金平糖を一粒ずつ

白里りこ

金平糖を一粒ずつ


 夫婦めおとになろうと決めた日、大した祝いもできない代わりにと、あの人は小さな紙包みをくれた。中には金平糖が十ばかり入っていた。


「こんな高価なもの、どうやって……」

「好きだったろう、金平糖。少ししかなくて済まないが、たまには滋養のあるものをと思ってな」

「滋養……?」


 女は呟いて、くすっと笑った。

 おおかた、着物を売って手に入れた小金だろう。そんなことなら、卵の一つでもあった方が、栄養がたくさん摂れそうなものだ。けれども、小さな金平糖が十粒あった方が、祝いとしては確かにしゃれている。彼にはそういう、ロマンチストな面がある。


「ありがとうございます、あなた」


 そう呼ぶとあの人は、柄にもなく赤くなってもじもじした。


 女はその金平糖を、もったいなく思って、まだ棚の奥の方に大事に仕舞っていた。溶けていやしないかと確認するたび、金平糖は変わらずきらきらと日の光を反射させた。そのきめ細やかな輝きを眺めているだけで嬉しくて、子どものころに返ったような心地がしたものだ。


 ……そんなことをとりとめもなく思い出しながら、女は駅のホームで軍服の胸にしがみついていた。


 あれを全部売ってしまって、そのお金で、あなたに一つでも多くのおにぎりを作って差し上げるべきだったかしら。


 もちろんそれをしたら、この人はたいそう悲しむに違いなかった。けれどやはり、十の金平糖よりも、一つのおにぎりの方が、良いに決まっていたのだ。

 この国はそういう風になってしまった。結婚祝いのささやかな宝石おもいでさえ、今日一日の飯に比べれば、砂粒同然に無価値になってしまう国に。


 それでも最後のこの時まで、女は金平糖を売ることができなかった。


「骨になって帰ってきたら許しませんからね」


 女は、世間様に顔向けできなくなるその言葉を、小声で言った。後ろでは、同じ日に起つ知らない人の家族が、必死になって、「万歳、万歳」と叫んでいる。そんな埃っぽい雑踏の中で、夫を見送る者は、一人だけ。たった一人の家族の頭を、夫は黙って撫でた。


「じゃあ、行ってくる」


 夫は嘘を言わない人だった。


 冬に亡くなったというのに、女のもとに訃報の手紙が届いたのは、春分の日をとうに過ぎた頃。

 骨すら戻っては来なかった。


「お悔やみ申し上げます」

 という言葉は、ついぞもらえなかった。

「おめでとうございます」

 と、近所の人に言われるばかりで。

 ちぐはぐなその台詞が、当たり前の日常だった。何しろこれは、名誉の戦死だ。夫が靖国へ行ったことは、喜ぶべきことなのだ。


 簡素な葬儀が片付いて、たいへん手持ち無沙汰になったので、女は棚から例の金平糖の包みを取り出した。


 窓から差す陽の光に、透明な粒は変わらず輝いている。


 一つ取り出して、口に入れた。


 素直に追悼もできない悔しさを込めて、ガリッと噛み砕いた。


 厭な食感だと思ったけれど、その後に舌の上に広がった甘さは、ほろりと優しくて、どうしようもなく切なく、愛しく、恋しかった。


 女は誰もいない家の中で、声を殺して泣いた。


 それから一日に一粒、女は金平糖を食べた。


 最後の一粒を味わった後、空っぽの紙包みを仏壇に供えた。


「ありがとうございました、あなた」


 そう独り言ちた女は、……実のところ、何も知らされてはいなかった。

 新聞にもラジオにも言論統制が敷かれていて、戦況など知る由もなかったのだ。


 だから、ガダルカナル島で日本軍がどんな負け方をしたのか知ったのは、敗戦後のことだった。


 あの時、かの遥かな熱帯の島では、飢餓によって多くの兵が悲惨な死を遂げたという。女の聞いた範囲では、ガダルカナル島での戦没者二百三十万人のうち、六割が餓死であったという。


