嵐
病院の窓を、強い雨と風の音が絶えず響いている。病院は耐震構造もしっかりしているし、きっとよっぽどのことがない限り壊れないだろう。しかしそれでも、窓はとても大きく揺れて、雨はみんなが経験したことがないぐらいの激しさで降りしきる。この世界がもうすぐ終わろうとしているんじゃないかと思えるほどの風の強さだった。
そんな風の音を聞きながら、日の出七瀬は、病室で必死に病気と戦う久しぶりの娘の姿をみながら、ただ泣くしかなかった。どうして自分の娘が今こんな目に合わなければいけないのか、七瀬にはわからなかった。小さい頃にはこんなふうに入院することなんか普通だった。それがいいことだとは絶対思わない。でもそのときは、まだ彼女の入院はしかたのないことで、いつかは時間が解決してくれると思っていた。時間が解決してくれると思ったからこそ、彼女のドイツ行きを承諾した。彼女はもうこんなふうにか弱い姿でベッドの中で咳き込み、胸を抑えるだけの子供ではないと思ったから、綾瀬を自由にしてやろうと思っていた。
でもその判断は遅きに失したのか、それとも間違いだったのか。
彼女はこれまでにないほど弱りきって、これまでにないほど苦しそうな顔をしていた。病院に運ばれたとき、熱はもう39度を党に越していたという。そんな高熱なら彼女にもわかるはずだ。それなのに彼女は病院に子なかったし、自分に熱があることすら気づいていないようだった。どうしてそんなふるまいができるのか。きっとそれは彼女が、体の弱い自分なんか関係なく、一生懸命に生きていたからだ。どうしてそんなに一生懸命に生きている人間を、こんなふうに殺してしまうのだろう。
「七瀬…。」
風の音に混じって、日向の声が聞こえる。ナナセは青ざめた顔を挙げて、無理やりにでも日向に笑いかける。
「どうしたの?今日当直だっけ。」
「違うわ。心配だから来たのよ。どうせまいってるんだろうなって思って。」
七瀬だってこんなに気丈にふるまっている。どうしてそんなに元気なのかなんて聞くことは許されない。自分だってそう聞かれたら答えられないのだから。
「あなただってまいってるくせに。綾瀬に会ったのでしょ?」
七瀬の言葉に、日向は少したじろいだが、すぐにもとの表情に戻った。
「あの子、私に会ったことを朝陽には話していないでしょうね。そうだといいのだけれど…。朝陽だってけっして安全な身分ではないのに。私は朝陽のことを守ることさえできないなんて。」
「それは私も同じよ。」
七瀬は声が大きくならないように務めながら話した。
「綾瀬は…いつも強い子でいようとしていた。それはそれで私はうれしかったし、そんな娘に育ってほしいっていう私の願いはきっと実現したのよ。でも…どれだけ心が強い子に育っても、体が弱ければ結局魂は早く口果ててしまう。人の死は心では止められないでしょ?」
「ねえ、七瀬。」
日向は、泣きそうな七瀬の型をたたく。いつもは逆だった。あさひがこの星にやってきてから、毎日のように控え室で泣いている日向のことを、七瀬が慰めてやるのが普通だったのに、いざ自分の娘が死にそうになると、それは逆転する。
「あの子は死なないわ。全力で生きる。だから信じましょう!私が朝陽を信じてるように!」
風がいよいよ強くなって、窓ガラスが割れたのかと思うほどの大きな音がした。さすがに二人はひるんで窓の外をみる。
「でもね、七瀬。最悪なシナリオも創造しておいた方が言い。この台風が、快晴の怒りの声だっていうのはわかっているの。彼はこの風を使って、朝陽を探している。いつ見つかってもおかしくない。もし見つかったらあの子は大変なことになる。そしてたぶん綾瀬ちゃんも。」
「どういうこと?」
七瀬がそう言ったとき、防災無線の放送が二人の耳を打つ。
「朝比奈市の黒土川(クロヅチガワ)周辺の皆様に避難支持が発令されました。できるだけ高いところに避難してください。」
きっと日向のシナリオは当たっている。そうでなければ、そのシナリオを信じなければ、七瀬はこの現実を受け止めることなんかできない。こんな激しい台風直撃の日に限って、どうして綾瀬は高熱を出したのか。雨にぬれたからなのか。それとも無理をしすぎたのか。思いつめた制なのか。そんなことはわからない。わかりたくもない。わかったところで何も解決しない。ただきっとそれは、彼女の制ではないんだ。彼女が無気力に熱を出して、無気力に弱っていくはずなんかないのだ。彼女は強いのだから。もう小さな頃とは違う。あの頃ならそんなふうに弱ってもおかしくはなかった。でも今の彼女はそうではない。そう信じていた。
体中が死ぬほど暑い。まるで体中が火に焼かれているみたいなそんな
気分の中に、そのころの日の出綾瀬はいた。自分の意識すらフライパンで焼け焦げて粉々になってしまったんじゃないかと思えるほど、頭のてっぺんから足の先まで燃え上がるような熱さに襲われている。
この熱さが太陽の光ならいいのに。さっきまでそうしていたみたいに、夏の空のしたならいいのに。みんなで汗を流したあの場所に、今自分がいるならいいのに。今自分はどこにいるのだろうか。そもそもどうして自分が倒れたのか。そんなことすら自分ではうまく言葉にまとまらない。そもそも声が出るのかもわからない。自分の意識がどんなふうに
焼かれているのかもわからないんだから。
でも体が熱いのだけはわかる。まだ自分が生きているのはわかる。こんなふうに生きている限り、まだ未来は残されていると信じている。
こんなことは何度かあった。幼稚園のとき、遠足の前の日に興奮しすぎた制化突然倒れて、結局遠足にいけなかった。小学校のときに運動会の前の日に、有頂天になっていたら自転車ごと花壇に突っ込んでしまった。母にばれないようにと思って家に帰ろうとしたら道端で倒れてしまった。そんなふうに、大事なときに限って、自分の体はこんなふうに言うことを聞いてくれなくなる。
自分の体が倒れるのは別にかまわない。熱を出すのもかまわない。でも、今じゃなくてもよかった。いや、今そんなことが起こるから問題なのだ。
悔しい。これからの未来が輝きだしたと思ったそんな矢先だった。この調子じゃきっと綾瀬の体は完全に焼き尽くされてしまうだろう。10月からのドイツ留学にもいけない。朝陽にまた会うこともできない。久しぶりに帰ってくる父親と話すことも出来ない。そして何より…せっかく誘ってくれた疾風との花火大会なんか絶対にいけない。もしかしたら、もうすでに花火が打ちあがっているかもしれない。今がいつで、何時で、自分がどこにいるかはわからないけれど、疾風は自分が倒れたことを知っているだろうか。朝陽は同なのだろうか。
悔しくて悔しくてしかたがなかった。せっかく疾風が誘ってくれた花火大会が
この体の制でいけないことに。天気なんかどうだっていい。飛行場なんてどうだっていい
。平和なんてどうだっていい。なぜかって、たとえ空が青くても、たとえ戦争のない世界があっても、たとえ軍用機が飛ばない街があっても、自分の命がなかったら、その世界に存在することすら許されないんだから。
「おい、綾瀬。おまえまた倒れたのか?」
運動会の前の日に倒れたとき、綾瀬は5年生だった。赤組の副首相として、紅白対抗リレーに出る予定だった。なんとか厳しい競争率を勝ち抜いて、みんなの恨めしい顔をみながら、リレーに出る権利を獲得した。そんなに頑張ったのに出場することはかなわなかった。だから、点滴が痛いんじゃなくて、熱が下がらないのがいやなんじゃなくて、それだけが悔しくて泣き続けていた。
そんなときにあいつは、その何も気にしない笑顔で飛び込んできた。
「赤組、負けたぜ。おまえのせいで。ほんと、頼りないよな。おまえが倒れなければ、赤組は勝てたかもしれないのによ。」
疾風のその言葉は、綾瀬のことをけなしているようにも聞こえるし、実際そうだったのかもしれない。でもその声は優しすぎて、純粋すぎて、だからこそ綾瀬の心に届いた。
「馬鹿!私だって休みたくなかったもん!走りたかったんだもん!疾風は何にも知らないくせに!疾風は最低だよ!大嫌い!」
あんなことを言ってはいけなかった。せっかく疾風が綾瀬を必要としてくれたのに。せっかく疾風が自分の手を握ろうとしていたのに。
せめてそれだけでも謝りたかった。弱い自分でごめんなさいとだけでも言いたかった。あの日、輝く太陽の下を思いっきり走ることができたなら、疾風に大嫌いなんて言わなくて済んだのに。
きっとまた言ってしまう。
「おまえのせいで花火大会はだいなしだよ。おまえと一緒にみられたら最高だったかもしれないのによ。」
そんなふうに、純粋すぎる青い瞳の奥から言われたら、どんな顔をして謝ればいいのだろう。疾風の悲しむ顔なんかみたくないのに。あさひが心配する顔なんかみたくないのに…。
体が熱い。もしかして本当に燃えているのだろうか。綾瀬は、自分が病院にいると信じて、ほとんど消えてしまった意識の中で床を踏み占めた。すると、自分の意識は案外早く回復した。
そこは、みたこともないほど広い、けれど窓のない部屋だった。もはや部屋というより箱といった方がいいほど、司法を分厚い壁なのかドアなのかわからないものに覆われている。ここが病院なわけがない。コンビニで倒れて救急車で運ばれたのは確かに覚えている。きっといつも運ばれる病室に行ったはずだ。そこには窓もあるはずだし、きっと綾瀬はベッドに寝かされているはずだ。それなのにそこはデッドではなく、とても固い椅子だったのだ。椅子から立ち上がろうとはするのだが、やはり体に力が入らない。絶対に自分は、どこか別の場所につれていかれたにちがいないのだ。だとしたらこんな部屋に閉じ込めたのは誰なのだろうか。
