隆太が日菜多に最後に教えてくれたこと

衞藤萬里

隆太が日菜多にさいごに教えてくれたこと

 日菜多の同級生が、命を絶ちました。

 彼は日菜多と中学校からの同級生でした。一度同じクラスになったこともありますが、ほとんどしゃべったことありません。しゃべりにくい、苦手な人だなぁって思っていただけで、彼に関してはほとんど何の感想もありませんでした。

 原因は――クラスの同級生たちから、いじめにあっていたからだと云われています。

 彼がクラスの子たちからいじめられている、そのことを聞いたことがあります。でも、その時はふうん……って思っただけで、彼のことを思いやったわけではありません。

 日菜多とは関係がなかったからです。

 その時はよくあることだと思ったし、彼が死ぬなんて思ってもみませんでした。そんなテレビの事件になるようなこと、自分の周りでおきるなんて、考えたこともありませんでした。

 たくさんのテレビ局や新聞社の人たちが学校をとりかこんで、日菜多の高校は全国でも有名になりました。

 校長先生が「いじめがあったとは報告を受けていない。残念です」とニュースで云っていました。でもそんなことはウソだってみんな知っています。

 テレビの取材に答えたって、得意そうに話す友だちもいます。その子たちはその生徒が死んだことよりも、自分がテレビに映ったってことの方が、大事件だと思っているみたいです。

 日菜多も別に彼が死んだことが、哀しいとか思いませんでした。ただどうして彼は死んじゃったんだろうと、不思議に思っただけです。


「自殺するなんて、自分が弱いからだ」俊哉君は、そう云いました。「生きてくってコトは競争だ。自殺は自分からその競争を放棄してるだけだ。バカなやつだ」

 学校の帰りに俊哉君とよく行くお店で、2人はカップに入った温かいラテを前に座っています。

「でも……いじめられてたって……?」

「アイツにだって責任あるだろ?暗くって、何もできなくって、誰もアイツのことなんか、好きじゃなかった。いじめられたくなかったら、アイツはもっと努力しなけりゃいけなかったんだ。同情する必要なんかない。アイツは敗け犬だ」

 そう云うと、ちょっと乱暴にストローをくわえました。俊哉君も同じ中学校だったので、彼のことを知っているのです。

 俊哉君は日菜多のボーイフレンドです。かっこよくって頭がよくって、学年で一番脚が早い、女の子なら誰でもあこがれるような男の子です。

 日菜多も俊哉君が大好きです。

 だから俊哉君とお付き合いするようになって、すごく嬉しかったのです。いろんなむずかしい本を読んでいるから、俊哉君の云うことはいつも大人びていて驚かされます。

 でもその日の俊哉君の言葉に、日菜多はちょっとだけおかしいって思いました。本当にそうでしょうか?俊哉君、冷たいんじゃないでしょうか?たしかに彼は俊哉君みたいに、誰からも好かれるような男の子じゃありません。頭もよくなかったし、性格も暗く、運動もできませんでした。

 きっと俊哉君のように、自信に満ちて生きてきたわけじゃないと思います。でも生きていくことは競争だ、敗けたやつが悪いんだって覚悟を持って、みんなそんな風に生きていけるんだろうか?

「何?ひなたは俺の云ってること、おかしいって思うの?」

 俊哉君はそんな日菜多の様子を敏感に感じとって、不機嫌そうに云いました。

「別に、おかしいって思わないけど……」

 日菜多はそんな時、俊哉君の気分を害さないように、言葉をにごしてうつむくのです。


「隆太、もう駄目みたいよ」

 学校から帰ると、居間にいたお母さんが呼び止めました。お母さんの言葉の意味、日菜多にはすぐにわかりました。

 隆太の生命が、もうすぐ消えてしまう……日菜多の心臓は、ぎゅっとしめつけられました。

 隆太は日菜多の家にいっしょに住んでいる犬です。日菜多が生まれた年に、犬好きのお父さんとお母さんがもらってきて、今までずっといっしょでした。

 お父さんの友だちの家で生まれた仔犬だったので、いろんな犬種がまじった隆太ですが、頭がよくって、眼がきれいで、日菜多は大好きでした。隆太も日菜多が大好きだったみたいです。それどころか、日菜多が子どものころは、自分の子分だと思っていた節があります。

 夕方散歩につれていくのは小学生になった日菜多の仕事で、そのころの隆太はすっかり立派な大人で、落ち着いて日菜多といっしょに歩いていました。

 中学生になった日菜多が部活をはじめて夕方の帰りが遅くなると、もう散歩にいっしょに行くことはなくなり、いつか隆太の頭をなでてやることも少なくなりました。

 日菜多の生活にいろいろなものが増えて、小さいころ大切な友だちだった隆太の存在は、だんだんと小さくなっていったのです。

 隆太は日菜多と同い年だけど、人間と違うからもうずいぶんお爺さん犬です。身体が弱ってしまい、あまり動くことはなく一日中寝ていて、大好きだった散歩も以前ほど長い距離を歩くことはできなくなっていました。

