あさひが落ちた

夢水明日名

第1話ハジマリ


日の出綾瀬(ヒノデアヤセ)の高校1年生の夏休みが始まったその日の朝。それは突然に起きた。その出来事があまりにも衝撃的すぎて、綾瀬にとってはそれがすごく大きなことのはずなのに、すごく些細なことに思われた。少なくとも綾瀬の夏休みは、その小さくて大きな出来事によって、少しずつ変わっていく。綾瀬の知らないうちに、夏はすぎていくのだった。

日の出綾瀬の日課は、あまりにも模範的というか、普通の高校生とは言えないものだった。かならず暦を確認し、日の出の観察をする。そのあと、ずっと大切に育てている朝顔に水をやって観察日記をつける。そしてラジオ体操に出席する。実に小学生みたいな日課だ。そしてもう一つ、彼女にはどうにも変わった癖があった。それは、朝日が上るのを見ないと、どうにも朝になったような気がしないということだった。なぜそうなのかは説明ができないけれど、実はとても簡単な話だ。なぜなら、人は昨日と今日の境目を知ることができるのは、この方法が一番わかりやすいからだ。もちろん、綾瀬はそんなことを意識して朝日を見に行ったのではない。ただ、朝を迎えている自分の存在を確かめることが、自分の毎日の生活に染みついていっただけだった。

だが、日の出に合わせて起きるわけだから、なかなか難しいことでもある。何日化見られなかったこともあったけれど、基本的には毎日欠かさず朝日を見られるように努力した。

そして、せめて夏休みは、1日も逃すことなく、毎日朝日を見ようと、綾瀬は部屋にあった適当な髪に、しっかりと大きなじで書いたものだった。多くの人は、そんな

ことを目標にするぐらいなら、もっと目に見えて成果がわかるものにしたらどうだとか、将来につながるものにしたらどうとかと言われるかもしれない。しかし、綾瀬の毎日にとって、朝日を見ることはもはや特別な時間、を超えて、生活の一部になっていた。

だからその日も、何の気なしに起きて、何の気なしに朝日を見にいこうと思っていた。でも彼女の、夏休みに毎日朝日をみに行くという夢は、夏休みの初日からあっさりと砕け散ってしまった。

目覚ましがけたたましく鳴り響いたのと同じように、外では雷鳴が響いている。窓をたたきつける激しい雨の音が、いやなノイズになって、綾瀬の心を沈ませた。どうして夏休みが始まったこんな日に限って、こんな激しい雨が、こんな強い風が吹いているのだろう。これではせっかく頑張って朝日が上っても、真っ黒い雲のせいで、光の筋すら見えない。せっかく終わったはずの昨日も終わることができず、せっかく始まるはずのきょうという日も、いつまで経ってもやみの中で目覚めるのを待っているみたいだ。

どうももどかしい気持ちを抑えきれなくなった綾瀬は、気づけば身支度を始めていた。時間はまだ5時にもなっていなかった。

だが階下に降りると、すでに綾瀬より早く起きている人がいた。看護士をしている母の七瀬だった。今日は朝早く出勤するシフトらしい。

「あら、綾瀬。きょうから夏休みでしょ?なんでそんなに早起きなわけ?」

「だって、朝日観察に行かなきゃ。」

自分でも非常識なことを言っている自覚はあった。こんな激しい雨の中で朝日なんか見えるはずがないんだと自分でもわかっていた。でも、このもどかしい気持ちを晴らすには、いつも朝日をみているあの丘のうえに上って、空をみてすっきりするしかない。誰に止められようと、その気持ちは変わらなかった。それに、娘がこんなことを言い出すということを、きっと母は理解してくれる。綾瀬はそんなふうに前向きな予想を立てたわけだった。

