最終話

 里穂ちゃんがいなかったら、私はたぶん死んでいた。

 内容とは反した穏やかな声で、水原はそう言った。


 小さな児童公園は今日もひとけがなかった。

 ただ、うっそうと茂る雑木林が風に揺れて音を立てている。空には薄い雲がまばらに浮かんでいるだけで、とても良い天気だった。降り注ぐ夕日に、公園の遊具はどれも黄金色に輝いている。


「中学二年生のときに。里穂ちゃんが、助けてくれなかったら」

 俺は相槌を打ってから、隣に座る水原のほうを見た。

 彼女は声と同じ穏やかな表情で、俺たちの他に誰もいない公園を眺めている。「だから、私」その表情も口調もまったく崩すことなく、続けた。

「もし里穂ちゃんが苦しむようなことがあったら、今度は私が助けてあげようって、何が何でも助けてあげようって、そのときからずっと、思ってたんだ」

 でも、と水原は目を伏せる。

「里穂ちゃんが一番苦しいとき、私は何にもできなかったから」

 彼女はそこで言葉を切ると、しばらく黙った。膝の上に置かれた自分の手をぼんやりと見下ろす。


 あの日と同じように、この児童公園で下校途中の水原を捕まえ、並んでベンチに腰を下ろしたのは、彼女に言いたいことがあったからだった。

 けれど俺は、その言葉が何なのかうまく見つけられずにいた。代わりに、どうしてあのとき屋上へ来たのか、と、ふと思い出した疑問を投げかければ、水原は穏やかな顔で訥々と、そう話しはじめたのだ。

「それがすごく悔しくて、たまらなくて、だからきっと」

 しばしの沈黙のあと、独り言のように続けた彼女の声は、かすかに揺らいでいた。しかし、横顔は穏やかなままだった。

「あのとき、屋上に行ったんだよ。たぶん志木くんのためじゃなくて、私のために」

 水原は一度息を吐き、視線を上げた。それから少し目を細め

「誰かを助けなくちゃって思ったんだ。ものすごく強く。それが私の義務みたいな気がして、そうしないとたまらなくなって」

 それに、と続けた彼女の視線が、ふいにこちらを向く。

「志木くんは、里穂ちゃんの大好きだった人だから」

 そこまで言うと、水原はふたたび言葉を探すように黙り込んだ。


 夕日が彼女の横顔を赤く照らしている。俺は視線を前方へ戻した。

「ああ、だから」心の中で呟いたはずのその言葉は、口からも漏れていた。

 水原が、え、と聞き返す。俺は目を伏せ、一度ゆっくりと息を吐いた。

「だから泣かないんだな」

 水原が少し首を傾げるのが、視界の端に見えた。

 俺は彼女のほうを向き直ろうとしたが、そのときふいに一人の子どもが駆けてきて、思わず視線がそちらへ動く。

 ボールを手に公園に入ってきたのは、五歳ぐらいの男の子だった。縞模様のトレーナーを着て、頭には明るい色の帽子を被っている。

 彼は俺たちに気づくと一瞬だけ視線をよこしたあとで、すぐに砂場のほうへ駆けていった。

「なあ水原」

 ボールは脇に置き、まずは砂遊びを始めた彼の小さな背中を眺めながら、ぽつりと呟く。隣から、うん、という語尾を上げた調子の相槌が返ってきた。

「里穂は水原のこと、すげえ好きだったよ」

 今度は、え、と小さな声が返ってくる。

 俺は水原のほうを見た。じっと俺の顔を見つめていた彼女に、小さく笑みを向ける。きっと、うまく笑えた。

「俺もさ、里穂からしょっちゅう水原の話聴いてたんだよ。またかよ、ってときどきうんざりするぐらい。俺と一緒にいるのに里穂があんまり楽しそうに水原のことばっか話すから、たまに妬いてたもん、俺。水原に」

 水原はちょっとだけ笑ったが、だからさ、と俺が続けると、また真面目な顔に戻った。

「里穂は水原と一緒にいて、すげえ楽しいって思ってたんだよ、ずっと。だから一緒にいたいと思って一緒にいただけで、その間、里穂だって水原からたくさん笑わせてもらってたんだと思う。それは俺より、水原のほうがよくわかってると思うけど」

