6.解除術

 私、横江美和が、和真君と同じ中学校に通っていた頃。


 その日は修学しゅうがく旅行りょこう。私と和真君は同じはんで、他の男子だんし女子じょしと五、六人で観光地かんこうちを回っていた。

 班の皆が観光かんこう名所めいしょを見ている間、和真君は一人の迷子まいごを見つけていた。親とはぐれたのか、涙目なみだめで周りをきょろきょろ見渡している。

「あ……俺、ちょっとあの子の所行ってくる。皆は先に行ってて」

 彼のそんな言葉に、班は不可解ふかかいしめした。

「えー?別にいいじゃん、折角せっかく観光かんこうに来てるんだから楽しみなよ」

「どうせ誰かがどうにかするって」

 私も一緒になって同じことを言ったと思う。

 しかし、彼のあしりは既に迷子の方へ向かっていて、迷いがない。

「その誰かが俺じゃ、駄目なのか」

 そう言って、和真君はずんずん班から離れていった。そんな彼の背中を、今も鮮明せんめいに覚えている。


 確信かくしんがある。あの時、私は和真君に恋をしたのだ。

 後悔こうかいがある。あの時、彼の背中を見るだけではなく、っていれば。和真君の私への態度は、もう少しマシになっていたかもしれない。



・・・・・・



「ふーん……それがきっかけか」

 私の話に、伊嶋はこちらを見ずにそんな相槌あいづちを返した。手にはさっき買ったとりが握られている。

 透子さんの命により、私と伊嶋は廃ビル調査を行った。しかし、そこに花輪みちると躯川誠はらず、廃ビルはもぬけのからであり、新しい情報は何一つ得ることはできなかった。

 その事実をそのまま透子さんに伝えるのは怖いので、私達は時間じかんかせぎをしていた。具体的ぐたいてきには、帰りにコンビニの前で雑談ざつだんをしていた。ちなみに私は唐揚からあぼうを買った。

 話題は私が和真君に恋をした理由。伊嶋が聞いてきた。

「いやー、あの迷いのない親切。素敵すてきだったなぁ」

 唐揚げ棒を頬張ほおばりながら、私はうんうんと頷いた。

「うっすいなぁ」

 焼き鳥を頬張りながら、伊嶋はそうどくづいた。

「あぁん!?」

「普通それだけのことでここまでヤンデレるか?僕ぁ理解に苦しむね」

「いや、今の話はあくまできっかけだから!ここまで好きになったのは、和真君のストーキングし始めてから」

「気になる程度の相手をストーキングするなよ」

「和真君はさぁ、誰も見てないとこ(私は見てる)でも親切なんだよね。なんていうか、ぶれないんだよ。そこがいいんだなぁ~」

「聞いてねぇよ……」

 伊嶋があきれてため息をつく。自分から聞いたくせに失礼しつれいな奴だ。

「じゃあ次、私が聞く番ね。ちょっと気になってたんだけどさぁ……あんたいつ私のんだの?」

 こいつが私達の学校を襲い、私に催眠術をかけた時のことを思い出す。後から聞いた話だが、こいつは施術せじゅつ対象たいしょうの血を摂取せっしゅしなければ催眠術を発動できないらしい。

 つまりこいつは私の血を飲んだことがあるということになるが、私にそんな覚えはない。

「……お前、あの廃ビルで怪我けがしなかったか?」

「怪我。めっちゃしたわぁ。あそこ廃材はいざいごろごろしててころびやすいしさー、ぇついた所にガラスの破片はへんあったりしてね……え、だから?」

さっわるいなお前。お前が怪我して床にこぼした血を後からペロペロしてたんだよ」

「はぁ!?きもっ!」

 伊嶋はなんのけなしに話を続ける。

「最初にいっ滴分てきぶんえれば、それを使って今度は『つまづけ』って命令する。それでもっと大きな怪我を負わせる。そしてもっと血を舐める。それを繰り返して、ちょっとずつしたがえていくんだよ。お前は催眠塾の卒業が早くて、吸えた血の総量は少なかったけどな」

「うわきもきもきも!何で私にそこまでしたわけ!?」

「別にお前だけじゃねぇよ。催眠塾に通ってた同期には大体同じことやってる。僕だけの最強さいきょう催眠術師さいみんじゅつし軍団ぐんだんを作るつもりだったからな……大変だったんだぜ?転びやすいように廃材セッティングしたりするの。それだけやっても全然ぜんぜん怪我けがしねぇ奴の方が多かったし、途中でバレたりもしたしな……お前は大成功だいせいこう部類ぶるいに入る」

