紫陽花に線香花火を重ねて

宮森 篠

紫陽花に線香花火を重ねて



 青の小さく可憐な花が湿っぽい風に揺られてざわめく。終わった時間の中で唯一動くその色はまるで、自分の中の彼女のようだと思う。紫陽花の花は繊細にひっそりと廃屋の中で輝く。そこでしか輝けないとでも言うように。

「────」

 だからこれは、偽物の光でしかない。本物の輝きはとうにこの世界から旅立ってしまったはずだから。

「久しぶり、なのかな?」

 その光は鈴の音のように言葉を紡ぐ。

 少し茶色がかった髪はあの頃にようにポニーテールにされ、紫色をした紫陽花のピン留は両耳近くで優しく揺れる。猫のような瞳は相変わらず人懐っこそうに笑みを見せた。どこかで見たと思ったその制服は母校である高校の夏服だ。

雲透くもすきは私が、見えるんだね」

 近くの踏切が規則的な音を立て、侵入を阻む。俺は額を伝う汗を拭う事も忘れ、震える唇でやっと彼女の名前を呼んだ。


一.


 梅雨を迎えるのも二十六回目になるが異様な湿度と夏を控えた暑さは慣れれる気がしない。纏わりつく嫌な空気を拭うため、早足でオフィスへと入る。文明が発達したこの世界に生を受けてよかった、などと感じながら自動ドアを通り自分の席へと急ぐ。この時期になると営業職へ就いた自分を恨めしく思う。

「お疲れ、雲透。外は暑そうだなあ」

「お疲れ様です。いやほんと、暑さもそうですけど湿度がいらないですね。梅雨を好きに慣れそうにないです」

 隣のディスクに座る先輩へ挨拶し、席に着く。空調が効いた部屋に入るともう今日は外には出ないという気持ちが膨れ上がる。見積もり作成や溜まった事務作業をこなしてしまおう。

「しっかし災難だったな。あの取引先、ワガママばっかり言いやがって。完全に向こうの確認ミスだったのに」

「はは……まあ、ほんと営業の辛いところですよね」


 二十三で社会に出て今年で三年目。社会の荒波に揉まれ、理不尽さに呆れ、どうにか受け流せるようになったこの頃は仕事も上手く流せるようになっていた。職場の雰囲気も悪くないし、先輩も色々教えてくれる。営業ならではの目標はあるものの、無茶難題な数値ではない。俺は恵まれた職場であると、大学時代の友人と話す度に感じている。

「明日からの四連休、なにするんだ?」

「あー……久しぶりに地元に戻ろうかと」

「こっから遠いんだっけか」

「いえ、電車乗り継いで二時間程度なので、まあ」

「地味に距離があるな」

 先輩は歯を見せて笑い、それに釣られて思わず俺も笑っていると不意に外が光った。事務の女性が小さな悲鳴をあげ、心配そうに空を見る。

「雷、か」

 夏の訪れと終わりを告げる雷は十五分ほど気まぐれに光るとそれ以降は姿を見せなかった。……雷はあの日から好きになれないままだ。

 先輩は急遽得意先と打ち合わせが発生し、時間も時間という事でそのまま直帰する流れになった。雑談相手がいなくなった俺は真面目に書類と向き合う事にし、見積もり作成の為の専用アプリを立ち上げる。天気も不安定だし、今日は定時で上がろう。なにより明日は早い。


「お疲れ様でしたー」

 定時から二時間ほど過ぎて漸くタイムカードを切り、残っている数人に挨拶をしてから会社を後にする。明日から連休という事もあり、今日は殆どの人が定時退社をしている。擦れ違う女性社員は旅行の計画を、男性社員は彼女との予定を楽しそうに話していた。

「あー、湿度」

 つい二時間ほど前に通ったばかりの自動ドアを再度通過し、外に出る。空は重たい色に染まり今にも泣き出しそうだ。傘を持っていないから降られる前に帰ってしまおう。明日、風邪を引くわけにはいかない。

 改札を潜ると丁度電車がホームに入ってきたのでそれに飛び乗る。帰宅時間にぶつかり中はギュウギュウだった。そのまま十五分ほど揺られ、家の最寄りへ足を下ろし、篭った電車内の空気を肺から吐き出すように呼吸を繰り返す。

 いつもと何一つ変わらない景色を視界に入れ、決して新しくないアパートへ急ぐ。纏わりつく空気が冷房で冷えた身体を責めるようにべたつきを伴い、汗へと変わる。

 そう、何一つ変わらない。

 梅雨が明ければ夏が来て、夏が来れば冬が来ることも、誕生日を迎えれば一つ歳を重ねることも。

 どれだけ偉大な人間が急逝しても、毎日のように何処かで事件が起きても日は沈んではまた登る。

「……今年で十年か。早いな」

 雲透、そう呼ぶ声はもうハッキリと思い出すことが出来ない。それならいっそ全てを忘れてしまった方が楽なのに、それは俺の中の何かが許さないでいた。忘れることなんてできないまま、今年もまた、君の面影を君が好きだった紫陽花に重ねる。

 昔から俺は所謂、死んだ存在を視る事ができる方の人間だった。親も兄も同じくそういう人間だから遺伝なのだろうか……なんて、科学者が聞いたら激怒が呆れるかの二択だろう。しかし視えるものは視えるし、聞こえるものは聞こえる。親や兄から口すっぱく他人に公言するな、と言われてきた為、これが理由で揶揄われる事はなかったが損もしなければ徳もしない。毎日がお化け屋敷だし、ホラー映画だ。

