戦争

あれから数日が経った日曜日。世間はずっと夏の日差しが降り注ぎ、夏休み真っ只中の公園は子供たちで賑わっていた。川沿いの道をランニングする人の数もわりと多い。セミが命を無駄にしまいと威勢良くも泣いている。穏やかで、よくある夏の地球の風景が、そこには広がっている。

そんな穏やかな地球で、綾瀬たちの生活は、何の変調もなく進んでいた。もちろん何の変調もないわけではない。一つだけ大きく変わったことがある。綾瀬と朝陽、そして疾風の関係である。3人は、それぞれに思うところはあるけれど、一応友人ということになったのである。しかも、ただの友人ではない。主に朝陽の家を出入りする友人になったのである。

きっかけは、病院を退院したとき、突然疾風が朝陽を家まで送ると言いだしたことから始まる。綾瀬がそれを知ったのは少しあとのことだが、自分もまだ本調子ではないというのに、一人で帰りたくなかったのか、それとも朝陽が心配だったのか、彼のことをアパートの最上階にある部屋まで送ると疾風が言いだしたのだ。朝陽も、これ以上人の助けを下手に拒めば、地球の人間に嫌われるような気もして、一緒にかえってもらうことにした。一緒に帰ってもらうとはいっても、別に彼におんぶに抱っこというわけではない。ただそばで一緒に歩いてもらうだけのことだ。

「おれの家はこの丘を下った川沿いにあるんだ。」

丘の途中にある彼と綾瀬のアパートの前まで来たと気、疾風は言った。

「そっか。じゃあこの暑いのに坂を上らせちゃったんだね。」

朝陽は、自分と違って息切れしそうになりながら坂を上がってくる疾風のことが心配になってそう言った。

「馬鹿。こんな坂、きつくもなんともねえよ。おれをばかにするな。」

それは本心でもあり、嘘でも会った。なぜなら、昔の疾風はそんな坂はきついと思わなかった。普通にかけ上がることだってできた。でも、今の疾風は、それを仕様と思えば思うほど、かすんで消えそうになる理想の自分を追いかけることしかできない。小さい頃は、風邪を引いたり、公園で遊んでいたら怪我をして歩けなくなった綾瀬のことを支えてやりながらアパートまで送り届けてやることだってできたのに。

「この丘はいいね。上まで上ったら朝日がきれいだろうな。」

「そりゃあもう…。」

疾風は綾瀬のことを思い出した。綾瀬は毎日この丘の一番上で朝日をみている。つい最近まで続けていた朝ランのとき、綾瀬が朝日をみている場所まで丘をかけ上がってやろうかとも思った。でも、たいていは川沿いを走ることだけで満足してしまう。朝日なんかいつでも見られる。わざわざランニングしてまでそれを見に行く必要なんかない。そうやって自分から逃げてきた。

疾風は朝陽の部屋の入り口まで彼を送った。彼は部屋のカギをそっとあける。

「あのさ…。」

疾風は深呼吸をして朝陽に尋ねる。

「また来ていいか?」

疾風の震えた声に、朝陽は笑った。

「もちろんだよ。また将棋しようよ。」

その朝陽の言葉が、疾風をつなげ、そして綾瀬をつなげた。

その日曜日、アパートの入り口の少し広いところで、朝陽はすぶりをしていた。今日は午前中で練習が終わったからだ。でもなんだかすぶりをしたくなって、バットを持ち出して外でやっていたのだ。すると、ゆっくりと坂を上がってくる少年がいた。疾風だった。

「どうしたの、疾風君。そんな重そうな本なんか持って。」

疾風は、本を持っているだけでなく、重い足取りで坂を上っていた。今日行われた、「次世代平和の会」の新しくなった会合で、今後の活動のグループに分かれることになったのだが、疾風は自分にとって一番苦手とするグループに配属された。つまり、役所や公共団体にたいして行う提言所の作成を行うグループなのである。

「谷口君、朝比奈国際でしょ?それなら勉強できるじゃん。ちょっとつまんない仕事化もしれないけど、書類作成のほうを頼むよ。」

東郷さんに頭を下げられると弱い。なんだか、今まで勉強してこなかった分をここで挽回しろと言われたような気がしてやらざるを得ないような気分になる。もちろんそれはそうなのだ。

メジャーリーガーになることだけを夢見て必死に野球だけは頑張ってきた。しかしその分犠牲にしたものはたくさんある。その一つが学業だった。もちろん、学業もスポーツもできる野球選手はたくさんいることぐらいはわかっていた。でも、どうせそんな両刀遣いは、自分にできないと疾風にはわかっていた。そもそも疾風は、机に向かってあれやこれやすることがどうも苦手だったのである。そんな苦手なことを、いくら自分が頑張ろうと思ったものとはいえ、いきなり本を読んで提言所のネタを探してこいというのは鬼畜すぎる。

とりあえず、図書館に行って、関係のありそうな本を一緒くたに借りてきた。とはいうものの日本史も世界史もろくによくわかっていないような男なのに、戦争の歴史やら街の歴史やらが書かれた本を読むというのだからこれは一大事である。

「こないだ話したさ、飛行場建設の反対運動に使う資料を借りてきたんだけど…。読むのが憂鬱なんだよ。」

セミ時雨が一瞬だけ静かになる。自分が、憂鬱、なんて言葉を突然使ったせいだろうか。

朝陽は、そんな疾風のことがなんだかかわいくて笑ってしまった。朝陽の場合は、すきでもないのに本を読まされて、いらない知識までいろいろと付けさせられた人間だ。だから彼とは全然違う意味で悩みを抱えている。

「そおか。じゃあうちで読んでいけばいいじゃない。」

「はあ?なんでおまえんちで読まなきゃいけないんだよ。しかもおまえ、今すぶってるんだろ?それならそれに集中しろよ。」

「じゃあなんで君はわざわざ、坂を上ってきたわけ?君んちは坂の下なんだろ?」

これを言われてしまったら、疾風はもう反論できない。朝陽がどんな星から来て、どんな教育を受けてたのかは置いておいて、なんだか彼なら勉強を教えてくれそうな気がしたから。たったそれだけのことだ。

「ほ、本当は綾瀬の家で読もうと思ったんだ。でも、綾瀬にはこのことを

知られたくないんだ。あいつの中でおれはただの野球ばかでいてほしいからよ。こんな…政治活動みたいなことをしてるようなやつだとは思ってほしくなくて…。」

坂の途中で話す二人の体から汗がそっとしたたれ落ちていく。夏は二人に音もなく近づいている。

「とりあえずきなよ。うちに。」

疾風が朝陽の家に行ってまず驚いたのは、エアコンがついていなかったことである。もちろんエアコン事態はあるのだが、彼はまったくエアコンをつけず、窓だけをあけて生活している。

「なあ…。悪いんだけどさ…。」

勧められた椅子に坐りながら、疾風はためらいがちに朝陽に話し掛ける。

「どうした?あ、今おちゃ入れるから待ってて。」

朝陽は、つい最近このアパートに超してきた、いや、つい最近地球にやってきた男だということを感じさせないほど、このアパートの最上階、日当たりのよい南向きの窓を持った部屋を、我が物顔で使っている。なぜこの部屋に住むことになったのかを疾風は聞かなかった。聞くつもりもなかった。自分の中で、綾瀬と朝陽が勝手に知り合いで、結託してこの部屋に住むことを綾瀬が承諾したんだろうという結論に達したからだ。このアパートの管理人は綾瀬ではないのだが、そういうつじつま合わせはどうでもよかった。ともかく綾瀬と朝陽は、もう疾風の知らない関係を築いていると思っていたほうが、あとで綾瀬にそう告げられたときのダメージが違う。

手慣れた手つきでお茶を入れる朝陽を見ながら、疾風は思い切ってさっき思ったことを口にする。

「エアコンつけてくれないかな。おれ、ちょっと暑がりだから差。」

朝陽は、大きな声で笑った。それは二つの意味が会った。

「そんな、めちゃくちゃやばいこと言うみたいな声で頼まなくてもいいだろ?それに、こんなんで暑がってちゃ僕の星には住めないぞ。」

朝陽がエアコンをつけたがらない理由は、太陽の光を浴びていないと、自分の中のエネルギーがくさってしまうんじゃないかと、勝手に被害妄想をしているだけなのだ。

だから、今度は朝陽が不安げに窓を閉める。

「もしかして、まずかったか?エアコンつけちゃ。」

「いや、いいんだ。疾風君には集中して本を読んでほしい示唆。」

「あんま、気を使わなくていいんだぞ。ここはおまえんちなんだから。」

疾風の言葉を聞いたのか聞いていないのか、朝陽はお茶の準備を続ける。

でも、疾風が驚いたのは、彼が世慣れた人間みたいにお茶やありあわせのコンビニスイーツを机に出していたことだけではない。きちんと整頓された部屋に彼が住んでいることだけではない。もしこの部屋の隣人がこの部屋を尋ねてきても、異星人が住んでいるとは思えないほど、ごく一般的な部屋に住んでいることだけではない。

「それは英語の問題者ないか。」

疾風は、海外に視察に行くことも想定して、英語の勉強をしろと東郷さんに言われていたから、家にあったドリルを鞄に入れておいた。それをおもむろに取り出したのを朝陽にみられた。

もちろんのこと、疾風は英語がからっきしできない。もちろん、ほかの教科だって疾風は平均以下ぐらいしかできないかもしれないが、それにしても英語はほんとうにだめなのだ。なんでこんな呪文みたいな文字を、中学生に、いや、下手をすれば小学生ぐらいから読まされなきゃいけないんだと、憤慨しながらやっていたものだ。

だが朝陽は、まったく違う星から来たはずなのに、あっさりこの文字を「英語」と認識したのだ。もしかして、その星でもこれに似た文字は使われているのだろうか…などと考えてもしかたのないことを考えてしまっていた。