「期がついたみたいですね、日の出綾瀬産。」
遠くから、いや、近くからなのかもしれないが、かすかに声が聞こえる。誰の声なのかはわからないけれど、その声の主は確かにこの部屋の中にいるようだった。
「だ、誰なの?ここはどこ?私、病人なのよ。」
すると声の主は静かに答えた。
「あさひのお父様に言われましたの。あなたをここにとじこめておくようにって。あなたの体を焼いたのは、朝陽のお父様です。あなたの体が弱いということはすぐにわかったので、台風の雨で熱を出させ、そしてここにつれてこさせたのです。黒い太陽の牢獄に。」
「黒い太陽…。」
それはまさしく朝陽のふるさとだ。だがそのふるさとの中でも、彼女は狭い牢獄の中に閉じ込められてしまったのだという。しかも体を焼いたのが朝陽の父親だなんて、まったく理解の及ばないロジックだ。それがたとえ熱がない、理性も勘定も保たれた状態だとしても。
「あなたは黒い太陽の無法者である朝陽を拾い上げてしまった。そればかりか、朝陽のお母さまが朝陽に献上した水晶玉を空に投げてしまわれた。そのときからもうすでに歯車は狂っていたのです。あなたがこうなることはもう決まっていたというわけです。あなたが選んだ道は、すべて間違っていたのです。だから死ぬまであなたは自分が今まで進んでいた道に戻ることはできない。」
もはや綾瀬は、その声の主の言葉を、ただの音でしか聞いていなかった。どうせ自分はこのままこの牢獄に閉じ込められ続けるということが明白だからだ。ただこの星から平和な場所を求めて落ちてきただけの太陽を救おうとしただけなのに。
「私の進んでいた道は間違いじゃありません。だからお願いです、私をあの星へ返してください!」
すると声の主はまた静かに答えた。
「あなたにとって正しいことでも、ここでは間違いなのです。あなたはきっと自分を疑わないでしょう。でもそれは、間違いを信じ続ける滑稽な人間のやることなのです。人が二人いれば間違いは二つある。でもその間違いを完全にわかり会うことなどできないのですから。さて、私はそろそろ行かなければ。あなたの帰る場所をなくすために。」
声の主は、綾瀬が一度だけみたことのある、よくわからない風貌の服を着て、その部屋から消えて行った。いったいどのようにして彼女が消えていったのか、綾瀬が確認しようとしたときには、もうその姿はなかった。
静かな牢獄の中を綾瀬はようやく見回すことができた。牢獄の中には、きっと取り調べを
するためなのだろうか、大きな机がある。机のうえにはなぜか小さな折り紙ぐらいの紙がたくさん散らばっている。その紙くずをいくつか集めれば、きっとちょっとぐらい大きな紙飛行機でも折れるかもしれない。でも立派な紙飛行機にすらならないほどの小さな紙くずをみているとむなしくなる。きっとこの黒い太陽から見える地球は、こんな紙くずに匹敵するぐらい、とるにたらない星なのだろう。でも、そんなとるにたらない星だとしても、そこが綾瀬の大好きな、あさひのきれいな星なのだ。
遠くで誰かの聞き覚えのあるこえがしたのは、そのときだった。
山羅朝陽は、台風が直撃して大きく揺れるマンションの窓をみながら、それでも練習試合はぜったいに行われると思ってジャージーに着替えた。確か昨日家に帰ったあたりからずっと、この街は激しい風雨にさらされ、避難支持も出ているという。だがそれがなんだというのだ。やっと朝陽は、この地球で、真剣に野球をすることができるようになったのだ。今日の練習試合は朝陽にとってとても重要な試合になるはずなのだ。それなのにどうして、こんな風雨にさらされなければいけないのだ。たとえ野球場が使えなくても、川が増水していても、ぜったいに試合は開催される。そんな、わがままでどうしようもない希望を、まるで小さい子供みたいに抱えながら、向きになって服に着替える。するとそのとき、まるで警報音みたいにインターフォンが響いた。きっとこれは試合の開始を告げるゴングなのだ。そんなはずはないのに、変な笑顔を抱えてドアを開ける。
「朝陽…。よかった、まだ外出してないみたいね。」
そこにいたのはあすみさんだった。あすみさんは実にみにくい温和な笑顔を顔に張り付けて、朝陽のことをじっと見つめる。その顔はすでにあわてている。当然である。日の出綾瀬が高熱にうなされて失神するところを一番最初に目撃したのは彼女なのだから。
「落ち着いて聞いてほしいの、朝陽。」
「なんだよ、あすみさん。おれ、今から練習試合が…。」
「綾瀬ちゃんが黒い太陽に誘拐されたわ。」
朝陽の心が、からだが固まる。こうなることはなんとなく予想できていたはずだ。でも、それはただの予想に過ぎなかった。綾瀬は黒い太陽とは関係内、普通の地球人のはずで、きっと今黒い太陽に連れ去られた彼女だってそう思っているはずだ。しかし、この瞬間
彼女は黒い太陽の殺伐とした、いや殺伐どころか生きているか死んでいるかさえわからないほどの残酷な現実を知らされたことになる。綾瀬には知ってほしくなかった。綾瀬はそんなことも知らずに、朝日のきれいな星で朝顔に水をやりながら、懸命にピアノを弾く、ごくありふれた少女でいてほしかったのに、この瞬間綾瀬はそうじゃなくなったということ朝陽にわかった。
「そんなの嘘だよね。綾瀬は黒い太陽のことは知ってても、黒い太陽になんか行くわけないんだ。だってもしそれが本当なら…。」
「ええ。このまま放っておけば、彼女は死んでしまう。」
「あすみさん、からかうのはよしてよ。僕だって冗談は通じないんだぞ。もともと黒い太陽のまじめな支配者の息子なんだし…。」
作り笑顔をいくら見せても無駄だった。なぜなら彼女ですら、もう笑顔のベールが効かなくなっていたのだから。
「信じたくない気持ちはわかる。でももうこれは実際に起きたことなの。私、見ちゃったのよ。綾瀬ちゃんがコンビニで傘を買おうとして、そのまま倒れるところを。そのときすでに綾瀬ちゃんの体は39度を軽く超す高熱に襲われていた。つまりもう黒い太陽の熱が魂を焼き尽くす準備が整っていたのよ。でももう何も手を打つことはできない。どうする?綾瀬ちゃんを助けたいならあなたが…。」
朝陽をもう誰も止めることはできなかった。昔は朝陽よりも鬼ごっこも追いかけッこもドッジボールもサッカーも勝っていた彼女でさえ、このときの朝陽を止めることはできなかった。ドアをけ破るほどの速さでマンションを飛び出し、そのまま会談をかけ降りる。
「父上を探しに行く!」
「だ、だめよ!それは向うの思うつぼよ。まさかあなた、お父様と決闘するつもりなんじゃ…。」
彼女の声は届かない。もうすでに、朝陽の姿は雨の中に見えなくなっていた。
すでに道路は冠水してしまっている。いつ土砂崩れが起きてもおかしくない。確かこの辺、地盤がそんなに強くないんだと、あるとき疾風が言っていた。せめて土砂崩れが起きる前に父に会いたい。そして自分の大好きな人の魂を黒い太陽にささげたことを謝らせたい。今の自分が父にかなうわけがない。でも最後の最後まで全力で勝負しない限り、それを認めたくはなかった。
別に護身用というわけではないが、傘を手に持っている。だが風と雨にあおられて、あっさりとその傘も壊れた。彼はジャージーを濡らしながら雨の中を走った。向かった先は野球場だ。練習試合なんかどうでもいい。誰もいないなんてわかっている。でも今はなぜかそこに行きたかった。父が呼んでいるような気がしたから。呼ばれたなら行くしかない。
「よう来たな。わが息子よ。」
父の顔は浅黒く、この地球で、少なくともこの街で見かけたどの人間にも似つかないほど、鼻が高く、耳はとがっていて、ひげが長く、髪の毛も長く、背丈だってたかった。だって彼は宇宙から来た男なんだから、この街の人間に似てなくて当然だ。でもやっぱり、朝陽は父の顔をみて、黒い太陽に帰りたいとは思わなかった。普通は、愛する家族の顔をみて、みんなふるさとに帰りたくなるものなのに、家族の顔をみてふるさとに帰りたくなくなるのが朝陽だった。それほどに朝陽は父が怖く、憎く、嫌いだった。
「父上、私は…。」
朝陽は、ひるむつもりなんかまったくなかった。この星に来たのは自分の意思があずかり知らぬところだが、黒い太陽から飛び出したのは自分の意思がそうさせたことだ。だから何も反省していないし、父に謝るつもりもない。そうだとしても、やはり父の前では、自分を出すことはできない。父は朝陽にとって恐怖の対象であり、に組んでも憎みきれないほどに憎たらしい存在でもあるからだ。案の定父は、昔そうしたように、朝陽を殴った。その瞬間、街に雷鳴が響く。
「言葉などいらん。口ごたえをしている暇があったら、死ぬ覚悟を決めろ。」
見慣れた父の真剣が、今にも朝陽ののど元を突き刺しそうになる。別に父に殺されるのは、最悪かまわないと思っていた。だがこんなところで死にたくはない。もし死ぬのなら、ちゃんとやることを終わらせてから死にたかった。
「父上。私を殺してもかまいませんが、どうか綾瀬だけは…日の出綾瀬だけはお救いください。」
雨が激しく彼の体に当たり、ジャージーに水が染み込む。今自分が発作を起こさずに倒れていないのが不思議だ。でも父はそんな朝陽に、「強くなったな。」とは言ってくれない。別にほめられることなんか期待していなかったけれど、ここまで雨に耐えられる体になっただけ、成長したといってほしかった。
