かきやりしその黒髪の
扇智史
* * *
黒髪を梳くようにかき撫でられた、その冷たい指の気配を、ずっと覚えている。
5歳のときだった。わたしは、マンションの狭い中庭のベンチで眠っていた。幼い子どもによくある、つい数分前まで遊んでいたのに、突然スイッチが切れてしまったというようなうたた寝だった。
その、ふとした瞬間に、わたしの髪を誰かがそっとかき分けたのだ。ほっそりとした白くてきれいな指が、膝まで伸びた細い黒髪を上から下まで通り抜けていく。一瞬もひっかかることのないなめらかな愛撫は、やさしく、うれしく、こころよかった。
振り返ったとき、そこには人の姿はなかった。昼下がりの白い陽射しが庭先にあふれ、乾いた風が流れていた。
ぼんやりと首筋を撫で、わたしはしばしベンチの上で呆然としていた。背中の上の方までしかない髪の奥に、自分の手を差し込んでみても、あの指先の感触とは似ても似つかない。指が短くて爪の小さい、ちっぽけなわたしの手は、自分のほんのり熱い首筋をつかむばかりで、かすかな気配はするすると滑り落ちていく。
とまどい、かなしくて、わけもわからず胸が苦しくなって、はぜるみたいに泣いた。慌てて駆け寄ってきた母親がなだめるのに、わたしはまともに答えられないまま、ただただ泣き続けた。
その日の夜、わたしは母と姉に、髪を撫でられた話をした。あれは誰だったのか、あなたたちなら知っているのではないか、ひょっとしてあなたたちが眠るわたしをちょっかいを出したのではないか。
幼い詰問に、姉はすこし困ったような顔をしつつ微笑んだ。きっと、
同じ問いに、母は困惑混じりのため息で応じるばかりだった。ありもしない長い黒髪のことや、いもしない姉のことを口にするわたしを、母は持て余していたのだろう。思い返せばそれも当然だ。雲の動きに天上の国の物語を思い描くような、空想がちなわたしのことばを、母は扱いかねていたに違いない。
かくして、あの白く冷たい指は、わたしの記憶の中にだけ永遠にまとわりついた。
わたしは髪を伸ばし続けた。そうしてわかったのは、わたしの髪はいささかくせっ毛で扱いが難しいことだった。湿気の多い日はやたらにふくらんでしまうし、いくらヘアアイロンを入れてもまっすぐにならないし、そもそもわずかに茶色がかっていた。小学校では男子にからかわれ、中学では時代錯誤な教師に目をつけられ、そうした攻撃から逃れられたのは高校に入ってからだった。
その月日の間も、わたしはたびたび、黒髪を掻き撫でられることがあった。数を追うごとに、指の持ち主がどういうひとなのかがわかってきた。指も腕も細く、滑らかな肌をしている。背は高くないけれど、とても足が長く見える。ちいさな頤と、ちいさな耳と、糸のように鋭い黒目がちの瞳。そして、高く結った柔らかな黒髪。
目を開ければ、そこに彼女はいない。だけど、わたしのなかで彼女は確固とした存在感を持っていた。
彼女が触れてくれる黒髪が、わたしに生きる力を与えてくれた。わたしの持って生まれた姿とは違うわたしを、彼女はたしかに肯定してくれていた。彼女に触れられた朝は、いつもよりすこし活力を持って生きることができた。
男子が苦手で、女子の中でもいくぶん浮いていたわたしと親しくしてくれた、数少ない友達のひとりが
夕暮れの帰り道をふたりで歩いていたとき、わたしの背中の存在しない黒髪を、あの白い指先がそっと撫でた。はっ、と息をのんで振り返ったわたしを、傍らの絢子は、「泉美って、ときどき見えないもの見てるよね」と笑った。その笑い方はいやみがなくて、わたしのことをそのままに肯定してくれているように思えた。
あの手が背中を押してくれたのだ、と、わたしはそう思い込んで、思い切って、絢子に告白した。
絢子とのそれからの日々は、幸せで、いとおしくて、だけどつらいことが増えていく日々でもあった。ときどき空想のなかに沈み込んでしまうわたしを、絢子はそのつど引き上げてくれたけれど、それが苦になっていることが伝わってきて、わたしも胸苦しくなっていった。 わたしが絢子との関わりに重さを感じるほど、黒髪を撫でられる夜が増えた。夜ごと、白い指に撫でられる気配を感じるたびに、わたしは慰められ、許されているのだと思っていた。愛してくれる誰かがいるのだから、きっと大丈夫なのだという気がしていた。
けれど、最後には、「あたしのこんな黒い指より、夢の中の白い指が好きなんでしょ」と告げて、絢子は早足に、わたしの元から去って行った。
絢子の遠ざかる背中を見やって、わたしは立ち尽くした。
黒髪を、そっと撫でる気配があった。そのころにはすでにくるぶしを越えて、廊下をぞろりと埋め尽くすほどになっていた黒髪を、彼女の指先が上から下までくしけずるように梳いていった。
真っ白で温度のない指先を、血のように赤い爪が覆っている。そのさまをありありと思い浮かべ、わたしは、髪の奥へと忍び入る爪の空想に溺れる。
ふいに、心臓を捕まれる。どくん、と、胸が鳴り、息が止まりそうになる。
「ふられちゃったの?」
抱きすくめられたのだと気づいた。振り返ると、姉の姿があった。姉は、おしゃまな小学生の姿をしたままで、ちいさな手を懸命に伸ばして、わたしをいたわるように両腕をわたしの体に回してくれている。
崩れ落ちるように、わたしは姉の体に倒れかかり、泣きじゃくる。
伸びて、伸びて、廊下を埋め尽くし、窓を割り、大地を埋め尽くす黒髪は、わたしの涙に似ている。
この世の果てまで届くわたしの黒髪は、世界をつなぐ道に似ている。
そして、黒髪の端をそっと撫でる白い手がある。夢の果ての面影が、手の届く先にいるかのようにあざやかに浮かび上がってくる。
白い陽射しが空気を焼く、かすかに焦げたにおいが、あの日の記憶を呼び覚ます。彼女の面影に導かれて、わたしは歩を進める。けれど、近づこうとすればするほど彼女の姿は遠離り、逃げ水のようにつかまえられない。
わたしはさまよう。永遠にわたしを縛る、白昼夢のなか。
かきやりしその黒髪の 扇智史 @ohgi_
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