特訓・空中見切り
「咲馬くん!」羽野の後ろから十秋の声がした。
「僕も今から練習に参加する。そろそろ戻らなくちゃってずっと思ってたんだけど、なかなか最初の一歩が踏み出せなくて」
「つべこべいわない! あたし、咲馬くんの刀取ってくるから。先に着替えててね」
走っていく十秋の姿を見届けると、咲馬は部室で着替え、久々に道場の中に足を踏み入れた。あえて地面を砂地にしているのは、足場の悪い環境下でも俊敏に立ち回れるよう鍛えるためだという。刀を正確に振ることも大事だが、そのベースとなる足腰を鍛えることのほうがもっと大事なのである。
道場にはすでに十秋たちが待機しており、「はいっ」と笑顔で日本刀を渡してきた。その重みがずしりと咲馬の掌に伝わる。自分に課せられた使命の重みだ。
「おい咲馬、帰るふりしといてサプライズ復帰かよ。ったく、お前って奴は。でもさすがは俺の相棒。けじめつけると思ったぜ」
「もう迷わない。泣き言なら後で考える。こんな能力が欲しくなかったとか、そんなことは全部終わってから考えればいいんだ」
「その息だぜ相棒! お前がいなくなってる間に、お前より腕上がっちゃったかもしれんぞ」
「こんな短期間じゃ強くなれないよ」
「んぐっ、反論できねえ……」
「貴堂のいう通りだ」準備を整えたらしい羽野が、夕菜と佐奈島に挟まれる位置に立っている。よく見ると、夕菜と佐奈島は手に買い物かごをもっており、それを静かに地面に置いた。かごの中には無数のテニスボールが入っていた。
ふう、と佐奈島が額の汗をハンカチで拭う。「興奮しちゃって汗が出てきた」
「これって何の練習ですか」
咲馬の問いに応えたのは羽野だった。彼女は表情一つ変えずかごの中のボールを拾い上げると、なぜか二つのボールが本物の糸で繋がれていた。その他のボールも同様で、これをどう使うのかぱっと見ただけではわからなかった。
「今からね、このボールを遠くから君に向かって投げるから、ボールどうしを繋ぐ糸を空中で斬って。うん、簡単でしょ」夕菜が勝手に頷く。「糸がすぱっと斬れるの見るとスカッとするんだよねえ」
「ルールはわかったな。準備ができたら配置につけ」羽野が腕を組んでいった。このスパルタ部長が恋愛研にいただなんて、とても信じられない。だが羽野先輩の内面も日々刻刻と変化していると知ってからは、ただのクールビューティではなく、れっきとした人間なのだと思ったのだ。
寝起きにコッテリラーメンを胃に突っ込まれるぐらい早くも身体が拒絶反応を示しているが、第二エリアを襲撃するボスのことを思えば、この程度の復帰訓練は我慢すべきなのかもしれない。
シェイ──二十一年前の悲劇。
姿をこの目で見たことはないが、第二エリア周辺に息を潜めているのだろう。あの老人がいうにはかなりの強敵。両刃の薙刀をもっている時点でかなり危険な相手であることは容易に想像がつく。本当は羽野たちにシェイのことを話したいのだが、老人との約束もあり今は話すわけにはいかない。ここでいってもいわなくても結局は自分が腕を上げなければならない結論に変わりはないのだ。
咲馬は所定の位置につき、羽野たちに手で合図を送った。すぐさま反応を見せたのは夕菜だった。
「行っくよー!」夕菜がテニスラケットの面で思い切りボールを叩いて宙に上げる。フライ球を待ち受ける外野手のように咲馬は剣を構えた。太陽がまぶしい。ボールが舞い降りてくる。ボールが少し動いただけで糸の張力が加わり速度が変化する。糸の伸縮の度合いも変わるので狙いをつけるのが難しい。それがこの訓練の醍醐味なのだろうと咲馬は悟った。
そして──。
「来るっ!」
ここぞというタイミングでスタートを切り、微細に位置を整える。糸が伸びて斬れる有効範囲が広がった瞬間、咲馬は力強く振り抜いた。糸の状態を完璧に把握した、はずだった。
咲馬の剣先はわずかに糸から逸れ、落ちてきたテニスボールを真っ二つにした。もう少し右だったかなどと反省していると、また次のボールが飛んでくる。今度も剣筋の軌道上に乗ったのは糸ではなくボールだった。野球部でいうところの千本ノック。
二十球目に入ったぐらいで、ようやくぴんと張り詰めた糸のど真ん中を断ち切ることに成功した。二十球ではさすがに羽野先輩に怒られるだろう。
ボールを打ってくる夕菜の手が止まり、羽野先輩がこちらに手招きしてきた。指示どおり向かうと、近くにいる他のメンバーたちが嬉しそうに拍手してくれた。
「さっすが咲馬くん!」十秋が両手を握ってきた。
「二十球じゃまだまだ練習が足りないよ。羽野さんや風間さんなら、全球百発百中だろうし」
ああ、と羽野が応えた。「確かに私や淳太なら一本も外さない。たが一年の頃、私は初めてこれをやらされたとき二十七球もかかった。貴堂より下だった」
「そうなんですか」羽野先輩に勝っている点があると知り、咲馬はわずかばかりの優越感を味わった。
「やはり筋は悪くない。基礎ができているなら、あとは技を磨けばいい。さっきの練習は純粋に反射神経と動体視力の訓練だ。実戦よりは遥かに易しいが、安定して斬れるようになるためには、それ以上の負荷をかけなければならない」
羽野のいうことは最もだと咲馬は思う。八十パーセントの力を出し続けるためには、日頃から百パーセントの力を出す訓練を続ける必要がある。この程度の訓練なら自分でも早く習得できそうだと安堵する。だが、次の羽野の言葉で状況は一変した。
「さっきのは入門編だ。今度はロープのように互いに絡まり合った糸を空中斬りしてもらう。練習では赤ノ糸と紫ノ糸を交互に絡ませたものを使用する。紫ノ糸を斬らずに赤ノ糸だけを斬る訓練だ」
「待ってください……それって、かなり難しくないですか。それに、ロープのように絡まる糸って滅多に見ません」
「糸の状態が感情のエネルギー準位に左右されることは知っているな。少し前まで感情の度合いが強いほど互いに糸が絡まるとされていたが、今は新たな解釈も生まれている。それは当事者二人の感情のエネルギー準位が極めて近いレベルにあるとき、共鳴し合って絡まり合うという理論だ。確かに頻繁に出現するものではないが、ブラックの腕も最近は上がってきている。だからソルジャー部も厄介な絡まる糸の処理をできたほうがいいと思った」
「やってみます……」さすがに声が震えてしまった。
ただでさえ空中の糸を斬るだけでも苦労したのに、さらにそこから数ミリ単位の調整が求められるとは気が遠くなりそうだ。これでは世界一腕のいい外科医を目指すほうが簡単なのではとも思える。
「頑張って! あたしにかっこいいところ見せてよ。大丈夫、咲馬くんならきっとできるから。あたしも協力する」とどめの十秋の叱咤激励が飛んできた。
これは断れないな、と咲馬は仕方なく後頭部を掻いた。
人間狩り ──虹ヶ丘高校の糸斬り子 やすんでこ @chiron_veyron
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