「綾瀬…。ああ、お主が地球にいることを、あの憎き日向の水晶玉で教えてくれた哀れな奴人か。私たち黒い太陽の人間に、地球人を救う義理はないのだよ。しかもおまえのことをかくまった女など、誰が救おうか。」
父は剣を下ろした。でも心の刃だけはいまだにちゃんと振りかざしている。このままこんなところで動かずにいたら、本当に雨の中で死んでしまいかねない。
「では、父上。」
こんなことをしても無駄なのはわかっている。だが朝陽は最後まであがきたかった。父がたとえ朝陽のことを認めてくれなくても、綾瀬だけは自由の身にしてくれるように、そして彼女だけでもこれからこの平和な星で生きていけるようにしてやりたかった。たとえ世界全部が朝陽のことを踏みつぶしても。
「私が勝ったら私から身を退き、綾瀬を助けてください。私が負けたら、父のいう通りにします。だから、父上に決闘を申し込みます。」
朝陽は初めてみた。父がうろたえるのを。でもそれは、父が本当に朝陽を怖がったからではない。何も持っていない朝陽が決闘を申し込んだことにである。朝陽はいままで、父に決闘を申し込んだことなどなかった。負けるとわかっていたし、それでぼろぼろにされるのが怖かったのだ。だが、今そんなことを言っている場合ではない。敵はすぐそこまで迫っている。父を倒せなくても、父が少しでもひるんでくれれば、少しでも朝陽のことを認めてくれればそれでよかった。
「この星におまえが無断で消えたときからおれは思っていた。いつからそんななめた男になったんだとな。いいだろう。その根性をたたきのめしてやろう。」
父は、超しにさしていたもう1本の剣を、黒い太陽のときと同じように、朝陽に渡した。二人はお辞儀をする。
瞬間、地球は大きく揺れ、あちこちで雷が鳴り響き、河の水が大きなうねりになって、丘に湧き上がっていく。
土砂崩れが起きたり、今まで住んでいたマンションが倒壊したり、自分がこの夏を過ごした楽しかった街並みが次々と破壊されていくことなんか、今の朝陽にはどうでもよかった。どうでもいいんじゃない。今は街を傷つけることでしか、街を守ることは許されていないからだ。この男に勝たなければいけない。どれだけ自分の体がぼろぼろになって、自分が死んでしまっても、この男に勝って、今だ黒い太陽に閉じ込められた綾瀬を助けたかった。今はこんなふうに街を具茶具茶にしているけれど、いつかまた綾瀬と自分と、そして疾風と3人で笑いながらこの丘で朝日を眺めたい。だってこの星は、あさひがきれいな星なのだから。
父は強かった。どれだけあらがっても簡単に勝てるものではなかった。これが黒い太陽の支配者たる実力だとわかった。きっとこの男に勝てる人間なんて、この地球にも、下手をすればこの宇宙にも誰もいないのだろう。だって彼は、この宇宙をすべて制圧することが夢なのだから。そんな男に勝てるわけがないのに、小さい頃から父との決闘でぼろぼろにされている朝陽のことを、「おまえは弱い。役に立たない。いずれ死んでもらう。」と当たり前のように罵った。成長していくうちに、罵られることは日常のノイズと同じように響いて、それを聞いてももうなんとも思わなくなっていた。どうせ自分は弱いのだ。この黒い太陽では自分は一番何もできないおろかものだとすりこまれてきた。すりこまれてきたからそれを否定することもできないし、逆に肯定することもしたくない。だからここに逃げてきた。
地球に来て、野球をして、綾瀬たちと友達になって、自分は少しはおろかな人間じゃないかもしれないと思えたところだったのに、そこにある現実は、父すら倒せないおろかな自分の存在だった。
案の定朝陽は、崩れ化勝った地面に倒れふしていた。地面といっても、もう雨が降りすぎて川のようになった地面である。野球場の面影はもうない。自分の知っている地球の面影はもうない。
「この程度と花。地球で少しは鍛錬していたかと思えば、なさけないやつめ。」
父の低い声を聞いていると、雨の制ではなくて、その恐怖の制で胸が苦しくなって、あの人同じように胸が苦しくなる。地球なんて大嫌いだ。黒い太陽には自分の強敵である雨が降らないように、雲が張らないような空ができているのに、ここには雨が降る。こんな世界に自分がいるということが許せなかった。だから綾瀬から逃げた。誰かの助けを拒んだ。でも本当はそれがおろかで卑劣でばかな人間のすることだと知っていたはずなのに。
誰も自分のことを助けてはくれない。きっと自分はこの星で、土の中に混ざって死ぬのだ。きっと自分が死んだら、父は地球人全員にバツを与えて、この星を焼き尽くすだろう。それならもうそれでいい。どうせならこの星のことなんか忘れてしまいたい…。
「助けて…朝陽。私はここだよ、聞こえるでしょ?お願い、助けて。」
聞き覚えのある柔らかい声がなぜか耳に響く。彼女が自分の横にいるはずがないのに。彼女と話ができるわけがないのに。どうして聞こえるのだろう。どうして自分の体はまだぬくもりに包まれているんだろう。
「馬鹿やろう。早く綾瀬を助けにいけよ。おまえがまいた種なんだからな。まいた種は自分で片づけろ。花を咲かせるなら咲かせるで、肥料ぐらいまいてから帰れよ。」
誰かの低くて太い声がする。これもよく聞いたことのある声だ。肩を強くたかれたような衝撃にも似ている。どうして彼の声が聞こえるんだろう。きっとこれは幻想だ。こんな幻想の中にいてはいけない。地球のことを忘れたいのに忘れられない。この星に来れて、あさひの美しいこの星に来れて、朝陽は本当に楽しかったというのに。
「わかりました。父上、私は今までの罪をすべて食い改め、黒い太陽に帰還いたします。」
だがそのとき、朝陽は気づいた。父自身も、自分の横に横たわっていることに。もちろん父は死んではいないし、きっとまだ戦えるだけの力を持っていたはずなのに。だが明らかに父は、自分の横で、まるで力をなくしたカラスのようにはいつくばっていた。
「おまえを心起きなく、黒い太陽に戻すことができて、父はうれしい。強くなったな、朝陽。」
その言葉の重みを一番感じられるのは、山羅朝陽、その人だけだった。
「ねえ、日向。」
避難所につくられた仮説のテントで、綾瀬への懸命な看病が続けられていた。重傷の患者がは今のところ綾瀬一人しかいないので、たくさんの医療スタッフが動員された。
今のところ容体の急変はあり得ないだろうと医師たちは予測していた。きっとそれは間違いではなかった。だが、新井呼吸を続ける綾瀬のことをみながら、ナナセは軽症者の手当をして戻ってきたばかりの日向に声をかけた。
「もういいの?とりあえず。」
「ハザードマップがあったおかげで、なんとかみんな早く避難できたみたい。今のところ大けがの人はいなさそう。」
日向はそれでも落ち着きをなくしていた。別にこの異常な台風のせいでそうなったのではない。それぐらい七瀬にもわかっている。
「なんか思い出すな、16年前のこと。」
七瀬は自分がすごく意地悪な人間だと気づいている。この話をするのは日向にとって、傷口に塩を塗るぐらいつらい話かもしれない。だが、今この記憶を呼びさまさなければ、綾瀬がそうなったときに、自分が耐えられない気がしたからだ。
「16年前?」
騒がしい避難所の中で、日向は声の調子を落として尋ねた。ゆっくりと記憶を手繰りだすように話した。
「その日は今日みたいな台風でさ。激しい雨の中、一人の女性が運ばれてきた。彼女は風邪をこじらせてひどい熱を出していたの。でも彼女は出産を翌日に控えていた。私たちは、彼女が無事に赤ちゃんと一緒に退院できることを目標に、懸命に力の限りを尽くした。でもその女性も赤ちゃんも、結局息を引き取ったの。ねえ、日向。死ぬってどんな
気分なのかな?」
その答えようもない大きな疑問が投げつけられたとき、日向は、自分が死んだことがあることを隠した。死の感覚を味わったことなんか1回もないみたいな顔のままでいた。きっと七瀬がそんな質問をするということは、今彼女は明らかに参っているのだ。綾瀬は何かに懸命に耐えながら必死に頑張っているが、いつまでそれが持つのかもわからないようなこの状況で、まいらないほうがおかしい。
「私は知らないよ。だから創造でしかいえないけど、きっとすごくつらいんじゃないかな?まるで太陽に体を焼かれるように。まるで氷に体を凍らされるように。でもね、もし死んでしまっても、また生き返ることができるなら、それを信じることもきっとできる。だから綾瀬ちゃんが死んでも、きっとまた生まれ変わることができると思うの。」
でも七瀬の表情は張れなかった。別に余計に曇ったということもないけれど、そのどこか苦しそうな顔は変わらなかった。
「私、ずっと考えてたの。もし、黒い太陽みたいな世界が、人の死後に待っていたら、いったいどんな気分になるんだろうって。」
日向は返事をしなかった。その答えを出すのが怖かった。もしそうなら、綾瀬の頑張りが報われず、このまま死んでしまったとすれば、彼女は黒い太陽に住むことになる。自分の富や地位や、何よりもこの全宇宙を支配することしか考えていないような星に、彼女が住むことはできるのだろうか。彼女の住む星はそんな息苦しくてまぶしくて、真の光すら見えないような、そんな真っ黒な世界なのだろうか。ピアノには白鍵と黒鍵がある。
