和泉のいる日々

サトウ・レン

和泉のいる日々

 俺が初めて人を殺したのは高校一年の夏だった。あれから十年以上が経ったが、いまだに俺の殺人を知っているのは、俺の知る限り、妹の和泉だけだ。


 俺たちはふたり、新潟市内のボロアパートで暮らしている。このアパートで暮らし始めたのは去年の春頃、それまで住み込みで働いていた旅館の仕事を辞め、この町に流れ着いた。住環境が良いとは決して言えないが、家賃は安く、女将からのひどい罵声が飛ばないだけでありがたい限りだった。つねに怒号が飛び交う職場環境に嫌気が差し、同僚を殴った俺は逃げるように、新たなこの町に住み着いた。後悔など微塵もない。逃げることには慣れていた。


 福岡、山口、石川、そして今の新潟と、その場所を離れるのはいつも逃げることと同義だった。


 詐欺まがいの仕事をしながら日々をしのいでいる俺が、大家さんから不審がられていることは知っている。それでも警察に相談するようなことはしないはずだ。大家さんの性格を考えれば住居者のトラブルを明るみにするくらいなら、黙認を選ぶだろう。


 玄関のチャイムが鳴る。

「ごめんねぇ。急に」

 ドアの前には大家さんがいて、俺のくわえたタバコを見ながら顔を露骨に顰める。「タバコ消してもらっていい? 嫌いなのよ」


 わざわざこんなことで関係をこじらせるのも馬鹿らしいので、俺は居間に置いてある灰皿にタバコを置き、大家さんのもとへと戻る。


「どうしたんですか? 急に」

 普段部屋を訪ねて来るのは、家賃の支払いの時くらいで、それ以外は顔を見せることなんてめったになかった。まぁ現状が後ろ暗い俺にとってはそのぐらいの関係性のほうがありがたいのだが……。


「昨日の夜、騒がしい声がこの部屋から聞こえたって話を聞いたんだけどね。若い女性の声が、って」

「気のせいじゃないですか……」

 俺は困惑したような表情を作って答える。

「そう? まぁ別に他人の私生活に口を出す気はないけど、トラブルだけはやめてよね」

「そんなことはしませんから、安心してください」

 にこやかな笑顔を意識する。そんな俺の言葉に大家さんは、不審そうな表情を崩すことなく、「ちゃんと伝えたからね」という言葉を残して去っていった。


 ドアを閉め、ふぅと息を吐く。そんな俺の視線の先に和泉が立っていた。俺の胸元ほどの身長しかない小柄な和泉が、離れた場所でさらにちいさく見える。


「なぁ和泉、もしかしてその声って、いやそんなわけないか……お前の存在は俺たちだけの秘密だしな」


 和泉は一度、首を傾げてから、ほほ笑み、頷く。昔から、無邪気な笑みは和泉の魅力だった。


 義父が死んだあの日から、俺は片時も和泉の存在を離せずにいる。



     ※



 俺には血の繋がった父親との記憶がないので、物心ついた頃から父親といえば、横暴な義父のことだった。福岡の田舎町で育った俺を屈折した非行少年にしたのが義父の圧制だったことは間違いない。和泉は俺と違って、そこまで屈折することもなく育ち、いわゆるの学生生活を送っているように見えた。妹のその姿が、せめてもの救いだったのかもしれない。もちろん心の中では煮えたぎるようなものがあったのかもしれないが、それを顔に出すことはなかった。


 母は物言わぬひとで、苦しむ俺たちを見ない振りしていた。そして俺が小学校を卒業するすこしくらい前に、突然、姿を消した。


 母が姿を消してからもあの男の横暴が止まることはなかった。それまでは言葉だけだったものに、ときおり暴力が加わるようになった。


 それなりに有名な企業の部長だった義父は、他者からの評価が柔らかで知的だったこともあり、同級生からは羨ましがられたけれど、変われるものなら変わって欲しかった。俺からすれば気軽に不満を言える彼らの両親のほうが羨ましかった。


 家出を決行したのは、中学三年の時だった。

 電車を使って福岡から山口へ。決死の逃避行のつもりだったけれど、結果は山口に着いてすぐに補導され、数日も経たずに家へと戻ることになってしまった。義父はそんな俺の姿に舌打ちしただけだった。言葉による圧制は続いていたが、受ける暴力はその頃になると明らかに減っていた。身体が成長したことで、反撃する可能性を恐れ始めていたのかもしれない。しかし俺に反撃なんて行動ができるわけがなかった。長年の苦しみは、俺から抵抗の意志を完全に奪っていた。


 地元の定時制高校に入った俺は中学時代の同級生を中心に知り合いの家を転々とするような生活を送り、ほとんど自宅には帰らなくなっていた。


 この行動こそ、俺の一番の間違いだったのかもしれない。


 妹なら大丈夫だと心のどこかで思っていたのだ。義父の横暴は俺が男だからこそ向かう刃なのだ、と信じて疑わなかった。実際にその場面を見たことがなかったから。


 和泉は中学では合唱部に入っていて、学校生活はうまくいっていると聞いていた。


『最近、お父さんの様子が変なんだけど……』

 昔からだろ、そんなもん……、と素っ気なく返したのは本心からだった。電話越しの和泉は納得していないようだったが、諦めたように『そう、だよね』と言った。最初の和泉からのSOSに応答していれば、結果は違ったのだろうか。後悔しても後の祭りだった。


