夜の神楽坂、白猫品店にて

ksk

大学二年の夏、神楽坂「白猫品店」にて

 13時の集合時間にかなり遅れて到着すると、大学のフィールドワークのメンバーたちは所在なさげに俯いて携帯の画面を見ていた。集合時間の十分前につくはずが一時間の寝坊で結構な遅刻となってしまった。平謝りすると他のメンバーたちは笑って許してくれた。


 神楽坂に来るのは久しぶりだった。最後に来たのは一年くらい前だっただろうか。駅のすぐ隣の居酒屋で飲んだだけ、だったから特に街の印象というものはなかった。


 まずグループのメンバーで赤城神社に参拝し、そのまま神楽坂通りを早稲田方面から飯田橋方面まで歩いて行き、文豪の旧跡に寄ったり入り組んだ裏路地を探検したりとなかなか楽しい町歩きだった。しかし、レポートに書けそうな材料は見つからなかった。


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 グループのメンバーと別れてから、かくれんぼ通りの奥にある「白猫品店」というお店に寄った。グループで路地裏を歩いているとき目に入って、なんとなく気になっていた。


 店の外面は全てツタで覆われており、全く壁が見えない。ツタが大暴れしていて巨大な森の妖精のような建物だった。立て看板さえもツタで埋もれているくらいで、白猫品店という店名なのになぜか店先に黒い猫の剥製らしきものが置いてあった。数分間店の周りをうろうろし、意を決して錆びたブリキのドアノブを回した。


 中に入り「すいません」となけなしの声を出すと、奥のいすに腰掛けていた女性がこちらを向いた。世の中の店員が持つ空気感は全く無く、「白猫品店」と書かれたエプロンを着ていなかったら店員だとわからなかったと思う。そしてこれが精一杯の私の愛想ですといった体で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。店主さんの頬には薄

い一筋の切り傷が伸びていて、おそらく一生とれることの無い類いの傷であろう。痛々しくもあり、白い絹のような肌を美しく際立たせてもいた。


 六畳ほどの狭い店内には猫のぬいぐるみ、猫柄のマグカップ、招き猫など猫の小物が所狭しと並んでおり、気をつけないと雪崩が起きそうなありさまだった。それらはどうやら売り物らしかった。窓はなく、薄暗かった。


 中央には小さな丸い机が三つ置いてあり、上に手書きのメニューが乗っていた。どうやら猫の雑貨店カフェといった体をなしているようだった。きれいな字で「おすすめ!名物!」と押されていた”おはぎ”とブレンドコーヒーを注文した。


 無数の猫グッズから囲まれながらおはぎと供にいただくコーヒーというのは非常に妙なものだったが、なぜか落ち着いた。むしろ狭い室内で私がコーヒーを飲んでいる二メートル先で女性がこちらに背を向けて本を読んでいるという状況がなかなか落ち着かないものだった。


 帰り際、一際目についた手のひらサイズの青い招き猫を購入した。


 「これください」と言うと店主さんは驚いた顔をした。しばらくこちらを見て、困ったように微笑んでいた。なんというかこちらが悪いことをしているような気分になってしまった。


 風鈴が鳴った。やがて彼女は口を開いた。とてもこわばっていて、緊張した口調だった。


「購入されるのはあの青い招き猫ですか?」


「はい、目についたもので」


「目についただけですか?」

店主さんはなぜか悲しげな表情をした。


「いや、かわいい猫だなと思いまして」


「良かったです」

店主さんのこわばった口調がゆるんだ。


「はあ」


「6年かかりました」

彼女はゆっくりと言った。             


「この猫ちゃんがこの店にやってきてから売れるまで6年もかかったのです。妙ですね。他の子は売れてゆくのにこの子だけ売れなくてかわいそうに思っていたのです。でもいざ手放すとなると寂しいものですね」