 餓島ガとう、ガダルカナル。


 名誉の戦死だなんて、とんでもない。安らかに逝ったはずもない。ただ飢えて力尽きて死んだ。


 過酷な環境下で、おにぎりの一つや二つ、あってもなくても変わらなかったかも知れない。でもやっぱりどうしても、一つ多いのと少ないのとでは、全然意味が違うのだ。


 女は呆けたように仏壇の前に座って、己の供えた空の包みを、見るともなしに見た。


 これは大切な思い出。

 儚い恋の味。

 あの人の優しさの結晶。


 でも、そんな宝石もの、要らないから。

 もう何も惜しまないから。

 二度と、贅沢は言わないから。

 だから誰か、あの人を、飢えと渇きから救い出して欲しかった。

 こんなことになるくらいなら、思い出なんか欲しくなかった。


 金平糖なんて……。


 女はガリッと爪を噛んだ。口の中に、血の味が広がった。


 女が聞いた話だと、ガダルカナル島のジャングルでは、死体は置き去りにされていて、日本兵の中には仲間の死体を食った者もいたという。

 あの人は人間を食べたろうか。優しい人だったから、食べなかったかも知れない。もしかしたら、逆に、仲間に食べられてしまったのかも。どちらでもいいことだった。帰ってこないのならどちらだって同じだ。


 出血が止まるまで、女は指先を舐めた。

 不味かった。

 そういえば久々に口にものを入れたなと、女は思った。


 翌日、女は、食べ物を求めてふらふらと通りに出た。


 今の日本は、戦時中よりも食糧が不足していた。ガダルカナルよりは、ずっとましだろうけれど。


 物乞いの子どもたちが、街に溢れかえっているのが見えた。そんな中を、場違いなほどぴかぴかでまっさらな格好をしたアメリカ兵たちが闊歩して、子どもたちに見たこともないような変てこな食べ物を渡している。

 蟻のように群がる子どもたち。がやがやと喧しい。


 女はぼーっとそれを眺めていたが、やがて通りの真ん中に倒れた。


 夏の日差しが照りつける。

 酷暑。飢餓。一人きり。

 何もかもが、あの人に遠く及ばない。


 気付くと女は日陰に寝かされていた。彼女が目を覚ましたのを確認すると、介抱してくれていたらしい見知らぬ人は、そそくさと立ち去った。そばには、欠けた器に入れられた水と、アメリカ人が配っていたチョコレートの包みが置いてあった。


 朦朧とする頭で、女は本能的にぬるい水を飲み、包みを開いてチョコレートを齧った。


 ガツンと、衝撃的なまでの甘さが脳天にまで響いた。


 女は咄嗟に水を飲み干した。


 信じられない思いで、溶けかけた糖分の塊をまじまじと見つめた。


 何日もものを食べていなくて、倒れるほどにお腹が空いていて、喉から手が出るほど欲していたカロリーなのに。


 血の味より、うんと不味い。


 女はグッと息を止めて、がつがつとその砂糖の権化を平らげた。みんな食べてしまってから、吐き出す寸前まで激しく咳き込んだ。


 呼吸を整えながら、今しがた食べ尽くしたチョコレートの強烈な味よりもずっとずっと鮮烈に思い起こしたのは、金平糖のあの控えめな甘さだった。


 そんな己に驚いた。


 ちゃちな思い出など要らなかったと、あれほど呪った味を、女は今、心の底から懐かしいと感じていた。チョコレートよりもおにぎりよりも卵よりも、一粒の金平糖が欲しいと思った。


 女は慌てて周囲を見回したが、金平糖を売っている店など、もちろんどこにも無い。


 女は立ち上がった。

 炊き出しの列に向かって歩いた。


 サンキュー、チョコレート。

 この外国の甘味のお陰で、大切なものを取り戻せた。


 今はもう、何だっていい。どんなに不味いものでも──人の血肉よりも不味いものでも、何でも良い。何でも食べる。


 何としても、再び自由に金平糖が手に入る時代まで生き延びるのだ。


 そうして毎日一粒ずつ、金平糖を食べて暮らしたい。


 思い出を残してもらえて良かった。


 それをよすがに、女はこれからも生きていける。


 たとえたった一人でも、金平糖の思い出が、あの人へと繋がる道になる。


 ──ありがとう、あなた。


 私は生きる。

 いつまでも、この思い出とともに。

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