夏の中

「沖縄の南の海上で発生した超大型の台風は、明後日には東日本を直撃すると予想されています。被害を最小限に食い止めるため、今のうちに一人一人ができる対策を講じてください。」

スマホのテレビから流れるアナウンサーの声は緊迫していた。

夏になればこのくには 毎年この台風に襲われる。それが甚大な被害を生むこともあれば、少しの雨や風で収まることもある。どちらにしても、この国ではごく普通のことだった。

ただし今回の台風は超大型と着ている。その超大型というのがかなり気になるところだと、多くの人は考えるだろう。しかしそれ以上に、台風というものに興味を示し、恐怖を感じる男がいる。もちろんのことそれは、朝陽である。

彼はもちろん台風と言うものを知っていた。黒い太陽に住んでいた頃も、それについて書かれた本を読んだことがあった。しかしそれは彼にとって世界の終わりを意味している。激しく降る雨。司法八方から襲いかかってくる風。そんな

ものが自分の星を、そして自分を襲いかかってきたとしたら、自分は地に足をつけて立っていられるだろうか。魂が削られて壊れていきやしないだろうか。そんな、自分が本当に恐れている台風というやつが、もうすぐこの地球に、今朝陽が住んでいるこの場所にやってくる。その事実を朝陽はしばらく受け入れられなかった。

でも怖がっていてはだめだ。明後日と言えば、朝陽が初めて先発として投げる練習試合がある。隣街の競合野球チームと聞く。もし台風なんかにこの街を占拠されでもしたら、練習試合はおろか、自分の生命すら怪しい。そんなことになってたまるか!と胸を張らなければ、きっとこの世界に雨が降ってしまう。台風が着てしまう。朝陽は太陽を信じた。黒い太陽ではなく、あの空に輝く太陽を。もしあいつが輝いていてさえくれれば、全力で投げることができる。

だから朝陽はマンションの窓から見える太陽に祈り続けた。今のこの街の空は、台風なんかありえないほどに青く輝いている。

ふいに形態が鳴り響いた。もしかして父からだろうかとディスプレイをみたら、市民病院の番号が表示されていた。そういえば、入院を2回して以来朝陽はあの病院を尋ねてはいない。通院をしたほうがいいのかもしれないともおもったが、別に体の具合は悪いわけではない。こないだ黒岩葵が襲いかかってきたときも、疾風がなんとかしてくれたおかげで、発作にまではならなかった。それになぜか朝陽は、病院に行くのには気が進まなかったのである。

ともかくかかってきた電話には出なければいけない。

「もしもし、山羅君?日の出です。」

それは、聞きなれた日の出看護士からの電話だった。確かに聞きなれた声ではあったが、どこかいつもの柔らかい日の出看護士の声ではなかった。

「はい、そうです。」

「よかった。悪いんだけど、このあともし時間があったら、病院に来てくれない?ちょっとお医者さんが顔を見たいそうなの。」

それをすること事態には何も問題はなかった。でも朝陽はなんだか日の出看護士が、診察をする以外の理由で、自分を呼び出しているような気がした。しかも、このあとすぐ来いと言わんばかりの言い方だ。そこまで急を要するなら、こちらから家に出向いて往診したっていいのに。などといろいろ考えてしまったが、断る道理もなかったので、

夕暮れの街を市民病院に向かった。バスを使いたくなかったので、徒歩で25分ぐらいはかかるけれど、駅前までゆっくりと歩いていく。

坂を降りて川沿いの道に、きれいなひまわりの花が咲き乱れていた。黒い太陽には咲いていない、きれいな色の花だ。この花は、この星が夏になると美しく咲くらしいのだ。確かに生き生きとした色をもっていて、生命力や情熱を感じる。ここからとれるはちみつはきっとおいしいのだろうと考えてしまう。

こんな美しい星に来れてよかった。朝陽はそう思いながら坂を下っていく。

病院に来ると、七瀬さんが優しく手招きをした。

やっぱり七瀬さんが朝陽を呼び出したのは、医師が彼を診察したいからではなかった。もっと深刻で、もっと朝陽を悩ませる、そしてもっと衝撃的な理由によるものだった。

「山羅君。着てくれてありがとう。単刀直入に言うわね。あなた、明後日、野球の練習試合があるそうね。」

「な、なんでそれを…。」

朝陽にはいやな予感がしていた。きっとドクターストップをかける気なのだ。七瀬さんは仮にも看護士である。もちろんそれを医師が告げることもできるが、彼女が告げることに意味があるのだろう。もしくは、ドクターストップなんて現実的な話ではないのか。事実朝陽は腕も壊していないし今日朝自主練したときだって不調や違和感は感じなかった。キャプテンや監督も、絶好調だと朝陽をほめたたえていた。それなのに、ドクターストップをかけようというのか。まだなんの診察もしていないのに。

「私の娘が教えてくれたわ。あなたの友達だからね、私の娘。」

朝陽にはわかっていた。綾瀬と七瀬さんは名字が一緒だ。だから、もしかしてとおもっていたのだが、やはりこの日とは綾瀬の母親なのだ。だとしたら余計につらい。この人が何を思って話し掛けているのかが余計に見えない。

「その手前言いづらいのだけれど、その試合は棄権してほしい。」

「いやです!僕は、僕は…。」

「台風が来るからとか、あなたの具合を心配してそう言っているわけではないわ。明後日だけはどうしても外に出ないでほしい。」

「あなたにそんなことを言う権利はないでしょ?あなたは僕の母親じゃないんだから。」

自分の口調がとても失礼でとがっているもののように思えた。いままでたくさん面倒をみてくれたのに、自分が雨の制で発作を起こしたときも献身的に見守ってくれたのに、何より自分の第好きな綾瀬の母親なのに、こんな言い方をしてはいけなかった。でもそれは、この人が優しいから。きっと自分のことをすべて見透かしているとおもったから。だからこんなに強い言い方をした。朝陽はそうおもっている。彼が怒りを込めて叫んだのは、自分が七瀬さんを信頼しているからだ。

だから七瀬さんも言った。

「そうね。私はあなたの母親ではなくて、日の出綾瀬の母親よ。でもね、さっきのセリフは、私が言ったのではなくて、あなたのお母さんがそう言ったのよ。あなたに直接話すことができないから、私を通して、あなたに伝えてる。だとしたらどう?これは私の言葉じゃない。あなたのお母さんの言葉なのよ。」

そんなことは信じられなかった。母は殺されたはずだった。地球生まれの彼女は、その美しさを買われ、ある日突然黒い太陽に誘拐された。そして自分の父である快晴と結婚した。しかしもともと地球生まれである彼女は、黒い太陽で快晴に反逆する行為を行っただけでなく、遊びや芸ずつに興じたりしていた。父の快晴にはそんな彼女の性格が、甘ったれた地球人の生活と受け取れたのだろう。彼は地球を蔑視し、そして黒い太陽の誰も知らない場所で母を殺したと言われていた。

もちろん「殺された」なんて、朝陽に直接告げられることはなかった。でも朝陽はなんとなくわかったのだ。自分の母はもう手の届かないところに行った。それはきっと殺されただけなのだと。それは朝陽がまだ5歳のときだった。それ以来、朝陽の周りには平和なんて言葉は存在しなかった。母の存在はぬくもりの、愛の、平和の象徴だったのに。

