6.解除術
私、横江美和が、和真君と同じ中学校に通っていた頃。
その日は
班の皆が
「あ……俺、ちょっとあの子の所行ってくる。皆は先に行ってて」
彼のそんな言葉に、班は
「えー?別にいいじゃん、
「どうせ誰かがどうにかするって」
私も一緒になって同じことを言ったと思う。
しかし、彼の
「その誰かが俺じゃ、駄目なのか」
そう言って、和真君はずんずん班から離れていった。そんな彼の背中を、今も
・・・・・・
「ふーん……それがきっかけか」
私の話に、伊嶋はこちらを見ずにそんな
透子さんの命により、私と伊嶋は廃ビル調査を行った。しかし、そこに花輪みちると躯川誠は
その事実をそのまま透子さんに伝えるのは怖いので、私達は
話題は私が和真君に恋をした理由。伊嶋が聞いてきた。
「いやー、あの迷いのない親切。
唐揚げ棒を
「うっすいなぁ」
焼き鳥を頬張りながら、伊嶋はそう
「あぁん!?」
「普通それだけのことでここまでヤンデレるか?僕ぁ理解に苦しむね」
「いや、今の話はあくまできっかけだから!ここまで好きになったのは、和真君のストーキングし始めてから」
「気になる程度の相手をストーキングするなよ」
「和真君はさぁ、誰も見てないとこ(私は見てる)でも親切なんだよね。なんていうか、ぶれないんだよ。そこがいいんだなぁ~」
「聞いてねぇよ……」
伊嶋が
「じゃあ次、私が聞く番ね。ちょっと気になってたんだけどさぁ……あんたいつ私の
こいつが私達の学校を襲い、私に催眠術をかけた時のことを思い出す。後から聞いた話だが、こいつは
つまりこいつは私の血を飲んだことがあるということになるが、私にそんな覚えはない。
「……お前、あの廃ビルで
「怪我。めっちゃしたわぁ。あそこ
「
「はぁ!?きもっ!」
伊嶋はなんのけなしに話を続ける。
「最初に
「うわきもきもきも!何で私にそこまでしたわけ!?」
「別にお前だけじゃねぇよ。催眠塾に通ってた同期には大体同じことやってる。僕だけの
伊嶋がきもいことをぶつぶつ言う。
「ふーん、ご苦労様。そこまでして何がしたかったのあんた」
「……ムカつく奴らを全員ぶちのめしたかった。僕がムカつかなくていい世界を作りたかった……」
「あっそ、ふわっとしてるしつまんない。もっと愛に生きた方がいいよ、愛に」
「
「はぁ!?こっちの台詞なんですけど!?」
そんな風にやんややんや言い合っていると、お互いに手の
「あぁー……そろそろ図書室戻んないと怒られるなぁ」
「戻っても、『なーんも分からんかった』とか言ったら怒るだろあの女」
「だよねぇ……また拷問されちゃうかなぁ。戻りたくないなぁー」
何も刺さってない串をくるくる回して二人で
「こうなりゃ、近くのカフェにでも
「そこまでやるのは流石になぁー……」
そこでスマホに通話がかかってきた。和真君からだ。
『もしもし、横江か?今すぐ近くのカフェに来て欲しいんだけど』
・・・・・・
「横江と伊嶋、呼べました」
画面の割れたスマホをポケットにしまいながら、店内を見渡す。
店内は
他の客や店員に状況の説明を
そして、
透子さんは
花輪がかけた『苛烈幻覚』のせいではない。それは俺が既に解除した。まともに動けないような酩酊は、もうないはずだ。
しかし、花輪がかけた呪いは、彼女が去った今でも透子さんの精神を強く縛り付けている。彼女が語った事実……『花輪宏登の自殺』が、
騒がしいカフェの中で、このテーブルだけが冷たい静けさを
「透子さん……これから、どうするんですか」
「死ぬことにするわ」
「あの子の復讐を、
「また、逃げるんですか」
俺がそう言ってやっと、透子さんはこっちを見た。