 損も徳もなかったが、期待をした事はあった。

 だが十年、一度もその姿を確認する事は出来ず仕舞いだ。きっと成仏したのだろう、などと自分に言い聞かせながら確証を得る事は出来ずにいた。……その近くに行けなかったからだ。行ってしまえば、跡地を見てしまえば、本当にもう居ないのだと改めて突きつけられる気がして。

「……でも、もう十年だ。そろそろ、ちゃんと見ないといけない」

 自分の時間を進める為、そして、何一つ変わらない現実に憤る為。


 ──明日俺は、初恋の人が死んだ場所へと向かう。


+++


 梅雨の晴れ間というのだろうか。昨日までの不安定な空から一転、目を細めてしまうほどの晴天だった。

 財布と携帯だけを持ち家を出たのが三時間前。途中で軽食を取りつつ、漸く地元へ辿り着いた。天気予報は午前午後ともに降水確率は三十%だと教えてくれた為傘はアパートに置いてきた。もし大雨が降ってくるようであればコンビニで傘を買えばいい。

 夏に地元に帰ってくるのはいつぶりだろう。社会人になってからは初めてかもしれない。

「相変わらずなんもねぇな」

 都会とも田舎とも言えない微妙な立ち位置のせいで、電車やバスなどの利便性も実に微妙だ。都会に比べれば本数は少ないし時間も遅い。しかし田舎に比べると本数は多いし時間も早い。中途半端な場所だが海も山も近いし避暑にはもってこいかも知れない。最も、近年の異常気象で避暑地と名乗れるか怪しくなってきたが。

「確か……酒屋の近くだったよな」

 目的地は駅から徒歩で三十分程度。バスの時刻表を見ると次は一時間後だった。俺は少し悩んで徒歩で行くことに決めた。この暑さの中、一時間も待てないし近くの喫茶店は満員で並ぶ気にもなれない。それならば懐かしい道を歩いて暑さに怒る方が健康的な気がしたからだ。

 時々通り過ぎる小学生くらいの子供がこの暑さなど気にするそぶりもなくはしゃぎ、駆け出す。梅雨の晴れ間を待っていたと言わんばかりの笑顔が眩しい。所々、まだ蕾も多い紫陽花だけが今はまだ梅雨だと教えてくれているようだ。

 額から伝う汗を乱暴に拭いながら足を進める。舗装されたコンクリートからの照り返しがひどい。雨の中とどちからが嫌かと言われれば、まだ湿度が低い今日の晴れ間の方がマシなのは確かだが、それにしても暑い。まるで今まで晴れ間を邪魔された恨みかのように太陽は輝いている。

 俺と「彼女」が出会ったのも、こんな夏の前だった。

 小学校三年生の夏休み前という中途半端な時期に転校してきた女の子。少し茶色がかった髪は地毛のようで、勝気な猫目によく似合っていた。父親の転勤の都合で変な時期になってしまったと先生が話していたことを思い出す。俺は所謂、一目惚れというやつを後にも先にも一度切り、あの瞬間にしたのだ。

 明るく朗らかで、でも自分の意思はしっかりあり友達思いの彼女はすぐにクラスへ溶け込んだ。まだ小三ということもあり、その頃は俺もよく一緒になって遊んでいたが、年齢が上がるにつれて一緒に遊ぶことはなくなった。それでも彼女が好きな事は変わらず、むしろ日を重ねるにつれてその想いだけは大きなものになっていた。

 もう戻る事のできない煌びやかな日々は、まだセピア色にはなってくれない。





「……ここ、だ」

 ゆっくりと息を吐き出し、ゆっくりと吸い込む。

 十年振りに訪れた場所はあの頃から変わる様子がなく、建物もなにも存在していなかった。かつて一軒家が建っていた場所だけがポッカリ空虚なまま。近くに咲いている水色の紫陽花だけがその世界に存在するただ一つの色のようにすら思える。

 彼女は十年前の夏、火災で亡くなった。漏電が原因だっと親から聞いた。雷が鳴り響く日だったことを覚えている。その日は偶々、家には彼女一人で夜中の火災だったこともあり近所の人が通報する頃には彼女は一酸化炭素中毒で生き絶えてしまっていたらしい。彼女の両親は気づくと違う地へ引っ越してしまった。……それもそうだろう、一人娘を防げる事故で亡くしてしまったこの地に住み続ける事なんてできやしない。

「俺も、ずっとここに来れなかったもんな」

 友人から彼女が亡くなったと聞いた時、なんの冗談だと怒ってしまった。それくらい突然の事で、信じられなくて、それでも項垂れて泣いている友人を見て冗談ではない事を知った。それでも心は信じようとせず、けれど火事の跡地をこの目で見る事もできず、通夜の席に参加してる時ですら現実とは受け入れることなんてできないでいた。……それから高校卒業した後、大学に入ってもしばらくは信じられない日々が続いていた。

「でも、もう十年だ。……逃げてちゃいけないよな」

 彼女の笑顔を思い出し、少し鼻の奥がツンとする。昼から夕間へと切り替わる時間がゆったりと忍び寄る。

 素っ気ないような態度をとりながらもずっと彼女を目で追い、話しかけられれば思わず目を逸らしてしまう。それでも彼女は俺を遠ざけることもなく、高校も偶然同じで喜んでくれていた。高校に入ってクラスは違ったものの、廊下や外ですれ違う時は軽い挨拶と他愛のない話を少し交わしていたのだ。

