ひまわり

8月になって数日が経ち、暦の上ではもうすぐ夏は終わろうとしていた。あのコンクールの日以来、何も変わったことは起きていない。要するに、とりたてて事件のようなものは起こっていないということだ。しかし、あの日に起きたたくさんの出来事は、黒い太陽を知らない人々、特に疾風と綾瀬にとっては衝撃だった。綾瀬も疾風も、朝陽が黒い太陽からやってきたんだということ、そして彼らに関係する人たちが、実は自分たちの周りにいることをその日に突然知らされたことになる。それ以来、自分たちは黒い太陽の人間ではないはずなのに、世界が違って見えるようになった。もしかしたら自分の周りにあるこの空さえ当たり前のものではないように思えてならない。何より綾瀬は、自分のピアノ教師である東郷あすみと朝陽がどんな関係にあるのかが今市判然としていない状態のまま何日か過ごすことになった。

ある日、8月になったばかりの頃、綾瀬はあすみさんのレッスンが終わったとき、思い切って尋ねてみることにした。

「あの…あすみ先生。」

「どうしたの…?」

いざ質問しようとすると、いったい何から聞こうかとか、どんな言葉を使って聞こうかといろいろ考えてしまう。だから言葉が出てこない。

あすみ先生はそんな綾瀬の心中を察することなく笑顔で言った。

「もしかして、結果が気になるのね?そういえば、今日だったわね。封書が届くのだっけ。」

「はい…。たぶん午後には届くかと思います。」

そんな話をする気はない。というか思い出させないでほしい。今はただ、秋に開催される文化祭に向けて、伴奏の練習をみてもらっているだけなのに。この前のコンクールのことなんか忘れたかったのに…。今は自分のことよりも、朝陽について知りたかった。

「大丈夫よ。あの日の綾瀬ちゃんは輝いてた。だから絶対にドイツに行けるよ。」

そんな言葉は今はいらない。今必要なのは、朝陽についてのことだったのだ。

「あの…そのことじゃなくって…。一つ先生にどうしても聞きたいことがあるんです。」

あすみ先生はきっと、綾瀬が何を聞きたがっているのかをもう察している。だからこんなふうに、偽善的な言い方で、「ドイツにいけるよ。」なんて簡単にいえてしまうのだ。ドイツにいけるかどうかなんて、今の綾瀬が一番知りたくて一番知りたくないことだから。ただ知りたいことは違う。

「先生は、山羅朝陽君を知っているんですよね。」

先生は予想通り少し顔色を変える。でもすぐに冷静な表情に戻そうとする。そんなにいろいろと顔色を変えなくても、別に状況は何も変わらないのにと突っ込みたくなる。実は、顔色を変えるという作業は、そんなに簡単にできることではなくて、労力のかかる作業なのだと、人間は知っているのに行う。誰にそうしろといわれるでもなく。

「そっか。綾瀬ちゃんも知ってるんだ、彼のこと。」

「彼がこの星にやってきたとき、初めて声をかけたのは私です。そのとき彼はとても苦しそうで、雨に打たれながら今にも死にそうになりながら、空から落ちてきました。私は彼を病院まで運んだんです。そしたら彼、私と同じマンションに住むことになって…。びっくりですよね。それ以来友達なんです。私のピアノを、先生以外で久しぶりに褒めてくれたのも彼で…。」

綾瀬が一通り、自分と朝陽が初めて出会ったときのことを話すと、みるみるあすみ先生は、自分の顔色が制御できなくなって、目からあふれそうになる涙をこらえるのがやっとだった。

苦しそうな顔をしながら彼は空から落ちてきた…。それは、まだあすみ先生も誠也さんも黒い太陽にいた頃に見た、まだ小さかった弱虫の朝陽に重なる描写だったのだ。やっぱりどれだけ父に訓練されても、どれだけ大人になっても、結局人間の一番弱いところなんか変わらなかったんだ。

それなのに、自分入らない期待をしてしまっていた。きっと彼は、自分たちを救うためにここへきたわけではない。もっと何か悪いことによってこの星へ来てしまった。それなのに、どうしてあんな明るい目で彼をみてしまったんだろう。どうして「会えてよかった」なんて手紙を置いて、会場から先に帰ってしまったんだろう。慰めてやるべきだったのに。

「そうなんだ…。ありがとね、綾瀬ちゃん。朝陽は昔から弱虫、私たちもそうだけど、雨がめっぽう苦手なの。少しでも雨に当たったら発作を起こして倒れちゃう。戦うのも苦手だし勉強も昔は本当に苦手で…。誰かがそばにいてやらないと本当にだめな子だったの。だから私がそばにいてあげるべきだったのに…。」

綾瀬はそんなあすみ先生をみていられなくて、そのまま何も言わずに先生の家を後にした。今先生に必要なのは、朝陽と向き合う時間だとわかったのだ。きっと先生は、綾瀬のことを本当にかわいがっていた。でもそれ以上に朝陽のことを本当にかわいがっていてずっと心配だった。自分と先生との関係は生徒と先生だけれど、朝陽とあすみ先生は、きっと弟とお姉ちゃんと呼んでも過言ではないほど強いきずなで結ばれている。そんな二人のことが、綾瀬はうらやましく、美しく見えるのに、どこか心の奥がうめくように痛い。自分を守ってやれるのは自分しかいないとおもっていたのに、朝陽はこんなにもたくさんの人たちから愛され、かわいがられ、守られている。それは朝陽が弱いからなのだろうか。むしろ強いからなのだろうか。いや、強いとか弱いとか関係ない。彼はもうすでに、みんなの太陽になっているんだと気づいたとき、さっきまで弱かった太陽の光が、パット綾瀬の上をスポットライトみたいに照らす。でもそれは綾瀬が歩いていて、日陰から飛び出しただけのこと。太陽の制じゃないのに、綾瀬はまるで自分が太陽に照らされたみたいに思えた。自分の頭はどうにかなったのかとおもって後ろを振り返れば、平凡な夏の街が広がっている。そこには朝陽を見つけた朝顔の咲く道があった。