「君、もしかして英語できないの?」

「できなきゃだめなのか?」

朝陽は、少しぐらいいやらしい人間になってもいいやと思って、そのドリルを取り上げた。

「ちょっと見せて。」

ここで疾風は、朝陽が常人でないことを知ってしまう。いや、もともと宇宙から無事に地球に落下してきた時点で常人ではないのだが、彼を地球人だとみなしても常人ではない。

「こんな問題、小学生でも解けるよ。」

彼はあっさりそう言うと、回答で埋められたドリルを返してきた。

「これ、今5分ぐらいの間に全部解いたのか?」

「そうだよ。」

朝陽は平然とそう言うと、冷えた麦茶をラッパのみした。

「おまえ、なんで違う星から来たのに英語が読めるんだよ。」

「何言ってるんだ?英語なんか宇宙共通語なんだぜ。」

「え?」

彼の話していることのベクトルがまったく読めないまま、お茶だけが減っていく。

「僕の星では、宇宙共通語の英語をマスターするためにめちゃくちゃ苦労させられるんだ。小さいころから英語付けでさ。まいっちゃうよね。」

朝陽はドリルを忌々しげに閉じると、冷凍庫から出してきたばかりのアイスを生きお意欲食べた。彼は手の体温が高いから、あんまりアイスに触っていたらみるみる溶けてしまうかららしいのだ。

「おまえさあ、もしかして数学とか理科とか社会とか国語もできるの?」

「できるも何も、できなきゃおやじに怒られるもの。」

朝陽はこれだけ明るく言っているが、ほんとうは心の中にあるつらい泥みたいなのを全部除去したうえでそう言っている。そんなふうに明るく語れる話ではないのだ。でもそれをいちいち地球の人間に説明できるほど、朝陽の心は回復しきっていないし、まだそこまで自分に素直になりきれずにいる。

「まじ?じゃあさ、これ手伝ってよ。」

疾風は、本を読みにきたという目的をすっかり忘れて、鞄の中にいつも自分の戒めみたいにしてしのばせてある夏休みの宿題の束環を取り出す。

朝陽は、こういう束をよくやらされた。だから、正直なところ、こういう束をみると、黒い太陽でのスパルタ教育の思い出が、まるで世界を焦がす火の粉みたいに湧き上がってくる。でもそれを顔に出さないように必死で頑張る。

「いいけど。説くのは自分でやれよ。僕は答えは教えないからさ。」

「ケチ…。」

子どもみたいに膨れる疾風の顔をみながら、朝陽は心の中でつぶやく。黒い太陽では、そんな甘えた声を出すことは許されないんだぞ、と。

彼はしばらく本来の目的を忘れて、疾風と数学の勉強をしていたのだが、思い出したように勉強の手を止めた。

「やばい!こんなことしてる場合じゃない。おれはここに本を読みにきたんだ。」

そう言って、図書館で借りてきた数冊の古本を出してきた。それは街の強度史を記した副読本のようなものと、政治について難しい言葉で書いてある専門書、それに日本のせんそうの歴史について簡単に書いてある新書の3冊だった。

疾風はもちろん活字を読むことが嫌い、というよりは苦手だった。野球選手が書いたトレーニングの本や、ゲームの攻略本、アニメのノベライズの本ならいくらでも読めるのに、こういうタイプの本はどうにも手がつけられなかった。

一方の朝陽は少し違った。彼だって本を読むのは特別好きではない。だが彼は気づけば、本を読めるような人間になっていたのである。好きでもないくせに難しい軍事関連の本を読まされ、難しい宇宙戦略の本を読まされてきた。だからこんな本を読むのは朝飯前だ。

「おもしろそうな本じゃないか。」

「おれはそうは思わないけどね。」

疾風は、まるで本を適当にめくっていった。文字を追う気はまったくないと言う感じである。

「もっとゆっくり読みなよ。読まないと怒られるだろ?」

あまりそういう言い方はしたくなかった。「読んだらおもしろいかもしれないだろ?」とでも言ったほうが絶対にいいと朝陽だってわかっている。でも、朝陽自身、「読んだらおもしろいと思うよ。」といわれて読んだ本なんて一つもなかった。しいていうなら、この宇宙の黒い太陽以外の星について、空中写真付きで載っている写真州みたいな概説所ぐらいだろうか。そしてその中の、「地球」のランだけは、父親によってきれいに切り抜かれていたのだが。

「ああ!」

疾風は、朝陽に言われて頑張って活字を読んでいたのだが、いらいらしたのか、30分もしないうちに本を閉じてしまった。

「なんかむしゃくしゃしてきた。ちょっと将棋盤持ってくるから、朝陽、付き合えよ!」

突然の戦線富国に、朝陽はため息をつきながら、部屋を一度出て言った疾風を見送った。彼は行き当たりばったりで、優柔不断で、全然脳のない男だと、正直朝陽は思っている。それでも朝陽が疾風と友達でいようと思ったのは疾風が黒い太陽にはいないタイプの人種の人間だからだ。あんなことをしていたら、きっと黒い太陽から追放されてしまう。でも彼は地球から追放されていない。社会から追放されていない。むしろ彼は社会のために動き出そうとしている。そんな彼のことは見習わなければいけないし、この星のことも見習わなければいけない。

彼が置き去りにした本を、朝陽は何の気なしに眺めてみることにした。

何ページか開いてみて朝陽は困惑した。というより、興味を引かれる記事がいくつかあるのに気づいた。

本には、戦火が街を焼き尽くす画像が載っていたり、戦争体験者の証言が載っていたりした。

地球にも平和ではない時代が会った…。しかも、きっと今からそう遠くない過去に、そんな時代があったのだ。平和を知らず、この地球が焼き尽くされたことはいままで何度だってあったのだろう。それでも今こうして、外には優しい夏の風が吹いて、セミの声が絶えず聞こえて、アイスを食べながら自転車をこぐ子供たちがいて、犬の散歩をする人がいる、そんな

世界が存在している。その世界が、朝陽はいとおしかった。そんな世界を朝陽は疾風にずっと残していてほしかった。そうしなければ、きっとこの星は、朝日がきれいな星ではなくなってしまうだろうから。

だから朝陽は、将棋盤を持って子供みたいに騒ぎながら部屋に戻ってくる疾風を、温かく歓迎することができた。彼にとってはちょうどいい具合に冷えた部屋が心地よかったのだろう。気づけば、だいぶ日が傾いていて、もうすぐ夜が迫っていた。

その日綾瀬は、なんだかそわそわした気分になってしまって、ピアノの前から離れることができなかった。いくら楽譜をなぞってみても、いくら明日コンクールで弾かない練習曲を適当に弾いていても、気持ちが満たされることはない。もうすぐ、明日が来てしまう。明日の本戦の結果次第で、半年とはいえ、綾瀬は「音楽ユース国際インターン」のメンバーとして、世界にはばたく切符をてにすることができる。綾瀬は、切符を手にできなかったらどうしようとか、切符を手にできたらどうしようかとか、それ以前のことを考えた。自分には世界にはばたく資格なんかあるのかと…。

そんなことを考えていては、絶対に前には進めない。でもその思いは、誰に差とされても、誰にばかにされても、誰に応援されてもぬぐえない。自分の一番弱いところやだめなところなんて、誰に注意されても、どんな方法で磨いても、完全にぬぐいとることなんかできない。だってそれは、自分の一番自分らしいところだったりするのだから。

綾瀬はそわそわした気持ちを何も解決できないまま、ピアノをそっと閉じる。でも、部屋でじっと勉強なんかしていたら、今度こそ頭の中が煮え繰り返ってしまう。だから、自分のピアノを涙を流して喜んでくれた朝陽のところへ行ってみたくなったのだ。最上階の朝陽の家に向かっていた。

今日も母は遅いのだろう。少しぐらい朝陽のいえに長居をしたっていいはずだ。綾瀬も疾風も、もう朝陽の家に行くことには、実は慣れっこになってしまった。

インターフォンを押してもなかなか応答はなかった。まるで、綾瀬が朝陽に初めてまともに会話をしたときと同じように、インターフォンは家主には届いていないのだろうか。もしかして、エアコンを消しっぱなしにしているから、熱中症になってさっそく死んでしまったのか。そんなはずはない。彼の話では、灼熱の太陽の日差しに1日中覆われた星に住んでいたんだから、厚さには自信のある体をしているはずだ。しかも彼が倒れるのは決まって雨の日なんだから、熱中症で倒れるなんておかしい。

いろいろと考えてる暇があったら、もう1回ぐらいインターフォンをプッシュすればいいのに、なかなかてが伸びない。

だが逆に、今度は綾瀬のほうがクラクラしてきて、いくらエアコンがついていないにしても、太陽から逃げられる室内に入りたくて、販社的にいんたーフォンを押していた。部屋で必死になって将棋を指していた二人の手が止まる。

暑さに打ち震える綾瀬を迎え入れたのは、家主の朝陽と船客の疾風だったというわけだ。

「聞いてくれよ、綾瀬。おれ、もう2連敗なんだせ。なんで勝てねえんだ。これでもじいちゃんに鍛えられたっていうのに。」

「だから言ったろ?優柔不断な君には将棋なんか向いてないんだって。」

いつのまにやら朝陽の部屋には、疾風が使っていた立派な将棋盤がおかれている。

「疾風…。それ、持ってきたんだ。おじいちゃんのなんでしょ?」

綾瀬が尋ねると、疾風は少し苦い顔になる。疾風の祖父…。それはそれはあっけない死に方で、言ってしまえば軽い熱中症だった。疾風の祖父は大の将棋好きで、疾風をプロ棋士にしたいと思ったこともあったらしい。そして、彼は死ぬ直前まで、一人で将棋をさしていたという。彼はエアコンもつけないまま、戦争で死んだ疾風の曾祖父の写真をなぜか子わきに抱えて将棋を指し続け、そのまま死んでしまった。その日は、疾風がちょうど中学の野球大会でホームランを打たれた日でもあった。

「それはおじいちゃんの魂が詰まった将棋盤だから、家からは動かさないって言ってたのに。」

「いいんだよ。この将棋盤も、ちょっとは違うところで使ってやったほうがいいんじゃないかって思っただけだよ。」

でもやっぱり、疾風の顔はどこか悲しそうだった。

きっと疾風が、野球をやめて新しいことを始めようとしたのは、そんな祖父をつれていってしまった曾祖父のためでもあるのだろう。綾瀬はそれをあえて疾風には聞かなかった。聞きたくなかった。綾瀬は疾風の期待通りに、野球をやり続けている疾風のことを、怪我をする前の谷口疾風を、そのまま心の中で生かしていた。

