強さ

心を暑くする熱帯夜のせいで疾風は眠りにつけなかった。でもきっと彼が眠れなかったのは、熱帯夜のせいでも、心が暑くなった制でも、あけっぱなしの窓から入ってきた小さな虫のせいでもなく、ただの自分の心の問題のせいだろう。

中学の間はだましだましで野球を続けてきた。いつの日か甲子園の土を踏んで、いつの日かメジャーリーガーになれると、あわ行きたいだけを描いて走ってきた。

でもそんなことが簡単にかなう現実なら、きっと世界中のみんながヒーローになったり空を飛んだり幸せになったりするだろう。簡単にかなわないのが現実だ。

中3の秋、肩の脱臼を起こしてからは、余計に野球を満足にプレイできなくなった。投げられる球種にも限りがあるし、バットもうまく打てない。けがをしたのは自分の練習の制ではなくて、きっと神様が野球をやめろと言っていたのだ。夢をあきらめろと言うのだ。

それならそれで別によかった。いくら昔の仲間が野球を一緒にやろうと言ってくれたところで、もう谷口疾風のグランドでの居場所はない。それはきっと、自分がけがをしたり、大会で惨敗する前からそうなのかもしれない。

でも、だとしたら、野球に全力を注ぐ可能性だってあった自分の残りの青春は、いったい名ににささげればいいのか。それがわからないからこそ、野球という過去の夢に逃げていた。自分には野球しかできることがないと思っていた。

でも、最近疾風には二つの大きな出来事が起きた。だからもう野球を捨てようと覚悟を決めることができた。

一つは、今日の午後のこと。そしてもう一つは、昨日の夜のこと…。夜と朝の境目を、家の時計が少しずつ進んでいるから、その記述は正しいものとは言えないのだが。

時計の秒針の音に合わせて、彼が打ち上げたボールの音が耳に響く。ベースを走りぬける彼の姿が目に焼きついて離れなくなる。グランドのみんなが彼に注目し、彼に注がれる歓声は久しぶりに大きかった。昔自分が感じていたその喜びを彼は感じているのだ。その強く、さわやかな夏の風に乗せて、彼は走り続ける。

こんなちっぽけな自分をおいて。でも、今日からの自分は少し買われるような気がしていた。今夜いよいよ、次世代平和の会の初会合が開催されるのだ。昨日、いや、おとといのりで登録した会合ではあるが、ここから新たに何かを始めようと、疾風はひそかに決意をしていた。別に中途半端な気持ちでそう決めたわけじゃない。なんでもいいからやりたいことがないかと思って、そこら変に転がってるものを適当に拾い上げたわけではない。ちゃんと思い決意の元で、その小さな希望を手にしたのだ。

この街を守る。この世界を守る。そのためにできることがあるのなら、きっと野球のことなんか考えずに、それに全力で取り組めるはずだ…。

そうやって自分の心に言い聞かせるのだが、目は一向に閉じる気配がない。ただただ、夜が朝に向かっていくのを黙ってみている自分の目が、そこにはあった。

変な時間に寝て、変な時間に起きたせいで、窓の外がゆがんで見える。飛んでいる鳥が、まるで空から地面に向かって飛んでいるようにすら見える。いつもまぶしくて目を痛めつけさせる紫外線が、今日はいつも以上に危険な怪物の放つキノコ雲のように見える。家のそばにあるひまわり畑が、今日はとげだけをはやした食虫植物みたいに見える。ひまわりは夏の代名詞とも言える花で、太陽の守護者のように、その光を全身に受けて輝いている。自分とはまったく違う、光の中にいる花だ。そんな花が家の近くの川沿いに、沢山咲いていることを、疾風はなぜか恨まなかった。

無断でチームの練習を休んだのは初めてだった。どれだけ野球がいやになったとしても、チームに迷惑はかけたくないという、友情という毒に汚染された疾風は、野球を続けてきた。でもその毒は、とうとう体の深部にまで回ってしまったらしく、とうとう彼は友情さえも信じることができなくなって、練習を休んでしまったわけだ。

朝なのか昼なのかわからない。ご飯を食べ終えた後も、意味のわからない頭痛に教われた。少し窓をあけて夏の日差しを浴びてしまったからなのかもしれない。もともと自分はインドアな性格ではなかったはずなのに、いつの間にこんなに日差ししに弱くなったのだろう。弱くなったのではない。太陽が自ら強くなることを選んだのだ。そう思い込もうとはしたのだが、どうにもうまく行きそうになかった。

かといって、エアコンをつけすぎると今度はお腹が痛くなる。だから中途半端に扇風機だけを回して、適当に時間を過ごした。読み残している本を読んでいる間も、全然頭は回らない。ただ文字を追っているような感覚だった。

でも、あるときふと窓の外をみたら、さっきまで夏の太陽が元気よくその声を大にして叫んでいたなんて思えないほど、厚い雲に覆われていた。なんだか湿っぽいにおいもする。ずっと商社でいられるはずなんかないんだ。ずっと夢をかなえられる人なんかいないんだ。ずっと太陽のそばできれいに咲き誇ることの出来る花なんてないんだ。乗車翡翠とはこういうことをいう。ずっと輝いているはずの太陽も、きっと時が来れば雨に変わる。そういうものなのだ。きっと今、自分の人生には厚い雲がかかっているだけで、またきっと全力で笑えるようなことになるかもしれない。そのためになるかどうかはわからないけれど、今自分にはやるべきことがあるはずだ。

6時を少しすぎたころ、外に出ようとして少し疾風はびびった。とうとうその暑い雲のすき間から、激しい涙にも似た雨が振り出していたからである。

だがこのまま家の中で雨止みを待っていてもしょうがない。遠くで雷鳴が響く中を、疾風は、「次世代平和の会」の初会合に出発した。

バスは案の定込んでいた。きっと突然振り出した雨の制だろう。みんな

傘を子わきに抱えながらため息まじりである。でも、駅に向かうほうのバスだから逆方面のバスに比べれば空いているのだろう。

今日の初会合は、7時に駅前にある貸しスペースで行うらしい。貸しスペースは雑居ビルの2階にあるようだ。疾風はあまりそういうところに一人で行ったことはないし、行きたくなかった。駅前の雑居ビルは、パチンコ店やカラオケ、安い居酒屋がたくさん入っていて、あまり治安がよくないと聞いたことがあったのだ。しかし、大人になるということはそういう世界に飛び出すことでもあるのかもしれない。そういう苦労に耐えられなければ、たとえ野球で青春をやり直したところで変わらない。だからこの状態だけも耐えられるような精神力がほしかった。

7時の駅前はにぎやかだった。治安のよしあしはともかく、自分があまりこういう時間まで駅前をうろうろしないからかもしれない。まだ雨は少しだけ街にその湿り気を残していた。

夜になるということはそれだけでそれまでとは違うのだ。

雑居ビルの中に入り、貸しスペースの入り口に行くと、受付にはすでに何人かの人が並んでいる。みんな確かに、疾風と同じぐらいの年齢に見える人が大半だった。女子高生らしく派手な格好をしている人もいたが、それよりも目を引くのは、

ピアスを耳につけ、腕などにたくさん入れ墨をした奇抜なファッションの人たちや、筋骨隆々の筋肉マンみたいな人たちだった。少なくとも疾風があまり会ったことのないタイプの人たちがかなりたくさんいるように思われた。

「次の人、どうぞ。」

受付の男の人が、疾風を指さす。その姿をみて、疾風はやっと少し安心した。それは確かに、昨日疾風にビラを渡してきた、あの若者だったのである。

「所属と名前を教えてもらえるかな?」

「た、谷口疾風です。朝比奈国際高校1年です。よ、よろしくお願いします。」

「ありがとう。メールで送ったID登録の画面を見せてもらえないかな?」

若者はサングラスをかけていた。背はかなり高そうだった。筋骨隆々なのは確かだが、ピアスや入れ墨やアクセサリーなんかで体を覆い隠したりはしていない。ただ、かなり長い茶髪を肩のあたりで束ねていた。そういう容姿はともかくとして、彼は自分とそんなに年が変わらないとは思えないほど、大人びて見えた。メガネの奥から見える笑顔は、なぜかすべてを包み込んでくれるようにも思えた。

携帯でID登録の画面を出すと、若者は笑顔で笑いかけ、パンフレットを渡してきた。

「朝比奈国際か。じゃあ君は僕の交配だね。」

若者のその言葉は、疾風をさらに勇気づけるものとなった。

貸しスペースには50人近い若者が終結した。ほとんどは男性だったが女性も混ざっている。高校生もかなりいるようだ。密集を避けるためなのか、となりに人は誰もいなかった。

壇上に上がったのは、さっき疾風に笑いかけながら受付をしてくれたあの男の人だった。名前は東郷誠也というらしい。このあたりでは名の知れた国立大学の3年生だという。そんな人が、この団体のリーダーをしているとわかって、疾風の心はますます引き締まった。やっぱり自分なんて、この世界の中だったらまだまだちっぽけな存在なのだということを思った。

東郷さんは、飛行場建設に関する現状報告や、この街の政治的背景について、少し眠いプレゼンテーションをした。だが疾風は必死にそれをメモに書き留めた。それが今自分のやるべきことな気がしていた。ふいに外で降っている雨の音が激しくなっているのに気づいた。

8時になる少し前、その長いプレゼンテーションも終わり、これからの予定についての話になった。飛行場建設が始まるとされているのは来年以降であるが、今年の夏に調査が開始される。だから、そういう具体的なことが始まる前に、なるべく意見を発する活動を行っていく必要がある。だから、シンポジウムやデモの企画、動画の作成、場合によっては役所などへの訪問など、やれることは数多くあるという。だから今後はそのような活動を次々と行っていくために、定期的に毎週ミーティングが開催されるという。ミーティングは対外夜のこの時間で、この貸しスペースを使うとのことだった。