「なら俺のところ、来るか。多分ひとり増えたって受け入れてくれる気の良いやつらばっかりだから」

『え、ううん。良い。お父さんのこと、心配だから』

 無理にでも、この時、和泉を義父から引き離しておけばよかった。そう後悔しない日はない。


 ことの深刻さに気付いたのは、四度目のSOSだった。


『タスケテ』

 一言留守電にメッセージが残されていて、俺は強烈な不安に囚われた。


 俺は急いで実家に向かった。

 念のため持っていた実家の合鍵で玄関のドアを開けようと鍵を回した時、かすかな、逃げたいという気持ちが兆した。ここから先に行ってはいけない、と。


 その胸に兆した思いを阻むように、悲鳴が聞こえた。

 恐怖を押し殺し、家の中に入り、声のもとへと向かう。それは浴室だった。


 ――――そこにいたのは、


 濡れたTシャツを身に纏う男と、生気を失い虚ろなまなざしを天井に向ける裸の女だった。男が女の首を掴んでいた。知っているふたりがまるで他人のように見えた。


 シャワーの水は止まることなく、ふたりを濡らし続けている。


 


 そこで何があったのかなんて考え始めたのは、だいぶ後になってからだった。


 俺はその場に立ち竦んだまま、動くことができなかった。


 振り返ったその男――義父の目は俺の知る限りもっとも殺意に満ちていた。


 義父と掴み合いになった俺は死を覚悟したが、死んだのは浴槽に頭をぶつけた義父のほうだった。あんなにも怖かった存在がこんなにもあっけなく死んでしまったことに、俺は思わず笑ってしまった。



     ※



 義父と和泉の死体を家に放置したまま、

 俺は幼い頃から憎しみしか抱くことのできなかった実家に火を放った。


 そして今度こそ地元を捨て、下関へと渡った。そこで生活を始めたものの、しかし山口は俺との罪の距離が近い。警察が近付いてくるストレスがどんどん溜まってきて、俺はまた逃げるように金沢にあるちいさな旅館で働き始め、それにも嫌気が差して、今は新潟市内にいる。いつまでも、どこまでも、俺は逃げ続けるのだろう。


 きっと一生……。


 警察がいつか突然、俺の目の前に現れるはずだ。

 怖い。それが……。とにかく。



     ※



 物言わぬ和泉は俺から離れることなく、いつも俺のそばにいた。それが幽霊なのか俺の幻覚なのかは、俺にも分からない。俺のことを恨んでいないのだろうか。いや恨んでいるはずだ。俺は和泉を見殺しにしたのだから。なのに、ほほ笑みを絶やすことなく、優しい表情をつねに俺に向けている。俺を苛み続ける表情だ。


 ふと、

 窓からアパート前の道路に何気なく目を向けると、

 そこに大家さんと警察の姿があった。


 なんだ、何を話してる……。騙したじじいがもしかして気付いた……? それで警察が……。いやそれだったら、俺じゃなくて先に俺の仕事上のパートナーの方に行くはずだ。もしかしてそっちもすでに……。


 いや……もしかして……放火の……。

 とりあえず警察に会うメリットなんて俺にはひとつもない。とにかく逃げよう!


 逃げようとベランダの方に目を向けたその先に、また和泉の姿がある。

「ここも、もうだめだな」

 そう和泉に言って、俺は駆け出した。ベランダに出て、俺は塀に足を掛ける。二階とはいえ意外と距離はある。多少怪我はするかもしれないが、死ぬほどじゃない。


 俺が塀の上に立った……、

 と同時に、

 急に背中に強い衝撃が走った。


 下手なダンスを踊るように身体を揺らしながら、細い足場で反転する俺は、そこで和泉と目が合い、悲鳴を上げてしまった。


 そこに優しいほほ笑みはなく、和泉は、あの日見た義父と重なるような表情を浮かべていた。


 和泉の口が開いた。

 確かに声が聞こえる。


「シ、ネ」


 あぁそうか……許していなかったのだ。当然だ。


 姿


 助けることができたのだ。

 俺の足が恐怖で竦んでいなければ……。


 義父は和泉の首を絞めていたが、死んではいなかった。俺はまだ生きている和泉を見殺しにしたのだ。


 一度だけ俺と目が合った和泉は、なんで……、という表情を浮かべていた。


 


 そう、

 そんな俺を、

 許してくれるわけなんてあるはずがない。


 そして俺は足場を失い――――――――。



     ※



「たまたま通りかかっただけなのに、こんな話聞かせてごめんね」

「いえ。お気になさらず。それで……えぇっと……、騒音トラブルの話でしたね……?」

「そう、騒音というか、夜中に、歌が聞こえるらしいの」

「歌、ですか?」

「その部屋の隣の人が、毎晩毎晩うるさいって文句言ってきたんだけどね。女性だと思うって、その人は言ってて……。ただその部屋、ね。男の一人暮らしなの」

「恋人、とか?」

「うん。それでここ一週間くらい見張ってみたんだけど、特に誰かが出入りしている様子もなくて、思い切って部屋を急に訪ねてみたりもしたんだけど、誰かがいる気配がないのよ。なんだか、怖くて……」

「うーん。なるほど、ただ近所間のトラブルに警察が介入するわけにもいきませんし……」

「そうよね。ちょっとした愚痴くらいに思ってくれたらいいから。パトロール中だったんでしょ。急に呼び止めて、ごめんなさい」


 アパートの大家さんが地元の駐在さんと会話を終えようとした時、アパートの裏側から、どさり、と大きな音が聞こえた。

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和泉のいる日々 サトウ・レン @ryose

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