「なんか腹減ったな。」

疾風は将棋盤を机のわきにそっと寄せてから言った。

「じゃあ疾風君、晩ご飯の材料買ってきてよ。負けたんだから。」

朝陽の言葉に疾風は、畜生、と将棋盤の端っこをたたく。

「辞意ちゃん、ごめん。おれは強いプロ棋士にも、野球選手にもなれそうにない。それどころか、世界平和も守れそうにないや。」

そう心の中でつぶやいてから、しかたなく丘の下にあるスーパーに出かけた。

「ちょっとからかいすぎたかな。」

さっき、自分たちがお茶を飲んだときに使った湯飲みを丁寧に洗いながら、朝陽は少しこまったような顔になって言った。綾瀬は、昨日も見とれていたはずなのに、丁寧に整頓され、荷物もそんなおかれていない朝陽の部屋を見渡す。宇宙から来たんだから、大量の荷物でここに引っ越してくることはありえないが、それにしてもこの部屋は白すぎる。何の傷さえないように見える。彼が作り出す嘘の笑顔もいつもそうだった。

「大丈夫だよ。疾風は自分に甘いから、あれぐらいがいいんだよ、きっと。」

野球をやめてほしくない。まだ子供のままの自分が心の中で叫ぶ。世界平和を守ったり、街を守るために奮闘したりする疾風だってかっこいいはずなのに、やっぱり綾瀬の心の中に生きている疾風は、疾風がそう望まなくても、野球を続けている疾風のままだ。綾瀬が好きなのは、そんな疾風だった。でもそんなことを言ったら、今の疾風が嫌いということになる。そんなことはどうしても言いたくなかった。認めたくなかった。

「コンクール、明日だっけ。」

朝陽は、おもむろに綾瀬にそのことを切り出した。別に綾瀬だって、それを切り出されたくなかったわけではない。ただ単純に、それを朝陽が覚えていてくれたことがうれしかった。

「全然実感がないんだ。明日のコンクールで3位以内に入れば、10月からドイツだなんて…。私、そんなに努力したつもりなんかないし気づいたらピアノを弾いてたみたいな人なのに、なんかこんなことになっちゃってさ。大丈夫なのかなって心配なんだ。」

朝陽は湯飲みを洗う手を止めた。止めたというより洗い終わったのかもしれない。朝陽はゆっくりと食器棚にそいつをしまう。

「こういう言い方、君は好かないかもしれないけど…。」

棚を占めながら朝陽はゆっくりと言葉をつむいだ。

「君は僕に似ているよ。」

綾瀬はその言葉が嫌いだからではなく、そんなことはありえないと思ったから、顔を隠すように、下を向く。

「朝陽君になんか、私は全然似てないよ。自分から思い切って家出をしようって決めた朝陽君の方がずっと強い。」

「そうだね、そうかもしれないね。」

その相槌には、何もこもっていなくて、空っぽのまま投げつけられた言葉のように綾瀬は感じた。

「でも、僕だって結局は同じなんだ。気づいたらこの地球に落ちて、気づいたら君に出会っていた。だって、もともと黒い太陽から飛び出してきたとき、僕は地球に行こうなんて決めてなかったもん。目的地がないたびは意味がないなんて、そんなの嘘だよ。もしすべてのことに夢や目的やゴールがあるなら、人は生まれた理由を知っているはずだし、この地球であんなふうに夕日が沈む理由も知ってるはずだから。」

難しい話をする朝陽のことを、綾瀬はあながち嫌いではなかった。彼はやっぱり違う星から苦労してこの地球にやってきただけあって、腰の末方が違う。もちろん綾瀬だって、音楽ユース国際インターンの話を聞いたときは、胸が高鳴ったから、努力してみようと思って必死に頑張ったものだった。でも、それ以上に、綾瀬の中では、突き進んでいく自分の意識に追いつけていない心があって、そいつが前に進む邪魔をし続けていたのだった。

沈黙に包まれた部屋に、疾風が勢いよく飛び込んでくる。買い物が終わったらしいのだ。

「この野菜、あんまり立派じゃないね。」

「しかたねえだろ?安かったんだから。」

笑いあいながらサラダをつくる二人の背中をみながら、綾瀬は少しぐらい気分を変えるために、自分もそれに加わった。

友人たちのたあいない話は、自分のことを直視できずにいた綾瀬の心を少しずつほぐしてくれた。たとえ明日がやってきて、それが明後日になったとしても、綾瀬はこんな自分を抱えて生きていくしかない。そしてその自分が突き進んでいく姿に、必死でしがみつくしかない。そう思い込むのがきっと一番楽で、幸せで、楽しい。

「じゃああたし、帰るね。明日も早いし。」

3人で楽しい夜ご飯のときを過ごしたあと、綾瀬は勢いよく立ち上がっていた。

「そっか。じゃあね、明日頑張るんだよ。」

朝陽の声がどこかか細く聞こえる。でも疾風のこえは、聞こえなかった。洗いものをしていたせいだろう。きっと綾瀬が帰るときに洗いものをしたのはわざとにちがいない。綾瀬はそれに怒ってはいなかった。今も必死になってピアノにかじりつく綾瀬のことを、きっと疾風はうらやましがるだろうから、綾瀬は何も言わなかった。

家に戻ると驚いたことに、母が帰っていた。母の七瀬は、テレビで夜のニュースを見ていた。ニュースでは、綾瀬たちの住む街から電車で少し行ったところにある団地の建設現場で不発弾が見つかって、建設会社の事前調査ミスがかなり発覚したという、実に身震いのする内容が報じられていた。ニュースキャスターは真剣な表情で、戦争の爪痕はこんな所にも残ってるんですね、などと話をしている。でも母は、不発弾なんか興味がないみたいに、カップスープを暑そうに飲んでいる。この人は良くも悪くも、平和な世界に住む人なのだろうと綾瀬は心の中で笑う。

「おかえり。あんた、また朝陽君ところに行ってたの?」

母は、あの日のこと、そして疾風と朝陽が両方病院送りになった日のことを二つとも隠したままではあったが、綾瀬と朝陽とが親密な関係を持つことを承諾していた。唯一綾瀬が解せなかったのは、朝陽が同じマンションに住んでいたことを、まるでまったく知らないことみたいに驚いたことだった。

「あの子、うちのマンションに住んでたんだ。それならもっと面倒みてあげなきゃだめだったわね。」と、まるで自分は彼の入居先選びに何も関与していないみたいな言い方をしたことだった。絶対に、母は山羅朝陽の処遇や、彼について、綾瀬以上に何かを知っているに決まっているのだ。そうは思っているのだが、証拠もないし無理やりそんなことを尋ねてもし方がないから母の前では朝陽の話をほとんどしなかった。

「うん。朝陽君、めちゃくちゃ勉強できるみたいでさ。ちょっと宿題手伝ってもらってたんだ。」

別に母に100パーセント嘘をついたわけではない。ご飯を食べたあと、疾風が朝陽の勉強ぶりを話してくれたから、綾瀬も少し英語を教わったのである。疾風の言う通り、彼は勉強にお居ても常人ではないということは理解できる話だった。

「そっか…。あんた、明日は早いんでしょ?そろそろ寝たら?…って、いつもあんたは早いか。」

今日の母はいつになく蒸気減だった。早く上がらせてもらったからだろうか。それとも娘がピアノコンクールに出る前の日だから、わざとそんなふうにふるまっているんだろうか。どちらにしても、綾瀬にとってはいいチャンスである。

「ねえ、母さん。」

何かと心配されると、厄介なので、綾瀬は風呂に行く準備をしながら母に尋ねた。

「何?」

「あのさ、母さんって、朝陽君が宇宙から来て、空から降ってきたって話は、知っているんだよね。」

自分がすごく書き言葉みたいな話し方をしているのが気持ち悪くて、なるべく話が前に進むことを期待した。たとえ話が進まなくても、とりあえず母が何か意味のある答えをしてくれることを期待したのだった。

母は、鏡をみながら何かを考えているようだった。

「そうね。だって彼は、特別な存在だから。」

「特別な存在…?」

すると母は急につくったみたいな声になって話を無理やり違う方向に進めようとした。

「綾瀬だってそう思うでしょ?彼は野球もできるみたいだし、勉強もできる。でもどこか病弱なところがあって、二日連続で病院に運ばれた。変わった子だと思うけど。」

きっと母は、朝陽は地球人の子なんだと言いたいのだろう。だから、「変わった子」という言葉を使うだけで、宇宙人としての彼について、何も語ろうとしない。語ろうとしないというよりも、何かを隠そうとしているように思われた。母はきっと、朝陽に関して、あまり知られてはいけない秘密のカギを、しっかりと持っている。だからそんなにも必死になって朝陽の本省についての会話を避けようとするのだ。どうしてそんなに隠さなければいけないことがあるんだろう。どうして母は、朝陽についての秘密のカギを、そんなに大切に背負う必要があるんだろうか。

でも、そんなことを考えている暇があったら、明日の大事なコンクールのために、早く眠ることが先決だ。綾瀬は、そっか、そうだよねとだけ言って風呂に入った。

次の日の朝、予想以上に綾瀬は、眠い目をこすって目覚めることになった。夜ほとんど眠れていないのだ。こんなことは、コンクールに出るときのコンディションではない。こんなに眠い体で、ほんとうにいい演奏ができるのだろうか。音楽を通した国際貢献と銘打った今回のプログラムは、いわゆる本気で音楽家を目指す若者というより、それなりに音楽ができる人たちによるものだ。とはいっても、多少なりとも自分よりもできる人は大勢いる。少なくとも自分の上にどれだけできる人がいようとそうでなかろうと、このコンディションは悪すぎる。

いつものように朝日をみるために丘に上った。今日も夏らしくよく晴れている。朝陽にとっては絶好の野球日寄りだろうか。疾風にどって、この天気はどう移るだろう。

その美しい空に大きく万歳をして、太陽から力を借りる。いつも朝日を見るときにはやっているはずなのに、今日はなんだか、その弱い朝の光が、綾瀬の心に強くしみわたっていった。

そのとき、必死で丘を上がってくる少年の姿が見えた。

「やっぱりここか。」

疾風は、久しぶりに坂をかけ上がったものだから、体からしたたれ落ちる汗と、痛みにあえぐ足の療法をなだめる必要があった。

「疾風。もしかして、また朝ラン始めたの?」

綾瀬はうれしかった。最近疾風が朝ランをしている様子をみなかったからだ。でも今の疾風はさっき起きたばかりとは思えないほどはつらつとしていて、体中からしぶきのように汗を流していた。