「……違う。私は今度こそ向き合うの、私が
「俺とは、向き合わないんですか」
透子さんの体が
「花輪みちるから、過去のあなたに何があったのか
初めて、透子さんと出会った時のことを思い返す。
「わざわざ
「そうよ……!」
透子さんが顔を
「私は、あなたを利用した。そんな資格などないのに、どうしても心の隙間を埋めたかった。もう一度誰かに信じてもらいたかった……!『街の平和を守りたい』なんて全部嘘よ!ただ私は、あなたが宏登君のようになればいいと……あなたを私だけの人形にしたかった。あなたの心を、私が望むように
絞り出されるような声が、カフェの
「……あなたが言いたいことは分かったわ。あなたも、あなたを人形として利用した私が憎いのでしょう。それなら……」
透子さんを、抱きしめる。
「……違う。俺はあなたを憎んでなんかない。だってあなたは、俺を守ってくれたんだから」
伊嶋から、俺を守ってくれた時のことを思い返す。
「俺に催眠術かけるの、怖かったでしょう。五感を奪う催眠術は、あなたにとってトラウマだったはずだ。あの時点では、五感の
「……それでも、『街の平和を守る』だなんて嘘で、あなたを縛り付けた罪は消えない……」
「嘘じゃない。あなたは確かに俺を守った。あなたは何一つ、嘘をつかなかったでしょう」
「あなたを
「人の
抱きしめる力を強める。緊張で心臓が
「あなたの罪は一つだ。それは俺を利用したことでも、宏登さんから現実を奪ったことでもない。宏登さんから逃げたことだ!宏登さんが現実を取り戻すまで、もう一度あなたを信じられるようになるまで、側に居て抱きしめてあげれば良かった!拒絶されても、何度でも!あなたが宏登さんにされたように、あなたが俺にそうしたように、俺があなたにこうしているように……」
透子さんを抱きしめながら思う。きっとこれだけで、十分だったはずなんだ。
「……もし償う方法があるとするなら、今度こそ向き合うことだ。もう戻らないなんて自分に言い聞かせて、偽って、諦めて、死んで逃げるなんて絶対に許されない。許さない」
腕の中から、震えた声が聞こえる。
「それでもっ、私は呪われた力を持っていて……この世にあってはならない存在で……」
「透子さんの催眠術は呪われた力なんかじゃない、俺を守ってくれた力です。呪いなんて、あなたが自分にかけた幻覚にすぎない。あなたは生きていていいんだ……まだ、伝わりませんか」
「……ううっ……うあああっ」
抱きしめた腕に、涙がつたって熱い。透子さんが涙を流してくれた
「俺も……一緒に行きます。廃ビルで、決着をつけましょう」
・・・・・・
呼び出されたカフェで、無事に二人と落ち合った後、廃ビルの前に四人で立つ。
狐塚透子、岩倉和真、横江美和、そして僕、伊嶋君人だ。四文字ばっかりだな。
「この四人で、この廃ビルを攻略するわけだ。なんかゲームみたいだな」
二人から、大体の事情は説明された。僕と横江の力が、花輪みちるとの『話し合い』に必要らしい。向こうはこちらを殺すつもりだというのに、全く甘い奴だ。
「その……悪いな」
岩倉が顔を
「そうだよ、一日に二回も同じ場所行かせるなんてさぁ、
横江が
「いや、俺が言ってるのは、お前らを巻き込んだことで……」
「……それなら全然気にしてないよ。同じ図書準備室の仲間でしょ?私達」
岩倉の目の前に、びっ、と横江のサムズアップが示される。岩倉は
「あっ、
うんうんと勝手に
「あなたも……私に巻き込まれたと思ってる?」
横に並ぶ狐塚が、岩倉にそんなことを聞く。
「……いいえ」
「そう……ありがとう」
そんなやり取りをする狐塚の表情は、どこか柔らかい。僕や横江を拷問にかけた冷徹さが薄れている。