一方の疾風は、朝陽が宇宙からやってきたということをまるで忘れるように、必死になって次世代平和の会の仕事を頑張っていた。別に忘れたくて頑張っていたわけではないのだが、ただ一つだけ、彼はやはり、東郷さんとその話にならないように努力した。東郷さんも、疾風にはその話を忘れてほしいとおもっているのだろうが、結局朝陽について二人で話すことはあれ以来なくなっていた。それもやはり、二人の心の中には朝陽の存在が強く焼き付けられていて、彼の存在を考えずにはいられなかった。東郷さんがどうしてこの星にやってきたのか、疾風は非常に気になっていたし、その話だけでも彼から聞きだそうとしていた。でもそうすればするほど、朝陽が何かに追われていることを思い出してしまう。そして東郷さんもきっとその例外ではない。黒い太陽という星がいったいどんな星なのか。それを記した書物は、インターネットにも載っていないし街の図書館にも蔵書がなかった。そんな星はやはり現実には存在しないとされているらしい。でも、朝陽も東郷さんも、そしてあのなぞの女も、黒い太陽から来たと主張しているし、それを疑う理由もない。だとすれば、黒い太陽というその星を、どのように取り扱うべきなのか。

そして、一番この状況で、黒い太陽のことを忘れようと務めていたのは、地球人の綾瀬でも疾風でもなく、朝陽だった。彼はあれ以来、今まで以上に野球の練習に打ち込むようになった。夏の空に溶け込むように、彼は夏の中にいた。疾風がいなくなったグランドには、朝陽によって再び活気が戻り、むしろ疾風がいたことなんて忘れられてしまったように、みんな朝陽の実力に熱狂した。

そんなふうに、3人の夏は、ひまわりの花がゆっくりと咲くように、ゆっくりと進んでいった。みんなそれぞれに、何かを目指すように、何か大切なものを追い求めるように、それぞれの夏を全力で生きていた。

そしてその3人の夏は、朝日が何回も上る中で、少しずつ大きな動きを示すようになる。

あすみ先生が涙を流したあの日、綾瀬が家に帰ると、ポストの中に1枚の手紙を見つけた。誰かの暑中見舞いだろうかと、綾瀬は楽観的に封筒を開く。でも、それがだれの暑中見舞いいでもないことを、綾瀬は元からわかっていた。だって、その手紙の差出人は、彼女にとって予想しうる名前だったのだから。綾瀬は、「音楽ユース国際インターン」の切符を手にすることができたのだ。

そのあと、綾瀬にとって、それまでみていた夏の空は、いままでより美しく見えた。やっとこの空の向こうにいける。あと2カ月もすれば、いよいよ自分はドイツにいける。自分だって空を飛べるのだ。母が心配しているほど自分は弱くないし子供でもない。確かにあすみ先生の力は借りたけれど、自分にだって世界へ向かう資格があるのだ。自分を恥じる気持ちを捨てて、これで心置きなく世界へいける。朝陽が黒い太陽からそうしたように。

また朝陽のことを考えてしまう自分に、綾瀬はため息をつく。自分のことのはずなのに、また朝陽のことを考えてしまう自分が少しいやだった。今は思いっきり喜ぶべき瞬間なのに、心の中に朝陽がまた入ってくる。あのマンションの最上階に住む、野球も将棋も勉強もできる、朝顔の花と一緒に空から落ちてきた彼のことを、どうして考えてしまうのだろう。

もしかしてこれを恋というのだろうか。そんな飛躍した論理を考えようとしてやめた。ある日とのことをどうしても考えてしまうものが恋なら、恋というのは非常にややこしくて邪魔くさいものになるではないか。

でも、たとえ朝陽に対する思いが恋ではないにしても、彼は試験の日に、自分の応援に来てくれた。その感謝の気持ちを伝えるためにも、あさひにちゃんとこのことを伝えるべきなのだ。

丘の上の野球場には、今日も朝陽がいた。みんなは全力で夏の中を走りぬけていた。その中でも朝陽は輝いていて、黒い太陽から来たとか、地球にずっと住んでいないからとか関係なくかっこよかった。彼の投げる球は、昔の疾風がそうだったように、輝く空の上を疾風のように飛んでいく。自分には運動の素質難かないけれど、それでもうらやましいとおもってしまう。その背中を見つめていると安心する。朝陽は空から落ちてきたけれど、今はこうして夏の中にいるのだと。

「綾瀬。どうしたの?」

練習を終えたのか、朝陽が綾瀬の元へかけてくる。体からし立たれ落ちてくる汗が新鮮な香りを放つ。夏の風に彼の香りが充満する。

「いやっ…朝陽君に伝えたいことがあってさ。」

朝陽はそれを聞くと、つかれていたのか、それともおもしろかったのかわからないけれど小さく声を出して笑った。

「難だよ。わざわざ野球場なんか来なくても、うちの部屋に来てくれればよかったのに。」

「え…?そんな。そんなの恥ずかしいよ…。」

自分の顔が赤くなっているのに気づく。

でも、確かに朝陽の言っていることは正しい。どうして朝陽にだけ今すぐ伝えたいとおもったのだろう。朝、朝顔を見ながら自分を応援してくれた疾風にも伝えるべきではないのか。それでもすぐに伝えたかったのは…。