「いや、まあ、そうなんだけどさ。どうしてもおまえに伝えた買ったことがあって。」

疾風の顔が赤い。熱があるからだろうか。酒を飲んだからだろうか。走りすぎたからだろうか。でも綾瀬は、しっかりと疾風の目を見つめた。

「今日、頑張れよ!おれはいけないけど、応援してるから。」

疾風はそれだけ言うと、今にも坂を転がり落ちんばかりに走り出そうとした。だから綾瀬は、彼の肩をそっと押しながら叫んでやった。

「あんたも頑張んなさいよ!」

朝陽と逆方向に消えていく疾風の姿は、綾瀬が初めて恋したときの疾風の背中と同じだった。だから綾瀬も前に進めた。

6時半ぐらいの特急列車に載って、綾瀬は3時間ほどかけて、大きな街に出かけた。その街で今回の本戦が開かれるらしい。

本戦は、午前中の企画書プレゼンと午後の実技試験という名のコンクールに出場する。ピアノ部門のドイツへのパスポートはわずか5組しか用意されていない。そんな広いもんではないとわかっている。

まずはプレゼンで弾みをつけなければいけない。10時から始まった企画書プレゼンは、みんな気合が入っている。朝陽の出番は10時50分からの5番目だった。

「私は…みんながきれいな気持ちで朝陽をみられるようなそんな平和な世界をつくりたいと思っています。そのために音楽ができることはきっとあるはず。朝陽の輝きを、空から降ってきそうな爆弾の音を、飢えにあえぐ子供たちの涙も、富を振りかざす人たちの笑い声も、美しい光の中ではしゃぐ子供たちの声も、すべて音楽が包み込んでくれるはず。すべて音楽がつないでくれるはず。その音を聞けば、みんなが朝陽に顔を向けて笑えるようになる。そんな音楽を奏でたいんです。」

東郷先生になんども手直しを命じられた、実に美しすぎるプレゼン現行に、自分が酔ってしまいそうになる。それでもなんとかそれを読み上げる。なぜならそれは自分の本心なのだから。きれいすぎる言葉で飾っていたって、それはほんとうの気持ちだった。

でも、午後のコンクールは音楽の勝負だ。言葉では飾れない。自分が第好きな曲でもって、プレゼンで表現した言葉の装飾品を、音に込めなければいけない。

この日のために、頭が痛くなるほど、耳が痛くなるほど読み込んだベートーベンのソナタ、『月光』。小学生のコンクールの課題曲にもなりそうなこの曲を、鮮やかに引きこなさなければ、ドイツ行きの切符はない。鮮やかに引きこなすだけではだめだ。「みんなが朝日を見上げられる世界を奏でるピアノ」を、できるだけ弾かなければいけない。曲目を月光にしたのは街替えだった。でも、「朝陽」なんて曲はクラシックにはないし、自作の曲なんて全然作るつもりもなければ力量もない。だからこれが低いっぱいだ。

2年ぶりのコンクールは、久しぶりに感じる独特の緊張感に襲われる。名前を呼ばれて、重い靴を引きずるようにして舞台に上がる。目の前には、昨日もおとといも弾いたはずのピアノがある。勢いよく深呼吸をして、朝陽とはまったく逆方向の月光を弾く。でもこれでしか、今の自分を表現できる方法が見当たらなかった。音を外さないように、光の調べを美しく、誰かの朝陽になってくれることを願って。

母は仕事を口実に会場には来てくれなかった。でもそれでよかった。母に聞かせるピアノではなかった。聞かせてもよかったが、きっとまだ留学することを認めてくれていない母には、自分のピアノを聞かせたくはなかった。母がほんとうにその気になるまで、綾瀬は自分のピアノの力量も、自分の努力の決勝も、自分の未来についてさえも、母に語る気はない。母の中で子供の綾瀬が生き続ける限り。

「綾瀬ちゃん、集中よ。月光は、悲しくて美しい曲。その世界観にさえ入り込めれば、きっとあなたは、ドイツにいける。夢の扉が開けるわ。今は夜明け前の月明かりの下に、あなたはいるのよ。」

控え質で東郷先生が、その濃い化粧を身に纏わせながら叫んでくれた言葉を思い出しながら、ハイテンポの3楽章を弾いてみる。東郷先生が弾いてくれたような月光には程遠い、すっかり欠けたつきになってしまったような気がして、指が震える。それでも、最後の1音まで、月が朝陽に変わるまで、綾瀬は引き続けた。

拍手がわき怒る。いままで聞いたことのないほど大きな歓声が聞こえたようなきがした。耳をつんざくような高くて輝かしい拍手の音が、綾瀬の心にしみわたる。これでいいんだ。たとえドイツにいけなくても、綾瀬はここまで頑張ることができた。それだけで十分じゃないか。何も不安に思うことはない。

「綾瀬ちゃーん!」

演奏を終えて、トイレに向かおうとしていた綾瀬の後ろ姿に、大きな声で呼び掛ける女の人がいた。これこそが東郷あすみ、彼女を小学4年生から指導しているピアノ教師だ。

それまで綾瀬は、普通の子供用のピアノ教室に通っていたが、その環境になじめなかった。すると、母が知り合いのピアノ教師に頼み込んだこと、これが彼女との出会いだった。

もちろん綾瀬は、東郷先生を師事していたし、とても信頼していた。けれど、この人にはどこか、自分には理解できないなぞのオーラがあるようにも感じられたのだ。だからいつも、彼女に言われることというのは、どこか迷いがつきものになる。これでほんとうにいいのか、こんな弾き方をして、本当にいいのかというような教え方をされることがある。なぞった楽譜と相反することを言われるなんて日常茶飯事だった。でも綾瀬はそれが気に言っていた。だから彼女に師事し続けている。

「綾瀬ちゃん、ほんとうに今日の演奏はよかったわよ。いつも以上に生き生きしてた。」

甲高い声で、今にも抱きつきそうになるんじゃないかと思うほど、彼女ははしゃいでいた。

「先生、ありがとう。私…いけるかな?」

綾瀬がそう言うと、先生はニヤッと笑った。

「そんなこと、今の今は関係ないわ。とにかく綾瀬ちゃんは、聴衆を感動させる曲を弾くことができたんだから。」

それは確かにもっともな話だが、誰がどう感動したかなんて関係なかった。今の綾瀬が知りたいのは結果だけだった。きっと、その鎮痛剤がないと、綾瀬はほんとうに痛みに気づかないし、ほんとうの快感を味わえずにいた。

「とにかく今日はゆっくり休みなさいね。結果が出るのは1週間後なのでしょ?どきどきね。しばらくは夏休みを楽しむといいわ。」

そう言うと先生は足早に去って言ってしまった。

綾瀬は、なんだか気持ちの整理がつかないままトイレに行き、会場をあとにしようとした。すると、向こうのほうで手を振る姿があった。その大きな手をみたとき、綾瀬はなぜか異様なまでに安心感に浸っていた。

「綾瀬。」

朝陽は勢いよく綾瀬に駆け寄る。さっきの東郷さんと同じような顔をしている。でもどこか、少し不安そうな顔でもあった。

「すごくよかった。きっと君は行けるよ。遠くへ。」

「行けると委員だけどね。」

「今から帰るんだろ?」

「うん。」

綾瀬はそう言うと、入り口に向かって歩き出した。

「ねえ、綾瀬。」

朝陽はまだ立ちどまっている。何か不安材料をこの会場に残してしまっているのか、何かを落としてしまっているのか。その理由は判然としない。何かを落としたと思っているのは、朝陽ではなく綾瀬のほうなのに。

「君の先生にあいたいんだけど、会えないかな。」

朝陽の突然のリクエストに、綾瀬はいいとも悪いとも言えなかった。いったいなぜ、音楽にさほど関係なさそうな朝陽が、自分の先生にあいたいなどと言いだすのか、綾瀬には理解の及ばないところだった。でも、会いたいと言われて会せないというのも意地悪な気がしていたし、もしかしたら朝陽だって美しい音楽を奏でることはできるのかもしれない。なんといったって朝陽は違う星からきた天才児だ。野球も勉強も将棋も、そして料理だって何をやらせてもピカイチにできる。ということは、音楽ができても何の不思議はない。だから、そんな彼に、「自分の先生を紹介したくない。」と意地を張るのは、少し違うように思えたのだ。

「いいけど…。もしかしたらもう帰っちゃったかも。東郷先生、なんかいつも忙しそうにしてるし。でも、本業はどこで仕事してるのかとか全然教えてくれなくってさ。」

東郷先生。その名前を聞いた瞬間、朝陽の顔色が少し変わった。朝陽としては、ますます東郷あすみに会う必要が出てきた。もちろん、綾瀬に言われなくても、さっき朝陽は東郷あすみとすれ違っている。でも自分から視線をそらした。彼女と話す必要が今はすごくあるというのに。

「どうする?控え室に探しに行く?」

綾瀬は積極的に朝陽に尋ねる。ここで朝陽のほうが黙ってしまっては、せっかく東郷あすみに会せようとしている綾瀬の気持ちを裏切ることになる。それでも朝陽の胸は、今緊張でいっぱいだった。

朝陽が8歳のときに、突然自分の目の前からいなくなってしまった東郷あすみ…。彼女にはまだききたいことがたくさんあったし、聞くべきこともあるはずなのだ。

「よし、行こう。」

綾瀬としては、こんな緊張した様子の朝陽をみるのが初めてで、いったいなぜにそんなに緊張する必要があるのか、まったく検討のつかない話だった。

案の定東郷先生はもうお帰りになっていた。しかし、それがわかって綾瀬と朝陽が帰ろうとしたとき、受付の女性が突然二人を呼び止めた。

「すみません、そちらの男性は、山羅朝陽さまですか?」

「はい、そうですが…。」

やはり、朝陽はひょっとして、宇宙人とかそういうこと以前に有名人だったりするのだろうか。この受付の女性は、もしかして朝陽のファンとでも言うのだろうか。だが、別に彼をみる目は、羨望や憧れに満ちた目ではなく、普通の受付の人が見せるような微小だったではないか。それなら、なぜこの女性は朝陽のことを…。

何も綾瀬が難しく考える必要はなかった。

「東郷あすみさまから、伝言を預かっております。これを…。」

綾瀬はそれをみてびっくりした。それをみて、というのは、別にそこに書かれていることを見てという以前に、その紙は、なんと綾瀬が使っていたベートーベンの楽譜の切れ端だったのである。わざわざ、楽譜をちぎってそれに伝言を書かなくてもいいじゃないか。そういってしまいたかったが、そういう以前に、その伝言に書かれた文字が目に飛び込んできた。