カフェでなーんかあったんだろーなぁ。僕はそんなことをぼんやり考えるだけだが、縮まった二人の距離に横江は
「おい、時間制限あんだろ?さっさと行こうぜ」
「ああ……行こう」
岩倉が狐塚の手を引き、迷いのない足取りで廃ビルに入っていく。横江は血走った目で
廃ビルの中をぞろぞろ歩く。
岩倉や横江がそれに
まぁ、花輪の狙いは狐塚だ。僕には関係がない。僕に
さっきゲームみたいだと例えたが、他の催眠術師と
「っ、危ない!」
最上階から一つ下の階の
「うわぁっ!?」
岩倉がバランスを崩して
危ない……?周りを見ても、
「おーい、何が危ないんだよ」
「何が、って……今あの銀髪の女が岩倉君を刺し殺そうとしたじゃない!」
狐塚が髪を
「
銀髪の女が手元でナイフを遊ばせながら、首を
「おかしいですね……どうして私のことをお気になさるのか……もしかしてその繋いだ手。『解除術』を
「透子さん!相手は特定の行動を『普通のこと』にできます!……それで、あの、『刺し殺す』って……本来何か変なことなんですか?」
「……!」
狐塚が一人、状況を把握して
そしてそれをしてくるあの女は、花輪が
おそらくあの女の存在自体、注目できないようになっているんだろう。
「ああ、でもお気になさらず。上の階へどうぞ」
さて、当然だがこいつを
自然と、笑い声が出てしまった。
「あ?あんた何笑ってんの」
隣から横江の怪訝な声がかかる。無視して岩倉に向かって話しかける。
「おい、良いニュースだ。僕はその銀髪の女の血を吸ったことがある」
「……!」
岩倉が僕の言葉にはっと目を開く。良いリアクションだ。僕の言いたいことがきちんと分かっているらしい。
「そう。条件を満たしてるんだよ、『血の糸』を使う条件、約束をな。だから岩倉和真……僕の催眠術を解け」
口の端から
僕が僕自身にかけた、かけさせられた『催眠術を使うな』という命令。岩倉はそれを解き放たざるをえない。横江の方も約束を満たせていない以上、銀髪の女をどうにかできるのは僕だけだからだ。
これで僕は自由になれる。笑みも
僕のような悪党をもう一度自由にするなど、岩倉からすれば
だが、僕の
「分かった!」
「解除完了」
一秒か二秒して手を離し、真顔でそう言い放った。想像していた苦渋やら葛藤やらは見られない。
「解いた……のか?」
「あぁ、間違いない。解除できた……けど、あんまり無茶するなよ」
あまつさえ、そんな言葉まで吐くのだった。
そのまま、狐塚透子に引っ張られて階段を
「……なんだかなぁ……」
「ふふっ、お優しいんですね。他の方を逃がすために嘘までついて……私は血を吸われた覚えなどありませんよ?」
銀髪の女の口が動く。声らしき物も聞こえるし、何か喋っているんだろうが……全く理解できない。というか喋っている内容に集中できない。耳が
「お喋りしたいならその催眠術解けよ」
「お気になさらず。私の『細誤魔』が効いていると確認できれば十分……っ!」
ぐんっと奴の体がこちらに向かってくる。その機を制するように、命令を呟く。
「『躓け』」
僕の命令通りに傾く体、その顔面に
「ぐっ……!?」
呻き声と共に、鼻から流れた
「何故……です」
「ん?血のことか?」
その場にしゃがんで、床の血を指で
「これで分かるか?同じ日に二度も同じ説明するのはめんどくさいんだが」
「違います……どうして、私の顔面を正確に蹴れたんです……?認識はできても、注目はできないはず……!」
「いや、命令したじゃん。『その催眠術解け』って」
「っ、あの時ですか……!」
女が目を