 ところが二ヶ月ほど前から急に具合が悪くなり、ご飯もあまり食べなくなりました。以前はピンときれいに丸まっていた尻尾も、だらりと力なくたれさがったままです。

 お医者さんに連れていったところ、いつの間にかお腹にゴルフボールぐらいもある腫れ物ができていました。

 隆太を子犬のころから知っている先生は「もうずいぶんと腫瘍が大きくなっていて、手術しないと取ることはできない。でも老衰だから手術に耐えるだけの体力があるかどうかわからないし、取ってももう長生きすることはないだろう」と云いました。「そのまま何年も生きるかもしれないし、急に悪くなるかもしれないよ」

 結局、お父さんとお母さんは手術をすることはせずに、痛みを抑える薬だけをもらうことにしました。

 日菜多はどうしてふたりが手術をしてあげないんだろうと思いましたが「寿命があるんだよ。手術をして痛い思いをするぐらいなら、痛み止めの薬を飲んで、このまま静かに家で逝ったほうが、きっと隆太のためだよ」とお父さんは云いました。


 それから隆太は今まで住んでいた小屋から、玄関に毛布を敷いてもらって、そこで一日中すごすことになったのです。最初のころは丸くなって寝ているだけでしたが、ここ二、三日、急に夜中になると甲高い声で啼くようになりました。それは日菜多が今まで聞いたこともない、不安をかきたてる声です。

 ご飯もまったく食べなくなり、立ち上がろうとすると脚が震えて、もう立つこともできなくなっていました。ようやく頭が上がるので、お茶碗に入れた水を口許に近づけてあげると、ゆっくりと長い時間をかけて飲みます。身体中の毛が抜けてしまって、一回り小さくなったように見えます。やせてしまって、触ると背骨やあばら骨をつかめるぐらいです。

 いつの間にか、信じられないぐらいに隆太の身体は弱っていたのです。


 日菜多はお父さんとお母さんの三人で、隆太のそばに座っています。隆太の死が近づいているのは、日菜多の眼にも明らかでした。

「明日も学校があるから、日菜多はもう寝なさい」とお父さんもお母さんも云いませんでした。ふたりとも日菜多には、隆太の最後に立ち会う資格があると思っているのです。

 おとついの夜から隆太を暖かい居間に移して、そばでお父さんが寝ていますが、夜中に何度か声をあげるそうです。何も食べなくなったので、痛み止めの薬を水に溶いて飲ませているのですが、それでも腫れ物が痛いのでしょう。丸くなったり、身体を伸ばしたり、苦しそうに姿勢を変えるそうですが、それすらもきついようです。

 代わりばんこに身体をなでてやると、ずいぶん楽なようです。さわってみると毛がひんやりとしています。隆太から熱量が失われているかのようです。

「隆太、もういっぱい生きたんだから、もう楽になっていいよ」

 すごくさびしそうに、お母さんが話しかけます。日菜多はどうしてお母さん、そんなことを云うんだろうって思いました。隆太はもっと生きていたいに決まっています。それなのに、お父さんだって、手術せずにただ薬をもらってきただけでした。

 それまでたまに啼いていた隆太が、不意に甲高い声をあげました。顔をふせたまま、今度はそれまで以上に長くつづきました。しぼり出すような、きしむような声です。日菜多の胸が痛みます。

 啼きやむと隆太は、もう上がらないはずの頭を辛そうにちょっとだけ上げて、日菜多たちをじっと見つめました。白くにごった瞳に、お父さんとお母さんと日菜多の顔が映ります。それはすごく長い時間に感じましたが、実際はほんの少しのことでした。

 隆太はふたたび眼をとじると、頭を毛布に横たえ、そしてもう二度と眼を開こうとしませんでした。

 隆太の毅然とした瞳は、自分の死を受け止めて、生きてきたことを少しも後悔していない、自分はせいいっぱい生きたと云っているようでした。日菜多ははじめて、さっきお母さんが云った言葉の意味が、少しわかったような気がしました。

 隆太の身体からたましいが離れていったのが、正確にはいつのことだったかわかりません。静かに静かに動いていた隆太の横腹が、気がついたら動いていませんでした。その瞬間はわかりませんでしたが、生き物の身体がひとつの物体となったコトは、ある瞬間に突然に悟るのです。ほとんど何も変わらなくても、生きている肉体と、そうでない肉体とは、まったく違うからです。

 お父さんが手をのばして、隆太の横腹に触りました。離れきっていない隆太の最後のたましいが、ゆっくりと昇っていくような気がしましたが、それも一瞬でした。隆太の生命は、その仕事を終えていたのです。

