野球

さっきまで雨が降っていたのだろう。ぬれたグランドのうえには、嵐のあとがまだまだ残っている。そんなことも忘れてしまったみたいに、夏の空は何の変哲もなく晴れている。さっきまで激しい雨や風にさらされていたとは思えないほどだ。

激しい雨が明け方の部屋の窓をたたいたとき、谷口疾風(タニグチハヤテ)は正直なところ喜んだものだった。これで今日の練習はなくなる。自分が好んで続けているわけではない野球の練習は、雨が降ってしまってはまともにできない。自主練なら別だが、公式的な練習はやらない。そんなことを考えているうちに、いつしか彼は雨が好きになっていた。雨が降れば、太陽が照りつけているときにできたことにも多少の制限がある。今日は雨にやられたのだからおとなしく家で過ごすのがいい。そう思って、谷口疾風はその激しい雨の音を聞きながら2度寝に戻ったものだった。

去年までの疾風は違った。彼は受験が迫っていた中3の夏でも、必至にグランドを駆け回る、立派な野球少年だった。高校でも本気で野球を続けるつもりだった。

しかしその夢は、中3の最後に出場した大会でついえた。疾風は、自分では精いっぱい努力したつもりだったけれど、残念ながら監督からの先発ピッチャーとしての起用はなかった。

野球は今も昔もずっと好きだし、プロ野球やメジャーリーグをみるだけならいつだって見る。でも、中3の秋に肘を壊してからは、本当に野球が出来なくなった。というか、やる気もなくなった。それならば、野球を続ける意味はない。

だから高校では野球をやめて、そんなものに縛られずに生きることにした。

しかし、野球図気の仲間たちは、自分がどうして野球をやめたかを聞きたがった。けがをしたのか、それとも野球が嫌いになったのか、それとも人間関係で何か悩み事があるのか…。

自分が野球についてどう考えていようと、あいつらには関係ない。そのはずなのに、人は一人では生きられないという命題に頼るように、疾風は彼らについていくように、野球を続けることにした。

ただし、高校の部活動には所属しなかった。公園で、少年野球チームを作って、街の草野球みたいにして続けることになったのだ。

とはいっても、疾風を除くほかのメンバーは本気だった。先月、彼らは突然、以前リトルリーグでコーチを務めたことのある男を、自分たちのチームのコーチに選んだ。そこから地獄の猛特訓が始まった。当然である。彼は僕たちを大会に出して優勝させるつもりなのだ。疾風は、野球からは離れられないけれど、楽しく遊ぶぐらいの感覚で野球を続けたかった。もし本気で野球をしてしまったら、あの挫折の感覚がまたフラッシュバックしてしまうだろうから。

だから、激しい雨が降ったときに、今日は特訓から逃げられると思っていた。でもそれがまぶしいあの木漏れ日に変わったとき、その木漏れ日が変な怪物みたいに勢いよくカーテンを通り抜けて迫ってくる。バットを振って音もなくベースを踏もうとするバッターのようだった。

まぶしい夏の日差しが彼をグランドへ連れ出す。行きたくないとあれほど願っていたグランドに、音もなく彼を連れ出した。

地面は雨にぬれている。グランドの端っこには、よどんだ水たまりができている。どうせならその水たまりの中にいたいとさえ、疾風は思った。

守備位置でノックを受けていると、太陽の光が頭に直接暴言を吐くように光の弾丸を浴びせてくる。たくさん夏のかけらが、まるでその命を無駄にしまいと走り続ける。彼らがおとしていった汗の塊が、空に散らばってさらに夏を暑くする。どうしてみんなは、あんな楽しい顔をして、グランドを走りぬけることができるのだろうか。

きっと楽しいわけではないのだ。彼らは何かがしたくて、今こうしてグランドを走っている。目的はとても小さくてぼやけているけれど、彼らは必ず野球をするとき、何か目的を持って、球を投げたり、バットを振り上げたり、ベースを踏もうと努力したりしている。

自分には目的がない。必死に球を追いかけようという目的がない。球を投げても三振を取ること以外に目的がない。狭い夏のグランドで、ただただ友達がいるから野球を続ける自分の姿は、夏のかけらに踏みつぶされた、小さなセミの抜け殻と同じように見えた。

「谷口!球、そっちに飛んだぞ!」

チームメイトがそう叫んだとき、確かに目の前に球が転がっているのが見えた。でも、それと同時に、頭の中に浮かんだ、というより思い出されたことがあった。

それは昨日の夕方のことだった。

たそがれがもうすぐ街を包もうとしていたとき、疾風は買い物をするために駅前に出かけた。そのときも頭の中には、最近毎日のように夏の暑さの中を駆けめぐることに

辟易としている自分がいた。かといって、この夏を何もせずに終わらせることもどこか違うと思っていたし、それだけは避けたかった。ただ無心に野球を楽しんでいる夏のかけらたちに比べて、自分は暑い夏の空の下で、まるでただの木のようにつったっていることなんてできない。でも、自分が走り出すべき方向や、太陽の光がどこか照りつけているかすらわからない。だから困っているのだと、自分に言い聞かせた。言ってしまえば、彼は、何か転がってこないかと他力本願な態度で、この夏に望んでいた。それを人はよわいひとのすることだというかもしれないが、今の疾風にはこれぐらいしかやれることがなかった。やみくもにいろいろなことを試しても自分の魂をすり減らすだけだと気づいていたから。

駅前の商店街は、夏の暑さをもろともしない人たちが、買い物袋を下げたり、子供を迎えにいったりするためにおとずれていた。みんな、この暑さを、自分たちの日常の添えものであるかのように扱っている。もちろん疾風だってそうだ。でも、その夏の日常が、やっぱり疾風にはどこか空虚に見える。

そんな夏の街で、何人かの若者たちがビラを配っているのが疾風の目に止まった。若者たちは何かを演説しながらビラをまいている。それが違法行為なのかそうでないのかを判断できるほど、疾風の頭はそのときはっきりとした意識を持っていなかった。

「政府は市民のこと、平和のこと、我々の生活のことを何も考えていません。この街には基地はいりません。騒音問題、墜落事故の危険性、治安の悪化など、懸念事項は数多く存在するというのに、なぜそれをかんがみずに、この街に基地を作ることが容認されるのか。我々若い世代が声を挙げることが何よりも重要です。飛行場建設に反対のこえを一緒に挙げませんか?」

先頭に立ってビラを配っている男性は、疾風とそう年の変わらないように見える人だった。もちろん、年が変わらないといっても、たぶん自分よりは年上なのだろう。けれどもこの人は自分よりも少し年上のはずなのに、すごく大きなことをしているように、疾風には見えた。自分には到底できないように思われるようなことだった。どうしてこの人は、あの電車の釣り広告にしか書いてないようなことを、こんなに大々的に声に出して、街頭の人たちに語りかけているのだろうか。そんな、小さいようで大きなことを、まるでいとも簡単なことみたいに成し遂げている彼の姿は、疾風にとって非常に心強く、そして非常に遠くで見えた。その声はとてもちかく聞こえているはずなのに。

ビラ配りに対する反応は実に多種多様だった。大声で叫ぶ彼を少しにらんで通り過ぎるおばあさんもいれば、喜んでビラを受け取るお持参や、立ち止まって話を聞く親子連れなどだった。この街にはいろいろな人がいるんだということがつくづくよくわかる夕暮れの街の風景は、いつもなら平凡で美しい景色のはずなのに、そのたくさんの雑踏の動きは、疾風にとって実にまぶしく、そして目を曇らせた。