さて、そろそろ本格的に服従してもらうとしよう。女の顔に手を伸ばす。
「させません……っ」
「『動くな』」
手首に
邪魔がなくなったところで作業を再開する。女の頭部を両手で持ち上げ、鼻へ
「んぐっ、ふうっ、う……」
女が
「あーっ、まずかった」
「まぁ、いいか」
今日の所は、とりあえずここを去ることにした。
また会うことがあれば、今度こそ奴を僕の人形にしてやる。
「『付いてこい』」
来た道をそのまま戻る。女は人形らしく、何も言わず立ち上がり、付いてきた。
廃ビルを出ながら、ふと振り返る。あいつらは丁度、最上階でやり合っている所だろうか。ちらりとそんなことを思った。
・・・・・・
とある廃ビルの最上階。全員がその部屋に
「……ジャスト一時間。
椅子の上の花輪みちるが、現れた狐塚達に視線を向ける。その瞳は脳の
「私は、あんた以外を呼んだ覚えはないが?」
「来るなと言われた覚えもないからな」
岩倉和真が、強気にそう答える。その視線はしかと浅田泉を捉えていた。浅田は、彼らの登場に対して特別な反応は起こさず、ただ花輪の横に立っている。
花輪は、岩倉を
「……今度は、そいつを
「違……」
「違う」
狐塚が、岩倉の台詞を
「私は……あなたに、何かできることがないかって……」
「なら死ね……っ!」
花輪の小さな体から、殺意が滲み、溢れて部屋を満たしていく。
「あんたができることなんてねぇ、もう私の
その指示に無言で頷き、躯川誠は歩き出す。
足取りは常人のそれだが、躯川は既に『鉄迅』を発動させている。『鉄迅』とは、体のリミッターを自在にし、身体能力を爆発的に向上させる自己暗示型の催眠術。目の前に居る三人が
はずだった。
「『殴れ』」
躯川が三人の眼前に迫った時、それは起こった。短い自分自身への命令と共に、横江美和の右ストレートが躯川の
「ぐぅっ……!?」
その拳は、躯川にとって予想外のスピードだった。明らかに女子高生の
躯川が
目の端でその動きを捉えた躯川は、即座に岩倉へ手を伸ばした。
みちるを守る――彼の
だが、その手も届かない。
「『遮れ』」
今度はそんな横江の命令と共に、狐塚が彼の腕を
何故だ――躯川は二人の動きを思考する。
横江も狐塚も、身体能力は
何らかの催眠術を
だが、先程聞こえた命令は伊嶋君人の物ではなかった。女と男の
そこで躯川の思考は真実に
横江は、自分の精神を伊嶋君人の精神に『上書き』していた。
その真実に辿り着いた時、躯川は既に横江と狐塚をなぎ倒していた。二人の体は
俺は負けない。彼女らと自分で元の肉体が違う上に、あくまで他人を操ることを目的とした『血の糸』と『鉄迅』では肉体の強化に
そして何より、みちるのために戦う以上、俺が倒れることは絶対にない――。
躯川はそう想うと同時に、それを実現していた。
二人を
岩倉は既に花輪へ
だが、花輪にとってそれは問題にならない。今や
花輪は横の浅田の手を取り、岩倉に触れられる前に指を振ってそれを発動させる。狐塚透子から奪った催眠術、『苛烈幻覚』。
次の瞬間、
「うあっ……!」
先刻、カフェで狐塚がそうなったように岩倉もその場に倒れ、うずくまる。その状態から花輪の足首に手を伸ばすが、その手は距離が足りずに何もない場所をゆらゆらと空を切った。
花輪の『術喰らい』を解除するつもりだったのだろうか。その目的はかなわず、岩倉は彼女をただ睨むだけだった。
おかしい――。岩倉の一連の行動に、花輪が奇妙な違和感を抱いた。
こいつは私を睨むことしかできない……いや、何故、私を睨むことができる?私はこいつの五感を全て消したはずだ、お兄ちゃんの時と同じように。なのにどうして視覚が消えずに残っている?
