第7話 前夜

翌朝十二月二十六日。


亮輔は、ベッドの上でもう一度リュックの中を確認していた。




「はは…やっぱりスマホは壊れているな…うぅ…ん?」


あれ?


スマホは、壊れているのに…何でこれは…


錆び一つも無く、動いているんだ?




カチッと分針が傾いた懐中時計を眺める。


水に浸かっていなかったのか?


まぁ、壊れていなくて良かったけれど…




「おはよう。リョウスケ」


「フレデ…えっと、おはようございます」


そう言えば、家名を教えて貰っていないな。突然、名前を呼ぶのは失礼だし…




「そんな困った顔をしてどうしたんだい?」


「あなたの家名を知らないから…どう呼べばいいかと…」


「あぁ…言っていなかったね。フレデリック・メッツェンガーさ。君の好きに呼びなさい」


「え…有り難うございます」


フレデリック・メッツェンガー?


それは、エドガー・アラン・ポーの「メッツェンガーシュタイン」の登場人物の名前だ。


実名を教えたくないのか。それとも、冗談なのか。




実名は何だろう…


画家のフレデリック…か。ニューイングリッシュアート…




フレデリック…フレデリック。


靄が掛かって思い出せない。絶対、何処かで見たことがあるはずなんだ…




「リョウスケ」


「……」


「リョウスケ?」


「あっ…はい!」


反応が遅れた。別にそれほどの問題じゃないんだ。後から考え直そう。




「私は、夕方まで仕事で少し出てくるから。申し訳ないが…適当に買って食べていてくれ」


角ばった指が、俺の手に触れカチャリと音が鳴った。そこにはポンド硬貨が何枚か乗せられいた。




「お…俺、働いてもいないのに!」


「いいんだよ。とても良い話が聴けたんだ。報酬をやるのが主人と言うものだ」


軽くウインクをして、亮輔の頭を撫でる。




「私が、帰って来るまで例の医師を探しておいで。誰か頼れる人がいればいいんだが…生憎、いなくてね。だから、用心して出掛けなさい。いいね?」


「はい」


ふと、心細くなる。右往左往も分からない場所に、突然やって来て一人になるのが怖い。


いきなり、現実を突き詰められたようで…焦っている。


しかし、そんな亮輔を余所に扉は静か閉じた。










朝から数時間が経った今、亮輔は家外…


ウェストミンスター区にいた。




彼は、心の底で苦言を呈していた。




何故…イギリスの食文化ってこんな粗雑なんだろうか。今や、産業改革で世界一近代化が進む国なのに何故食に執着が無いんだ?


食欲って、生物にとって睡眠欲と同義だろ?


なのに、どうしてゼリーの中に鰻を入れる?そして、魚の頭が飛び出したパイを誰が食べれる?何処からこんな不味い発想が出るのだろう?近代化に遅れをとっている日本でも、毒のある芋から加工して美味しいものを作り上げたというのに。


これこそイギリスの七不思議だ。週刊ム◯に載っていても可笑しくはない。




原因は、そう…腐ったフルーツだった。


購入した後、一口で異変に気付いた。フルーツの酸味以外の酸っぱさを感じたからだ。




溜め息をつき、足を休め道端で店を開いている男に視線を移した。


サンドイッチ売りか…あれなら、食べられそうか…


今更、清潔に敏感になったって、此処では水よりビールの方が安全と言われていたんだ。特に粗悪品が出回っていて、砂糖にダニが涌いていたり…兎に角、免疫を強くしないと、この世界で生きていけない。でも、少しの間は病人扱いしてもらった方が有難い。




お金も貰ったし、ちょっとだけ観光客気分で街を歩こうと外に出たんだけど。




ジンジャービアに、ストリート・ミュージシャン…活気があって…流石、大都市ロンドン人が多いな。でも、貧困窟とあってイーストエンドは荒んでいた。特に、ホワイトチャペル周辺は、当時ロバート・アンダーソン警視監が『もっとも、不潔で危険な通り』『最悪な通り』と称したほど、悪い意味で名所とされた場所だ。そして、彼処を通る者は、悪魔に魂を奪われるつもりで行けと注意されるんだ。