だからこそ、そのまぶしさに誘われるように、疾風はその若者に近づいて、ビラを受け取った。

若者のその笑顔は、優しいようなよそよそしいような、作ったみたいな柔らかさが感じられた。

びらには、「朝比奈飛行場建設に反対する次世代平和の会」と書かれていた。「次世代」わとビラに書かれている理由は、これが次の世代を担っていくべき若者によって組織されているからだ。若者と言っても、会に所属できるのは10台から20台の男女で、性別や障害、取っておくべき資格などは不問とされていた。つまり、この条件を満たせば宇宙人であれ、青春を満足にできていない人間であれ、誰もが参加できるらしいのだ。

そして気づけば、ビラについていたQRコードを読み取って、事務局にメールを送っている自分がいた。

もちろん、生半可な気持ちで登録したつもりはない。しっかりと熟考し、深呼吸をして登録したつもりだ。自分のやりたいことがないからなんでもいいと思って挑戦したこと、というわけでもない。ちゃんとした気持ちを持って登録した。

でも、登録した理由の奥のほうには、やっぱり野球から逃げるために、新しい青春を用意したかったからというものが、完全にないわけではなかった。世界平和を守ることに近いこの活動に、そんな自分一人の事故満足を介入させるのはお門違いもはなはだしいと一括されてもかまわない。これぐらいしか、疾風がこの夏を全力でささげようと思えることが、今はないのだから。一度も会ったことのない、それでも疾風に野球好きの血をつなげてくれた曾祖父に、少しでも感謝の気持ちを伝えるためにっ。

さっきまで目の前を飛んでいたはずの球は、そんな昨日の夜の出来事を思い出していたら、あっさりとどこかしれないところに飛んで言った。もしくは誰かのグローブの中に収められていた。それでよかった。自分は野球の球をとれるほど、野球に愛されていないのだ。野球を楽しめていないのだ。あんなふうに、あちらこちらに揺れ動く夏雲のような人間たちとはわけが違う。もっとちっぽけで、もっと前に進むのが怖くて、もっと馬鹿だから。

でも、そんな疾風の姿なんて、この星にやってきて数時間しか経っていない山羅朝陽にしてみれば、野球をしている一人の少年としか移らない。たとえ彼がチームから少し離れたところで球を拾っていても、たとえ彼がぼーっと空を見上げながら、飛んでいく球を見失っても、たとえ彼が野球とのつき会い方に悩んでいようとも、遠くからその様子をみている朝陽にとっては、全力で野球を楽しんでいる人たちと何も変わらない。それはしかたのないことであり、攻められるべきことでもない。

医者から隊員していいと言われた。なんとも実に短い入院生活だった。だがもちろん、長い入院生活を望んでいたわけではない。一刻も早くこの地球で生きていく方法、いや

願わくば黒い太陽に戻るための方法を考える必要があった。病院のベッドに縛り付けられていつまで経っても地球の大地すら踏み占めることができなかったとしたら、それは大変に心苦しいことだと思っていた。だからすぐに退院していいと言われたときはかなり安心したものだった。

病室を出ようとしたとき、看護士の七瀬さんが入ってきた。

「お疲れさま。あなた、家ないんでしょ?」

その質問が唐突すぎて、それでも的を得すぎていて、一瞬朝陽は回答に迷った。なぜこの看護士が自分の家がないことをしっているのかを聞く必要があったのかもしれないが、さっき自分があんな変な質問をしたからだとすぐに自覚する。

だが、仮に自分には家がないということを知っていたとしても、この看護士がそんな一人の患者のために尽くしてくれるわけがなかろう。そんな優しくて温かいことがあっていいわけがない。現実は、人生はもっと残酷な色に染まっていてこそ人生のはずだ。

そうやっていくら去勢をはっていても、現実はおもったより温かいことを、朝陽はこの看護士によって知らされる。

看護士は小さな紙切れを彼に渡してきた。そこには、手書きの細かい字で、住所と思われるものが書かれていた。

「ひとまずあんたは今日からここに住みなさい。家賃とかその変のことは考えなくていいから。」

看護士はそう言うと、さっきもそうだったけれど、まるでとっとと病院から彼を追い出すように、病室のドアを勢いよく閉めた。

この看護士がいったいなぜ自分のために、そして彼のために住む場所を用意してくれたのかを考えることはいささか難しいことに思われた。彼女のその無償の優しさが、実はこの星ではごく当たり前のことなのかもしれない。誰かに助けられることは怖いことで、そんなものにしがみついていては生きていけない。それが、第嫌いな父の教えで会った。それをある程度まで信じていたからこそ、空から自分が落ちてきたときに、ああんなひどいことをしてしまった、と朝陽はもう戻らない反省を心の中にしまっている。

でも実は、案外そんなことを思っている自分は、いつまで経っても、きっとどの星にいても生きていくことは難しいのかもしれない。人の肩を借りなければ、人が放つ光を見つめなければ生きていくのは難しい。それを、まぶしくて灼熱の黒い太陽で信じ続けていたのは自分だったはずなのに、いつの間にか父の放つ悪光(あっこう)に染まってしまっていた。

今自分は、黒い太陽にはいないのだ。いくらそれが父の嫌いな星だからと言って遠慮する必要はない。もっと誠実に地球の人たちの生活に向き会う必要がある。自分がこんな星におっこちたのには、きっと何か理由があったのだ。

黒い太陽に住んでいた頃から持っていたスマホを、地球で使える仕様に変えて、地図を検索する。住所を打つ手がなぜか震えている自分に気づく。背中には、黒い太陽で感じたのに近い灼熱の日光が容赦なく当たってくる。それなのに手が震えているのはなぜだろうか。きっといまだに、地球に対して、どこかおそれとも怒りとも尊敬ともつかない気持ちに、自分の心が覆われている制だろう。そう、夏の空にかかった入道雲のように。

エアコンの聞いたバスに乗り込んで、地図が示す、「ふれあいの丘」というバス停まで乗ることになった。バスは案外空いていて、役所の悪口を大声で話すおばさんたちと、買い物袋を下げた親子連れ、そして本を気難しそうによんでいるお持参と朝陽だけだった。

朝陽にはこの姿が平凡で平和で美しく見えた。黒い太陽にいたころ、街の人たちの顔を覗くことはあっただろうか。そんなことをする余裕は自分に会っただろうか。

いつも父について戦争をしていた。ほかの星を焼き尽くす訓練をしていた。街の人たちがどんな顔をして普段の生活を送っていたかなんかどうでもよかった。ただ黒い太陽を大きくして、宇宙で一番強い星にするためだけに奉仕させられていたからだ。

こんな星には、きっと光の爆弾が落ちてくることも、世界中が焼き尽くされることもきっとないのだろう。人々はみな一様にいろいろな顔をしているが、その顔のどこかには、今この瞬間をとりあえず楽しんで生きているという感じがした。少なくとも、命を狙われるような恐ろしい事件や戦闘行為は、この星では起きない。起きてほしくない。

そんなことを考えていたら、「ふれあいの丘」のバス停を一つ通り過ぎてしまっていた。

次のバス停は野球場前と書かれていた。野球という言葉は、なんとなく朝陽にとって懐かしいものに思われた。それは、黒い太陽を思い起こさせる言葉でもあった。だがけっしていやな感じはしない。なぜなら父は、野球を鍛錬のためにやらせていたが、その時間が朝陽にとっては多少なりとも楽しかったのだ。