「あなたのお母さんが今どこにいるのか私には言えない。でも私はあなたのお母さんと約束したの。あなたを守らなければならないって。あなたがこの地球に逃げてきた以上、私はあなたを守る義務がある。だからあなたと綾瀬と同じアパートに住まわせたの。そしたらあなたは地球の生活を楽しそうに過ごしていて、綾瀬とも仲よくしてくれて…。日向(ヒナタ)が言うように、本当にあなたはいい子なのね。本当にありがとう。だからあなたには、これからもこの星で生きていてほしいの。だから行かないで!明後日この星に、少なくともこの街に、あなたのお父さんが来るから…!」

涙ぐむ七瀬さんの言葉は、きっと真実なのだろう。なぜ自分がなんの手続きややりとりもなく、突然入居先が決まったのか、そしてなぜ七瀬さんが何でも知っているような顔をしていたのか、ななせさんの話でやっとつじつまが合ったわけだ。彼女の話から疑うべきことなんか一つもないはずなのだ。

でも、やっぱり朝陽はあきらめたくなかったのだ。たとえこの人が真実を言っていても、もし明後日本当に快晴が自分を追いかけてきたとしても、それならば朝陽は父と向き合って、自分がこの星で生きて行こうとする強さを証明したかった。

「あの…。七瀬さんは、黒い太陽の人間なんですか?」

「違うわ。私はこのあさひがきれいな星で生まれ、これからもここで生きて行くつもりよ。でもね、私は日向の友人よ。あなたに話せるのはそれだけ。だからお願いよ!明後日は家にいてね!」

朝陽は、わかりました、とだけ行って、病院の応接室を後にした。でも、ドアを閉める前に、ずっと椅子に坐っている七瀬さんに言った。

「もしすべて落ち着いたら、僕は母にあえますか?」

「ええ、いつかね。」

朝陽は今度こそドアを閉めようとしたけれど、もう一つだけ、どうしても聞きたいことがあったので聞いてみた。

「あ、最後に一つだけ。もし僕が綾瀬さんを好きだと言っても、七瀬さんは許してくれますか?」

七瀬さんは、やっと笑顔を見せてくれた。

「もちろんよ。ゆるすもなにも、好きになってくれてうれしいわ。」

朝陽は帰った後も、七瀬はしばらく応接室から出ることができなかった。朝陽に言った言葉は本当に正しかったのかわからなかったからだ。朝陽は日向に似てとてもやさしい。でもそれ以上にこの星を愛しすぎている。この星を愛すると言うことは、自分が昔いたはずの星を心から消すことを意味している。愛と排除は裏返しなのだからしょうがない。でもきっと彼らは、心の中から地球も黒い太陽も捨て去ることが、まだ完全にはできていないのかもしれない。きっと朝陽は、明後日自分の父と向き合うために、もし台風が着ても、外に出るだろう。そうだとしても、自分のような部外者が口を出すことはできない。そのはずなのに、朝陽と日向を守りたいという気もちだけが、胸の中をくすぐる。きっと綾瀬もそうなのだろう。だからいつも家に帰れば朝陽の話ばかりする。自分の話はほとんどしないくせに、朝顔の花びらみたいに夏の空から落ちてきた彼の話はいつもたくさんするのだ。それは朝陽が好きだから、朝陽を守りたいと思うからだ。

七瀬が家に帰ると、珍しくピアノの音が響いていた。七瀬と綾瀬のマンションでは、ピアノを弾くのは10時までと決まっていた。あと30分で10時になってしまうという時間だった。綾瀬はそんな夜にピアノの練習なんかしない。そもそも七瀬は最近、綾瀬のピアノをちゃんと聞いてやっていただろうか。

久しぶりにまじめに聞く綾瀬のピアノは、耳の奥から少しずつ体の奥にしみわたっていく。まるで、澄んだ音の水が少しずつしみわたっていくみたいに。病院の1日の仕事や、熱帯夜から噴き出す強い風で体の汗が最高潮に達していた。でもそんな

汗を、まるでエアコンなんかついていないのに、一瞬にして体中を洗い流してくれる。自分の娘にもこんなピアノが弾けるのか。彼女にはそんな意識はきっとないのだろう。ただピアノの練習をしているだけなのだろう。でもそんなささいな音が、ベランダに植えてある朝顔に水を挙げるのと同じように、七瀬の心を癒している。

綾瀬は今もそうだが、小さい頃は特に体が弱かった。運動をするとすぐに倒れてしまったり、熱い夏の日に少し外で遊んだだけで熱中症になるような子だった。ほこりまみれの場所や空気の悪い場所ではすぐに喘息を起こした。そんな娘をなんとかするためにも、自分は看護士としての仕事を続けた。だからいつも七瀬の中にいる綾瀬は、体が弱く、自分の病院にかつぎこまれる、そんな綾瀬だった。でも今ピアノの椅子に坐っている綾瀬は、もうそんな子供ではない、りりしい少女としてそこに存在している。

でもやっぱり綾瀬は自分の娘だだからどうしても親としての自分が体から飛び出して綾瀬を止めようとする。もうそんな子供ではないのに。綾瀬が自分の娘なのは変わらないけれど、もう綾瀬は自分が思う娘ではないのだ。

「ちょっと綾瀬!あんた何やってんのよ!窓も閉めきってエアコンもつけないでずっとピアノを引いてるなんて…!倒れたらどうするの?」

言われたほうの綾瀬は自分でも気づかなかった。あまりにもピアノをすることに没入していたのだ。熱中するつもりがなかったといえば嘘になる。なぜ自分が熱中したのかを、母親に説明できるほど、綾瀬の心はまだ準備ができていなかった。でも説明するなら今しかないということも、綾瀬には同じぐらいわかっていた。

「いや…ちょっとね。どうしても今弾きたくて。弾いてたら楽しくなっちゃったの。ごめんね、心配かけて。」

七瀬の言葉を借りれば、ピアノが風邪を引かないために、ピアノをそっと閉めて、エアコンのリモコンを探しに行く。

「ねえ、綾瀬…。」

七瀬は自分の言うべきことを、いまさらながらに探している。この数週間、今までもそうだったが、自分は綾瀬に隠しごとをしてきた。だから綾瀬も今何かを隠している。だからそれを攻めることはできない。七瀬がなぜ朝陽と綾瀬を同じマンションに住まわせたのか、最初の頃、どうして綾瀬に、朝陽の病状を伝えようとしなかったのか。朝陽の出自を知っていて、どうしてそれを綾瀬に伝えなかったのか。すべて七瀬朝陽を守るために行ったことである。でもそうすればするほど、綾瀬は朝陽に近づいていき、今では二人はきっとよい友人になってしまっている。今こそ自分が話せることを話す必要がある。

「何、母さん。」

「私…。あなたに言わなきゃいけないことがあるの。朝陽君はね…。」

「知ってるよ。母さんがどうして私に朝陽君のことを隠してたのか。私、全部朝陽くんのお母さんから聞いたんだ。」

「あなた、日向と会ったの?」

ナナセは、どうして綾瀬が朝陽の母を知っているのかがさっぱり検討のつかない話だった。朝陽の母である日向は、自分が生きていることを誰かに知られたら、本当に殺されてしまうからと、ずっとナナセにもかくしているよう言っていたのに、どうしてそれを綾瀬は見破ることができたのか。それとも、もしかして、自ら綾瀬に自分のことを名乗ったのか。

