夜明け(サンライズ)

9月の日の出は8月より少し遅い。気づけば朝の空気は秋に変わっていて、夏の面影は 音もなく姿を消していた。どうして季節はこんなにも、静かに去っていくのだろう。肩をつかんだり、手をつかんだり、少し話をして足止めさせることができたならどんなにいいだろうか。

でもそんなことをしたら、忘れたい過去も忘れられなくなって、人生は前に進めなくなる。季節を足止めさせることは、神様の言いつけにそむく行為なのだ。でもそうだとしても、その言いつけに逆らって、少しだけ夏の手を握っていたかった。綾瀬は悪い女の子だから、そう思ってしまう。

時計を見ると時刻は5時を20分ほど過ぎていた。空は少しずつ白み始めている。自分より早起きな鳥たちが、すでに高らかにないている。よくそんなに早く起きれるよなと、鳥たちにウィンクする。

今日の空もよく晴れている。きっと美しい朝日が…。そう、この星でしか見られない美しい朝日が、きっと顔を出してくれる。

毎日そうしてるように、今日も綾瀬はゆっくりと丘を上っていく。自分のマンションより少し高い位置にある丘のてっぺんの野球場は、やっぱり綾瀬の朝陽観察にうってつけの場所だ。

この丘の一番上からは、この街が全部一望できる。なんてったって、たぶん朝比奈市で一番高い場所にあるのだから。

街は今日も変わらない。夏から秋に変わろうとしているその風を、まるで単純でなんでもないことみたいに見せている。まるで、少年が大人に変わるように、少女が女性に変わるように。

でも綾瀬は知っている。この丘を下って川のそばを通れば、もう街は変わってしまっているということを。

あの日、川の堤防は奇蹟のように、この街を守ってくれた。しかしそうはいっても、川沿いの地域はかなり浸水し、引っ越しをしたり、片付けに追われたりしている人もいる。いつ堤防が壊れてもおかしくないようにと、高い場所に移住する人たちも多くなった。駅前の商業施設はしばらく休業が続くものもあった。死傷者はほとんど出なかったけれど、あの日の爪痕はこの街にいくつか残っているのだ。それが証拠に、あの川沿いにあるひまわり畑は風でだめになってしまった。まるで夏のかけらを全部吹き飛ばしてしまったみたいに、あの場所に植えられたひまわりはもう咲くことはない。

みんなはあの日のことをどう思ってるのだろうか。川の堤防も壊れなかったし、少し災害が起きたようなことを言われたけれど今平凡な生活ができているのだから、大した日ではないのかもしれない。きっとそんなものなのだ。季節が変わるのと同じ用に、みんなも、この街も、あの日を忘れて行く。平和を取り戻すことは、戦争を忘れることでもあるのだ。でもそれはけっして悪いことではなくて、街も人も、かなしみを 健忘しているだけなのだ。

綾瀬だって本当は忘れた方がいいのだ。綾瀬にはいままでにたくさんの「あの日」があった。でもその全部を、今背負っているわけではない。なぜならそんなに過去を背負ったら、きっと綾瀬はその弱い体をすぐにだめにしてしまって、また黒い太陽に行かされて

しまうだろうから…。

でも、たとえこれからの未来にも「あの日」が積み重なって、どんどん何かを忘れていっても、たぶんいわゆる「あの日」のことは、しばらく健忘しないだろう。たとえそれが、「健康的物忘れ」だとしても。だってあの日の記憶は、確かに綾瀬が黒い太陽の熱にうなされた体に悪い記憶だけれど、そんな記憶だからこそ、いつまでもいつまでも綾瀬につきまとってくるのだ。こっちからいくら遠ざけても、そいつはずるがしこく、しぶとく、綾瀬の心の中をつかんでいる。その強さに、綾瀬はまいるしかない。でもまいっても悔しくはなかった。自分が忘れてしまうことの方が、その記憶に見放されることの方が悔しかった。