「お兄さん。それ頂戴」


「おう、坊主!いいぜ、ちょいと待ってな」


サンドイッチを紙に包み袋の口をクルリと閉じる。




「おうよ」


「有り難う、はい」


そう言って、貨幣を渡し会計を済ませる。


ふと、背後に気配を感じ振り向いた。すると其所にはヘーゼル色の瞳が特徴的な男性が立っていた。さすが、英国人…紳士服が型に填まっている。




「…よう!旦那。最近調子はどうです」


「やぁ、レイトン。変わらず元気だといいたいところだが、やはり配属が変わったばかりでなれないよ。あぁ…私にもそれを」


「あいよ!」


そう言うと、店主は忙しく調理を始める。




「どうだ?此処等変わった様子はないか?」


「変わったことはほとんど無いですね…相変わらず景気が悪い…変わったことと言えば…」


途端に、申し訳なさげな声音に変わる。




「なんだ?」


「その…フレデリックさんには悪いと思うが、スリや強姦が多くなって来ている……おっと、坊主。お前にはちっと早い話だ…さぁ、ママの所に帰りな」


俺が、聞き耳を立てていたことに即座に気付いた店主は、声を掛けた。


子供扱いしてくれるのは、幸いだったが、何だか侮辱されているようで頭にくる。




「いいじゃないか。今時、子供でも物売りをしているんだ。どうせ、流行りのホームズとかいう探偵の真似事だろう。付き合ってやれ」


一方この人は、完全に小馬鹿にしている。


ふん、いいさ。じゃあ、それに乗ってやる。




「旦那…それは、大人げないですよ」


そう言うが、店主もクツクツ笑っている。


俺は、二人をじろりと睨み口を開いた。




「いいよ、おじさん。じゃあ、あなたの事を推理してあげるよ」


「ほう、じゃあ上手く当てればお前に報酬をやろう」


彼は、目を細めてニヤリと笑う。




「はい、手を出して」


まずは、握手。シャーロックホームズは確かこれだけでワトソンが軍医だと分かった…ような。


亮輔は、一点を見詰め考えに耽る。




そう言えば、サンドイッチ屋のレイトンが、フレデリックさんと言っていたな。此処では多い名前だけれども、さっきの話を聞くところ、警察だろう。


それも、異動したばかりと彼は言っていた。そのキーワードから推測出来る人物は…




ーーフレデリック・アバーライン。


彼が四十代の時、ホワイトホールから十一月にCO区へ配属になった。


昔、嫌と言うほど調べた“切り裂きザック”事件で、捜査における中心的人物だ。その事件の頃には、昇進して一等警部補となっていたはず。


その勤務経験から見込まれ、捜査に加わり事件解決へ先導した警官だ。






おおよその予想だが、一か八か言って見る他ない…フランス語で。




『俺の推測ではあなたは、警官。それも、上級の警部補。そして、ホワイトホールからスコットランドヤード本部に配属されたばかりだ。うーん…後一つ…あなたは、実は時計に詳しいですよね』


一通り話すと、ヘーゼル色の瞳が大きく開かれた。




「…凄いな、坊や!シャーロック・ホームズにも負けない推理力だ!…まさか、時計に詳しいことまで分かるなんてな…ハハハ、私より賢いんじゃないか?」


「…フレデリックさん、坊主が言っていたことが分かるんですかい?」


「フランス語だよ。後々、向こうで暮らしたいと思っていてな。丁度、勉強していたんだよ…それで、少年。なぜ私が警部補だと分かったんだ?」


「簡単なことさ…でも、残念だね。あなたの言うように、俺はガキだからシャーロックホームズの様な種明かしをするほど紳士じゃないのさ」


子供だとからかわれたこと根に持っているからな。簡単に言うもんか。


ぷいっと、そっぽを向くと、また笑い声が聴こえた。




「つくづく面白い。どうだ?行く宛が無いなら家に来ないか?是非とも使用人として働いて貰いたい。君ならば、毎日でも妻を楽しませてくれそうだ」


報酬とは、この事か。


お金を貰えるとばっかり…まぁ、いい話ではあるけれども。




「考えておくよ。俺は、イーストエンド辺りであなたと同名のフレデリックと言うフランス人の世話になっているんだ。一緒にいる彼は、多分もう少しでパリの方に帰るから…その内、あなたの所に行くかも知れない」


「分かった。良い返事を待っている…あぁ、名前を聴いていなかったな」


「俺は、リョウスケ・クラタ。外国人さ」


もう一人のフレデリックに言った嘘を話す。




「変わった少年だと思っていたが日本人か。しかし、その色といい髪型といい見たことが無いな。本当に彼方の者か」


まぁ、そうだよな。アルビノならまだしも、黄色人種でこの髪色はないよな。




「あぁ、そうだ。使節としてやって来て、当分ある家で暮らしていたんだ。俺、こう見えても病弱で…これは薬のせいで色が変わったのさ」


「ほう…そうなのか。それはそれは気の毒に。おっと、自己紹介が遅れたな。私は、CO区担当警部補フレデリック・ジョージ・アバーラインだ。よろしくリョウスケ」


帽子を外し、胸辺りに下ろす。




「あなたに会えて光栄だよ。フレデリックさん」


そう言った亮輔は、サンドイッチを食べ歩きながら、少しの間…フレデリック・アバーラインとの会話を楽しんだのであった。

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