 伊嶋がきもいことをぶつぶつ言う。

「ふーん、ご苦労様。そこまでして何がしたかったのあんた」

「……ムカつく奴らを全員ぶちのめしたかった。僕がムカつかなくていい世界を作りたかった……」

「あっそ、ふわっとしてるしつまんない。もっと愛に生きた方がいいよ、愛に」

生憎あいにく、お前みたいなイカれ方するつもりはない」

「はぁ!?こっちの台詞なんですけど!?」

 そんな風にやんややんや言い合っていると、お互いに手のくしを食べ終わってしまった。

「あぁー……そろそろ図書室戻んないと怒られるなぁ」

「戻っても、『なーんも分からんかった』とか言ったら怒るだろあの女」

「だよねぇ……また拷問されちゃうかなぁ。戻りたくないなぁー」

 何も刺さってない串をくるくる回して二人でくだく。

「こうなりゃ、近くのカフェにでもこしろして、本格的ほんかくてきにサボタージュむか」

「そこまでやるのは流石になぁー……」

 そこでスマホに通話がかかってきた。和真君からだ。

『もしもし、横江か?今すぐ近くのカフェに来て欲しいんだけど』



・・・・・・



「横江と伊嶋、呼べました」

 画面の割れたスマホをポケットにしまいながら、店内を見渡す。

 店内は騒然そうぜんとしている。原因げんいん不明ふめい集団しゅうだん気絶きぜつ。その当事者とうじしゃであれば、心中しんちゅうおだやかでないのも無理はない。

 他の客や店員に状況の説明をせまる者、警察や救急を呼ぶ者も居た。落ち着いた雰囲気ふんいきはどこにもなく、カフェは通常からかけ離れた様相ようそうていしている。

 そして、平常へいじょうしんを失った人が俺の隣にも。

 透子さんは茫然ぼうぜん自失じしつといった様子で、俺の隣に座っていた。焦点はどこか定まっておらず、時折ときおり『私のせいで、私が……』と繰り返し呟いている。

 花輪がかけた『苛烈幻覚』のせいではない。それは俺が既に解除した。まともに動けないような酩酊は、もうないはずだ。

 しかし、花輪がかけた呪いは、彼女が去った今でも透子さんの精神を強く縛り付けている。彼女が語った事実……『花輪宏登の自殺』が、余程よほど堪えているのだろう。

 騒がしいカフェの中で、このテーブルだけが冷たい静けさをびている。

「透子さん……これから、どうするんですか」

「死ぬことにするわ」

 淡々たんたんと、そうげられる。こちらを向かないその瞳には、悲壮ひそう決意けついがあった。

「あの子の復讐を、あまんじて受け入れるわ……どうして、もっと早くにこうしなかったんでしょう。私が生きていていい道理どうりなんて、とっくに、どこにもなかったのに……」

「また、逃げるんですか」

 俺がそう言ってやっと、透子さんはこっちを見た。

「……違う。私は今度こそ向き合うの、私がおかした罪と……あの、呪われた力と」

「俺とは、向き合わないんですか」

 透子さんの体が一瞬いっしゅんかたまる。その目に、恐れが混じる。まるで罪状ざいじょうあばかれた咎人とがびと。それを見て心が痛む。けど、やめない。

「花輪みちるから、過去のあなたに何があったのか大体だいたいいて、そのときさっしもつきました。透子さんが俺に『解除術』を習得させて、そのうえ自己じこ解除かいじょにこだわっていた理由……あなたは、強い人が欲しかったんだ。自分の『苛烈幻覚』を無効化むこうかし、怯えることがない。何があっても自分の側に居てくれる強い人が、宏登さんの代わりが欲しかった……寂し、かったんだ。あなたは」

 初めて、透子さんと出会った時のことを思い返す。

「わざわざかくに図書準備室を選んだのも、ふうじるはずの『現代催眠学基礎論』を人目ひとめく本棚に置いていたのも、全部、俺みたいな才能がある奴を探すため。その上『解除術』を覚えたがっていた俺は、あなたにとって大当おおあたりだった……そうですよね?」

「そうよ……!」

 透子さんが顔をせる。何かをこらえるように、手のひらをぎゅっと握り、体をこわばらせていた。

「私は、あなたを利用した。そんな資格などないのに、どうしても心の隙間を埋めたかった。もう一度誰かに信じてもらいたかった……!『街の平和を守りたい』なんて全部嘘よ!ただ私は、あなたが宏登君のようになればいいと……あなたを私だけの人形にしたかった。あなたの心を、私が望むようにげたかった!」

 絞り出されるような声が、カフェの喧騒けんそうの中に沈む。まるで悲鳴だと、俺は思った。

「……あなたが言いたいことは分かったわ。あなたも、あなたを人形として利用した私が憎いのでしょう。それなら……」

 透子さんを、抱きしめる。

「……違う。俺はあなたを憎んでなんかない。だってあなたは、俺を守ってくれたんだから」

 伊嶋から、俺を守ってくれた時のことを思い返す。

「俺に催眠術かけるの、怖かったでしょう。五感を奪う催眠術は、あなたにとってトラウマだったはずだ。あの時点では、五感のうちひとつでも残せば問題ないなんて確信はなかった。それでもあなたはそれを乗り越えて、俺のために催眠術を使った。そして、こんな風に抱きしめて……正気に戻してくれた。俺を人形みたいに思ってるなんて、嘘だ……」

「……それでも、『街の平和を守る』だなんて嘘で、あなたを縛り付けた罪は消えない……」

「嘘じゃない。あなたは確かに俺を守った。あなたは何一つ、嘘をつかなかったでしょう」

「あなたを自己じこ満足まんぞくに利用した罪は消えない……!」

「人のぬくもりを求めることの、何が罪ですか……!」

 抱きしめる力を強める。緊張で心臓がはやる。鼓動こどうの変化が透子さんに気づかれてしまったかもしれない。それでもいい、音も熱も俺の想いも、何もかも伝わればいいと思った。

「あなたの罪は一つだ。それは俺を利用したことでも、宏登さんから現実を奪ったことでもない。宏登さんから逃げたことだ!宏登さんが現実を取り戻すまで、もう一度あなたを信じられるようになるまで、側に居て抱きしめてあげれば良かった!拒絶されても、何度でも!あなたが宏登さんにされたように、あなたが俺にそうしたように、俺があなたにこうしているように……」