「とりあえず今日は、本格的にこの団体が始動して最初の会合です。

懇親会も兼ねておりますので、これからは立食形式でお互いの交流を深めてください。食事はわあちらに用意されています。」

東郷さんの言葉が終わるか終わらないかのうちに、みんな飲み物や食事を求めて急いだ。たぶん代替の人がまだ晩ご飯を食べていないのだろう。それは疾風も同じだった。流れていく群衆の中で、自分も飲み物を手にする。

さっきの入れ墨やピアスの集団は、思った通りビールのほうに駆け込んでいった。もちろん疾風はお茶のエリアに行く。

飲み物を手にとって、隣の少し人見知りに見える男性と乾杯をしたとき、自分は少しだけ大人になれたような気がした。

いくら周りに自分と同じ若者がいるとはいっても、大きな声で騒いだり、誰かに話にいったりできないのが疾風だった。疾風はそんなに集団を得意としていなかった。それも、もしかしたら野球をやめようと思った理由なのかもしれない。

「君、どうしたの?」

小さなサンドイッチとパスタとソーセージの入ったお皿を、一人離れたところで食べていると、東郷さんが声をかけてきた。あまり東郷さんには心配をかけたくなかった。だって彼はこの団体の責任者なのだから。

「すみません。僕、こういうの慣れてなくて。」

「まあそうだろうね。ここにはたくさん高校生も参加してるみたいだけど、君みたいに何か考え事をして歩いてるような顔の子は一人もいないからね。」

「そう見えますか?」

「なんとなくね。」

東郷さんがどうしてそれに気づいたのかを、疾風はあえて聞かなかった。どうせみんな、顔を間島時とみなくても、自分が何か考え事をしながら歩いているのなんかお見通しなのだ。

「東郷さんは、どうしてこんなことしようって思ったんですか?」

今は、それが何よりも東郷さんに聞いておきたいことだった。

すると東郷さんは、消えそうなビールの泡を見つめながら言った。

「僕は変わった考え方をする人でね。つまり、空に飛行機やヘリコプターばっかりが飛ぶ街には住みたくないんだよ。空は、本当は風しか吹いてはいけない真っ白で神聖で美しい場所のはずなんだって、僕はそう思ってる。空からは、放射能も宇宙ゴミの残骸も、っこわれたひこうきも、ミサイルも、人の死体も、何も降ってきちゃ行けないんだ。君は?」

東郷さんの言葉を租借しながら、自分がどうしてこの団体に参加しようとしたのかを、租借に使っていない脳みそで考える。

「曾祖父が戦争で死んだんです。だから、平和な街を守りたくて、ただそれだけです。」

東郷さんはそれを聞くと、また優しく笑いかけた。

「君は強いよ、谷口君。」

その言葉は疾風のことを癒やすと同時に、疾風のことを傷つける言葉でもあった。疾風はまったく自分が強いなんて思ったことはないからだ。何も自分のことを知らないくせに、この人はどうしてそんなことを言うのだろうか。

「僕は強くなんか…。」

のどから出そうになる言葉を飲み込んだのは、東郷さんが話を続けたからだ。

「平和を望む人たちは、平和になってほしい、戦争はいけないことだって口で言うだけで、何も行動を起こさない、起こせないんだ。でも、君は僕たちの仲間に入ってくれた。それだけで君は強いよ。」

疾風は、皿に入ったサンドイッチを、その言葉といっしょに勢いよく食べた。

「僕にできることがあったら、何でも言ってください。」

疾風に今言えることはそれだけだった。自分は強くないと必死になって言い聞かせてきたのに、この人は、「君は強い。」と言ってくれた。それだけで疾風は、前を向くことができた。

でもそうやって前を見た瞬間に、危険なものが襲いかかってくることだってある。

東郷さんと別れ、また一人でご飯を食べていると、そばで怪しい気配を感じた。さっきのピアスに入れ墨の若者のうち二人ぐらいがこっちに近づいてきたのだ。

「おい、おまえ。酒飲まねえのか?」

男は遠慮も配慮もなく、堂々と疾風に尋ねてきた。

「いいや、僕高校生なので。」

疾風がそう言ったとき、二人は大声で笑った。

「高校生がなんだっていうんだよ。こいつなんかもう3杯も飲んだんだぜ。なあ、氷室。」

二人の若者の後ろに隠れるようにして、千鳥足少年が出てきた。彼は高校生とは思えないほど童顔の癖に、完全に酔っぱらっていた。

「隆樹さんは無茶を言いすぎなんっすよ。このおれをこんなに飲ませるとは。」

「おれが酒代を持つって言ってるんだ。このあとも付き合ってくれるよな、なあ

、氷室坊。」

「ったく、しょうがありませんねえ。おい、あんたも道連れだからな。」

気づけばその氷室というやつは、疾風の腕を強くつかんでいた。

そのとき東郷さんの声が響いた。

「以上で懇親会は終了となります。このあと2時会をやるなら各自好きにしてください。ただし、はしたない行動はしないように。我々はこれから社会や政府に

抗議する身分です。誠実に対応することが求められます。それをわきまえて行動してください。では解散。」

しかし、東郷さんの声に反して、疾風はすっかりその集団の中に飲み込まれていた。そのとき、疾風は酒をまだ1杯も飲んでいないのに、意識も意思もなくなっていたといっても過言ではない。

疾風も含めて6人の男たちは、駅の大通りを少し入った狭い路地に向かっていく。静かで実に不気味な路地だ。リーダー格の男が一番先頭に立って狭い居酒屋のドアをあけた。

「さあ、飲めやボケが!」

入れ墨集団の一人が、ほかの仲間に何も聞かず、いきなりたくさんの酒を注文した。もちろん疾風は酒なんて飲んだことはない。いや、そんなことを言ったら嘘になってしまう。自分の物心がついたかついていないときに、父親のコップに注がれていたビールを飲んだことがああるのだという。つまり、意識的に酒を飲んだことはなかった。そのときのビールの味を、疾風は思い出そうとしたが、どうもうまく再現できなかった。それは、その味が強烈すぎて思い出せないのと、どうせこのあと酒を飲まされて思い出すことになるとわかったから、無理やり思い出すのはやめることにしたのだ。

朦朧とした意識の中で、酒を組み交わす面々を眺める。自分がどうしてこんな世界に来てしまったのかを再確認するためにも重要な作業だった。みんなそれなりの若者である。さっき疾風に絡んできた男子高校生は、もうかなり酔っているようで、机をたたきながら学校の悪口を言っている。だが高校生は彼だけではないようで、もう一人いるようだった。しかし彼はまったく酔っているようには見えない。こういうのに慣れているのだろう。

「ほら、おれが注いでやった酒が飲めないのか?」

主犯格の男が疾風をにらむ。こんな鋭くて威圧間のある目つきをした大人に、疾風は残念ながらあまりであったことがない。それはきっと疾風が幸せで平和な世界にいままで住んでいたことの証だろう。不良に絡まれたり、迷子になったと思ったら変な大人に襲われたりしたことのない恵まれた少年だったから、この男のような乱暴なふるまいをする人間を知らないのだ。

15歳の夏に飲んだビールの味は、実に苦く、実に刺激的だった。別に二十歳寄り前に酒を飲んでしまったことに落ち込んではいない。それよりも、こんな状況で酒を飲んでしまっている自分が情けなかった。酒を飲むなら、自分が飲みたいと思ったときに

飲みたかった。大人になるというのも、自分が大人になりたいと思ったときになれればいいのに、大人になる瞬間は突然に訪れる。

だから酒をあおった。もう自分は、逆らうことのできない力によって

大人にならされてしまったんだ。すごく卑劣で、非合法的なやり方で。

「あんたらは、どうしておれを巻き添えにしたんだよ。」

ビールを少し飲んで、自分の顔が赤くなっているかそうでないのかを確認しようとしたけれど、それをやめて、入れ墨集団に向かってそう叫んでみた。そんなことをしたって、大人になったばかりの子供の叫び声なんて届くはずもないのだとわかっている。自分はまだまだ成長の途上にいて、立派な大人として大地を踏み占めるようになるには相当な時間がかかることなんてわかっている。だがそこで旗と気づいたのである。だからこの男たちに叫んだのである。この男たちは本当に大人なのだろうかと。酒が飲めるだけが本当の大人なのだろうかと。

「おまえさあ、おれたちは仲間なんだぜ。アンチ飛行場なんとかの。」

そいつはもう、自分たちが所属している、というより疾風とそいつが出会うきっかけとなった団体の名前すら忘れてしまっていた。なぜなら彼にとって、その団体の名前なんてどうでもよかった。

「東郷の簿っちゃんが名に考えてるか市らねえけど、おれたちはこの社会にうんざりしてる。だからそれを変えたくて行動を起こすことにした。それまでよ!だからおれはこんなふうに酒を飲み明かして過ごす道を選んだ。おまえも、そいつも。」