 時計の針は午前二時をさしていました。

「明日、会社から早く帰ってきて、庭に隆太を埋めてあげよう」お父さんがそう云いました。

 お母さんがダンボールを持ってくると、お父さんがきれいな毛布につつんで、隆太をその中に横たえました。

 こんなに小さかったんだろうか……?日菜多は箱におさまった隆太を見て、そう思いました。


 部屋にもどってベッドに横になり、暗闇で日菜多は考えます。もう遅いのに、少しも眠くありません。当たり前のことかもしれませんが、隆太のことばかり考えていました。隆太の死に立ち会った時は涙は出ませんでしたが、暗闇の中で横たわっていると、次第に不思議な感情がわきおこってきました。でも自分でその感情を、上手に感じとることができないのです。ふわふわした不安定な気分につつまれています。

(何だろう、この感情は?)

 日菜多はぼんやりと考えます。哀しいとかそんな気持ちとも、どことなく違います。隆太の姿が次々と頭の中に浮かんできます。

 小さかったころの隆太。

 大きくなった隆太。

 お爺ちゃん犬になった隆太。

 走る姿、丸くなって眠る姿。

 美味しそうにご飯を食べる姿。

 日菜多の顔をいっしょうけんめいなめる隆太。

 お父さんの声にぴょんとお座りする隆太。

 嬉しくってお母さんに飛びつく隆太。

 たくさんの、たくさんの、数え切れないぐらいたくさんの隆太。

 でも……もう隆太の声を聞くことはできません。

 いっしょに散歩に行くこともできません。

 エサをあげてやることも、背中をなでてやることもできません。

 日菜多の顔を見ると嬉しそうに尻尾を振ることも、長い舌で顔をなめてくれることもありません。

 お日様のような、隆太の毛の匂いをかぐこともできないのです。

 ――どうして、もっとなでてやらなかったんだろうか。その時はじめて、そんな後悔に似た気持ちを感じました。

 テレビが見たいから、部活が忙しいからと散歩をおっくうがったりしなければよかった。もっと、もっと……だって、何もかもが過去の思い出となっていき、そしてきっと、たくさんのことを日菜多は忘れていくのです。


 言葉ではわかっていたつもりだけど、日菜多にはこれまで死の実感がありませんでした。

 死は、それはただの現象じゃなかったのです。わかちがたく哀しみやつらさやさびしさがついてまわり、そんな簡単にかたづけられるもんじゃなくって、過去も未来も、みんな押し流してしまう、そんな無惨で、無慈悲なものなのです。

 もしかしたらすごく立派な理屈が、世の中にはあるのかもしれません。しかし今感じているこの感情の前に、そんなものは無意味です。

 大切なものがいなくなる。自分の前からいなくなる。それが本当にどんな意味を持つのかを。それは欠落のようなものなのかもしれません。すごくすごく小さなものだけど。

 でもそれは、まがうことなく日菜多の一部であったものの欠落。それがのこされる者にとっての死なのです。

 これが死ぬということなんだ。

 日菜多はそう思いました。

 私たちは、何てこのもろく大切な生命を抱えて生きているんだろう……と。

 気がつくと、仰向けになった日菜多の眼から、涙があふれていました。


 その瞬間、突然彼のことを憶い出しました。自ら死を選んだ、同級生のことを。

「自殺するなんて、自分が弱いからだ」と俊哉君は云いました。その時は何かおかしいと思ったのですが、うまく言葉にできませんでした。でも今なら云えるような気がします。

 それは間違っている――と。

 たしかに彼は弱かったのかもしれません。死を選んだ彼は間違っています。でも……理屈じゃありません。生き物が、人が死ぬってことが……弱いからだとか、敗けたからだとか、そんな言葉でかたづけられるようなことなんだろうかって。

 命ってものがそんなに軽くて、ゲームの勝ち負けのように簡単になくなったりするようなものでいいんだろうかって。生命はゲームの賭金じゃないって。

 死を簡単に口にすることなんて、自分たちはできないのだと。

 少しずつ意識が沈んでいく中で、ぼんやりと考えます。明日会ったら、俊哉君と話をしてみようと思います。上手にこの気持ちを伝えられるかわかりません。もしかしたら、俊哉君は不愉快になるかもしれません。日菜多のことを、いやなやつだと思うかもしれません。

 それでも日菜多は話してみようと思います。


***


「子どもが生まれたら犬を飼いなさい。幼少時には友だちとしていっしょに育ち、大人になってからは先輩として子どもを見守り、年老いてからは死ぬことによって、生命の大切さを教える教師となります」


 西洋にそんな格言があるそうです。

 隆太はそのようにして生き、最後に日菜多に大切なことを教えたのです。


(了)

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