「私、ピアノ留学できることになった。」

「ほんと?すごいね!でも綾瀬のあのピアノなら絶対にいけるっておもってたよ。よし、それを聞いて、僕も試合に向けて頑張らなきゃっ手おもった。」

「試合?」

綾瀬は、朝陽が試合に出られるほど強く活躍しているなんておもってもみなかったので、耳を疑った。

「そうだよ。僕が先発として初めて投げられる試合難だ。相手は競合チームらしいんだけど全力で頑張るよ。確かに緊張するけど、それ以上に楽しみなんだ。」

彼は試合があるというのに、実に楽しそうにしている。綾瀬だって、コンクールの直前までは、自分なんか緊張していないとおもっているけれど、そんなのは本番になってしまえばすっかりなくなってしまう。でも、朝陽はきっとそんなこともないのだろう。彼はこのまま楽しんだままで投げることができるほど純粋で、野球ができることの喜びを知っているのだ。子供の頃、コンクールなんか知らずに綾瀬がピアノをひいていたときと同じように。

「朝陽なら、絶対完封できるよ。もしかしたらノーヒットノーランかもね。」

かなうのかかなわないのかもわからず、夢みたいな冗談を無責任に口にする。夢を無責任に口にすることは、実は残酷で心ないことかもしれない。でも綾瀬はそれをしてもいいと思えた。だって、朝陽なら、綾瀬が無責任につぶやいた夢を、あっさりかなえることがきっとできるだろうから。

「ノーヒットノーランか…。やってみたいな。」

そのとき初めて、朝陽の顔は少しだけ緊張したように思えた。

同じ頃、駅前の雑居ビルでの1室では、疾風を含めた多くの若者たちが、忙しく働いていた。8月15日の終戦記念日。いよいよ、「次世代平和の会」として初めての大きなイベントを企画することになったのだ。

疾風は必死にチラシづくりをやらされると同時に、こないだ集めた本や論文を使って発表資料を作っている。

「君、なかなか仕事が早いね。いい仕事人になれるよ。」

東郷さんが、疾風のいじっているパソコンの画面を除きこんでから言った。

「あんまりデスクワークは得意じゃないんですけどね。」

「そんなことはないよ。スライドもみやすいし、簡潔にまとめられてるよ。」

だが確かに、ここしばらく東郷さんといろいろな仕事をしているせいか、昔ほど机に向かうことの恐怖はなくなった。むしろ今は、こういう面倒くさい作業でも、いつ紙を結ぶんだと思えば少しでもやる気になれそうな気がしていた。

「しかし、もう来週だなんて信じられませんね。次世代平和のための打ち上げ花火。」

「おれもだよ。これも、みんながきちんとこの街を変えていきたいっていう意思表示をしてくれたからだ。これがお神に届いてくれるのがおれの目標。」

東郷さんは笑いながらそう言うけれど、その目はやはりどこか遠くをみているようだった。東郷さんがなぜ黒い太陽から地球へやってきたのか、疾風はまだはっきりとは知らされていないしわからない。でも、朝陽の話を聞く限り、黒い太陽とはそんなにいい星ではないのだろう。きっと東郷さんはこの地球で、黒い太陽ではできなかった何かをしたいのではないか。だから、自分のもてるだけの頭脳や体力を使って、この街を守るという行為を皮切りにして、平和の大切さを訴えようとしている。それは遠回りだし、政治的な反逆行為といわれる可能性もある。でも、それが彼の強い望みであり、地球に来た理由にもつながっているような気がする。もちろんそれらはすべて疾風の創造の中なのだが。

「さて、みんな。そろそろ時間だ。今日の作業はおしまい。明日以降は、具体的に当日の流れやリハーサルに入ろうとおもう。」

東郷さんの声が聞こえると、みんなそれぞれに片付けを始めた。みんなはやはり東郷さんを信頼している。そういえば、と目を凝らしてみたら、懇親会のときに疾風を襲ったあの入れ墨集団は、もういなかった。

「いまさらだけど、谷口君、家、どの変だっけ?」

ビルを出たところで、隣を歩く東郷さんが、こともなげに尋ねる。街にはすっかり夜の帷が降りていた。

「ここから少し歩いた川沿いの1軒屋です。」

「そうか。益から近いんだね。うちはバスに乗ってかなり行かなきゃいけないから遠くてさ。でも、あの川沿いにあるひまわり畑には思い出があるんだ。」

東郷さんは久しぶりに雄弁に語りだした。別にこういう東郷さんを、疾風はいやだとはおもっていないし、実際みたこともあった。でもそのときの東郷さんは、珍しく過去の話をした。東郷さんはいつも未来のビジョンの話なら誰にも負けないと言わんばかりに胸を張って話をするのだけれど、過去の話は極端にしなかった。彼の過去の半分が黒い太陽でできているからだろう。

疾風ももちろんそのひまわり畑を知っているし、毎日目にしている。夏になると美しい花を咲かせ、去年まではそのひまわりをみて、野球を頑張ろうとおもっていた。でも、今年は野球を頑張ろうという気分にはならなかった。ただ、また今年も青い季節がやってきたんだということだけを、ひまわりの花によって知らされた。少なくともその花をみていていやな気はしなかったし、夏のすっきりした空気が体中に行き渡るような快感を覚えた。