「だからどうしておれを巻き添えに…。」

「巻き添えじゃねえ。おまえはおれの仲間だから付き合ってもらった。ほら、つべこべいわずもっと飲めよ。」

東郷さんがそれに気づいているのかはわからない。でも、平和を守ろうと結成されたこの団体には、もうすでに平和を脅かしかねない連中がかなり加入しているということがはっきりした。参加者が全体で何人いるのかということは疾風にはわからない話だが、その中には少なからず、いわゆる常識的にみて「反社会的な組織」だったり、「不良」といわれる人間が混ざっていることは否定できそうにない。そして、そんなものと関係を持つ気なんかまったくない疾風も、気づけばこの場に足を突っ込んでしまった。疾風はただ、この街の平和を守るために何かがしたかっただけなのに。この社会を変えたい。その思いだけは同じなのに、目指しているものがまったく違ったのである。それを見誤ったのは、疾風だ。こいつらは疾風を先導しただけで、従ったのは疾風だった。善と悪の見分けすらつかなくなった自分を恥じるしか、今の疾風にはなすすべがなかった。

「おまえ、かなり強いなあ。将来有望だねえ。」

大人たちは、まるで動物園で大同芸を頑張る動物をほめるような目で疾風を見た。疾風は、とりあえず自分が酔っていないと思って、酒を飲み続けた。

もちろんそんなことをしたら、どうなるのかぐらい、普通の人間、つまり理性の働いている人間にならわかるだろう。無理に大人になろうとする人間ほど、その末路は滑稽で、最悪で、情けないものになる。

日付が変わる頃、疾風はほかの仲間たちに引きずられるようにして、居酒屋を後にした。酒代は、もちろんその入れ墨集団のリーダーがすべて払った、という。

そのとき、疾風は完全に意識を失っていた。

「こいつ、かなりやっちゃってますよ。」

高校生メンバーの一人が、リーダーにささやく。

「馬鹿なやつだな。自業自得ってもんよ。こんな餓鬼には用はねぇ。」

リーダーの男は、意識をなくした彼を、駅前の小さな公園に、文字通り放り投げて、まるでその罪を見て見ぬふりをするように走り出した。疾風にとってはそんなことはどうだってよかった。というよりそんなことに気づける余裕などなかった。

疾風は、二つにも三つにも見える月をみながら、よくわからない妄想に襲われていた。

彼は自分の目では公園の静けさを見つめているはずなのに、意識の中の目に移っていたのは、空を飛ぶたくさんの飛行機だった。いや、飛行機なんて平和的なものじゃない。なぜならその飛行機から、たくさんの火の球が降ってくるのだから。

「母ちゃん、待って。おいていかないで!」

火の海を必死で走り続ける少年の姿は、どこか小さいころの疾風の面影をまとわせていた。街があちこちから焼けていく。命も、思いでも、家も、心も…。

落とされていくたくさんの憎しみが、この街の姿を変えていく。こんな状況を、疾風のような若者はもちろん知らない。でも、なぜ今の疾風にその景色が見えているのか。それすら疾風にはわからない。ただ今疾風は、頭の中から焼けるような頭痛と、まるで怒りの波が押し寄せてくるみたいな腹痛や嘔吐と、そして何よりもこの情けない心を背負ったまま、雨にぬれた冷たい公園の土の上に倒れ伏した。これが当然の報いのような気がしてならなかった。目の前では、たくさんの人たちが殺され、たくさんの思い出が焼き尽くされ、この世界が変わっていく景色が見えているのに。自分はそんなものさえ守り抜くことができない。そんなちっぽけな存在だった。

遠くで救急車のサイレンが聞こえたのなんか、今の疾風には関係なかった。疾風にはただ、自分にはもう何も残っていないような気がして、ただただ雨に煙る自分の今を見つめていた。救急車のサイレンは、そんな疾風のことを、ただやさしく、ただ不気味に、病院まで運んでくれた。

彼の運ばれた病室の隣ではもう一人、苦しそうに呼吸をしながら眠り続ける少年が横たわっていた。その少年の顔を、レオはその消えた意識で、なぜかとらえることができた。

谷口疾風がいなくなった野球場には、彼がいた頃以上に、まぶしくて美しくて騒がしい日差しが降り注いでいた。なぜならそこには、昨日この世界に落ちてきた救世主、山羅朝陽がいたからなのだ。

朝陽は地球で過ごす二日目の朝を、実に爽快な気分で目覚めた。けれど、目覚めるまでの彼は爽快ではなく、むしろ最悪だった。というのも彼は、いわゆる悪夢にうなされていたからだ。彼がうなされていた悪夢というのは、ぎ津に奇妙なものだった。

空に浮かぶ大きな飛行船に彼は乗っていた

隣に乗っているのはおそらく、さっきアパートの階段で出会い、そして地球に落ちてきた彼を看病してくれたあの少女であろう。飛行船は突然急行を始める。彼がいくら操縦用のハンドルをいじったりボタンを捜査しても止められない。あのときと同じように黒い雲の渦の中に入り込んでいく。そして、後ろから別の飛行船が追撃してくる。その飛行船には、よく知った父の顔があった。

「朝陽!おまえというやつはどうしてこう私のいうことが聞けないのかな。地球なぞという星に逃げおって。こんな息子を、私はどうしてやろうか。このまま放っておくのが、1番罪なことだろうな。」

父のいやな笑い顔をみながら、朝陽と少女の乗った飛行船は落ちていく。地球でもない、どこでもない星に…。

でも目覚めた場所は、そんな彼の夢とはまったく関係のない、美しい朝の空の広がる地球だった。

「ここはね、地球っていう星なの。朝日がとてもきれいな星なんだよ。」

あの看護士は、昨日朝陽が病院で目覚めたとき、確かそう言っていた。だから朝日に期待をして窓をあけてみる。

確かに彼女の言う通り、朝の空には美しい太陽が上り、そして鳥たちが歌を奏でている。黒い太陽には鳥なんて全然いない。そもそも朝と夜がないのだから、朝日なんか見えるわけがない。その朝は、朝陽が見た中で、一番静かで穏やかな朝だった。この星の朝は、閃光が飛び散り、黒い太陽の光にせかされる朝ではないのだ。自分がこんな平和な朝に生きていられることがうれしくて、朝陽は荷物を持たずに、外へ走り出していた。

アパートは大きな丘の上に立っている。昨日転んだはずの急な坂を、胸を張って下ってみたら、後ろから柔らかい風が背中を押してくれた。柔らかい日差しが笑いかけてくれた。昨日の激しい雨の朝が嘘みたいに、この地球の朝はずっと楽しかった。この風があれば、この日差しがあれば、どこまでも走っていられる気がした。

坂を下ると、大きな川の河川敷に出た。そこを走っていると、犬の散歩をさせていたおばさんだろうか、女性が朝陽に振り向きざま、「あら、疾風君、今日も朝ラン?お疲れさま。」と言った。

「疾風」とは誰のことだろう。そんな疑問が頭をよぎったが、朝陽にとっては、そのおばさんの優しい笑顔のほうが大事だった。

朝陽は黒い太陽では、こんなことは日常だった。というより、修業の一環だった。でも、どれだけ灼熱の中を走っても、誰からも褒められることはなかった。誰もねぎらってくれることはなかった。でもあの女の人は、さりげなく、なんでもないことみたいに、朝陽が河川敷を走るのを褒めてくれた。この地球では、人を認めたり人を褒めたりすることが当然なのかもしれない。もしそうなら、そんなことがこれからも続いてほしい。そんな朝がこれからも続いてほしい。

河川敷からかえっていたら、思ったよりも丘を上りすぎていたようだった。丘の上に、見慣れた野球場があった。そこは、昨日朝陽が練習で訪れた、というより乱入した野球場だった。自分のアパートを挟んで、あの川と野球場があるらしい。時計をみたらまだ6時半だったのにもかかわらず、野球場にはもうたくさんの人が集まっていた。この地球の生活サイクルを、朝陽はよく理解していないけれど、こんなに朝早くから人々は公園で何かをするというのだろうか。もちろん黒い太陽では、朝も夜もないんだからそういうことは当たり前だけれど、やっぱり地球でも、朝が早いとかは関係なく、みんなは公園に集って、何かの戦闘訓練でもするのだろうか。

走る店舗を緩めて、音のする広場に向かっていく。自分より少し年上ぐらいの、大学生の人が、「ラジオ体操の会場」と書いてあるプラカードを持っている。

「あの…何をしてるんですか?」

プラカードを持った若者に、朝陽はぶしつけな質問だとわかって話し掛けた。でも若者は、少し驚いた顔はしたけれど、丁寧に答えてくれた。

「ラジオ体操ですよ。やったことないですか?小学生のころとか。」

朝陽は、「はい。僕、もともと病弱で、小さい頃あまり外に出てはいけないと言われていたんです。だからこういうの、あまり経験したことがなくて。」と、嘘かほんとうなのかわからないことを言った。

「じゃあ、やってみます?途中からだけど。」

若者に進められるがまま、野球場の真ん中に行くと、自分よりも全然小さな子供たちが、たくさん列をつくって、なんだかみたことのある踊りを踊っていた。

その踊りは、黒い太陽で戦闘訓練をするために、少年兵たちが踊る踊りだった。皆真剣な顔をして、笑うことなく、泣くこともなく、分隊長が支持した通りに踊る。少しでも形がずれたり、集中力が切れていたりするとみなされれば、鞭が飛んでくる。だから朝陽にはいい思い出がなかった。

でも、そこに立っている子供たちは、皆一様に、黒い太陽での言い方をそのまま使えば、集中力が切れた顔をしていた。眠そうに髪の毛をかきながら踊ったり、何か楽しいことでも考えながら踊っているのか突然笑い出したり、みんなよりも少し遅れて踊っていたり、そのやり方は様々だった。黒い太陽の少年兵の踊りよりも、ずっと彼らは人間らしかった。

人間が生きている朝というのは、こんなのが一番いい。きっと地球の人たちにはなんでもないようなことのはずなのに、朝陽にはそれがとても美しくてかがやかしいものに見えた。