ここに野球場があるとしたら、きっと野球をして汗を流す人たちがたくさんいるのだろう。そう思うとわくわくが止まらなかった。ともかく野球場前で降りてみて、ゆっくり新居に向かえばいい。

そんな気持ちで、金属音の響くバス停を降りた。

やきゅうじょう前と書かれているが、そこはいわゆるただの講演のような場所だった。でもバス停からも、野球をしている人たちの姿が見えなくもなかった。

彼らはみんな笑顔だった。必死になって球を追いかけ、必死になって球を打っている。その姿は、自分が黒い太陽で野球をしていたときよりずっと楽しそうで、ずっと輝いていた。苦しみながら野球をしている疾風の顔なんか、その中ではかすんで見える。

朝陽は、自分でもぶしつけだとわかっていながら、堂々と野球場へ足を踏み入れて、声をかけていた。このときの朝陽は、雨にぬれて苦しんでいた、空から落ちてきたばかりの朝陽ではなかった。

「あのー、ここって野球場ですか?」

「そうだが、今は練習中だ。」

眼鏡をかけて、少し髪の毛がさびしくなっているお持参がそう答えた。このチームの監督と思われる人だった。でもみんなは、そんな気難しい監督と違って笑いかけていた。

「もしかして君、野球できるの?」

「はい。」

朝陽は今にも投げたかった。今にも打ちたかった。要するに、今にもこの地球で野球がしたかった。もし彼らが、自分が相することを許してくれるならば。

「一緒にやろうぜ。どうせおれたち、ただ野球が好きで集まってるチームだからさ。だれが来てもOKなんだ。」

キャプテンに見える男の人、というか自分と同じぐらいの年齢の少年が言った。

彼に促されて、まずはマウンドに経たせてもらうことになった。

その後のことを、谷口疾風はあまり思い出したくはない。もっと正確に言えば、彼は練習を途中で放棄して家に逃げ帰ったというのが事実だった。

思い出したくない理由は、この突然現れた少年が、このチームの中で一番野球ができる人間、一番できると言うよりもかなりの逸材だったということを知ってしまったから。これに尽きるものだった。

でも、一番最悪な瞬間のことを、疾風は忘れられない。

そのとき疾風はマウンドに経たせてもらっていた。バッターボックスに姿を表したのはこの男だった。彼のことをじっくりと観察するように、疾風はこの新入りを見つめる。

どこか日本ではないような暑い国から来たんだろうかと思えるほど黒く焼けた肌。自分より短く切られた髪の毛。自分のに比べてかなり大きな無地のジャージーと、破れているようにも見える服。少なくとも、あまり見たことのない風貌の男であることは確かだ。年齢がいくつぐらいなのかも想像が出来ない。はっきりしているのは、自分より背が高いと言うことぐらいだ。

でも、何よりも、疾風は彼に対してけんか腰にはならなかった。むしろずっとずっと弱腰だった。どうせ負けるとわかっていた。経たに強がるよりもこいつに本気で立ち向かうだけ無駄だと思った。どうせこいつは自分の球を、いとも簡単に打ちぬくに決まっている。

だから軽い気持ちで、いつものようにマウンドからボールを投げた。

高い金属音が夏の空に響いたとき、疾風はすべてを察した。もうここにおれの居場所はないんだと。

高く高く飛び上がっていったボールは、野球場を通り越すように、飛んでいく。それはまさしく、真夏の空にきれいなフォームを描いて飛んでいく赤トンボのようなホームランだった。その美しさに、だれもがみな、口をあんぐりと開いたまま、フリー図した。

疾風だけが、ロジンを手で触って、肩を強くたたいて、まるでこの状況が自分に降りかかったことみたいにそわそわして、そしてみんながその球に気をとられている間に、野球場を飛び出した。

彼がいなくなった変わりの野球場には、さっきよりもさんさんと日差しが降り注ぎ、みんなは朝陽に注目した。疾風が一人いなくなったところで、太陽はあっさりと向きを変えられるのだ。

久しぶりにいい汗を流したと、朝陽は空に向かって笑いかける。自分が、今まで来たこともないこの星で、今幸せを勝ち得ていることが信じられない。黒い太陽では考えられないほど、風は心地よく、太陽は美しく、何よりもみんなが全力で生きていた。戦争の道具ではなく、一人の人間として。その姿の中に自分がいることに、何よりも誇りを感じていた。

そんな朝陽の様子は、実は朝陽にも、そして疾風も知らないところで、ほかの人にもよく見えていたのだ。それほどに、朝陽はこの地球にいるべき、いやいてはいけない存在だったのかもしれない。

綾瀬は、朝陽が落ちてきたあと、すぐ家に帰った。彼女はエアコンが苦手だったのと、なんとなく太陽の光を浴びていないとさびしくなる癖があったから、暑くても窓をあけて過ごすことが多かった。もちろん、あまりにも暑くて耐えられないときは、窓を占めてエアコンをつけることもあったが、極力太陽の光のそばにいたかった。

激しい雨が降っていた明け方とは打って変わって、そこにはまぶしい太陽の光があふれている。セミの陽気な声が耳を強く打つ。こんな夏の始まりになるなんて、今日の朝は予想できなかった。事実、昨日の夜までの天気予報は今日大荒れの天気で外出を控えるべきだということだったのだ。それなのに、今の空はまさに夏という言葉がふさわしいもので、薄雲が優しくかかっていた。こんな天気になってしまった理由を、綾瀬はなぜだか真剣に考えていた。もちろんそんなことを真剣に考える必要は二つの意味でない。一つは、天気予報と全然違う天気になろうと、実際に綾瀬の生活は変わらないだろうから。そしてもう一つ、その答えは綾瀬にとってはっきりしているはずだから。というか、もっと単純に言えば、こんな天気になったのはおそらくのところ、綾瀬があの光の球を投げたからだ。あの球の持ち主の正体は、いったい今どこで何をしているのだろうか。そもそも無事で生きているのかどうかもわからない。でも彼がここに落ちてきたおかげで、今太陽は天高く叫ぶことができているのだ。

そして、その天高く叫ぶ太陽を見ながら、綾瀬は母から突然送られてきた絵文字つきのメッセージのことを思い出した。

「ありがとう。あんたのおかげで宇宙人は助かりました。」

そのメッセージが何かの暗号なのか、それとも事実としてそうなのか、綾瀬には判断しかねた。それは、彼女が宇宙人を真っ向から否定するタイプの人間だったからではない。母のことを疑っているわけでもない。素直に、このメッセージの意味がわからなかったのだ。

このメッセージの意味を、無理やり解釈することはできたし、その無理やりの解釈がきっと正しい解釈なのだろう。しかしどうにも、綾瀬はあの空から落ちてきた色グロの少年が宇宙人だと思えなかった。綾瀬は確かに救急車を呼んで、結果的にその宇宙人なのかもわからない少年を、母が働いている病院に向かわせうる行為を行った。それをそのまま考えれば、きっとあの少年は宇宙人だったのだ。だとすれば、なぜ母はそれがわかったのだろう。そして、宇宙人だとして、彼はいったいどんな星から来たのだろう。そして、どうしてあんなふうに空から落ちてきたのだろう。何より、どうしてあんなに苦しそうな顔をしていたのだろう…。少なくとも綾瀬はこの時点で、というか母との関係においては、宇宙人を助けた英雄、ということになってしまうのだろう。