「朝陽、あすみです。あえてよかった。」

たったそれだけの短い文章なのに、驚きのあまり動けなかったのは綾瀬だった。

でももうそのときには、朝陽は走り出していた。追いかけようとしたけれど、あんな

勢いで本気で走り出した朝陽のことはもう止められない。

同じ頃、谷口疾風は、東郷さんに呼ばれて、駅前の喫茶店にいた。喫茶店は、さすがに疾風もおののくほどエアコンが効いていて、半袖だとすぐに寒くなってしまった。

「悪いね。難しい仕事を任せてしまって。でも君ならできると思ったんだよ。なんてったって朝比奈国際の学生なんだから。」

笑顔の東郷さんとは裏腹に、疾風は自分があまり提言所の参考になる書類を集められていないことに満足できていなかった。

「おれは朝比奈国際にスポ薦で入った人間ですよ。頭で入ったわけじゃない。だからそんなに期待しないでほしいっていうか…。」

自分の言葉が貧弱すぎて、疾風は悲しくなる。

でも、そんな言葉を聞きながら、東郷さんは元気よく笑った。

「でも、こんなに本にいろいろと書き込みをしてるってことは、この仕事をやめる気はないんだろ?」

東郷さんの言葉に、疾風は苦コーヒーを一気に飲み干すことでしか回答できなかった。

「こんな勉強ができないおれに、一生懸命勉強を教えてくれるやつがいたんです。そいつはおれと違って、勉強もスポーツも、将棋や料理だってできる、馬鹿みたいにすごいやつで…。なんかそんなやつをみてたら、おれも頑張らなきゃって思って…。形だけはやってみたんですけど…。やっぱり難しくて。」

東郷さんはさっきよりも笑顔になって、しっかりと疾風を見つめた。

「その意思があるなら大丈夫だ。君にこの仕事を任せてよかったよ。そんなに急ぐことはない。来週の集まりまでに、簡単なレジュメがつくれるぐらいまで、情報が集まればいいから。」

「レジュメ…。」

そもそも、疾風はそんなものをつくった経験がなかった。中学のとき、いや、高校の授業で発表をするときだって、資料をつくるのは友人たちに任せていたようなやつが、いきなり自分でレジュメをつくるというのはかなり酷だ。でも、疾風はあきらめたくなかった。朝陽に負け抱くないという気持ちがあった。そして何より、自分に将棋を教えてくれた祖父が口繰り返し話してくれた曾祖父のためにも。

「やってみます。」

「よし、その返事が聞けただけでも、お兄さんは幸せよ。仕事の量が重くてうんうんうなってわないかなあと思って呼び出したけど、そんなに心配する必要はなかったみたいだね。」

そのあと疾風は、東郷さんが大学でどんな勉強をしてるのかとか、高校時代どんな

人だったのかとかをいろいろと聞いた。

でも東郷さんは高校時代からまじめで、疾風なんかとは比べ物にならないほど勉強を積み重ねてきた人間だった。そもそも、脳の形や大きさだって疾風と違うとさえ思ってしまう。

でも、こんなにすばらしい人と、自分が一緒に仕事ができていることが、今の疾風には誇りでもあった。このあとちゃんと人がやるべきことをやれば、これからの将来の道が開けるかもしれない。若者の声を発信できるようになるかもしれない。自分の心の中にある内なる力を、なんとか解放できるような疾風になれるのかもしれない。

そのとき、店に一人の女性が入ってきた。女性は、ちょうど疾風たちが坐っていた机の隣の机の席が空いていたので、そこへ坐った。女性は少し汗を書いているようで、わきに消臭シートを塗りつけていた。そのにおいが、少しだけコーヒーと混ざって、疾風は不愉快になった。不愉快になったのはそのにおいがコーヒーと混ざったことが理由ではない。そのにおいはどうしても、野球をやっていたころの自分のにおいに似ていた。そのにおいは、頑張っている人の証みたいなにおいだったのだ。

「ちょっと、誠也じゃない!」

女性は、そこが喫茶店だというのも忘れているほど大きな声を出した。そしてその目は、さっきから形態をいじっている東郷さんに、確かに向けられていた。

名前を呼ばれた党の東郷さんは、あわてて形態を取り落としそうになる。

「姉貴…!なんだよ。もうおれとは口を聞かないって言ってたくせに、なんだよ。」

疾風はこの女性を知らなかったし、この女性がどういう人物なのかということもよくわかっていなかった。でも、東郷さんは、さっきまでの冷静さを失ってどこかうろたえたような表情をしている。疾風が巻き込まれたあのお酒関係の事件のときですら冷静な態度をとっていた東郷さんが、今この女性の前では、何か悪いことでもあるみたいに震えている。

「そりゃああなたが勝手な行動をとるからでしょ。この地球ではあんまり目立った行動をしちゃいけないって、あれだけ言ったのに。どうして…。」

「姉貴こそ、もっと地球で生産的に生きる方法を考えるべきだ。ピアノ教師だけをしてたって地球は救えないんだ。おれたちがこの地球に幽閉されたってことは、地球に危険を伝える必要があるってことなんだよ。」

「私はそんな怖いことはしない。地球の人たちにはそんな…。」

でもそこまで言って、女性は口をつぐんだ。ようやっと、自分が喫茶店にいるということに気づいた、というか思い出したのだろう。

「ごめんなさい。ともかく、私たちは喧嘩をしている場合ではなくなったわ。ねえ、誠也、朝陽に会えたわよ。」

その瞬間、東郷さんの表情が変わる。いままでうろたえていた東郷さんの顔が突然笑顔に変わったのだ。しかも、子供のように目を輝かせたのだ。こんなに彼が起伏の激しい感情を持った人間だったなんて思わなかった。

「山羅君が、地球に来てるっていうのか…。」

「そうよ。きっと、私たちをつれて帰ってくれるつもりなんだわ。」

「それはまちがいないのか?」

「ええ、今日、私のピアノの教え子の発表会で見かけたの。朝陽を。」

その瞬間、疾風の頭の中ですべてがつながった。この女性は、東郷さんのお姉さんであるだけでなく、綾瀬のピアノ教師であるらしいのだ。さっきまで、この二人の会話の意味がわからなくて、正直疾風はどうしていいのかわからないという気持ちだったのに、今この二人が疾風にとって関係のある人間だったということがわかってしまったのだ。

「あの…二人は朝陽を知ってるんですか?」

二人の会話がそこで止まる。このとき、東郷さんもそして彼のお姉さんも、地球人に溶け込んでいた彼らの顔ではなく、黒い太陽の人間として話をしていたから、突然地球人が会話に入り込んできたことで動揺したのだ。動揺しないわけがないのだ。

「すまない、谷口君。僕は…。」

「何をいまさら隠そうというの、誠也。どうせこの子は朝陽のことも知ってるんだから、いいじゃない。私は東郷あすみ。そしてこっちが東郷誠也。私たちは山羅朝陽と同じく、黒い太陽から来たんだよ。」

この転回を誰が予想できただろうか。少なくとも疾風にとって、東郷誠也という男は、朝比奈国際高校の先輩であって、「次世代平和の会」の仲間であったはずなのに、彼は違う星から来た人間だといきなり言われても、それがたとえ事実だとしても、受け入れるのには相当な気時間がかかるほどのパラダイムシフトである。

「あなたたちは、朝陽とどういう関係なんですか?そもそも黒い太陽っていうのは、どんな星なんですか?」

疾風は、自分が興奮しているのがわかった。それがほんとうにほんとうの話なのかどうかもさだかではないというのに、疾風は自分がさっきまで「次世代平和の会」の提言所作成をしていたことも忘れて、その話に夢中になった。

だが、かくいう向う側の人間たちはもう少し冷静だった。もちろん彼らだって、彼らにとって救世主となりえる、山羅朝陽少年の発見劇について、早く突き止めたい気持ちがあった。だからこそ彼らは冷静でいることを選んだ。まだ彼に直接あえていないのに、今ここで興奮してはいけない。

「それはこっちのセリフよ、あなた。あなたは、山羅朝陽とどういう関係なの?」

疾風は自分の頭の中で、朝陽がどういう関係としてプロファイルされていて、それをどういう言葉で表せばいいのか、いまさらながらに考える。自分は彼のことをどう思っているのか。自分は、朝陽よりも野球も将棋も勉強もできなくて負けてばかりで、だから彼に腹が経つしとても悔しい。でも、ただ腹が経つなら、ただ悔しいなら、彼のことを心の中から追いだしてしまおう。彼とはまったく関係のない人生を生きてやろう。こいつらに彼との関係について聞かれるような言動をとった自分を攻めるべきだ…。なんて思うべきなのに、今の疾風には、そんな気持ちは一つもない。彼は朝陽のことを…。

「友人です。彼は、先週、近所に超してきたんです。全然この街のことを知らないから、おれが面倒をみてやってたんです…。」

それはかなり嘘だった。綾瀬がほんとうはやったことを、自分のやったことに

すり替えた。それは綾瀬をいじめたり、綾瀬の面子を潰すためではなく、ただ単に自分が綾瀬の説明を避けたからだ。東郷あすみは綾瀬のことを知っているだろうが、誠也さんは彼女を知らない。今は細かい説明をしている場合ではない。きっとそれは、冷静にふるまっているこの人たちだって同じことを考えているだろう。

「あら、そう。じゃあ彼はつい先日地球に来たということね。」

東郷あすみはまだ、疾風に対する鋭い目つきを変えなかったが、さっきより表情は柔らかくなった。

「ということは、彼がどうしてこの地球にやってきたか、あなたは氏っているわよね。友達なら。」

「おい、姉貴、やめろ!谷口君には刺激が強すぎる話だ。彼は黒い太陽とか、太陽主義なんかとはまったく関係のない地球の一般人なんだ。そんなものに彼を巻き込む気か。」

誠也さんの口調が焦っているのがわかる。いったいなぜそんなに、誠也さんは焦るのだろうか。太陽主義、とはいったい何の話だろうか。

「いい、誠也。この子はもう私たちのコンテクストに巻き込まれてるのよ。後戻りはできない。ねえ、えーっと、谷口君だったかしら?あなた、山羅朝陽君は、地球に流された太陽族の人間を救うためにやってきた、って、そう言ったわよね。」

