エピローグ.現代催眠学基礎論

 目が覚めると、僕はコンクリートの床に寝ころんでいた。

 起き上がろうとすると、何だか違和感がある。まるで自分の体ではないみたいだ。

 そこで思い出す。ああ、これは横江美和の体だったか。

「……起きたか」

 岩倉和真が僕の顔を覗き込む。それを見て記憶がはっきりしてきた。僕はこの部屋の直前で横江の体に『上書き』され、そして躯川のあしめを担当たんとうし……殴られ、今の今まで昏倒こんとうしていた。

 その記憶をなぞると同時に、あごに痛みが走る。僕はどうやら実にスマートな気絶を果たしたらしい。それから腕にも痛みが。これは筋肉痛だ。

 現況げんきょう確認かくにんのために周りを見回す。僕を見下ろす岩倉、その隣に立つ狐塚と、浅田泉。そして部屋の奥では躯川が花輪を抱きしめ、花輪は放心ほうしん状態じょうたいにあった。

 どうやら、話し合いは無事に終結しゅうけつしたらしい。

「……そんで僕はもう用済ようずみだから、今から削除さくじょされるわけね」

 ことが終われば、岩倉の『解除術』でこの体にかかった『人格上書き』を解き、横江の人格を取り戻す。そういう段取だんどりだったはずだ。

 しかし、岩倉は中々僕の体に触れようとしない。思えば不自然だ。何故わざわざ僕が起きるのを待ってた?『眠っている相手には使えない』なんて約束があるとは、聞いていないが。

「怖く、ないのか」

 岩倉がそんなことを僕にたずねる。その顔は大真面目おおまじめだった。

「あーはいはい。んな問答もんどうが残ってましたねー」

「怖くないのか!?『上書き』が解かれたら、お前、死んじゃうんだぞ……?」

「別に何とも思わねーよ……お前もしかして僕のこと消したくないのか?僕みたいな悪党を?」

「でもお前は、こうして俺達に協力してくれて……」

「なるべく催眠術師を減らしたくなかっただけだよ。僕はまだ、僕だけの最強催眠術師軍団を諦めてないからな」

「……でも……」

 口ごもる岩倉。どこまでも甘い奴だ。

「そもそも消えるのが怖いからなんだ?僕が消えなきゃ横江が帰ってこない。どうせ僕のことはどうせ消さなくちゃならんだろ」

「……そうしなくてもいい方法がある」

 岩倉が浅田に手を向ける。浅田泉。かつて横江に岩倉の人格を『上書き』された女。

「俺の『解除術』はその時、ちょっと不完全で少しだけ『人格上書き』が残ってたらしい。浅田さんはそれを『強化』して、二号の人格を蘇らせた。それから二重にじゅう人格じんかくの状態をずっと保ってるんだ。お互いの人格を失うことなく」

「たまに混ざりそうになるかもしれないけど、その度に私達が『強化』すれば……」

 二人して熱心ねっしんに説明を重ねる。だが、僕はそれにうなずく気にはなれなかった。

却下きゃっかだ。他人との二重人格なんて僕はごめんだね。面倒めんどうなのが見え見えだろう」

「そんなこと……ないよ」

 浅田が中身のない反論はんろんつぶやく。あるいは、浅田本人のケースでは上手く行っているのかもしれない。しかし、それが万人ばんにんつうじるわけではないだろう。僕は横江みたいなイカれた奴と同じ体で共同きょうどう生活せいかつなぞ絶対に嫌だ。

 二号とやらはそこら辺が分かっているからか、口をはさんでこない。

「嫌だったら嫌だ。話は終わり。おら、さっさと消せよ」

 岩倉のすねを軽く蹴り、解除をせまる。しかし、僕へ悲しい視線を送るばかりで一向に手を動かさない。

「……なんだよ。少なくとも横江からこの作戦聞いた時は、最後に僕を消すつもりだったんだろう?そのこと棚に上げて、今更いまさらえなくていいだの、お前の自己じこ満足まんぞくで僕を振り回すな」