握る手の感触を確かめる。浅田泉の手。彼女の『強化術』の発動条件は満たしている。今や『術喰らい』の『奪った催眠術は半分しか使えない』という約束はないに等しい。今使った『苛烈幻覚』は狐塚透子のそれと同じ強さで振るわれたはず。そのために
では、何故……真っ先に頭をよぎったのは『解除術』の存在だった。
事前に聞いていた情報では『自分自身にこの術を発動することはできない』とのことだったが……いつか、あるいは今ここで自己解除が可能になり、一部ながら私の『苛烈幻覚』に
それらしい
何にせよ、ここまで弱っているなら後はあいつがとどめを刺すだろう――。そう考える花輪の視線の先には、拳を振りかぶる躯川が居た。
そんな花輪の視線から、岩倉は攻撃の
その本の名前は、『現代催眠学基礎論』。何人足りともこの本に危害を加えることはできない、そんな呪いのような
躯川の拳が、表紙の寸前で止まる。
しかし、彼の思考は平静を失わない。
問題はない。この腕を差し出した状態での硬直が、岩倉に『解除術』を使うチャンスを与えてしまったのは事実だ。それでも、何ら問題はない。
肉体強化の『鉄迅』を解除されてしまったとしても、『苛烈幻覚』によって弱った岩倉なら。硬直が解けた後、素の腕力で
あるいは、みちるからかけられている『恋を知る人』を解除されても構わない。俺はそんな催眠術など関係なしに、みちるのことを愛しているのだから――。
しかし、躯川の腕を掴んだ人間は岩倉和真ではなかった。
今はもう、岩倉和真ではなかった。
・・・2・・・
俺は花輪みちるから繋がれた手を振りほどき、一歩前に出て、硬直した躯川誠の腕を掴んだ。そして、『強化術』を発動させる。すると、みぢっ、という肉の潰れるような音が鳴る。
次の瞬間、硬直の解けた躯川がその場に倒れた。
「っ、あ……!?」
倒れた体から、
「体のリミッターっていうのは、本来体を守るための物だ。外すならに
「あ、あ……」
痛みからか、躯川が気を失う。もう指を震わせることすらない。
「二号……!」
それと
「よお……久しぶり」
「二号!そうなんじゃないかと思ってた……花輪から『強化術』の話を聞いた時、浅田さんの話を聞いた時から……『強化術』を習得したのは浅田さんなんじゃないかって、浅田さんは、お前を蘇らせたんじゃないかって……!」
「ほら、感動の再会は後だ、今は……」
「俺はずっと、後悔してたんだ……お前を消したあの日、図書準備室で、あの日、どうしてお前に、『生きてていい』って言えなかったんだって……俺は……!」
一号が俺の台詞を無視して、勝手に
「ああ、そっか聞こえてないんだっけ……」
術者である花輪みちるへ、向き直る。彼女は椅子からよろよろと立ち上がりながら、俺を睨みつけて
「何でだ……っ、何で私を裏切れた!浅田泉!」
「お前まで聴覚がなくなったのか?今こいつが言ってただろ。俺は二号だ、浅田泉じゃない……あいつは今眠ってる、というか俺が乗っ取りをかけて眠らせた」
「そんなことはどうでもいい!いつ私の『恋を知る人』を解除した!?あんたと岩倉和真が会う瞬間など、今の今までなかったはず……」
「……違う。俺には元々、『恋を知る人』なんてかかってない」
「馬鹿な……!今までの
「それも違う。催眠術がかかったのは浅田泉で、俺じゃない。俺と浅田泉は別の人間……それだけなんだ」
「はぁ……?」
彼女は意味が分からないといった表情をしていた。それが全てを物語っている。