案の定母は、少し苦笑いを浮かべたが、しばらくしてこう言った。

「この雨の中で本気で行くつもり?」

だがそう言われたとき、綾瀬はどう返すかもう決めていた。

「だって母さんも今から仕事でしょ?それと一緒だよ。」

「どこがよ。」

母は、朝のニュースを伝えるテレビを消すと、「パンはキッチンにあるから。今日は夕方にかえってこれると思うから適当にして。」とそれだけ言って、足早に仕事へ向かった。

綾瀬の両親は共働きだった。母は市民病院で看護士をしていて、父は海外出張が1年の半分以上を占める、なんとも過酷な外資系企業だった。さすがに8月には帰ってくるようだが、最近もここ二十日ぐらい、ずっとシンガポールの支社に出張している。最近ちまたで流行っている、「ごめん、同級会には行けません。私は今シンガポールに居ます。」という、どこかの建設会社のCMを見る度に、これは自分の父親のことを言っているのかとにやけてしまう。

綾瀬は寂しいとは思わなかった。そんなふうに自分らしく生きている両親を誇らしく思っていたし、自分もいずれは一人で生きていかなくてはいけないんだという思いを胸に、毎日生きていた。綾瀬はまだまだ子供だけれど、上る朝日を眺めながら、自分も少しずつ大人に近づいていて、自分も少しずつ終わりのときが近づいていることを自覚させられる。自分の生きた証を知るためにも、綾瀬はこんなふうにして、眠い目をこすって、わざわざ毎日早く起きているわけなのだ。そんなことをする必要性なんかまったくないのに。でも、人間は必要なことだけをやって生きて生活しているわけではない。むしろ、みんながいきている間にやったことが、すべて必要なことなのだ。

お気に入りの傘と、別にそんなにお気に入り出ない長靴を履いて、雨の中にゆっくりと足を踏み入れる。

7月ももう下旬だというのに、まだまだ夏がこないみたいに湿度の高い空気が世界を支配している。例年より少し遅い梅雨明けを、この街はずっと待ち続けている。もう待ちくたびれてしまったかも知れない。雨が降っているから当たり前だけれどあちこちに水たまりがあって、車は水しぶきを上げて、勢いよく走っていく。今が夜なのか朝なのかよくわからない。携帯の画面を見入ると、今やっと日の出の時刻という感じだが、日の出の時刻らしからぬ真っ暗な空に稲妻が光る。

いつも綾瀬が朝日をみている丘のうえにちょうど上がったとき、すごく強い風が吹いた。自分のお気に入りの傘があっさり使えなくなってしまったことを知って、綾瀬は愕然とする。こんな最悪な夏休みの始まりがあっていいわけがない。綾瀬の心の端のほうで、とても短絡的で楽観的なことを考える自分がいることに気づいた。でもこんな最悪な夏だからこそ、自分にとってなんだかおもしろいことでも起きてくれないかなと思ってみたりもしたのである。べつに世界が終わってほしいなんて思わない。突然地球が爆発して、自分たちの生活が奪われてしまってほしいなんて思ったことはない。たとえば…。朝日が空から落ちてくる、みたいなありえないことでも起きないだろうかと。

そらに大きな雲の渦を見つけた。きっと今日こんな天気になった原因の雲だろう。その不気味な雲は、まるで生きている化のように、体全体から息を履きだしていた。そしてその渦から、また強い風が吹いたのだ。

今度こそ綾瀬は自分も風にあおられているのに気づく。勢いよくこの丘の坂をまっさかさまに落ちてしまわないように、必死で地面に足をつける。大地は少しだけ綾瀬に味方をしてくれて、強い風で綾瀬をみ知らぬ世界へ飛ばすことは避けてくれた。でもそのかわりに、空から何かが落ちてくることを、綾瀬に発見させた。

綾瀬は、心の端っ子に住む楽観的な自分の存在を恨んだ。この楽観的な自分のせいで、綾瀬の夏休みは、最悪に面白い物語の1ページになってしまったのだから。

まるで世界全体が大きな地震に見舞われたんじゃないかと思うほど、地面が大きく揺れた。でもその揺れは一瞬で収まったし、おそらく綾瀬が経っている地面の周辺だけが揺れたのだろう。

その揺れの原因をあ綾瀬が知るのに時間はかからなかった。なぜなら、本当に空から人が落ちてきたのである。

その瞬間、眠気に襲われていた綾瀬の意識はあっさりと回復した。回復というより、一瞬のうちに覚醒したのだ。

綾瀬はこの状況を詳しく分析する前に、この人を助けることがまず最初の話だと思った。

地面に倒れていたのは、黒く肌を焼いていて、破れかぶれの衣服を身に纏った少年だった。年がどれぐらいで、どこから来たのかとか、そういうことを尋ねる前に、綾瀬はある異変に気づいた。