そして疾風には、あのひまわりのことで、忘れられない思い出があった。

それは、つい5年ほど前、疾風と綾瀬が小学校5年生の夏休みのことだった。

その年、街を明るくするためと称して、「ひまわりプロジェクト」というのを、地元の町内会の人たちが企画してくれた。街の人たちみんなで、新しくひまわり畑を作ろうというものだった。さくらでもコスモスでも差残化でもなくひまわりにしたのは、この街の名前が、「朝比奈」だからだろうか。

そしてそのイベントには、夏休み中だった疾風と、そして綾瀬も参加した。

「ひまわりってすてきだね。」

手にもっていたひまわりの種を丁寧に土に埋めながら、綾瀬が疾風に言った。

「なんでだよ。ただの種だろ?」

疾風は相変わらず短絡的な物言いをしたものだった。でも綾瀬は笑ってくれた。

「まあそうなんだけどさ…。こんな小さな種なのに、あっという間に大きなひまわりの花になって、太陽と一緒にこの街を照らしてくれるんだよ。なんか不思議だよね?紺な小さな種が、太陽の光を追いかけるなんて。」

綾瀬の言っている言葉が難しかったのか、それとも意味はわかっていたくせにわからないふりをしたのか、疾風は綾瀬から視線をそらす。

「別に興味ないし。おまえさ、よくそんなつまんないこと思いつくな。どうせ種なんかいつか花になるんだから、そんないろいろ考えなくてもいいと思うぜ。」

綾瀬は、上呂で水をまくふりをして、地面に向かってうつむいた。

そんなささいなこと…とおもう人もいるかもしれない。でも疾風にとってそれは、自分の心の奥の一番触られたくないところに、今も押し込まれている。綾瀬を傷つけてしまった。ずっとそばにいるつもりだったのに。大好きだったはずなのに。

「日の出さん、しっかりして!」

ふと気づけば、ひまわり畑のあたりが騒がしくなっていた。隣で畑を耕していたように見えた綾瀬が、理由はわからないが倒れていたのだ。大人たちは綾瀬の元に駆け寄る。疾風だってそれに加わろうとした。でも体が動かない。気まずかったから?面倒くさかったから?何よりも大切におもっていたから…?

すると一人の少年が綾瀬をゆっくりと抱き起こした。

「せ、誠也君。君、力持ちだね。」

「おれんち、すぐそこなんでつれて帰ります。」

「え?でも誠也君が抜けたら…。」

「さすが便り外のある若者は違うね。じゃあお願いしていいかな?」

少年は、疾風が意識を集中できないぐらいのスピードで、綾瀬のことをおぶって、畑から消えていった。そのときの少年の顔は、なぜだか思い出すことができない。とにかく疾風は、綾瀬が倒れた原因が自分にあると思うことにした。自分のちょっとした言葉にも綾瀬は傷ついてしまうようなはかない存在なのだ。それは弱いとか情けないとかそういう誹謗中傷でなんとかなるものではない。彼女のように優しく

て賢くて美しいからこそのはかなさなのに、どうして疾風はそんなことにも気づけなかったのか。このひまわりの種だって、きちんと花が咲くかなんかわからないのに。

「みんな…。ちょっとハプニングがあったけど、作業を続けてくださーい!」

実効委員のお場さんがみんなに支持を出す。疾風も無言でその作業に加わる。

「おれ、昔あの川沿いに住んでてさ。ちょっとその家がぼろくなったから、岡の上のそのまた離れたところに住むことにしたんだけどさ。あの川沿いのひまわり畑、おれが高校生のときに、小学生のちびっ子たちと一緒にひまわりの種をたくさん植えて作ったんだ。そしたらさ、あるとき女の子が倒れちゃって。つい出来心なのか正義間なのか、それともただの性欲なのかわからないけど、その子を家まで運んであげたんだ。エアコンをガンガンにして、ちょっとスポーツドリンクをのませたら、なんとかなったんだけどさ。その子、元気にしてるのかな?お例も言わずに家を飛び出して言っちゃったからさ。」

自分には東郷さんに価値目がない…そうおもった瞬間だった。東郷さんは、あのときすでに綾瀬の心をつかんでしまっていた。疾風がそうしようとする前に。しかもそれは疾風が綾瀬を傷つけたことによって成立してしまった。最悪のシナリオだ。どうして黒い太陽の人たちは、こんなふうに自分の大切なものの心を、あっという間にわしづかみにしてしまうんだろう。

「あ、おれ、そろそろ帰らなきゃ。それじゃ、また明日…。」

こんなふうにあやふやなまま、この話を終わらせていいのだろうか。それは東郷さんを傷つけることにはならないか。何かこの話について、言うべきことがあるんじゃないのか。

「おー!じゃあな。」

東郷さんがバスを並ぶ列に消えていく。

「あ、東郷さん!」

消えかけた東郷さんの背中に、そっと、でも確かな声で呼びかけた。

「どうした?」

「おれの好きな人を助けてくれてありがとう!」

東郷さんの大きな手が、上に振られた。それが何をさしているのか疾風ははっきりわからなかった。でもきっと、東郷さんは前からわかっていたのだ。東郷さんはちゃんと覚えていてくれたのだ。あの夏の魔物が、綾瀬を傷つけたことを。あの日、綾瀬を傷つけたのは疾風だった。

疾風は複雑な気もちのまま家に帰る。机の上には、親が作ってくれたカレーがおかれている。そいつをレンジで温めながらテレビをみていたら、「今日は原爆が落とされた日です。」というアナウンサーの無機質な声が響く。自分の街から遠く離れたこの国のとある街に、この世界を新館させるような秘密兵器が落とされてから、もう半世紀以上が経過した。その痛ましくて恐ろしい事実は、教科書の中や本の中でしかみることができない。でも、それは本の中にとじこめていいことではない。もしこの街に大きな飛行場ができたら、そこを攻撃するために、空から変なものが降ってくるかもしれない。街は真っ暗になって、たくさんの人が死ぬかもしれない。そんなことはさせられない。