でもきっとあの世界にあるピアノは、すべてが黒鍵でできた、形の不格好なピアノだけだ。朝陽といつも仲良くしていた東郷さんがいつも言っていたではないか。そんな世界に綾瀬がもし閉じ込められてしまったら…。
約束なんかできないのに、日向は七瀬の肩をたたく。
「大丈夫。綾瀬ちゃんはまた戻ってくるよ。だって今のところはまだ死んでないもの。これからもずっと、このあさひがきれいな星で生きていけるわ。」
そんな薄っぺらい言葉であっても、七瀬の胸には確かに響いた。あの日病院で運ばれた女性が、そのあと黒い太陽でどんな人生を過ごして、そしてそのあとどうなったのか。そんな、ありもしない妄想を頭に秘めながら、たくさん管のつながれた先にいる綾瀬のことを思った。綾瀬はこんな管でできた人間ではない。背筋を伸ばしてピアノを弾く綾瀬は、こんなにか弱い存在ではない。あさひを見に行くために丘をかけあがる彼女はこんな管で生きているんじゃない。彼女はちゃんと自分というものを持って生きていたはずなのだ。
「父上。帰還する前に二つ頼みがあります。」
朝陽の父は、いいとも悪いとも言わなかったが、その頼みを受諾した。朝陽は嬉しいとは思わなかった。彼の中に今気持ちは何もなかった。ただ自分がこの星でやり残したことをやりたかった。
「綾瀬のやつ、どこにいるんだよ。電話もメールもしてるのに通じない…。」
疾風がスマホに向かって一人で叫ぶ。花火大会どころではなくなった。この異常な台風が、戦争と同じぐらいむごいやり方で、自分たちのふるさとを破壊していく。こんなことがあっていいわけがない。東郷さんの言っていることがよくわかった。
「空から何も落ちてこない星。」
そんな星にもし自分が住めるなら住みたい。そう、きっとあいつさえ落ちてこなければよかったんだ。あいつが落ちてこなければ、きっとこんな台風なんかこなかった。この台風はあいつを呪いに来た台風なのだ。もしまたあいつに会うことができたなら、いままでできなかった分、やつのことを殴って、けって、そして思いっきり空高く追いやってしまいたい。だって彼の居場所は地球ではなく、太陽なんだから。
自分の力量に、素直になってほしかったのだ…。
「本当に山羅快晴は強いな。ここまで街をめちゃくちゃにされたら、打つ手がないよ。」
避難所になっている小学校の屋上で、誠也さんが残念そうにつぶやく。
「せっかく植えたひまわりも、もう全部だめになっちゃっただろうな。あの男はすごいよ。」
誠也さんはなぜか悔しそうではなかった。というか力が抜けているようにも思えた。
「でもこれでよかったんじゃないですか?街が破壊されて、飛行場よりも復興が第1ですよ。これで文句なく平和を築くことができます。」
ちょっとでも前向きになろうとして言った言葉は、結局のところ誠也さんを元気づけることにはならなかった。
「飛行場の建設を復興の道具にさせられたら?経済発展を平和の道具にさせられたら?金や名誉や富を平和の材料にさせられたら?人はそれを平和だと思いこむんだ。自分たちにしかスポットライトの当たらない世界のことを、きっと平和って呼ぶ人がたくさんいるんだよ。」
誠也さんは、地球が黒い太陽みたいに、死にながら生きる人たちの巣窟になってほしくはなかった。その思いだけで、彼は島流しにされたこの7年間、この星でできることを探していた。でも道半ばで、結局黒い太陽に邪魔をされた。何も変わってはいない。自分は昔から武術には弱く、姉の影響で勉学と音楽しかやってこなかった。もともとが強くないのだ。だからこんなふうに、すべてなかったことにされてしまうのだ。疾風が恋した少女のことさえも…。
「誠也兄さん、疾風!」
ふとみると、向うから汗を書いた一人の少年が、いつものように凜とした姿で現れた。その姿があまりにも日常的すぎて、疾風は彼を殴りつけるタイミングを逸してしまった。
「おまえ、綾瀬をどこに…。」
「別れのあいさつに来たんだ。」
「別れのあいさつ?」
疾風は、その言葉の意味がすぐにわかったのに、頭の中でうまく認識されない。朝陽のことよりも綾瀬のことが気になるからだろうか?朝日なんかどうでもいい思っているからだろうか。どうでもいいわけがないと自分に言い聞かせりゅ。また野球を始めてみようかというきっかけをくれたのは朝陽だった。次世代平和の回の活動を続けようと思わせてくれたのも朝陽だった。こいつが落ちてくるのとこないのとでは、きっと疾風の人生は前に進んでいなかったかもしれない。
「僕、黒い太陽に帰らなきゃ。」
「どういうことだよ。こないだ約束したろ?9月になったらうちの高校の野球部に入るって。それでまた一緒に野球を続けるって…。あと、10月の実力試験まで、おれにみっちり勉強教えてくれるって。それと、冬はスキーで勝負してくれるって。約束してくれたろ?なのにおまえは…。」
そんな約束なんかしていない。そんな約束を、もっと早く簡単に口にできたなら、きっと疾風はもっと早く似綾瀬に告白できていただろう。朝日なんか落ちてこなくても前に進めただろう。いつもあとになって気づくのだ。何かを失いそうになったときに、それとももう失ってしまったときに、自分にとって大切なものは、ずっとそこにあって、自分はそれをずっと大事に持っていたことにしてみたくなるのだ。
だからそんな疾風をみて、朝陽は笑った。
「そうだね。きっともしそんな約束をしてたら、かなったかもしれない。でもかなえられなかったかもしれない。僕はこの星にいてはいけないんだ。ほら、みろよ。あの街を。」
川沿いの家屋はもうほとんどが水に使っている。もちろん疾風が住んでいた1軒屋だってそうだ。疾風の両親はもうとっくに避難所に避難している。これから仮設住宅とやらに住むのだろうか。今にも丘の地面が崩れて、野球場も綾瀬や朝日が住んでいた高層アパートも全部壊れてしまいそうだ。それほどに雨は激しく風は強く吹いていた。
「この台風は、僕がここにいるから起きたことなんだ。この街を救うためには、綾瀬を救うためには、僕が黒い太陽に戻らなきゃいけないんだ。」
その言葉に、疾風の胸はいたんだ。
「綾瀬…。あいつ、どこにいるんだ?」
「今黒い太陽の牢獄に閉じ込められてる。君と花火をみる予定だったのに、申し訳ないな。」
「そんなの…。」
疾風は、誰に向けていいのかわからない怒りがこみ上げてくるのを感じた。自分に対するものなのか、朝日に対するものなのか、それとも突然黒い太陽なんかに誘拐された綾瀬に対してだろうか。
「謝るんなら…。どうしておまえなんか空から落ちてきたんだよ。おまえのせいでおれの夏は最低にまぶしくて、最低に楽しくて…おまえの存在が最高に大嫌いだったのに…!おまえは何も残さずにいなくなるっていうのかよ。ふざけるな!おれはやだよ!不安だよ!おまえがいなきゃ… !おまえはおれの太陽になってくれたかもしれねえのに!」
こんなに泣きじゃくる疾風のことを、朝日も、そしてその様子を影でみていた東郷さんもみたことはなかった。二人はもちろん疾風と知り合って日が浅いから当然なのかもしれない。だがこんなにないている姿に驚いているのは、何もこの二人だけではなく、疾風自身もだった。自分がこんなにも朝陽のことを大切に思っていて、朝日がいない明日なんか創造したくないと思ってしまっていた。
「楽しかったよ、疾風。またもし僕が落ちてきたら、思いっきり野球と将棋と恋愛で勝負しようぜ。それじゃ…。」
朝陽は振り返らなかった。だから最初のうち、疾風も東郷さんも彼に声はかけなかった。だが急に思い出したみたいに、朝日が東郷さんの名前を呼んだ。
「ごめん、誠也兄さん。兄さんをつれて帰ることができなくて。」
東郷さんは出そうになる涙をこらえて、せめて朝陽の前ぐらい、年上男らしく振る舞おうと努力した。
「いいんだよ、朝日。どうせ黒い太陽に帰ったところで、我々の存在が認められるなんて望みはもうほとんどないのだから。それに私は、この星でまだまだやるべきことがたくさんある。かわいい地球人たちをおいて、自分だけ黒い太陽に帰るなどできない。だが君は行くんだな。」
朝陽は東郷さんの大きな手をしっかりと握ってから言った。
「うん。だって、僕、疾風に言われちゃったんだもん。僕は疾風の太陽なんだからってさ。」
「朝日!何をモタモタしてる!急げ!」
雷鳴が快晴の怒号に混ざって聞こえる。朝陽は少し不安そうな顔になったが、二人に小さくお辞儀をして走り出した。
「と、東郷さん。」
疾風の中には、ある止めようのない思いが、一気に盛り上がってくる。朝陽がもしこの地球を去るならば、最後にどうしてもやっておきたいことがあったのだ。きっと本当に綾瀬が願うことはまさにこれなのだから。
「どうした、谷口君。」
疾風は、こんなことをやるのは陳腐で、そもそも不可能だし危険だとわかっていたが、わがままを言ったとしてもかなえたかった。
「やることは済んだのか?」
丘の上で待っていた父が朝陽に低い声で言う。心なしか父の顔が赤かった。派だの黒い父の顔色がこんなふうになるのが不思議で、朝陽は不安にもなったが、ともかく今は黒い太陽に帰って綾瀬を助けることしか頭になかった。
「さあ、帰ろう。」
朝陽は、自分のつくった紙飛行機のうえに坐り、羽をつまんだ。父も同じことをした。