「俺は、泉の頭の中にしか居ない幻覚なんかじゃない……一つの人格を、魂を持った人間だ。こいつはそれを分かってて、お前は分からなかった。それが、全部なんだ」
「……何を、ごちゃごちゃとぉ!」
花輪が指を振る。するとぐわんと視界が揺れて、気付くと俺は床に手をついていた。しかし自分が倒れた音も、床に触れる感触もない。これが『苛烈幻覚』か。
けれどやはり、視覚は消えていない。俺の意識も。その目を開いて、花輪を見る。
「無駄だ……俺達の『強化術』がない『苛烈幻覚』じゃ、人を殺すことはできない。全部終わりなんだよ、花輪みちる」
標的が俺に移り、催眠の解けた一号が、花輪に背を向けた。そのまま倒れた躯川へ、迷いなく手を伸ばす。彼にかかった『恋を知る人』を解除するつもりなのだ。
「っ……」
花輪がそれを防ぐために標的を一号に変え、指をぶんぶんと振る。しかしそれを視界に入れていない一号に『苛烈幻覚』は発動しない。ただ俺への『苛烈幻覚』を解いただけだ。
催眠術が
「ぐっ、やめろぉ……っ!」
花輪が
「……解除が終わった。こいつはもう、お前の人形じゃない」
「あ……」
ふっ、と花輪から生気が
彼女にとって、躯川誠は何だったのか。想像に難くない。
「どうして……?」
さっきの叫び声で目覚めたのか、部屋の奥で気絶していた透子さんが起き上がって、こちらへ向かってきた。さっき使った右腕を押さえている。
「狐塚、透子ぉ……っ!」
一度は
「……その力が、どういうものなのか、あなたも知っていたはずなのに。そんな力では、あなたが望む物は決して手に入らないと知っていたはずなのに、どうして……!」
怒りに歪む瞳から透子さんは目を逸らさず、ただひたに見つめ返している。
「うるさいんだよ!元は全部あんたが悪いんだろうがっ、あんたさえ、居なければぁぁぁ……!」
花輪は
透子さんは、それでも花輪から目を逸らさなかった。それをかけられたとしても死にはしないから、という
例え五感を奪われたとしても自分は
ただ、そのどれも花輪にとっては意味のないことだった。彼女の目が、透子さんから俺へぎょろりと動く。
「あんたの『強化術』がない『苛烈幻覚』じゃ、人を殺すことはできない……だったか?それは間違いだよ。不完全なこれでも殺せる人間が、一人だけ、居る」
花輪が指を振る。その動きと
・・・・・・
暗く、静かで、味はなく、匂いもなく、冷たい。そんな世界に、私は居た。
視覚だけは消せなかった不完全な『苛烈幻覚』でも、それは自ら瞳を閉じることであっさりと実現した。
五感のない世界。私の思考以外が存在しない、閉じた世界。
ああ、ここで、お兄ちゃんは狂ったのか。
私が、既に狂っているからだろうか。ここはとても居心地が良い。
外のあいつらはどうしているだろう。最初は、私が死ぬことで狐塚透子がもっと
けれどもう、外のことについて考えることすら
意識が消えていく。まどろみとは違う、
誰でもこうなるのか、
このまま、消えてなくなればいい。
そんな想いは、外の何者かによって打ち砕かれた。
・・・1・・・
花輪みちるの身に何が起きたのか、把握した瞬間に彼女の体へと腕を伸ばす。
あの暗闇を、身をもって知っているから分かる。早く救い出さねば、
透子さんも二号も、
しかし、腕を取って『解除術』の発動を
彼女の触覚が遮断されているから、俺の『解除術』が使えない?
いや、催眠術の主体はあくまで俺だ。相手の感覚など関係ないはず……。
どちらが主体かなど、どうやって決める?俺の都合の良いように決められるものなのか?