それから数時間後、朝陽は黒い太陽で着ていたジャー時を着込んで、またその野球場に足を運んでいた。さっきよりもずっと太陽は高いところにあって、さっきよりもずっと高らかにセミは泣きじゃくり、さっきよりもずっとその太陽は、黒い太陽みたいにまぶしかった。

昨日突然練習に乱入しただけの新入りだっていうのに、そんな朝陽を追い出すかと思ったのに、コーチですらそんな朝陽を追い出そうとしなかった。

「お、昨日のヒーローじゃないか。来てくれたんだ。」

小柄な少年が朝陽を手招きする。黒い太陽でともに戦闘訓練をしていた戦友にも、どこか面影が似ている。

「今日も一緒に野球をしていいですか?」

緊張した面持ちでそんなことをいう朝陽に、少年は大きくうなずく。

「当たり前だろ?昨日コーチと話てさ。おまえがもしおれたちの仲間になってくれたらいいなって。おれたち、ただ融資で集まってる街の野球チームなんだ。高校で野球やってるやつもいるし、趣味でやってるやつもいる。でもいつか、このチームからメジャーリーガーを3人だすって、勝手に目標決めちゃってさ。公式のチームじゃないから出られる大会もほとんどないけど、おまえがいれば何かが変わる気がするんだ。な、一緒にやろうぜ。」

少年の言葉に、朝陽はなぜか勇気づけられた、というより、途方もなくやる気がわきあがってきた。この人たちの夢をかなえる手伝いがしたかった。だって朝陽は、黒い太陽ではまったく背負ったことのない、「期待」という荷物を背負っているのだから。

その夏の日、朝陽は1日中汗を流していた。グランドは、黒い太陽の戦闘訓練用に開発された恐ろしいものとは違い、平和だった。とにかく、どんな練習をしていても楽しかった。

コーチはときどき罵声を浴びせるが、そんなのは、朝陽が過ごした日々に聞いた言葉より優しく聞こえた。

「おまえさあ、どっからきたの?アメリカ?」

さっきの小柄な少年が、求刑時間中に朝陽に尋ねてきた。朝陽は、コンビニで買ったスポーツドリンクをあおりながら、どんなふうに答えていいものかと迷った。なんだかこの人たちには、黒い太陽について話したくはなかった。それでまた変な人だと思われて、自分が居場所を失ったらもともこもないように思われたからだ。

「まあ、そんなところかな?おやじがそっちのほうの出身でさ。昔野球をやってたんだ。でも…事故で死んじゃって。」

まるで出来の悪い物語みたいな話をしている自分が情け泣く思えた。でも少年は、その出来の悪い物語を、とても大切なものみたいに受け取った。

「じゃあ、おまえは親父さんの期待を背負ってるわけか。だからあんなに全力で野球やってるんだな。あいつも、おまえみたいに楽しそうに野球続けてほしかったんだけどな。」

少年はどこか遠くをみるように、少しさっきより雲の多くなった空を見つめる。

「うん?誰のこと?」

聞いてはいけないのかもしれないが、暗い状況をなんとかするみたいに、その少年に尋ねる。少年はそれをもみ消すみたいに、空に大きく手を降った。

「いや…。昔から野球を一緒にやってる仲間がいてさ。昔はおまえみたいにすごいエースだったんだけど…。去年けがしちゃってからは全然だめでさ。野球やる気もなくしちゃったみたいで。今日も無断で練習休んでるみたいで、電話にも出ねえしさ。なんであんなやつになっちったんだろ。」

朝陽は、その少年の友人のことを考えていた。なぜなら、その友人の考えていることを、全部否定できない自分がいたのだ。きっと彼は、野球を楽しめなくなっていた。しかもそれは、大会とか目標とか、夢とかそういうものに押し潰されすぎて。人間はそうなると、簡単に昔手にしていた喜びをなくしてしまう。朝陽だってそうだった。小さい頃、太陽の力を振りかざしてかっこよく走る父親にあこがれていた。でも実際それは、たくさんの敵や強者を蹴落すことによってだけしか達成できない産物だとわかってからは、自分がそんなに強くないということを自覚するようにもなった。強さを振りかざすこと、夢をかなえることだけを自分の目指すものにして走り続ければ、実はすり減るものはとても多い。もちろん朝陽はその友人を知らない。でも、彼に会うことができるならば、彼の中にあるその重しを取り去ってやりたかった。

でも、みんなはそんなことより、疾風がいなくなって朝陽が現れたグランドの輝きに酔いしれていた。あっという間に、ほかのチームメイトは、昔のエースと呼ばれていた谷口疾風の無断欠席について、投ぜんのことのようにふるまった。朝陽はそういう、突然降ってわいた温かさの中に、何も知らずにいたのだ。

そして何も知らない人がもう一人いた。

綾瀬は、そういういろいろな出来事の流れをまったく知らないまま、勉強の合間に野球場に顔を出した。顔を出した、というよりも、もしかしたらまた朝陽が野球をしているんじゃないかと、変な期待を持ってやってきた。どうしてこんなにも自分が朝陽を気にしているのか自分にもわからない。でも綾瀬は、彼がここに来た理由を、単純に気にしていた。

でも、その理由はもしかしてあんなことを体験したのに、屈託なく野球をしている朝陽の姿が、綾瀬には創造できなかったからだろう。

彼は、つい昨日の朝、雨の地球に苦しみながら落下してきた宇宙人かもしれないんだ。そういうレッテルを抱えたまま、綾瀬はグランドを走る朝陽をみていた。彼の姿は、そんじゃそこらの地球人と何も変わらない。彼はもうすでに、地球人の中に溶け込んでいた。そしてその姿は、少し前、屈託泣く笑いながら球を投げ続けていた、谷口疾風の面影を想起させた。

「ねえ、疾風。疾風は将来何になるの?」

グランドの端っこで、スポーツドリンクを飲む疾風に、綾瀬はそう尋ねたことがある。疾風はペットボトルを床におくと、大きく万歳をして叫んだ。

「メジャーリーガーに決まってるだろ!おれはいつか、ワールドシリーズで優勝して、最強の野球選手になって見せる。」

その顔は、夢の怖さを、現実の冷たさを、自分の弱さを知らない、かわいくて素直で無垢で、まっすぐで美しい疾風の顔だった。すべてを知ってしまった今の彼は、もうグランドにはいない。綾瀬にはそれが衝撃だった。

でも朝陽が元気よく野球をしている姿を見ていたら、疾風がグランドにいないことなんか忘れそうになる。

空が少しずつ曇ってきたころ、練習は終わった。汗を書いて、さすがにつかれた顔をした朝陽が、ゆっくりとアパートのほうへと歩いてくる。

「ねえ…。」

綾瀬は声をかけた。朝陽は、突然声をかけられたのと、その主がいつもよく現れることに対して驚きを隠せずにいた。

「あ、どうも。えーっと…。」

無愛想な態度にならないように気をつけようとしたけれど、また言葉が見つからなくなった。野球でつかれたからではなく、自分がほんとうに話したいと思うからこそ、どうにもその人に対してなんと言っていいかがわからない。

「あ、あたし、日の出綾瀬。あなたは?」

いまさらながらに、綾瀬は彼に名前を告げる。

「さ、山羅朝陽です。よろしく。」

いまさら彼女の名前を、朝陽は租借してみる。なんだか美しい名前に聞こえる。

でもそれは綾瀬にとっても同じだった。

朝陽…。ほんとうに昨日空から降ってきた少年は、本当に昨日落ちてきた人の名前は朝陽だったなんて。夏の空の下で、二人はそれぞれ衝撃をかみしめる。

「や、野球、得意なんだね。」

綾瀬はゆっくりとその衝撃から解放されるように歩き出した。

「う、うん。ちょっと練習してて。」

朝陽は、そのときなんだかおかしい気持ちになっていた。この少女には、自分の話をしたくなっていたのだ。さっき野球を一緒にしていた仲間たちには、自分が地球人であるということをずっと思っていてほしい癖に、彼女には知ってほしくなった。きっとそれは、これ以上この星の人たち全員に、作った自分を見せる必要がなくなるから。そして彼女は何よりも、落ちてきた自分のことを拾い上げてくれた彼女には、自分のほんとうの姿を見せておきたかったのかもしれない。

「ねえ。」

朝陽が口を開こうとしたとき、綾瀬は突然朝陽の首に勢いよく太郎をまきつけた。

「つかれたでしょ。これ、氷タオルだよ。」

冷たいもののぬくもりを朝陽が知ったのは、これが初めてだった。綾瀬は朝陽のためにこんなにもいろいろと尽くしてくれるのだ。それが投ぜんのことなのか、それとも当たり前ではないただの優しさなのか、朝陽にはそれを判断できる力がない。

「ねえ、君はどうしてこんな僕のことを助けてくれるんだい?空から落ちてきた僕を拾ってくれたり、首にタオルを巻いてくれたり、階段をかけあがった僕のひざをさすってくれたり…。」

朝陽はしぼりだすように尋ねる。それに合わせて汗が体をつたう。

綾瀬は、自分でもわからない、と言おうとしてやめた。それがすごい他人任せで冷たい言い方に思えたからだ。

「そりゃそうだよ。突然空から落ちてきて、苦しんでたんだから、助けるに決まってるじゃん。しかも、同じアパートなんだし。大体…。」

そこまで言って綾瀬は深呼吸をする。自分がなんだか彼を糾弾しているような言い方になっていることが腹立たしく思った。こんなことをいうために、彼の首にタオルを巻いたわけではないのに。ただ優しくありたかっただけなのに。突然この星にやってきてしまった宇宙人かもしれない彼に、偽善ではない優しさを与えたかっただけなのに。