記憶に見放されてしまったら、朝陽は会いに来てくれなくなるのだろうか。今日も昨日までと同じ用に、元気に会いに来てくれるんだろうか。

綾瀬は毎朝不安だった。

毎日朝日が顔を出すたび、今日も会いに来てくれたと型をなでおろすけれど、その一方で明日は会いにきてくれるのかと逆に心配になる。朝陽を信用していないのではない。約束というもののもろさを、綾瀬は仮にも知っているからだ。

でもそんなにもろい約束の中にも、過去はどんどん過去になって、朝は新しい朝に生まれ変わって、今自分がここに立っている。あの夏と何も変わらないように見えるこの街の丘の上で朝陽が落ちるのを、朝日が上るのを待っている。

「あ、いたいた!」

一人の少年が、まるで今が昼なんじゃないかと思うほどのまぶしい笑顔で、丘をかけあがってくる。綾瀬はその姿を見て、あわてて時計を見る。まだ日の出の5分前である。でも彼が来たことで、丘の周りが一気に明るくなる。

「疾風。おはよう。どうしたの?こんなに朝早くカラ。」

「自主練だよ。9月から野球部入ることにしたし。」

確かに、彼が今着ている服は、綾瀬と疾風が通っている朝比奈国際高校野球部のユニフォームだった。もう草野球はやめて、また本気で野球を始めることにしたのだ。

どうしてまた野球を始めたかなんて、綾瀬は聞かなかった。だって綾瀬の中で疾風は、ずっと野球をしている人間なのだから。

「そっか。性が出るね。でも、こんなに朝早くカラ一人で自主練なんて、付き合ってくれる人いないでしょ。」

「いいんだ。ちょっと投げ込むだけだし。メインはランニングだからさ。それに…。」

そこまで言って、疾風は少しだけ空を見上げた何かを言いよどんだ。でもまたすぐに

話出した。

「それにほら、早起きは三文の得って言うだろ?」

疾風が嘘をつくとすぐにわかる。もし違う誰かが綾瀬に嘘をついても、たぶんあやせ見破られない。でも、疾風ならすぐにわかる。なぜなら疾風は嘘をつくとき、いつも空に浮かぶ雲を探そうとするから。そんなものを探したって、彼の嘘を弁解してくれるものなんて何もないのに。しかも彼が空を見上げて何かを言いよどんだのは、べつに雲を探すためだけじゃないことぐらい、同じ用に空を見ている綾瀬にはわかる。

「確かにそうね。私なんか毎日早起きしてるから、いいことばっかりだよ。」

だから綾瀬も嘘をつく。べつに言いことなんかあれから特にないのに。悪いことも特にないけれど。

綾瀬のその嘘に、疾風もすぐに気づく。彼はすぐにそいつに気づいて、そしていやな顔をする。

「それよりおまえ、なんでドイツ留学やめたんだよ。」

急に現実的な話になって、綾瀬は先手をとられたと思った。疾風がそれを聞いたなら、綾瀬だってなんで野球を始めたんだよと聞くべきなのだ。もちろんその完全な答えはわからないけれど、疾風の答えにも綾瀬の答えにも、きっとあいつが出てくるのだ。

「それは…。」

綾瀬だって言いよどんだり嘘をついたりしたくなったら、空を見上げて雲を探す。もうすぐ日の出だというのに、どうして嘘をつかないといけないのだろう。

「日本でもできることはあるかなって思ったの。ドイツなんか行かなくても、私にはやるべきことがたくさんあるしね。でも…いつか私も遠くへ行きたい。だからそのために今、助走をつけたいだけ。」

胸を張ってそう言ってみるものの、行かなかった理由のほとんどは、熱を出してしまった綾瀬のことを心配した母に、かなり止められたからということが大きいのだが。

でもそんなことをいちいち言わなくても、こいつにはわかっている。

「よかった。おまえまで遠くへ行っちゃうんじゃないかって、心配だったんだぜ。」

そのとき、初めて疾風の目が少し寂しそうに見えた。

「あんたこそ、結局野球続けるんだね。飛行場のことはもういいの?」

ずっと朝日から聞いてたくせに、その重大な嘘を、なんでもないほとみたいに口にしてみる。口にしてみて初めて、その言葉の重さを改めて知る。そんな簡単に言ってはいけなかったのかもしれないといまさらながらに思うのだ。