激しい雨によって、紙飛行機は今にも敗れそうになる。もしかしたらもう敗れているのかもしれない。本当にこんなので黒い太陽まで飛べるのだろうか。地球から黒い太陽に帰るにはこの方法しかないと、さっき父は言っていた。葵のように、鳥の羽をまとった衣服を縫うこともできるが、逆にこんな雨の日ではあんな服を来ていては危険だと思ったのだ。
それでも強い風に乗って、ただの紙飛行機に見えるそいつが空に浮き上がった。瞬間、そいつはどんどん大きくなって、10秒もしないうちに、立派な鉄でできたロケットになっていた。
そのとき、ロケットの窓から見えた景色を、朝陽は忘れられなかった。いままで、風雨にさらされていたその空に、あり得ないほどきれいな光の線が見えたのだ。そしてそいつは雲を突き破って、大きなうねりになってこっちに迫ってきた。
激しかった雨が上がっていく。強い風だけが残る。火薬のにおいが、夏の暑さを引き連れてとおくまで飛んでいく。
その光の線の招待を、朝日ですらよくわかっていなかった。でもそれはきっと、誰かが打ち上げた花火だったんだとわかった。
疾風が綾瀬とみようとしていた花火は、こんなにも非現実的で、こんなにも小さくて、こんなにもはかないものだったんだろうか。風雨によって崩壊した空に向かって花火を打ち上げるなんて本当はできないはずだ。それぐらい地球に住んだことがなくてもわかる。そんな混沌とした事実が証明できるはずがない。
でもそのとき、自分が浅はかなのに気づいた。そもそも朝日が落ちてくること事態、つまり空から人が降ってくること事態が、地球ではあり得ないことなんだから、激しい雨の中で打ち上げられる花火だってありえることになりはしないか。なんでそれがありえるかとか、それがありえない可能性を科学的に説明してみた論文なんかよりもずっと果てしない希望に満ちた現実ではないか。
疾風がそんなことを思って花火を打ち上げたのかはわからないし、きっとそんな
ことはかんがえずに打ち上げたというのが正しいのだろう。でもきっと疾風の中の思いがあったから、花火は雨の中でもきれいにうち上がることができたのだ。
本当は雨の中で花火なんか打ち上げたくはなかった。しかもこれはただの手持ち花火で、花火大会で見るはずだった大きくて美しい花火はそこにはない。たまたま小学校の倉庫になぜかあった小さな手持ち花火に日をつけただけなのだ。しかも、隣で花火をみる予定だった彼女はここにはいない。でも、もし黒い太陽に彼女が閉じ込められているなら、この打ち上げた花火は彼女に届くかもしれない。この空の向うにいる誰かにとどいてほしい。この世界の空が、これからもずっと美しくあれるように。そして願わくば、大好きな人とその美しいはずの空を見上げたかった。そして伝えたかった。
もしかしたらもう伝えられないのかもしれない。自分が昨日、花火大会の打ち合わせなんかで彼女を見捨てなければよかった。そうすれば彼女が誘拐されないように全力で守ることもできたのに。でも後悔をしてもしょがない。だから今こうして、花火を挙げているのだ。小さくて吐かない、雨の中で挙げる花火は、明らかにわざとらしすぎて、小説の一幕にもならなさそうな、そんなな咲けないものだった。
でも朝陽はその光をみて確信した。やっぱり地球という星は本当に美しくて、常識や摂理を考えない人たちがたくさん住んでいる星なんだとわかった。
「きれいだな。」
隣を飛んでいた父が、突然がらにもないことを言ったから、朝陽はあわてる。父が、「きれいだ。」なんて、ましてや地球の花火に対してそんなことを言うとは思わなかったのだ。
「何を言っていますか。父上。あんなちんけでどうしようもない火の粉、黒い太陽の美しい光に比べれば、対したことはありません。」
思ってもいないことを口にする。これが黒い太陽での美徳だ。自分の本当の姿を隠して悪を気取る方があうつくしい。もうこの瞬間、自分は地球にはいれないとわかった以上、黒い太陽における前任にならなくては、自分の心の中のこの気持ちを抑えることはできない。
だが父は確かに今、「きれいだ」とそう言った。どうしてそんななさけない言葉を吐くのだろうか。それでも黒い太陽の支配者だろうか。全宇宙を焼き尽くすと豪語した戦争主義者だろうか。
だが父は笑った。
「私ももう年だな。こんな嘘のような光をきれいだと思ってしまうのだから。」
父のその微笑の意味を、朝陽は黒い太陽に着くまでずっと考えていたが、やはりどうにも理解できないことだった。あんなにもたくさん本を呼んで、あんなにもたくさん勉強をして…。そしてあんなにもたくさん地球の人とかかわったのに、父の感情さえ読み取ることができない自分の弱さを恥じた。
つい二十日ほど前、母からもらった水晶玉と、小さな鞄だけ持って、がらくたでつくった飛行機を持ってこの星から飛び出した。そのとき宇宙にはどれだけの星があって、どんな人たちがどんな暮らしをしているんだろう、せめて黒い太陽よりはましな暮らしをしているだろう、ぐらいの軽い気持ちで飛び出した。でも今、朝陽は久しぶりにこの星の地を踏んで、その刺すような厚さの中で、ただ一つのことしか思っていなかった。自分が巻き込んでしまった大好きな人のことを、早く解放してやりたいということだけだった。
さっき地球から上がった湿気った花火を、綾瀬は確かにみることができた。だが綾瀬は、その花火が地球から打ち上げられた人口衛星みたいなものだなんていうことは何も知らない。彼女が知っていることは、誰かが花火を打ち上げて、それをみることができただけだ。そもそも地球から打ち上げられた花火ということすら、綾瀬にはわからなかった。
きっとこれは走馬灯なのだと綾瀬は思った。こんなにうつくしい花火がみられるなんて、もう自分に残された命はもうないんだと思うしかなかった。
小学生の頃、疾風のことを何気なく花火に誘った。疾風はつまらなそうな顔をして、「花火なんか、音うるさいだけでつまんねえからやだ。花火行くならゲームしてぇんだけど。」と突っぱねられる。
「もう、疾風はロマンがないんだから。とにかく行くよ。」
ゲーム機を手に持った疾風のことを無理やり引っ張って、川沿いの花火大会に出かけた。せっかく浴衣も母に着付けてもらったのに、「浴衣、似合ってるな」なんて、こんなうつくしい花火みたいな言葉をかけてくれたことなんかない。花火のうつくしさは、今みているのと同じだが。
「きれい!ねえ、疾風、写真徒労よ。」
そう思って疾風を呼んだのに、やつはもうそこにはいなかった。一人で勝手にどこかへ行ってしまったらしいのか、それとももう帰ってしまったのか。自分の心がしぼんでいくのがわかる。隣に疾風がいてくれたら、もっとあの花火は美しかったのに。、今、走馬灯のように見えるあの花火だってそうだ。あの日、確かに自分のことを花火に誘ってくれたとき、綾瀬は本当にうれしかった。やっと疾風の隣で花火がみられると確かに思ったのだ。でも今綾瀬はこうして、魂をすり減らしながら、どこから挙げられているかわからない花火を、どこかもわからない黒い太陽の牢獄でみている。せめて、こんなにうつくしい花火を、もっと近くでみることができたなら…。
夏が終わるのと同時に、こうして自分が死んでしまえば母親はどう思うだろう。せっかくドイツ行きを認めてくれたばかりなのに。疾風はどう思うだろう。せっかく全力で野球を始めたというのに。東郷さんはどう思うだろう。せっかく一生懸命にピアノを教えてくれたというのに。朝陽はどう思うだろう…。他人がどう思うかなんて正直どうだっていい。だってどれだけかんがえたって、結局自分は今こうして、黒い太陽にとじこめられているのだから。問題は、自分がこれからどうしたいのか。今どう思っているかなのだ。そんなことは綾瀬にもわかっている。でももし自分の気持ちを今考えてしまったら、たぶん涙が止まらなくなって、このうつくしい花火がみられなくなってしまうのだから。だから今だけはこの花火をみて、本当に死にそうになったときにだけ自分のことを考えたい。
そう思っていたのに、気づけば自分の息が苦しくなって、もしかしたら花火をみながら死んでしまうかもしれないような気持ちにさせられる。それでも花火のうつくしさは勢いよく迫ってくる。きっとこの花火は、走馬灯ではないのだ。
「綾瀬!」
心臓の最後の鼓動が、今にも消えそうになった綾瀬の魂に響いたその声は、まるでせせらぎの清水のように、少しずつ体にしみわたっていく。ここには水なんて1的だってないはずなのに。
「朝陽君…?」
自分の声はもうでないと思っていたのに、案外簡単にのどから飛び出した。
「ごめん、本当にごめん。僕の制だね。でももう大丈夫だから。」
「謝らないでよ…。熱があるのに野球をやってたあたしのせいだからさ。それに、朝陽君が大嫌いなふるさとのことがわかってよかった。」
朝陽はしっかりと綾瀬のことを抱きしめる。その抱きしめ方は少し雑だけれど、確かに綾瀬のことを温めてくれていた。
「やっぱり僕なんかじゃだめなんだね。綾瀬を守ることができるのは、きっと疾風の方だ。」
朝陽が突然そんなことを言うので、綾瀬は面食らってしまう。
「そ、そんなの関係ないよ…。」
「僕だって綾瀬のこと、大好きなんだけどな。疾風なんかに負けないぐらい最強で秀才の彼死になれると思ってたんだけどな。でもやっぱりだめなだね。」
突然の告白に、綾瀬は自分が牢獄に閉じ込められていたことさえも忘れてしまう。そしてここが黒い太陽だということさえも忘れてしまう。この男はあまりにも秘境すぎる。自分を助けにきていきなり告白をするなんて。これでは、もし胸から離れなければいけなくなったとき、離れられないではないか。