 その細くて白い手で招き猫を撫でた。                


「大事にしてくださいね。そしてこの子を持ってたまに遊びにきてください。一杯のコーヒーをサービスするので」


「はい」


 彼女から紙袋を受け取って丁寧に手提げのバックにしまった。受け取るとき彼女の手が触れた。ひんやりとしていてなめらかな石畳のようだった。


「猫、好きなんですね?」


 猫の雑貨店の店主に対してなんでこんな言葉が出てきたのかわからなくなった。口に出した瞬間私は恥ずかしくなってしまった。


「はい、ずっと好きですね」 


 彼女のずっとこわばっていた顔が初めてほどけた。さっぱりとした優しい目をしていた。綺麗な人だと思った。

 


@@@


 それからたびたび、青い招き猫を携えて白猫品店に通うようになった。週末はわりとお客さんで混んでいたから平日に行き、コーヒーをサービスしてもらい夕食代わりにおはぎを食べるのが日課となった。小食であったからおはぎ一つ食べればもう十分だった。


 店主さんからときおり「学校の勉強は大変ですか」「毎食ちゃんと食べていますか」と話しかけられて「はい大変です。第二外国語が肌にあいません」「朝食以外はちゃんと食べています」といったかしこまった会話をするのが私の楽しみだった。大学で気の合う人は結局できなかったから貴重な人とのつながりの一つだった。


 それから半年ほど私は白猫品店に通い続けた。その間、特に生活の変化はなく、何をしていたのか思い出せない。青い招き猫は本棚の上でほこりを被っていることが多かったが白猫品店に行くたびに雑巾で拭いてやった。それは店に持って行くたびに開口一番、店主さんが「大事にしていますか」と聞いて青い招き猫をなでるからだ。


 一回うっかり落としてしまい招き猫の額に傷を付けてしまったときがあった。ごまかしがきかなそうな傷だったので私は血の気が引いて青くなった。その後、白猫品店に行き「青猫君が近所の猫とけんかしてしまいまして」と冗談を言ってその傷を見せると、とてつもなく悲しそうな表情をされた。冗談ではないといった感じだった。以後、私は青い招き猫を丁寧に扱わざるを得なかった。


 店主さんのその招き猫への思い入れは過剰なように思われた。 


 ある日、学校帰りに白猫品店に寄った。いつものように小さな声で「いらっしゃいませ」と店主さんは迎えてくれた。今日も他に客はいなかった。私が席に座ると猫の山をすり抜けるようにこちらにやってきて、コーヒーを出してくれた。


 「すいません」と店主さんが言うと、しばらくこちらを見つめていた。私はどぎまぎした。店主さんは今から言う言葉を何度も心の中で転がしているようだった。


 コーヒーの湯気が消えた頃、店主さんは口を開いた。


「簡単なアルバイトがあるのです、もし良かったらやってみませんか?」


「どんなアルバイトですか?」

先日、パソコンが壊れてしまいちょうど金欠だったから、ありがたい話に思えた。


「夜の庚嶺坂を見てきて欲しいのです」

庚嶺坂、聞いたことの無い坂だった。


「どうしてですか?」


「猫のお面の夢をよく見るのです」


そのあと店主さんは話し始めた。


@@@


私がまだ八つくらいのことです。その頃はこの白猫品店がある場所で父親が料亭を営んでいました。板前としての父の腕は良く、なかなかの評判で繁盛していました。そして、私たちは若宮八幡宮の近くに住んでいました。母は私が生まれたすぐあとに他界しており、父子二人暮らしで、とても静かな家だったことを覚えています。


父親は殆ど私の相手をしませんでした。別に私のことを嫌っていたのではなく、小さな子供とどのように接したら良いのかわからなかったのでしょう。料亭の弟子の青年をよくかわいがっていましたから。父は私を前にすると気まずそうに黙り込んで新聞を読み始めたり煙草を吸ったりするのです。


