第20話
窓から夕暮れの柔らかな日差しが差し込んでいる。教室の背面に並ぶロッカーも、その光に赤く照らされていた。
俺は中から目的の名前を見つけると、そこを開け中をのぞき込む。しかし、あったのは灰色のスチールに囲まれた四角い空間だけで、取り出せるようなものはなにもなかった。
中に入っていたものは、きっともう家族へ引き渡されたのだろう。それでも、なにか一つくらい残っていないかと未練がましくロッカーの中を探していると
「さっきからなにやってんの、志木」
背中に、長谷部の怪訝そうな声が掛かった。
振り向くと、彼は数枚のプリントの束を手に持ってこちらを見ていた。いつの間にか、俺の他に教室に残っているのは、長谷部と千野の二人だけになっている。
「何でもない」
俺は短く答え、ロッカーを閉める。
自分の席に戻ると、机の上にはいつやったのかも覚えていない英語の小テストが置かれていた。長谷部が、終礼で担任から配るよう頼まれていたのはこれだったらしい。
「こんなテスト、いつやったっけ」
ぼそりと呟くと、退屈そうに長谷部がプリントを配り終わるのを待っている千野が
「たしか冬休み前だよ。ずっと返すの忘れてたんだって。あの先生、なんか抜けてるのよね」
ため息混じりにそう返した。
相槌を打ってから、長谷部のほうへ目をやる。プリントはほぼ配り終えたようだ。彼の手元に残るのはあと二枚だけになっている。
しかし彼は、なにやら迷うように残る二枚を眺めたまま立ち止まっていた。
「なあ長谷部」
呼ぶと、彼は顔は上げずに「んー?」と聞き返してきた。
「その二枚って、里穂と宮下のやつ?」
長谷部は視線を上げ、こちらを見た。それから、「ああ、うん」といくらかためらいがちに頷く。
俺は彼のもとへ歩いていくと、「じゃあさ」と手を差し出し
「それ、俺にちょうだい」
言うと、長谷部はぽかんとして俺の顔を見つめた。
そんな彼の代わりに、千野が横から
「なんでよ。もらってどうするの?」
なんだか不安そうな声で、そう尋ねてきた。
俺は、「埋めるんだよ」と短く答えを返す。二人はそろって眉を寄せた。
「埋める?」長谷部が心底戸惑った様子で聞き返す。俺は頷いて、長谷部の手からプリントを受け取った。
それからふと窓の外へ視線を移し
「なあ、このへんでさ、どっか綺麗な場所ないかな」
「綺麗な場所?」
「埋めるなら、やっぱ綺麗なところのほうがいいし」
二人はしばし困惑したように俺の顔を見ていたが、結局、二人ともなにも聞かなかった。
少しの沈黙のあと、「それならさ」と、千野が明るい口調で口を開く。
「あたし、いい場所知ってるよ。ちょっと遠くてもいいなら」
いいよ、と俺はすぐに頷く。
千野は「じゃあ行こう」とにっこり笑い、机に置いていた鞄を手に取った。
千野に連れられやって来たのは、田んぼに囲まれた中にぽつんとある小さな丘だった。地面を柔らかく覆うように雑草が茂り、その中にはぽつぽつと小さな花も咲いている。
「何だ、これ」
長谷部が不思議そうに丘を見上げ呟く。
千野は、周りを囲んでいる低い柵を当たり前のように踏み越えながら、「たぶん、古墳じゃないかな」と答えた。
千野の口にしたその単語に、思わず、え、と声が漏れる。長谷部も俺も、彼女に倣って柵を踏み越えようとしていた足を止めてしまったが
「大丈夫だよ。あたし、小さい頃よくここで遊んでたもん」
千野はあっけらかんと笑い、かまわず丘へ登っていった。
少し迷ったあとで、結局俺たちも千野に続いて丘を登る。その途中、千野はふいに足を止めた。それから、ちょうど夕日の光をまっすぐに浴びている場所の地面を指さすと
「昔飼ってたハムスターが死んじゃったときにね、ここに埋めたんだ」
穏やかな口調でそう言って、目を細めた。千野は思いにふけるようにしばらくその場所を見つめていたが、やがて明るい表情でこちらを振り向くと
「さ、志木くん、どうする? それ、どこに埋めようか」
俺の手にある二枚のプリントを指さし、にこりと笑った。
しばらく考えたあとで、千野がハムスターを埋めたという場所から1メートルほど東の、やはり夕日の光を存分に浴びている場所に埋めることにした。
学校から借りてきたスコップで適当な穴を堀り、持っていた二枚のプリントを入れる。そして上に土を被せようとしたところで、「でもさ」と長谷部が耐えかねたように口を開いた。
「なんでこんなの埋めるんだ?」
俺は土を被せようとしていた手をいったん止め、だって、と返す。
「一緒にいたいだろうから」
穴の横に盛られている土にスコップを添えようとして、ふと手を止める。それからスコップを脇に置くと、代わりに両手で土を掬った。そうして俺が少しずつ土を被せていくのを、二人は黙って見つめていた。
「本当は、骨を埋めたかったんだけど」
独り言のような調子で言うと、「思いとどまってよかったよ」と隣で長谷部がぼそっと呟いた。
「一緒の墓に入ることはできなかったんだし、それなら俺がこっそり二人の骨を持ち出して、一緒に埋めてやろうかなって」
「言っとくけど、それ犯罪だからな」
あわてたように口を挟んできた長谷部の言葉は、わかってるよ、と軽く流してから
「だから代わりに、里穂の持ってたものと宮下の持ってたものを一緒に埋めてやろうと思ったんだ」