「ごめんなさい、攻めるような言い方して。」

謝って済むことではないとわかっていたけれど綾瀬はとりあえずそう言った。

とりあえず弟子かなかった。

「君は優しいね。僕が住んでいた星には、そんな優しい人はいないよ。」

自分の口からポロッと出てしまったそのことばに願意されていた言葉を、綾瀬は何の気なしに頭の中に吸収していた。

「やっぱり、あなた、宇宙人なの?」

朝陽は、「宇宙人」という言葉の重みをかみしめる。確かに朝陽は、宇宙の遠い星から間違ってこの星にやってきてしまったんだ。いまさらこみ上げたその重みが、空の雲みたいになって胸にわきあがる。

「逃げて来たんだ。住んでいた星から。」

朝陽は、ゆっくりと今話したいことだけを話した。なぜなら綾瀬は、そのあと何も糾弾をしなかったから。

「僕の住んでいた黒い太陽って星は、とても大きな星でさ。きっと多くの星の人たちには、太陽って呼ばれてる星があるだろうけど、黒い太陽はその太陽から分裂して生まれた、まだどの星にも気づかれずに存在している星なんだ。

僕はその星の一番の権力者の息子として生まれた。父は権力を振りかざし、全宇宙を生きている間に支配することを目標にして戦ってる。

僕はそのやり方が嫌いだった。だから、ちょっとほかの星をみていろいろ学ぼうと思ったんだ。もちろん父にそんなことを言ったら、修業をさぼるなって怒られるし。だから無断で家でしてきたってこと。そしたらさ…。」

ふと朝陽が見上げると、夜になったせいなのか、空は真っ暗だった。心なしか遠くで雷みたいな音もする。でもそんなことを気にしている場合ではなかった。今朝陽は確かに、人に初めて語るこの旅の理由を話していたのだ。

「そしたらさ、この地球の人たちは黒い太陽に住む人足りよりずっと優しくて、ずっと平和そうで、ずっと笑顔で…。なんだかうらやましくなってしまった。僕よりもずっと楽しい人生を生きてるんだなって。」

「そんなことないよ、あ、朝陽君はかっこいいよ。」

綾瀬は、素直なその気持ちをただ叫んだ。

「あたしね、ずっと遠くへ行きたいって思って他の。でも何も行動を起こせてないんだ。それどころか、自分の心臓が悪いことを言い訳にして、全然挑戦とかしてこなかった。だから、そんなふうに星を飛び出して、それで地球に落ちてきた朝陽君はかっこいいよ。朝陽が落ちるって言うのは、なんかおもしろいけどさ。しかも、野球をやってる朝陽君は

私なんかよりもずっと楽しそう。ねえ、朝陽君は楽しいでしょ、野球やって手。」

かっこいいと言ってくれたのが初めてで、朝陽はただ綾瀬の温かい言葉を受け取るしかできない自分が恥ずかしかった。朝陽が落ちたとしても、この少女は確かなぬくもりで持って、それを受け止めようとしてくれるのだ。やっぱりこの星に落ちてきてよかったと、朝陽は確信した。

「よかった…。君に出会えて。」

朝陽がそう言った瞬間だった。

近くで大きな雷鳴が響いたかと思えば、突然激しい雨が降ってきた。

「やだ、降ってきちゃった。傘もってないや。朝陽君、ついてきて。」

綾瀬は、なんといったことのないと言ったように走り出した。

朝陽だってそうしたかった。さっき野球をやってたときみたいに、勢いよくグランドを駆け抜ける、あの風の紅葉間を思い出した買った。朝、川沿いを走ったときの気分を取り戻したかった。この地球のぬくもりを、優しさを思い出した買った。

でも朝陽の上に、激しい雨が降ってきたとき、朝陽の足は前に進めなかった。

「朝陽君、どうしたの?ねえ、聞いてる?」

地球は美しくて優しくてすばらしい星だ。あの看護士さんが言ってたみたいに、朝日のきれいな星だった。

でもやっぱり、この地球には雨が降る。朝陽は少しでも雨に当たってしまえば呼吸が苦しくなる。30分も激しい雨に打たれたら死んでしまう。そんなことはわかっていたはずなのに。

それは自分の体が弱いからだった。自分以外の黒い太陽の人間たちも

もちろん雨に対しては弱い体の作りをしているけれど、ほんの少しの雨でも苦しくなるような体ではない。それは朝陽だけのものだった。

自分は地球で元気に生きられる。自分はこの星でなら生きていけるかもしれない。それは嘘だった。それはただの思い上がりだった。そんな嘘の強さをどれだけ振りかざしても、ほんとうに輝ける太陽になんかなれない…。

あのときと同じだ。苦しみが胸にわきあがってくる。止めようのない鼓動の早さが、勢いよく迫ってくる。自分はこんなにも弱い朝陽になって、地球に落ちてきてしまった。今自分に降り続いてきた雨みたいに。

綾瀬は、困っている人がいるから助けたいとか、倒れている人がいるから119番通報をしたいとか、そういう気持ちではなかった。今綾瀬は確かに、この人のことが好きだから、それだけの気持ちで彼を助けた。119番通報を押した。

「もしもし…。あの、あたしの好きな人が、今倒れちゃって…。」

焦って飛び出したそのことばの重さに、綾瀬自身が驚く。この激しい雨の中で、綾瀬は知らぬまに、朝陽に恋していた。弱くて強い、太陽の子に。

山羅朝陽が病院で目覚めたとき、自分の隣のベッドにも人が眠っているのに気づいた。顔色は自分と同じでかなり悪い。どうしてここにいるのか、何が起きたのかなんて朝陽にはわからない。でも、なんだか彼も自分と同じで、突然病気になったからとか、突然けがをしたからとか、そういうことよりもっと恐ろしいことによってこの病院に運ばれたように思われた。

窓の外では雨の音なんか全然しなかった。きっと今なら外に出ても、さっきみたいに最悪な気分にはならないだろう。

自分の弱さをつくづく痛感する。もう少し強い心を持っていれば、もう少しちゃんと歩くことができたならば、もう少し強い肉体を持っているとするならば、きっとあんなふうに、優しかった地球に裏切られたなんて、そんな残酷な感情を胸に抱えなくてよかっただろう。でも朝陽は一瞬でもそう思っていた。さっきまで信じられていたはずの地球の空が曇ってきて、大きな雷と雨の音に全部がかき消されてしまうことが、何よりも恐ろしかった。自分がこんなにも弱い心の持ち主だなんて、黒い太陽のときだってそう思っていたけれど、地球に来てなおさらそれを知らされた気がした。父から自立して、自分一人で生きていくことなんて不可能なのだ。

隣で眠っている少年を少しだけみる。どこかでみたことのありそうな顔だ。でも少年は顔まですっぽりと布団をかぶっているせいでよく見えない。きっと、誰にも顔をみられたくないのだろう。

ところが、その少年が突然おきあがったのだ。おそらく突然目が覚めたのだろう。病室の時計はもうすぐ午前5時である。ということは、もうほとんど朝と言っていい時間かもしれない。

少年は、朦朧とした意識の中で病室を見回した。頭の中にはいろいろなものが焼きついてしまっていて、現実をまともに直視することができないでいる。でもそんな彼と、朝陽は目を合わせてしまった。

疾風の意識が少しだけ現実に引き戻された。

「おまえ…。」

まるで独り言みたいにつぶやく。どうせ本人に聞こえていようといなくともどちらでもいいと思うぐらいの声でつぶやいた。だが朝陽には、その声はちゃんと届いていた。

「あ、どうも。あなたは僕のことを知ってるの?」

疾風の目が光る。頭の中の意識は、まるで何かのスイッチを押すみたいに一気に現実世界へと加速して言った。それを止めようとするものがいても、あっさりと蹴散らしてしまうぐらいのスピードで、彼はあまりよくない目覚め方をしてしまったのである。

昨日飲んだおいしくない酒の味。昨日感じた抑えようのない怒り。その前の日に感じた、青春を打ち砕いたような音。すべてが今大きな波になって、疾風の中に、そして朝陽の中にも波及していく。

「ふざけるなよ!」

そんなことを言ってはいけなかった。疾風にはわかっている。彼がどんな人で、どうして突然この街にやってきたかとか、彼がどうしてあんなに野球ができるのかとかそういう理由がどうであれ、心の波を全部彼にぶつけるのは、いくら彼が憎く思ってもやってはいけなかった。そんなことは、あのときの疾風にもわかっていた。でもそういう問題ではなかった。今の疾風には、正義も常識も偽善も聞こえなかった。ただ自分の心の奥にある最悪な部分を全部、酒に酔って吐瀉物を電車の中に吐き出す非常識な人間みたいに吐き出す。この部屋に、もしほかの病人が寝ていたらとか、そういうほかのコンテクストがあれば、きっとこんなことにはならなかっただろう。

「おまえはどうしてここにいるんだ!おまえみたいな強いやつが、どうして病院なんかにいるんだよ。おれの青春をぶっ壊しやがって。あんなにヘラヘラ笑って、楽しそうに野球やってたくせに。おまえはいったいなんなんだよ…。」

疾風はベッドに顔を埋めてしゃくりあげた。涙が止まらなくなった。それは、こんな

ことをしている自分が、こんなことを言っている自分が情けなかったからだ。こんなふうに病院で眠っている自分が情けなかったからだ。そして、自分の青春をぶっ壊したはずのやつが、今自分とおなじようにベッドに眠っていることが信じられなかったから…。