「さっき会ったよ。神原さんと。」

綾瀬はそのときの話をゆっくりとはじめた。

綾瀬は駅前で買い物をしていた。駅前の広場では、明後日花火大会が行われるからという放送が流れていた。ゆっくりとバス停に向かっていたとき、買い物袋を下げた私服の神原さんを見つけた。

「神原さん?」

綾瀬が声をかけると、神原さんはよっぽど驚いたのか、手にもっていた買い物袋を落としそうになった。

「あら、綾瀬ちゃんじゃない。今帰りなの?」

「そうなんです。神原さんもですか?っていうか私服の神原さんってなんか新鮮ですね。」

「そう?まあ今日は休みをとらせてもらってたから。」

神原さんの作ったような笑顔が気になって、綾瀬は自然と顔を除きこむ。

「神原さん、なんかつかれてません?」

そんなことをいうつもりはなかった。別に顔を除きこむだけにしておこうとおもったのだ。でもそう言ってしまったからには、きちんとこの話を続けなくてはなるまい。

「何もないわよ。」

神原さんはそれだけ小さく言った。

綾瀬はそこで少し実験をしてみることにした。

「ですよね。じゃあ私はこれで…。」

やっぱり神原さんは何か話したいことがあったのだ。

「待って!綾瀬ちゃん!話があるの。」

神原さんと二人きりで話をしたことはいままでほとんどない。母と仲がいいということぐらいしか、この人について綾瀬は知らなかった。

「ありがとう、朝陽を守ってくれて。」

今度は綾瀬が買い物袋を落としかける番だった。

「そうよね。驚くのも無理はないわよね。私は最低な母親だから。息子のことを黒い太陽に捨てて、権力者から逃げることだけでしか抵抗することができないなんて。どれだけ償っても、朝陽にわびることはできないし、もし直接わびようものなら、私の命は奪われてしまう。」

涙を落とす神原さんはそのまま話を続けた。

「あなたは七瀬と同じことをした。同じことをしてくれたわ。私も空から落ちてきたとき、七瀬が拾ってくれたのよ。だから私はあなたをとても信頼している。これからも朝陽をよろしくね。」

神原さんは、このままだとまるで朝陽に会わないまま、どこか遠くへ消えてしまうような言い方だ。朝陽に会いたいのに、朝陽を守るため、そして自分の命を守るために、彼女は最大限に努力している。神原さんと自分の母親は、神原さんが何らかの理由でこの星に来たときからの付き合いであって、二人は朝陽が落ちてきたその日から、全力で彼を守るという固いきずなの元で動いていた。その中に綾瀬も組み込まれていたのだ。

でもそんな二人の作為的なきずななんかなくても、綾瀬は朝陽を守ると誓った。綾瀬は朝陽が好きだった。だから神原さんにも、母親として、息子が明るさを取り戻して生きている様子を、この目でみてほしかった。

「神原さん。本当は元気な朝陽君に会いたいんでしょ?病院に入院した朝陽くんじゃなくて、元気に生きているはずの彼に。」

神原さんは複雑な表情になる。そんなことをいきなり言われて答えられるわけがないと綾瀬にもわかっていたのに、つい聞いてしまっていた。

「本当は、なんてそんなのはないのよ。白衣を着ないで、マスクも外した、看護師としての私ではない私が朝陽の前に現れたら、きっと彼は、私と一緒に黒い太陽に帰ると言いだすか、もしくは地球で一緒に住もうと言いだすに決まっている。そんなことをしたら、彼は黒い太陽からの追っ手に殺されるわ。ただでさえ、無断で星を飛び出してきたのも大罪だというのに、無法者私と一緒にいることがしれたら、彼の人生に、魂に傷がつく。そんなことはできない。」

「息子の魂に傷をつけないなら、じぶんにうそをついてもいいんですね。私はそんなの、つらくてできない。」

気づけば綾瀬の目からも涙があふれていた。綾瀬は今、とにかく神原さんに知ってほしかったのだ。朝陽は彼女が思うよりもずっと明るくて、楽しくて、元気な夏を過ごしているんだと言うことを。

「あなたは黒い太陽の事情を何もわかっていないのね。でもわかっていないからこそ、あなたは優しい。そうよ、私は元気な朝陽に会いたい。嘘なんかつかなくて言い奈良、今すぐに。」

綾瀬は決意した。神原さんは正直になってくれた。それなら自分も、今この現実を変えるために、母親に正直になろうと決めた。

「私こそ、母さんに言わなきゃいけないことがあるんだ。私ね、ドイツへの留学が決まったの。10月から半年間。隠して手ごめんなさい。でも私は、もう母さんが思ってるような、すぐに倒れちゃうような人間じゃないから。言っていいでしょ?ドイツ。」

綾瀬は、別に母に認めてもらいたくてそんなことは言わなかった。ただ正直な自分を母にもわかってほしくてそう言った。これ以上本当の自分を隠しても、何も解決しないし、前に進むとおもっていたはずのものも逆に後ろにしか進まないように思えるのだ。前に進むためには正直になる必要がある。

「むしろ私のほうが謝るべきなのに…。隠させてごめんなさい。あなたはずっと、私の知らないところで頑張ってたのよね。それをずっと認めてやれなかったのは、私があなたを見ないふりをしていたから。言ってらっしゃい、ドイツに。あなたは私の太陽なんだから、輝いてらっしゃい。」

「君は二人の太陽難だから。」

この間東郷さんが言った言葉が、七瀬の言葉と重なって、耳に響く。太陽になんか簡単になれないのに、どうしてみんな、そんな高い目標みたいなことを、無意識に、無秩序に、無責任に私に投げつけるのか。綾瀬にはそれがわからなかった。

でも今確かに七瀬は、綾瀬の留学を承諾した。いままでずっと、世界にはばたくことを応援してくれなかった七瀬が、綾瀬の巣立ちを祝福してくれている。

もう何も思い残すことも、既往こともない。10月になったら、何も考えずにドイツに行って、母が言うように、誠也さんがそう言ったように、太陽になって輝いてくればいいのだ。そう思うと、肩にのしかかっていた、自分もよくわからない重いものがすっかり取れてしまった。

「あ、そうだ。明後日、パパが帰ってくるみたいよ。今回は長い休みが取れそうだから、しばらく日本にいるみたい。」

久しぶりに母から、当たり前の家族のような言葉をかけられた。それがあまりにも久しぶりすぎて、それがあまりにも非日常的すぎて、それがあまりにも美しすぎて、綾瀬はその日、久しぶりに、母の胸の中でないた。別に自分は父親のことをとても好きではない。父親が帰ってこないからと突然寂しくなって鬼電をしたりはしない。父親がいない夜が怖いなんて思ったことはない。父親のことを、心の中で大切で消えてほしくない存在だと意識的に思ったことなんかほとんどない。でも綾瀬はこのときやっと気づいた。自分は案外毎晩家に誰もいない中で、一人で食べる有ご飯や、父のいない空っぽの書斎や、しばらくこがれていない父の青い自転車をみるたびにおもっていた。いつか父も死んで、母も死んで、そして愛する人が死んでしまったら、自分は今と同じように、いや、今よりずっと孤独なままで、一人で生きて行かなければいけないと。それは必然であり、現実であるのに、それでもやっぱり受け入れたくない。それはとても悲しい。今まではそう思わないようにしていた。いままではそれに目をつむっていた。でもそんなことはもうできないんだ。母の胸の中でないている間、自分は確かにまだ一人で生きられない弱い存在なのだと認識させられる。