「まだ正直、受け入れたくないよ」

 あの頃から俺は何一つ進む事ができず立ち尽くすばかり。


 視界の情報を一度切るように目を瞑ると鈴のような音色が聞こえた。……空気が少し下がった気がする。反射的に目を開けると、青の小さく可憐な花が湿っぽい風に揺られてざわめく。終わった時間の中で唯一動くその色はまるで、自分の中の彼女のようだ。紫陽花の花は繊細にひっそりと廃屋の中で輝く。そこでしか輝けないとでも言うように。

「────」

 だからこれは、偽物の光でしかない。本物の輝きはとうにこの世界から旅立ってしまったはずだから。

「久しぶり、なのかな?」

 その光は鈴の音のように言葉を紡ぐ。

 少し茶色がかった髪はあの頃にようにポニーテールにされ、紫色をした紫陽花のピン留は両耳近くで優しく揺れる。猫のような瞳は相変わらず人懐っこそうに笑みを見せた。どこかで見たと思ったその制服は母校である高校の夏服だ。

「雲透は私が、見えるんだね」

 近くの踏切が規則的な音を立て、侵入を阻む。俺は額を伝う汗を拭う事も忘れ、震える唇でやっと彼女の名前を呼んだ。

「……な、ぎ」



二.



 彼女は成仏などしていなかった。


「えっ、もう十年経つんだ。ふぅん、だから雲透もそんなおじさんみが増してるんだね」

「まだ二十六だからおじさんじゃねぇって」

「十六歳の私からしたらおじさんよ、おじさん」

 悪びれる様子もなくコロコロ変わる表情はまるで生きている時となんら変わりはなく、そして今更見えてしまった事に俺は動揺を隠せないでいた。

「本当に幽霊、見える人なんているんだね。雲透がそうだったなんて全然知らなかった」

「……いやまぁ、誰にも言ってないから」

「そっか、まあ、そうだよね。私も生きてた時は信じてなかったから」

 彼女……穂積凪はどこか懐かしそうに目を細める。

「ずっとあの場所にいたのか?」

「うん。たまに近くをふらふらしたりはしてたけど、結局ここに戻ってきてたの。なんだか離れられなくて。……前は友達が来てくれたりしたけど、もう最近は誰も寄り付かない場所になってた。まさか雲透が来るなんて思ってもいなかったけど!」

「悪い……」

「なんで謝るのよ、私は喜んでるんだから」

 側から見れば俺がポツポツ独り言を言っているようにしか見えない光景。人通りが少ない場所で良かった。

「なんでお前、まだ……残ってるんだよ。とっくに成仏したと思ってた」

「…………心残りがあるからよ、雲透」

 寂しそうに凪の瞳が揺らぐ。

 いきなり人生に幕を下ろされたのだ。普通に考えればその通りでしかない。

「だから、手伝って」

「は」

「私の成仏。高校生になって、夏らしいことをしたかったの。それから誕生日おめでとうって言ってもらいたくて」

「誕生日……?」

「あの火災で死んだ日が私、誕生日だったの。……でもお母さんもお父さんもそれどころじゃなくて、友達もそう。私まだ十六歳の誕生日を祝ってもらえてないの」

 彼女の表情は真剣そのもの。高校生に上がって最初の誕生日を彼女は心待ちにしていたのか。

「……確か、誕生日は明日だったろ」

「わっ、覚えててくれてるの?」

「小学校から一緒だからだよ!」

 照れ隠しで思わず気持ち大きい声が出てしまった。慌てて周りを見るが相変わらず人通りはなくホッと胸を撫で下ろす。彼女は嬉しそうに頬を緩ませ「決まりね!」と口にする。

「いやいや勝手に決めるなよ」

「あ、そっか、社会人だもんね。仕事とかあるよね」

「……いや、いま連休だから大丈夫だけど」

「なにそれー、じゃあなんか用事あるの?」

「………ないよ。わかった、わかったよ! で、夏らしい事って具体的になに」

「んー、かき氷いっぱい食べたりー、あと海に行ったりとか!」

「お前食い物食えないだろ」

「それは雲透が食べてる姿見れば問題ないわ」

 まるで名案だというようにニコニコされると何か言い返す気なんて起きなくなる。まさか……こんな事になるなんて思っても見なかった。もう二度と話す事が出ないはずの存在と予定を立てるなんて。

「ところでここから動けんの?」

「そんなに遠くには何でかな、行けないけれど。この地域だったら平気」

「そっか……じゃあとりあえずかき氷屋でも探すわ。帰ったら調べるよ」

 記憶が正しければ数件あったはず、と考えていると彼女は先ほどと変わらずニコニコと笑顔のまま。

「そんなにかき氷食いたかったのか?」

「違う違う、久しぶりに人と話せてるんだよ、嬉しいに決まってるじゃない。それも私を知ってる人となんだもの。とても嬉しいの」

 その日は明日の待ち合わせ場所と時間を決め、とりあえず解散の流れになった。まだ夕陽にはなっていない時間だけど自分の心を落ち着かせるためにも帰る必要があった。

「また明日ね、雲透」

「あ、あぁ、また明日」

 死んだ彼女との明日という未来の約束を交わすなんて、と廃屋を後にする。

 俺は結局、未だに彼女が好きなのだと嫌でも自覚させられてしまった。もし、もっと早くこの場所を訪れていれば彼女と早く「再会」する事が出来ていたのかもしれないが、タイミングが今で良かった。昔の自分なら死んだ彼女を見ても彼女自身が死んだと口にしても、きっとそれを信じず暴走していただろうから。

 ……けれど死者と生者は交わらない存在。否、交わってはいけない存在だ。

「明日、か」

 偶然か必然か。

 本当に彼女が成仏できるかなんて分かりやしない。そんな風に成仏する為の手助けなんてした事もないから勝手も分からない。それでもやらずにはいられないだろう。

 死者には死者の行くべき道があるのだから。





三.