 水原はわずかに目を見開き、俺の顔を見つめていた。

「だから」いつか彼女がしてくれたように、俺もまっすぐに彼女の目を見据え、言葉を紡ぐ。

「別に里穂は、水原のために、とか思って水原の傍にいたわけじゃないだろ。傍にいたいって思ったから傍にいたんだよ。だから、水原だけが一方的に、里穂からいろいろ与えてもらっていたわけじゃないよ」

 じっと俺の話を聴いていた水原は、そこで急に、でも、と声を上げた。

「私、いつも言いたいこととかちゃんと言えなくて、嫌なことがあるとすぐに泣いちゃって、そんなときはずっと、私の代わりに里穂ちゃんが怒ってくれたりしてて」

「いいじゃん、別にそれで」

 遮って、さらりと言い切る。それから、少し眉を寄せた水原に

「里穂はそれでも水原が好きで、水原と一緒にいたいって思ってたんだから。そりゃなるべく水原には強くなってほしいって思ってたかもしれないけど、でも別に、つらいときまで泣くの我慢してほしいとか思ってないよ、多分」

 言葉は不思議なほど次々に湧いてきた。「里穂は」目の前で大きな瞳が頼りなく揺れるのを見つめながら、続ける。

「水原にも幸せになってほしいって思ってた。多分それ以外は望んでないよ。だから別に、無理しなくていいんじゃねえの」


 水原は、しばし見開かれた目で俺を見つめた。

 やがて笑顔を作ろうと口角を持ち上げかけるのがわかったが、その動きは途中で引きつったように止まる。代わりに彼女はくしゃりと顔を歪めた。

 あわてたように顔を伏せる。直後、膝に置かれた手の彼女の甲に、滴が落ちて弾けた。震えながら上がった手が、そっと口元を覆う。やがてその下で、静かな嗚咽が漏れた。

 俺はなにも言わず、視線を砂場のほうへ向けた。

 男の子はもう砂遊びをやめていた。今は、持ってきたボールを上に投げたり転がしたりしながら遊んでいる。しかし一人ではいくぶん遊びにくそうで、しばしばボールを取り落としていた。

 俺はそんな彼の様子を眺めながら、なあ水原、と口を開く。

「綺麗な景色を見たり、おいしいものを食べたり、いい曲を聴いたりしたときにさ、里穂の顔が浮かぶんだよ。それでこの景色だとか食べ物だとかを、もう里穂に教えてやることはできないんだなって考えたとき、いつも、すげえ悲しいと思うんだ。最近やっとさ、そう思えるようになったんだよ」

 口元を押さえたまま、水原は無言で何度か頷いていた。


 視線の先で、男の子がボールを上へ投げる。それは彼の少し後方へ落ち、地面を跳ねた。そのままこちらへ転がってきたボールは、ベンチの2メートルほど手前で止まる。

 俺は立ち上がると、その小さなボールを拾った。男の子が急いで駆けてくる。そうして目の前までやって来た彼に、軽く腰を屈めてボールを差し出した。

「はい」

 男の子はちょっと恥ずかしそうに顔を伏せ、しかし礼儀正しく「ありがとうございました」と礼を言ってボールを受け取る。

 俺が首を振ると、彼はふいにベンチのほうへ目をやった。それから、泣いている水原を不思議そうに眺めたあと、俺のほうへ視線を戻す。俺が泣かせたと思ったのだろう。なんだか責めるような目で、彼はじっと俺の顔を見た。

 俺は笑って、「大丈夫だよ」と彼の頭を軽く撫でる。それからふと思い立ち、なあ、と彼の持っているボールを指さした。

「キャッチボールしてやろうか」

 目の前で、ぱっと無邪気な笑顔が弾けた。

 男の子は大きく頷き、勢いよく砂場のほうへ駆けていく。その途中で足を止めこちらを振り向くと、「はやく、こっちっ」と両手でぶんぶんと手招きをした。

 頷いてから、俺は水原のほうを振り向く。

「水原も」

 声を投げると、彼女はきょとんとした目で俺を見た。

 俺は、ボールを手に待ちわびている男の子のほうを指で示す。

「相手すんの一人じゃ大変だろうから」

 手伝って。

 言って、にこりと笑う。一拍置いてから、水原も柔らかな笑顔を浮かべた。

 制服の裾で目元を拭う。それから、うん、と赤い目をしたまま頷いて、彼女はベンチから立ち上がった。




 end.

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