その日、綾瀬はふろから上がってベッドに横になろうとしたとき、突然よくわからない悪寒に襲われた。実は、さっき七瀬が帰ってくる直前まで、咳が急に止まらなくなることがあった。もしかして、こんなときに夏風邪を引いてしまったのだろうか。せっかく母にドイツ行きを承諾してもらって、これからまた残りの夏休み、必死にピアノに打ち込もうと思った矢先である。悪寒が走ることなんて、よくあるから、きっと一晩寝れば治ると思って、綾瀬は横になった。

しかし、朝起きても、昨日と変わらず、悪寒が走った。鼻詰まりが昨日よりひどくなっているような気もする。しかし、こういうのは病は気からとも言う。なるべく意識しないように今日1日を過ごせば、病気のほうからどこかへ逃げて行ってくれるはずだと思って、いつもと同じように起き上がる。

そして、いつものように起きて朝陽の観察に出かける。

岡の上に上る朝日は、いつもと同じようにに美しく、この世界に朝を告げていく。でも、今日はどこかその朝日が、いつもよりまぶしく、そしていつもより不気味な光を放っているように思った。自分の具合がけっしてよくないからそう思うだけかもしれない。いずれにせよ、いつもとどう違うのかを説明することは非常に困難だが、ただ一つ言えることは、そんなふうに輝く朝日が見えるはずなのに、空のどこか遠くに、不気味な雲をを見つけてしまったのだ。その雲が綾瀬に笑いかける。そして気づかせてくれる。もしもうこの朝陽を、明日見られないとしたら、今私はどうすればいいのかと。

いつもそんなことはしないのに、ポケットに入っていたスマホで、その不気味な雲も一緒に写真をとってみた。こんなことをしたくなったのは、ほんとうに今日何かが怒るという予兆なのだろうか。

家に帰ってベランダの朝顔に水をやる。これもよくあることだった。小学生の観察にっ気でもないのに朝顔を育てたいと言ったのは自分なのだら。

でもその日、ベランダに出た綾瀬はかなり衝撃的な光景を目にする。

昨日までなんともなく花を咲かせていた朝顔が、すっかり今日はほとんどかれてしまったのである。枯れずに咲いている朝顔はただ1輪だけだった。

自分の育て方が悪かったのだろうか。ちゃんと水も挙げたし、日当たりの言いところで育てていたはずだし、土だって定期的に変えている。寝草りしてかれたとは思えない。しかも昨日まであんなにきれいに咲いていたのに、なんの徴候もなく、こんなに一気に枯れるなんて絶対何か不思議な力が働いたとしか思えない。

別にだからといって綾瀬は泣いたり、怒ったりしなかった。というより、そんなことができない勘定に襲われた。つまり綾瀬の中に、冷たい恐れが湧き上がってきたのだ。

「おはよう、どうしたの?ベランダに津っ経ったりなんかして。」

後ろをみると、母が立っていた。まだ病院に出勤していなかったらしい。

「いや、私の朝顔が、なんか一気にかれちゃったみたいで…。」

言葉にすると全然大したことがないみたいに聞こえるけれど、綾瀬にとってこれは久しぶりの、朝陽が空から落ちてきた日以来の大事件かもしれない。

案の定母は何でもないことみたいに笑う。

「たぶん水の管理が悪かったのよ。残念だけど。とにかく私、もう行くからね。」

母にとってこれが大したことに入らないのはなんとなくわかるし、それを攻める道理はない。ただ、よくわからないそれに絡まれている自分のことが、綾瀬はどうも気になっていたのだ。きっとこれも、昨夜から私を襲っている変な病気のせいだ。深呼吸をしてそいつを振り払うように、日課のラジオ体操に出かける。ラジオ体操をしているときは、ほかの子供たちやお年寄りと同じように、きちんと体が動く。命が息づいている証拠だ。病気なんか関係ない。鼻詰まりがひどくなったのも関係ない。綾瀬は、心の中から、いやな予感や病気のかけらを払いのけることを、腕を回したり足を延ばしたり、声を上げることよりも頑張った。

ご飯を食べ終えて、気晴らしにピアノでも弾こうとおもったのだが、やはりどうにも気分が乗らない。不思議と、こんな狭い室内にいるより、広くて輝く太陽の下で走りたいとおもっている自分に気づく。でも、いったどころでどんなことをしようか。一人で走ってもいいけれど、なんだかそれもそれで寂しいような気がする。誰かと一緒に走ったり遊んだりするなら、誰と一緒にそうしようか…。

綾瀬は部屋を勢いよく飛び出す。その前に、うごきやすい服装に着替えることも忘れなかった。会談をかけ降りて岡野上まで走る。

野球場ではすでに二人の少年が、キャッチボールをしていた。

「台風来るみたいですね。明後日の花火大会、大丈夫ですかね。」

疾風がスマホの天気予報をみながら、隣で書類の整理をする東郷さんに尋ねた。東郷さんは苦い顔になる。

「天気にすら見放されたらかなりたちなおるのに時間がかかりそうだな。この花火大会わ一番いろんな人の目を引くし、手を打ちやすいんだけどな。」

東郷さんがこの花火大会で、飛行場建設反対を訴えたいと言う思いは切実だった。朝陽がこの地球にやってきてしまった以上、黒い太陽がこの地球を攻撃対象とするのは時間の問題だ。せめて地球が攻撃されるまでに、自分のやるべきことだけは済ませたい。それが東郷さんの願いだった。だから、たとえ地球が黒い太陽の熱風に焼かれても、その前にこの星には、この街には平和を守ってほしいのだ。疾風にはその思いが痛いほど伝わってくる。

「大丈夫です。東郷さんは黒い太陽で生まれたんですから、きっと晴れますよ。」

疾風は、周りに聞こえないように小さな声でそう言った。東郷さんはまたため息をつく。

「おれは太陽が信じられない。おれの知っている太陽は黒い太陽だけだから。おれは本当の太陽なんか、ほとんどみたことがないんだよ。」

東郷さんはそれだけ言うとその話をガラッと変えるように、周りに仕事の支持を出す。

「明後日花火大会があるかはまだわからないけど、あると仮定して動いてほしい。平和の花火が打ち上げられるときに流す写真はもうそろってるか?」

などといろいろと手はずを組み始める。でも疾風だけが、心の中でどうも心配な思いを抱え続けていた。疾風にとってもこの花火大会は大事な時間になるはずなのだ。自分はいろいろと次世代平和の会の人間として仕事があると言うのに、好きだからというそれだけの理由で、綾瀬を花火大会に誘ってしまった。自信がないわけではないし、ちゃんと綾瀬にきれいな花火を見せてやりたいと思う。そして願わくば、綾瀬も一緒にこの平和の大切さを訴えてほしい。東郷さんのことや黒い太陽のことをもし知っているなら、この地球が戦争に向かっていくかもしれないこの状況を一緒に止めようとしてくれるはずだ。だからそのためにも、綾瀬を花火大会につれて行きたかった。でもそれが台風なんぞにやられてしまったら、いったいどんなふうにして綾瀬を振り向かせていいか疾風にはわからない。そして東郷さんの落ち込んだ顔も見たくなかった。別に自分が台風を止める力なんかないのは知っているけれど、もしそんな力があるなら使ってみたいと思うほどに、疾風は花火大会の開催について心配せざるを得なかった。