 目覚ましが鳴る五分前に目が覚めた。

 ゆっくりと体を起こし、何時もと見る景色が違う事に一瞬首を傾げそうになり、実家に泊まったのだと思い出した。両親は連休を利用し旅行中で実家には誰もいなかった。

 昨日偶然にも再開した彼女の姿を思い浮かべる。

 綺麗なポニーテールと、懐かしい母校の制服。青と白を基調としたセーラー服だ。記憶の中の彼女となんの齟齬もない。

「……出かける準備でもするか」

 朝ごはんは道中のコンビニでなにか買えばいいか。

 部屋のカーテンを開けると珍しく今日も快晴のようだ。もしかすると梅雨もそろそろ明けるのかもしれない。



+++



「おはよ、雲透」

「……おはよ」


 昨日の場所に彼女は昨日と何一つ変わらず待っていた。

 何度誕生日を迎えても十六歳のままの彼女がそこにはいた。


「今日ってやっぱり暑いんだ?」

「梅雨なのにな。最高気温三十度行きそうだってネットニュースに載ってたよ」

「へえ、いいなあ。もう暑さとか寒さとかわかんないからさー。いつも適温だとたまに恋しくなるんだ」

「いざ暑くなったら文句言いそうなクセに」

「ひど〜い。でも否定できないなあ」

 小さく笑う彼女に思わず目を奪われそうになる。急いで目を逸らしてから、彼女と昨日よりはずっとちゃんと話せている自分に安心した。けれど忘れてはいけない。これは弔いだ。彼女はもう死んでいるんだから。

「テイクアウトできるかき氷屋みつけたからそこで買って公園とかで食おうか」

 昨日のうちに調べていたかき氷屋の中からテイクアウト可能な店を見つけた。店内で彼女と話すと俺が不審者に見られ、最悪通報されかねない。店のホームページを携帯に出し、彼女に見せると興味深そうに瞳が輝いた。綺麗な栗色の瞳はただの女子高生そのものだ。セーラー服の赤いリボンが踊るように揺れる。

「すごい、すごい! 宝石みたいに綺麗〜! 可愛い〜!」

「腹に入れば同じ……じゃないんだな」

「当たり前よ、もう。同じ食べ物でもキラキラしてる方がワクワクするじゃない」

 さっそく行きましょう、と彼女は実に軽やかな足取りでふんわりと舞う。

「……おう」

 彼女はかき氷屋までの十五分をどのかき氷にしようか、苺もいいけどマンゴーも可愛い、宇治金もクールで素敵、と心底楽しそうだった。



+++



 たっぷり悩んだ末に彼女は練乳と果肉たっぷりの苺とベリーのかき氷を選んだ。

「あっちぃ……」

「雲透、早く早く! 溶けちゃう!」

 公園もあまりの暑さで人気がなかった。屋根と机、椅子がある休憩所まで早歩きで向かう。かき氷はほんの少し、体温と気温で溶けてきていた。向かい合う様に座るのかと思えば彼女は俺の隣に腰を下ろした。

「こんな立派なかき氷初めて食う」

「えぇー! もっと色々食べた方いいよ、勿体ないよ」

 ポニーテールが大袈裟な程揺れる。そこまで食べ物に関して興味はなかったけれど、彼女に言われるとそうかもしれない、と思えてしまう。

 てっぺんが溶けかけたかき氷にプラスチックスプーンを入れると抵抗感なくスルスル入っていく。練乳と苺とベリーが溶け合い淡い桜色になる。一口分を口に入れるとあっという間に溶けていく。甘さが強いと思ったらベリーと苺の酸味が程よく混ざり合い食べやすい。

「美味いな、コレ。口に入れるとあっという間に溶けるけど冷たいし最高」

「ふふ、だろうね。雲透の目が大きくなったもの。ベリーはどう?甘い?酸っぱい?」

「わりと酸味があるけど練乳と合わせると丁度いいよ」

「あ、ほらほら、溶けてきてるよ! 早く食べなきゃ!」

 ふわふわのかき氷はみるみるうちに溶けていく。慌てて次々と口にかき込むも頭が痛くなることはなかった。暑すぎるからなのか、それとも氷がなにか特別なのか。最後の方はほとんど甘い水のようになり、器を持ち、行儀悪くそのまま口につけて流し込んだ。彼女はずっと楽しそうに見ていて、妙な気恥ずかしさがあった。

 食べ終わったゴミは公園に備え付けのゴミ箱へ放り投げ、彼女の方に振り返る。青いスカートが空気抵抗を無視して揺れていて、近くに咲いている紫陽花の色と同じ色だな、なんて思ってしまった。

「次は……あー……、ちょっとコンビニに寄っていいか」

「コンビニ? お腹空いてるの?」

「違うよ。ちょっと必要なものがあるんだ」

 彼女の「夏を過ごす」という夢を叶えるために必要なものを調達するの忘れていたのだ。安易な発想だが、夏といえばアレしか俺は思いつかない。今の時期ならもうコンビニでも取り扱っているだろう。