 僕はこれでもかと、冷酷れいこくに、嫌味いやみったらしくそう言ってやった。

「……っ、すまん……!」

 ただ、僕のそんな台詞にも、岩倉は苦渋に顔を歪めて謝罪を呟くだけだった。

 ああ、違うな。僕が見たかったのはこんなのじゃない。僕はこいつがポリシーに嘘をりたくって、みにくわけつくろう所が見たかったんだ。

 こいつに、ムカつきたかった。

「……本当に、怖くなんてないんだよ」

 気付くと僕は語っていた。

「今ここに僕……伊嶋君人の体が居ないってことは、このどさくさに僕は逃げおおせたんだろう。僕がどこかで生きているなら、それでいいんだ。僕の代わりに、僕のように生きる奴が存在するならそれでいい。バックアップがいくら消えても、問題ない」

「そんな風に……本気で思ってるのか?」

 浅田の口調が急に変わる。こいつが二号か。

「……そうだ。本気で思ってる。お前が消えたくなかったのは多分、時間がちすぎて別の人格になったからだ……だから岩倉和真。本当に僕がしいなら早く消せ。僕が伊嶋いじま君人きみびと以外いがいの名を持つ前に」

「お前が……そう言うなら」

 そう言って、岩倉はようやく僕へ手を伸ばした。さっきまで顔に張り付いていた葛藤かっとうは、僕の言葉で随分ずいぶんやわらいだようだった。

 最後にちょっといことしちゃったかなぁ。でもしょうがないよな。

 僕は、人をムカつかせた奴は何されても文句は言えないと思っている。けれどどうにもこいつには。

「ありがとう」

 岩倉がけにそう言った。

「……今から消える奴に言っても仕方しかたないだろ」

「それでも、お前に言いたかったんだ」

 そして、岩倉は僕の手を握った。

 こいつのこういう所が、本当に、僕は。



・・・・・・



「……じゃあね。私達は、私達の街に戻るよ」

 翌日よくじつ明朝みょうちょう駅前えきまえ。いつかのように躯川に抱っこされたまま、花輪は俺と透子さんへそう言った。そして透子さんを見据えたまま、言葉を続ける。

「……正直、あんたのことは許してないし、これからも許さない……」

 そう呟く花輪には、陰鬱いんうつな空気がまとわりついている。この五年間、彼女をむしばみ続けた怨嗟えんさはすぐに消えるようなものではないのだろう。

 ただ、もうその怨嗟に支配されることもない。

「だから、あんたは正義の味方ごっこを続けろ。あんたもお兄ちゃんのことを忘れずに、一生いっしょう背負せおつづけて、苦しみ続けるっていうなら、多少たしょうまぎれる……こんな怒り方が、あってもいいだろう?」

 花輪がそんな問いかけを口にする。誰へ向けた物だったのか、あるいは自分自身への問いかけだったのかもしれない。

 それに答えたのは、彼女を抱える躯川だった。

「ああ、そんな許し方が、あってもいい」

 その答えに、花輪はふんと鼻を鳴らした。

「ええ……あなたの言う通りにするわ。宏登君が目指したように、この街の平和を守る」

 透子さんが一息ひといきおくれて答える。それを聞いた花輪は、何かに納得したように目を閉じて、開いた。

「……なら次は私だな」

 花輪が、視線を俺の方へ移す。

「この街で催眠塾を開いて、平和をおびやかしたのは私だ。今もまだ、私に習った催眠術で悪さをしてる奴が居るだろう……岩倉和真、本当に私を帰していいのか?私も罪を償うべきじゃないのか」