彼はただ倒れただけではない。明らかに苦しんでいた。胸を抑えて、今にも死んでしまうんじゃないかと思うほどのうめき声を挙げている。心臓の持病に悩まされていた、小さい頃の自分を思い出した。あのとき医師は、「綾瀬ちゃんはもう長くは生きられないかもしれない。」と言っていたらしい。苦しみの中で暴れていた綾瀬は、そんなことを思い出す。

荒い呼吸がなんども続いて、その旅に弱っていく感じがした。そんな彼のうえに、冷たくて湿った雨が降り続いている。

「大丈夫ですか?立てますか?」

綾瀬は、こんなけが人を見たのが始めてだし、どう対応していいかもよくわかっていないから焦るしかなかった。もちろん学校で救急救命に関する授業を受けていないわけではなかったから、人口呼吸だのAEDだのという言葉だけは頭の片隅にあったが、もちろん回りに人は全然いないわけだから、助けを借りることは不可能だ。しかも、こんな冷たい雨の中で、彼を振り回したくはなかった。

ともかく、自分が焦っていた制で、そしてこの回りの環境のせいで、彼女は119番通報だけはしておくことにした。生まれて初めての119番通報は、案外緊張するものだった。その通報のとき、彼女はつい、「空から人が落ちてきた。」という、嘘みたいな事実を伝えてしまっていた。

「今救急車を呼びました。あの、私の声、聞こえてますか?」

綾瀬は震えた声でそう尋ねた。そして、彼の肩に手を触れようとした。しかし、そのときには、その空から落ちてきたか弱い少年は走り出していた。

まるで、心の奥から叫んでるんじゃないかと思われるようなうなり声を挙げて、彼は雨の中を疾走した。彼のうなり声に合わせるように、さっきまで少し弱まっていた雨がまた激しさを増し始めた。坂道を濁流のように雨が流れていく。それを追いかけるように、彼は坂を下っていく。上っていく朝日とは反対方向に走る彼のポケットから、小さな球が落ちたのはそのときだった。

球が落ちたことに彼は全然気づいていないようで、どこまでも走っていく。綾瀬はその転回が早すぎて、彼を追いかけようという気持ちにはならなかった。だからひとまず、彼がポケットから落としたと思われるその球を拾い上げた。

その球は、よくアニメに出てきそうな飛行石のように美しい光を放っていた。この状況から分析するに、たぶんあの空から落ちてきた少年は、パワーストーンをつけた状態で飛行機やロケットに乗っていたのだが、突然その飛行機やロケットが事故を起こして墜落した。そしてポケットに入れておいたパワーストーンと一緒に、少年は空から降ってきたわけだ。パワーストーンを持っているくせに、あんな敗れた服を着ているという、実に不釣り合いな感じにも思えるが、きっと少年はそんなじょうたいで子こへやってきたのだろう。しかし、それにしても、このパワーストーンは、実によく光っている。その美しい光をみていると、さっき走っていった少年の姿さえ忘れそうだ。

雨が球に落ちて、まるで光の粒のように、雨粒が美しく光る。こんな雨が降ってくれたら、綾瀬だって少しは夏休みを前向きに過ごせると思うだろう。

でもそのとき綾瀬は少し不安になった。もし今綾瀬がみている光が、魔力によって支配されていて、自分が何かに取りつかれていたらどうしようかなんて思ってしまったのである。綾瀬はけっして空想を過度に信じるパラノイアの少女でもなければ、変な宗教に属する人でもない。でも、この不思議な光は、けっしていいことだけを移しているようにも思えないのだ。

遠くで救急車のサイレンが聞こえる。きっと彼を迎えに来たのだろう。だが彼の背中はもう見えない。きても意味がないのだろうか。

ふいに、綾瀬はその手の中にある光の球を、空に投げていた。

その瞬間、今まで見たことのないまぶしい閃光が、空一面に光を追放して、雨という雨を吸収していく。まるで、この球一粒で、一気に夏が来たように、まぶしい日差しが顔を出した。さっきまで底に浮かんでいた雲の渦は、もう見えない。