でも朝陽には、そんなふうにベッドで泣きじゃくる疾風の涙が、なんだか美しい涙のように見えた。というか、そんな素直な涙を簡単に見せられる彼がうらやましかった。そばに誰か人がいたら、そんなふうに大声で泣くことは、黒い太陽では許されなかったし、何よりもそれが法的に許されても、自分が許せなかった。どれだけ信頼している友がそばにいても、涙を見せるなんて、死んだところを見せるのと同じぐらいみっともないと思っていた。でもこの少年は、惜しげもなく涙を流している。自分の中にある怒りも、つらさも、悩みも、孤独も、全部ベッドの上に吐き出す彼のことを朝陽は、たとえ彼が認めようとしなくても、強いと思った。

「なんだよ。笑えばいいじゃないか。野球をやってたときみたいに、ヘラヘラ笑えばいいじゃないかよ。自分の強さを我が物顔にしたみたいな、嘘っぽい顔しろよ。おれはそんなおまえの顔がみたいんだよ。おい、聞いてんのかよ!」

布団の中に潜って叫んでいるせいで、朝陽にはちゃんと聞こえなかった。もちろん彼が言わんとすることはなんとなく聞こえてはいるけれど、はっきりとはわからないところもあった。でも朝陽にはわかっている。疾風は今、確かに何かにもがき苦しんで

自分自身で強くなろうとしているのだと。

「わかった。笑ってあげる。」

朝陽は、思いっきり笑ってやった。でもそれは、彼を馬鹿にするためではない。嘘をついて作り笑顔をするためでもない。彼を称賛し、慰め、ねぎらうために、彼が自ら正直になって起こした笑いだった。

「君は強いよ。そんなふうに、ベッドで思いっきり泣けるんだからさ。僕はそれができない。素直になることを、自分が許していないから。僕は強いんだって、自分で信じることで精いっぱいなんだ。どうせ人間は一人で生きていける。そうやって言い聞かせて生きてきただけなんだ。」

「強さ自慢かよ。そんなの聞きたかねえよ。」

疾風の声が震える。でも朝陽は続けた。

「どうだろう?君はそれを、ほんとうに強い人がすることって思う?」

疾風は震えるのをやめた。感情につき動かされている自分を少し制して、こいつに耳を傾けることぐらいはしてもいいのかもしれないと思ったからだ。

「し、知るかよ。」

疾風は強がった。もうちょっとちゃんと考えればわかることだった。素直になれない人間は強くない。それを一番知っているのは自分のはずなのに、疾風は自分が見えたみたいに思えて、口をつぐんでしまっていた。

「僕は君とは違う。宇宙から来たんだから。育ってきた環境も、家族の歴史も、僕が抱えてる悩みの種類だって。僕が住む星では、僕は一番弱かった。だからちょっと逃げようと思ったんだ。そうすれば、僕が一番強い人間なのかもしれないと思える星が見つかると思った。そしてこの地球にやってきて、僕はやっとこの星でなら一人で強く生きていけるって思った。でも…やっぱりだめなんだ。僕は確かに野球ができるけど、強くないんだ。何かができることとかだけじゃ、強さの証明にはならない。僕が変わらない限り。」

疾風は、彼の話を、さっきよりも真剣に租借した。彼が言おうとしていることはどれも正しく、そしてどれも心の奥を踏み潰すほどの強い脚力を持った言葉だとわかっていたから。

疾風にはなんとなく気づいていたのだ。おととい、悩みながら自分がグランドで野球をしてきたとき、突然現れたこいつの顔は、確かに笑顔で楽しそうで、自分の投げた球を打ち上げたときなんかは、本当にうれしそうにベース向かって走っていた。でも、自分が昔も、そして今もそうだからこそわかる。やつの笑顔は無天下ではなかった。胸の奥にある悲しげな自画像という添加物が、結局顔に張り付いたままになっていた。そういう笑顔をいくら作っても強くはなれない。でもみんなは、そんなことには気づかない。だからあさひを強いと思っている。そして疾風もそう思った。そう思うことにした。自分はかなわない相手だと思うことにした。実際にそうだったから。でも、ほんとうに彼が強いのなら、そんな何かに絶望した顔で、こんなところで眠ってはいないだろう。

「おまえはほんとうに宇宙から来たのか?」

「うん。」

「そこは…そんなにみんなが強い星なのか?」

聞いてはいけないのかもしれないが、疾風はそれがとても気になった。もしそんな星があるなら少しは言ってみたいと思ったのだ。彼が嘘をついているのだとしたら、ちょっとは彼の世界に、嘘に、没入してやってもいいような気がする。

「ほんとうに強い人は一人もいないよ。僕みたいなやつはたくさんいるけど。みんな、頑張ってるように見えて実は自分が見えない人たちしかいないんだ。彼らの目的は宇宙で一番強くて明るい星を作ることだけなんだ。自分がどんなふうに生きるとか、自分がどんな未来を描くなん化関係ない。彼らは星のために生きてるんだから。それってほんとうに強いんだろうか。」

朝陽の話を聞いていると、少し前の地球、いや少し前の疾風の住む国のことを思い起こさせた。つまり、曾祖父が生きていた頃のこの国の話だ。その頃は、朝陽が言っているみたいに、みんなが国のために平和を守るために強く生きていた。でも心の中でみんな、ほんとうに強い人とはどんな人なのか、ほんとうに平和な国とはどんな場所なのかと考えたのだろう。今朝陽が考えていることはそういうことなのだろう。

「おまえ、ちょっとおもしろいよ。」

でも、疾風はそれ以上脳を動かすことができなかった。それは朝陽に対して興味がなくなったからではない。やはり昨日飲んだ酒のせいなのだ。

だからそのまままた眠りに落ちていってしまった。

その寝顔は、確かに苦しそうには見えたけれど、何か昨日に忘れ子と(わすれごと)をして、それでもそれをちゃんと取り戻そうと必死にあがく、人間らしい顔をしていると朝陽は思った。朝陽には、今日を必死に生きて、ただ保証もされていない未来のために強くなることだけが強制されていた。そんな世界に生きていたから、彼の寝顔は美しかった。彼に昨日どんな事件が起きたかは知らない。でもきっとその事件をきっかけに、彼は何かを見つけたんだろう。今の朝陽と同じで。朝陽は彼の名前を聞かなかった。でも、彼が誰なのかは、もうわかっていた。

その頃、綾瀬は丘で朝日を眺めながら、考えてもしょうがない迷いの海に落ち言っていた。

朝陽のことを見舞いにいくべきなのはわかる。でも綾瀬にはやっぱり不安があった。また母に追い出されはしないだろうか。朝陽は死んでいないだろうか。自分なんかがほんとうに朝陽を見舞いにいっていいんだろうか。まだ病院に行ってすらいないのに、丘の上で足取りが重くなる。いつものように輝いている朝日が、今日はなんだか遠い世界の桃源郷のように見える。二日前の朝、朝陽が落ちてきた同じ空とは思えない。

その日、部屋にこもっていてもずっと迷いの海は消えなかった。この迷いの海が消えなかったのは、たぶん何も実行しようとしていないからだろう。あのときと同じだ。ピアノ留学をしようと思ったのに、母に反対されるんじゃないかと思って、ずっとまよいのうみが 消えなかった。でも、その迷いの海は、自分の生活をおびやかすほど大きくなる。その瞬間に綾瀬は気づく。それはもはや迷いではなくて決意だったと。

バスに乗り込む前に綾瀬は野球場をみに言った。もしかしたら、

もう朝陽は退院して野球をしているんじゃないかとか短絡的に考えてみたのだ。すると、案の定彼の姿はなかった。でもみんなは変わらずに野球をしている。彼はみんなの太陽ではない。みんな太陽だとするなら、彼がいない世界で、みんながまともに野球をできるはずがないのだ。

バスに乗り込むと、すっかりエアコンの効いた動く天国は心地よかった。夏の日差しは平等にみんなを暑くさせていて、これ以上は耐えられないと綾瀬は思っていた。バスの中では、杖をついた老婦人が、隣に坐るその人の娘さんらしい人に、何やらお説教をしていた。お説教といっても、その娘さんを攻める説教ではなかったようだ。

「どうなっちまうのかねえ。この街に飛行場なんぞできたら。」

「お母さん。あんまりそういうこと大きい声で言うもんじゃないよ。建設を支持する人たちだっているんだから。」

「何を考えておるんだか。今の若者たちはなんも知らんのよ。飛行場ができたらまた戦争が始まる。みんないい思いなんてしないのに。あたしゃそんな時代に戻りたくないって言いたいだけなんよ。それぐらい言わせとくれよ。」

女性は少しだけ目に涙をためてそう言っていた。綾瀬は飛行場ができることについて、特に何も意見を言わなかったし、何も思わないようにしていた。でも、そんなふうに貌感謝を決め込んではいられないほど、真剣に考えている人はいるんだろう。

病院の待合室は今日も込んでいた。乳児検診があるからなのか、今日は子供の元気な鳴き声が耳に心地よい。綾瀬はこういう子供たちの産声を聞くのは好きだった。

「あら、綾瀬ちゃん。今日もあの子のお見舞いに?」

神原さんがまたやってきた。

「あ、はい。」

「もちろん。いらっしゃい。」

今日は母に追い出されずに住みそうだ。というより、母は今どこにいるのだろう。階段を上がって、病棟の立ち並ぶエリアに入る。ここに来るのは久しぶりだった。久しぶりとはいえ、小学校6年生のとき、体育の授業中に自分が倒れてここに運ばれたのが最後なのだが。