「あたしだって…朝陽君のこと大好きなんだよ。あの空から落ちてきたときに思ったの。きれいな顔の人だなって。そして、一生懸命に黒い太陽からあらがおうとしている姿も…。だからずっと一緒にいてほしいっっ。」
「そうしよう。」ということはできた。彼女をこんなふうに牢獄に閉じ込めて、ずっと大好きな彼女のことをそばにおいてやることはできた。父上さえ許すなら、彼女のことを胸に抱いたまま戦闘の修業ぐらいしてやるぞと思った。でもそんなことができるはずもなくて、そんな計画は朝陽の頭の中に一つもない。綾瀬はここにいてはいけない。朝陽があそこにいてはいけないのと同じで。自分があさひとして空から落ちてきてしまったから、彼女はこんなふうに、今自分の胸に張り付いているのだ。自分がそうしなければそんなことにはならなかった。自分がしてしまった間違いは、自分でけりをつける。たとえそれが、とてもつらい結末になっても。
「君のことが大好きだからこそ、それはできないんだ。君は地球、僕はここで生きて行くしか道はないんだよ。」
「え?どうして…。」
そう言おうとしたときには、もう綾瀬は朝陽の胸から弾きはがされ、力なく牢獄の床に倒れ伏していた。
「さあ、これに乗って。」
朝陽は、力なくもがく綾瀬のことを、二十日前に自分でそうしたのと同じように、あり合わせのガラクタで飛行機をつくった。きっとこんなガラクタで作った飛行機だから、あんなふうに風にあおられて地球に墜落したのだろう。でも今回は、ありあわせのがらくたとはいえ、前よりも丈夫なものを使ってつくった。だって、自分の大好きな人のことをロケットで運ばなければいけないのだから。変な星に墜落してしまえば、きっと綾瀬は地球に帰ることはできないだろう。彼女のことをちゃんとふるさとまで運んでこそ、自分が地球に残した傷の責任をとることができる。
「朝陽も来るよね。一緒に。」
自分が子供みたいなことを言っていると、綾瀬はわかっている。彼と自分は出会うべき存在ではないとわかっていて、だからこそ一緒にいるべきではないんだとわかっていても、こんなふうに好きになってしまったら、出会うべき存在ではなかったなんて、軽々しく口にできなくなる。人生の中で出会った人やつながった人たちの中で、出会わなければよかった人なんて一人もいない。もし出会うべきじゃないとわかっていれば、神様はきっと、こんな無謀な出会いを、朝陽と綾瀬に与えることはなかった。この夏にこの二人が出会うことができたのは、綾瀬と朝日が出会うべきだと神様が思ったからだろう。それなら… どうして出会うべき人と、こんなところで分かれなければいけないのだろう。出会うべき人とはきっと別れるべきだから。そんな矛盾を抱えて生きて行かないといけないなんて、綾瀬には耐えられなかった。でもきっと朝陽は、この黒い太陽に生まれてから、ずっとたくさんの矛盾や不条理、理不尽を抱えて生きてきたのだ。そんなものに比べれば、綾瀬が持っている矛盾なんて、対した矛盾ではないのかもしれない。
でも綾瀬が、ここまで乞い求めるのは、ただ寂しいからではない。ただ彼と離れ離れになるのがいやなのではない。彼の手をどうしても離すことができない理由があるからだ。
「さあ、もう君は行く時間だ。みんなが花火を挙げてきみをまってくれているから。」
「やだよ、私は…。」
綾瀬が小さい頃から、父は何度も海外出張をしていた。そんな父と数カ月分かれることになっても、綾瀬は泣き言一つ言わなかった。
「綾瀬。それじゃあ父さん、言ってくるから。」
「パパ、今度はどこに行くの?」
「すごく遠いところ。ブラジルっていうところだよ。」
「ブルジラ…。」
「ブラジルだよ。」
父のほうがなきそうになって綾瀬の手を握っている。そんな娘図気の父に、母の七瀬が焼き餅を焼いたみたいな目で見つめる。
「ほら、とっとと行きなさいよ。」
母が怒ったみたいな声で言う。それでも綾瀬はずっと、ブルジラ、ブルジラと意味のない言葉を口の中で繰り返しながら笑っている。綾瀬が笑っているから、父も笑いかえしながら歩き去っていく。まだ小さかったはずなのに、父が自分の知らない意味のわからない国に行ってしまうことなんか、正直綾瀬にとっては悲しいことではなかったのだ。いつか帰ってくるとそう思っていたからなのか。それとも、父が何をしているのか本当は知らなかったからなのか。
いや、どれも違うような気がする。この瞬間にこそ、綾瀬は、人と分かれるつらさを知ったのだ。もうあ得ないかもしれない。またいつか会えるかもしれないなんて嘘を信じたくないほど、この手をずっと握っていたいと思った。ブルジラでもドイツでもなく、黒い太陽に住む彼とのこの別れが、本当に自分の体を脅かした熱と同じぐらいの強さで突き刺してくる。
「綾瀬。僕は君が大好きだ。だからこそ手を話すよ。大好きだからこそ、君とは同じ場所には住めないんだ。大丈夫、心配するな。毎朝会いにいくよ。約束だから。」
隣を飛んでいた父が、突然がらにもないことを言ったから、朝陽はあわてる。父が、「きれいだ。」なんて、ましてや地球の花火に対してそんなことを言うとは思わなかったのだ。
「何を言っていますか。父上。あんなちんけでどうしようもない火の粉、黒い太陽の美しい光に比べれば、対したことはありません。」
思ってもいないことを口にする。これが黒い太陽での美徳だ。自分の本当の姿を隠して悪を気取る方があうつくしい。もうこの瞬間、自分は地球にはいれないとわかった以上、黒い太陽における前任にならなくては、自分の心の中のこの気持ちを抑えることはできない。
だが父は確かに今、「きれいだ」とそう言った。どうしてそんななさけない言葉を吐くのだろうか。それでも黒い太陽の支配者だろうか。全宇宙を焼き尽くすと豪語した戦争主義者だろうか。
だが父は笑った。
「私ももう年だな。こんな嘘のような光をきれいだと思ってしまうのだから。」
父のその微笑の意味を、朝陽は黒い太陽に着くまでずっと考えていたが、やはりどうにも理解できないことだった。あんなにもたくさん本を呼んで、あんなにもたくさん勉強をして…。そしてあんなにもたくさん地球の人とかかわったのに、父の感情さえ読み取ることができない自分の弱さを恥じた。
つい二十日ほど前、母からもらった水晶玉と、小さな鞄だけ持って、がらくたでつくった飛行機を持ってこの星から飛び出した。そのとき宇宙にはどれだけの星があって、どんな人たちがどんな暮らしをしているんだろう、せめて黒い太陽よりはましな暮らしをしているだろう、ぐらいの軽い気持ちで飛び出した。でも今、朝陽は久しぶりにこの星の地を踏んで、その刺すような厚さの中で、ただ一つのことしか思っていなかった。自分が巻き込んでしまった大好きな人のことを、早く解放してやりたいということだけだった。
さっき地球から上がった湿気った花火を、綾瀬は確かにみることができた。だが綾瀬は、その花火が地球から打ち上げられた人口衛星みたいなものだなんていうことは何も知らない。彼女が知っていることは、誰かが花火を打ち上げて、それをみることができただけだ。そもそも地球から打ち上げられた花火ということすら、綾瀬にはわからなかった。
きっとこれは走馬灯なのだと綾瀬は思った。こんなにうつくしい花火がみられるなんて、もう自分に残された命はもうないんだと思うしかなかった。
小学生の頃、疾風のことを何気なく花火に誘った。疾風はつまらなそうな顔をして、「花火なんか、音うるさいだけでつまんねえからやだ。花火行くならゲームしてぇんだけど。」と突っぱねられる。
「もう、疾風はロマンがないんだから。とにかく行くよ。」
ゲーム機を手に持った疾風のことを無理やり引っ張って、川沿いの花火大会に出かけた。せっかく浴衣も母に着付けてもらったのに、「浴衣、似合ってるな」なんて、こんなうつくしい花火みたいな言葉をかけてくれたことなんかない。花火のうつくしさは、今みているのと同じだが。
「きれい!ねえ、疾風、写真徒労よ。」
そう思って疾風を呼んだのに、やつはもうそこにはいなかった。一人で勝手にどこかへ行ってしまったらしいのか、それとももう帰ってしまったのか。自分の心がしぼんでいくのがわかる。隣に疾風がいてくれたら、もっとあの花火は美しかったのに。、今、走馬灯のように見えるあの花火だってそうだ。あの日、確かに自分のことを花火に誘ってくれたとき、綾瀬は本当にうれしかった。やっと疾風の隣で花火がみられると確かに思ったのだ。でも今綾瀬はこうして、魂をすり減らしながら、どこから挙げられているかわからない花火を、どこかもわからない黒い太陽の牢獄でみている。せめて、こんなにうつくしい花火を、もっと近くでみることができたなら…。
夏が終わるのと同時に、こうして自分が死んでしまえば母親はどう思うだろう。せっかくドイツ行きを認めてくれたばかりなのに。疾風はどう思うだろう。せっかく全力で野球を始めたというのに。東郷さんはどう思うだろう。せっかく一生懸命にピアノを教えてくれたというのに。朝陽はどう思うだろう…。他人がどう思うかなんて正直どうだっていい。だってどれだけかんがえたって、結局自分は今こうして、黒い太陽にとじこめられているのだから。問題は、自分がこれからどうしたいのか。今どう思っているかなのだ。そんなことは綾瀬にもわかっている。でももし自分の気持ちを今考えてしまったら、たぶん涙が止まらなくなって、このうつくしい花火がみられなくなってしまうのだから。だから今だけはこの花火をみて、本当に死にそうになったときにだけ自分のことを考えたい。