 透子さんを抱きしめながら思う。きっとこれだけで、十分だったはずなんだ。

「……もし償う方法があるとするなら、今度こそ向き合うことだ。もう戻らないなんて自分に言い聞かせて、偽って、諦めて、死んで逃げるなんて絶対に許されない。許さない」

 腕の中から、震えた声が聞こえる。

「それでもっ、私は呪われた力を持っていて……この世にあってはならない存在で……」

「透子さんの催眠術は呪われた力なんかじゃない、俺を守ってくれた力です。呪いなんて、あなたが自分にかけた幻覚にすぎない。あなたは生きていていいんだ……まだ、伝わりませんか」

「……ううっ……うあああっ」

 抱きしめた腕に、涙がつたって熱い。透子さんが涙を流してくれた感慨かんがいに、胸がじんと熱くなる。けど、まだだ。まだ終わりじゃない。

「俺も……一緒に行きます。廃ビルで、決着をつけましょう」



・・・・・・



 呼び出されたカフェで、無事に二人と落ち合った後、廃ビルの前に四人で立つ。

 狐塚透子、岩倉和真、横江美和、そして僕、伊嶋君人だ。四文字ばっかりだな。

「この四人で、この廃ビルを攻略するわけだ。なんかゲームみたいだな」

 二人から、大体の事情は説明された。僕と横江の力が、花輪みちるとの『話し合い』に必要らしい。向こうはこちらを殺すつもりだというのに、全く甘い奴だ。

「その……悪いな」

 岩倉が顔をせ、主語しゅごもない謝罪を呟く。そのいかにも申し訳なさそうな態度が、甘ったれらしい。

「そうだよ、一日に二回も同じ場所行かせるなんてさぁ、二度にど手間でまじゃん。二度手間」

 横江が的外まとはずれな愚痴ぐちをこぼす。

「いや、俺が言ってるのは、お前らを巻き込んだことで……」

「……それなら全然気にしてないよ。同じ図書準備室の仲間でしょ?私達」

 岩倉の目の前に、びっ、と横江のサムズアップが示される。岩倉はきょかれたような顔をしていた。

「あっ、いま大分だいぶキたでしょ。私ポイントめっちゃ稼いだでしょ!いやーいいねいいねぇ。廃ビル出てくる頃にはもう結婚してるかもわからんね」

 うんうんと勝手にうなずきながら横江が妄言もうげんをまきらす。やはりこの女は情緒じょうちょがイカレている。岩倉はいまいち理解できないといった様子でそれを聞いていた。

「あなたも……私に巻き込まれたと思ってる?」

 横に並ぶ狐塚が、岩倉にそんなことを聞く。

「……いいえ」

「そう……ありがとう」

 そんなやり取りをする狐塚の表情は、どこか柔らかい。僕や横江を拷問にかけた冷徹さが薄れている。

 カフェでなーんかあったんだろーなぁ。僕はそんなことをぼんやり考えるだけだが、縮まった二人の距離に横江は血走ちばしった目で歯軋はぎしりしていた。いそがしい奴だ。

「おい、時間制限あんだろ?さっさと行こうぜ」

 ひじで岩倉を小突こづく。二人の話では、一時間後という時間指定と、人質まで取られたらしい。まぁ、その浅田泉という人質は狐塚透子を呼び出すための貴重きちょうなカードだ。たとえ一時間後が来たとしてもおいそれと危害きがいが加えられるとは思えないが……しかしその可能性がある限り、岩倉はそれを見過みすごせない。甘さをこれでもかと利用されている。

「ああ……行こう」

 岩倉が狐塚の手を引き、迷いのない足取りで廃ビルに入っていく。横江は血走った目で以下いかりゃく


 廃ビルの中をぞろぞろ歩く。道中どうちゅう、最上階に居る花輪みちるについて考える。狐塚の『苛烈幻覚』奪われたとなればこちらに勝ち目は薄いように思える。せめて『解除術』でこちらの狐塚も催眠術を使えるようになればよかったのだが、『術の主体しゅたいはこちらではない』とかどーたらで、それはできないらしい。

 岩倉や横江がそれにかんして策を話し合っていたが、それも不確定ふかくてい要素ようそところが多い物だった。

 まぁ、花輪の狙いは狐塚だ。僕には関係がない。僕に緊張感きんちょうかんはなかった。

 さっきゲームみたいだと例えたが、他の催眠術師と会敵かいてきする気配もない。廃ビルのどこにも異変いへんはなく、僕がかよっていた時そのままだ。現れた銀髪の女が、今にも背後から岩倉を刺し殺そうとしている。

「っ、危ない!」

 最上階から一つ下の階のおどで、狐塚は唐突に岩倉の腕を引っ張った。

「うわぁっ!?」

 岩倉がバランスを崩してあとずさる。階段でのことだったので、後ろの僕達も急なストップをようされた。

 危ない……?周りを見ても、脅威きょういになりそうな物は見当みあたらない。

「おーい、何が危ないんだよ」

「何が、って……今あの銀髪の女が岩倉君を刺し殺そうとしたじゃない!」

 狐塚が髪をみだして答える。銀髪の女……そう言われて、ピンと来る物があった。岩倉もどこかで知る機会があったのか、同じことを呟く。

不注意ふちゅういを操る催眠術……!」

 銀髪の女が手元でナイフを遊ばせながら、首をかしげる。

「おかしいですね……どうして私のことをお気になさるのか……もしかしてその繋いだ手。『解除術』を常時じょうじ発動はつどうさせてるとかでしょうか。だから狐塚透子さん。あなたにだけは私の『こま誤魔ごま』がかず、私に注目することができる、と」

「透子さん!相手は特定の行動を『普通のこと』にできます!……それで、あの、『刺し殺す』って……本来何か変なことなんですか?」

「……!」

 狐塚が一人、状況を把握して戦慄せんりつの表情を浮かべる。『刺し殺す』とはどうやらヤバめなことらしい。いまいち理解できないが。

 そしてそれをしてくるあの女は、花輪がやとった伏兵ふくへい……ということでいいんだろうか。銀髪の女はただその場に溶け込んでいて、正直そこらの石ころと同じに見える。僕達を襲う所など想像できない。

