死神の囁き

遊馬海里

死神の囁き

 道路の白線や歩道の縁石の上を歩いてはみ出たらワニに噛まれて死ぬとか自動車に轢かれて死ぬだとか、そんな遊びを学校の帰り道にしていた。

 ただ、僕の場合はそれが死神だったようだ。

「君の余命はあと一日だ。」

 突如現れた死神はそう告げると空へと消えていった。

 足元を見ると、白線から足ははみ出していなかったけれど僕はきっと明日死ぬのだろう。感覚がそう告げていた。


「ただいま。」

 いつものように言うけれど誰かが返事をくれることはない。二階の自室へ行く際にリビングの傍を通るとお母さんとお父さんの言い争う声が聞こえた。きっかけはいつも些細なものだった。今日の料理は不味いとか、お気に入りの洋服を乾燥機にかけて駄目にしたとか。最初は両親を仲直りさせようと奮闘もしたものだけど、こう度々繰り返すとなると諦めもついてくる。この二人は夫婦という関係に向いていなかったのだと。


夕食の時間になりリビングへと降りると母は冷凍ギョーザを焼いていた。父は隣室でテレビを見ているようだ。ドアの隙間から漏れる笑い声がいっそう家族の溝を露にしている気がした。

「ねぇ、今日は皆で食べようよ。」

僕の言葉を聞いたお母さんは言う。

「お父さんは今日夕飯要らないんだって。」

「お願い、今日くらいはいいでしょ?」

今日くらいとは言ったけれど別に僕が明日死ぬだけでお母さんやお父さんにはいつも通りの今日でしかない。

僕の訴えにお母さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「分かった。今お父さん呼んでくるね。」

僕は呆気にとられた。こうも簡単に家族団欒の機会を得ることが出来るなんて思いもしなかったからだ。

隣室からまた言い争う声が聞こえたけれどそれもすぐに収まって二人はリビングにやってきた。

「もう出来るから二人とも席についてなさい。」

お母さんは大皿に二人分のギョーザを盛りテーブルの中央に置いた。

「いただきます。」

家族で揃っていただきますなんていつぶりだろうか。あまりに久しぶりのことだったから僕はなんだか楽しくなって、学校の話題とか勉強のことについて二人と沢山話しをした。

お母さんはギョーザは一人四個までよとか、おかわりもあるからねとか、優しい声でそう言った。

夕食を摂り終わるとお父さんは口を開いて「たまにはこういうのもいいかもな」なんて言った。

そのたまにははもう二度とやってこないというのをお父さんは知らない。


朝目を覚ましてリビングへと降りるとお母さんとお父さんが二人で席に着いていた。お母さんが「起きたわね、さぁ皆で食べましょう。」と言ったので僕は急いで席に着いた。たまにはが二度やって来た。

今朝は他愛ない話をして朝食を食べた。他の家族が他愛ないと思うような事でさえ、僕にはとても大切な時間だった。

登校の準備を終え、玄関で行ってきますと言うと、お母さんとお父さんは行ってらっしゃいと見送ってくれた。僕はいつも通りのはずなのに。


学校。僕は友達が少ないから誰かを悲しませることはない。

一人だけ、僕には親友がいる。他人とのコミュニケーションが苦手だったがために一人ぼっちで教室の隅に居た僕に話し掛けてくれたのがきっかけで仲良くなった親友が。お母さんとお父さんが喧嘩をしていて家に帰りたくないという日には、日が暮れるまで公園のシーソーに乗って一緒にいてくれた。僕はそいつに別れを告げなければならない。