「どうした?うかない顔して。もしかしてつかれてる?」

東郷さんが、帰り支度をする疾風に声をかける。

「いや…。ちょっと花火大会のことが心配で。」

「心配してもしょうがないだろ?とにかく天を運に任せるしかないよ。」

「運を天に任せる」と言いたかったのかと、疾風はやっと笑顔になる。

「でもおれは…。綾瀬を誘っちゃったんですよ、明後日の花火大会。」

「綾瀬…。ああ。」

すべてを察したみたいに東郷さんも笑う。そういえば東郷さんに恋愛の相談をしたことがないのを、疾風はいまさらながらに気づく。

「あすみの教え子であって、君の初恋の相手だろ?」

あまりにも的確な説明に、逆に疾風は驚く。

「な、なんでそうなるんすか。っていうかなんでそんなこと…。」

自分がそんなにどぎまぎしなくても、きっと東郷さんならすぐに気づいてしまうと自分でもわかっているつもりだった。それは東郷さんが、特別違う星から来た、感の鋭い男だからではない。東郷さんはあの日、まだ小さかった綾瀬のことを助けてくれた。そしてその横には、まだ小さかった頃の自分がいた。それをちゃんと彼が覚えているのなら、きっと彼は気づいてしまう。レオがただの不器用な人間で、やすやすと朝陽なんかに綾瀬をとられてしまいかねないということを。

「しゃんとしなよ、谷口君。」

東郷さんは、少し痛いぐらいの強さで肩をたたいた。

「君は綾瀬ちゃんが好きなんだろ?それなら、ちゃんとその気もちを伝えられなきゃ、朝陽には勝てないぞ。なんてったってあいつは、頭脳明晰だしスポーツもできるし、一人で料理もできる。そういうところでは君は彼には勝てないかもしれない。でもその強い気もちだけは、きっと君は朝陽に勝てるよ。朝陽は人を愛することには、まだ慣れていないから。それほどに彼の心は、この星に来るまではずっと冷たくて、ボロボロにされていたんだよ。」

東郷さんの最後の言葉は、どこか自分のすごい遠いところから聞こえたように思えた。

いい加減腹をくくらなければいけないことはわかっている。花火大会の日が近づけば近づくほど、疾風はなるべく綾瀬と顔を合わせないように、街を歩くときも周りを見回すようになった。きっと花火大会より前に彼女に顔を合わせたら、脈が高鳴って前にすら進めなくなってしまうだろうから。

朝陽は、綾瀬のことを実際どうおもっているのだろう。東郷さんの言葉を思い出しながら眠りにつこうとしたとき、疾風はふとそんなことが気になった。もし朝陽も本当に綾瀬のことが好きなら、いままでのように親友面だけをして生きていくことはできない。いくら自分が仲のよい友人だとおもっていても、結局のところ彼とはライバルにならざるを得ないからだ。その事実を受け止めて初めて、疾風は朝陽を倒せる。眠れない眼の中には絶えず、楽しそうに朝陽を眺めている綾瀬の顔が浮かぶ。自分だっていつか、綾瀬と手をつなぎながら朝を迎えられたらきっともっと幸せな気持ちになれるはずだ。

だから次の日、疾風は最近なまっている心と体を改めるためにも、日の出から少し経った街へ繰り出して走った。夏の朝とはいえ、川沿いの道は涼しい風が吹いていてみんなどこか平和そうに歩く。その中を疾風は、昔と同じように走る。昔と言っても、つい夏休み前まで、つまり朝陽が落ちてくる前までの間そうしていたのと何も変わらないことをしていた。それなのに、今自分ははるか昔の自分を背負って走っているように思える。

「あら、疾風くんんじゃない。今日もお疲れさま。」

川沿いの古い民家に住むいつもの老婦人が、ついこの前までと同じようにやさしく手を振る。この前までのことのはずなのに、まるで自分の前の人生を生きているようだった。きっとこんなふうに、全力で生きていた自分が、今も綾瀬の心の中で生きているはずなのだ。野球をやめた自分なんか、綾瀬はきっと見ようともしないだろう。

「あ、疾風君。珍しい。朝ラン?」

ふと横をみると、綾瀬が今恋をしているかもしれない朝陽の姿があった。きっと彼のほうがずっときれいなフォームで走れてきっと彼の方が早く走れて、きっと彼の方がずっと遠くまで走れるんだろう。でもきっと…。

「綾瀬ちゃんを好きだって気もちは、きっと勝てると思うよ。」

東郷さんの言葉が頭で響く。かれがどれだけ走れるかなんて、かれがどれだけきれいに走れるかなんて、今の疾風には関係ないはずなのに、やはり彼のいいところだけが目につく。やっぱり彼が綾瀬の心のどこかに住んでいるような気分になる。

「そうだけど。久しぶりに走ろうとおもったんだよ。」

「なるほどね。今からおれ、野球場で自主練するけど、付き合ってくれないか?」

彼の呼吸が心なしか荒くなる。気にしすぎなのかもしれないが、彼は確かに何か焦っているように思えた。

しかも彼はさりげなく、疾風に声をかけてきた。一緒に野球をやれと言う。これはもしかすると、自分に助けを乞うているのだろうか。それとも自分と本当に野球がやりたいからそんなことを言うのだろうか。

いずれにしても疾風は確認したいことがあった。あの日どうして、自分からヒットをとるような玉を投げたのか。

まぶしい太陽の下、全力で力投する朝陽の玉は、やはり疾風を奮い立たせた。キャッチャーミットをかぶって、全力でキャッチボールをしてみる。こんな球を自分が打てたことが信じられない。やっぱり朝陽はあのとき、疾風の気もちに気づいて、球速をゆっくりにしたのか。もしくは球種を変えたのか。

「なあ、朝陽。」

全力で投げ込んでくる朝陽に、疾風は言葉をかける。

「おまえさあ、綾瀬のこと、どう思ってんの?」

朝陽の球速が弱くなる。やっぱり自分と同じだと疾風は気づく。こいつの弱みであり、こいつの希望は綾瀬なのだ。それは疾風も同じだ。あいつがいるから野球を頑張ろうとおもった。あいつに振り向いてほしいからかっこいいところを見せようとおもってあがいてみたりした。自分のためだけに野球をやったり生きていくのは、実はつらいし孤独になる。だからこそ隣に綾瀬がいてほしいと思う。でもあいつのことを考えれば、気が緩むし胸が苦しくなるし、何より前が見えなくなる。自分の現実がかすんで見える。ただ熱かったはずの夏がもっと熱くなる。美しいはずの朝陽がもっと美しくなる。

「好きに決まってるだろ?僕のことをこの地球で拾ってくれた、大切なやつだよ。」

彼は自分のライバルだ。だから負けるわけには行かない。でも、それ以上に、彼は同じ気持ちを共有して、一緒に同じ方向を向いて走る中までもある。そう思ったからこそ、彼には正々堂々と勝負を仕掛けてほしかった。

「おれをなめるなよ、朝陽。おれは本気だ。おれは本気で綾瀬のことが好きなんだからな。」

「馬鹿。僕だって本気であいつが好きだよ。だから…。」

朝陽がそう言おうとしたとき、一人の少女が、みなれないジャージーを着て走ってきた。

「二人とも!」

二人の手が止まる。二人が今しがたひたすらに話をしていた彼女が、今そこにいたのだ。

「綾瀬…。なんでおまえ…。」

「なんか朝からいやなことあったから、ちょっと運動したくなったんだ。私も混ぜてよ、キャッチボール。」

二人はお互いに迷う。綾瀬がそばにいたら思うようにボールがコントロールできないような気がするし、思うように体が動けないような気がする。でも今綾瀬が加わることを断ったら、綾瀬のことが嫌いなんだと思われかねない。二人ともまだ、お互いに腹をくくれていないのだ。