しかし、お祭りになると私の相手を殆どしなかった父親も、私の手を引いてにぎやかな神楽坂通りの方に連れて行ってくれました。あの父親が唯一自分の相手をしてくれたお祭りの日は幼い私にとって特別だったのです。さらに良いも悪いも全てごちゃ混ぜになった神楽通りを無数の赤い提灯が照らしている妖艶な光景は子供ながらに大好きでした。 


普段はなにか私が物をねだると怖い顔をしてくる父親がお祭りの日だけはなんでも買ってくれました。人形焼きやリンゴ飴、射的は私が気の済むまでつきあってくれましたし、鬼灯の苗だってねだれば買ってくれました。今思えば不器用な父親なりのせめてもの愛情表現だったのかもしれません。私は水泡に群がって口をぱくぱくさせる魚のように必死に物をねだり続けました。


その年の神楽坂祭りは異様に暑かったことをおぼえています。赤城神社のそばにあったお面屋にあった猫の面をなんとなく気に入りました。毛が筆で一本一本書き込まれており妙に写実的な猫のお面でした。本当になんとなくで、とても欲しかったわけではなかったのです。


「あれ欲しい」とねだると父親はなにもいわず店番に小銭を渡し、猫の面を私にかけてくれました。とにかく愛情に飢えていた私にとってたくさんの物をねだるということが大事だったのです。それからそのお年の祭りでも私の両手からあふれるくらいのおもちゃを買ってもらいました。


家に帰る途中父親がききました。


「楽しかったか?」


「うん」と私は答えました。とても幸せな気持ちだったのです。


しかし、幸せはつかの間でした。家に帰るとあの猫の面を無くしてしまったことに気がつきました。おそらくどこかで落としてしまったのでしょう。父親には言えませんでした。その事実に気づいた瞬間、私はとても悲しくなりました。父親の愛情を無下にしてしまったのでないかという罪の意識から苦しめられました。今思えばそんなこと仕方ないことなのですが当時の私からしてみれば大ごとでした。


その日から奇妙な夢を見るようになったのです。真夜中、私は庚嶺坂の途中に立っています。庚嶺坂は近所にあった人通りの少ない日の当たらない不気味な坂です。別名幽霊坂ともいって近所の子供たちはあまり近づきたがらなかったことを覚えています。夢の中、庚嶺坂の途中からあたりを見ると、猫のお面が落ちていることに気づきます。妙に写実的なあの猫のお面です。道の真ん中にぽつんと、置いてあるのです。そのお面が奇妙なのです。私の方をじっと見つめているのです。見つめているように見えるのではなくて実際に、お面の中にに目玉があってこちらを見ているのです。裏はコンクリートのはずなのにお面の中から血走った人の目のようなものががこちらを覗いているのです。


不思議と恐怖は感じません。ただただその様子かわいそうに見えるのです。夢の中、いつもきまって私はそのお面に吸い寄せられていきます。近づくほどにお面からのぞく血走った目は優しい目に変わってゆきます。誰か知っている人の目のような気がするのですが、その正体はわかりません。勇気をだし手にとって、そのお面を付けてみます。するといつもそこで夢から覚めるのです。


ただそれだけの夢なのです。しかし、何度も見るものですから気味が悪くなります。やけに現実感がある夢なのです。月の光やそよ風、土の匂いなど全てがリアルなのです。夢と現実の区別がつかず、面を被った瞬間まで夢であることに気づくことができないのです。特に、お面からのぞく血走ったあの目のことは忘れられません。


それ以来、私は庚嶺坂には行けなくなりました。近くまで行くと、とても怖くなるのです。あのお面がそこに落ちていて、もし、面を被ったら、私はどこに目覚めるのでしょう?そう考えるととても怖くなります。あの坂が少しでも視界に入ると震えが止まらなくなり一歩も歩けなくなります。


その夢のことを忘れそうになったら必ずこの夢が追いかけてくるのです。奇妙なことに父親はその年の冬に癌で死にました。とても悲しかったのですが涙は出ませんでした。そのあと父の料亭は地上げ屋にとられ、取り壊されて更地になりました。私は牛込の叔母の家に引き取られました。もう父との生活の痕跡はどこにも残っていません。せめてもの思いで土地を買い戻しこの店を始めました。