そう思っていたのに、気づけば自分の息が苦しくなって、もしかしたら花火をみながら死んでしまうかもしれないような気持ちにさせられる。それでも花火のうつくしさは勢いよく迫ってくる。きっとこの花火は、走馬灯ではないのだ。
「綾瀬!」
心臓の最後の鼓動が、今にも消えそうになった綾瀬の魂に響いたその声は、まるでせせらぎの清水のように、少しずつ体にしみわたっていく。ここには水なんて1的だってないはずなのに。
「朝陽君…?」
自分の声はもうでないと思っていたのに、案外簡単にのどから飛び出した。
「ごめん、本当にごめん。僕の制だね。でももう大丈夫だから。」
「謝らないでよ…。熱があるのに野球をやってたあたしのせいだからさ。それに、朝陽君が大嫌いなふるさとのことがわかってよかった。」
朝陽はしっかりと綾瀬のことを抱きしめる。その抱きしめ方は少し雑だけれど、確かに綾瀬のことを温めてくれていた。
「やっぱり僕なんかじゃだめなんだね。綾瀬を守ることができるのは、きっと疾風の方だ。」
朝陽が突然そんなことを言うので、綾瀬は面食らってしまう。
「そ、そんなの関係ないよ…。」
「僕だって綾瀬のこと、大好きなんだけどな。疾風なんかに負けないぐらい最強で秀才の彼死になれると思ってたんだけどな。でもやっぱりだめなだね。」
突然の告白に、綾瀬は自分が牢獄に閉じ込められていたことさえも忘れてしまう。そしてここが黒い太陽だということさえも忘れてしまう。この男はあまりにも秘境すぎる。自分を助けにきていきなり告白をするなんて。これでは、もし胸から離れなければいけなくなったとき、離れられないではないか。
「あたしだって…朝陽君のこと大好きなんだよ。あの空から落ちてきたときに思ったの。きれいな顔の人だなって。そして、一生懸命に黒い太陽からあらがおうとしている姿も…。だからずっと一緒にいてほしいっっ。」
「そうしよう。」ということはできた。彼女をこんなふうに牢獄に閉じ込めて、ずっと大好きな彼女のことをそばにおいてやることはできた。父上さえ許すなら、彼女のことを胸に抱いたまま戦闘の修業ぐらいしてやるぞと思った。でもそんなことができるはずもなくて、そんな計画は朝陽の頭の中に一つもない。綾瀬はここにいてはいけない。朝陽があそこにいてはいけないのと同じで。自分があさひとして空から落ちてきてしまったから、彼女はこんなふうに、今自分の胸に張り付いているのだ。自分がそうしなければそんなことにはならなかった。自分がしてしまった間違いは、自分でけりをつける。たとえそれが、とてもつらい結末になっても。
「君のことが大好きだからこそ、それはできないんだ。君は地球、僕はここで生きて行くしか道はないんだよ。」
「え?どうして…。」
そう言おうとしたときには、もう綾瀬は朝陽の胸から弾きはがされ、力なく牢獄の床に倒れ伏していた。
「さあ、これに乗って。」
朝陽は、力なくもがく綾瀬のことを、二十日前に自分でそうしたのと同じように、あり合わせのガラクタで飛行機をつくった。きっとこんなガラクタで作った飛行機だから、あんなふうに風にあおられて地球に墜落したのだろう。でも今回は、ありあわせのがらくたとはいえ、前よりも丈夫なものを使ってつくった。だって、自分の大好きな人のことをロケットで運ばなければいけないのだから。変な星に墜落してしまえば、きっと綾瀬は地球に帰ることはできないだろう。彼女のことをちゃんとふるさとまで運んでこそ、自分が地球に残した傷の責任をとることができる。
「朝陽も来るよね。一緒に。」
自分が子供みたいなことを言っていると、綾瀬はわかっている。彼と自分は出会うべき存在ではないとわかっていて、だからこそ一緒にいるべきではないんだとわかっていても、こんなふうに好きになってしまったら、出会うべき存在ではなかったなんて、軽々しく口にできなくなる。人生の中で出会った人やつながった人たちの中で、出会わなければよかった人なんて一人もいない。もし出会うべきじゃないとわかっていれば、神様はきっと、こんな無謀な出会いを、朝陽と綾瀬に与えることはなかった。この夏にこの二人が出会うことができたのは、綾瀬と朝日が出会うべきだと神様が思ったからだろう。それなら… どうして出会うべき人と、こんなところで分かれなければいけないのだろう。出会うべき人とはきっと別れるべきだから。そんな矛盾を抱えて生きて行かないといけないなんて、綾瀬には耐えられなかった。でもきっと朝陽は、この黒い太陽に生まれてから、ずっとたくさんの矛盾や不条理、理不尽を抱えて生きてきたのだ。そんなものに比べれば、綾瀬が持っている矛盾なんて、対した矛盾ではないのかもしれない。
でも綾瀬が、ここまで乞い求めるのは、ただ寂しいからではない。ただ彼と離れ離れになるのがいやなのではない。彼の手をどうしても離すことができない理由があるからだ。
「さあ、もう君は行く時間だ。みんなが花火を挙げてきみをまってくれているから。」
「やだよ、私は…。」
綾瀬が小さい頃から、父は何度も海外出張をしていた。そんな父と数カ月分かれることになっても、綾瀬は泣き言一つ言わなかった。
「綾瀬。それじゃあ父さん、言ってくるから。」
「パパ、今度はどこに行くの?」
「すごく遠いところ。ブラジルっていうところだよ。」
「ブルジラ…。」
「ブラジルだよ。」
父のほうがなきそうになって綾瀬の手を握っている。そんな娘図気の父に、母の七瀬が焼き餅を焼いたみたいな目で見つめる。
「ほら、とっとと行きなさいよ。」
母が怒ったみたいな声で言う。それでも綾瀬はずっと、ブルジラ、ブルジラと意味のない言葉を口の中で繰り返しながら笑っている。綾瀬が笑っているから、父も笑いかえしながら歩き去っていく。まだ小さかったはずなのに、父が自分の知らない意味のわからない国に行ってしまうことなんか、正直綾瀬にとっては悲しいことではなかったのだ。いつか帰ってくるとそう思っていたからなのか。それとも、父が何をしているのか本当は知らなかったからなのか。
いや、どれも違うような気がする。この瞬間にこそ、綾瀬は、人と分かれるつらさを知ったのだ。もうあ得ないかもしれない。またいつか会えるかもしれないなんて嘘を信じたくないほど、この手をずっと握っていたいと思った。ブルジラでもドイツでもなく、黒い太陽に住む彼とのこの別れが、本当に自分の体を脅かした熱と同じぐらいの強さで突き刺してくる。
「綾瀬。僕は君が大好きだ。だからこそ手を話すよ。大好きだからこそ、君とは同じ場所には住めないんだ。大丈夫、心配するな。毎朝会いにいくよ。約束だから。」
毎朝会いに行く…。その言葉の意味を、そのときの綾瀬は、きっとわからなかった。もちろん普通ならわかるのかもしれない。でもそのときの綾瀬には、朝陽とはもう1度会えないという思いの方が強かったのだ。
だから、朝日がそっと手を話して、ロケットが少しずつ黒い太陽から離れていったときに、手を振ることができなかった。それでよかった。だって後ろを振り返ってしまったら、手を振ってしまったら、また朝陽のことが好きになってしまうから。
でも、手は振らなかったけれど、綾瀬は朝陽に聞こえるか聞こえないかわからなくても
自分が叫べるだけの大きな声で叫ぶ。
「朝陽。もし私のことが本当に大好きなら、もう絶対落ちてくるんじゃねぇぞ!約束抱かんなー!守らなかったら許さねぇんだかんな!守らなかったら私はあんたを嫌いになっちゃうんだかんな!」
その声はまさしく、宇宙に響く声となって、ロケットを揺らし、地球の木を揺らし、黒い太陽の地面をも揺らした。朝陽は小さく笑ってみせる。そんな大きな約束をされてしまったら、朝陽はいやでも強くなるしかないではないか。この星と向き合うことを、きっと綾瀬は朝陽に託してくれた。いつの日か黒い太陽が平和な星になることを、彼女は願っているのだ。
ロケットは、誰も操縦しなくても、まるで魔法のように地球にゆっくりと近づいていく。でも、地球に近づいていることも、綾瀬にはわからない。ただ今は、朝日が黒い太陽で何をしているのか、朝日がどうして居場所を突き止めてくれたのか、朝日がどうして黒い太陽に帰ることを選んだのか、そんな自分一人で考えてもしかたのないことしか頭になかった。
朝陽と過ごしたこの夏のことを考えていた。
最初朝陽は、今となってはよく野球をしている野球場の近くで、今ではかんがえられないほど、でも今でも忘れられないほど沈んだ顔で、心ここにあらずといった顔で、黒い太陽からやってきた。そのとき、綾瀬は何も助けてやれることなんかなかった。彼は綾瀬の手を突き放して、一人で水たまりにつまずいて見せた。彼はもともと誰の手も必要としていなかったのだ。でもその手を、無理やり握ったのは綾瀬だった。それを朝日がどう思ったかはわからない。でも、最後にレオと3人で、いや、レオの仲間たちも一緒に野球をしたとき、彼は確かに笑っていた。きっとこの地球のことを、彼はずっと会いしていた。だからこそ彼は、地球を去ったのだ。地球は今どんな天気だろうか。綾瀬がコンビニで倒れたときの天気はどんなだっただろうか。晴れていてほしい。朝日がもし会いに来てくれるなら、雨ではなく晴れた地球を見せてあげたい。そうじゃないときっと彼だって、私に会いにきた意味がなくなってしまう。