その光が美しすぎて、綾瀬はしばらく、その空想みたいな朝日が上るのを眺めていった。気づけば救急車のサイレンは、もう遠ざかっていた。あの少年は、無事に病院へ送り届けられたのだろうかと心配にもなったが、それよりも綾瀬は、この時なぜか確信した。今年の夏は、何かおもしろいことが起きるのではないかと。

だから急いで家に帰ってベランダに出る。さっきの風雨にも負けずに朝顔は無事であった。急に朝日が上ってびっくりした朝顔の花が、眠そうに咲いている。夏の始まりは、こんなふうにそっと綾瀬の前に現れる。でも悪い始まり方ではないなと、なぜだかそう思わされてしまうほどに、そのとき見た光は美しかった。

太陽の光が朝を告げたとき、空から降ってきた少年は、病院の1室に寝かされていた。窓の外ではセミたちが地球の朝を告げ、車がゆっくりと病院の前を通り過ぎる。子供たちが病院の近くを走りぬけ、犬が激しく吠えている。そんな穏やかな朝に、彼は空から降ってきたのである。まるで夏をつれて来たように、その日から地球は、日がついたように厚くなったのである。

でも、彼は、そんな暑い夏には似合わない、病弱な体のまま、カーテンの向こうのエアコンの効いた部屋で、ゆっくりと目覚めた。目覚めた瞬間、彼は自分が夢をみているのか、それとも現実世界に生きているのか一瞬迷った。一瞬というよりしばらくその夢とも現実ともつかない意味不明の状況を理解するのに、かなりの時間を要した。なぜなら、たとえそれが現実としても、この世界は彼にとってまったく知らない未知の世界だったからである。まどをあけようと手を伸ばしてみると、手に柔らかい布が降れた。それがカーテンという名前であることを彼が知るのは、もう少しあとのことだった。少なくとも彼の住む国には、いや、彼の住む星にはそんなものはついていなかった。カーテンは少し開いていて、目にまぶしい、いや、彼にしてはかなり弱い太陽の光が当たる。そっと窓をあけると、夏のさわやかな朝の空気が入り込んできた。なんだかいままで自分が住んでいたどんな場所よりも、そこは穏やかに見えた。

しかし、それにしてもここがどこなのかを確かめる必要がある。ベッドの回りをゆっくり見回して、自分の持ち物がどこにあるかを探そうとした。すると、自分が黒い太陽から逃げ出したときにも、肌身離さず持っていた小さな鞄は、ちゃんとベッドの下になぜか放り出されていた。自分が放り出されたのか誰かが放り出したのかはわからない。でも事実として、この鞄の中には、大切なものを入れておいたから、なくすわけにはいかなかった。しかし、鞄を拾い上げようとして、彼の手は止まった。鞄のチャックが大口を開けていたのである。自分がチャックをあけっぱなしにしたという記憶はさらさらない。いくら誰もいない空のうえを飛んで、黒い太陽から脱出するとはいっても、違う飛行船から撃墜される可能性もあるし、大気圏で熱に焼かれる可能性もある。つまり、宇宙での治安は保証されていないはずなのだ。それなのになぜか鞄のチャックが不用心にも程があるというレベルで、完全に口を開けていたのだ。そしてもう一つ、彼が何よりも大事にしていた、死んだ母にもらった、通称「光の球」がなくなっていた。その球は、なくした球のほかに三つ持っていて、そのうち二つは、鞄の中に入っている小さな箱の中にしまわれている。しかし彼が一番お気に入りにしていた球は、鞄に紐でくくりつけてあった。だが、その紐があっさりと切れてしまっている。強い風にやられてしまったのだろうか。でもこの鞄は、強い風にも耐えられるようにできているから、飛行船が墜落しただけではおそらくひもが切れたりはしないだろう。それではいったいなぜ、あの球がなくなってしまったのだろうか。