東郷さんに会ったばかりの頃、彼が言っていた言葉をやっと今思い出した。

「おれは、何もない空が好きだから…。」

それから数日経った日のこと。綾瀬は、いつものように、あすみ先生の家を尋ねた。コンクールが終わっても留学までは、あすみ先生に練習をみてもらうつもりでいたのだ。しかも、綾瀬はまだ母に、留学が決まったことをいえていない。どうせ母は納得してくれない。そんな恐れがずっと心を支配しているからだ。

先生はいつも、「心配することはないわよ。お母さまはきっと、綾瀬ちゃんのこのすばらしい努力を認めてくれるはずだから。安心してドイツに行けばいいのよ。」

なんて優しい言葉をかけてくれる。その言葉は綾瀬の言葉を優しく包み込んでくれるし、前向きな気もちにさせてくれる。でも先生がそう言えば言うほど、母が認めてくれない不安や、母が私には実はほとんど関心がないんじゃないかという角の被害妄想が心を支配する。

先生に甘えるために先生の家に行くわけではない。留学する前に、できるだけたくさんの局をさらいたかった。

そうおもって、今日もインターフォンを押した。ところが帰ってきた声は、先生の声ではなかった。

先生は一人暮らしだ。結婚もしていないと先生は言っていなかったか。それなのに、今聞こえた声は男の人の声だったではないか。別に先生の高裁関係や恋愛関係に興味があるわけではないが、彼しと先生が楽しいことをしているときに、教え子である自分がズカズか入り込んでいいのだろうか。

「はい、どなたですか?」

男の人の低い声が聞こえる。

「あ、私…日の出綾瀬と言います。その…あすみ先生にレッスンをみてもらって手…。」

なぜこんなに緊張する必要があるんだろう。別にこの人は自分のなんの関係もないはずなのに、この男の人の声は、どこか綾瀬にとって聞き覚えのある声だったからこそ、綾瀬は緊張していた。

「ああ。ちょっとまって手。」

男の人がそっとドアをあける。その顔を見たとき、綾瀬の頭の中に、きれいなひまわり畑の映像が浮かんだ。

「ごめんね。あね貴、ちょっと腹壊しちゃってさ。今日練習休んでるんだ。しかも昨日どっかでスマホ落として壊しちゃったらしくて、連絡もできなかったみたいで。悪いね。」

彼の話を聞きながら、綾瀬はあの日のことを思い出していた。あの日も、綾瀬は彼と二人きりだった。綾瀬が意識を取り戻したとき、彼女は布団に寝かされていた。その布団が客用の布団なのかはわからないが、なんだか男の人のにおいがかすかに鼻をついた。

「気がついた?」

「あ、はい。」

「君、ひまわり畑で畑仕事をしてたら突然倒れたんだよ。たぶん熱中症なんだろうね。はい、これ。スポーツドリンク。」

少年は自分よりもかなり年上なようにも見えるし、年が近いようにも思える。でもどこか天使のように見えるし、また悪魔のようにも見える。そのときの少年の顔が、今そこにある。

綾瀬はスポーツドリンクをゆっくりと飲んだ。まだ手が震えている。またやってしまった、とおもってしまうから。

自分の体のよわさを恥じた。あんな真夏の太陽のしただから倒れたのは当然なのかもしれない。でももしそれが当然じゃなかったら。自分の体の弱さの制だったら。

当然でもそうじゃなくてもどちらでもよい。結局また自分は、疾風に心配をかけてしまった。疾風は今どんな気もちで畑を耕しているのだろう。どんな気もちでひまわりの種を植えるだろう。意識を失う前、疾風は低く笑いながら、

「おまえさあ、つまんないんだよ。」と言った。少なくとも綾瀬はそれに

傷ついた。でもそれがもし、あの畑で倒れる原因になったとしたら、自分はなんて弱い人間なんだろうと悲しくなる。そんな形で、疾風に心配されて、疾風を悲しませたくはなかった。つまらない人間だと思われたくないなら、倒れずに畑を耕し続けることだってできたはずなのに。きっと疾風につまらない人間と思われたのは、疾風が心の狭い人間だからではなくて、自分のこの体の制だ。心の制だ。もっと強くならない限り、疾風は振り向いてくれない。疾風と型を並べることはできない。

「あの…。」

「どうした?」

「どうしてあなたは私を助けてくれたの?」

少しすっぱいスポドリの味が体にしみわたっていく。でもそんな味は、今の綾瀬には必要なかった。今必要なのは、綾瀬が強くなることのはずなのだ。

「困ってる人を助けない人がどこにいるんだよ。君は助けられるべき存在難だ。」

少年が発したその言葉の意味を綾瀬は租借したくはなかった。きっと少年にとって綾瀬は弱くはかない存在になってしまった。少年にそう思われるのは勝手だ。でももしみんなが綾瀬のことをそうおもっているなら。疾風にもそう思われているとしたら。

助けられるということはきっと自分が夏の太陽にすら太刀打ちできない弱い存在難だというお墨付きをもらうことなのだ。野球ができる疾風なんかとは全然遠い世界に住むべき人間というお墨付きをもらったのだ。そうすれば自分は、これから疾風と一緒に生きていくことはできない。