何を考えても、有耶無耶な意識の中に没入してしまう。だからゆっくりとピアノに向かう。まいにちそうしてるように、ゆっくりと音階を弾き始める。

ピアノは5歳から習っている。別に音大にいけるほどの実力はないし、そもそも音楽家を目指すつもりもなかった。ただ綾瀬がこうして毎日、というか10年余りの間にピアノを弾いているのは、ピアノは話を聞いてしかくれないことを、気づかないうちに悟ってしまったからだ。ピアノにはすべてを打ち明けられる。否定することもなければ肯定することもない。そういうピアノをひいていれば、綾瀬は多少幸せでいられた。

だからこそ、綾瀬はピアノで人のことを幸せにしたいと思うようになった。でもそれは

楽譜を忠実になぞったり、音楽を使ってお金を稼いだり、世界中を飛び回ったりしたいわけではなくて、単純に音楽で人を幸せにしたいと思うようになっていた。だから、音楽室でピアノを弾いてみんなに喜んでもらいたいと思ったり、誕生日にピアノのプレゼントをするぐらいのものだった。

だがそんな彼女に転機が訪れたのはこないだのことだった。

「綾瀬ちゃん、ピアノ留学する気はない?」

綾瀬が子供用のピアノ教室をやめた10歳のときからの付き合いである東郷先生から、その話を持ちかけられたのは、綾瀬が高校受験を終えて、少し1段落した早春のある日だった。思ってもみない提案に、綾瀬は頭の中がぐちゃぐ茶になる。なぜ頭の中がぐちゃぐ茶になったかといえば、行きたくないとはっきり言うことができなかったからだ。

父も母も、自分とは違う世界に毎日旅立っている。彼らは大人である以前に、綾瀬にとって遠い場所にいつもいるような気がしていた。自分にだって、一足飛びは無理だが、すぐにこんな狭い日常を飛び出せるんじゃないかと思っていた。そんなときに提案された突然の海外留学の提案は、綾瀬にとってある主希望の光だったのである。

しかしそこで、「行ってみたいです!」と、すぐに答えを出せない自分がいた。べつに自分の中ではすぐ答えにたどり着ける。でもその答えにたどり着いたところで、絶対にそれを止めようとする人がいることも知っていた。

彼女が初めて自分の体の弱さを知ったのは幼稚園の運動会の前日だった。その頃はまだよく家に帰っていた父と運動会の演習で、家の周りを走っていたら、突然息が苦しくなって倒れた。病院に行くと、心臓の病気だといわれた。小さかった綾瀬は、そんなことはまったく覚えていない。だがその病気は、綾瀬が生きている限り、一生付き合って行かなければいけない難病だと、お医者さんは言ったらしい。

それ以来母は、異常なまでに綾瀬を心配するようになった。派手な運動をさせることにたいして、かなり消極的だった。いつ倒れるかわからないからと、一時は仕事をやめることも考えたというが、それは楽観的で進歩的な父が精したという。

母は、生活のほとんどの部分を放任しているし、ピアノを続けることについては了承している。しかし、運動や遠出の旅行、留学などという話になると、過度なまでに危機感を示す。運動会の時期になると突然仕事を休むようになったりもする。もともと母自身が看護士をしていて、中途半端に医療の知識があるせいで、不安になっていただけなのかもしれない。

そんな母に、ピアノ留学をしてもいいかなんて、口が避けても言えない。口が避けても言えないというか、結果が目に見えている。母の場合、「だめだ!」とははっきり言わなくて、「本当に行くの?」と何度も不安そうな顔で繰り返すことで、反対の意思を表すという、かなり立ちの悪いやり方をとってくるのだ。それでどんどん綾瀬自身の不安要素を増幅させていくのが落ちだ。そんな手には乗りたくない。だが母にもし言えばそれを避けることは難しいだろう。

「でも私…お母さんが許すかどうか…。」

ついそんな泣き言みたいなことを東郷先生に吐いてしまっていた。でも先生は怒らなかったし笑ったりしなかった。しばらく黙って、そして小さく言った。

「大丈夫よ。綾瀬ちゃんはもう大人なんだから。十分立派よ。」

ただそれだけの言葉だったのに、綾瀬の心はなんだかとても救われたような気分になる。

先生が紹介してくれたのは、音楽を使って国際貢献をするための「音楽ユース国際インターン」というプロジェクトである。留学なんてハードルの高いものでもないのだが、実は応募するためには二つの試験を突破する必要があるし、もし合格すれば半年間ドイツで音楽レッスンをしながら、向こうの学生たちと協力をしてボランティアをするという、かなりアクティブなミッションが待っている。それを聞いて、やはりやめておこうと思う人だっているかもしれないが、綾瀬には胸がときめくないようだった。

いつも朝日をみている空のずっと遠くで音楽をやっている自分を創造すると、太陽にすら笑いかけたくなるほどにやにやしてしまう。やっとこの狭い日常から脱出できる。いつも綾瀬は、自分の体の弱さゆえに、冒険を自分から嫌っていた。でもせっかく東郷さんが持ってきてくれたチケットなのだから、無駄にはしたくなかった。

そう思うと世界のあちらこちらがきらめいて見えるようになり、今まで以上に

ピアノに熱が入った。今まで以上にピアノに話したいことが増えるようになった。

そんな綾瀬の喜びは、一次審査で報われることとなった。一次審査は、国際貢献で何をしたいかという企画書を出すことと、ピアノをデモテープにして事務局に送るというものだった。その結果がつい数日前、封書で届いたばかりだったのだ。だがその結果が信じられなさすぎて、綾瀬はずっとそいつを胸の中に隠していた。母にはおろか、先生にすら伝えていなかったのである。この結果を知っているのは、ピアノだけ…。それは嘘だった。

あまりにもうれしすぎて、結果をみた瞬間、ほとんど何も知らない幼馴染にメッセージを打っていた。幼馴染の少年は、ぶっきらぼうに「よかったな。」とだけ返してくれた。

でも、ともかくその幼馴染以外に、今自分の留学の可能性を知っているのはピアノだけだった。ピアノは絶対に誰にもいわないと約束してくれた。でもその喜びようをだれよりも真剣に聞いてくれた。ピアノに聞いてもらえるだけで、綾瀬は満足だった。そしてピアノに、さっきの話をした。

ペールギュントの「朝」という曲がある。その曲は、本当はオーケストラでやるのが普通だ。でも、綾瀬はこれをピアノで弾くのが、実はこんなことがなくても好きだった。でも最近弾いていなかったのだ。なぜかオケ版の楽譜をみながらいつも弾いている。そして今日もそいつを弾いて、さっきの話をした。エアコンなんかつけなくても、すぐにその世界に入り込めば、暑さなんか気にならない。なぜならそこは、綾瀬とピアノだけの世界なのだから。

ピアノはうなずきながら、でも少しつまらなそうな顔をして聞いている。自分の手が滑って、全然いい音になない。絶対今朝自分に起きたことの制だ。

頭の中で早口でしゃべる。そしてそれを音にしてピアノに伝える。

「だから言ってるでしょ?空から人が降ってきたの。それでね、超えかけようとしたら走っていっちゃって、そしたらその人、ポケットから球落としちゃったの。それでそいつを私が投げてさ…。」