 不思議そうに首を傾げる彼女はそれでも後ろをゆっくり着いてくる。その表情はコンビニで会計が終わる頃には嬉々としたものへ変化していた。

「花火! えー! 嬉しい!」

「夏って言ったらコレかなぁ、ってさ。思いつかなくて」

 小さいサイズだけれど海でひっそりやるくらいなら文句なしのサイズだ。ライターもついでに購入して、あとは夜を待つだけ。

「夜まで何かしたい事あるか?」

「みんなの話が聞きたいな」

「みんな? ……ああ、中学とかの奴ら?」

「うん。最初は何人か家……の跡地に来てくれてたけど、もう最近は誰も来なくてさ。お墓には来てくれてるのかもだけど、私はあの家にばっか居るからさ」

「……そうか」

「でも夜まで外に居たら雲透が倒れちゃうか〜」

 思わずうーんと二人で悩んでしまう。彼女と堂々と話せる場所なんて……あ。

「あー、っと。俺の実家、来るか? 親、居ないから普通にこうやって話せるし。クーラーあるし」

 好きな女の子を家に呼ぶ事になるなんて思わず、まるで思春期に戻った様に胸がドキドキしてしまう。やましい事なんて一つも考えてないし、そもそも彼女には触れる事すらできない。

 彼女もそれは理解しているはずで、それなのにほんの少し頬を赤く染めるものだから、つられて俺も赤くなってしまった。

「あ、赤くなるんだな、頬」

「そう、だね。私も初めて知った。うん、良いよ、雲透の家に行こっか」

 俺と彼女の家は決して近くはなく、ギリギリ同じ学区内という距離だった為、家に行き来することも通り過ぎることもなかった。しばらく顔を赤くしていた彼女だったが、いつの間にか調子が戻っており、道端に咲く花の話をしていた。

「私ね、一番好きな花は紫陽花なんだ。誕生日近くに咲いてる花だし、可憐で儚くて、でも夏が来るよーって教えてくれてるみたいでもあって」

「紫陽花……、確かに今の時期はよく目に入るな。職場の方ではあんまり見かけないけどこっちだとふとした時に目に入るよ」

「色もピンクや水色、紫って色んな色あるしさー。……私ね、生きてたらお花について色々調べる人になりたかったんだ」

「……そうか」

 気の利いた言葉なんて一つも出なかった。何を言っても慰にすらならない気がして俺は相づち一つで誤魔化す他ない。

 幽霊と言うとメディアの影響か透けて見えるだの、足がないだの言われがちだがそうでもない。彼女のようにほとんど生きてる人間となんら変わりなく見える事もあるし、見えたと思ったら一瞬で消えるタイプもいる。最も、こんなふうに幽霊と話したことは無かったけれど。恐らくそれはこれが最初で最後だろう。

 彼女とじぶんが並んで歩いていても彼女に影はなく、汗一つもかいていない。足取りは並んで歩いている様に見えるが彼女はほんの少し浮いている。まるで空中のワルツのように。

 その後も彼女の小学生時代、中学生時代の話を相槌を打ちながら聞き、三十分も歩けば漸く実家が見えた。なんの変哲もない二階建て一軒家だ。庭が狭いと以前は母がボヤいていたくらい特徴もない平々凡々な家。そこに彼女が入ると言うことで途端に俺にとって特別なものになってしまう。

「どうぞ、なんも面白くないけど」

「はーい、お邪魔します!」

 ふと彼女の足元を見ると靴が消えていた。律儀に脱いだのか。

「二階が俺の部屋だから、こっち」

 彼女は興味深そうに周りをキョロキョロと見渡す。散らかってはいないけど小っ恥ずかしさがあるから手早く部屋へ誘う。

「綺麗だね、雲透のお家。洋風って感じ」

「洋風は母親の趣味だよ。父親は和風が良いって拗ねてた」

「あはは、なにそれ仲良し。お、部屋の中も綺麗だねぇ」

「まあ実家に帰ってくることが稀だからさ。正月とかしか帰ってきてないよ」

 必要ないだろうけれどクッションをあてがい適当に座ってもらう。買ってきた花火もとりあえず置き、自分も腰を下ろす。部屋の空気を冷やすためクーラーのボタンを押せばひんやりとした人工風が頬を撫でる。

「ねえ、雲透って今なにしてるの? 仕事」

「都内で営業職してるよ。やっと慣れてきた、って所かな」

「営業職なんだ! へえ、へえ〜。なんか予想外」

「それ散々他の奴にも言われた。道成とか、佐原とかにも」

「中学で一緒だった人だよね、道成クンと佐原クン。まだ交流あるんだ」

「大学が一緒になってさ。そこからまたって感じ」

「そっかあ。理穂と美々は? なにしてるかな」

「あー……、確か二人とも学校の先生だったかな。あ、いや、理穂の方は学校事務だったかな」

 彼女といつも一緒にいた二人。最後に会ったのは成人式の時だから随分前だ。その後は人伝にしか聞いてないせいでぼんやりとした言葉しか出てこない。

「学校関係って言うのが二人らしいな。……火事の後真っ先に家に来てくれたの、二人。いっぱい泣いてて胸が痛くなった。二人の夢が叶ってたらそれは私も嬉しい」

 その日を思い出すかのように彼女の瞳は伏せられ、大切な思い出のように言葉が揺蕩う。

 きっと俺が行けなかっただけで色んな人があの跡地へ向かうなり、墓前に花をやるなりしてきたんだろう。

「……なあ、俺を、怒らないのか。俺はあの家の場所にも昨日初めて行ったし、墓前にだって行けてない」

「なぁに、雲透は怒られたいの?」

「いや、そうじゃないけど……」

「確かに雲透は高校まで一緒だった唯一の友達だったけど……でも、それを責める気になんてなれないよ。だって誰かの死を受け入れるって容易じゃないもの。それにこうして来てくれて、今私の話し相手になってるんだから感謝すれど怒りなんて湧かないわよ」