私は思うのです。私の父との思い出の残滓が夢の中の庚嶺坂に縛り付けられているのではないかと。


@@@


「奇妙な話ですね」

と私は言った。どこかで聞いたことのあるような話に思えた。ただ話している店主さんの顔色がどんどん悪くなってゆくものだからただ事ではないと感じた。


「はい」


「なぜこのタイミングで私に庚嶺坂を見に行くように頼んだのですか」


「それは来月この店をたたみ、この街を出ていくからです。」

私はまだ夜の神楽坂を知らない。

 

@@@


 夜の神楽坂は思ったより静かだった。


 10時まで白猫品店で待機して今、出てきた。神楽坂は昔は花街として栄えていたらしいという話は聞いたことはあるが、嘘のような静けさだった。人っ子一人歩いていないのだ。満月の夜、聞こえるのは風に揺れるケヤキの葉ずれの音だけだ。等間隔に置かれた街灯を通り過ぎる度、月光が薄くなっていくような気がした。通り沿いのお店はなぜが全て閉まっていた。


 神楽坂通りを飯田橋のほうへ歩き、見番横丁に入っていった。そのまま奥に進んでゆくと「庚嶺坂」と書かれているであろう案内門柱が見えてきた。幽霊など信じないし、心霊体験などしたことのない私でもこのときは足が震えた。


「もし坂に猫のお面が落ちていたら私はどうすればよいのか」


 おそるおそる近づき、庚嶺坂を下りてゆくと、ゴミと花の匂いが混ざった奇妙な匂いがしてきた。季節外れの梅の花が両側に咲き乱れていた。これは不気味だった。


 ゆっくりと庚嶺坂を降りてゆく。自分の足音が両側の壁に響く。風が吹いて散った梅の花が頬かすめた。足音が反射して私の足音が自分の足音でないみたいに聞こえてくる。月に黒い雲が被さり、坂下までのびる一筋の月明かりは翳ってゆく。


 坂の麓についてもなにも起こらなかった。あたりまえだが、猫のお面は落ちていなかった。目の前を流れる神田川の向かいの奥には、法政大学のキャンパスがそびえ立っていた。


@@@


 帰り、見番横丁に入ると賑やかな三味線の稽古の音が聞こえてきた。行きはなにも聞こえない静かな通りであったから、妙だった。朝日坂を上ると鈍い明かりを放った古い木造二階建ての建物が見えた。そこからたちの悪そうな酔っ払いの賑やかな声が地鳴りのように響いてきた。その酒場の塀越しに、大きな柳の木が一本立っており、そこらに蝙蝠がひらひらと飛んでいた。神楽坂通りに出るとそこら中に赤い提灯がかかっており、ケヤキの木は怪しい赤い光で照らされていた。芸者新道に入ると着物をきた女性がそぞろ歩きしている後ろ姿が見えた。道行く全ての料亭からは賑やかな音が聞こえてきた。


 白猫品店まで戻ると軒先に店主さんが立っていた。いつにもまして顔が白かった。にこにこしながら「お疲れ様」と声をかけてくれた。


「庚嶺坂にはなにもありませんでした。ただただ不気味でした」


 店主さんはニコニコして私の手元に目線を向けた。

「そういえば、あなた、手提げバッグはどこに置きましたか?」


 確かに行きは手提げを持っていたはずだが、あるべき場所になく、私は空を掴んでいた。どこに置いてきたのだろうか?今日は確かに手提げを持ってきていた。


「あの中には確か、青い招き猫が入っていましたよね」


店主さんはかわいらしく笑った。私は背筋が凍った。意を決して、きいた。


「夢の中の猫のお面を付けるとき、裏には何が見えましたか」


「あなたの後ろ姿です」

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