カニ美人
Meg
第1話 カニ美人 前編
見下ろしてくる白衣の人間たちの頭部は、全部カニだった。磯くささと生ぐささがムンムンと、白い箱のような室内にたちこめる。
目覚めた
が、カニ頭の医師たちが追いかけてきた。はがいじめにされ、あえなく捕えられる。
どうしてこんなことに? 思い当たる節がないわけでもない。
だってこの事件の前まで、加仁は女性にすれ違うと、ほとんど必ずと言っていいほど、ボソッと呟いていた。
「ブス」
大体の女性はムッとして、早足で去っていく。顔を真っ赤にする人や、唖然として立ち止まる人もいた。
怒られてもなにも感じない。事実じゃないか。事実を言ってなにが悪い。
顔が美しいと思える女と(男もだが)、めったに出会ったことがない。瞼に余計な脂肪がない女でも、鼻が高くない。鼻が高い女でも、口のパーツが悪い。口のパーツが整っていても、位置が悪い。顔が大きい。シミやシワが浮いている。眉毛の位置が高い。顎が長い。
理想の女はどこにもいない。
世の中への憂いは深いが、生きるためには会社へ行き、平気なフリして仕事をせねばならない。
この日は、スーツの若者の群れとすれ違った。知らない連中だ。
同僚に尋ねる。
「誰?」
「今年の新入社員じゃん? 研修で本社に来てるんだよ」
みんな肌がツヤツヤして、腹もポッコリ出ておらず、背筋も伸びて若々しい。
加仁は新入社員を、特に女性たちを、ジロジロと眺めた。
美人がいなか観察するが。
「……全員ブス」
同僚はプッと吹き出した。
「おまえズバズバキャラだよな」
そう。自分はズバズバキャラ。人が怯んで言えないことをスパッと言って、他人へスカッとを提供する存在。
仕事が残っているので、二人でさっさとオフィスへ戻った。
耳ざとく暴言を聞きつけた若い女性たちは、加仁の姿が見えなくなると、嫌悪感剥き出しで話すのであった。
「何あの人? 勘違い男?」
「自分だって大した顔じゃないじゃん」
「ね。仮にイケメンでもありえないけど」
「何様だよ」
人の自尊心を傷つけた罪は重い。恨みは運命に乗り、巡り巡って報いという名の鈍器になる。
今夜は待ちに待った合コンだ。同僚と共に、意気揚々と居酒屋へ向かった。
店の壁のポスターの中では、美人のタレントがジョッキを持ってほほえんでいた。
まだ見られる顔だなと思いつつ、加仁は酒を啜る。対面する女性たちの顔面偏差値を測定し、一人の美人に狙いを定めた。他の女性とは目も合わさず、見定めた彼女とだけ、会話を楽しんだ。
顔で女を判断してなにが悪い。〇〇さんの彼女は美人で羨ましいね〜とか、美人と結婚できてよかったね〜とか、この映画のヒロインかわいくてよかった〜とか、言うだろ? おまえも。
男子トイレで、同僚から中間報告を求められた。
「どう加仁?」
「華子ちゃんめっちゃかわいい。あとは全部ブス」
断じると、同僚は笑い、
「やっぱり? 急だったから華子ちゃん以外ブスの寄せ集めしかできなくてさぁ。ま、華子ちゃん彼氏いるけど」
「あ……?」
彼氏持ちが合コンへ来るな。
結局、期待外れだった。会が終わると店の前に出て、会計中の同僚を待つ。
華子たちは、ほかの合コンのメンバーたちと話している。ケラケラ笑い、キラキラしていて、楽しそうだ。
すこぶるつまらないので、目を逸らした。すると、別の物体が視界に入った。
店の前に置かれた台に、水槽が載っている。濁った水中の底に、大きなカニが鎮座していた。丸い甲羅から、細くて原始的な4本足と、先端にハサミがついた2本の手が伸びている。短い毛をチロチロ生やし、色は茶色で地味だ。そのうち食われるんだろう。
普段うまいうまいと食っているが。改めて眺めれば、あわれなほど奇怪な生き物。どんなブスでも、カニと比べたら、まだホモサピエンスでマシだったと、胸を撫でおろすだろう。