突然机のうえの携帯が勢いよく「ジュピター」を流した。別にこの曲が気に入ってるんじゃなくて、もともと着信音のデフォルトがこれだったからなのだが。ジュピターと朝が混ざって非常にピアノと話すには厳しい不協和音になったから、あわてて携帯を取りに走る。

「もしもし。」

別に電話をとる前にディスプレイを除いたので、だれからの電話化は綾瀬にすぐわかっていた。別にその人に何の悪気もないのはわかる。でもせめて、ピアノに全部話をし終えてからにしてほしかった。またすぐ話にいけるように、ピアノは開きっぱなしにしてある。これを小さいころにやると、よく母に起こられていた。ピアノも綾瀬と同じように、蓋をしないで風邪を弾いたらどうするの?と、小さい子にもわかる冗談をいったものだった。

「綾瀬ちゃん、あたし。もう、なんで一次審査の結果教えてくれなかったのよ。封書が届いたら連絡するって約束だったでしょ。」

東郷先生は怒っていなかった。あの人は怒ると無口になる修正があることを、綾瀬は熟知していた。しかも明らかに声が宇和図っていて、今にも外へ飛び出して、綾瀬の家に来て抱きついてこようといわんばかりの声だ。先生の家は、ここからバスでさらに

駅から離れたところへいき、バスの車庫がある終点の停留所まで行かないとつかない。先生には悪いが、そんなに都会ではない。

「ごめんなさい。ちょっと信じられなくて。でもどうしてわかったんですか?一次審査に受かったって。」

綾瀬も声をつくる。さっきピアノにしていた話が、先生にも筒抜けにならないように、なんでもない女の子みたいな声にする。別にそんな努力をする必要なんかないのにだ。

「事務局に知り合いがいてね。我慢できずに聞いちゃったの。もう、全然連絡してこないから落ちたかと思ったでしょ。」

「先生、私が落ちるって本気で思ってたんですか?」

綾瀬は普段こういう意地悪なことはいわない。でも今日だけは、先生を試したくなったのだ。

先生は綾瀬の予想した通り電話越しでしばらく黙って、そして大声で笑った。

「馬鹿言ってんじゃないの。生徒を信じない先生なんかいないわ。しかも、信じるも何も、綾瀬ちゃんが弾いたドビュッシーは本当にきれいだったんだから。」

先生は嘘をつかない。下手だと思ったらほめていてもすぐに顔に出るし口調が変わる。でも今回は電話越しで先生の声を聞いていても、先生が本気で喜んでいるのがわかる声だったので、綾瀬は安心する。

「ありがとうございます。」

「それで、二次審査の曲は決めたの?」

綾瀬は、しばらく言いよどんで、そして先生に笑われるのを覚悟で言った。

「予定通り、月光縛りでいこうと思ってるんですが、だめですか?」

やはり先生は笑った。ドビュッシーの月の光をチョイスして、そのあとはベートーベンの月光を弾くという月光縛りの作戦を思いついたのは先生なく背に、それを綾瀬が本気でやるとは思わなかったらしい。

「ちょっと綾瀬ちゃん。本当にやるの?いくら選挙区は自由だって言ってもさ。」

「自由ならいいじゃないですか。世界中の人たちに朝日を見せるってコンセプトなんだから、夜明け前の月を見せてあげればって言ったのは先生だし。」

全部東郷先生のせいにしたら、綾瀬はちょっと落ち着きを取り戻している自分に気づく。確かに今日は空から変な人も降ってきたし、母から変なメッセージが届いたけれど、今こうして綾瀬は、普通の高校生として、夏休みを生きていて、もうすぐ留学できるかもしれないという現実の中にいるのだ。そう考えた方がずっと楽しい。

「もう。しょうがないな、じゃあ明日からレッスンやるわよ。今日はどうせ夏休み始まったばかりで外なんか出たくないんでしょ?」

「そんなこと…。」

綾瀬はそこまで言って考える。本当に自分は外なんか出たくないんだろうかと。薄くて小さな窓の向こうには、相変わらずうるさいセミと、相変わらず暑そうな太陽がい坐っていて、その下を元気に歩く人たちがいる。いつもと変わらない夏が、そこに大きないでたちを持って立っている。

「まあいいわ。でも本当によかった。また明日ね。」

先生はそれだけ言って電話を切った。その、「本当によかった。」という声が、実に耳に残った。

さっきの話の続きをするようにまたピアノを弾き始める。でももうピアノはあまり話を聞いてくれなかった。というより、自分が話す気になれなかったのかもしれない。

今はピアノと話をしてもしょうがないのだ。このもやもやとした気持ちは、きっと空から落ちてきた、あの奇妙な夏の制なのだと気づく。こんなにもいつもは何とも思わない現実や、ピアノの音が愛おしいと思うのは、目の前に突然起きたこのよくわからない現実と向き合いたくなったからだ。

そしてまた、母からのメッセージが頭をよぎる。もし彼が、あの空から落ちてきたかわいそうな少年が宇宙人なら、彼はいったいどこに向かおうと思っていたのだろう。彼が探していたものとは難なのだろう。それが綾瀬と同じように、自分の知らない強さというものだったとしたら、それはちょっとうれしかったりもするのだけれど。

気づけば綾瀬は、住んでいたアパートを飛び出していた。自分がいったい

どこに向かうのかなんて、自分に聞かずともわかっていた。わかっているからこそ綾瀬は無意識のうちにバス停へ向かっていた。バス停は、そのバス停の名にふさわしく、坂の途中にあった。

毎日乗りなれたバスがゆっくりとやってくる。バスに乗り込もうとしたとき、がっくりとうなだれるように席に坐る見慣れた姿を目にした。

彼のとなりに坐ってもよかった。でも今は近づかない方がいいと思っていた。それは女の感、といってしまえば話は早いけれど、小学校から彼のことを知っている綾瀬だからこその感でもあった。あの顔は、きっと何かいやなことがあったのだろう。

でも彼は、がっくりとうなだれていたはずなのに、突然頭を挙げて立ち上がった。彼の降りるバス停はここではなかったはずだ。

「綾瀬、坐れよ。」

少年はいつもの元気さをすっかり失った震えた声で、綾瀬の名前を呼んだ。

「疾風。あんた練習帰りなんでしょ?いいから坐ってて。」

綾瀬はあえて明るい声でそう言った。彼がお気に入りの野球チームのロゴがプリントされたジャージーを来てバスに乗っていたからだ。何か練習関係でいやなことがあったのは察したけれど、ここで暗い声を出してしまったら、きっとまたがっくりと肩を落としてしまうだろう。嘘でもいいから少しでも彼の心が晴れればいいなんて、谷口疾風の幼なじみである綾瀬は考えてしまう。

「すまん、じゃあありがたく。それにしても今日はきつかったよ。」

疾風の笑い顔は二つある。ほんとうに太陽みたいな、子供みたいなはつらつとした笑顔を見せる笑い顔。そしてもう一つは、何かいやなことを隠す、不器用な雨雲みたいな笑い顔。彼はこの二つでしか笑わない。そして綾瀬の前では、よく雨雲みたいな笑い方をする。綾瀬はそれが嫌いではなかったし、それも疾風の一つのアイデンティティーだと思っている。でも、やっぱり太陽みたいなはつらつとした笑い顔を、綾瀬は久しぶりに見たいものだった。