「よし、やろう。じゃあポジションはどうする?」

先に無理やり気合を奮い立たせたのは朝陽だった。疾風もあわててギアを入れ替える。

「じゃあおれが投げる。」

「え?疾風君が投げるの?」

「悪いかよ。おれはもともとピッチャー出身難だ。おまえよりいい球を投げてやるよ。それで明日おまえが投げられないぐらいに精神的にへこませてやるよ。」

朝陽は少し困った顔になったが、急に綾瀬の肩をたたいた。

「じゃあ綾瀬。君が打つんだ。僕が守るから。」

「え?あたしがバッター…。」

綾瀬の予想だにしない展開に、体が震える。最近疾風がどれだけ早い球を投げられるのかは知らないが、ぜったいに疾風の投げる球を打ちぬくことなんかできない。何回も空振りをして、日差しの下で守っている朝陽を退屈させてしまうかもしれない。っそれでもきっと朝は、そして疾風は、自分の打ちぬいた球を見たいのだろう。

「よし。そうと決まればやるぞ。」

綾瀬は純粋にうれしかった。こんなに笑顔でマウンドに立つ疾風のことをまたみることができるなんて思えなかったからだ。

疾風が次世代平和の会の懇親会で酒を飲まされて病院に運ばれた日、綾瀬は朝陽から疾風のことについていろいろと聞いていた。

「野球をやめて、なんか飛行場の建設に反対する団体に入ろうと思ったんだけど、そこでちょっとしたトラブルに巻き込まれて、病院送りになっちゃったらしいよ。なんかわからないけどかなりへこんじゃってるみたい。でも君は疾風の幼馴染なんだろ。それならきっと助けて挙げられるはずだ。」

野球をやめないでほしかった。今も綾瀬の心の中にいる疾風は、野球棒を被って、全身を真っ黒に焼いてバットを握る…そう、朝陽のような存在が疾風だった。

「行くぞ!」

疾風が久しぶりに投げた1球はなかなかに早く、綾瀬がとらえられる早さのものではなかった。

「おれはおまえが綾瀬だからって手加減しないからな。」

綾瀬には手加減なんか不要だった。疾風が笑顔で野球をしてさえくれれば、心の中の疾風が生き返って、今の疾風に変わっていく姿ががみられるのだから。

2球目。綾瀬は深呼吸をして、今度こそ球が当たるようにと願いを込めて振り上げる。すると、かすかにバットに球があたった。

「やるじゃん。じゃあ最後の1球で決めさせてもらうぜ。」

綾瀬は、自分が疾風の玉を打ち上げて、勢いよく走る自分を創造した。向うでは朝陽が、球が自分に飛んでくるのを今か今かと待っている。朝陽だって守るだけじゃなくて、早く撃ったり投げたりしたいはずだ。あんな夏の太陽の下で、ずっと守ってばかりじゃつまらないだろう。でも、だからこそ少しでも、強い打球を戸はして、朝陽も、そして疾風も驚かしてやりたかった。自分はエアコンの効いた部屋でピアノだけを引いている人間じゃなくて、ちゃんと太陽の下でも生きていける人間なんだって思い知らせてやりたかった。思いっきりバットを振り上げる。

見慣れた疾風のボールが飛んでくる。深呼吸をする。夏の空に小さな光の球が浮き上がる。そう、朝陽が空から落ちてきたときにみたあの球にも似たまばゆい光の渦が、少しずつ綾瀬に近づく。

快音が野球場に響いた。それが何かの始まりのように、綾瀬ははじかれたようにバットを置いて走る。どこまでも走れるような気がした。朝陽があわてる。疾風が唖然と球の飛んでいった方向をみる。まるで、自分の打ち砕かれた恋を探すように。

でも、綾瀬はどこまでも走れるなんて、そんなことは自分が勝手に妄想しただけの小さな出来事にすぎないと知った。

気づけば綾瀬は思いっきり転んでしまっていた。そこは土と芝生の境目のようなところで

ちょっとした段差のあるところだったのだが、普通の人が慎重に歩いていれば転ぶようなところではない。別に綾瀬だって普通の人かもしれない。でもそのときの綾瀬は、その段差にすら気づくことができなかった。

「おい、綾瀬。大丈夫か。そんなところまで走るからだろ?ヒットを打ったらベースを踏めばいいんだよ。おまえ、おれと昔野球ごっこやってたじゃねえかよ。」

疾風は、まるで綾瀬が一瞬死んでしまったんじゃないかと思えるほど心配だった。だから綾瀬が難の傷もなく立ち上がったことで、心の中に音もなく押し寄せる安堵に包まれていた。

「ごめん…。だって、疾風が久しぶりに野球やってる姿が見られたから。ついうれしくなっちゃったんだ。」

心配している疾風とは対象的に、朝陽は大笑いしていた。

「やっぱ綾瀬はまっすぐだな。そういうところ、すごく尊敬するよ。」

「どういういみよ、それ。」

複雑な表情になる3人を、美しい太陽が照らしている。そのせいもあってか、綾瀬の顔が少しだけ赤いことを、朝陽は知っていた。きっと誰かに恋をして、そんな燃えるような笑顔を見せているんだなと、それだけしかおもっていなかった。

「チームのみんな、まだこないのかな?」

「確かに、もうすぐ時間なのに…。」

「まあいいんじゃない?もうちょっと野球やってこうぜ。」

疾風がそう言ったのは、自分が好きな女の子に、手加減をしないと言ったくせに、全然まともに投げることができなかったあの球が許せなかったからだ。だから、もうちょっと綾瀬と一緒にいる自分を試してみたかった。そんな変な言い方をせずとも、彼の心情を表すことは簡単で、ただ単に、綾瀬と一緒にいたかった。朝陽なんかと一緒にいるよりも、自分と一緒にいた方が、綾瀬はきっと輝ける。そんな嘘みたいな言説を証明したかった。

「おまえさあ…。」

ふとみると、後ろに監督が立っていた。

「好きな子がいないと全力で野球をやらないなんて、スポーツ選手失格だな。」

監督は疾風の肩を強くたたく。

「ごめんなさい、勝手に朝陽を疲れさせちゃったりして…。」

そうは言ってみるものの、疾風には反省なんかまったくなかった。だって、監督に難と言われようと、今の疾風はただ楽しいのだから。

「そんなに生き生きと球を投げてるおまえをみたのは久しぶりだぜ。きょう1日、ここから返さねえからな。」

監督のその笑顔を疾風は忘れられなかった。いつも起こってばかりの監督が、今日は疾風に笑顔を向けてくれた。いつも「うれしい」なんて言葉を、疾風にかけてくれることなんかなかった。明日が花火大会だということと、夕方から最終ミーティングがあることなんか忘れて、彼は朝陽の練習試合前の練習に、一人のチームメイトとして付き添った。そしてそれは、綾瀬も巻き添えを食らうことになった。