 おそらくあの女の存在自体、注目できないようになっているんだろう。

「ああ、でもお気になさらず。上の階へどうぞ」

 さて、当然だがこいつを放置ほうちして上へは行けないだろう。上で花輪とやり合っている内に横槍よこやりを入れられてはたまらない。今、この場でこいつを攻略こうりゃくする必要がある。

 自然と、笑い声が出てしまった。

「あ?あんた何笑ってんの」

 隣から横江の怪訝な声がかかる。無視して岩倉に向かって話しかける。

「おい、良いニュースだ。僕はその銀髪の女の血を吸ったことがある」

「……!」

 岩倉が僕の言葉にはっと目を開く。良いリアクションだ。僕の言いたいことがきちんと分かっているらしい。

「そう。条件を満たしてるんだよ、『血の糸』を使う条件、約束をな。だから岩倉和真……僕の催眠術を解け」

 口の端から愉悦ゆえつるのを感じる。狐塚透子に敗北し、囚われの身になってから、ずっとこの時を待っていた。

 僕が僕自身にかけた、かけさせられた『催眠術を使うな』という命令。岩倉はそれを解き放たざるをえない。横江の方も約束を満たせていない以上、銀髪の女をどうにかできるのは僕だけだからだ。

 これで僕は自由になれる。笑みもこぼれようというものだ。

 僕のような悪党をもう一度自由にするなど、岩倉からすれば苦渋くじゅう決断けつだんになるだろう。しかしそうしなければ人質を助けにいけない。奴のそんな葛藤かっとうを思うと、これまた笑いが止まらない。

 だが、僕の思惑おもわく一部いちぶはずれることになる。

「分かった!」

 一切いっさい躊躇ちゅうちょなく、岩倉は僕の手を握った。

「解除完了」

 一秒か二秒して手を離し、真顔でそう言い放った。想像していた苦渋やら葛藤やらは見られない。

「解いた……のか?」

「あぁ、間違いない。解除できた……けど、あんまり無茶するなよ」

 あまつさえ、そんな言葉まで吐くのだった。

 そのまま、狐塚透子に引っ張られて階段をのぼっていく。それを追いかける横江が一瞬こちらに振り返って何故かほこる。そんな一連いちれんながれが、実によく僕を脱力だつりょくさせた。

「……なんだかなぁ……」

「ふふっ、お優しいんですね。他の方を逃がすために嘘までついて……私は血を吸われた覚えなどありませんよ?」

 銀髪の女の口が動く。声らしき物も聞こえるし、何か喋っているんだろうが……全く理解できない。というか喋っている内容に集中できない。耳がすべるって感じだ。

「お喋りしたいならその催眠術解けよ」

「お気になさらず。私の『細誤魔』が効いていると確認できれば十分……っ!」

 ぐんっと奴の体がこちらに向かってくる。その機を制するように、命令を呟く。

「『躓け』」

 僕の命令通りに傾く体、その顔面にひざを合わせる。女の頭部は僕の膝上でワンバウンドし、そのまま廊下に倒れた。

「ぐっ……!?」

 呻き声と共に、鼻から流れた鮮血せんけつが床にる。足元に伏した体が、ずるりとこちらを向く。

「何故……です」

「ん?血のことか?」

 その場にしゃがんで、床の血を指ですくい、る。

「これで分かるか?同じ日に二度も同じ説明するのはめんどくさいんだが」

「違います……どうして、私の顔面を正確に蹴れたんです……?認識はできても、注目はできないはず……!」

「いや、命令したじゃん。『その催眠術解け』って」

「っ、あの時ですか……!」

 女が目を見開みひらき、顔を歪ませる。実に愉快ゆかいだ。

 さて、そろそろ本格的に服従してもらうとしよう。女の顔に手を伸ばす。

「させません……っ」

「『動くな』」

 手首に白刃はくじんが迫る。だがそれは目標に到達とうたつする前に、僕の命令で動きを止めた。

 邪魔がなくなったところで作業を再開する。女の頭部を両手で持ち上げ、鼻へじかに口を当てる。そのまま血を吸い上げてすすった。

「んぐっ、ふうっ、う……」

 女がもだえたのもつか、その目は生気せいきをなくした。僕が一定いってい以上いじょう、血液を摂取した相手は皆こうなる。新たな人形の完成だ。

「あーっ、まずかった」

 無事ぶじに女を手駒てごまに加えた所で、立ち上がってこれからどうするか考える。自由になったあかつきには、岩倉和真へ復讐を果たすつもりだったが……。

「まぁ、いいか」

 今日の所は、とりあえずここを去ることにした。かえちにって、前回のまいになってもつまらない。それだけだ。

 また会うことがあれば、今度こそ奴を僕の人形にしてやる。

「『付いてこい』」

 来た道をそのまま戻る。女は人形らしく、何も言わず立ち上がり、付いてきた。

 廃ビルを出ながら、ふと振り返る。あいつらは丁度、最上階でやり合っている所だろうか。ちらりとそんなことを思った。



・・・・・・



 とある廃ビルの最上階。全員がその部屋にそろった時、最初に空気を震わせたのはタイマーの音だった。

「……ジャスト一時間。几帳面きちょうめんだな、狐塚透子」

 椅子の上の花輪みちるが、現れた狐塚達に視線を向ける。その瞳は脳の摩耗まもう疲労ひろうかすんでいたが、それでもなお、消えることのない確かな怒りをたたえていた。

「私は、あんた以外を呼んだ覚えはないが?」

「来るなと言われた覚えもないからな」

 岩倉和真が、強気にそう答える。その視線はしかと浅田泉を捉えていた。浅田は、彼らの登場に対して特別な反応は起こさず、ただ花輪の横に立っている。

 花輪は、岩倉を一瞥いちべつして鼻を鳴らした。

「……今度は、そいつを身代みがわりにするつもりか?お兄ちゃんの時みたいに……」

「違……」

「違う」

 狐塚が、岩倉の台詞をさえぎって自分で答える。彼女の手は小さく握られていた。何を言っても伝わらないかもしれないという恐れのあらわれであり、それでも話すという決意の表れでもある。