そもそも今自分がいる場所がどこなのか。鞄の中にはとりあえず、どこに

飛ばされても大丈夫なように、この宇宙全体の様子がわかる方位磁石と星座盤のように見える宇宙地図が入っている。それを取り出そうとしたのだが、そのときドアが勢いよく開いた。もしかしたら誰かに監視されているのではないかと思った彼は、すぐに鞄のチャックを閉めて、今の今までおとなしく眠っていたというふりをした。

「山羅朝陽(サンラアサヒ)さん!気がついた?」

女性が明るい声でそう言った。よく整った顔立ちで、顔には薄く化粧もしている。彼女が何者なのかを考える前に、なぜ彼女が自分の名前を知っているのかということの疑問のほうが、今の朝陽には大きかった。確かに彼の名前は山羅朝陽である。それは、宇宙がいくら滅亡しても変わらないことだ。しかし朝陽はこの女性を知らない。一方的にこの女性が朝陽を知っているのかもしれないが、それにしても少しぐらいは彼女に見覚えがあってもいいはずなのに、それすらないのである。

「はい、おはようございます。」

ともかく返事をしたほうがいいと思って、朝陽はこの女性と会話をしてみることを選んだ。だがどうしても彼女の名前を、自分の頭の記憶の引き出しから探そうと思えば思うほどうまくいかなかった。

「よかった。私は日の出七瀬(ヒノデナナセ)。この朝比奈市民病院で看護士をしているものよ。あなたの名前は、鞄に入っていた手帳みたいなので確認させてもらったわ。」

彼女の自己紹介によって、朝陽は自分がどこにいるのかを認識した。つまり、やはり自分は病院というところにいて、この女性はそこで看護士をしている。そしてこの女性は、別に何の悪気もなく、というよりも患者のプロフィールを確かめるために、鞄のチャックをあけた。そして、朝陽が念のためにと持ち出しておいた、違う星に行くために必要なパスポート(地球ではこのパスポートは使えないのだが)を見たのであろう。確かにそれは、いわゆる地球にもあるようなパスポートのレイアウトと何ら変わらないから、この看護士がみても不振には思わないのだろう。というわけで、この看護士は、自分が何者なのかということをすでに知っているわけだ。もちろんパスポートの隅々までみているのならばまた別の話なのだが。

「気分はどう?」

看護士はさすがに医療スタッフらしいことを聞いてきた。もちろんそれがいわばあいさつみたいなものなのかもしれないけれど、看護士のような彼女がそう聞くと、ほんとうに診察の一部のように思えて、朝陽はほんとうのことを言うべきか、嘘をつくべきかを少し迷うことになった。だが、こんなところで嘘をついてもしょうがないと思うことにした。今はここがどこなのかを確かめ、自分がどうやって生きていくかを知る必要があったからだ。そのためには、自分が少し正直になる必要があった。

「あまりよくはありません。」

それが素直な回答だった。なぜ気分がよくないのかは言いたくはなかったし、きっという必要はないだろう。

「そうね。とりあえず、さっき先生が見たところ、幸い目だった外相はないそうだから、今日十二は隊員できそうよ。」

看護士は、嘘でそう言っているようには見えなかった。でもなんだかその言い方は、早くこの病院から出ていけと言っているようにも聞こえた。

「朝ご飯食べてないんでしょ?おにぎり作ったの。よかったら食べて。」

七瀬は、机のうえに、手のひらにすっぽり収まる小さなおにぎりを二つおいた。こんな

小さなおにぎりを食べたのは幼稚園以来だと朝陽は思った。黒い太陽にいた頃は、もっと大きなおにぎりを食べさせられたからだ。

しかもそのおにぎりは、大きく握られていることだけが強調されているあまり、見栄えはまったくといっていいほど重視されていなかった。つまり、非常に不格好な形にされていたのである。だが、その机におかれていたおにぎりは、美しい3角形に握られていた。そんな美しいおにぎりをみていたら、ますます、あの光の球をくれた母のことを思い出さずに入られなかった。

「あの、一つ聞いてもいいですか?」

この看護士がどれだけいい人間なのか、はたまた悪い人間なのかはわからない。それでも朝陽にとって、あの事実を確認せずには、いろいろなことが前に進みそうになかった。それは、たとえその質問をしたことで、脳波の検査をなんども受けさせられたり、精神病院へ送り込まれたりする危険性をはらんでいたとしても、聞いておく必要があった。そして何よりも、この看護士になら少しぐらいはそれを聞いても望めることがあるような気がしたのだ。

