイトチャペル担当の巡査部長だ」
「リョウスケ・クラタは本名だ。今は、ノエルだ。家名は言えない」
「ふーん…そうか」
ふと、気付く。
……アンダーソン?聞き覚えのある名前だ。
「アンダーソンって…ロバート・アンダーソン警視監と家族なの?」
「あぁ、それは従兄弟だ…しかし、坊や良くしってるな。警官になりたいのか?」
片眉を上げ勘繰るような目を向けられる。
失言だ。相手が警官だと言うことを忘れていた。
「ち、違う。フレデリックさんに教えて貰ったんだ。抜け目のない怖い人だと」
「そうだな。けれど、警官にもならない初対面の君に良く話したものだ」
個人情報に守秘的な警官が簡単に話す訳がない。それも、外国人に。
「初対面じゃない。使用人として働かないかと誘われるぐらい親しいんだ」
「へー…君がね…」
まるで、珍獣を見るように頭の上から足の先までじろじろと…
「これは、わざと顔を汚したんだ」
「汚さないとならない理由は?」
「それは…アンダーソン巡査には話せない」
「では、フレデリック警部補には会えないな。君のような愚かな子供には」
ふっと、馬鹿にした様に笑う。
「俺は子供じゃない!二十三、酒も飲める…子供だなんて、訂正しろ」
すると、目を見開き更に顔を近づけて来た。
「二十三?…なるほど、君は東洋人…何処だ?中華か…日本?」
「日本人…だ」
「その割には、流暢な英語を喋るな」
「フランス語も話せるぜ。中国語も少しなら…そう言えば、アンダーソン警視監は、貴族では無いの?何故あなたは、コックニー訛りなんだ?」
コックニーとは、この階級社会で労働者に当たる者だ。雄鶏が由来で、本来貴族を嘲るためのものだった
。
「鋭い所を突くね。俺の産まれは、ルーカリーだ。其所から今の家族に引き取られて養子になったんだ。アンダーソン卿一家と言っても、俺の家は遠い親戚だ。だからこそ、労働階級だったのさ」
「それを、俺に言っていいの」
「別に、どうとでも広めればいい。この先、ルーカリー上がりの英雄として歴史に刻まれるだけさ」
「あっそう…」
「…反応が薄いな」
そう言って、詰まらなそうな顔する。
「俺の友人も、あんたの様な自信家だったからな。何となく呆れただけだ」
「子供なのに、生意気だな」
「子供じゃないって言ってるじゃないか!そりゃあ、あんたから見れば年下だろうけど」
スラッとした下半身。多分180センチメートルはあるだろう。また、大学に通っていた時世話になった二年歳上の先輩と顔立ちが似ている。
「いや?お前と同い年だぞ?」
「えっ!マジか!?老け顔…んぐっ」
「さぁ、目的地に着いたぞ」
大きな掌で、口を覆われ引き摺られる。
「ちょっとっ…離せよ!」
刹那、目の前に人影が見えた。カンテラを翳すと、衛兵が立っていた。
「H区エイモンド警部補からの命令より尋ねたレイモンドだ。フレデリック・アバーライン警部補に要件がある。彼に“リョウスケ・クラタが門前にいる”と伝えてくれ」
「アイ」
踵を返し、門扉を跨いで暗闇の中に吸い込まれて行った。
ふと、先刻考えていた話題が頭に浮かんだ。
「ねぇ、少し聞きたいんだけど…」
「何だ?」
「芸術関連には興味がある?」
「少し」
「じゃあ、ニューイングリッシュアートのフレデリック・メッツェンガーと言う人を知ってる?」
「メッツェンガー?その家名は知らないが。確か創設者関連の名簿にフレデリック・レイトンと書かれていた気がするぞ?」
そうだ!フレデリック・レイトン!!
彼の言った通り、創設者名簿の資料に書かれていた。
「…なるほど。有り難う…アンダーソンさん」
「おう!同い年なんだから、レイモンドで良いぞ」
頭をクシャクシャに撫でられ寝起き同然の髪型になってしまった。
ーーそして、待つこと約一時間。
遅い…大分、彼と話込んでいたが、もう話題も尽きてしまった。
「それにしても遅いね。何かあったんだろうか」
「そうだな。少し見てくるよ」
レイモンドは、深刻な表情をしてCO地区本部所へ早足で向かった。
「それで、何だったの?」
眉を寄せ、ゆっくりと口を開けた。
「…どうやら、ラットクリフ辺りで事件が起きたようだ」
「…ホワイトチャペルと近い所じゃんか!」
「あぁ…」
まさか、コマーシャルロードでフェアリー・フェイが殺されたのか?
きっと、そうだ…そんな事とっくに忘れていた。でも、良かった…巻き込まれなくて。
しかし、亮輔は…事件に侵されつつあった。
死神の足音はもう直ぐ傍に……
灰色の肖像画 橘 ツバサ @tachibanatubasa
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