8-2

 直澄の最後の言葉を聞いた後、

 体育館を飛び出し、課外活動室を目指して走った。


 涙がずっと溢れ続けている。泣きっぱなしで、顔はひどいことになっているだろう。もう鼻水か涙かもわからない液体が顎を伝っていく。


 だけど、立ち止まっている暇はなかった。

 涙を拭うのも忘れて、走り続けた。


 目に見える景色のところどころが、光に包まれていく。

 古いペンキが剥がれていくように、少しずつ見慣れた風景が削れていく。その下に見えるのは、本当の世界。私が生きている現実の七里高校だ。


 光となった景色の下から、朽ちて薔薇に覆われた校舎が見えてくる。


 お願い、もう少しだけここにいさせて。

 彼が、私のために残してくれたものがある。それを見るまでは、消えないで。


 光に変わっていく景色の中を、必死で走る。

 校舎に飛び込むと、そのまま階段を駆け上がった。


 部室があるのは三階。足にからむスカートがもどかしい。息苦しいのも、心臓が痛いくらい脈打ってるのも無視して、一段とばしで三階を目指す。


 光に包まれた階段を駆け上がるのは、どこか知らない世界へと繋がる回廊を渡っているようだった。だけど、私が辿り着きたい場所は一つだけだ。


 たった一つ、彼との思い出の場所。

 三階に辿り着くころには、校舎の半分が現実の景色に戻っていた。残りの半分も、光になって消えかかっている。


 祈るように廊下を走り、課外活動室の前までくる。

 ほんの一瞬だけ立ち止まって、涙を袖口で拭う。


 ドアを開いて、足を踏み入れた。


 課外活動室の中も、半分ほどが光に包まれていた。幻の消えた空間からは、目を逸らしたくなるような現実が見える。錆が浮かぶ机に椅子、窓辺には埃が積もり、壁には薔薇の蔓が這っている。


 でも、彼が私に見せたかったものは、ちゃんと残っていた。

 私と直澄が、大切な時間を過ごした部屋。

 その真ん中に、一枚の絵が置かれていた。


 画板に立てかけられたキャンバスには、一人の女子生徒が描かれていた。

 こちらに背を向けるようにして立っている。背景は灰色、彼女の周りだけがぼんやりと明るい。


 女子生徒は、服を着替えている途中だった。ブラウスの前を開いてするりと肩から下ろそうとしている。それを、斜め後ろからの視点で描いている。


 厭らしさはまるでない。それどころか、なにげない仕草の中に、どこか神秘的な雰囲気が宿っている。


 吸い寄せられるように、絵に歩み寄る。

 ブラウスは風を孕むように膨らんでいた。着替えの最中に窓を開けたりしないだろうから、彼女が動いた拍子に舞い上がったのだろう。その下から、女子生徒の脇腹が覗く。


 そこには、小さな薔薇の花が描かれていた。


 心臓が、大きく脈打つ。


 これは、私だ。

 ここにいるのは私だ。


 そっと、右の脇腹に触れた。その下には小さな植物の感触がある。


 彼に、言えなかった言葉。二人の間に隠しごとはしないと約束したのに、なんども打ち明けようとしたのに、結局、伝えることのできなかった秘密。


 それがどうして、ここに描かれているのだろう。

 ふと、頭の中に、いつかの彼とのやり取りが蘇った。



「園芸部なのに、そんなことも知らないんだな。この学校の中で、薔薇が咲いてる場所があるんだよ」


「どこに、咲いてたの?」


「それは秘密だ。探してみろよ、ぞっとするくらい綺麗な薔薇だった」



 直澄が、記憶を取り戻したきっかけは、私だったんだ。

 薔薇の花をみんなに見られたくなくて、体育の授業の前、私はいつも課外活動室で着替えていた。きっと、偶然、その姿を彼に見られたんだ。


 遅れて、気づく。


 彼は、ずっと知っていた。恋人になる前から、私が一番隠そうとしていたところを知っていた。それなのに、好きになってくれた。


 私の中の後悔が消えていく。


 そのままでいいと、言われた気がした。

 私は、私のままでいいって、ちゃんと自分のことを好きになっていいんだって言われた気がした。


 止まったと思っていた涙が、また溢れてくる。

 もう会えない恋人への愛おしさが、込み上げてくる。


 そこで、絵のすぐ手前に、折りたたまれたルーズリーフが置かれているのに気づいた。

 私たちがこの部屋でキスをするとき、いつも間に挟んでいた薄い紙。


 手に取って、開く。

 そこには、几帳面な文字が並んでいた。それは、私に向けたメッセージだった。



 黙っていてごめん、たまたま君の着替えるところを見てしまったんだ。それから、ずっと君に惹かれていた。最後に、俺の卒業制作を送る。君のことが好きだった。君は、ありのままでいても、とても綺麗だ。忘れないでくれ、俺は君のすべてが好きだったってことを。



 手紙の最後には、カジキマグロの絵があった。

 散々泣いたはずなのに、涙が溢れてくる。

 彼の言葉が、残してくれたものが、胸を熱くする。


 周囲は、もうほとんどが現実の景色に戻っていた。手の中にあったルーズリーフも光になり、綿毛のように宙に舞って消える。彼の卒業制作も、少しずつ光に変わっていく。


 全てが消えていくのを眺めながら、声を上げて泣きながら、誓った。


 ありがとう、みんな。

 大好きだったよ、直澄。


 ここで、みんなとすごした時間を、忘れないよ、ぜったいに。


 彼の卒業制作は、光になって消える。

 すべてが消えてからも、私はしばらく、絵があった場所を見つめていた。




――あと157日で消滅する教室 完――

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あと157日で消滅する教室 瀬那和章 @sena_kazuaki

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