リトマス色の気持ち

源 侑司

リトマス色の気持ち

 試験管の中に、試薬の水滴がぽたりと落ちる。落下した一滴が狭い水面に触れる度に大きく揺れて、たぽん、と心地よい音が聞こえてきそうな気がした。

 セットした試薬が落ち切るまでの間、手持ち無沙汰になってしまって、僕はただその様をずっと眺めている。


 先生は次の準備のために、裏の部屋に引っ込んでしまったらしい。そのせいで教室の中は少々騒がしい。ところどころで、近くの席の友達と話したりふざけ合ったりしている声が聞こえている。そのうち先生が戻ってきてうるさいぞと咎められた時、しゃべっていたら罪悪感を覚えてしまいそうで、僕はその輪の中には入らなかった。


 どうせ、大した会話でもないのだ。こういう時の話題というのは。


 それにお昼直前の授業ということもあってか、身体がだるくて眠い。無駄な会話でエネルギーを使いたくない。

 四人組の班となってひとつの実験台を囲んでいるはずだけど、この台には今僕しかいなくなっている。傍から見れば、僕は言われたとおりに実験を見守っている真面目な人間に映るのだろうか。それとも話す友達もいない孤独なやつと思われるだろうか。

 けど、そのどちらもすぐに心配いらなくなった。


「よっ、何してんの」

 言いながら、相田優花が空白になっている僕の正面の席にすとんと座る。何かおもしろいものを見つけたように、にこにこと笑みを浮かべて、頬杖をつく格好で。


「今、何の時間か知ってる?」

 僕は目を細めながら呆れたように言った。しかし相田はその満面の笑みを一切崩さない。


「言うねぇ。せっかく暇そうにしてるから話しかけてあげたのに」

「話したいことがないだけだよ」

「だからぼーっと試験管眺めてるの?」

「そうだよ」

 突き放すようにそう答えると、相田は眉を寄せてため息をついた。


「もったいない。若い時の無駄話も、人生の宝物だよ?」

「相田、僕と同じ歳だよね?」

「むしろ誕生日で言ったら私の方が年下ですが」

 年齢を偽ってるのかと本気で疑ったけれど、そういうわけでもないらしい。僕は相田の誕生日は知らないけれど、相田が僕の誕生日を知っていることに驚いた。


 それはまぁどうでもいいのだけど。


「で、何の話を持ってきたの」

 そう言うと、相田は思い出したように、何かを僕の目の前に置いた。それは細長い紙のようなものだった。


「準備室入ったらこんなのあったから持ってきた。懐かしいでしょ?」

「何これ、ふせん?」

「違うよ、よく見てよ。リトマス試験紙」

 言われて、ようやくその存在を思い出した。小学校の理科の実験で使ったやつだ。実物を見るのは久しぶりで、すぐには気づけなかったけど。


「いや、勝手に持ってきちゃダメでしょ」

「大丈夫、これだけなら無害だと思うし」

「そういう問題じゃないって」

 見せられたくなかったと、頭を抱えたくなった。これを知ってしまった自分も同罪のような気がしてくる。


「何で持ってきたんだよ。返してきなって」

「えー、だってさ、懐かしくて」

「だからってダメだよ」

 不満そうに口を尖らせる相田をたしなめる。


「……わかった、じゃあ後で返しとく」

「絶対、だよ」

 念押しでそう言ったけれど、相田は納得いっていなさそうな顔をしている。返すところまでちゃんと見届けようと思った。


「でも、リトマス試験紙ってすごいよね」

 一枚の試験紙を持ち上げ、裏返ししたりしながら、ふと相田がつぶやく。


「は?」

「色が変わるかどうかで、透明な液体が酸性かアルカリ性かわかるわけでしょ?」

「まぁ、そうだね」

「こういうのでさ、人の気持ちもわかったら便利だよね」

 再び笑顔を浮かべながら同意を求められたけど、僕は意味がわからず首を傾げた。


「どういうこと?」

「だから、例えばこれを額に貼りつけて――」

 ぺたりと、手に持っていた試験紙を相田が自分の額に当てる。


「で、変わった色によって、その人が私のこと好きかどうかがわかるの」

 試験紙を額から剥がし、相田はじっとそれを見つめた。当然ながら、色は変わっていない。


「そういうのあったら、いいと思わない?」

「何言ってんのさ」

 僕は呆れたように、ため息をつく。


 その時、準備室から先生が戻ってきた。教室内が騒がしくなっていることに気づいた先生が、席に戻れと声を飛ばす。わたわたと、散らばっていたみんなが元の席に戻るために移動を始める。


「ほら、相田。早く戻りなよ」

 そう促すと、ようやく相田も腰を上げた。そのまま離れていくと思いきや――


 相田の腕が僕の方に伸びて、試験紙を僕の額に貼りつけた。


「えっ?」


 何をやっているのかと、僕が呆気にとられていると、いたずらっぽく笑う相田の顔が目の前に現れる。


「君は、どっちかな」

 そう言い残して、相田は自分の班に戻っていった。


 見えなかったけれど、試験紙の色が変わっているとしたらたぶん、真っ赤になっているかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リトマス色の気持ち 源 侑司 @koro-house

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