「お嬢さん。うちの元エースからのリクエストなんですよ。こいつと一緒に、今日1日野球をやってもらえませんか?」

綾瀬の胸は、いろいろな意味でどきどきする。これは野球ごっこではなくて本当の野球だ。そんなものを自分ができるのかまったくわからない。本気になった疾風や朝陽に自分が太刀打ちできないことも知っている。それなのにこの人は、疾風のリクエストだからと、一緒に野球をやってくれないかと願っている。疾風のリクエスト、と言われるとやっぱり綾瀬は弱い。自分の実力や体に鞭打ってでも、綾瀬は彼らと野球をやることに決めた。そしてきっとこれは、朝陽のためにもなると信じていた。こんなふうに、気心知れた仲間たちと全力で野球ができることは、彼がこの地球に落ちてきたからこそ得ることのできた、夏休みで最高の思い出になるはずだ。

でも結局綾瀬は球拾いやマネージャーの仕事を任されるだけになっていた。だが綾瀬にはこれでちょうどよかった。昨日ネル前に一瞬感じた悪寒なんて、そのとき綾瀬の体らは消えていた。自分の周りには男しかいないし、みんな自分よりも運動になれている人間ばかりだ。あちこち泥だらけになって、あちこち傷だらけになって、あちこちを黒く焼いて、彼らは夏の中にいた。そして綾瀬も…。

自分が久しぶりに夏の中にいる。3人ともその自覚をもって、嵐の前の平和な夏を全力で過ごしていた。

「よし。じゃあ今日はもう終わりにしよう。明日は台風だろうがなんだろうが、ぜったいに試合は開催する。向うの監督ともそれで合意している。」

「まじっすか。明日の台風やばいっすよ。ニュースみてないんすか、監督。」

チームメイトの一人があわてた調子で言う。どうやら近年まれにみる非常に強い勢力を保ったまま、こちらに近づいてくるというのだ。すでに台風が通り過ぎた地域ではかなり大きな被害も出ていると言う。いつこの街に台風が着てもおかしくない。

「台風なんてのは、すぐに通り過ぎる。いちいち大げさなんだよ、メディアってのは。大丈夫、明日は晴れる。だから天気を理由に来ないのはなしだぞ。」

「そうだよ、みんな。明日は全力でやろう。それで久しぶりの金星を獲得するんだ。おれたち、朝比奈ナインが。」

そう叫んだのはキャプテンでも監督でもなく、朝陽だった。彼がそんなふうに叫んだ切実な思いの招待を本当にしっている人は、きっとこの場にはいない。彼はこれから起こる危険について、もうある程度の予測が立っていた。きっと明日起こるかもしれない最悪の事態のことも大体は予想できる。そしてその予想が当たるなら、いくら父や葵がその愛憎で攻撃してきたとしても、この地球だけは、この街だけは守りたかった。

朝陽のその声はみんなのやる気に火をつけ、全員で円陣を組んで声を挙げた。その中には

少し照れた顔の疾風もいた。彼はその瞬間確かに、野球をやめていない、綾瀬の心の中に住む谷口疾風だ。

そんな円陣の声をかき消すように、飛行機の轟音がまた耳を切り裂いた。今日はよく飛行機が通る。まだ飛行場なんかできていないのに。

そして綾瀬は空を見上げて驚いた。その瞬間、自分の目の前に、もしかしたら恐ろしい現実が迫っているかもしれないとおもってしまった。

「さ、それじゃあ解散。」

監督の支持に従って散らばっていくその背中をみながら、綾瀬は本当に明日は晴れるのかと疑った。みんながこんなふうにして、明日顔を合わせることはできるのだろうか。たとえできたとしても、この世界にどんなことが明日起こっているかなんてわからないというのに。

今日1日開いていなかった携帯に、母からの着信とメッセージが届いていることに気づいて、綾瀬はあわてて確認する。

「明日天気悪くてそと出られないかもしれないから、適当に買い物よろしく。」

という、たったそれだけのメッセージだった。そう、あやせにとってたったそれだけと思っていた。

「おい、綾瀬。おまえ、もってないの?汗拭くやつ。」

ふとみると後ろに、疲れた顔一つ見せていない疾風の姿があった。あまりにも野球場の空気に溶け込みすぎているから、疾風だと気づくのにしばらく時間がかかった。

「あ、うん。こんなことになるって思ってなかったから、家においてきちゃったんだよね。」

「おいおい。相変わらず抜けてるんだから。ほれ、おれのだけど使うか?」

疾風は頼りないやつだと、つい最近まで綾瀬は思っていた。案外弱いやつなのかもと思ったこともあった。でもそのとき、タオルを貸してくれた疾風の手は確かに大きくそしてしっかりと前を向いているようだった。明日花火大会に行くことを承諾しておいてよかった。綾瀬にはその思いが何より強かった。

「おまえ、今から帰んの?」

二人で野球場から少しずつ離れていく。片付けをするほかの仲間たちの笑顔が見える。

「いや、母さんに買い物頼まれちゃったんだ。だから駅まで行くよ。」

「それじゃあそこまで一緒だな。」

綾瀬は疾風がそばにいるからなのか、少しずつ意識が朦朧としていくのを感じた。でもなぜだか、疾風の前では倒れたり、具合が悪いというところを見せたくないという意志が、必死に彼女を踏ん張らせた。疾風は何も気にしていない様子で空をみている。

「それにしても、最近、この辺を飛ぶ飛行機の量が増えたな。飛行場ができるから偵察でもしてるのかなあ。もし空からそれが降ってきたらどうなるんだよ。やなやつだぜ。」

などとつぶやいている。

「なんか天気怪しくなってきたな。おれも早く帰らなきゃ名。」

「は、疾風はなんで駅に行くの?」

「ああ…ちょっと用事。」

疾風は今も隠し続けている。自分が次世代平和の会になんか所属して、こんなスポーツしかできなかった自分には似合わない、平和を守るなんて彼には不釣り合いなことをしているのを、綾瀬にはずっと言わずにいた。だから綾瀬がそれを知っていることなんか、当然知らない。綾瀬の中にいる自分は、きっと今の朝陽のそれのように、ずっとグランドを走っている。平和なんか知らない。飛行場なんか知らない。戦争なんか勝手に国と国がやっていれば言い。そういう無責任な若者の一人だった。

「ねえ、疾風。」

疾風がよく朝走っている川沿いの道、つまりひまわり畑が見える川沿いの道に出る。空はいよいよ雨が降りそうなほど曇ってくる。

そんなとき、綾瀬はぼーっとする頭から飛び出してくる自分の放つ言葉に驚く。

「疾風はさ、もしこの街が平和じゃなくなったらどうする?」

もしかしたらもうばれているのかもしれない。疾風は心を決めなければいけないと自分に言い聞かせる。でもうまく言葉が見つからない。隠していてごめん、というのが正確なのか、おれは次世代平和の会っていうのに入って飛行場建設に反対する運動をしている、なんて正直に全部いきなり離した方がいいのか…。どちらにしろ、今の綾瀬の心の中にいる、野球少年としての自分が、きっとその一言ですぐにいなくなってしまう。

「綾瀬…おれは。」

「ねえ、そうなったら、疾風はこの街を守ってくれる?」

疾風は、今朝球を投げたときと同じ気持ちで腹をくくった。

「守るに決まってるだろ。おれはこの街が好きだからな。あさひのきれいな朝比奈の街が…。」

雨が一粒頭に当たったような気がした。綾瀬は、どうして疾風にそういうことを訪ねたのか、自分でもよくわかっていなかった。ただきっと、疾風が本当に平和を守ってくれるのかどうかを、疾風の口からききたかったからそんなことを言ってしまったのだろう。