ドアをノックすると、二人の元気な声がかえってきた。

「あら、あなたたち、いつのまに仲良くなってるの?朝はあんなに大げんかしてたのに。」

神原さんのその発言も対外だったが、綾瀬には、この二人が一緒になって、真剣な表情で将棋をさしているところがもっとも驚きだった。もちろん、野球という接点があるのかもしれないが、この二人がどうしてこんな関係を持っているのか、それが今市理解できずにいた。

「畜生。これで3連敗だぜ。なんでこんな強いんだよ。魔法の将棋盤でも持ってるんじゃないのか?」

疾風が唇をかみしめながら朝陽に言う。

「君は突っ走りすぎなんだよ、疾風。いきなりいろいろ策を講じすぎるところがある。将棋は戦略をめぐらせないと勝てないんだよ。」

「おまえ、うちの高校に転向してくるなら、野球部と将棋部に入れよってぐらい強いんだけど。」

「それはそのときにならないとわからないな。」

疾風は将棋盤をひっくり返さんばかりの勢いで机をたたいた。

「ちょっと、谷口君。まだあんた、二日酔いで頭いたいんでしょ?あんまり暴れてると、警察に言っちゃうわよ。」

「日向さん、怖いっすよ。綾瀬の母さんと同じこというんだなあ。」

疾風はため息をついて将棋盤から離れる。

「ってか 、綾瀬…。」

最初に綾瀬の存在に気づいたのは朝陽だった。神原さんの後ろに隠れて、ずっと黙ったまま二人が楽しそうに話す様子をみていると、なんだか不思議な気持ちになる。やっぱり朝陽はすごい。この空から落ちてきて二日も立たないうちに、というか、彼と知り合って1日も立たないうちに、あっさりと友達になれてしまうのだから。昨日あんなに苦しそうな顔をしていた朝陽の顔は、もうそこにはない。

「朝陽君…。大丈夫?具合は?」

綾瀬は、疾風がここにいることはとりあえず、頭の片隅においておくことにした。なぜなら、そちらのほうが綾瀬にとっては正直気になったからだ。

「ご、ごめん。心配かけて。やっぱ僕はだめだな。雨が降るといつもこうなっちゃうんだ。体のせいなんだけどね。」

「そっか。私こそごめん。あわてて救急車なんか呼んじゃって…。こないだもだったし。」

「わざわざ見舞いに来てくれたんだ。やっぱ優しいな、綾瀬は。」

そのとき、疾風は鞄の中に入っているスマホを取り出して、イヤフォンをはめて大音量で曲を流し始めた。疾風には信じたくない、信じがたい光景だったからだ。

これでも疾風は、ずっと綾瀬に恋をしていたのである。それもあって、疾風は朝陽のことが憎いのである。もしこいつが綾瀬のことを知っていたら、絶対に綾瀬は朝陽に振り向いてしまうだろうと。でも、この花シップ利をみる限り、綾瀬は朝陽との仲をかなり親密にしているらしい。彼がこの街に現れたのは、疾風の記憶ではおととい体。もしかして彼は昔から綾瀬のことを知っているのか。宇宙から来たというのは嘘だったのか。この黒い肌は顔中住みでも塗ってそんな色になったのか。でもだとしたらどうしてあんなに野球も将棋もよくできるのか。ただでさえ二日酔いの後みたいに頭が痛いのに、こんなことを考えられるほど疾風の意識ははっきりしていない。

「ちょっと、トイレ。」

疾風は、心配そうな神原さんを通り過ぎるようにして外へ飛び出した。でも、走って飛び出そうとしたら足が前に進まない。きっとアルコールの余波が頭の中に残っているんだろう。当然である。年齢がどうだからとからとかに関係なく、たとえ疾風が36歳ぐらいのおやじでも、明らかに彼は酒の服用をしすぎている。だからこんなにも頭が痛むのだ。

怒りと憎しみとよくわからない気持ちのせいで痛みが最高潮に達したとき、持っていた携帯が鳴り響いた。こんなときに誰かと話すというのは少し違うような気がしていた。今は、なぜ朝陽と綾瀬があんなに親密な関係を持っているのか、そして彼は何者なのかということのほうが、ほかの誰かと話すより重要な気がしていた。でもそういうことに注力するのはよくないことだというのはわかっていたのに…。

「もしもし。」

震えた声で電話に応答する。それはもちろん頭痛のせいだった。

「谷口疾風君かな?僕だ、東郷だ。」

東郷さんの声を聞いた瞬間、二つの意味で頭痛がひどくなった。一つには、酒を飲まされたときの記憶が再燃したから。そして、東郷さんに対する申し訳ない気持ちが募っていったから。

「あ、こんにちは。あの…。」

疾風は、東郷さんに怒られる可能性も考えていた。15歳で酒を飲むというのはヨーロッパだろうとアメリカだろうと、もちろん日本でも明らかに違法である。明らかに逆らえなかった自分に非がある。場合によっては、団体に入ってまだ一晩しか立っていないのに、除籍ということもやむを得ない。せっかく自分にもできることが見つかったと思ったのに、自分の弱い意思のせいで結局水の泡になってしまった。そういう最悪のシナリオは、予想したくはなかったが、考えておく必要があるだろう。

でも、この世の中には、そこまで最悪な悪の底に沈んだはずの人間を助けてくれる神様も必ずいることを、疾風は知ることになる。

「夕べのことは聞いたよ。ほんとうに申し訳なかったね。」

「ど、どうして東郷さんが謝るんですか?東郷さんは何も…。」

「これは僕の責任だ。団体責任者として、放置してはいけなかったんだよ。しかも君は…僕の大事な後輩だったのに。今回のことは厳正に対処しようと思っている。言い訳をするつもりはないんだけど、実は、以前僕がかかわってた友人を誘ったら、反社会的な組織とつながってたみたいで。政府に対して反抗する組織だってことを伝えたら、たくさん仲間をつれてきてしまったんだ。おかげで風紀が乱れてしまってて。ただそんなことにはならないって言ってたから、自由な雰囲気を壊したくなくてね。」

東郷さんの声は、スピーカーのせいなのか、それとも彼の特質なのか、耳によく響く声だった。それは、良くも悪くも、疾風の頭によく響いた。それは頭痛をさらに悪化させるものにもなりえたし、彼のことをぬくもりで包むものにもなった。

「今回のことはほんとうに申し訳なかった。でも僕は、君についてきてほしい。もしよかったらこれからも…。」

「やめてください!」

今疾風は、ほんとうにトイレに駆け込む必要があった。廊下の真ん中で電話をしていられないような顔に、声になっていた。

自分は、東郷さんにたいしてとても申し訳ないことをした。そればかりか、ちょっとは誰かの役に立ちたかったはずなのに、犯罪行為と言われてもおかしくないようなことをしてしまった。たとえするつもりがなかったとはいえ、罰せられるべきは自分なのに、彼は誠実に謝ってくれた。正直なところ、疾風はそんなに優しい他人にめぐり合えたことが、いままでほとんどなかった。

「東郷さんは優しすぎます。そんな太陽みたいなこと言わないでください。むしろ酒を無批判に飲んだのはおれなのに、おれの責任だから。それなのにあなたは謝ってくれた。むしろおれは、そんな太陽みたいな東郷さんと一緒にいていいか不安だったんです。いいんですか?おれなんかが仲間に加わって…。」

東郷さんはしばらく何も言わなかった。電話越しから流れ出す沈黙が怖くて、疾風の心も胸も震えだす。ただただ止まらない涙だけが、顔から汗みたいにしたたれ落ちていく。

「その、『おれなんかが』って言っちゃう癖、直した方がいいよ。君はこの街の平和を守りたくて僕の仲間に加わってくれたんだろ?僕にはその意思がほしいんだよ。強い気持ちがほしい。ただそれだけだよ。」

疾風は、両親や友人、教師から暴力を振るわれた経験がもちろんある。殴られたことも平手打ちをされたこともある。でもそれ以上に、東郷さんの平手打ちは痛かった。脳内をも襲う頭痛よりも、その痛みは強烈で、そのはずなのになぜだか心地よい。頬には傷の後なんかない。それなのに水で冷やしたくなるような心地よさがある。

自分がどうして昨日酒を飲まされたのか。自分がどうして野球を続けられずにいたのか。それは、ほんとうの自分と向き合えていなかったから。自分から叫ぶことを選ばなかったから。どんなことでも他人の傍観者でいようとする自分がいたから。そんなことでは、自分の意思のない、ただの空っぽの人間になることなんか、少し考えればわかる。自分が弱いことを他人の制にするような人間は、前に進むことなんかできないのだ。

「やらせてください。おれ、この街の平和を守りたいんです。みんなが、病院のカーテン越しに悩ましげに朝日を見るんじゃなくて、胸を張って朝日をみられるような、そんな街にしたい。」

自分が、なんだかすごく意味不明なことを言っているように思えて、いまさらながら昨日のアルコールが突然襲いかかってきたのかと不気味な気分になる。でも、今の疾風にとってはそれが本心だった。今疾風がいる世界は、きっと平和とは呼べないのだ。

「もちろんだ。今週末、改めてちゃんとしたメンバーで持って、昼にミーティングを開き直そうと思う。来てくれるね。」

東郷さんとの電話を終えて、トイレから出たとき、入り口に見慣れた人影を見つけた。彼女は、トイレの入り口になぜか立てかけてある油絵を見ていた。その油絵が誰のなんと言う絵なのか、疾風はよく知らない。彼女もその絵の招待を知っているのかはわからない。暇だからその絵をみているのか、その絵に見入るような理由があるのか、疾風には検討がつかなかったが、彼女は絵にぴったり張り付くようにして