 これは、彼女なりの懺悔ざんげ……なのだろうか。

「……殊勝しゅしょうだな」

「……昨日までは、何をしてもいいと思ってた。復讐が終われば、全部終わると思ってたから……でも、違った。なら、向き合わなくちゃいけないだろう」

 花輪が、自分を抱く躯川の腕をさする。

「ああ、そうだな……でもなぁ、お前ら学校とか休んでこっち来てるんだろ?」

 これ以上こっちに居させるわけにはいかない。とはいえ無罪むざい放免ほうめんというわけにもいかないだろう。何かいい償いはないかと考えてみる。

「じゃあ……お前らはお前らの街の平和を守るっていうのはどうだろう」

 思案しあんすえ、ぽろっとこんな提案が出てきた。不意ふいに出たわりには、何かしっくり来る。

 もしかすると、これが宏登さんの理想だったのかもしれない。皆が自分の手の届く範囲はんいを守る。そうすれば、世界中が平和になる。

「でも、私が生み出した催眠術師をあんた達に任せるのは……」

「いいのよ。あなたの罪は、私の罪でもあるから……私が何とかするわ」

 透子さんがそんな風に付け加える。

「……恩着おんきせがましい奴」

「いえ、そういうつもりでは」

 花輪が、再度さいどはならした。

「平和を守る……まぁ、やってみるよ」

 そう繰り返して、彼女は躯川の胸を軽く叩く。

「ほら、誠。行くぞ」

「ああ」

 それを合図に躯川が駅のホームへ歩き出した。かと思うと、数歩で立ち止まり、こちらに首を返した。

「催眠術を解いてくれてありがとう……みちるの分も言っておく。ありがとう」

 俺が返事をする前に、それじゃあ。と言って躯川はまた歩き出した。彼の背中越しに、勝手に私の分まで言うな。とか、ごめん。とかそんなやり取りが聞こえてくる。

 二人は駅のホームへ消えて行った。



・・・・・・



 結局、この本は何だったんだろう。

 図書準備室にて、『現代催眠学基礎論』を開いて考える。この本は、一体何のために作られたのか。


 その日その時、図書準備室には俺と透子さんの二人きりだった。

 とう頂部ちょうぶが燃えた。

「熱っ!」

 本から顔を上げると、やはり透子さんが指を立てていた。何度も見たそのポーズから、何度も聞いた質問が来る。

「まだ……私のこと信じてる?」

「信じてますよ……俺が透子さんを信じてること、まだ信じられませんか」

 透子さんは何も言わず、目をせる。俺の質問には、答えが返ってこなかった。

 思えば、本当に信じていないのは透子さんだ。透子さんは元々俺に自己解除を覚えさせるつもりでいた。そういった証拠がなくとも信じるには、まだ時間がかかるのかもしれない。

 けど、これが正しいんだと思う。信頼とは、確固かっこたる証拠にではなく、疑念ぎねんの余地がある物に対してすることだ。

 だましているかもしれない、裏切うらぎるかもしれない。そんな疑念がありつつも、それでも、それを凌駕りょうがする何かを感じるからこそ、信頼する。だからこそ価値があるのだ、きっと。

 そこで俺は、伊嶋いじま襲撃しゅうげきに透子さんに抱きしめられたことを思い返す。あれが、透子さんを心から信じるようになったけだった。

 そして俺は既に、そのお返しを済ませている。

「あの時カフェで……抱きしめただけじゃ、足りませんか」

 俺の言葉に透子さんは思案するような表情を見せる。それから、両手を広げて俺に突き出した。

「なら……もう一度抱きしめて。そうすれば、もしかしたら……」

 俺は、透子さんの言う通りにしようと思った。再び抱きしめれば、今度こそ透子さんは俺を信じるようになるかもしれない。もしくは、そうはならなかったとしてもそれでいい。

 少なくとも、透子さんは俺を信じたいと思っている。今はそれが大事だろう。

 透子さんを、抱きしめる。互いの熱が交換されて、じんわりと体に広がっていく。

「俺は……これからもあなたの側に居ます。そう、約束します」


 透子さんは『現代催眠学基礎論』を呪われた本だと言った。本当にそうなのだろうか。

 確かに催眠術は、精神をげる力だ。だがこの本はその催眠術をとおして逆説的ぎゃくせつてきに、ひとかたを俺達に教えた。そのために、この本は作られた。そんな風に考えることはできないだろうか。

 ……いや、どうだろう。やっぱりただおもしろ半分はんぶんで書かれた物だったりするかもしれない。


「ああーっ!」

 横江が図書準備室の扉を開くと同時に叫んだ。後ろに浅田さん達も見えている。

「いっ……やな予感はしてたんだよねー!そしたらあんじょうこのざまですわ!透子さんの破廉恥はれんち!」

 横江の視線は抱き合う俺達を捉えている。透子さんは真顔で俺を離した。

「……一応言っておくけれど、私は別にそういうつもりでは……」

「ディーフェンス!」

すみに置けないなぁ、お前も……大変だね、岩倉君」

 横江が俺と透子さんの間へ、遮るように体をむ。二号達はそれを見て暢気のんきな言葉を漏らしていた。

 図書準備室が、途端とたんに皆の声で満ちる。それがなんだか嬉しかった。

「ほら、全員ぜんいんそろったし作戦さくせん会議かいぎを始めよう」

 街の平和を守る。そのための活動が始まる。

 俺は『現代催眠学基礎論』を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

現代催眠学基礎論 牛屋鈴 @0423

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