こいつを見ていると、よけいにつまらなくなる。
店の引き戸がスライドし、会計を終えた同僚が出てきた。
「今日は楽しかったね。また飲もうよ」
酒臭い社交辞令だ。二度と会わないヤツもいるだろうに。そんなことはわかっているが、酔っ払ったみんなは、一斉に間抜けな返事をした。
連れ立って駅へ向かう。
顔が赤く千鳥足の同僚は、女性陣と肩を組んで歩いた。加仁はゆっくりとした足取りで、少し距離をあけ、彼らの後をついていく。
同僚はあからさまだった。笑う女性たちにもたれかかり、「かわいいね」などと連呼している。
「ブスの寄せ集めじゃなかったのか?」
華子も、別の男と話しこみながら歩いている。
つまらない。本当につまらない。
足元がフワフワした。自分もなんだかんだ言いながら、まあまあ酔っていた。視界に映る物の輪郭も二重だ。耳もボヤンボヤンと、不自然に音を反響させている。
横断歩道の信号が赤なのにも、いつの間にか耳の横に迫る壁のようなトラックにも、気づかなかった。
まばゆい光と、クラックションの爆音に包まれた。
目覚めた後の次第は、冒頭のとおり。
診察室まで連れていかれ、暴れると台に括りつけられた。
けむくじゃらのカニ頭の医者が、甲羅の上端からぴょこっと生えた、黒い球体の目をピクピクさせ、のぞきこんでくる。甲羅の側面から伸びる、2本の小ぶりなハサミにより、髪を剃られた頭皮をまさぐられた。幻覚と思いたかったが、律儀に臭いまで磯っぽく、生っぽい。意味不明だし、この状況が屈辱だった。
カニ医者は、2本のハサミでレントゲン写真を指しながら、説明をしてくれた。
「きみは交通事故で意識不明の重体だったんだ。特に脳がやられてね。この病院のゴッドハンドの手術で、後遺症は残らなかったはずだが……」
言葉が途切れる。世界がカニになるとは予想外だったか。
「治してください。俺の世界、地獄じゃないっすか」
医者は「まあまあ」と、頼りなく宥めるだけ。
「一時的なショック症状という可能性もありますから。様子を見てみましょう」
ガックリと肩を落とした。
退院後の街の空気には、磯臭さと生臭さが混じり合っていた。
すれ違う人間全員の頭に、大きなカニの甲羅が乗っている。
キモい。キモすぎる。
関わらないようにと、下を向いて足を速めた。
男のカニ頭にはだんだん慣れてきた。もともと、男の外見にはなんの期待もしてないし。
が、女は、女のカニ頭だけは、どうしてもムリ。
「すみません。落としましたよ」
高い声。背後からきれいな手が、スッと加仁の財布を差し出した。すらりとした白く滑らかな手。まごうことなき女の手。
知らぬ間に落としていた財布以上に、人間の顔をした女を求め、振り返った。
真後ろに、華奢な女が立っていた。すらっとした長い手足。白いワンピースが包む、滑らで色白な肌。大きくも小さくもない、形のいい胸。
首から上が大きな甲羅でなければ、久々に惚れてたのに。臭いがなければ抱きしめていたかも。
財布を取らず、一目散に逃げた。
会社のパソコンと睨めっこしても、仕事に集中できない。オフィスも磯臭すぎて。
喫煙室だけは、タバコの香りで臭いが紛れた。30分に1回、喫煙することにした。
げんなりとタバコを咥えていると、まばらな短い毛と、長い脚が生えたカニ頭の同僚が、ハサミでタバコを挟み、尋ねてくる。
「お前最近元気なくない?」
「はぁ……」
意味深なため息を吐くだけにした。バカバカしいので、周りに事情は伝えていない。
同僚の甲羅が斜めに傾き、大きなハサミがチョキチョキ動く。生ぐささが強くなった。動くな。
「金曜に合コンしね?」
元気づけようとしてくれているのはわかる。けど合コンってつまり、カニ女がわんさか集まるってことだろ?