「おまえはどこ行くの?」

「病院。」

すると疾風は、突然自分に向けられているはずの心配を綾瀬につきかえすようなことをいった。

「おまえ、もしかしてまた倒れたのか…?」

「馬鹿、やめてよ。母さんに用事があるだけだから。」

綾瀬が、「やめてよ」と言ったほんとうの理由を、この鈍い性格の男は、きっと知らないだろう。でも綾瀬は、疾風が鈍い正確のままでいてくれてうれしかった。心の中を全部見透かしたみたいな男の子は、やっぱり綾瀬の友人にはふさわしくない。どうせ疾風は、自分に向けられた心配を、いまだに必死に隠そうとしているのだ。

「夏休みの課題、いつごろからやるつもり?」

少し日常的な話に持っていこうとしたら、バスのアナウンスが、疾風の家があるバス停の名前を告げた。そのバス停の近くには大きな川の河川敷があって、疾風はよくそこで走っているらしい。走っている疾風の姿は、綾瀬にとっては馴染み深かった。小学校のころはよく疾風とその川沿いで走ったものだった。でもあの頃よりも、ずっと疾風は気難しそうな顔になったし、綾瀬はどうにも走ることが好きではなくなっていた。しかも走って帰ると母にまたいろいろと心配されるので、それが走る気をくじいたのかもしれない。

「しばらくはやらないかな。また夏休み終わる頃にやることになりそうだぜ。じゃあ、またな。」

疾風はそれだけ短く言うと、ICカードで自分の本音を支払うように、バスのかーどりーだーにカードを勢いよくぶつけて、バスを降りていった。いつもと変わらない、昔と変わらない雨雲の笑顔を浮かべながら。

疾風は小学校の頃、つまり綾瀬が初めて出会ったころは、野球ができるかっこいい男のだった。街の少年野球チームにも入っていて、いつも先発ピッチャーを務めていた。将来は絶対

メジャーリーグでプレイするんだと息巻いていた。あのときの彼には、太陽みたいな笑顔しかなかったし、周りにはたくさんの友達がいた。

でも、そのときの彼が自分の野球少年としての夢を追い続けることができたのは、彼が本気で野球を楽しんでいたからだ。

中学生になった彼を待っていたのは、恐ろしい現実だった。彼は、自分が全然エースに程遠いことを知らされた。それ以来、彼の顔には、雨雲の笑顔が張り付くようになった。不器用な笑顔のまま走り抜けていく、つまらない野球少年に彼が変貌を遂げていく様子を、綾瀬は遠くからみていた。そんな彼の心を傷つけないように。きっと彼も彼なりに、何か遠くを目指して、まだ無心に走っているだけのことだから。心が傷つくのは、そのまぶしさのせいだからしかたがない。

バスを降りて市民病院のカウンターに行くと、運の言いことに、綾瀬の母親の同僚の看護士さんが、事務員の男性と話をしていた。

「神原さん!」

綾瀬が声をかけると、神原さんは少しじろりと私のほうをみてから、急に作ったような表情になる。

「あら、綾瀬ちゃん。こんにちは。どうしたの?お見舞い?」

神原さんの質問に、綾瀬はどう答えていいか迷った。お見舞いにしては、知り合い共言えないようなところに行くわけだし、かといってそれ以外に当てはまりそうな言葉もない。

「まあそんなところです。」

「あら、そう。あ、もしかして七瀬さんが言ってた患者さんに会いに来たの?」

神原さんは感がするどい。もちろん母とは中がいいし、しかも確か脳外科医の先生は神原さんの大学時代の彼氏だったと聞いたことがある。後者の理由はともかくとして、神原さんは綾瀬に対しては特に容赦がなかった。

「そうなんです。もしかして今、検査中で面会できない感じですか?」

「ちょっと待ってなさい。」

後ろに、さっきバスで見かけたおばあさんが立っているのがわかった。綾瀬は受付の列から下がり、待合室の椅子に坐る。待合室のテレビには、探査機が小惑星から

物質を持ち帰ったニュースが放送されている。

もしかして、今日空から落ちてきた彼の惑星も、この探査機が見つけているかもしれない。

ニュースはすぐに切り替わって、今度画面に映し出されたのは、綾瀬がいつも住んでいる、まさにこの街だった。そのニュースは、地方のローカル番組とはいえ、全国ネットで放送される価値のあるニュースだった。

「朝比奈飛行場建設に反対?市長の声、国に届かず。」

黒い大きな文字で、テレビのテロップにはニュースのタイトルが表示される。もうすぐ70歳になるんじゃないかという市長さんのはげ頭がアップでテレビの画面にむっくりと現れる。

朝比奈飛行場は、国が建設を検討している巨大な飛行場で、アメリカの巨大な空母を配備する予定だという。墜落する危険もあるし騒音問題もあるので、街としては反対するというのが、住民の考えだった。綾瀬もその考えの賛同者ではあった。でもなぜかその日だけはそのテレビの画面がぼやけてみえた。

飛行場が建設される前に、すでに空から日とは落ちてきたんだということを知っているのは、きっと綾瀬と病院の関係者ぐらいだろう。

「あ、綾瀬。来てたんだ。」

母の対応が、なんだかわざとらしいほどに他人行儀で、綾瀬は少しまいってしまった。あんな絵文字付きの明るいメッセージを送っておいて、いざ様子をみに来てみれば、全然なんでもないことみたいにふるまおうというのだ。

「母さん…。あの…。」

綾瀬は、どういう言葉でもって、母親に宇宙人少年のことを尋ねようか迷ったあげく、結局素直に聞くのが一番ましだとわかった。

「ねえ、宇宙人の彼はどこへ行ったの?」

待合室でそういうことを聞くのは非常に不謹慎、というより府つり合いだとわかっている。場合によっては生死がかかっている日ともいるわけだし、手術をしている患者を待っている日とだっているというのに、そんな待合室で宇宙人の話をするなんて、しつけの行き届いていない小さな幼児でもあるマイに、と言われてもおかしくないのだ。だから、そんな質問をした自分を、綾瀬は自ら嘲笑しなければいけなかったのだ。

だが、自分の心の中で自分を笑ったとき、母親はそんな不釣り合いな綾瀬のことを攻めるでもなく吐き捨てるように言った。

「ああ、もう隊員したよ。なんの異常もないから安心して。通報してくれてありがとね。」

実に遠くからものを言われている気分がして、綾瀬としては釈然としなかったし、母が何かを隠しているようにも思われた。かといって、これ以上この話を待合室でしていたら、明らかに体か心かそのたもろもろが異常な人間という認識をほかの患者、もしくは病院の人間にされかねない。この街はそんなに大きい街でもないし、変なうわさが立ったらわりとややこしい。でも、綾瀬は知りたかった。あの少年がどんな病気を持っていて、場合によっては死んでしまう可能性もあるのかということを。そしてもし母が知っているならの話だが、いったいどんな星の出身なのかということもなんとなく気になっていた。

ともかく、今の母の説明では、納得しようにも全然納得できない。そう感じた綾瀬は、いくら不謹慎と思われても、そしていくら母がほかの業務に忙しくても、この話を続けるべきと考えた。

「大丈夫って…。彼、あんなに苦しそうにしてたんだよ。本当になんともなかったの?心臓発作とか起こしてたんじゃないの?」

なるべく大きな声にならないように、そしてなるべく変な人が変な話をしていると周りに思われないように気を使って母に自分の疑問をぶつけた。母にうっとうしいと思われてもかまわない。とにかく今は素直に、あの空から落ちてきた少年を助けたいというなぞの衝動にかられていた。