少年にはなんの悪気もなかっただろう。むしろ少年は綾瀬のことを救ってくれた、感謝すべき人間だった。でも、少年は綾瀬に悲しくてすっぱい現実を与えた。それは実に残酷で、けれども現実に基づいたことなのだ。あのひまわり畑で起きたこと事態、綾瀬自身を著実に表した事件だと受け取ることが、綾瀬が自分に正直になる第1歩なのだ。意識がはっりしない頭の中で、綾瀬はそうおもった。

だから何も言わずに飛び出した。悔しくて、悲しくて、腹立たしかったから。その日みた夏の入道雲は、綾瀬の心の中の闇を、すっぽり覆い隠すような力を秘めていた。

そんないやな思い出が、この男性の顔をみるとよみがえってくる。その理由は言葉にせずともちゃんと残っている。

「あの…あなたはあすみ先生の…彼氏さんですか?」

恐る恐るそう尋ねると、誠也さんは大声で笑った。でもあすみ先生を起こしてしまうと思ったのか、声をひそめる。

「言ったろ?あすみ先生は僕の姉貴だよ。君は姉貴の制と三男だろ?」

「はい。」

「それじゃあ、さぞ美しいピアノが弾けるんだろうな。」

突然あらぬ期待をかけられて、足がすくむ。いったいこの男性は、綾瀬に何をさせようというのだろうか。だが、熟考せずとも答えは明らかだ。

「姉貴はずっと昔からピアノが好きだったんだ。ちょっと諸事情で、ピアノを弾くことは禁じられていたんだけど、こっそり誰にも聞こえない場所で、ずっと音楽を奏でていたんだ。それは誰にも引けを取らない、宇宙一美しいピアノだと、おれは弟ながらに思ったんだ。おれもピアノは習ってたけど、なんか自分にはむいてなくて、すぐにやめてしまったんだ。だから聞かせてよ。姉貴が君に教えたピアノを。」

あのとき感じた少年に対するなぞの恐怖や、スポドリのすっぱい味とはまた違う、心をくすぐるなぞの恐怖が、このとき綾瀬にはあった。やっぱりこの人も、黒い太陽の出身者なのだ。あすみ先生が話すのを避け続けている、あの星の出身者なのだ。

それでも、どこの星から来た人間だからとかは関係ない。ピアノを弾いてほしいというんだから、弾いてあげなければいけない。いや、弾いてあげたい。

いつもは坐り慣れている椅子が、今日は少し重く感じる。いつも弾き慣れている鍵盤が、どこか固く感じる。いつも聞こえる音が、今日は小さく感じる。

夏の太陽の下ですらすぐに倒れてしまうこんな弱い自分を救ってくれた彼が、そこにいるからだろうか。あの日以来、自分は少し強くなった気がしていた。実際同なのかは誰も知らないし判断はできないかもしれない。でも、綾瀬は、自分が胸を張れるような存在になったら、きっと疾風も振り向いてくれると、今でも信じている。だが、今は疾風を覆い隠すほどの黒い太陽が心の中にあるだなんて、それはきっと、綾瀬にすら感じられていない、不思議な力の源になっている。

『月光』の第3楽章を引き終わったとき、いつもより腕が痛いのを感じた。少し早く引きすぎただろうか。それともただ単に引き方が悪かったのだろうか。それとも本当に腕にけがでもしてしまったんだろうか。

「いや、すごいね。さすが姉貴だ。地球人にもこんなにきれいなピアノを教えられるなんて。君のピアノを聞いていると、今にも朝日が上ってきそうだ。」

その男性がそう言うと、なぜだか耳に美しく響いた。

あさひ。その言葉の持つ本当の意味を、彼は知っているんだろうか。

「あ、やばっ!あたしったら…。ごめんね、綾瀬ちゃん!もう練習の時間よね。」

さっきまで夢見心地で眠っていたあすみ先生が、きっと綾瀬のピアノで起きたのか、それともたまたま寝返りを打った弾みで起きたのかはわからないが、ようやく目覚めたようだった。

「ほら。やっぱり君のピアノはあさひになって姉貴の心に響いたんだよ。」

その男性の言っていることがきれいにはまりすぎて、綾瀬はむしろ悔しくなった。この地球はあさひのきれいな星で、だからそんな星に生まれた自分だからこそ、そんなピアノが弾きたかった。それをより多くの人たちに届けたくて留学をしようと決めたのだ。

この男性に、「あさひが上ってきそうなピアノ」と言われたら、きっと本当にそうなんじゃないかと、本気でおもってしまう自分がいた。

「あの…。私は、強くなれたと思いますか?」

あわてているあすみ先生をよそに、綾瀬はそんな質問を、誠也さんにしていた。

誠也さんは何かを察したみたいに笑う。

「朝陽を、そして谷口君をよろしく頼むよ。君は二人の太陽なんだから。」

綾瀬は、結局、先生の練習を断って帰ってきた。具合の悪い先生に無理をしてほしくなかったのだ。先生は、「損な!へっちゃらよ!」と言ってはいたが、すぐにトイレに子もって出てこなくなった。誠也さんによると、昨日二人で悪い酒を飲んだのがいけなかったという。

「教えてくれないか?君は朝陽と知り合いなんだろ?どうして、彼が地球に来たか知っているんだろ?」

綾瀬は、彼が助けてくれた恩返しをしてあげるべきだとおもっていたし、それが礼儀だともわかっていた。でも、いくら誠也さんにも言えなかった。言えなかったのではなくて言いたくなかった。彼が無残な姿でこの星にやってきたことを。

