地上の蒼穹

一ノ路道草

地上の蒼穹

 男が登山を始めたきっかけは、三年前にフランス海軍のラファールと呼ばれる戦闘機に乗る、とあるパイロットがWEB上に投稿した動画である。


 そこにあったのは一切空を遮るものの無い、雲が大地になったかのような、まったく未知の世界。


 そこで男は、初めて空を綺麗だと思った。本当の空は、地上と違ってこんなにも汚いものが存在しないのかと。こんな光景を直接目に出来るすべての人間があまりにも妬ましく、羨ましかった。


 当時の男は高卒で27歳。現在もなおフリーターで、要領が悪く、頭が良いとは言えない。目標に気付くのが、あまりに遅すぎた。


 思えば男は、ずっと後悔ばかりしてきた。なんで俺は、こんなに馬鹿な選択しか出来ない人間に生まれちまったんだろう、そもそも、なんで生まれちまったんだろう……。


 だからせいぜい、ただ近くにあるスーパーの屋上や見晴らしの良い高所から、写真を撮るしかない。


 カメラなんて上等なものはない。四年前発売の、画面端が割れた中国製のスマホによるものだ。


 そんなものでも、最初は満足出来ていた。


 群青と夕焼けの境から放たれる後光のような色が好きだ。麦畑みたいに輝く浅黄色の夕陽が好きだ。SFに出てくる巨大戦艦のように空を支配する壮観な雲や、天空の城でも隠れていそうな雄大な雲も、男は好きだ。


 けれどすぐに、レンズの狭さや画質の荒らさ、周囲に人間の手による邪魔なものばかりが溢れていることなどに気付いてしまってからは、写真を撮れば撮るほどに、そんなものでは満足出来なくなっていった。


 違う、俺が見たのは、こんな汚くちっぽけなものじゃない。俺が見ているものは、もっと美しくて、どこまでも壮大で、鮮やかなんだ。こんなものじゃあ、ない……。


 間抜けな男がもたついている間にも、空は刻一刻と変化する。雲は流れて崩れ去り、陽は雲に隠れ彼方へと沈み、再び昇れば、輝く夜空が白んでいく。理想の世界はあまりに儚い。


 待ってくれ。俺が何をした、どうして時は止まらない。この世界を、もっと、もっと俺に見せてくれ……。


 雑誌やネット等で毎日撮り方を勉強した。けれどやっぱり頭の悪い男の腕では、どうしてもあの空を残しておくことが出来なかった。それにどれだけ取り繕おうとも、安っぽい機械の眼や、中途半端なコンクリートの頂なんかでは、もう満足出来ないのだ。


 ならばせめて、俺はせめてこの肉眼に、あの遮るものの無い本物の空を、焼き付けたい。


 人間の世界なんてうんざりなんだ。地元のスーパーで働く優しいおばちゃんたちに毎日のように神様気取りで怒鳴り散らすクソ中年どもや、職場でバイトを見下すくせに下らないミスで余計な仕事を増やすクズ社員も、俺が生まれた時からカルト宗教狂いで意味不明なことばかり言うイカれた両親も、俺は片時も見たくない。俺は綺麗なものが、綺麗なものだけが見たいんだ。


 俺は空を飛べない。空を飛んで雲を越えることが出来ないなら、雲を越える高さまで、地上を歩くしかない。


 だから男は、山を登ることにした。まるで怨霊にでも取り憑かれたような眼で、貧相なたるんだ身体に毎日少しずつ体力を着けていき、知識も蓄えもまったくのゼロからひとつひとつ気長に装備を買い揃え、人工の頂よりも上の空を目指して、地面を歩いていく。理想の空でこの汚れきった身を洗い流し、照らされる瞬間を求めて。


 これだ。これだけが、俺が生きられる世界。生きている瞬間だ。






 8月の午後20時頃。人混みに紛れ、登山用の装備に身を固めた男は、顔にまばらな雨粒を浴びながら目的の山を見上げていた。


 霊峰富士。標高3776.12m。その五合目から、男は遂に、この国で最も高い頂を目指した。


 相変わらず体力はさほど無く、男はすぐ息を切らし、次々に追い抜かれていく。


 今更じゃないか。元々俺にはずっと、誰かよりも優れている部分なんてなかった。当たり前のことでくよくよするな。


 途中で景色を見回すと、周囲は白んでいるが、霧ではない。男は確かにいま、層積雲と触れていた。


 さらに進んだ先のベンチで休んでいると、頭上に巨大な雲が浮かんでいた。雨雲の一つにあたる、雄大積雲だ。


 だんだんと道が土ではなくむき出しの岩になり、歩き辛くなってくる。とにかく焦らずこまめに休憩を挟み、男は自分のペースで進む。


 地面の固さや傾斜に疲れが溜まってくる。元々体力は無いし、空気の薄さもあるだろう。


 男は山小屋前の背もたれの表面が赤錆たベンチに腰掛けた。似たような赤い土や岩が、周囲を彩っている。しばらくは岩の道が終わり、赤土の道になるのが足に優しくありがたい。


 歩いていると、突如唸りを上げ、冷えた強風が吹き付けて来る。現標高の気温は6度。地面にときおり僅かだが、雪が混じっていた。日本の8月初旬だとはとても思えない気温と光景である。


 歩む速度は落ち、足を止める頻度が更に増えてきたが、運動が苦手なのは本当に今更の話だ。行き交う他の登山者と軽く挨拶を交わし、静かな表情で暗闇を眺め、気力と体力を取り戻していった。


 頂上へとあと僅か。しかしいくら休んでも、男は地面に座り込み、微塵も動かなくなっている。高山病だ。


 なんでだ、もうすぐなんだぞ。どうして動かない……。ふざけるな、俺まで俺を裏切るのか。どうしてなんだ……。


 空がほんのりと明るくなりはじめた。男の視界には、先に頂上へと向かう幾つもの人影。男はストックを支えに、ようやく立ち上がる。


 時間がない。動け、動け……。待ってくれ、置いていかないでくれ……。頼む、俺もそこに、頼む……。


 一歩、また一歩。気絶寸前の見る影もない足取りで、また一歩進む。疲弊しきった身体に立ち塞がるように、強風が吹き付ける。


 邪魔するな、もう行かせてくれ……。それとも……いま飛び降りれば、魂だけでも、行かせてくれるのか……。そうなのか……?


 いや駄目だ、そんなのは駄目だ……。この身体で行く。この身体でないと……。


 男がすがるように前を向いた時、男のすぐ前に、ほぼ同じペースで歩いている、横顔からして、年配らしきもう一人の男が居た。声を掛ける気力も無い男は、ただ黙々と、その前を行く登山者に付いていく。


 一人ではない。ただそれだけで、とても僅かだが、男に気力が湧いてきた。


 行くぞ、必ず行く。もうすぐだ。もうすぐ……。


 そうして男は、頂へと辿り着く。年配の登山者は忽然と、その姿を消していた。


 男はただ呆然と、様々な人種の人々が向ける視線と同じく、たった一つの方向を眺め続ける。


 そしてそのたった一つの光に、皆が吸い寄せられ、照らされていく。


 男は確かにその時、蒼穹に立っていた。

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