「……ああ、それでさっき宮下のロッカー覗いてたのか」
長谷部が納得したように呟く。俺は頷いて、「でも何にも入ってなかった」と続けた。
「もう空っぽだったんだよ。俺が手に入れられたのなんて、このプリントくらいでさ」
苦笑して呟くと、「じゃあ」と千野が優しく笑った。
「ここは志木くんだけの、二人のお墓ね」
俺は軽く目を伏せ、そうだな、と静かに頷いた。
穴を埋め終わるまで、二人は辛抱強く待っていてくれた。
俺は小さく盛り上がった地面の表面をぽんぽんと叩き、よし、と呟く。それから出来上がったその墓をしばし眺め
「……なんか寂しいな」
ふと感じたことをそのまま口にすれば
「じゃあ、花でも飾る?」
千野がこちらを向いて、にこりと笑った。
埋めてんの小テストだろ、とぶつぶつ言いながらも、長谷部も花屋まで付き合ってくれた。
以前教室に飾ってあったものとよく似た白い花を買い、また三人で丘へ戻る。
俺はさっき作った墓の前にしゃがむと、買ってきた花をそっと置いた。
「俺さ、宮下の葬式にも行かなかっただろ」
ぽつりと呟けば、「そりゃ赤嶺の葬式と同じ日だったから」と長谷部が気遣わしげに言った。俺は目を伏せ、黙って首を振ってから
「でも俺は、今まで一回も、宮下を弔ったことがなかったんだよ」
二人はなにも言わなかった。ただ、同じように隣にしゃがみ込む。
俺は目を閉じた。
――他に方法があったのではないかと、思わないわけではない。けれど俺には、それを責める資格などなかった。俺はなにもできなかった。だけど宮下は、たしかに里穂を救ってくれた。
「ね、志木くん」
帰ろうと立ち上がったところで、千野がおもむろに口を開いた。
振り向くと、彼女は穏やかに微笑み、西の方向へ指を向けていた。「見て」と促され、彼女の指さした先を目で辿る。
眩しい夕暮れの空が、視界を埋めた。
遠くに見える山の向こう、夕日が沈もうとしている。前方には何の障害物もない。赤い空の中、浮かんだ薄い雲が、光に照らされ黄金色に輝いていた。
「綺麗でしょう」
はにかんだ調子で、千野が言う。
「この景色が好きだから、ハムスター、ここに埋めたいって思ったの。ね、いい場所でしょう」
俺は目を細め、目の前に広がる空を眺めた。
そうだな、と頷く。千野はまるで自分が褒められたかのように、でしょう、と自慢げに笑った。
俺はしばらく視線を動かすことができなくなってしまった。
何度かまばたきをする。まぶたを閉じた瞬間に、里穂の顔が浮かんだ。
八重歯をのぞかせ、明るく笑う里穂の顔。かずくん、と俺を呼ぶ彼女の声。その声が奇妙にはっきりと頭の中で響いた気がして、俺は目を開けた。目の前には相変わらず、赤く染まった空だけが広がっている。
綺麗だった。心の底から、そう思った。
そしてそのあとで、里穂はこの場所を知っているのだろうかと考えた。
すぐに、きっと知らないだろうという答えにたどり着く。里穂の家からは離れているし、普段こんなところに足を運ぼうとは思わない。
だったら里穂に教えてやりたいと、俺はごく自然にそう思った。きっと彼女も気に入る。綺麗だと、はしゃいだ声を上げてくれる。
ああ、と絞り出すような声が溢れる。
目を伏せる。閉じられたまぶたの裏、焼けるような熱が弾けた。
もうそんなことはできないのだと、頭の芯に痺れるような痛みが走る。右手を持ち上げ、額を押さえた。息苦しい喉から無理に息を吐こうとしたら、喉が引きつった。
唐突に実感する。里穂はもうどこにもいなかった。もう、あの笑顔を見ることはできなかった。かずくん、と俺を呼ぶ、あの声を聞くことも、もう。
視界が滲んだ。
崩れるようにふたたびしゃがみ込む。顔を伏せたら、水滴が二つ地面へ落ちていった。
それは、全身を貫くような喪失感だった。俺の中で、里穂が占めていた場所。ぽっかりと抜け落ちたそこは思いのほか大きく、心は途端に安定を失う。こみ上げた言い様のない寂しさと心細さに、ただ涙が溢れた。次から次へと頬を伝い、地面へ落ちていった。
「俺さ」
嗚咽の合間、震える喉から声を押し出す。
長谷部と千野は、しゃがみ込む俺の隣に座った。それから、うん、と静かに相槌を打って続きを促す。その声の優しさに押されるように、続けた。
「里穂が、好きだったんだ」
うん、とまた静かな相槌が聞こえた。俺は絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
「すげえ、好きだったんだよ」
二人は隣に座って、ただじっと俺の言葉を聞いていた。
やがて長谷部が俺の背中に手を置き、ぽんぽんと何度か軽く撫でる。千野は反対側から手を伸ばし、ゆっくりと肩をさすった。なにか言うことはなかった。ただそうして、俺の隣にいてくれた。
じんとした熱さの広がる耳を、吹きつけた風が撫でていく。
つい先日まで突き刺すような冷たさだったその風は、しだいに柔らかさを含んだものに変わろうとしていた。学校を出るときには着けていたマフラーも、作業をしているうちに暑くなってきて、今はもう外してしまっている。
季節が、移り変わろうとしているのだと思った。
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