「ここは、なんと言う名前の星ですか?」

看護士の顔を除きこむ。看護士は表情を変えなかった。突然驚いて部屋を飛び出して医師を呼びにいくこともないし、失神して床に書類をとり下すこともなかった。ただただ何かを考えるように、カーテン越しに見える街の様子をみていた。

「ここは地球という星よ。朝日がきれいな星なのよね。」

その看護士が、実に単純に、そしてあっさりと教えてくれたことに、朝陽は感謝せずに入られなかったのだが、この星の名前が問題であった。

地球…。別にこの星の名前には何の悪意もなければ、彼に何か直接的な被害をもたらしたわけではない。ただ彼の父の制だった。彼の父は

この星を何よりも嫌っていた。その理由を聞くことなく、朝陽はこうして、なぜだかこの地球に不時着してしまったらしいのだ。

「さあ、じゃあゆっくり朝ご飯食べて。おひる前になったらまた来るから。あ、一応勝手に病室に抜け出したりしたら警告音がなるようになってるから気をつけてね。」

七瀬看護士はそう言うと、朝陽に何の質問もせずに、そのまま病室の外へ出ていった。だが朝陽にとってはそれでちょうどよかった。

机のうえのおにぎりは、薄いビニール性のラップに包まれていた。それをそっと開いて口の中にひとくちで放り込む。

まだほんの小さかった頃、地球からやってきた朝陽の母親は、父と朝陽が山へ上りにいくとき、いつもこのぐらいのサイズのおにぎりをたくさんつくって朝陽に渡してくれた。朝陽は山のうえでそいつを思いっきり食べたものだった。あのときは、黒い太陽という星がどれほど恐ろしい星で、その星がどれほど地球を憎んでいるのかということを知らない、ただの幼い太陽の子であった。でもそんな孤独で寂しい子供にとって、あのおにぎりの味は格別だったのだ。そしてその味を、再び味わうことになろうとは思ってもみなかった。

朝陽は父が嫌いだった。そして黒い太陽が嫌いだった。いつも何かを焼きつくし、いつもまぶしく何かを照らすことしか考えないあの星に、朝陽はずっと身を預けることができなかった。

だからほんの遊びのつもりだった。少し違う星に旅に出かけて、どんな星が将来自分が逃げるのにちょうどいいかを確認しておく。それぐらいのつもりで、黒い太陽を飛び出した。もちろん無断で抜け出すわけだから、父に起こられることは覚悟だった。

けれど、あんなに操縦のし方を習ったはずなのに、黒い太陽を飛び出してすぐに、飛行船は巨大な雲の渦に巻き込まれて、そのまま風に流されていってしまった。そして気づけば、あっさりと地球のうえに墜落してしまったらしい。だが、朝陽はそのあとの記憶をたどるのをやめた。たどることができなかった。たどりたくはなかった。そのときの朝陽の苦しみは、きっと他人が理解するのはかなり困難だからだ。

鞄のスマホが、不気味な警告音を鳴り響かせている。きっと父からの着信だ。このスマホは、異なる惑星や星にいても、メッセージや電話を受信できるなかなかの高性能だからだ。

だがもちろん、それに出てはいけないことぐらい朝陽にもわかっている。自分は今、父が第嫌いな星に、しかも自分が意図せずしてやってきてしまったのだから。今はできれば、誰かと一緒にいることを避けようと思った。この星がどんな

星なのかは知らないが、誰かのそばにいて、その人を危険な目に合わせるのは何か違うような気がしていた。しかも、地球人と仲よくしていたら、ほんとうに黒い太陽に帰れなくなってしまうだろうから。

朝陽が落ちたことを何も知らないこの地球は、きょうも変わらずに回り始めている。外ではセミが泣きじゃくり、あちらこちらで汗を流して走る人たちの姿が見える。車が大きな音を立て、夏の空にガスを噴射する。アイスを片手に走る少年の後ろを、小さな自転車に乗ったおばあさんが通り過ぎる。

そんな何も変わらないこの地球に、きょうもあさひが落ちた。

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