「私は……あなたに、何かできることがないかって……」

「なら死ね……っ!」

 花輪の小さな体から、殺意が滲み、溢れて部屋を満たしていく。

「あんたができることなんてねぇ、もう私のらしに付き合うことだけなんだよ……!誠、狐塚透子の手足を折れ。抵抗するならほか二人ふたりはその場で殺していい」

 その指示に無言で頷き、躯川誠は歩き出す。破壊はかい対象たいしょうである三人に向かって。

 足取りは常人のそれだが、躯川は既に『鉄迅』を発動させている。『鉄迅』とは、体のリミッターを自在にし、身体能力を爆発的に向上させる自己暗示型の催眠術。目の前に居る三人がたばになっても、彼に一撃いちげき見舞みまうことすらかなわない。

 はずだった。

「『殴れ』」

 躯川が三人の眼前に迫った時、それは起こった。短い自分自身への命令と共に、横江美和の右ストレートが躯川の鳩尾みぞおちに突き刺さる。

「ぐぅっ……!?」

 その拳は、躯川にとって予想外のスピードだった。明らかに女子高生の膂力りょりょくではない。

 躯川が一瞬いっしゅんうごきを止めると同時に、岩倉がわきを抜けて花輪のもとへ駆ける。狙いは花輪の『術喰らい』か、それとも浅田にかかった『恋を知る人』か。

 目の端でその動きを捉えた躯川は、即座に岩倉へ手を伸ばした。

 みちるを守る――彼の根底こんていにあるその思考が、痛みも遅れもせて、体を突き動かせる。

 だが、その手も届かない。

「『遮れ』」

 今度はそんな横江の命令と共に、狐塚が彼の腕をろした。

 何故だ――躯川は二人の動きを思考する。

 横江も狐塚も、身体能力はなみ、あるいは平均へいきん以下いかのはずだ。『鉄迅』で強化された自分の体にダメージを与えることも、伸ばした腕を捉えることもできないはず。

 何らかの催眠術をもちいていることは明白めいはく。思い当たるのは『血の糸』だ。命令をかいして、対象に限界げんかい以上いじょうの動きをいることができる催眠術。二人が『血の糸』の術下じゅつかにあったとすれば、諸々もろもろ不可解ふかかいには説明がつく。

 だが、先程聞こえた命令は伊嶋君人の物ではなかった。女と男の声音こわねを聞き間違えるはずがない。横江自身への『殴れ』も、狐塚への『遮れ』も、横江美和の声によるものだった。

 矛盾むじゅんしている。『血の糸』を習得しているのは伊嶋君人、横江の催眠術は『人格上書き』だったはず――。

 そこで躯川の思考は真実に辿たどく。

 横江は、自分の精神を伊嶋君人の精神に『上書き』していた。

 その真実に辿り着いた時、躯川は既に横江と狐塚をなぎ倒していた。二人の体は疾風しっぷうごとく繰り出された連撃れんげきしずむ。

 俺は負けない。彼女らと自分で元の肉体が違う上に、あくまで他人を操ることを目的とした『血の糸』と『鉄迅』では肉体の強化にさいする術の強度が違う。

 そして何より、みちるのために戦う以上、俺が倒れることは絶対にない――。

 躯川はそう想うと同時に、それを実現していた。

 二人を撃退げきたいした彼は岩倉が駆けていった方向、花輪みちるの方へと振り返る。

 岩倉は既に花輪へあと数歩すうほの所まで近づいていた。躯川が二人を撃退したのすうしゅんの出来事だったが、その数瞬は紛れもなく岩倉の数歩を稼いでいた。躯川は間に合わない。

 だが、花輪にとってそれは問題にならない。今や側近そっきんの躯川以上に、頼れる力があるからだ。

 花輪は横の浅田の手を取り、岩倉に触れられる前に指を振ってそれを発動させる。狐塚透子から奪った催眠術、『苛烈幻覚』。

 次の瞬間、猛烈もうれつ目眩めまいが岩倉を襲う。平衡へいこう感覚かんかくが奪われ、浮遊ふゆう落下らっかがないまぜになったような感覚が彼をさいなんだ。

「うあっ……!」

 先刻、カフェで狐塚がそうなったように岩倉もその場に倒れ、うずくまる。その状態から花輪の足首に手を伸ばすが、その手は距離が足りずに何もない場所をゆらゆらと空を切った。

 花輪の『術喰らい』を解除するつもりだったのだろうか。その目的はかなわず、岩倉は彼女をただ睨むだけだった。

 おかしい――。岩倉の一連の行動に、花輪が奇妙な違和感を抱いた。

 こいつは私を睨むことしかできない……いや、何故、私を睨むことができる?私はこいつの五感を全て消したはずだ、お兄ちゃんの時と同じように。なのにどうして視覚が消えずに残っている?