少しずつ風が強くなって、ロケットが揺れ始めた。どこかの星に近づいているのだろう。きっともうすぐこのなぞの宇宙旅行は終わって、朝陽は綾瀬を地球に返してくれる。地球がどんな天気でも、きっと綾瀬は無事に地球に帰ってくる。みんなもそう信じているし、綾瀬だってそれを信じていた。
でもその強い風に巻き込まれるように、ロケットが大きく揺れたとき、もしかして自分は無事に地球に帰ることはできないのかもしれないと、綾瀬はグリップをしっかり手につかんだ。自分でロケットを操縦したこともないのに、なんとかこの風からロケットを逃がしたいと思った。でもロケットはまた大きく揺れる。
窓の外をみると、自分が今どんなところにいるのかがわかった。大きな雲の渦が見える。雨で前が見えない。自分がどれだけ飛行機の操縦技術を持っていても、たぶんこんなに前が見えなかったらまともにコントロールができず、そのまま雲の渦に突っ込んでしまうだろう。
この雲の渦はどこかでみたことがある。台風の中心をさす天気図でみたのだろうか。それとも夢の中だろうか。それは二つとも政界なのかもしれない。しかしもっと鮮明に覚えている。
綾瀬は深呼吸をする。
きっとこの雲の渦を通り抜けなければ地球にたどり着くことなんかできないんだと悟った。朝陽はあの日、この雲の渦を通り過ぎて地球に落ちてきたとき、いったいどんな気分だったのだろう。この雲の渦をみたとき、どんな気分になったのだろう。それでも、自分が死んでしまうかもしれない危険を恐れずに、この渦に飛び込んでいったのだろう。丈夫だった軍服は風に破られ、体は雨にぬれて弱り、魂がすり減ったままで、光をなくした太陽の子は、黒い太陽という自分のカラを飛び出すために、ここにやってきたのだろう。それならば綾瀬は、どんな気持ちでこの自分のふるさとへ帰ろうか。
ちょっと野球をしたぐらいで、ちょっと夏を楽しんだぐらいですぐに熱を出して、黒い太陽に閉じ込められてしまうこんな弱い自分から卒業する方法なんて、綾瀬は持ち合わせていない。朝日みたいに、空から落ちてでもいいから弱い自分と決別したいなんておもえない。ただ綾瀬は、また地球に帰ることができるなら、自分がやり残したこと、これから
やりたいことだけをやろうと思った。朝日が約束を守って、ちゃんと落ちずに会いに来てくれるのなら…。
強い風が一気に吹き荒れた。深呼吸をして雲の渦をみる。きっとこの先に
綾瀬の星がある。あさひの落ちる星がある。あさひのきれいな星がある。
「父上!これは計算してたのですか!」
モニターの向うで、朝陽はこぶしを握る。父は冷たげな微笑をスクリーンに向かって投げかける。
「ただで返すわけがなかろう。あの女はおまえを地球で守った哀れな娘なのだから。葵にお願いをして、あのロケットを雲の渦に誘いこんだ。簡単に地球へも戻ることはできまい。あの女にも相応のバツを与える必要があるのでな。」
この男はどこまでも冷たい。べつに冷たいことにたいして何も異論はないし、今ここでどれだけはむかったところで、結局その渦の中にいるのは綾瀬であって自分ではない。だからどうすることもできない。
朝陽は、自分の大好きな人を地球に変えすために、そしてその人が住むふるさとの星を守るためにここへきたのだ。でも父のしたことはまさに本末転倒と行っても言いことなのだ。これでは守りたかったはずの大好きな命はおろか、朝陽のことを温かく迎えてくれた街さえも破壊しかねない。飛行場の建設に反対している疾風や誠也さんを裏切ることにもなる。あの飛行機はただのガラクタだが、もしすごい勢いで落下すれば、破片と火花が散って爆発し、町全体を燃やすかもしれない。それは誰もが望む結末ではない。それを望むのは、黒い太陽の支配者たる、朝陽の父親だけなのである。
朝陽に今できることは、ただ一つ。自分を攻めることでも、自分の父を殴って殺すことでもない。未来を信じることだけだ。
「さっきからまた風が荒くなってきたな。」
手持ち花火を使いきって、花火大会どころではなくなった東郷さんが、弱まった雨の代わりに強まる風に、大きな不安を抱えながら言った。
「朝陽は、自分がこの星にいるからこんな嵐になったんだって言ってた。でも、その朝日がいないはずなのに、どうしてこんなに風が強いんだ。」
東郷さんにはある予想があった。だがその悪い予想だけはかなってほしくないとずっと願っていた。朝陽の父が何か手を回している。そうとしかかんがえられない。朝日が元気に黒い太陽へ旅立ったはずなのに嵐が収まらないのは、きっとこの地球に、さらなる苦しみを与えるためなのだ。いや、この地球にということだけではない。山羅朝陽のことを、この地球に住まわせるきっかけとなった、疾風の初恋の会い手を苦しめるために。
「誠也…!」
強い風の中を、避難所の屋上に向かってかけてくる女性がいた。あすみさんである。
「姉さん、どうした。」
「よくみて。あの飛行機。黒い太陽のマーク…。」
あすみさんは、昔から視力がいいと評判で、黒い太陽にいたころも、まじめに戦闘訓練に参加していれば、操縦士になることができるほどの視力だった。そんな彼女が目にしたのは、黒い太陽のマークの飛行機が、綾瀬の家の近くの丘に、今にも墜落しそうになっているところだった。
「行かなきゃ…。」
疾風は走り出した。走り出すなら今しかないと思った。綾瀬が危ない!地球が危ない!朝陽は疾風に、自分の大好きな人を守るように、自分に託してくれた。自分のために、朝陽のために、そしてこの街の人たちのために、自分が綾瀬を守らなければいけない。
1度だけ思ったことがある。世界で一番のヒーローになれるかもしれないと。もちろんそんなのは誤算で、誰もが否定した。でも今、疾風が綾瀬を守ることで、この街を救えるかもしれないのだ。
空から誰も降ってこない星を作るために。あさひがきれいなこの星を守るために…。
綾瀬がいつも朝日をみている、丘の一番うえの野球場についたとき、空から黄色い閃光が光った。床には大きな地響きがする。雷が鳴り響く。その瞬間…。
東郷兄弟の頭に、黒い太陽の戦闘機が、違う星を撃墜して、爆発した、小山内日の映像がよみがえる。その星にはそんな多くの人類は住んでいなかったという。それもあって、その星は一夜にして全滅した。そのあっけなさが怖くて、小さかった二人はないたものだった。そのあとどれだけ軍隊のお持参やおばさんに叱責され、尻をたたかれ、訓練されたかわからない。子の地球も、きっと黒い太陽の手に落ちたのだ。そうかんがえることでしかこの状況は飲み込めない。そしてその最初の犠牲となるのが…。
床に小さな木星バットが転がっていた。なぜそいつが転がっているのか、疾風にはわからない。そいつを、空に向かって思いっきり構える。こんなことをしてなんとかなるお話なら、誰だってすぐに解決できるかもしれない。でも疾風は感情的に、その木製バットを握りしめていた。
深く深呼吸をする。閃光に向かって振りかざした。
「ナイスバッティング!!!」
太陽を突き破るほどのそのホームランをなんと呼ぶべきか、人は知ることができなかった。でもそのとき疾風はただただ走った。それが現実的にはありえないとしても、これが本当は消えゆく夢みたいな話だとしても、こんな話を馬鹿にする人がいても、自分が打ち抜いた球の先にある愛を、無傷でつかむことだけしか考えていなかった。それがホームランであって、そしてアウトになるシナリオを、今の疾風は思い浮かべていた。
空のうえで壊れた飛行機は、あの日、綾瀬が投げた水晶玉と同じ用に鮮やかに光って、空のうえで大破した。
「誠也、ナイスキャッチ!ちょっとは野球の練習やっててよかったじゃない。」
大破した飛行機から、まさに速球のように落ちてきたその少女を、東郷誠也は疾風よりも先に、その手に収めていた。
「もうすぐやってくるよ。君の好きな人が、汗を流してね。」
綾瀬にはそんな声は聞こえていない。ただただ、さっきまで嘘みたいに雨が降っていた空が、洗い立ての布団みたいに輝いている美しさに驚くしかなかった。あの日、あさひが落ちてきたときにみた雨上がりの空に、それはそっくりだった。
「綾瀬!おい、綾瀬!」
綾瀬が次に目覚めたとき、彼女は汗臭い少年の胸の中に、まるでサインボールみたいに大切に握りしめられていた。
終戦記念日の次の日、何もなかった化のように、街は動き出した。その、「何もなかったような世界」を、人は、日常と呼ぶのだろうか。戦後と呼ぶのだろうか。平和と呼ぶのだろうか。ポストなんちゃらとか、アフターなんちゃらと呼ぶのだろうか。新時代のハジマリと呼ぶのだろうか。新しい季節と呼ぶのだろうか。
昨日までみていた嵐のような空はどこにもない。昨日までそこにあったあのよくわからない夏のかけらは、もうそこにはない。そこにあるのは朝だった。みんなあんなことなんか忘れてしまったみたいに、電車に乗って、仕事に行ったり、海に出かけたり、塾に出かけたり、友達と会う約束をしたりした。それがなんでもないことのように起こる。それがなんでもあることだとしても。
朝顔の花が元気を取り戻したのをみたとき、綾瀬はやっと、自分がちゃんとこの地球で、魂を持って生きていることを実感した。朦朧とした意識の中で彼女を助けてくれた、あの光に感謝しながら…。
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