 穏やかな微笑みだった。

 誰かの立場になって物事を考えられる彼女らしい言葉に思わず鼻を鳴らしてしまいそうになる。手を伸ばせば触れられる距離なのに彼女との距離は埋まることはない。

「ねえねえ、高校の文化祭どんな事やったの? あ、あと体育祭も。気になってたんだ〜。あ、アルバムは? アルバム見たい!」

「え、あーっと、アルバムは多分そこの本棚にあるよ」

 正直、彼女が居なくなってからぼんやりと過ごした高校生活は何一つ楽しかったことはない。誰かと話していても、文化祭や体育祭で周りが盛り上がっても、自分の心臓近くの場所はポッカリと穴が空いたまま。……けれどこんな期待に満ちた顔をガッカリさせる訳にはいかないと、朧げな記憶を辿り、アルバムをめくった。



+++



 結局小学校、中学校のアルバムもひっぱり出した。それらの思い出話しと友人らの近状報告、そして俺自身の大学での話や職場の話が終わる頃には太陽は随分と傾き、あと二十分もすれば完璧な夜が来るだろう。

 彼女はどんな話をしてもずっと楽しそうでずっと笑っていた。無理に笑っているのでは、と心配したら「雲透に遠慮なんてする訳ないでしょ」とこれまた楽しそうに笑われてしまった。その笑みにまた心臓が高鳴り、目を逸らす。

「……そろそろ、花火できるな」

 小さな空腹を覚え、家にあった菓子パンを齧りつつそう言葉を投げ掛ければ「線香花火は最後の最後だからね」と言葉が返ってくる。

 ……俺はまだ、彼女に誕生日おめでとうと言えずにいた。


「さ、行こう、雲透。風も無くて絶好の花火日和だよ!」

「あ、あぁ。行こうか」

 彼女はポニーテールを揺らし、どの花火を最初にやろうかとニコニコしたまま。どうか俺の汚い心が読まれませんように。

 クーラーを消す音が妙に大きく感じた。




 夜になると幾分暑さは落ち着いたが、それでも暑いものは暑い。夏本番になればもっとカラッとした暑さになるのだろうが、結局暑いことには変わりはない。

「花火やるの久々だな」

「え、いつもやらないの?」

「うーん、まあやらないな。せいぜい友達に連れられて打ち上げ花火の端っこ見るくらい」

「端っこなんだ」

 放っておくと何もしないで夏季休暇が終わる俺を連れ出してアパートの屋上から花火を見る事が社会人になってからの恒例行事ではあった。そのまま居酒屋に行き、下らない話をし、酒を浴びるほど飲む。どうしても梅雨から夏にかけては彼女の事を考えて沈んでしまう。友人はそれを分かっていて引っ張り出してくれているのだろう。有難いことだ。

 実家から海までは近く、歩いて十分程度。夜になり掛けている空を見上げれば月一つ出ていないことに気づく。曇っている訳ではないから新月なのだろう。

「私、小さい時、一度に花火にいっぱい火をつけて怒られたことあるの」

「ふはっ、なにしてんの」

「一本でも綺麗だからいっぱいつけたらもっと綺麗になるかと思ったけど、そうでも無かった」

 彼女は見てくれはお淑やかな女の子だが、その実はおてんば少女で、小学四年生の頃はジャングルジムの天辺に早登り競争をして転んで怪我をしたし、ブランコから飛び降りて着地した時は骨折もしていた。中学生になってからも見かけに反し行動的で、でもそんな所も好きな所のひとつだった。知的で凛とした雰囲気を持ちながら活発です友達想いの女の子。目が合うだけで、言葉を交わしただけで、その日はフワフワした気持ちになれていたあの頃。

「誰もいないね」

「そうだな……。まあ本格的な夏が来たらここも人集りができるようになるよ」

 むしろ人が居なくて良かった。彼女と話すことが難しくなってしまう。

 潮の香りが鼻をくすぐり、彼女は待ちきれないと言わんばかりにふんわり先に海へ向かってしまった。死んでからも変わらない、彼女らしさだ。

 砂浜に足をつけると細かなそれらがサンダルの中へ入り込む。砂浜に来たのは何年ぶりだろう。中学生以来の気がする。彼女はどこに行ったのかと周りに目を向ければ両手を広げ、海の空気や音を楽しんでる姿が目に入る。……邪魔をするのも気が引け、とりあえず花火を開封した。

 中身は定番セットのようで、すすき、スパークがメインに線香花火も数本。時間にすればほんの数分保てば良い方だろう。

「ねえ、夜の海ってこんなに素敵だったんだね」

 彼女が緩な足取りでこちらへ戻ってくる。

「私、今まで夜の海だけ来たことなかったの。手持ち花火は友達と公園でやったことはあるけど。静かなのに怖くないね、素敵」

「……月が出てればもっと幻想的だったかもな」

「新月も悪くないんだよ、雲透」

 彼女は花火の近くに座り込み、ピンク色をしたすすきに手を伸ばす。

「ほら、はじめよ、二人だけの花火大会」

 ライターで点火すればあっという間にシューと鋭い音を立て、火花が前方に吹き出す。途中で色が変わったと思えば勢いも増し、暗闇に色を飾る。

 彼女は花火を掴めないから俺が代わりに持っているが……彼女も持ちたいだろうな。

「なあ、手、重ねれば花火持ってることになると思う、け……ど」

 自分で口にしてからしまったと思う。完璧に親切心から出た言葉だったが、相手は死んでるとはいえ女の子だ。なにを言ってるんだ、俺は。しかも片想いの相手だ、自爆にも程がある。