「知ってたんだ。」

疾風の中で、野球を続ける谷口疾風がずっと頭の中で生きているはずだと思っていた品色はあっさり砕け散った。でもそのわりにはそのショックは大きくなかった。なんとなくばれていたときの心の準備ができていたからなのかもしれない。

「花火大会も、飛行場建設に反対する人たちが、反対するための花火を打ち上げる予定だったんでしょ。この前地方紙に載ってたもん。代表の日と、かなり注目されてるみたいだけど。良くも悪くも。」

東郷誠也さんは、いまだに飛行場建設の反対運動を続けている。あの次世代平和の会だって解散はしていない。しかしいきなり花火大会に参戦できたのは運河よかったからで、そのあとはまた見えないところからの改革が必要だった。でも彼はライターとして、数多くの場所で平和の大切さを訴え続けている。その成果が実って、最近は新聞や雑誌にも彼の名前がときどき出ててくるようになった。疾風もそれぐらい知っていた。東郷さんがあの日以来、どれだけ切実に、この街を、この街の空を守ろうとしているのかを一番知っているのは自分じゃないかと自負したくなるぐらいだった。

「続けるよ。おれだって、飛行場なんか作られちゃやだからな。あいつみたいに、飛行機がおっこちてきたら、この街もただじゃ済まないんだ。」

疾風の無理やり作ったゆがんだ笑顔が、明るくなり出した空に輝く。

「でもよかった。野球少年の谷口疾風がまた生き返ってくれて。」

綾瀬の言葉に、疾風はやっぱり下を向く。下を向いたって、朝日もなければ希望もないのに。

「ほら、とっとと投げ込んできなさいよ。それかランニング。」

もちろんそんなことを言うつもりはなかった。彼に叱咤激励をしたところで綾瀬にとって何かが変わるわけでもないし、彼が勝ち星を取れると約束されたわけでもないのだ。

「なんだよ。野球部のマネージャーでもないくせに…。」

でも疾風は動かない。ずっと空を見ている。彼だって、あいつを待っているのだ。だからわざわざ新しく引っ越した家から、一駅隣まで走って、そしてバスも走っていないこんな早い時間に、わざわざ丘を上るのだ。いったい彼は何時に起きて、ここまで走ってくるのだろうか。でもそんなことは気にならない。彼も朝日のことを忘れずにいてくれたことが、綾瀬は何よりうれしかった。

「あ!そろそろ日の出の時間だな。」

先にそう言ったのは疾風だった。別に綾瀬にだってわかっていた。日の出の時間になるぴったり太陽が上ってきて突然まぶしくなるなんてことはありえない。朝というものは少しずつめぐってくるもので、気づけば自分の周りにさんさんと日差しが降り注いでいるものだ。まだ幼い頃、綾瀬は太陽が上ると同時に世間に光があふれ出して、一気に朝がやってくるものだと本気で信じていた。でもいつからか、こんなふうに日の出を自分で見る習慣ができるようになってからは、そんな幼い頃の自分を優しくとがめてやることにしたのだった。

朝というのはそれ事態が寝ぼけ眼で歩いてくる。疾風みたいに勢いよく丘をかけあがってなんてこない。我慢強く、つらいことや悲しいこと、寂しい夜を超えて、その先に少しずつ見えてくるものが朝なのだ。大抵朝というのは靄の中ら少しだけ顔を出す。恥ずかしがらずに出てきてよ、じれったいなあ。そうやってつぶやいたところで、朝には聞こえない。だって朝には目も耳もないのだから。ただ朝には心がある。気分になったら少しずつ靄の布団からはい出て、朝日と一緒にやってくる。

その過程を、まるで朝を初めて見る傍観者みたいに、毎日この丘のうえで眺める。

あの日だってそうするつもりだった。あんな最悪な朝じゃなかったら、きっと綾瀬はそのすっきりとした夏の空の下で、朝日なんか落ちてこない空の下で、目をこすりながら朝日が上ってくるのを眺めていられるはずだった。でも朝日なんか上ってこなかった。その代わりに、空から朝日が落ちてきたあの日のことを、人はなんと名付ければいいにょだろう。