駅の喧騒が近づいてくる。街の人たちは、台風が近づいていることも、不穏な空気がこの世界を支配していることも、綾瀬の変な心配も知らないで、いつもと変わらないように歩いている。そこには夏の夕暮れのたそがれに包まれた、いつもの街が広がっているかのよう似見える。こんな変な胸騒ぎに襲われているのは、きっと綾瀬がいきなりたくさん運動してしまっているからだろう。

「じゃあ、おれ、こっちだから。」

疾風は急に急ぎ足になって、雑居ビルの中に入っていく。あの中で、彼は平和を守るための施策を、誰かと練っているんだろう。

とにかくスーパーで買い物をしなくてはいけない。

駅の中にある、いつも使っている商業施設のスーパーで、野菜や肉やその他諸々を、適当に冷蔵庫の中身を思い出しながら買う。とはいっても、こんな不安定な頭で、冷蔵庫の中を全部思い出せるわけもなく、とにかく無意識のうちに手にとっているものが多かった。

だからたぶん、自分がそんなつもりはなくてもいろいろと買い物をしすぎたのだろう。袋はかなり思い。

いや、綾瀬の腕の力が抜けきっている制だろうか。

そとに出た瞬間、綾瀬は自分のいる世界を疑った。

突然風が強くなって、そしてさっきまで弱かった雨が、いよいよ本ぶりになってきた。台風の直撃の予定は明日ではなかったか。しかも、こんな天気の急変はあり得るのか。ほんの1時間前まで、確かに空は晴れていたはずなのに。

綾瀬はいろいろと考えているうちに、自分の体が完全に雨にぬれきっていることを知った。それはほかの人たちだってそうだが、コンビニに走ったり、仲間の傘に入れてもらったり、バスに乗り込む列に並んだりと行動しているのに、綾瀬だけがそこに立ちどまっている。

今はとにかくバスに並ぶことも大事だが、どちらにしろきっとその列はかなり長くなるだろうから、傘を買った方がよさそうだ。

急いで思い鞄をもったままコンビニに入る。エアコンの風がいきなり体を冷やす。この地球はこんなにもいろいろな場所があるのかと意識がうろうろする。うろうろした意識が傘売り場に彼女をつれていく。そのまま体は動かなくなる。

陳列された傘をつかんだ手が、そのまま床に滑り落ちる。

買い物袋が床に投げ出され、彼女はそこに倒れた。

激しい雨の中、駅前のいつものカフェで、あすみは、誠也を呼び出して話をしていた。

「いやな予感がするの。」

「いやな予感って難だよ。」

「ニュースでみなかった?明日台風が来るって。」

「台風なんか毎年来てるだろ?」

楽観的な顔をする誠也を、あすみは鋭いまなざしで見つめる。

「もしその台風が、黒い太陽の仕組んだものだとしたら…。」

彼女が何を心配しているのか、誠也はまったく検討がつかなかった。台風は黒い太陽なんかとはあまったく違うところで発生しているはずだし、雨雲を一番敵意しているはずの黒い太陽の人間が、なぜ台風なんかを使って地球に攻撃しようというのか、誠也はそのロジックにたどり着くことができない。

「もしそうだとしたら、おれたちはどうするんだ。」

誠也は試しにあすみに尋ねてみた。彼女のその心配をもし彼女が本当に信じるなら、きっと彼女は何らかの作戦を考えているとおもったのだ。

「ここは地球よ。私たちだ使える資源は何もないわ。この星じゃ私たちは無力なのよ。敵は台風の風よ使って、大量の軍勢を送り込んで地球を制圧するつもりよ。そうなったら私たちに価値目はないわ。それに私たちは無法者として黒い太陽を追われた物たち。成敗されるしかないわ。」

「おい、あね貴。そんな弱腰なこと言うなよ。おれたちは殺されるのをまつってことか?」

怒りに震える誠也を抑えるように彼女は言った。

「だからこそ私たちは朝陽を守る義務がある。彼さえいればきっとなんとかしてくれるはず。」

「姉貴はまだわかってないみたいだけど、朝陽はおれたちを助けるために地球へやってきたわけじゃないんだぞ。」

「知ってるわよ、そんなの。でも、私は最後の最後まで、朝陽を信じる。だって朝陽は

地球にも、そして自分にも危険があると知っているはずなのに、この星に来たってことでしょ?ってことは、きっと何かしらの根拠があったのよ。何かしら彼が信じていた

ことがあったのよ。それを信じて、私は朝陽を全力で助けたい。」

誠也はそのときやっと気づく。自分だってこの台風についてはかなり楽観的な考え方をしているけれど、自分の姉だって、対外朝陽に対して過信するという楽観的な考え方をもっているのだということに。朝陽は世界の太陽にはなれない。黒い太陽から無言で飛び出してしまった以上、もう彼の力が最大限発揮されることはないのだ。

「それにしても天気が怪しくなってきたわ。突然呼び出してごめんなさい。あなたもこれから仕事なのでしょ?」

「仕事と言うか。谷口君たちと明日の打ち合わせだよ。」

「明日の打ち合わせね…。」

あすみは眉をひそめた。その何か思いつめた顔が気に食わなくて、誠也はさ気にカフェを出る。そして、後からカフェを出ていった彼女は、ひとまずコンビニに寄って、カップ面を購入することにした。

雨はいよいよ激しくなっている。折りたたみがさしかもっていないことにかなり後悔を覚えたが、そんなことに困っている場合ではない。強くなる風や雨を背中に受けて、コンビニに入ったと気、一人の少女がよたよたと傘売り場に歩いていく姿が見えた。

「綾瀬ちゃんじゃない。偶然ね。大丈夫?なんかすごい疲れてるみたいだけど。」

「平気です…。ちょっと夏を楽しみすぎちゃったみたいですね。」

「何よそれ。あ、もしかして傘会に来たの?じゃあ私も折りたたみがさしかもってないから、買っちゃおうかな…。」

話し掛けてくる彼女の声が、綾瀬はまるで遠い世界の人が離す言葉みたいに耳に

キンキン響く。キンキン響くはずなのに、声だけがどんどん遠くへ押しやられていく。だからあ彼女がそのあと何度も綾瀬の名前を呼んだのも聞こえていなかった。

風が生ぬるい。湿り気を含んだにおいもする。みたこともないほど不気味な雲が空を覆い隠す。さっきまでみんなを照らしていたはずの太陽がどこにもない。クレヨンで書きたすことはできても、空にその雲がないならどうしようもない。

「やだ!すごい熱!」

倒れた彼女のおでこを触ったあすみは、震えた手で携帯に電話をかける。119番を押して

散らかった綾瀬の買い物袋の中身を、適当に自分の鞄に押し込んで、綾瀬だけをおぶってそとに出る。もう彼女は力が抜けきっている。そういえば昨日レッスンに来たとき、彼女はかすかに咳をしていた。

「あんまり無理すると夏風引いちゃうわよ。」なんて笑いながら言ったのを思い出す。でももうそれは、ただの笑いごとではなくなってしまった。激しい雨だけが時間を進める。世界はこんなにも真っ暗で、残酷で、簡単に人の命が消えてしまう、そんなものなのだろう。

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