 一本目が光を失い、ただ煙だけがまとわりつく。それを持参した水入りのバケツの中へ放り投げ、二本目に手を伸ばす。

「あ、いや、なんでもない、忘れてくれ」

「ううん、持つ。持ちたい」

 彼女との距離が、縮まる。

 暖かさなんてなければ、冷たさも存外ない彼女の手が俺と重なる。小さな、白い手だ。細長く繊細な指が俺の無骨な手と重なる。触れ合ってはいないが、たしかに触れ合っている。

 二本目も掴んだのはすすきで一本目と同じように大きな音を立て、周りを照らす。綺麗だね、と彼女の優しい声が今日一番、近くで聞こえる。横目で彼女を見れば懐かしんでいるように目を細め、愛おしむような瞳でその明かりを見つめていた。

 そのまま三本目はスパークですすきのような鋭さはないが、花が開くように、あるいは雪の結晶のようにキラキラと火の明かりが落ちていく。

「ねえ、雲透」

「ん?」

「ありがとう」

 俺は、なんて返す事が正解か分からず口を開けては閉じ、結局閉じた。これが彼女の願いではなく、他の、見ず知らずの者の願いなら話ひとつ聞くことはなかっただろう。俺は君の願いだから、君と話したいから、こうしているんだ。自己満足の塊でしかない。

「私、このままなんだと思った」

 持っていた火の明かりが小さくなり、三本目が終わる。次に手を伸ばし、点火する。これはスパークか。

「どうしても心残りがあって、行く場所に行けないでいたの。このままじゃダメなことも分かっていたけれど、どうしようもなかった」

 彼女の声は随分と穏やかで、心がざわつく。

「ねえ、雲透は覚えてるかな。私の誕生日、毎回ちゃんと祝ってくれてたよね。ぶっきらぼうにおめでとうって」

「あ、あ〜……、うん。覚えてる」

 好きな女の子の誕生日。何かをプレゼントするなんて行動力は俺にはなくて、いつも放課後の帰り際にポソリと呟くように言っていた。

「それが誰になにをもらうより、一番好きな時間だったの」

 小さな火の花が咲いては落ちる。

 すすきかスパークに手を伸ばすと彼女はそれを優しく止める。

「……ねえ、線香花火しよう」

「まだ賑やかな花火あるけど、良いのか?」

「うん。線香花火がいい」

 要望のまま線香花火を一本取り出し、火をつける。最初だけ勢いよく火が吹き出すが、それはすぐに収まり、ジジジと音を立てて小さな丸になった。

「雲透、なんで昨日来てくれたの?」

「……それは」

 一区切りをつけるためだと、彼女が死んだ事を受け入れる為だと言ったら引かれてしまうだろうか、怒られてしまうだろうか。一瞬、誤魔化してしまおうかと考えるが、それはあまりに不誠実な気がして覚悟を決める。