「もし僕が突然君の前からいなくなってしまったらどう思う?」

直接、今日死ぬなんて事を言ってしまったら頭がおかしくなったと思われてしまうと考えた僕はそう言った。

「死ぬの?」

僕は咄嗟に死なないよなんて言った。そしたらそいつはこう言った。

「なら別にいいよ。お前が俺の前から消えようがこの世界に居るのは変わらない。そんときは空を見てお前を思い出すよ。」

その言葉を聞いて胸が苦しくなった。本当は死ぬんだと言ってしまいたい。この世界から僕は居なくなるんだと言ってしまいたい。

「あ、でも二度と会えないなんて嫌だからな。」

「例え話だよ。」

無責任だと思った。でも、唯一の親友からその言葉が聞けたなら、僕はもう死んでもいい。


帰り道、僕は白線の上をはみ出ないように歩いた。もう死へと足を片方突っ込んでいるのだけれど、白線の上を歩いている限りは死なないような気がしたからだ。


いつも通りにただいまと言うとお母さんとお父さんがおかえりと言ってくれた。何故だか昨日から僕にとって都合が良すぎる気がするけれどあまりの嬉しさに違和感をかき消した。

「今日はデミグラスハンバーグよ。」

台所でお母さんがハンバーグのたねをこねていたので僕は手伝いたいと言った。

「洗面所で綺麗に手を洗ってからね。」

初めてお母さんに料理を教わる。

手のひらの熱でたねを温めないようにボウルを氷で冷やしながらこねるとか、焼く時は空気を抜くと焼き終わりの形が綺麗に仕上がるとかそんなこと。

お母さんは本当は料理が上手なのにお父さんと仲が悪くなってから次第に冷凍食品を使うことが多くなった。そのことを悪くいうつもりはないけれどやっぱり手作りの料理というものは不思議な魅力を持っている。

焼き上がると匂いを嗅ぎつけてかお父さんがリビングにやって来て席に着いた。やった、二度あることは三度あるというのはこういうことなのかと思った。

家族での夕飯が始まると珍しくお父さんが僕に聞いてきた。

「今日は学校楽しかったか?」

別に特別なことがあった訳ではないけれど、お父さんが聞いてきたことが重要なのだ。僕はなるべく面白おかしく今日起こった出来事を話した。そしたらお母さんが横で笑ったのでまた嬉しくなって更に話は加速した。

もうハンバーグも残り少なくなってくるとまたお父さんが僕に聞いてきた。

「なにか困ったこととかないか?」

おかしなことを聞くな、と思った。僕は今とても幸せなのに。

お父さんは話を続ける。

「昨日お前一緒に夕食を食べたいと言ったろう。」

僕は頷く。

「考えてみればお前から子どもらしいわがままとかお願いとかを聞いたことがないなって。」

そういえば僕は昔から手がかからない子どもだとお母さんはよく言っていた。

「そう考えたら私たちがどれだけ親としての責任を果たせてないか気づいたの。」

今度はお母さんが言った。

「だからね、二人で話し合ったの。これから家族皆で幸せな家庭を築いていこうって。」

僕にとってはもう手遅れなのは変わらないけれど、お母さんとお父さんがこれから仲良くしてくれるなら僕は安心して死ぬ事が出来そうだ。

「ありがとう。お母さん、お父さん、大好きだよ。」

そう僕が言うとお母さんは無言で僕を抱きつけていた。

「苦しいよ。」

「お母さんも大好きよ。」

お母さんの心臓の音が伝わって、なんだか懐かしい気分になった。こんなに幸せで良いんだろうか、それともこの幸せを引き換えに僕は今日死ぬのだろうか。

「僕、もう寝るね。」

お母さんお父さんにおやすみを告げて自室の布団に潜った。


次に目を覚ますと、そこは知らない天井だった。

次第に意識がはっきりしてきて、そこが死後の世界だと認識した。

「人生最後の一日、悔いはないか?」

どこからともなくやって来た死神は今度は真正面からそう問いた。

「悔いしかないよ。」

僕は言う。

「そりゃあ残念だ。大概の人間は余命を告げると悔いが残らないように好き勝手過ごすんだがな。」

僕は笑った。

「悔いはもっとお母さんとお父さんと一緒に居たかったってことだよ。どう過ごそうと悔いは残る。」

「お前のことを随分とぞんざいに扱ってた親だぞ、そんなのともっと一緒に居たかったって?」

僕は言う。

「勿論だよ。二人は世界中で唯一の僕の親だからね。」

そして僕は思う。

もし生まれ変わりがあるとするならばもう一度二人の子どもとして生まれ変わりたいなと。

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