第25話 わたしは
お母さんと一緒に寝るのは久しぶりだった。
まぁ、十歳にもなれば大体自分の部屋を持ってるだろうし、一人で寝るのは当たり前だと思う。
触り心地のいいシーツは今日も真っ白で、お母さんがさっきちょっとぐしゃぐしゃにしてしてしまった以外はベッドを綺麗に包んでいる。布団がちょっと厚いものに変わっていて、これもお父さんがやったのかなってちょっと疑問。お父さんは何から何までやってくれているけど、それをしているところはあまり見たことがないのだった。
実は知らないお手伝いさんとかがいるのかもしれない。
そんな風に、布団をお腹くらいまでかけてあくび交じりで考えを回しているときに、お母さんは切り出した。
「アリス」
いつも通り高いけれど、ちゃんと真面目な声。けれど上半身は起こしたままで、その目はまたわたしを見ていなかった。
「おかあさ……」
わたしは咄嗟に咎めようとするけど、それより先にお母さんが続ける。
「あれが誰の作品なのか、知ってる?」
その視線の先には、あの絵があった。
お母さんの部屋に一枚だけ飾られている絵。画用紙に、青一色の絵の具で書かれた風景画。
毎日のように目にしていて、いつもわたしとお母さんに熱をくれる不思議な絵だけど、お母さんが聞くように、わたしはあの絵のタイトルも作者も、よく知らない。
「あれね、お父さんが描いた絵なの」
「お父さんって、お父さん?」
「そう。知らなかったでしょ。龍ちゃん、いっつも裏方ばっかりで自分で絵描けるとか全然言わないものね」
お母さんはわたしの驚きを予想していて、目を合わせてにやりと笑う。
知らなかった。
お父さんが絵に詳しいのはなんとなく知っていたけど、というかお母さんと一緒にいて個展を開いたり画商さんと交渉したりしているんだから、それは考えてみれば当たり前なのだけど。それでも絵が描けるって話は聞いたことがなかった。お父さんからは勿論、お母さんからも。
「それで、見ての通りちゃんと描けるんだけど、コンクールに応募したのはあれが最後なんだって」
「なんで?」
あれだけ描けるのに。
それは正直な感想だ。身内びいきとかではない。そもそもわたしはアレをお父さんの絵だと知る前からいい絵だと思っていたし、それに、熱を貰っていたのだ。あれだけ人の心を焚きつける絵を掛けるのに、というのはかなり当たり前の疑問だと思う。
「んー、それは知らないんだけども」
多分、誤魔化してはいない。お母さんも聞いてはいないんだろう。
お母さんは、また絵に視線を戻して話す。
「それで、ここからちょっと大事な話なんだけど、私も、それと同じコンクールに応募してて、私は大賞を受賞できなかったのよ」
……それは、
「わかる? 私ね、お父さんにだけ、負けたことあるのよ。だから、誰も追いかけたことないってのは、実は嘘。ほんのちょっとだけね」
お母さんはバツが悪そうに人差し指で頬を掻いた。
それは、お風呂で嘘を吐かないというルールに違反した、というちょっとの悔恨。でもその事実は、お母さんでも負けることがあるのかっていう驚きにかき消されてしまった。
「言ったことなかったかしら? 私だって全部取って来たわけじゃないんだって」
呆れるように笑いながら、
「まぁ、学生時代はそれ以外落としたことないんだけど」
さらっとすごいことを言ってのけるお母さんだった。
あ、でも、ちょっと、この二人が夫婦になった理由みたいなのが判ったかもしれない。理由と言うか、なれそめと言うか、そんなものに触れた気がした。
「でね、」
お母さんは続ける。
「私は、世界に好かれる才能を持ってる。私が描く絵は、世界の皆に好きになって貰えて、それはきっとすごいことで、色んな人にも評価されてきた」
それは、天才画家・夏目こころの独白で、客観的にもそれは事実だ。
好きになってもらえる。
自分がどんな絵を描くかではなく、自分が好きに書いた絵がたまたま多くの人に好かれてしまう。周りからの評価を得られるかっていうのはある種「運」であり、それこそ「才能」だ。
お母さんは、自分の才能をそう捉えている。
「多分、アリスも。それを半分くらい持ってる」
半分くらい、と言われて妙に納得してしまう。少なくともわたしがお母さんと同じものを丸々持っていないというのは痛感したばかりだ。
そしてやっぱり、自分にも「無く」はないのだと認められて、嬉しくはある。
「お父さんもね、絵の才能はあるんだよ」
そりゃあ、あれだけ描けるならそうでしょ、と言おうとして、
「でもそれは、私みたいに『世界に好かれる才能』じゃなかった」
続いた言葉に、声を引き取った。
「比較したときに、お父さんより上手い絵を描く人はたくさんいた。お父さんより、世界に好かれる絵を描ける人はたくさんいた。私だってその一人」
お母さんはそこで一度言葉を切った。
長く、息を吐く。
お母さんの言葉の間は長くて、そこに色んなものがあるんだと想像してしまう。
でも、次に飛び出してきた言葉は、
「でもね、『夏目こころが好きになる絵』を描く才能は、小泉龍之介しか持ってなかったの」
とても軽く、明るいものだった。
えっと、
「小泉って言うんだよ、お父さんの苗字」
いやまぁ、それも初めて聞いたけど。
「どういうこと?」
「びっくりしたのよね。今まで絵を描いてきて、自分の絵以外を良いなって思ったことなんて一度もなかったもの」
それもすごいこと言ってる気がする。
えっと、何? お父さんは、すごい絵が描けるんじゃなくて、お母さんに好かれる絵が描ける、ってそういうこと。
なんかすごい、ピンポイントな才能だけど。
「そして多分、アリスは、それも半分くらい持ってる」
そう言ってお母さんはわたしの頭を撫でる。髪をすく様にほんの少し指を立てて、滑らせるその撫で方は、わたしがもっと小さい頃、それこそお母さんがまだわたしを抱えられていた頃からずっとされていた撫で方だ。
「私ね、アリスが最初に描いた絵を見た時、お父さんの絵を初めてみた時と同じようにすっごく感動したの。そんなに上手いってわけじゃないのに、アリスの絵を見て、なんかすごく嬉しくなってぼろぼろ泣いちゃってさ。あ、でも覚えてないわよね。二歳……くらいかな」
勢い良く話し始めたお母さんに口を挟むことはできなかった。目の奥が熱くなっていた気もするけど、それはあまり関係がない。
覚えてる。
覚えてるよ。
わたしは、今でも。
「もちろん、お父さんの時と感動の大きさは違ったよ? でもそれまで、ほんとに好きだなって絵はお父さんのしかなかったのよ。だからその時、間違いないって思ったの。ああ、やっぱりこの子、小泉龍之介の子供なんだって」
お母さんの話はぼんやりしていて、いまいちよくわからないことばっかり言っているように聞こえる。
お父さんは、お母さんに好かれる絵を描ける人で。
お母さんは、わたしの絵を好きだと言ってくれて。
そしてわたしは、お父さんの絵を好きになってる。
それは、ちゃんと、
「そういうの、ちゃんとあるんだなーって思ったよね」
そんな風に喋るお母さんは、とても嬉しそうで。
その笑顔を見ていると、わたしの心は動くのだった。
「お母さん」
「ん?」
「わたしさ、お母さんをモデルに、描きたいんだけど」
そうして、
わたしは明日も、絵を描く。
完
わたしは今日も絵を描く 白瀬直 @etna0624
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