母はそんな綾瀬の思いを知ってか知らず化、実に冷静に答えた。興奮している綾瀬とは大違いの反応だった。それはおそらく、待合室の環境をかんがみての、看護士的な判断によるものだろう。

「もう家に帰らせたし、心配することないよ。さあ、用が住んだら帰りな。」

母に突き放されたことで綾瀬の気持ちは少なからず落ち込んだ。落ち込んだというよりも、彼に対する心配は募るばかりだった。母はどうしてあんなにも、綾瀬に対して過度な心配をかけるようなことを言ったのだろう。もう少し直接的な言い方をするならば、どうして母は綾瀬に、彼の容体やら個人情報をあんなにもひた隠しにするのだろう。なんだかそれは、大人の事情とか業務用の問題とか、そういう難しい言葉で解決できるものでもないように思われた。

落ち込んだとはいえ、綾瀬は母の行動を恨まなかったし、母を攻めようとは思わなかった。ただ綾瀬は、母が隠し事をするときというのは、あまりよくない

話があるとき、もしくはよくも悪くも、とても重大な何かが怒ったときである。

バスの停留所をいくつか通り過ぎて、自分の家の最寄駅に到着する。別にバスの料金なんか払わずとも、病院から家までの距離なんて、そんなにないんだから歩いて帰ってもよかった。でも、今は一人で道を歩けるような気分ではなかった。何かしらの喧騒や日との話し声、いうなれば他人の責任のある場所で、少し考えに耽っていたかった。それが子供の特権なのだろう。大人はどんなに逆らっても、自分だけの責任で生きていくしか、その活きるすべを持たないかわいそうな動物だから。

そんなことを考えていたら、バス停を降りてすっかり道を間違えている自分に気づくまでにかなりの時間がかかった。彼女はあの少年がそうしたように、なぜか野球場にその足が向いていたのである。

それとも、あの少年が綾瀬のことを呼んだのだろうか。もしそうだとするならば、あの少年は、自分の無意識のうちに、心が綾瀬を探していたということになりそうだ。

小学校の頃綾瀬はこの野球場に毎日のように通った。もちろん、あのころは輝いていた疾風のことを応援するためだった。疾風はいつも先発ピッチャーで、打たせても投げさせても強かった。あちこちで歓声がわき起こり、みんなが彼に注目していた。綾瀬だってそうだ。家もそんなに遠くなかったし、一緒にみに来ていた友人たちと大きな声で応援していた。あの頃は、応援する方もやるほうも、正直難のストレスもなかったのかもしれない。今よりも空はずっと美しくて、今よりもずっと心の中に荷物なんかなかった。

あの頃よりずっと狭い空の下で、あの頃よりもずっとたくさんの荷物を

抱えたままで、綾瀬は野球場の近くに向かった。

そこでは、高校生から大学生ぐらいまでの若者たちが、汗を流して走っていた。いつも疾風が一緒に野球をしている人たちだ。でも綾瀬はそこで現実的なことに不思議を感じた。疾風はさっきバスに乗って家に帰っていたのに、まだ練習は終わっていなかったのだということを。

けれど、そんな不思議を抱えている暇を運命は与えてくれなかった。

確かにその走っている若者の中に、彼がいたのだ。

大きく輝く木製バットを握りしめた彼の姿は、まさにあの空から落ちてきた彼であった。だがあの彼とは一つ、とても大事な違いがあった。今の彼は確かに、苦しそうな顔を一つも見せていなかったのである。少し前まで病室で眠ったり、点滴を打ったり医者が治療をしていた少年とは思えない。確かに今彼は木製バットを握りしめている。その姿はどこか昔先発ピッチャーだった疾風が、4番バッターで木製バットを握っていた姿に似ている。

金属音に合わせて、彼が走りぬける。どこまでも遠くに、まるで最後の光が地球に今日の終わりを告げるように、そいつは勢いよくホームベースを目指していく。

まさにそれは美しかった。かっこいいという言葉が何よりもよくにあった。どうしてこんな彼が、どこともしれない星から落ちてこなければならなかったのだろうか。彼は今確かに何かに解き放たれ、一気に舞い上がるように、彼の目指すホームベースに向かっている。

私もあんなふうに走れたら…。

そんな思いが、ある言葉に変わって綾瀬の口からこぼれた。

「ナイスバッティング!!」

少女の声を聞いたとき、朝陽の足は少しだけ止まりそうになった。自分の頭の中のいやなものが、突然姿を表したみたいになったからだ。それはけっして彼女のせいではない。彼女が現れた瞬間に問題が会ったのだ。

確かにあの声は、朝陽が最初に地球で聞いた少女の声だった。でもそのときの自分のふがいない姿が、今も頭に焼きついてしまっている。

ふがいないからこそ強がった。ふがいないからこそ一人で生きていけるんじゃないかとかすかに信じた。自分を信じるということは、ときに強がりの裏返しになって人を苦しめる。それを人は過信と呼ぶ。

まさに朝陽は、その過信の罪、そして孤独と言う罪を背負うことになった。自分の命や自分の体の最後の叫びも聞かず、激しく降りしきる雨を、会いや幸せから逃げるように、彼女の手を振りほどいていた。

雨は第嫌いだった。雨に打たれれば朝陽はすぐにその強くて輝かしい体を弱らせてしまう。それは、少しの雨でもその効果が出てしまうことである。黒い太陽で育った人間にはよくある話でもあった。

少なくとも彼は、そんな自殺行為の雨の中を、誰の助けも借りずに走り出した。雨の流れに任せるようにさかを下っていく。

でもそんなことをしても何もいいことは起こらない、と教えてくれたのも結局は雨だった。

水たまりにつまずいて転んだとき、地球というのは案外残酷な星だと知る。こんな

残酷な星で一人で生きていくなんて、いくら強がってもかないそうにないだろう。少なくとも今の朝陽にはそんな芸当はできなかった。意識が少しずつ薄れていく。薄れていく意識の中で見えた小さな光だけが、朝陽を殺さずにいた。なぜならその光は、綾瀬が投げた球であり、母にもらったものなのだから。

練習が終わったのは6時前だった。彼は無駄だと思っていたのに綾瀬を追いかけた。もしかしたら会えるかもしれないと思った。謝っても謝りきれない罪の話を、少なくとも彼女にはしておきたかった。こんなにも楽しい時間を地球で過ごせていること、こんな美しい空の下を駆け回ることができたことに感謝せずに入られない。そんな自分の命をつないでくれたのは、上る朝陽と一緒にこの地球にやってきた彼を、看病してくれようとした彼女だったはずではないか。そんな当たり前の、小さなことすら忘れてしまっているのか…。

だから追いかけた。きょうが取り戻せなくなる前に、明日の朝日が上る前に。

そして追いかけているうちに、朝陽は気づかされたのである。自分は今、あの看護士に教わった家を探す必要があったのだということを。

肝心のマンションはすぐに見つかった。野球場から走れば5分のところに、かなり高い建物があって、それが肝心のマンションらしい。

看護士は、マンションに入るための暗礁番号を教えてくれた。その番号を入力して、ゆっくり円トランスに入る。エレベーターもあったが、ひとまず階段をかけ上がっていく。彼女がこのマンションの住人化なんてわからないのに、それでもこの階段をかけ上がったのは、きっと彼女にあえるという、なぞの期待に包まれていたからだろう。