……ネガティブな思考が頭をよぎる。これも伊嶋の時と同じだ。きっとこの思考も現実になり、俺の催眠術に悪い
特別な何かが必要だ。今のマイナスを取り返すための、何かが。
手を胸の前で
「『完成』っ!」
俺の宣言が、静かな部屋に響く。催眠術の『完成』……『これ以上この催眠術を変更しない』という約束を追加すること。
これで俺の催眠術は、能力が上がると
この
「……!和真君、今のは……」
透子さんの
俺が自己解除を覚えることにこだわっていた透子さんには、ショックがあったはずだ。
「先に言っておきますけど、透子さん。俺はこんな事態にならなくても、『自分には使えない』って約束を消すつもりはありませんでした……俺も、あなたの力に怯えない人間でありたい。けど、あなたが俺をそんな風に信じるために、『自己解除があるから』なんて理由があっちゃ駄目なんだ。それじゃあなたを救ったことにならない。俺はまず、あなたを救わなくちゃいけない」
花輪の腕を握ったまま、透子さんへ背中を向けたまま話を続ける。目を合わせずとも、伝わる物があると信じて。
「俺が助けるのは、近くの人からです」
そう語り終えてから、今話さなくてもよかったかなと
透子さんから、答えは返って来ない。代わりに、二号が俺と手のひらを重ねた。
「俺も手伝うよ。『強化術』でお前の『解除術』を強化する…………私も、頑張るね」
そう言って二号は……いや、浅田さんは俺を見た。流れるような人格の変化に驚いていると、重なる手のひらが増える。透子さんの手だ。
「私も、何ができるわけではないけれど……あなたの手を握っていてもいいかしら」
「……はい!」
重なる手が、じんわりと熱を帯びる。俺の催眠術なんかよりも、この熱こそが、最も意味のある物であるように感じた。
手のひらの神経に集中する。『強化術』の効果か、脳が熱い。自分の隠れていた才能が引きずり出されるみたいだ。
その熱を、手のひらを通して花輪に伝える。
透子さんは、向き合ってるぞ。だからお前も逃げるな、逃げるな!
「起きろ……!」
触れた腕が、ぴくっと
「あ……?」
花輪がぼうっとした目で、部屋を見回す。そして視界に俺達が映った
「っ、あんたら……っ!」
勢いよく体を起こし、花輪は俺の手を振り払う。そのまま背中が部屋の壁に付くまで
そしてもう一度自分の指を見つめて、振る。しかし今度は何も起こらない。
「『術喰らい』ごと解除したか……!何でだ!何であのまま私を殺さなかった!情けのつもりか?まだ!正義の味方のつもりなのか!」
「そうよっ!」
透子さんが立ち上がり、花輪に対して叫び返す。初めて聞く、透子さんの大声だった。
「私、何があってもあなたを助けるわ!あなたから逃げないと、決めたから……!」
「……あんたがそれを言うなぁっ!認めない!認めないぞ私はぁ!ふふ……そうだ、これが現実だなんて認めない……!」
花輪の
「私を目覚めさせた所で無意味なんだよ……あの暗闇の世界を体験した。その事実が重要なんだ、ただそれだけで、私はどうせいつか
「そんなっ、私は……」
透子さんの声が、花輪の笑い声にかき消される。
「あはははははっ!『術喰らい』が解けたってことは、『苛烈幻覚』もあんたに戻ったんだろう!?疑うに十分だ……私を助ける?逆だよ分かるか狐塚透子!あんたの存在が!また人を殺すんだよ!あんたのせいだ!あんたのせいで……ふふっ」
「っ、私は!そんな風に催眠術を使わない……信じて……」
そんな
「信じるものか!嘘だ、嘘だ……今見えてる世界も、私が生きてることすら、全部嘘……」
花輪を抱きしめた。
俺ではない。透子さんでもない。躯川誠が立ち上がり、抱きしめた。花輪が予想外のことに固まる。
「まこ、と……?」
「……これでもまだ、嘘だって言うのか」
躯川の
数秒、部屋はそのまま
その涙の色が、答えだろう。彼女の呪いが解ける瞬間を、俺は見た。
廃ビルの最上階に、泣き声が響く。それを聞いたのは彼女だけではない。俺達が居た。
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