 握る手の感触を確かめる。浅田泉の手。彼女の『強化術』の発動条件は満たしている。今や『術喰らい』の『奪った催眠術は半分しか使えない』という約束はないに等しい。今使った『苛烈幻覚』は狐塚透子のそれと同じ強さで振るわれたはず。そのために仕入しいれた『強化術』だ。そうでなければおかしい。

 では、何故……真っ先に頭をよぎったのは『解除術』の存在だった。

 事前に聞いていた情報では『自分自身にこの術を発動することはできない』とのことだったが……いつか、あるいは今ここで自己解除が可能になり、一部ながら私の『苛烈幻覚』にあらがっている――。

 それらしい仮説かせつが出た所で、花輪はそれ以上の思考を打ち切る。脳が限界げんかい間際まぎわなのであまり能動的のうどうてきな思考をしていられない上、何よりそれ以上の思考は、花輪にとって価値がなかった。

 何にせよ、ここまで弱っているなら後はあいつがとどめを刺すだろう――。そう考える花輪の視線の先には、拳を振りかぶる躯川が居た。

 そんな花輪の視線から、岩倉は攻撃のを読んだ。それに合わせて身をよじり、振り下ろされる拳に向かって一冊の本を取り出す。

 その本の名前は、『現代催眠学基礎論』。何人足りともこの本に危害を加えることはできない、そんな呪いのような加護かごを受けた本。

 躯川の拳が、表紙の寸前で止まる。予想外よそうがい硬直こうちょくが彼の身体を襲った。岩倉の狙いは、最初から躯川だった。

 しかし、彼の思考は平静を失わない。

 問題はない。この腕を差し出した状態での硬直が、岩倉に『解除術』を使うチャンスを与えてしまったのは事実だ。それでも、何ら問題はない。

 肉体強化の『鉄迅』を解除されてしまったとしても、『苛烈幻覚』によって弱った岩倉なら。硬直が解けた後、素の腕力で圧倒あっとうできる。

 あるいは、みちるからかけられている『恋を知る人』を解除されても構わない。俺はそんな催眠術など関係なしに、みちるのことを愛しているのだから――。

 しかし、躯川の腕を掴んだ人間は岩倉和真ではなかった。

 今はもう、岩倉和真ではなかった。



・・・2・・・



 俺は花輪みちるから繋がれた手を振りほどき、一歩前に出て、硬直した躯川誠の腕を掴んだ。そして、『強化術』を発動させる。すると、みぢっ、という肉の潰れるような音が鳴る。

 次の瞬間、硬直の解けた躯川がその場に倒れた。

「っ、あ……!?」

 倒れた体から、おどろきともうめきとも判別はんべつできない声がれる。意識は残っているようだが、指先をわなわな震わせるばかりで少しも起き上がれないでいる。

「体のリミッターっていうのは、本来体を守るための物だ。外すならに程々ほどほどしないと身をほろぼす……お前の『鉄迅』を、そういういがつけれないレベルまで『強化』した。今お前の体は全身筋肉痛ぜんしんきんにくつうよりひどい状態にある。あとまる一日いちにちは動けないはずだ」

「あ、あ……」

 痛みからか、躯川が気を失う。もう指を震わせることすらない。

「二号……!」

 それと対照的たいしょうてきに、一号が手をつきながら起き上がる。まだ『苛烈幻覚』が解けておらず、上半身を起こすだけで精一杯らしいが、その瞳はしっかりと俺を捉えていた。

「よお……久しぶり」

「二号!そうなんじゃないかと思ってた……花輪から『強化術』の話を聞いた時、浅田さんの話を聞いた時から……『強化術』を習得したのは浅田さんなんじゃないかって、浅田さんは、お前を蘇らせたんじゃないかって……!」