違います…!そう叫ぶことは簡単だった。いくらでもそういうことはできた。でも、それは朝陽にとっても、そして東郷兄弟にとっても悲しい結果しか生まないようにも思われた。真実を告げてしまったら、きっと彼らは悲しい顔をする。それよりも、うそしかない輝かしい現実を飲み込んでほしい。彼らはきっと、朝陽にあうために疾風に話し掛けている。でもそのほんとうの理由を自分が理解するまでは、今自分が言える範囲で、朝陽のことを伝えてやらなければならない。たとえそれが嘘でも。

「わかりました。彼は…ある目的があってここへ来たと言っていました。でもその目的については、いくら友人である僕にも話してくれなかったんです。」

「私たちを助けることが目的に決まってるじゃない!ありがとう、谷口君。感謝するわ!」

そう言うと、彼女は疾風のしつもんにはこたえず立ち上がった。

「悪いね、谷口君。僕も行かなければ。そのまま仕事は進めておいてくれ。詳しいことは、今度話すから。」

このとき疾風は知った。確かに誠也さんはこの街を、この地球の平和を守ろうと立ち上がった若者の一人であることに間違いないし、彼がいい人間であることも疑い用のない事実だ。でもやっぱり、誠也さんは地球人ではない。だから今もこうやって、まごまごと状況を注視できない疾風のことを見捨てるように、喫茶店の外へ飛び出した。唯一彼に感謝しなければいけないのは、コーヒーの代金を全額だしてくれたことだろうか。

でも彼らが外へ飛び出したとき、雲行きは少し怪しい方向へ転換しようとしていた。

朝陽は東郷あすみをなぜ知っているのか。なぜ彼女にあいたいと言ったのか。綾瀬は、自分の今回の結果というよりも、むしろそっちのほうが気になって電車に乗り込んだ。特急列車は、朝綾瀬が乗ったのとは逆方向に走る。別に当たり前のことだし、何も不思議に思うことはない。でも綾瀬には、なんだか朝と夕方がすべて逆方向のこの世界が、少しだけ不自然で人口的なものに思えた。

朝陽はきっと綾瀬より1本早い電車に乗って帰った。どうしても東郷あすみにあいたいのか、あの手紙をみた瞬間朝陽は風に連れ去られるような勢いで姿を消した。

会えてよかった。あの小さな楽譜の切れ端には確かにそう書いてあった。いったいどうして東郷先生はそんなことを朝陽に言うのだろう。社葬だけが黙って通り過ぎる。

電車を降りて、いつものように改札を出る。最近駅前の掲示板にいつも張ってある、「飛行場建設反対」のポスターは、もはや日常的なものになりつつあって、街の一部みたいに溶け込んでいる。この1週間で、綾瀬の周りにはいろいろなことが起こったから、なおさらこんな掲示板の文字なんてどうでもいいと思ってしまう自分がいた。

外に出てバスに乗り込み、「ふれあいの丘」で下車して、家に向かっていたときのことだった。空を見上げると、さっきまで快晴だった夏空が、どこか黙々とした雲に覆われている。そして、突然自分の真上を、1羽の大きなカラスが飛んでいた。カラスは実に不気味な声を挙げて低空飛行をしている。まるでこちらに敵意を示しているような声だった。

そいつは突然綾瀬の頭のうえに乗った。やはりこいつは綾瀬に用があるらしい。

とたんに、カラスの羽が大きく広がり、人間の姿に変わった。

こんなことが現実世界でほんとうに起きるのか、綾瀬は疑おうとも思ったが、そんな余裕はなかったというのと、疑ってもしょうがないと思ってしまった。なぜなら、すでに綾瀬の周りでは、現実的にはあり得ないことが起こっているのだから、いまさら疑う必要なんかない。カラスの姿をしていた人が、突然人間の姿になるなんて、雨の中に朝陽が落ちてきたことに比べれば実に静かな話ではないか。

「あなたが山羅朝陽の庇護者ね。」

それは、ブロンドの髪の少女だった。さっきまでカラスの姿だったとは思えないほどに美しい髪を持っていると、綾瀬にさえわかった。しかしその肌は黒く焼けていた。まさに朝陽と同じ顔をしていたのである。でも服は、朝陽があのときに

来ていたような敗れたものではなく、丈夫なプラスチック素材を思わせる河童のようなものを来ていた。そして彼女は今確かに、朝陽の名前を綾瀬に向かって告げたのである。

「あなたは誰ですか?朝陽の知り合いですか?」

次の瞬間、遠くで雷鳴が響いたかと思うと、少女はまるでドラマみたいなことをした。わきに挟んでいた従のようなものを取り出した。

「質問に答えなさい。答えないと打ちますよ。」

それは明らかに普通の銃だった。その中にどんな弾が仕込まれているのかはわからないが、きっとこの少女は本気で綾瀬を打ちぬこうとしている。きっと何かしらの憎しみや怒りを持って、彼女はここへやってきたのだ。

「庇護者、ではありません。ただ私は…朝陽君がここに落ちてきたときに彼を助けただけです。あと…同じマンションに住んでいるだけです。」

少女はやっと銃を下ろした。だがいまだに彼女の目は鋭かった。さっきの雷鳴が近づいてくる。

「あの男の住んでいる部屋へ案内しなさい。それと、これ以上彼を保護するのはやめなさい。彼はこの星にいてはいけない身分の人間です。」

少女の厳然たる態度に、綾瀬は半ばいらいらしていた。彼女はいったい何のつもりで朝陽の部屋に綾瀬をつれていけというのだろうか。そもそも朝陽が家に帰っているかどうかすらわからないのだ。彼がこの星にいてはいけない存在だと決めつけられる道理も要因も

彼にはないはずなのに。

「それはかまいませんが、あなたの名前を教えてください。それと、朝陽君との関係も。朝陽君と何の関係もない人を、朝陽君の部屋へ案内するわけにはいきません。」

綾瀬はそこまで攻めたけれど、少女の顔色は緩まなかった。

「黒岩葵。朝陽との関係については、あなたは知る必要がないわ。とにかく案内しなさい。」

綾瀬はとにかく怖かったので、朝陽の部屋に案内するしかなかった。

彼の部屋は5階建てマンションの最上階だ。会談を上がっている間も、まるで少女は警察官みたいに従を振りかざしていた。

「あの…あんまりそんなことしてたら、銃刀法違反で逮捕されますよ。」

綾瀬は一応彼女があとでいろいろといちゃもんをつけてこない程度に怒った。すると彼女はいやな笑いを浮かべた。

「私は地球人ではありませんよ。朝陽の庇護者ならあなたは知っているでしょうけど。私は朝陽と同じ星から来たのです。地球の規範に従うほど軟弱ではありません。」

綾瀬はインターフォンを何回化押してみた。案の定朝陽からの応答はなかった。きっとまだ帰っていないのだ。もしくは東郷先生を探しに言ったのだろうか。

「い、いないみたいです。」

綾瀬がそっとそう言うと、少女はドアを勢いよくたたいた。壊れるんじゃないかと思ったが、おそらくこれでも彼女は加減していたのだろう。

「なぜ私をおいて…あいつは…。許せません。快晴様に言われたこと、私は絶対にやり遂げて見せます。」

と、綾瀬にとっては意味のわからないことを言って、階段をかけ降りて言った。雨はいよいよ激しくなっている。綾瀬は急いで自分の部屋へ戻った。朝陽の周りで、何かよからぬことが起きていることはわかった。だがそれがなんなのかはわからない。そして朝陽は東郷あすみを探している。これはただ事ではない。綾瀬にもそれだけはわかっていた。

山羅朝陽は、街にあるいくつかのピアノ教室に連絡をとって、東郷あすみの行方を探していた。もちろんそんなところに東郷あすみはいない。あすみは自宅で、そんなに大きくないピアノ教室、というかピアノレッスンをしているから、簡単に見つけるのは困難である。そもそも有名な指導者でもないわけだから、インターネットで調べたところですぐに情報がヒットするわけでもなかった。

こんなことをしてもしょうがないと、駅前をうろうろしているとき、突然黙々とした雲に

気づいた。同時に、目の前に妙なポスターを見つけた。それは彼にとっては妙なものだったのだ。

確かにそこには、「飛行場建設に反対!」という文字とともに、年老いた老人の写真が張られていた。

「この国に戦争はいらない。この街に飛行機はいらない。われわれの街を守ろう!」

その文字をみていて、朝陽は少し不気味な気持ちになった。この国にも、この星にも、もしかして戦争が迫っているのだろうか。そうだとするならば、どうやってそれを防げばいいんだろう。飛行場とやらは、いったい何をするところなんだろうか。

駅から少し離れたところへ言って、バス停を探していたとき、二つの影が走っていくのが見えた。

「朝陽の家は、谷口君から聞くことができた。このバスに乗ればつくはずだよ。」

背の高い男がそう言う。隣に立っている濃い化粧の女が笑顔になる。

「案外仕事ができるじゃない、あなたも。楽しみだわ、やっと朝陽にあえるんだから。」

女性がふとこっちをみる。バス停の自国票をみる二つの視線が重なる。

その瞬間、遠くで雷鳴が聞こえた。

「朝陽…。朝陽、なの?」

東郷あすみは今にも失神しそうになりながらも、やっとの思いで朝陽の名前を呼ぶことができた。その喜びようは相当なものがあった。

それは朝陽も同じである。突然自分の目の前から姿を消してしまった東郷兄弟にやっと会うことができたのだから。

「あすみ姉さん。誠也兄ちゃんも。」

3人は、もうすぐバスが到着することも忘れて抱き合った。自分たちの生まれた星ではないこんな場所で、再開できると思っていなかったから、3人とも涙が止まらなかった。その涙に混ざるように雨が降りしきった。

「大きくなったね、朝陽。」

誠也さんが、大きな手で朝陽のそれを握りしめる。朝陽の手だって十分に大きいのに、誠也さんの手はそれ以上に丈夫で大きくてしっかりしていた。

「誠也さんも、あすみさんも、元気そうでよかった…。」

二人には、そういうありきたりな今年か、今は見つかりそうにない。

あすみさんは、なんとか自分だけでも冷静になろうと務めた。深呼吸をすることが、雨の制で非常にやりにくい。でも、自分までもが今この喜びに浸ってしまったら、自分が朝陽に会いたかった本当の目的を忘れてしまいそうになる。