「いや、俺は……」
「華子ちゃんも呼んだから。華子ちゃん彼氏と別れたらしいぞ」
華子ちゃんか。飛び抜けてかわいかったし、さすがにあの子ならカニに見えないかも。
「華子ちゃんが来るなら、まあ……」
週末の予定に少し励まされ、同僚と喫煙所を出た。仕事はまだある。
「そういや午後の会議、部屋が変更になったよな」
「そうだっけ?」
「新入社員の女子だけ集めて研修するらしいぜ」
磯臭さが鼻をかすめた。ぞろぞろとスーツの女性集団が歩いている。もちろん、頭部に甲羅が載せて。
ウンザリ。
どこへ行っても、磯臭さがたちこめるのに変わりはない。街も会社も、居酒屋も。
合コンに参加しても同じだった。ご丁寧に、ビールのポスターの美女まで、頭部だけが、4本脚と2本のハサミを持った甲羅にすげ変わっている。立派なハサミをこれでもかと開かせ。
儚い期待を抱いた華子ちゃんも、所詮は黒い球体が2つ、上端からぴょこっと生えた甲羅だった。ドレス風のおしゃれなワンピースを着たって、ブランドのアクセサリーを輝かせたって、スタイルが抜群だって、カニはカニだよ。
不意に、同僚のカニ頭が、ずいっと近づいた。
「わ! 頭寄せるな」
肩を押しのけようとした。甲羅なので、表情はよくわからない。ヒソヒソ声だけは聞こえた。
「華子ちゃんにアタックしないのか?」
するか。カニだぞ。
合コンの時間は、いつもより長かった。やっとお開きになったら、加仁は一番に店を出た。
店の前で、同僚の会計を待ちながら、カニ頭たちは名残り惜しげに、ワイワイおしゃべりの続きをする。
加仁はその集団から距離を置いた。
もう女とは付き合えない。結婚もできない。地獄の絶望の谷底の、さらにどん底に落とされた。
この際どんなブスでも構わない。人間の顔をした女に会いたい。
カニ頭どもの異形ぶりをこれ以上見たくなく、水槽に目をやった。すると、なんと。水槽にいるのは、カニではなかった。
甲羅ではない、卵形の球体。球体の中心からやや上に埋め込まれた、2つの澄んだ瞳と、長いまつ毛。スッとした鼻。小さな薄い唇。長い黒髪。
人間の女の頭だ。しかも自分の理想に近い、かわいくてきれいな顔の。耳の代わりに、立派な細長い4本の脚と、2本のハサミがついてはいるが。
水中の青紫の薄い唇が、ニッコリほほえみを作った。水からは、清純な花の香りが漂う。
加仁は水槽に釘づけになった。
その日以来、加仁の足取りはスキップになった。
あの店に行けば、水槽にあの子がいる。人間の、しかも、アートのような美しい顔が拝める。
磯臭い灰色の世界が一転して、かぐわしい花の、鮮やかな世界へ変わった。
街中をルンルン歩くと、カニ頭の人々が不審そうに振り返った。
気にしない。どうでもいい。だってカニだし。
ハサミを揺らす同僚から合コンに誘われても、
「悪い。俺急いでるんだ」
と、断るようになった。急ぐのは事実だ。あの店へ急ぐ必要がある。
が、この日の同僚は加仁の肩をつかみ、食いさがった。
「華子ちゃんおまえを気にしてたぞ。おまえだけ振り向いてくれないからって。あの子来ると男が釣れるんだよ。今夜あの店で……」
あの店……?
華子はどうでもいいが、もしや。
「あの店か?」
「うん。あの店」
居酒屋で、いつもの合コンが開催される。機嫌よく酒を呑む男女の間で、華子はソワソワしていた。不安で不安で、人からきれいだと言われる顔に、うまく笑みが乗らない。
「ねえ、加仁さんは?」
耐えきれず、彼の友人に尋ねた。
「あ、うん」
彼の友人は呆れたような目を、店の入り口へ移した。
外の水槽に、目的の彼がかじりついている。水に浸る大きなカニを、熱に浮かされたような目で凝視していた。
クスリと笑い、注文ボタンを押した。
「あのカニ食べたいんだね。捌いてもらおう」
素直な性格なんだろうな。話してみたいな。
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