「死んで、今年で十年経つから、そろそろ凪が死んだって受け入れないといけないと思ったんだ」

「……そうなんだ。雲透も、一歩踏み出そうとしてくれたんだね」

 ポタリ、橙色の火が落ちる。

 彼女はヘタクソだなあ、と小さく笑って次を急かす。

 次も同じ動きをして火が灯る。代わり映えしないほどに。

「ずっと受け入れ難くてさ。……ずっとどこかで、墓前や家の跡地に行かなければ凪が生きているような気がしてた。通夜に参列したのにな」

「雲透は、泣いてくれた?」

「泣いた。ずっとしばらく泣いてたよ。見られたら引かれちゃうくらいには」

 ひとつ、ふたつ。隠していた心の音を響かせる。

「私も泣いちゃったし、後悔したの。死ぬ間際にね」

「そうだよな。急な事だったから、そうだよな」

「もっと大好きな人たちに大好きって言いたかったし、大好きな人たちの笑顔を見たかったし、未来を歩みたかった」

 二本目の線香花火が砂浜へ吸い込まれる。

「線香花火あと何本?」

「あと……二本かな。で、これであと一本」

 色んな花火があるけれど俺は線香花火が一番好きだ。一番幻想的で儚くて、でも力強さを感じるから。

「高校が雲透と一緒だったの、飛んで跳ねちゃうくらい嬉しかったんだよ」

「そう、なのか」

「うん。ねえ、雲透知ってる? 新月って願い事が叶うって言われてること」

「いや初めて聞いた。そうなんだ」

 線香花火は震えながらも落ちまいと必死に見えた。

「私の残した未練が、叶えたいものが叶えられるなんて思わなかったよ。見つけてくれてありがとう、雲透。雲透じゃなきゃきっとこうはならなかった」

「……凪?」

 彼女の表情を見ようにも火花が落ちてしまい、見えなくなった。慌てて最後の線香花火に火をつけ、彼女を見ると目尻を下げ、優しく顔をしていた。

「花火も海も、かき氷も、ぜんぶそう。ぜんぶ……好きな人としたかったことだから。だから雲透じゃないとダメだったの」

「……え」

 本当に鈍感なんだね、と彼女は困ったように笑う。

「雲透が私を好きでいてくれたように、私も雲透が好きだったの。知らなかったのは雲透だけよ。他のみんなは気付いてた」

「えっ!」

 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。

 まさかの言葉に動揺し、目を大きく開くと彼女はふふっと笑った。

「十年経った感覚は私にはもう無いけど、雲透にとっては長い年月だったよね。……ありがとう、好きになってくれて。私とこうして話してくれて」

「なんで、急に……」

「言わないといけないって思ったの。私の為に、雲透の為に」

 大人びた彼女の声が夜の静かな海に溶け込む。寄せ返す波の音だけが、ここが現実である事を思い出させる。

「私はもう雲透と一緒に隣を歩くことはできないけど、思い出の中でだったら生きていられる。だから雲透、もう、私を思い出にしていいんだよ」

 そう言って微笑む彼女はどんな美術品より美しく、目を奪われた。

 情けないことに死んだ彼女に背中を押されてしまった。

「……凪は、寂しく無いのか」

「寂しく無い! って言ったら嘘になるけど、でも今日こうやって雲透とやりたかったことを叶えられたの。それだけで私には十分。好きな人に見つけてもらえて、願いまで叶えてもらえて、ねえ、私ったらどんなお姫様より贅沢ね」

 分かってた。

 彼女はきっと今日、成仏することも。

 分かってた。

 彼女を思い出にする事を恐れているのは他の誰でも無い自分だという事を。

 分かってた。

 彼女は俺なんかよりずっと強いことを。

「凪」

「うん」

 震える事を隠すように腹に力を入れる。

 今日一日、ずっと言えなかった言葉だ。

 彼女の顔を見ると、ほんの少し瞳が潤んでいた。

「凪、誕生日おめでとう。凪と出会えてよかった。こうしてまた過ごせるなんて夢みたいだったよ」

「……っ、嬉しい。ありがとう。私も、夢みたいだっだ。死んでるのに夢みたいだなんておかしいけれど、それでも夢のような一日だったよ」

 白い頬に雫が転がった。

「私の未練に気付いてくれたのが雲透で良かった。好きになれて幸せだった。だから、どうか」

 彼女は一度言葉を置き、とびきりの笑顔を俺に向けた。

「どうか、雲透は雲透の幸せを謳歌してね」


 ポトリ、最後の線香花火が消えた。


「……凪?」

 重なっていた手の気配が消えた。

 ライターで火を灯し、周りを見渡す。

 揺れるポニーテールも、踊るように揺れたスカートも、心地よい声も、消えてしまった。

「……」

 新月は願いを叶えてくれると言うなら、きっと彼女は願い通り行くべき場所に行ったのだろう。なんて急な成仏なんだ、と立ち尽くす。

 漫画のようにゆっくり消えるとか、徐々に薄くなるとかではなく、瞬きのように消えてしまった。

 彼女の笑顔が胸を締め付けるほど綺麗で、ああほら、まだまだ君を忘れられそうに無い。


 遠くで、踏切の音が聞こえた。




四.



 連休が明け、いつも通り会社に出勤し、いつも通り客先で出向き、いつも通り先輩と会話をして残業し、帰宅をする。一日の流れも、見る光景も、呆れてしまうほどに代わり映えしない日々がそこにはあった。

 だがそれは当たり前なのだろう。どんな人が死んでも生まれても世界は止まることはないし、自分が立ち尽くしていても時間は待つ事なく回り続ける。この世界で生きていると言うのはそう言う事なのだ。

 ただひとつあげるなら、梅雨明けという変化が起きたくらいか。連休最終日には梅雨明けが発表され、今年は長梅雨でしたね、とコメンテーターが話していた。

「雲透は夏季休暇、なにして過ごすんだ?」

 会社の先輩が駅までの帰り道に問いかけを投げる。

「俺はな〜、バーベキューとかいいな。家族でやりたいんだよなあ。梅雨も明けたし」

「いいですね。……俺は」

 実を言うと、まだなにも決めていない。

「でもちょっと、今年は友人たちと花火でもしようかと思ってるんです」

 きっと俺はしばらく彼女を忘れられそうにはない。そもそも十年ずっと振り切れなかった思いだ。……けれど、それはそれでいいのではないかと、今は思う。無理に忘れてしまうより、彼女の輪郭をなぞりながらゆっくりと彼女のいない日々を歩いていけばいい。思い出の中なら彼女は生きていけるのだから。塞ぎ込んで彼女との思い出を一人思い返すより、彼女が好きだった人たちで集まり、馬鹿騒ぎをした方が健康的な気がして。

 そこでもし彼女を好きだったのか問われたら自信を持ってイエスと答えてやろう。

「おぉ、珍しいな。打ち上げ花火とまた違う楽しさがあるよなあ」

「はい」

 今度の休みにでも各位へ連絡をとってみようか。

 なにも変わらない日々。誕生日を迎えれば歳を重ね、いつかは死んでいく。好きな人を忘れられずに俺は今日も生きていく。

 けれど、それでいい。

 忘れることが正しいなんて、忘れないことが正しいなんてことはない。なにが正しいかは他人ではなく当人が決める事だ。

 ──俺は彼女をセピア色にしないと決めた。彼女との思い出を胸にこれからを生きていく。囚われるのではなく、共に歩いて行こう。

 雲透は雲透の幸せを謳歌してね。彼女の最後の言葉は嘘偽りも、強がりでもなく、その願いは俺の中にいつまでも淡く反復する。


 

 ああ、夏が来る。

 痛いほどに、眩しい夏が。

 

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紫陽花に線香花火を重ねて 宮森 篠 @miyamori_shino

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