「朝陽。私も会えてうれしい。ねえ、あなたはどうして地球に来たの?」

バスがゆっくりと到着する。その質問を洗い流すような大きなエンジンが響く。

「それは…。」

朝陽が答えようとしたけれど、あすみさんはそれでも続けた。

「ねえ、あたしたちを助けに来てくれたんでしょ?朝陽は私たちのことを、許してくれるわよね。」

「姉貴。いきなりそんなことをこいつに聞いても、動揺するだけだよ。悪いな、朝陽。姉貴のやつ、久しぶりにおまえにあえてうれしすぎたみたいで。」

でも朝陽は、誠也さんがそんなことを言っている声の中、なき崩れていた。黒い太陽ではこんな涙を見せたことなんかない。目から流れる黒い涙は憂鬱の証であり、世界が終わる兆候とも言われている。そんなものを流したら、父に殺されかねない。だから、赤ん坊以来泣くことは自分が禁じていた。でもこの星に来て、朝陽は泣き虫になった。泣き虫になったということは、感情に素直になったということだ。

「誠也兄ちゃん。どうして、どうして僕の前から突然いなくなっちゃったの。どうして突然黒い太陽からいなくなったの。寂しかったんだ。僕には、誠也兄ちゃんやあすみ姉さんしか頼れる人がいなかったのに。どうして…。」

誠也はこのとき初めて知った。別に初めてではなかったのかもしれないが、知らないふりをしてきた。朝陽は、自分たちがなぜ黒い太陽から追い出されたのかを理解できていない、もしくは知らされていない。でも当然のことなのかもしれない。

誠也とあすみが黒い太陽から、朝陽の父によって追放されたのは、8年前、つまりまだ

朝陽は8歳の本の子供だったのだ。そんな彼に、ずっと実の兄や姉のように慕っていた東郷兄弟がいなくなった理由を説明するのは難しい。少なくとも彼の父は説明をしてくれなかっただろう。しかも、東郷家が行った罪を、おそらく朝陽は罪とは考えないはずだ。だからこそ、誠也もあすみも、朝陽に説明をしてから黒い太陽を去るなんていうつらいことはできなかった。朝陽が彼らとの再開を願って、自分たちを助けに来ない限り、なぜ黒い太陽からいなくなったのかということを伝えるつもりはなかった。それが13歳と21歳だった東郷兄弟の決断だった。

バスは少しずつ、朝陽たちの住むマンションへと近づいていった。

「ほんとうにごめん、朝陽。僕たちは君を傷つけるという最悪な罪を、今犯してしまっている。だから償わせてほしい。」

「ちょっと…誠也。朝陽は私たちを助けるために来てくれたんでしょ?ねえ、償うってどういうこと?」

興奮するあすみを無視して、誠也は話した。

「僕たち東郷家は、君の父さんのいい付けを破ったんだ。それどころか、平和主義を掲げた政治活動を黒い太陽で細々と続けていた。演奏を禁じられていた音楽を勝手にやっていたり、違う星の図書館から持ってきた、検閲にひっかかりそうな本を集めて勉強会を開いたりしていたんだ。黒い太陽がちゃんとした星に生まれ変わるために、いつか東郷家が動かなければいけないということがわかっていてね。でも、もちろんそれは、黒い太陽の支配者たる君の父さんの反感を買うというリスクを背負った状態で行われた。だから、東郷家としてはひやひやの状態だったんだ。そしてついに、密告者の通告によって、僕たちの活動は表に出た。半年もしないうちに、東郷家の財産はすべて没収となった。平和的活動を指導していた両親はその場で殺された。だが僕たちにはそれ以上に苦しい試練が与えられた。今の僕たちが地球で生きているのは、君の父さんが僕たちを地球へ流したからなんだ。」

朝陽にとっては初めて知ることの連続だった。そんなことを、こんな街中の小さなバスの中で知るとは思っていなかった。

父が残酷にも、自分の第好きだった人たちを、自分の遠くへ追いやったという事実が、8年のときを経て、少しだけからだが大人になった朝陽の胸につき刺さる。こんな罪深い最悪の結末を信じることが簡単にできようか。できるはずがない。

さっき誠也さんは、朝陽に、自分が最悪な罪を犯したと告白した。でも

その罪を犯したのは、ほかならぬ自分の父親である。こんなにも第好きな人たちを傷つけた父親を、朝陽は許すことができない。そして、二人にどう顔を合わせていいのかわからなくなった。自分は、流罪にされた誠也とあすみを助けるために、父の変わりにこの星へやってきたわけではないなんて、口が避けても、地球が真っ二つになっても言えない。気づいたら地球に落ちてきただけとそんな馬鹿なことは言えない。こんな呑気で泣き虫で弱い自分のことを、誠也さんもあすみさんも許してくれるはずがない。

今すぐこのバスから飛び降りて、二人とはしばらく距離をおきたかった。朝陽はただ黙って泣きじゃくるしかない。

バスが家の近くに着いた。

「ありがとう、誠也兄ちゃん、いろいろ教えてくれて。でも、ごめん。僕は気持ちの整理がつかないんだ…。」

それだけ言うと、呼び止めようとする二人をおいて、朝陽は雨の中に走り出していた。

でも、かけだした朝陽を待ち構えていたのは、さらに恐ろしい現実だった。

「やっと見つけたわ、朝陽。」

朝陽を抱きしめたのは、今一番抱きしめられたくない女だった。その大きな胸。その変な匂いの香水。その長くて美しい髪。その鋭い魚ろ目。すべてが黒い太陽を思い出させる、真っ黒なオーラを放ったその女に、彼はなぜか昔から好かれていた。

「葵…。なんで君がここにいるんだ。」

朝陽は焦っていた。ただでさえ自分の大の苦手である雨の中にいるのに、それと同じぐらい苦手な葵が、今ここにいるのだ。

「あなたと黒い太陽で暮らすためです。なんてったって私はあなたとそうなる運命なのですから。昔から決まっているのです。黒い太陽で同じ日の同じ時間に、同じ街で生まれた子供は、将来一生を沿い遂げる運命にあると。あなたと私は幸運にもそうなのです。だから、こんな星を早く出て、黒い太陽へ戻るべきなのです。」

そんなことは朝陽には関係なかった。運命とか、将来を沿い遂げるとかどうでもよかった。しかも葵とそんなことは絶対にしたくない。早く家に帰りたい。こんなところで雨に打たれていたら、あのときのように、地球というこの星の闇に放り出されてしまう。誰も助けてくれない深淵の中に倒れこんでしまう。その前に早く葵から離れたい。この雨の中から逃げてしまいたい。

「いやだ!僕はこの星が気に入ったんだ。どうせおまえ、父上の指図で来たんだろ?わかっているんだからな。たとえそれが事実だとしても、そんな運命とか、同じ日に生まれたとか神秘的なことを言って、僕を連れ帰ろうって魂胆だろ。そんな恋の罠になんかつられてたまるか。」

「違います、朝陽!」

葵は、雨に朝陽がぬれないようにしっかりと朝陽を抱きしめてくれた。このときばかりは、朝陽も葵に感謝せざるを得なくなった。

「私はあなたが好きだから、自分から志願してここへきたのです。確かにあなたのお父上に、地球という星に朝陽がいるから迎えに行けと言われたのは事実です。しかし、殺されることを覚悟で逆らうことはできたはずです。それでも私がこの任務をお受けしたのは、第好きなあなたにあいたかったから。そんな不順な理由でここに来てはだめなのですか?」

そのとき朝陽は恐怖にさいなまれていた。父はもう知っている。自分が地球にいることを。父が第嫌いな星にいるということを。いったいなぜそれを知ったのか。その

とき、頭の中に美しく輝く水晶球が浮かんだ。まさかあの球を…。

「どちらにしても、僕は君と黒い太陽に戻るわけにはいかない。まだやるべきことがたくさんあるんだ。この地球には、ぼくのだいすきな人がたくさんいるんだ…。」

その瞬間、葵はわきに隠していた銃を取り出した。

「私はこういうやり方を、第好きな朝陽にしたくはなかった…。しかし私以上に好きな人が、この星にいるとわかった以上はしかたがありません。第好きだからこそ、ここで死んでもらいます。」

引き金にしっかり手をかける。なんども黒い太陽で訓練させられてきた銃である。これをこんなところで発砲することになるなんて、葵は思わなかった。でも葵はこうすることでしか、自分の恋から逃げる方法を知らなかった。

心の中で5秒数える。しっかりとした店舗で1まで数える。

引き金を弾こうとした瞬間、後ろからものすごい力で襲いかかってくる力に気づいた。銃が手から落ちる。何か大きな力に羽飛ばされて、地面に強く頭を打ってしまう。そのまま意識が遠のいていく。からだには冷たい雨だけが当たる。自分が、朝陽の発作を起こさせるために降らせた雨なのに、今はその雨が葵に降りかかっている。きっと朝陽が空から落ちてきたときも、こんな気持ちだったのだろうと、葵は涙でにじむ心の中で思った。

「朝陽。大丈夫か?けがしてないか?」

疾風が、朝陽の胸を何度もたたく。その過度なまでの心配ぶりがおかしくて、朝陽はいつもは倒れてしまいそうな雨の中で大きな声で笑っていた。

「そんなに心配しなくても大丈夫。確かにちょっとさっきはやばかったけど、疾風が来てくれて助かったよ。さっき、葵にアタックしたのは君だったんだろ?」

いつも雨の中で倒れてしまうと言われていた朝陽が、今日は激しい雨の中で、誰かに支えられながらではあってもきちんと経つことができている。そのことが疾風には妙にうれしかった。

「おれをただのふぬけと思うなよ。いくらおまえより野球も将棋もできないって言ったって、体力と運動神経と、まああとちょっとの腕っ節ぐらいはあるからよ。あの姉ちゃん、おまえの知り合いなの?確かにおまえと同じ黒だったけど。」

疾風は、雨の中で意識を失っている葵に近づいた。いつもならこんなふうに雨の中で倒れてしまっているのは朝陽のはずなのに。

「まあ、黒い太陽にいたころからの知り合いなんだよ。それよりおれ、早く帰らなきゃ。これ以上雨が強くなったら、さすがに倒れちゃうかも。だから…葵を頼めるかな。」

「え?おれが、こいつを…?」

疾風はしばらくためらったが、確かに朝陽とこの女を一緒にしてしまったら、また朝陽はさっきみたいに銃で殺されかねない。きっと疾風と一緒ならそんな乱暴行為にはすぐに出ないはずだし、この銃にもいささか興味を弾かれた。そういうわけで、疾風はその女をかついで、えっちらおっちらと雨の中、坂を下っていった。