「ほら、感動の再会は後だ、今は……」

「俺はずっと、後悔してたんだ……お前を消したあの日、図書準備室で、あの日、どうしてお前に、『生きてていい』って言えなかったんだって……俺は……!」

 一号が俺の台詞を無視して、勝手に懺悔ざんげのような物を始める。

「ああ、そっか聞こえてないんだっけ……」

 術者である花輪みちるへ、向き直る。彼女は椅子からよろよろと立ち上がりながら、俺を睨みつけてえた。

「何でだ……っ、何で私を裏切れた!浅田泉!」

「お前まで聴覚がなくなったのか?今こいつが言ってただろ。俺は二号だ、浅田泉じゃない……あいつは今眠ってる、というか俺が乗っ取りをかけて眠らせた」

「そんなことはどうでもいい!いつ私の『恋を知る人』を解除した!?あんたと岩倉和真が会う瞬間など、今の今までなかったはず……」

「……違う。俺には元々、『恋を知る人』なんてかかってない」

「馬鹿な……!今までの従順じゅうじゅん素振そぶりは全部、演技だったのか……!?」

「それも違う。催眠術がかかったのは浅田泉で、俺じゃない。俺と浅田泉は別の人間……それだけなんだ」

「はぁ……?」

 彼女は意味が分からないといった表情をしていた。それが全てを物語っている。

「俺は、泉の頭の中にしか居ない幻覚なんかじゃない……一つの人格を、魂を持った人間だ。こいつはそれを分かってて、お前は分からなかった。それが、全部なんだ」

「……何を、ごちゃごちゃとぉ!」

 花輪が指を振る。するとぐわんと視界が揺れて、気付くと俺は床に手をついていた。しかし自分が倒れた音も、床に触れる感触もない。これが『苛烈幻覚』か。

 けれどやはり、視覚は消えていない。俺の意識も。その目を開いて、花輪を見る。

「無駄だ……俺達の『強化術』がない『苛烈幻覚』じゃ、人を殺すことはできない。全部終わりなんだよ、花輪みちる」

 標的が俺に移り、催眠の解けた一号が、花輪に背を向けた。そのまま倒れた躯川へ、迷いなく手を伸ばす。彼にかかった『恋を知る人』を解除するつもりなのだ。

「っ……」

 花輪がそれを防ぐために標的を一号に変え、指をぶんぶんと振る。しかしそれを視界に入れていない一号に『苛烈幻覚』は発動しない。ただ俺への『苛烈幻覚』を解いただけだ。

 催眠術が不発ふはつと見るやいなや、彼女はそのまま直接ちょくせつ一号いちごうぼうがいしようとする。だが、衰弱すいじゃくした体では上手く進めずにその場に膝をついた。

「ぐっ、やめろぉ……っ!」

 花輪が執着しゅうちゃくを見せる。しかし一号は淡々と、『解除術』をしっかりと発動し終えてから手を離す。

「……解除が終わった。こいつはもう、お前の人形じゃない」

「あ……」

 ふっ、と花輪から生気がせる。魂が抜けたかのような顔で、倒れた躯川を見つめていた。

 彼女にとって、躯川誠は何だったのか。想像に難くない。

「どうして……?」

 さっきの叫び声で目覚めたのか、部屋の奥で気絶していた透子さんが起き上がって、こちらへ向かってきた。さっき使った右腕を押さえている。

「狐塚、透子ぉ……っ!」

 一度は空洞くうどうになった花輪の瞳に、透子さんの姿が映った。それは怒りの炎になって再び揺らめき出す。その業火によって溶かされるように、彼女の様々な想いが瞳から滲んでは、強く睨んだ目の端から零れていた。

「……その力が、どういうものなのか、あなたも知っていたはずなのに。そんな力では、あなたが望む物は決して手に入らないと知っていたはずなのに、どうして……!」

 怒りに歪む瞳から透子さんは目を逸らさず、ただひたに見つめ返している。

「うるさいんだよ!元は全部あんたが悪いんだろうがっ、あんたさえ、居なければぁぁぁ……!」

 花輪はうなり声を響かせながら再三さいさんゆびてた。『苛烈幻覚』の合図だ。

 透子さんは、それでも花輪から目を逸らさなかった。それをかけられたとしても死にはしないから、という打算ださんがあったようには見えない。かといって、花輪の催眠術で死ぬことにより罪を晴らそうなんて悲壮な決意も感じない。

 例え五感を奪われたとしても自分はくるわないという確信。そして、そんな自分をとおして何かを伝えたいと思う、願いにも似た献身けんしん。俺は透子さんの姿から、そんな物を感じた。

 ただ、そのどれも花輪にとっては意味のないことだった。彼女の目が、透子さんから俺へぎょろりと動く。

「あんたの『強化術』がない『苛烈幻覚』じゃ、人を殺すことはできない……だったか?それは間違いだよ。不完全なこれでも殺せる人間が、一人だけ、居る」

 花輪が指を振る。その動きとつらなるように倒れたのは、花輪自身の体だった。



・・・・・・



 暗く、静かで、味はなく、匂いもなく、冷たい。そんな世界に、私は居た。

 視覚だけは消せなかった不完全な『苛烈幻覚』でも、それは自ら瞳を閉じることであっさりと実現した。

 五感のない世界。私の思考以外が存在しない、閉じた世界。

 ああ、ここで、お兄ちゃんは狂ったのか。ことわりに似た何かを相手に、憎しみが沸々ふつふつと湧いてくる。それを霧散むさんさせるかのように、奇妙な感慨かんがいが私の中にめぐった。

 私が、既に狂っているからだろうか。ここはとても居心地が良い。

 外のあいつらはどうしているだろう。最初は、私が死ぬことで狐塚透子がもっと傷付きずつけばいいとか、私の人形でなくなった誠を見たくなかったとか、そんな理由でこの世界に逃げた。

 けれどもう、外のことについて考えることすら馬鹿馬鹿ばかばかしい。このまま何も知らず、何も感じずに居られたら、ただそれだけでいいと。時の流れない世界で、漠然ばくぜんと思った。

 意識が消えていく。まどろみとは違う、じゅう数年すうねんきずいてきた『自分』を投げ出すような、きょかん。この世界が完成に近づいているのだ。

 誰でもこうなるのか、元々もともとのう衰弱すいじゃくしていた私が特別なのか、その喪失そうしつ加速度的かそくどてきに進む。私はそれを静かに受け入れていた。

 このまま、消えてなくなればいい。


 そんな想いは、外の何者かによって打ち砕かれた。


 反射的はんしゃてきに開かれた瞳をとおして、おびただしい光が、現実が、もう一度いちどわたしさいなむ。



・・・1・・・



 花輪みちるの身に何が起きたのか、把握した瞬間に彼女の体へと腕を伸ばす。

 あの暗闇を、身をもって知っているから分かる。早く救い出さねば、手遅ておくれになる。しかも俺の時とは違い、触覚を含めた五感全てが消えた状態だ。彼女の脳が死ぬまでの時間が、そう長くないことは自明じめい。より早急な解除が必要だ。

 透子さんも二号も、固唾かたずを飲んで俺の背中を見守る。

 しかし、腕を取って『解除術』の発動をねんじても、どこか手応てごたえがない。冷たい壁にはばまれているような感覚だ。

 

 彼女の触覚が遮断されているから、俺の『解除術』が使えない?

 いや、催眠術の主体はあくまで俺だ。相手の感覚など関係ないはず……。

 どちらが主体かなど、どうやって決める?俺の都合の良いように決められるものなのか?