だからあの日とほぼ同じように、なにもいわず先生の家を飛び出した。そして、なんだか変に落ち着きのない自分に気づく。

綾瀬には、この前朝陽を探しに自分の後をつけてきた少女のことがどうしても気掛かりだった。もし朝陽が襲われて殺されるようなことがあれば、綾瀬はどうやって朝陽を守ろうか。きっとその少女は、運動神経もいいし体も強い、黒い太陽から来た人間だ。そんな人間に太刀打ちできるすべを、本当に自分はもっているのだろうか。

あさひが落ちたこの世界には、きっとあさひを拾い上げようとたくさんの人がやってくる。でもそんな黒い太陽からの支社に、朝陽を連れ去られてたまるかという強い衝動が綾瀬に湧き上がる。でも自分は朝陽を守れるのかわわからない。それならば、まだ朝陽がこの星で元気に生きている間に、やれることを一緒にやりたかった。つまり、大したことはしなくていい。ただ、二人で最高の夏休みを過ごしたかった。きっと最近、自分の心の中に朝陽がこんなにい坐っているのは、ずっと好きだったはずの疾風を押しのけてまで綾瀬の心にい坐るのは、綾瀬が朝陽を好きだからということ、そしてきっと朝陽は、綾瀬に何かを求めているのだ。だって朝陽は、きっとあの星で、綾瀬にとって当たり前でありきたりだと

おもっていることの一つや二つすらできない、苦しい人生を送っていたはずなのだから。

朝陽にあいたい。朝陽にあわなければいけない。

駅前をうろうろしていた綾瀬の目に飛び込んできたのは、来週河川敷で行われる花火大会のお知らせだった。

ありきたりだけれど美しいシナリオが、綾瀬の頭を駆けめぐる。

岡の上の野球場は、今日も活気に満ちあふれていた。鮮やかなストライプで玉を投げ続ける朝陽の姿を遠めにみながら、いつ朝陽に声をかけようか、綾瀬は迷った。

すると、そんなうつろなな目をしている綾瀬の肩をたたく人がいた。それが誰なのか綾瀬が考える前に、その日とは声をかけてきた。

「綾瀬…。」

なぜすぐに、自分の肩をたたいたのが疾風だとわからなかったのかようやく気づいた。疾風が最近にしては珍しく、野球棒をかぶって、ジャージーを着ているからだ

「疾風。どうしたの?もしかして野球しにきたの?」

疾風は、そんな格好をするつもりなんかなかった。別に普通に、今の自分のままで、背筋を伸ばして綾瀬にあいに行こうとおもっていた。

でも、自分の心というのは、簡単に感情につき動かされてしまう。

少しでも綾瀬がびっくりするように、少しでも綾瀬に笑ってもらうために、少しでも綾瀬に昔の自分を思い出してほしくて、この前脱ぎ捨てたはずのジャージーを着ている自分がいた。今疾風は確かに、綾瀬に振り向いてほしかった。

「まあ、そんなところ。あのさ…。」

今疾風が伝えたいことは一つだけだった。

「花火大会行かない?来週の。」

大したセリフではないかもしれない。何日も眠れないほどに考えたセリフよりは陳腐かもしれない。でも今の疾風は、このセリフを言う必要があった。綾瀬にとって、一番言われたくないセリフを。

綾瀬は深呼吸をする。自分は朝陽と一緒に花火大会に行きたかったんだと素直にそう言うか、それともそんな自分の気もちに嘘をついて、疾風と一緒に花火大会に行くべきか。

そんなことはきっと、いくら迷ったところで、きっと夏が何回来てもその答えを見つけることはできない。

「いいよ。でも…彼からヒットを1本打ったらね。」

綾瀬はつくづく悪い女だと自分でおもった。この前朝陽には、「きっとノーヒットノーランだね」なんて言っていたのに、疾風にはヒットを打てという。いくらなんでもこんな無茶なことを言っている自分が恥ずかしい。でもそんなことは、言われた当人たちからしてみれば、そんなことを知るよしもないのだ。

でも疾風は、その条件を飲み込もうとすればするほど、のどの手前でつっかかる。自分がこんな格好をしたせいだ、とそのときやっと自覚した。自分が普段着を着ていれば、野球をしろなんて綾瀬から言われなかった。

でも、じゃあなんで、今こうして、疾風はジャージーを着て、今すぐにでも野球ができる格好で、野球場の前まで来ているのか。どうしてそんな格好で綾瀬に声をかけたのか。

綾瀬がこの条件を突き付けてきたのは、きっと必然なのだ。

「わかった。みててくれ、綾瀬。」

綾瀬は素直にうれしかった。自分が疾風にこの条件を突き付けられたことに。疾風がまた、昔の谷口疾風に一瞬だけ戻ってくれたことに。疾風が自分と、朝陽と、そしてこの夏と勝負をするところがみられて。

久しぶりに登場する過去のヒーローを、グランドのほとんどの仲間たちは冷たく迎えた。でも、キャプテンと監督だけは、疾風を温かく迎えた。

「みんな!朝陽と疾風を、もう1度対決させてみないか?今回は朝陽がピッチャー、疾風がバッターだ。さあ、谷口!バッターボックスに入れ!」

かつての仲間たちに背中を押されて、谷口疾風は懐かしいバッターボックスに入る。懐かしいと言っても、つい数週間前まで練習していた野球場の、何も変わらないバッターボックスなのだが。

体はきっとなまっている。ヒットを1本とれるかなんかわからない。アウトで終わってしまう可能性は高い。守備位置につくみんなの目は、夏とは思えないほどの冷たさを帯びている。それでも打たなければいけない。