今日も、靄の布団から少しずつ朝が顔を出す。相変わらず昨日の夜夜更かししすぎたせいなのか、まだ布団から出ようとはしていない。出る努力はしているのだろう。いい加減朝になってくれないだろうか。そうやって何度も頭の中でかんがえる。疾風にはその光景が慣れないようで、早くランニングして家まで帰りたいといった顔をしている。

綾瀬は、朝がゆっくり起きてくることに慣れていた。こんなことは毎朝のように経験しているし、眠い目をこすりながら朝が顔を出してくる様子は毎日のように見ているはずだった。

でも疾風が隣にいると、なぜかはっと変な妄想が浮かび上がる。

「おまえ、毎日会ってるんだろ?あいつと。どんだけねぼすけなんだよ、あいつは。」

疾風が思いっきり石を投げる。そいつはまっすぐ空の遠くへ上がって言って消えた。それがコントロールのいい球なのかそうでないのかは、綾瀬にはよくわからない話だったけれど、たぶんあんなに遠くまで石を投げられる疾風は、きっといつかメジャーリーガーもうなるほどの強いピッチャーになれるはずだ。

「ちょっと、やめてよ、疾風。朝日に石なんか投げちゃ、罰が当たるわよ。」

綾瀬がそんな子供っぽいことを言うとは思っていなかったのか、疾風は大声で笑い出した。

「馬鹿。こんな石ぐらい、朝日に当たってもぜってぇ痛くなんかねえと思うぜ。それに、ほら見ろよ。」

綾瀬はそのとき見た奇蹟が、あの日の自分と重なったのを思った。あの日

苦しんでいる朝日が綾瀬の手を離れて、丘をかけ降りて転んだとき、ポケットからこぼれた小さな球を、何の気なしに空に放った瞬間、さっきまで激しかった雨が嘘みたいに上がって、空は夏の太陽だけになった。まさに今、それとほぼ同等のことが起きた。

朝は我慢して初めてやってくるものだ。朝はゆっくりと眠そうな顔で、口に目玉焼きの黄身をくっつけて、食パンを加えながら、自転車をこぎながら、ラッシュで人の足を踏みながら、スマホで大好きな芸人の動画を眺めながら、お母さんにお小言を言われながら、お父さんを追いかけながら、道に迷いながら、道を見つけながら、呑気にやってくる。

でももしかして、自分が思いっきり何かを投げたら、朝はこっちを振り向いて、眠そうに何か答えてくれるかもしれない。そして気づけばこの世界に朝がやってくる。

「ったく、疾風。君はコントロールがよすぎるんだよ。せっかく打とうと思ったのに…。」

あくびをしながら朝陽は思いっきり手を振った。その手を振るときに、こぼれた光がゆっくりと山の切れ間から、海の向こうから、壊れかかった川沿いの街から、ゆっくりとこちらへ上ってくる。

「おまえが眠そうなしけた面してるからだろ?ほら、もっとしゃんとしろよ。でないと…また落ちるぞ。」

泣きそうな疾風の顔を、綾瀬は思いっきりビンタする。そんな顔なんて見たくない。誰にも泣いてほしくない。せっかくこれから、何もない今日という1日が始まろうとしているのに。もし朝に誰か泣いてしまっているなら、きっとその日との朝に、朝日が落ちてしまったのだ。

「心配しなくても上るさ。朝日が上らないと、君たちは元気にならないみたいだから。」

東の空が赤くなって、はっと空をみれば、さっき石が飛んだあたりに、心なしか大きな光の渦が見えたような気がした。

「おはよう!綾瀬、疾風!」

あの夏、誰かの街に落ちた朝陽は、こうしてまた、新しい朝と一緒に、朝陽のきれいなこの星に、ゆっくりと上ったのである。それを見て、季節外れの朝顔が、今日も一輪咲いた。

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あさひが落ちた 夢水明日名 @Asuna-yumemizu

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