第10話
まさか、一日に二度も職員室に来ることがあろうとは。
僕の中でなにかが変わっていることを、うっすらと感じていました。職員室のドアを開けるとそこには何人かの先生が仲むつまじくご飯を食べているのとは別に、細川先生がたばこを吹かしていました。先生がたばこを吸っているのを見たのは、初めてでした。机の上には、コーヒーカップがおいてありました。僕は静かに歩かなくてはと思い、ゆっくりと先生の席へと近づきました。一歩踏み出すごとに床がギシッギシッときしみ、鈍い音を立てます。先生は、僕の姿を確認した後も僕には、目を合わせることもなく窓の外を眺めて、ゆっくりとたばこを吹かしていました。少し煙たい空気の中で、僕は先生の前に立っていました。周りの先生達は、全く気にせずご飯を食べていました。
「――おまえの家では、ほんまにそういう教育をうけてるんか」
先生が口を開くと、たばことコーヒーの入り交じった、いやなにおいがしました。先生は、あくまで冷静を装っています。
「はい」
僕は多くを語ることでつけこまれる気がして、それだけ答えました。すると、先生の顔は急変し、気味の悪い笑みを浮かべます。
「そうか……それじゃあ、君のお母さんに放課後来てもらって、話をしよう。おたくの教育は間違ってるって、なあ」
おかあさん? お母さんが呼びだされる。僕が先生に口ごたえをしたことでお母さんが学校に呼びだされる。母はまた僕に失望するでしょう。そして僕は母の死んだ瞳を見なくてはならないのです。昨日の今日なので、それだけは絶対にさけたい。
「それだけは許してください。ごめんなさい」
僕はこぶしをかたく握り、深く頭を下げました。悔しかったけれど、こうするしかなかった。
しかし、それで許されるほど甘くはありませんでした。僕は、次の彼の言葉に耳を疑いました。
「いや、許さん、君は僕を侮辱した」
ブジョク? 僕はアニメで悪の親玉が言っているのを聞いたことがあるくらいで、実際にブジョクという言葉を使った人を見たのは初めてでした。僕は、その言葉を聞いて、涙が出そうになりました。ここで涙を流したら負けだ。本能が僕にそう呼びかけました。僕は彼の瞳をじっと見つめ続けました。ほかの先生がご飯を食べ終えたらしく、ごちそうさまの声が聞こえました。それを待っていたかのように、彼が沈黙をやぶりました。
「一つだけ、許してやる方法がある」
彼は、僕の目の前に人差し指を一本、立てました。
「言ってください」
彼は他の先生に聞こえないように、小さな声で僕に耳打ちしました。
「――クラスのみんな、一人一人に土下座しろ」
「そんなん、やめときゃ。する必要ないって」
小町の声が響きました。僕はあわてて、口元に人差し指を立てました。
「シーッ。そんな大きい声で言ったら、みんなに気づかれる」
「ごめん。でもそんなんする必要ないやん。うち、先生にゆうたるわ」
五時間目が終わった後、僕は小町にありのままを打ち明けました。教室は何事もなかったように、いつもと同じ顔を見せていました。
「いや、やめて。全員に土下座するとき、お願いやからだまっといて」
母のことを考えると土下座をした方がいい。どうせ僕に何がしたいのかなんてことは今のところない。せめて、誰にも悲しい思いはさせたくない。それが昨日の夜にだした結論でした。
それに従うならば、僕は土下座をするべきです。小町が先生に言ったところで彼のうちに秘められた、僕に対する憎しみが消えることはないでしょう。
「なんで? うちにはわからん。そんなんしてほしくない。うちがゆったるって」
小町は顔を真っ赤にして、僕に言ってくれました。小町の気持ちは、痛いほど僕の胸をつきました。
「ありがとう。気持ちはすごいありがたいんやけど、今日は許して。お願いやから、好きなようにさして」
僕は両手を合わせて、小町に頼みました。すると小町は困った顔をしていましたが、無理に笑みを作り言いました。
「わかった。空がそこまで言うんやったら、うちは我慢する。きっと、何か考えがあるんやと思うし」
「ありがとう。僕は大丈夫やから。安心して」
何が大丈夫なのかは分かりませんでしたが、とりあえず今、小町に言える言葉はそれだけしかありませんでした。
チャイムが鳴り、先生が教室へと入ってきます。今日は全員が先生の機嫌をうかがっているので、チャイムが鳴り終わったときには全員が席に着いていました。そして、日直が前に出て、いつもの台詞が始まります。
「コレカラオワリノカイヲハジメマスキョウヨカッタコトヤワルカッタコトハアリマセンカアリマセンカアリマセンカコレデ……」
「ちょっと待ってくれ、日直。今日は悪かったことがあるんや」
先生は日直を席に着かせ、気味の悪い笑みを浮かべて、言いました。
「今から山田が全員に土下座をしていく。みんな謹んでうけるように」
クラスが騒然となります。僕の鼓動が高鳴ります。
「山田、左端の列から土下座や。一人ずつな」
クラスは全員で三五名。僕を除くと三四名。僕はおもむろに立ち上がり一人ずつに土下座を始めました。一人目の子の顔を見ると、明らかに困った顔をしています。僕は、全員のそんな顔を見るのも辛いので、二人目からは顔を合わさないようにしました。土下座というのは、意外に体力を使うものでした。五人目くらいで、息が荒くなってきました。この重い空気が、土下座する背中の上に重くのしかかります。誰一人として、声をあげる者はいません。恐らく、彼が睨みをきかせているのでしょう。十五人を超えたところで、ズボンのひざの部分がすれて、穴が開きました。二三人目でとうとう膝から血が出てきました。それでも一向に、この儀式が終わる気配はありませんでした。土下座をする姿の情けなさと、膝の痛みとで涙が何度も出そうになりました。しかし、ここで泣いてはいけない。彼の前で涙を流すことは絶対にしない。僕は、そう心に誓いました。
最後の一人は小町でした。小町の足が震えているのが分かりました。そっと見上げると、下唇をかみしめて目を閉じている小町の顔が見えました。僕はそれでも涙をこらえて、役目を終え床についた血の後をもみ消すように、黙って自分の席へと歩いていきました。その時、信じられない声が飛びました。
「――山田、先生もクラスメイトやぞ」
その言葉が何を意味するのか、一瞬分かりませんでした。そして、言葉の意味を理解すると、僕はゆっくりと自称三六人目のクラスメイトのもとへと近づいていきました。それは、あたかも大儀式のメインイベントが執り行われるようでした。先生の前に跪きます。そして、彼の顔は全く見ずに、頭を下げました。
その時、僕の頭の上に重いものがのしかかりました。ゆっくりと目を開けると、目の前には、彼の足が片方だけあり、それで、自分の頭の上にあるものが何であるのかが分かりました。頭上の足はねじるように僕の脳から胸までをえぐりました。そして、僕にだけ聞こえるように、彼はぽつりと言いました。
「俺に逆らうからこうなるんや」
その言葉で、僕はとうとう涙を流してしまいました。悔しくて、情けなくて、僕は赤ん坊のように泣きじゃくりました。跪いたまま、ひきつけを起こしそうになりながら、ただ涙を流し続けました。
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