エピローグ.現代催眠学基礎論
目が覚めると、僕はコンクリートの床に寝ころんでいた。
起き上がろうとすると、何だか違和感がある。まるで自分の体ではないみたいだ。
そこで思い出す。ああ、これは横江美和の体だったか。
「……起きたか」
岩倉和真が僕の顔を覗き込む。それを見て記憶がはっきりしてきた。僕はこの部屋の直前で横江の体に『上書き』され、そして躯川の
その記憶をなぞると同時に、
どうやら、話し合いは無事に
「……そんで僕はもう
ことが終われば、岩倉の『解除術』でこの体にかかった『人格上書き』を解き、横江の人格を取り戻す。そういう
しかし、岩倉は中々僕の体に触れようとしない。思えば不自然だ。何故わざわざ僕が起きるのを待ってた?『眠っている相手には使えない』なんて約束があるとは、聞いていないが。
「怖く、ないのか」
岩倉がそんなことを僕に
「あーはいはい。んな
「怖くないのか!?『上書き』が解かれたら、お前、死んじゃうんだぞ……?」
「別に何とも思わねーよ……お前もしかして僕のこと消したくないのか?僕みたいな悪党を?」
「でもお前は、こうして俺達に協力してくれて……」
「なるべく催眠術師を減らしたくなかっただけだよ。僕はまだ、僕だけの最強催眠術師軍団を諦めてないからな」
「……でも……」
口ごもる岩倉。どこまでも甘い奴だ。
「そもそも消えるのが怖いからなんだ?僕が消えなきゃ横江が帰ってこない。どうせ僕のことはどうせ消さなくちゃならんだろ」
「……そうしなくてもいい方法がある」
岩倉が浅田に手を向ける。浅田泉。かつて横江に岩倉の人格を『上書き』された女。
「俺の『解除術』はその時、ちょっと不完全で少しだけ『人格上書き』が残ってたらしい。浅田さんはそれを『強化』して、二号の人格を蘇らせた。それから
「たまに混ざりそうになるかもしれないけど、その度に私達が『強化』すれば……」
二人して
「
「そんなこと……ないよ」
浅田が中身のない
二号とやらはそこら辺が分かっているからか、口を
「嫌だったら嫌だ。話は終わり。おら、さっさと消せよ」
岩倉の
「……なんだよ。少なくとも横江からこの作戦聞いた時は、最後に僕を消すつもりだったんだろう?そのこと棚に上げて、
僕はこれでもかと、
「……っ、すまん……!」
ただ、僕のそんな台詞にも、岩倉は苦渋に顔を歪めて謝罪を呟くだけだった。
ああ、違うな。僕が見たかったのはこんなのじゃない。僕はこいつがポリシーに嘘を
こいつに、ムカつきたかった。
「……本当に、怖くなんてないんだよ」
気付くと僕は語っていた。
「今ここに僕……伊嶋君人の体が居ないってことは、このどさくさに僕は逃げおおせたんだろう。僕がどこかで生きているなら、それでいいんだ。僕の代わりに、僕のように生きる奴が存在するならそれでいい。バックアップがいくら消えても、問題ない」
「そんな風に……本気で思ってるのか?」
浅田の口調が急に変わる。こいつが二号か。
「……そうだ。本気で思ってる。お前が消えたくなかったのは多分、時間が
「お前が……そう言うなら」
そう言って、岩倉はようやく僕へ手を伸ばした。さっきまで顔に張り付いていた
最後にちょっと
僕は、人をムカつかせた奴は何されても文句は言えないと思っている。けれどどうにもこいつには。
「ありがとう」
岩倉が
「……今から消える奴に言っても
「それでも、お前に言いたかったんだ」
そして、岩倉は僕の手を握った。
こいつのこういう所が、本当に、僕は。
・・・・・・
「……じゃあね。私達は、私達の街に戻るよ」
「……正直、あんたのことは許してないし、これからも許さない……」
そう呟く花輪には、
ただ、もうその怨嗟に支配されることもない。
「だから、あんたは正義の味方ごっこを続けろ。あんたもお兄ちゃんのことを忘れずに、
花輪がそんな問いかけを口にする。誰へ向けた物だったのか、あるいは自分自身への問いかけだったのかもしれない。
それに答えたのは、彼女を抱える躯川だった。
「ああ、そんな許し方が、あってもいい」
