第2話 カニ美人 後編

 食い物を食い散らかし、汚い笑い声を立てるカニ頭の男女に、興味はない。

 いくら飾りたてても、いくら粉や紅を塗りたくっても、カルシウムとキチンの甲羅にすぎない。

 水槽に鎮座する、宝石のような顔のカニだけが、美と癒しの女神だ。

 チラッとほほえまれると、この上ない愛くるしさにうっとりした。


「君は俺を変えてくれた」

 

 君は世界で一番美しい。この世は男も女も、醜い者であふれかえっている。君は理想の人だ。君とずっと一緒にいたい。

 クサイと思うかい? クサくていいさ。現実のほうが臭いし。

 

「うまそうでしょう」

 

 突然横から、デカいカニ頭が、水槽をのぞきこんだ。首から下は男の体で、エプロンをつけている。多分、店員だろう。

 

「特別に料理しますよ」

 

 驚きに立ち竦んでいる間に、カニ店員は太い腕の袖をまくり、水槽に手を突っ込んだ。

 

「茹でてもうまい。焼いてもうまい。揚げも味噌汁もうまい。カラをひっぺがして生で食うのもいい」

 

 舌舐めずりの音。

 水中の彼女は、まぶたを伏せ、憂いの雰囲気を纏っている。

 思わず店員を突き飛ばした。われながら勢いが強かったのか、店員は尻もちをついた。

 その隙に、水に手を入れた。脚とハサミの生えた美しい顔を、小脇に抱える。「カニ泥棒!」という叫び声に追われながら、走りに走った。

 


 

 空気に触れると具合が悪くなるのか、彼女の表情は次第に苦しそうになった。

 

「しっかりして」

 

 励ますと、彼女は答えるように、弱々しく呟く。

 

「ミ……ズ……」

 

 ミズ?

 

「水に入りたいの?」

 

 美しい頭部が、わずかにうなずいた気がした。

 

 

 

 自宅へ戻ると、急いでバスタブに水を貯め、彼女を入れてあげた。

 苦痛が和らぐよう、最愛の彼女へキスした。

 

「愛してるよ」

 

 彼女の表情は苦悶に満ちたままだ。整った口の端から、よだれがツッと垂れた。

 どうしたらいいんだ。

 すると玄関のドアから、激しい打撃音がなん度も鳴り響いた。

 

「警察です。カニをお店に返してください」

 

 彼女を取り返しに来たのだ。茹でて焼いて刺して炙って、ひどい目に合わせるために。

 彼女を抱え、ベランダへ出た。窓から逃げよう。

 


 

 夜の道を、彼女を抱えて走った。

 息が苦しかった。こんなに走ったのは、高校時代のマラソン大会以来だ。

 けれど彼女のほうが、もっと危険な状態だった。白目を剥き、細い脚も立派なハサミも、力無くだらりと垂れている。

 

「しっかりするんだ」

 

 威圧的な怒鳴り声と、激しい足音が、しつこく追いかけてくる。

 

「待て!」

 

 とにもかくにも、逃げるしかない。

 水のある場所まで。彼女のために。

 



 港へ辿り着いた。コンテナの間を逃げ回る。

 が、とうとう警官により、岸壁の端まで追い詰められた。

 

「大人しくしなさい。窃盗だぞ」

 

 ここで捕まったら、彼女は惨殺される。

 背後では、暗い海が凪いでいる。生臭くない穏やかな磯の香りが、心を落ち着かせてくれた。

 覚悟を決めた。

 彼女をギュッ抱きしめ、思いきって飛び込んだ。

 


 

 水中は苦しかった。冷えるし、息ができないから当然だ。けれど美しい顔の恋人、カニじょは、真珠のような泡を吐き、大きな瞳に生気を取り戻した。

 笑いかけると、カニ女もほほえみを返してくれた。

 カニ女にそっとキスをした。




 翌朝、港では男に水死体が引き上げられた。朝日に照らされ、満足そうに笑っている男の遺体は、カサカサ動く大きなカニを、大事そうに抱えていた。

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カニ美人 Meg @MegMiki34

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