朝陽はこのとき初めて、疾風と対等に付き合おうと思うことができた。もちろんそれまでも、疾風と朝陽は友人だと朝陽は思っていた。でもやっぱりそれまでの朝陽は、どうしても疾風のことを少し下にみていた。自分よりもできることが少ない彼のことを、どこかから会の対象のようにみていた。でも、人の体の大きさも、心の大きさも、できることの数だけで図れるなら、何をやってもうまくいかない人間が、どうしてこの世界に生きているのかがわからない。きっと、できることだけで人間の価値なんか決まらない。疾風は朝陽よりもできることは少ないけれど、確かにさっき朝陽のことを助けてくれたのだから。

部屋にいて、疾風が葵の体を床に寝かせても、彼女はまだ意識を失っていた。別にこんな女の体をベタベタ触る気なんて疾風は毛頭なかった。体を触るなら綾瀬の体のほうがずっと興味を弾く。ただこの女の胸は確かに立派で、男を誘惑するような美しい瞳も持っている。だが疾風は必死に耐える。こいつを好きになってしまったら、綾瀬を好きだった自分はどうなるのだろう。

自分の心がうき経つのがわかる。この女の体を拭けば拭くほど、完全に発情してしまっている自分がいることを認識する。それが恐ろしくて疾風は必死になって無表情をつくる。今彼女が意識を取り戻したらこの発情した男の怪物みたいな目をみてしまう。そんなことはできない。地球人がただのエロだと、この宇宙人に思われたら、彼女は今度こそ何かをしでかしかねない。しかしやはり感情は止められない。布団に寝かせた彼女を、疾風はずっと見つめていた。少なくとも彼女は、恋愛対象になるとかはともかく、本当に美しいと思ってしまった。

「ここは…?」

彼女が目覚めたのは、疾風が階下で夕食を取っているときだった。今が朝なのか夜なのかもよくわからないまま、葵はベッドの感触に、肌がかゆくなった。

まだ朝陽も葵も本当に小さく、朝陽の母が死んで間もないころだった。その日朝陽は、道端で動物の狩りの練習を一人でしていたのだが、沼に落ちて大けがをした。そばで花を積んでいた葵はそれをみるとすぐさま彼を助けた。まだまだ武術や狩猟の技術が全然備わっていなかった朝陽は泣くことしかできなかった。葵はそんな朝陽をなとかしたいと、必死であり合わせの医術を使って彼のけがを直す。そして、本当は小さい子どもであっても同じベッドで眠ることは黒い太陽で禁じられているのに、彼の看病のために葵の家のベッドで眠った。

「葵…。僕は、いつか本当にこの星の王になれると思うか?こんな弱くて一人じゃ何もできなくて、お名護に頼ってしまうような男なのに…。父のように気高く、りりしく、つよい王になれるだろうか。」

布団の中で泣きながらそう告げる朝陽に、葵はかけてやる言葉がなかった。だが、このいとしい王子を、葵はこれから絶対に守ってあげようと決意した。

「きっとなれますよ、朝陽は。葵はそんな朝陽のことを、これからもずっとお守りします。だって私は、朝陽のことが好きですから。」

あの頃はそうやって純粋に言うことができたのに、今の自分は、朝陽を苦しめることでしか、その思いを伝えられない。

ここが地球という星なのか。葵は改めて考えてみる。地球という星は宇宙の中でも偏狭にある場所で、いまだに黒い太陽からの光の拠出を断り続け、平和を貴ぶ星だと、黒い太陽の支配者である、大好きな朝陽のお父上がそう言っていた。地球という星には近寄ってはいけない。戦争や実行支配をしない限り、地球には近寄るべきではないと、朝陽の父はそう言っていた。だから葵もそう思っていた。

確かにそうなのかもしれない。でもこの部屋にいる限り、葵は実に落ち着いた気持ちでいられた。今さっき朝陽にほぼふられてしまったというのに、そんなことを忘れさせるほど、自分の気持ちは安定している。窓をそっと雨音がたたく。黒い太陽ではほとんど耳にしない、つまり黒い太陽が定期的にその力を弱める時期にしか聞かない音だった。でもそんなときに聞く音よりもずっと穏やかに聞こえる。

きっと地球は、宇宙進出なんて考えていないのだ。そんなことも考えないように平和をつき通しているのだ。それがいいことなのか悪いことなのかは判断できない。でも、平和をつき通すならそのままつき通してほしい。黒い太陽のやり方が悪いなんて思わない。でも、地球人が戦争や太陽主義への浄化を望まないなら、そもそもそれに気づいていないならそれでいい。

しかし、だとしたら…。どうして山羅快晴の息子たる朝陽が、突然地球を訪問したのか。しかも、黒い太陽で作られた光の球なんかを持って…。

どうしてそんなことをしたのか、ずっとそばにいたと思っていたはずの葵にぐらいは話してほしかった。それが葵の個人的な思いだった。

少し立ち上がってみる。まださっき誰かに殴られたあとの痛みが、頭の奥のほうを支配している。だから立ち上がってもふらふらする。でもそれは頭痛のせいというよりも、きっと自分が初めて体験する夜というものに恐れているからなのだ。

その少年の部屋は、少年の部屋らしくかなり散らかっているのと、正直少し汗くさいような気もした。雨が降っているから窓をあけようにもあけられない。そもそもここは他人の部屋であるし、あの少年の面目のためにも、意識をなくしたふりをして布団にもぐりこんでいたほうがきっと安全だ。でも、どうにもこの雑然とした部屋に居場所が見つけられなくて、彼の部屋をいろいろといじり倒してしまいたいと思ったのだ。

ひとまず床のうえに何か服が脱ぎ散らかされていることだけはどうも我慢がいかなかった。だが、そんな汗くさい服に、自分が降れるのも忍びないし、そもそもどのたんすにどの服をしまえばいいのかもわからないので、そこは放っておくことにした。

誰にも音が聞こえないようにそっと立ち上がって、部屋を歩き回ってみる。

机のうえには、何かの紙の束やノートがうずたかく積み上げられている。仮にも本を読むことが好きな葵にとって、これらのものすべてに目を通すのは好奇心の立つことであったが、途方もない、時間がかかりそうなので、あえて目をそらす。けれど、一番うえに乗っている本だけでもと思って、それをそっと開いてみる。

本にはいくつかの書き込みがされている。それは何かの写真集のようだった。

写真集を無心でめくっていくと、やけただれた人間の顔や、姿を変えた街の様子などが移っていた。そして目に飛び込んできた文字をみて、黒い太陽から来た葵でさえ驚愕する。戦争…。この星にも確かに、暗い戦争の日々があって、それが今の安定した平和で安全で静かな星を作っている。実につらく悲しい現実がそこにある。

ページをめくるほど、その証言は色濃く、黒い太陽で毎日のように起こる激しい戦火の煙を思い出させる。

きっとこの地球でもたくさんの人たちが犠牲になった。黒い太陽で弱い物たちが殺されているのと同じように。自分が今どこにいるのかも忘れて、葵は感慨にふけっていた。

誰かが会談を上がってくる音がして、葵はあわてて布団にもぐりこむ。きちんと意識を改める必要があることを思い出したのだ。ここは地球だ。しかも戦争に苦しんでいる地球ではない。平和を享受し、確かに明るい未来を信じている地球なのだ。こんなふうに服を脱ぎ散らかしても誰も注意しない、生身の人間が我が物顔で生きられる星なのだ。そんな星をいやだと思うのは、きっと朝陽がこの星のとりこになってしまったからだろう。朝陽を、この星の魔法から解放してやれるのは自分しかいない。そのためには、今一度黒い太陽に戻る必要がある。

鞄の中には、カラスに化けるための服がきちんと入っている。これは自分が作った特注の飛行船代わりのものだ。これがあれば今すぐにでも黒い太陽に帰ることができる。

でも、太陽に帰る前に、あの少年と話をしておくべきだろうかと一瞬頭をよぎった。

遠い意識の中、その柔らかい手が、自分の体を拭いているのがわかった。今は宮殿の小間使いとしてこき使われている母親が、昔葵にしてくれたように。病気がちでまともに泳ぐことすらできなかった葵の体を、温かいタオルでゆっくりと拭いてくれた母のように、彼はた確かに葵の体を包み込み、そしてこの布団に寝かせてくれたはずなだ。その少年わに何かを言ってからこの星を去りたかった。彼に何かを話してから、この星と最後の別れをしたかった。でもきっと彼と話をしてしまったら…。きっと地球のことがもっと好きになってしまう。

彼がそっと部屋に入ってきた。葵は布団にもぐりこむ。気づかれないようにつぶやく。

「ありがとう…。」

彼は聞こえるわけもなく、机のうえにある本を雪崩のように落としている。彼は強く舌打ちをして、本を1冊ずつ丁寧に棚へ片づけている。それが実にありふれた些細なことに思えて、葵は布団の中で笑った。布団の中カラでしか、この地球をみることができなかった。

その日の夜、彼が風呂に入っている間に、葵は服に着替えて、その窓から飛んでいった。もう思い残すことはないと自分に言い聞かせて。地球の真夏の夜の空は飛ぶのにはちょうどよい気候だった。雨が弱まって空気が浄化されたせいもあるのだろうか。

同じ頃、綾瀬はベッドにもぐりこみながら、今日1にち起きたことについて考えてみた。今日1日だけで綾瀬の周りでは様々なことが起きて、頭の中でそれらを整理するだけでもかなり時間がかかった。そのせいもあってか、コンクールのあとだというのに、ぐっすり眠ることはかないそうにもなかった。

そして、何よりも心配なのは朝陽についてだった。朝陽はいろいろな人に追われているような気がしたのだ。そして、自分に関係のないことのはずなのに、そして自分には全然朝陽について知らないのに、朝陽を守ってやりたいという思いだけが強くなる。思いだけ強くても何もかないそうにないのに。

するとその思いだけが強くなったのか、そのあと変な夢をみた。

宇宙船が大きく子を描いて飛んでいる。その宇宙船が大きく揺れて、人が落下してくる。

止めなければ、止めなければ…。

目が冷めたときは朝になっていた。

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