その答えに、花輪はふんと鼻を鳴らした。
「ええ……あなたの言う通りにするわ。宏登君が目指したように、この街の平和を守る」
透子さんが
「……なら次は私だな」
花輪が、視線を俺の方へ移す。
「この街で催眠塾を開いて、平和を
これは、彼女なりの
「……
「……昨日までは、何をしてもいいと思ってた。復讐が終われば、全部終わると思ってたから……でも、違った。なら、向き合わなくちゃいけないだろう」
花輪が、自分を抱く躯川の腕をさする。
「ああ、そうだな……でもなぁ、お前ら学校とか休んでこっち来てるんだろ?」
これ以上こっちに居させるわけにはいかない。とはいえ
「じゃあ……お前らはお前らの街の平和を守るっていうのはどうだろう」
もしかすると、これが宏登さんの理想だったのかもしれない。皆が自分の手の届く
「でも、私が生み出した催眠術師をあんた達に任せるのは……」
「いいのよ。あなたの罪は、私の罪でもあるから……私が何とかするわ」
透子さんがそんな風に付け加える。
「……
「いえ、そういうつもりでは」
花輪が、
「平和を守る……まぁ、やってみるよ」
そう繰り返して、彼女は躯川の胸を軽く叩く。
「ほら、誠。行くぞ」
「ああ」
それを合図に躯川が駅のホームへ歩き出した。かと思うと、数歩で立ち止まり、こちらに首を返した。
「催眠術を解いてくれてありがとう……みちるの分も言っておく。ありがとう」
俺が返事をする前に、それじゃあ。と言って躯川はまた歩き出した。彼の背中越しに、勝手に私の分まで言うな。とか、ごめん。とかそんなやり取りが聞こえてくる。
二人は駅のホームへ消えて行った。
・・・・・・
結局、この本は何だったんだろう。
図書準備室にて、『現代催眠学基礎論』を開いて考える。この本は、一体何のために作られたのか。
その日その時、図書準備室には俺と透子さんの二人きりだった。
「熱っ!」
本から顔を上げると、やはり透子さんが指を立てていた。何度も見たそのポーズから、何度も聞いた質問が来る。
「まだ……私のこと信じてる?」
「信じてますよ……俺が透子さんを信じてること、まだ信じられませんか」
透子さんは何も言わず、目を
思えば、本当に信じていないのは透子さんだ。透子さんは元々俺に自己解除を覚えさせるつもりでいた。そういった証拠がなくとも信じるには、まだ時間がかかるのかもしれない。
けど、これが正しいんだと思う。信頼とは、
そこで俺は、
そして俺は既に、そのお返しを済ませている。
「あの時カフェで……抱きしめただけじゃ、足りませんか」
俺の言葉に透子さんは思案するような表情を見せる。それから、両手を広げて俺に突き出した。
「なら……もう一度抱きしめて。そうすれば、もしかしたら……」
俺は、透子さんの言う通りにしようと思った。再び抱きしめれば、今度こそ透子さんは俺を信じるようになるかもしれない。もしくは、そうはならなかったとしてもそれでいい。
少なくとも、透子さんは俺を信じたいと思っている。今はそれが大事だろう。
透子さんを、抱きしめる。互いの熱が交換されて、じんわりと体に広がっていく。
「俺は……これからもあなたの側に居ます。そう、約束します」
透子さんは『現代催眠学基礎論』を呪われた本だと言った。本当にそうなのだろうか。
確かに催眠術は、精神を
……いや、どうだろう。やっぱりただ
「ああーっ!」
横江が図書準備室の扉を開くと同時に叫んだ。後ろに浅田さん達も見えている。
「いっ……やな予感はしてたんだよねー!そしたら
横江の視線は抱き合う俺達を捉えている。透子さんは真顔で俺を離した。
「……一応言っておくけれど、私は別にそういうつもりでは……」
「ディーフェンス!」
「
横江が俺と透子さんの間へ、遮るように体を
図書準備室が、
「ほら、
街の平和を守る。そのための活動が始まる。
俺は『現代催眠学基礎論』を閉じた。
現代催眠学基礎論 牛屋鈴 @0423
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