自分のために、朝陽のために。

「谷口君、僕は手加減しないからね。」

その言葉の意味を、疾風はあえて租借しなかった。手加減なんてされてたまるか!この夏に本気で向き合うことが、今の疾風にかせられた氏名なのだ。もしヒットを打てば、綾瀬は朝陽でなく、疾風に振り向いてくれる。朝陽にまけない男になれば、もしかしたらまた野球を支度なるかもしれない。いや、朝陽にではない、自分にだとまた思い直す。もう時間がない。バットをもつ手が思い。みんながにやにや笑いながら守備位置に立つ。いけるだろうか。打てるだろうか。勝てるだろうか…。

鮮やかに花たれる球。あっさりと視線の角に消える。ストライクだ。

やはり朝陽の球速は早い。球種だって悪くない。本気を出さなければいけない

。いや、さっきは本気じゃなかったのか。ずっと本気で生きてきたんじゃないのか。本気で生きなければ朝陽に、綾瀬に、両親に、戦死した曾祖父に、自分に失礼だ。

深呼吸をして本気で朝陽の球と向き合う。

自分の目がプレッシャーになったのだろうか、朝陽は思いっきりボール球を出してきた。油断しただけなのだろうか。

もう1度球をしっかりと見極める。またボールだ。

ふざけるな!せっかくおれが本気を出そうとしたのに。心の中にある怒りを飲み込む。こんなときこそ自分の中にある力を制御する機会だ。今自分が怒ったところで何も解決しないのだから。

思いっきりバットを振り上げる。玉がバットに強く触れる。

ファウルが鮮やかに飛ぶ。追い込まれた。でも前向きな追い込まれ方だ。

昔もそうだった。疾風はいつも野球を頑張っていた頃も、ファウルで粘るのが得意で、体力を消耗させてから打つことが多かった。そんな疾風のことを、みんなは「納豆バッター」なんて呼んでいたっけ。

気づけばフルカウントになった。もうウジウジしている暇はない。綾瀬が待っている。この熱くてうだるような、しびれるような太陽の下で。

久しぶりに熱くなれた。久しぶりに青い空を見上げられた気がした。この空がいつまでも平和でありますように。こんなふうに、青い空の下で、世界中のみんなが、自分に、自分の人生に熱くなれる、そんな平和な世界がいつか来ますように。

そんな願いを込めて、自分の細いバットを振り上げる。

響く金属音。はじかれたように動く足。驚く朝陽の顔。ガッツポーズをするキャプテンと監督。必至で玉を追いかけるかつての仲間たち。

綾瀬の目から次々にあふれだした涙は、谷口疾風という男が、久しぶりに1類ベースを元気よく踏み占めたすがたを、ちゃんと前をみてとらえていた。

正直、綾瀬は疾風を試していたんじゃなくて、自分を試していた。もし綾瀬が疾風のことをまだ好きならば、疾風があんなきれいなヒットを打っても、心臓は高鳴らないし涙も出ないし勘定も高ぶらないとおもっていた。むしろ朝陽がヒットを打たれたとおもって悔しい気もちになるだろうとおもっていた。

でもやっぱり疾風は強いんだ。綾瀬は疾風を愛する資格があるんだ。疾風にそれを証明されてしまっては、朝陽との大切な夏休みのことなんか、すぐにふっ飛んでしまう。綾瀬はまだ疾風に気もちを伝えられていないから、二人が恋人になれるかなんかまだわからない。でも、恋人になれるかなんかどうでもいい。二人の中にある嘘を、恋を、夏を、心を伝えることができれば、綾瀬はそれでよかった。そうして初めて、綾瀬は疾風を心から受け止めることができるとおもっていた。綾瀬があの日、朝陽をそうしたように。

だから綾瀬は背筋を伸ばして、疾風と花火大会に行くことを決めた。

一方の朝陽も、疾風からの痛烈なシングルヒットを受けたのに、なんだかすがすがしい気分になっていた。自分だって本気で力投して、疾風に立ち向かったつもりだし、自分のプレイに悔いはない。今回は明らかに疾風のほうが気合で勝っていた。だからあんなに強い打球を作りだすことができたわけだし、あんなにも凜とした姿勢で走ることができたのだ。疾風がこれから野球を続けるかなんかわからない。でも、彼が何かに本気になれる手伝いができたなら、朝陽はそれだけで満足なのだ。

そんな明るい気もちで、朝陽はその日の野球の練習を終えた。練習試合まではあと1週間もない。監督もキャプテンも、自分の力量にかなり期待している。朝陽は期待されることに慣れていなかったから、それをプレッシャーだとは思わなかった。期待をされると言うのはそれだけ、自分が相手にその実力を認めさせたということなんだから、なにも既往ことなく、そして何も自分を恥じることなくプレイすればいい。だって朝陽は、あの星で、誰かに期待されるなんてことはなかった。みんなには、支配者の息子だから当然という感じで、強いことを認められていた。いや、認めるなんてきれいな言葉では言えない。強いことが常識だった。ここはそんな世界ではない。もっと美しくて、喜ばしい世界なのだ。

アパートに向かう朝陽の背中に、少し冷たい風が吹いた。木に止まっていた何羽かの黒い鳥が一斉に舞い上がる。それに混ざるように、低いカラスの声がした。

それは一瞬カラスの声のようにも聞こえたが、同時に何かを朝陽にささやきかけているようにも聞こえた。

「見つけたぞ、朝陽!」

その声を聞いた瞬間、朝陽の頭の中にあった地球の美しい思い出は、一気に凍らせられた。

もうすぐ夏は終わってしまうんだろうか。

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