疾風のことを待っていた。だから一瞬

疾風は彼女がまるで絵に吸い込まれた人間のようにも見えた。

「何やってんだ、おまえ。」

疾風は、自分のくしゃくしゃになった顔を、とりあえず適当に吹いてから尋ねる。でもその顔は、泣き晴らした後だというのがよくわかるほどに、腫れた目をしていた。

彼女はそれに気づいていたのだろう。でも気づいていないふりをした。だって、きっとそうやって気づいていないふりをしなかったら、きっと彼女は疾風のことを殴ってしまうだろうから。

「それはこっちのセリフだよ、疾風。」

綾瀬はゆっくりと深呼吸をする。なるべく疾風のことは傷つけたくないし悲しませたくないし、疾風のことを悪く言いたくはない。

「疾風、どうして病院にいるの?」

綾瀬は慎重に言葉を選ぶ。今自分はいくつかの嘘をついていて、きっと彼も自分と同じぐらい嘘をついているとわかっているからこそ、綾瀬は慎重に言葉を選ぶ。嘘をつくことは悪いことではない。むしろいいことなのだ。真実だけで世界ができているなら、きっと化学の発展はなかっただろう。でも、相手が自分に嘘をついているとわかったとき、自分が正直なままでその人とかかわると、絶対に傷は嘘を嘘で塗り重ねたときよりも深くなる。

だから綾瀬はあのことを言わなかった。

疾風が部屋を飛び出したあと、神原さんはしばらく朝陽の熱を図ったりして様子をみていた。

「まあとりあえず山羅君の隊員は明日になりそうね。あと、隊員してすぐにあんまり激しい運動はしないように。それじゃ。」

部屋を出ようとしたとき、綾瀬は神原さんに尋ねた。

「あの、神原さん。」

「何?」

綾瀬は頭の中にある疑問の中でも一番自分が気にかかっているものを、彼女にぶつけることにした。

「答えられなかったらかまわないんですけど、そのー、朝陽…山羅君と谷口君が同じ病院の、しかも同じ病室になったのは、たまたまですよね。」

神原さんは、少し苦い顔をした。わかっている。これが偶然でなく、母の入れ知恵であることも、綾瀬は知っている。別にそうなったことに腹立たしいとは思わないし、いろいろな意味で都合がいいと思ったのは事実だった。しかし綾瀬は一つだけ、どうしても母のことについて気に食わないことがあった。きっと母は、山羅朝陽について、何かを隠している。隠していなかったとしても、綾瀬の知らない彼についての何かを知っている。

「ええ、偶然よ。だって私は知らなかったもん。綾瀬ちゃんとこの二人の患者さんがシリアいだったなんて。」

神原さんは意地悪な言い方をする。まるでこの二人がこの病室に眠っていることの責任は自分にあるような言い方だ。きっとこれは、神原さんの責任ではなく、自分の母親の責任のはずなのに、まるでそれを隠すような言い方をする。それがきっと、神原さんなりのやり方だ。神原さんと綾瀬の母親は、高校時代からの親友だ。きっと隠すと決めたことは、二人で結託してでも隠そうというのだ。たとえそれが、娘の友人の出生の秘密だったとしても。

「あの子ね、うちと幼なじみなんだ。」

ベッドの上で、病室に置いてあったのかよくわからない本を読んでいる朝陽に綾瀬は話し掛ける。

「あの子って、疾風君?」

「そうだよ。友達になったんだね。」

「うん…。友達というか、なんというかって感じだけどね。彼は僕があんまり会ったことのない人間なんだ。なんか、全力で何かを頑張ってるように見えるっていうか…。」

あさひが言葉を探しているのがわかる。それはうらやましさのサインでもあった。自分は確かに全力で頑張ったことはあっても、それは自分のためではなく、父を喜ばせるため、国を発展させるための行為だった。そんなことをほんとうに望んでいるわけではないから、どれだけ全力で立ち向かうこともできない。でも疾風は違った。彼は自分よりも野球ができないし、今野球をやめようとしているけれど、彼はやりたいことがあってそれを全力でやろうとしている。それだけ彼は恵まれているし、それだけ彼は強さを知っている。でもそうやって疾風をうらやましがる彼のことを、疾風自身は軽蔑している。それを朝陽は知っている。もともと天性のような強い力を備えた朝陽にうらやましがられるほど苦痛なことはないだろう。

「彼は野球が好きなんだね。」

「うん。小学校のころから野球選手になるのが夢でさ…。でも、なんか最近あんまりうまくいってないみたいなんだ。」

「そっか…。」

朝陽は感慨深げに天井を見つめる。綾瀬だってわかっている。朝陽に疾風のことを話したところで興味なんかないことぐらい。朝陽はこの地球に、不運にも落ちてきたかわいそうな少年なのだから、そんな人に、もしかしたら疾風は何か悩んでいるのかもしれない、なんて幼なじみを心配する気持ちを吐露したところで何も変わらない。

「彼は野球をやめるみたいだよ。好きだからこそね。」

「え?」

彼の幼なじみでもない朝陽から、しかもこの前宇宙から落ちてきたばかりの少年から、突然幼なじみの決意を聞かされて、綾瀬の頭の中で、文字通り点土地がひっくり返りそうになった。

「そんな…。疾風が野球をやめるなんて…。ありえない。メジャーリーガーになってワールドシリーズに出るってずっと言ってたのに。」

朝陽は、動揺する綾瀬のことをみていると、突然綾瀬にその話をするのをためらう気持ちが芽生えた。今確かに、自分のことを助けてくれた人が、自分の言葉一つで同様している。その事実が恐ろしかった。そんなつもりなんかなかったからだ。ただ、綾瀬に、友人の真実を伝えようと思っただけなのに。人生がカラ周りの連続であるというのはほんとうらしい。朝陽はそれをカラ周りと気づかされぬまま大きくなった。それはカラ周りではなく、自分のやり方、生き方が悪いだけなんだと言わされてきたから。

「ごめん。忘れてくれ。そんなつもりじゃ…。」

「詳しく聞かせて。もしそれがほんとうなら。嘘なら…話さないで。」

自分のやり方が汚いことぐらい綾瀬にもわかっている。でも綾瀬は疾風を助けてやりたかった。疾風がもし夢を忘れてしまったなら、力ずくでもいいから思い出させてやりたかった。それは疾風のためではない。自分のためでもある。遠くへ行きたいというぼんやりした夢を、綾瀬はいつも忘れそうになる。そんな夢はかないそうもないんだと思って生きて言ったほうが楽だと思うことにしていた。でもそれではだめなのだ。人間は夢を持って初めて、空の朝日が美しいと思えるのだ。

だから今、疾風について確かなことを知りたかった。

そしてそのあと聞いたすべてを、綾瀬は自分の心の中だけに封印することを決めた。

「おまえには関係ないだろ?」

さっきの質問に、疾風は確かにそう答えた。当然だ。疾風は、昨日起きたことを、そしてこれからの自分の生き方を、綾瀬にだけは教えたくなかった。綾瀬の中の谷口疾風にだけは、メジャーリーガーを目指す、純真無垢な少年のままで生きていて星買った。もし綾瀬の中で

そんな谷口疾風が生きていれば、仮に自分という存在が殺されても、いつか綾瀬の中の自分に帰ることができるから…。そんな、何の保証もされていない真実を、疾風は信じていた。

だから綾瀬は、そうやって声を張り上げた疾風のことを攻めなかった。むしろ従順な疾風の幼なじみに徹した。

「そっか。ごめん。余計な心配かけて。」

「お、おれこそ…。急にでかい声出しちゃってすまない。ちょっと最近いろいろ悩むことがあってさ、昨日野球の練習してたら、日射病になっちゃったみたいで。それだけだよ。」

無理やり作った嘘は、今にも壊れそうなほどもろかった。でもそんなことは、今の疾風にはどうでもよかった。どうせこんな使い捨ての嘘はいつかばれてもしょうがないものだとわかったうえでのものだ。とりあえず、今このときをどうするかが大事だ。

だから、きっと綾瀬だって同じことをするとわかっていたのに、疾風はあいつについて質問をした。

「大体、おまえはあいつと知り合いなんだな。朝陽と…。」

「そうだけど。それこそ疾風には関係のないことだから。」

誰もが予測できるこの転回に、二人は飲みこまれていく。付き合いが長いから人はきずなが深くなるわけじゃない。きずなが深いから人は嘘をつかないのではない。人はきずながあるからこそ嘘をつく。付き合いが長いからこそ、その人の本音が見えなくなる。だから綾瀬は、朝陽のほうが今は話しやすかった。疾風とは距離をおいたほうがいいとわかっていた。でも

何よりも、こんなことになってしまったことが解せなかった。

帰り道、昨日の夕立の空とは全然違う、赤く染まった夕焼け空を眺めながら

今日もあの二人は病院から帰ることができなかったんだということを思い出した。帰り際、綾瀬は朝陽にたずねた 。

「雨に打たれるといつも発作を起こしてしまうの?」

「そうみたいなんだ。黒い太陽ではよくあることみたいなんだけど、僕は特にその影響を受けやすくて。それもあってずっと馬鹿にされてきた。」

「じゃあ、朝陽君がいれば、地球ははれるってことだよね、きっと。」

自分が言った言葉が、すごく嘘っぽく聞こえて笑えてしまう。そんなことを言うべきではなかったのかもしれない。でも、そのことば一つで、少しでも朝陽が病院を勢いよく飛び出して、昔の疾風みたいに野球を続けてくれれば、それでよかった。

その日の夕焼け空は、いつもよりも遠くまではっきりと見えたような気がした。綾瀬には見えないどこかにきっと黒い太陽があるのだ。


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