 ……ネガティブな思考が頭をよぎる。これも伊嶋の時と同じだ。きっとこの思考も現実になり、俺の催眠術に悪い影響えいきょうを与えるのだろう。

 特別な何かが必要だ。今のマイナスを取り返すための、何かが。

 手を胸の前で儀式的ぎしきてきに合わせ、こう叫んだ。

「『完成』っ!」

 俺の宣言が、静かな部屋に響く。催眠術の『完成』……『これ以上この催眠術を変更しない』という約束を追加すること。

 これで俺の催眠術は、能力が上がるとえに、不変ふへんかせを負った。つまり、『自分自身にこの術を発動することはできない。』という約束は、今後こんご永久えいきゅうはらわれなくなった。

 この宣言せんげん自体じたいも、撤回てっかいすることはできない。そんな不正ふせいを認めてしまえば、俺にとってこの催眠術は都合の良い妄想にがる。

「……!和真君、今のは……」

 透子さんの動揺どうようした様子が、背中越しに伝わってくる。『現代催眠学基礎論』をほぼ読破どくはした透子さんのことだ。俺がこの場面で使った『完成』という言葉の意味が分からないはずがない。

 俺が自己解除を覚えることにこだわっていた透子さんには、ショックがあったはずだ。

「先に言っておきますけど、透子さん。俺はこんな事態にならなくても、『自分には使えない』って約束を消すつもりはありませんでした……俺も、あなたの力に怯えない人間でありたい。けど、あなたが俺をそんな風に信じるために、『自己解除があるから』なんて理由があっちゃ駄目なんだ。それじゃあなたを救ったことにならない。俺はまず、あなたを救わなくちゃいけない」

 花輪の腕を握ったまま、透子さんへ背中を向けたまま話を続ける。目を合わせずとも、伝わる物があると信じて。

「俺が助けるのは、近くの人からです」

 そう語り終えてから、今話さなくてもよかったかなと自省じせいする。それでも、話しておかねば『解除術』に集中できないと思ったし、何も言わずただ『非常時だから』と透子さんを納得させるのは、不公平だと感じた。

 透子さんから、答えは返って来ない。代わりに、二号が俺と手のひらを重ねた。

「俺も手伝うよ。『強化術』でお前の『解除術』を強化する…………私も、頑張るね」

 そう言って二号は……いや、浅田さんは俺を見た。流れるような人格の変化に驚いていると、重なる手のひらが増える。透子さんの手だ。

「私も、何ができるわけではないけれど……あなたの手を握っていてもいいかしら」

「……はい!」

 重なる手が、じんわりと熱を帯びる。俺の催眠術なんかよりも、この熱こそが、最も意味のある物であるように感じた。

 手のひらの神経に集中する。『強化術』の効果か、脳が熱い。自分の隠れていた才能が引きずり出されるみたいだ。

その熱を、手のひらを通して花輪に伝える。

 透子さんは、向き合ってるぞ。だからお前も逃げるな、逃げるな!

「起きろ……!」

 触れた腕が、ぴくっとかすかに動く。それと呼応こおうするように、花輪は目を覚ました。

「あ……?」

 花輪がぼうっとした目で、部屋を見回す。そして視界に俺達が映った途端とたん、目に光がともる。体の内から焼き焦がすような、怒りの炎。

「っ、あんたら……っ!」

 勢いよく体を起こし、花輪は俺の手を振り払う。そのまま背中が部屋の壁に付くまであとずさって俺達から距離を取った。

 そしてもう一度自分の指を見つめて、振る。しかし今度は何も起こらない。

「『術喰らい』ごと解除したか……!何でだ!何であのまま私を殺さなかった!情けのつもりか?まだ!正義の味方のつもりなのか!」

「そうよっ!」

 透子さんが立ち上がり、花輪に対して叫び返す。初めて聞く、透子さんの大声だった。

「私、何があってもあなたを助けるわ!あなたから逃げないと、決めたから……!」

「……あんたがそれを言うなぁっ!認めない!認めないぞ私はぁ!ふふ……そうだ、これが現実だなんて認めない……!」

 花輪の激昂げっこう下卑げびた笑いが混じっていく。

「私を目覚めさせた所で無意味なんだよ……あの暗闇の世界を体験した。その事実が重要なんだ、ただそれだけで、私はどうせいつかくるぬんだから……お兄ちゃんと同じように、現実を疑って!」

「そんなっ、私は……」

 透子さんの声が、花輪の笑い声にかき消される。

「あはははははっ!『術喰らい』が解けたってことは、『苛烈幻覚』もあんたに戻ったんだろう!?疑うに十分だ……私を助ける?逆だよ分かるか狐塚透子!あんたの存在が!また人を殺すんだよ!あんたのせいだ!あんたのせいで……ふふっ」

「っ、私は!そんな風に催眠術を使わない……信じて……」

 そんな嘆願たんがんも、花輪には届かない。

「信じるものか!嘘だ、嘘だ……今見えてる世界も、私が生きてることすら、全部嘘……」

 花輪を抱きしめた。

 俺ではない。透子さんでもない。躯川誠が立ち上がり、抱きしめた。花輪が予想外のことに固まる。

「まこ、と……?」

「……これでもまだ、嘘だって言うのか」

 躯川のつぶやきが、空気を小さく揺らす。

 数秒、部屋はそのままこおったように動かなかった。その凍った時が溶け出すように、花輪の瞳から涙が落ちる。

 その涙の色が、答えだろう。彼女の呪いが解ける瞬間を、俺は見た。

 廃ビルの最上階に、泣き声が響く。それを聞いたのは彼女だけではない。俺達が居た。

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