第11話

 何分、いや何時間泣き続けたのでしょうか。ぼんやりした頭の中に声が聞こえました。

「おまえは教師になれ。そして、あいつを見返してやれ。こんなダメ教師を世の中から消し去れ」

 その言葉が、くりかえし、くりかえし頭の中に響いている気がしました。僕はぼんやりと、教師になるんだなあと思っていました。たしかに、僕の心の中に、根差すものが芽生えているという感触がありました。彼が憎いとかそういうものではなくて、教師にならなければならないという使命感が、僕の中に確実に芽生えていたのです。その芽がしっかりと双葉をつけるころ、僕の涙は枯れ果てました。子供の涙を流すことは、もうない。そんな気がしました。

「どうや、落ち着いたか」

 細川先生の声でした。僕はなぜか落ち着いた気持ちで見上げました。

「いつまでたっても、泣きやめへんから、どうしようかと思ったわ」

 窓からは赤い光が差し込んでいました。どうやら僕は、かなり長い時間、床につっぷしていたようです。いや、もしかしたら、どこか違う世界へ行っていた、そんな気さえします。不思議に先生のことが憎いという感情は消え去っていました。

「もう、下校時間はとっくに過ぎてるから、急いで帰りなさい」

 先生のたばことコーヒーのにおいがいやだとは感じませんでした。ただ、大人のにおいなんだなと思いました。僕は、ずっと同じ体勢をとっていたせいで、血の通っていなかった重い足を、ピンと伸ばして立ち上がりました。頭の中に白いもやがかかっている、そんな感触を覚えます。

「先生は、まだ教室でやらなあかんことがあるから、山田は先に帰っときなさい」

 僕は先生に一礼して、教室のドアを開けました。その時、たしかに先生は、こう言ったはずです。

「期待してんぞ、帰ってこいよ」


 六年間、通いなれた学校の中が今日は違って見えます。階段の一段一段がとても小さく感じたり、枯れ果てた樹木たちさえもこんなに小さかったかなあと思いました。誰もいない運動場を、ゆっくりと、けれど、しっかりとした足取りで一歩一歩、真っすぐにつっきりました。ようやく門の前まで来たときに門の柱から一人の影が伸びていることに気づきました。その影をふむように、僕は門を出ました。

「空、もうだいじょうぶ?」

 ふと横を向くと、影の主がいました。

「うん、もしかして、待ってた?」

「だって心配やってんもん」

「こんな寒いところで待ってたん?」

「初めは、教室の外におってんけど、先生がもう下校の時間やから、帰りなさいって」

「ごめんな、寒かったやろ」

 僕は小町の手を取りました。

「空の手、あったかいなあ」

「小町の手が冷たすぎんねん」

 僕たちは、お互いの手をとりあったまま、じっとしていました。小町の脈がわかるほど、静かな時間でした。その時間の中でさっき芽生えた双葉とは別の新しい芽が、僕の心の中で根差している感覚がありました。僕と小町の手の温度が同じになったことを感じて、僕は小町に話しました。

「今日、はっきりしたことが、二つある」

「なに?」

 小町は、僕を飲み込んでしまいそうな大きな瞳を見せました。

「ぽくな、先生になるねん」

「は?」

「教師になる、ならなあかんねん」

 小町はすこし、うつむいて、下にある、石をけとばしました。

「先生のこと憎いから? 仕返し?」

「いや、そんなんじゃない。と、思う。使命感っていうんかなあ、そんなん」

 小町は、ゆっくりと顔をあげました。僕の中の新しい芽は、どんどんと育っていきます。

「きっと先生、悪い人じゃない気がする」

 ふと小町はつぶやきました。

「空が泣き始めてから、先生、ずっと空のこと抱きしめてた。クラス中、どうしていいかわからんかって、そしたら先生があいさつはいいから帰りなさいって。それでもうちは、廊下からずっと空のこと見てた。先生は一時間も、二時間も、ずっと空のこと抱きしめててん。ほんとうに悪い人は、そんな長い時間、一人の子供が泣くのに付き合ってられへんと思うねんやんか。ほんでな、空に、ずっと何か語りかけててん。遠くにおったから、なんて言うてたんかわからへんねんけど。ただ、先生が、空の頭をふんずけたことも、理由がある気がすんねん。気のせいかなあ」

 僕は、それを聞いてそんなことがあったということに、驚きました。そして、先生に対して、感謝しなければ、という思いに駆られました。

「そっか……。先生に感謝せんとあかんなあ」

「空、なんか、すごい素直やなあ」

 小町が、握っている手をギュッと一回、強くしました。僕も一回、ギュッと強く握り返しました。

「ところで、先生って、どうやったらなれるんやろう」

「さあ、とりあえず、勉強はできなあかんと思うで。……明日、塾で巽先生に聞いてみたら? 一緒に聞いたんで。空、先生に相談おいでって言われてたし」

 塾。僕は、やっぱり塾へ行かないと。あと少し、全力でがんばろう。そういう気持ちが塾に入って以来、初めて芽生えた気がします。

「うん、明日、相談してみるわ」

 夕焼けが、二人を赤く染めます。校舎から何を表すでも無いチャイムが鳴り響きました。

「んで、わかったことの二つ目って、何?」

「えっ、それは……」

 僕の中で二つ目の双葉がしっかりと根差しました。ただ、小町に伝えるには、心の準備ができていません。あまりにも急すぎます。

「まだ、言われへん。絶対言うから。」

「なにそれー。気になるやん。いつ言うんよ」

「うーん。言うタイミングが来たら」

 小町はうつむいて肩をゆらしました。ケケッと、いつもの笑い声が聞こえます。

「何がおかしいん?」

 小町は、八重歯を見せて、僕に言いました。

「おもらし空くん、と一緒に言うの?」

「ああっ、それ言うな!」

 僕もおかしくて、笑いました。二人の笑い声は、誰もいない運動場へと吸い込まれていきました。

「帰ろう、小町」

「二つ目のわかったこと、うち、待ってるからな」

 僕たちは、手をとりあったまま歩き始めました。いつもと同じ帰り道も、いつもと違う感じがしました。僕たちの影は大きく伸びています。今日、僕の中で、二つの芽が根づきました。この二つの芽が、これからの僕をつき動かしてくれることでしょう。僕は、この二つの芽を枯らさないように、しっかりと面倒を見てやらなければなりません。そして、大きな、大きな花を咲かせるのです。夕日にてらされて、大きく揺れているこの影よりも。






 ――細川先生が、教室で自らを絶たれたと知ったのは、その日の夜のことでした。






 あくびをしているのはだあれ。



 窓の外を、じっと眺めているのはだあれ。



 何がしたいの?



 君をつき動かすもの。



 見つけるために、



 先生は何でもする。



 たとえ、君に恨まれようとも、



 この命、果てようとも。



 ぽくは、また、ひとつ



 大きな、あくびをしました。


 <完>

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あくび いぶし 鈴 @gorozamurai

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