番外編

永遠を閉じ込めに

 彼女は俺のたった一つの救いで、生きていくための綱だった。だから微塵も迷うことなどなかった。一緒に死のうかと、そう言ったときに彼女がどうしようもなく穏やかな顔で笑ったから。それ以外にはもうなにも、考える必要などなかった。

 彼女のいない世界なんて何の価値もない。ただの一つも。



 時間をかけて集めていった大量の睡眠薬。テーブルの上に無造作に広げられたそれを見て、彼女が笑う。とても、嬉しそうに。その笑顔は途方もなく美しくて、何度目か俺はまた心を奪われる。そして再度実感した。これは紛れもなく、彼女の救いなのだということを。

 彼女が初めて向けてくれた笑顔を、俺は今でも鮮明に覚えている。忘れるはずがない。あんなにもきれいで、まっすぐな笑顔を見たのは初めてだった。何の裏もない、ひたすらに暖かいだけの優しさも。世界はこんなにきれいだったのだと、そのとき初めて、知った気がしたのだ。

「宮下くん」

 うん、と聞き返しながら顔を上げる。だけど彼女と目は合わなかった。彼女の目は、もうとっくに見慣れているであろう薄暗い部屋を、ぼんやり眺めていた。

 このままこの部屋に閉じ込められてしまいたいと、もう何度願っただろう。世界から切り離して、彼女と二人、永遠に。途方もない願いだと思っていた。ああ、だけど。



 彼女が嬉しそうに笑うのなら、それだけでいいと思った。なにが正しいだとか正しくないだとか、そんなことはもうどうでもよくて、ただ彼女が今この瞬間だけでも救われるのなら。

 ふわふわと部屋を彷徨っていた彼女の視線がふいにこちらへ流れてきて、俺の顔に留まる。そのまま彼女はじっと俺を見つめた。どのくらい時間が経ったのかはよくわからなかった。やがておもむろに、ふわりと表情を崩す。急に何年分か時間が巻き戻ってしまったかのようだった。どうしようもなく無邪気な笑顔で笑った彼女は、本当に一瞬、小さな子どもみたいに見えた。

 幼いその笑みは崩すことなく、彼女がこちらへ手を伸ばす。そして呼んだ。

「――かずくん」

 彼女の手を掴もうと持ち上げかけた腕が止まる。俺は彼女の目を見つめ返した。

 かずくん。柔らかな声で、彼女がもう一度呼んだ。

 彼女の背後、写真立てに飾られた写真が並んでいる。どれも彼女一人ではなくて、隣で一緒に笑っているのは同い年くらいの男の子。写真の中の彼女は、皆本当に楽しそうだった。目一杯白い歯をこぼし、無邪気に、幼く笑っていた。今の彼女のように。


 目を伏せる。赤嶺、と呼びかけようとした声は喉で溶けた。

 ねえ赤嶺。あいつは多分、赤嶺のことなんて何とも思っていないよ。

 何度も口にしかけた言葉はまた呑み込んで、代わりに、差し出された彼女の手をそっと握る。途端、彼女はよりいっそう嬉しそうに目を細めた。俺を映していないその瞳をまっすぐに見つめ、俺も優しく笑みを返す。彼女が苦しんでいることなんてなにも知らない、知ろうともしない彼を、それでも心の底から求める彼女の手は、ぎゅっと俺の手を強く握りしめる。

 一緒に死のうかと言ったとき、彼女は本当に嬉しそうだった。

 だからこれでいいのだと、俺は何度も何度も言い聞かせた。これで彼女は救われる。そのための行為なのだと。

「ね、かずくん」

 小さく首を傾げて、彼女が笑う。初めて見る笑顔だった。あいつの前ではこんなふうに笑っていたのかと頭の隅で考えながら、俺は彼女の柔らかな手のひらを握り返す。

 俺が一緒に死のうかと言ったときの彼女も、だんだんと量を増やしていく睡眠薬を確認する彼女も、とても、とても嬉しそうだった。だから信じていた。これが彼女の縋ることができる唯一の救いなのだと。これ以外に方法などないのだと。そう、信じていたかった。

 たとえば今みたいに、名前を呼んで手を握るだけで、こんなにも幸せそうに笑う彼女がいるなんて、見て見ぬ振りをしてでも。

 なに、と静かに聞き返せば、彼女は軽く目を伏せ、柔らかく笑った。あのね、とはにかむような、とても幸せそうな調子の声が続く。

「すき、かずくん」

 本当は、知っていた。

 彼女には俺しかいないわけではなくて、彼女を救う方法はきっと他にもあって。そうたとえば、今、彼女が俺を通り越した向こうに見ている、それほど彼女が強く求めている彼ならば。

 ――彼ならば。


 俺は笑って、空いているほうの手を伸ばした。

「里穂」

 あいつが呼ぶ、彼女の名前。ずっと呼んでみたいと思っていたその名前を噛みしめるように舌の上で転がしながら、俺はそっと彼女の背中に腕を回す。そうして優しく抱き寄せれば、ふふ、と耳元で彼女の笑う声がした。

 静かな部屋には、二人の声と息づかいだけが響いている。他には何もない。“かずくん”も“まゆ”もいない、ここは紛れもなく、俺と彼女の二人だけの空間だった。

「……俺も」

 もう遅いのだと、写真の中で明るく笑う彼へ声を投げる。

 彼女を救いたいだなんて建前だったのかもしれない。本当はただ、俺は二人だけのこの空間を永遠に閉じ込めてしまいたいだけなのかもしれない。だけどもう、それでいいと思った。今、彼女はたしかに笑っている。俺の傍で、幸せそうに。

「好きだよ、里穂」

 遅かったのだ。おまえは、何もかも。

 心の中で呟いて、両腕に力を込める。きっと今もどこかで呑気に笑っている、なにも知らず、なにもできなかったあいつに向けて。


 もう渡さない。おまえに向けられるはずだったこの心底幸せそうな笑顔ごと閉じ込めて、彼女は俺が連れていく。

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イノセントワールドは有罪である 此見えこ @ekoko

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