ふいに耳に響いてきたのは、美しいピアノの音色だった。なんという名前の曲化はわからない。でもどこか心を揺さぶる激しいパッセージが耳に飛び込んでくる。この音は…。

黒い太陽では戦争や身体的強さに関係のないものはすべて禁止され、国力の充実に加担しない人間は罰せられていた。その政策を決めたのはほかならぬ朝陽が大嫌いな朝陽の父である。でも朝日は違った。

この曲はどこかで聞いたことがある。小さい子於呂、確か、東郷のお姉さんが弾いていた曲だと彼は思い出す。

「その曲、なんて曲なの?」

「これ?ベートーベンの『テンペスト』という曲世。地球という星のベートーベンさんっていう人がつくった曲なんだって。かっこいい曲でしょ。」

「そんなもの弾いてたら、秘密警察につかまっちゃうんじゃ…。」

心配そうに尋ねる朝陽に、彼女は優しく言ったものだった。

「大丈夫。警察の人だって、音楽を聞けばきっとつかまる期なんてなくなるわよ。」

それははるか10年近く前のことになる。あれ以来朝日は音楽を聞くこともすることも禁止された。あの曲を弾いていた彼女も、ある日突然行方をくらましてしまったから、朝日はこんな音色を聞けるなんて思ってもみなかったのだ。だが今聞こえたこの音色は、た確かにあの日、彼女が弾いていたベートーベンの『テンペスト』であって、その音はピアノという楽器の音だった。

もしこのピアノを弾いているのが彼女なら、いったいどんな言葉をかけようか。どんな言葉で彼女を祝福しようか。それがもし彼女にとってはなんでもないことだったとしても、朝陽の耳には、その音が日勝手聞こえた。いつまでも聞いていたかった。心が高鳴るようで、それでいてどこからか声がするようで、何かを一生懸命に語りかけているそのピアノの音色に、朝日は誘われるように会談をかけ上がった。朝日には自身があった。こんなに美しい音色を奏でられるのは、彼女か彼女しかいないと思ったから。かけ上がって何段か上がったところで、派手に転んでしまったけれど、まったく痛みを感じなかったのは、そのときの朝陽が綾瀬にあうことを、必要以上に欲していたからだろう。

「だからさ、さっき話した空から落ちてきた人がね、野球やってたの。それで昔の疾風みたいにさ、すっごい球打ったの。びっくりしちゃった。めちゃくちゃかっこよかったんだかね…。」

綾瀬がそこまで一息に話をしたとき、インターフォンが耳に響いた。せっかく第1楽章のコーダを弾こうとしていたのにと思いながらも、いつもと同じようにボタンを押す。

「はい。」

綾瀬の震えた声が彼に届く。彼の汗だらけの顔が除く。お互いに何も言えなくなる。どうして彼がここにいて、どうして彼が自分の家のインターフォンを押しているのだろう。そんなことなんてどうでもよかった。今日綾瀬の心にずっと張り付いたこの夏の魔物に、綾瀬はあいたかった。

「今そっち生きます。」

お互いに名前を名乗らずに、ただ黙っていただけなのに、綾瀬はインターフォンのボタンをもう1度押して、玄関のドアを開けた。

肌を黒く焼いてあの時とは違ってジャージーを着て、防止をかぶって、いかにも街の野球少年という風貌の、背の高い少年をみたとき、綾瀬は言葉を失った。本当に彼が今朝みかけた彼なのか、綾瀬は一瞬疑った。でもその見違えた姿の中に、空から降ってきたい彼の残した面影が、確かに張り付いていた。

彼はどこかに足をぶつけたのか、ひざをさすっている。もしかして空から落ちてきたとき、実は足の骨でもおっていたのだろうか。彼がなぜ尋ねてきたかよりも、そっちのほうが気になっていることに、綾瀬は気づいた。

「大ジョブですか?もしかしてけがを…。」

心配そうな綾瀬をよそに、そして自分のひざの痛みすら放っておいて、朝日は叫んでいた。

「ありがとう。」

「え?」

ふいを突かれるようなお礼の言葉に、綾瀬は探していた言葉を見つけるのをあきらめた。

「僕を認めてくれて、ありがとう。そして、そんな音楽を聞かせてくれてありがとう。あれは君のピアノなんだろ?」

綾瀬はすぐに答えようと思ったのに、うまくのどから声が出ない。言葉がうまくまとまらない。こんなにすがすがしい笑顔でほめられたのが久しぶりだったからだろうか。

「う、うん。」

それだけしか言えなかった。

「君のピアノは、太陽が明るく輝いてるみたいな音だったよ。」

そんなことを言われたのが初めてで、綾瀬はその少年の顔を間島時とみてしまった。普通に今の発言を聞いていたら、ただの変な人みたいに思ってしまう。でも彼がその言葉を発したことで、それはきちんときれいな言葉に聞こえた。女を口説くために作られた人口的な常套句ではないように思われたのだ。なぜならそのときも彼は、心からの笑顔を見せてくれているように、綾瀬には思ったから。

「そんなこと言ってもらったの、初めて…。」

朝陽は、これ衣装この場にいたくなかったのか、突然ひざをさすりながら歩き出した。そして歩き出す直前、後ろを振り向いて一言だけ叫んだ。

「今日からこのマンションの最上階に住むことになりました、山羅朝陽です。よろしくお願いします。」

彼はそれだけ言うと、ひざの痛みも無視して会談を上がっていった。

綾瀬は初めてあんな言葉をかけてくれた彼を追いかけようとも思ったが、もう追いかける必要なんかない気がして、大声で自分の名前を告げるだけにした。

「あたし、日の出綾瀬。よろしく。」

きっと彼には、明日も朝ってもあうことができる。もうあんなふうに空から落ちてきて苦しそうな顔はしないだろう。

彼は元気だった。苦しんで発作を起こしていたときの彼はもうそこにはいなかった。ちゃんとナイスバッティングと叫んでおいて正解だった。と綾瀬は確信した。

だが、そういうことを考えているまに、綾瀬はふと現実的な疑問にぶち当たる。

ははの言うように、彼が宇宙人だとしたら、彼はどうやってこのアパートに住むことを許されたのだろう。そもそもどうやってこの家を見つけたのだろう。さすがに、綾瀬のことを探してこのアパートを突き止めたなんていうストーカー行為が宇宙人にできるはずがない。だとしたら彼は、実は宇宙人ではなくて、綾瀬を探しにきたよからぬ人間なのだろうか。でも綾瀬は、あんなに肌の黒い、背の高い、がっしりとした体の男に好かれた記憶なんかないし、ネットでそんな男と知り合いになった記憶もない。だから綾瀬を探しにきたなんてことはないだろう。

でも、だとしたらどうしてこのアパートに…。そういう疑問府におしつぶされるようにして、彼女は朝陽が自分のピアノについてほめる前に言った一言のことを考えた。

綾瀬は朝陽を認めたつもりなんてない。もちろん否定したつもりもない。綾瀬はただ、朝陽を助け、ただ朝陽の野球をみてかっこいいと思った。それだけの素直な気持ちを、彼は「認める」なんて大それた言葉で表現した。

彼はいったいどんな人生を送ってきたのだろう。そしていったいこの星になぜ落ちてきたのだろう。

今日出会ったばかりの少年のことに、ここまで心を奪われるなんて、ほかにもたくさんやることがあるはずなのに、綾瀬は遠回りをしてしまっているのかもしれない。でもなんとなく綾瀬は、すっかり沈んだ夕日をみながら確信する。この夏休み、絶対に何かおもしろいことが起きると。



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