5.5.鉄迅

 俺の体は思った通りに動く。走ろうと思えば走るし、跳ぼうと思えば跳ぶ。ただその具合が、他の人達とは違うと知ったのは小学生の頃だった。

 皆は全力で走っても、体が引き裂かれるような痛みを感じないそうだ。

 組織が壊れるほどの筋肉の躍動を『火事場の馬鹿力』と言う。通常の人間は強い危機感がなければそれを使えないのに対し、俺にそのストッパーはないらしい。

 心身共に健康でありながら、そのストッパーだけが欠如している俺のことを、病院の先生は不思議がっていた。自分の体なのだから、思った通りに、思えば思った分だけ動くのは至極当然だと思うのだが。むしろ、他の人間はそうではないことが、俺にとっては不思議だった。

 これからも俺の体は思った通りに動くだろう。そんな確信が一度も覆されないまま、俺は高校生になった。



・・・・・・



 俺、躯川誠には気になる女子が居る。名前は花輪みちる。

 背の小さな女の子で、その体は守ってあげたくなるような、抱え込んであげたくなるような不思議な魅力がある。

 そんな気持ち悪いことを考えてみたりする。



・・・・・・



 ある日、学校の裏庭で見かけた彼女はびしょ濡れだった。髪には藻のような緑がかった何かが付着しており、まさに今さっきまでいじめられていたような風体だった。

 呆然とその場に立ち尽くす彼女の視線は前方の木の頂点に向いていて、そこには彼女がいつも読んでいる真っ青な背表紙の本が引っかかっていた。

「花輪さん…………あー……その、災難だったな。大事な本まで……」

 初会話がこんなものになるとはと気まずい思いをしながら、言葉を選んで花輪さんに話しかける。

「違う。あれは私が濡らされる前に自分で……いや、これも違うな。あの本が自力で濡れるのを回避した。と言った方が正しいか」

 花輪さんが何か不可解なことを言ったが、特に説明のないまま、花輪さんは濡れた髪をぐしゃりとかき上げてこちらに向き直った。

「で、何か用?」

「……あの本、取ろうか」

 言うが早いか、俺はその場でジャンプした。そして木の頂点に手を伸ばし、目的の本を掴み取り、着地する。

「……ん」

 そして本を花輪さんに向かって差し出すと、彼女はそれを奪うように俺の手から取り、後ずさって俺から距離を取った。彼女の俺を見る視線は、警戒が含まれていた。

「今の跳躍……常人が出せる高さを越えてる。あんた……何者だ?」

「……人は筋肉を、本来の十分の一しか使えないらしい。百%の力を出すと、体が壊れるからストッパーがかかっているんだ。だけど俺には、そのストッパーがない。思えば思った分だけ、体が動く。俺は生まれた時からそれが当たり前だと思って生きてきたけどな」

 俺がそう答えると、彼女は青い背表紙の本を開いて、何かを確かめた。

「天然型……自己暗示の肉体特化か。デメリットは?」

 そう尋ねる彼女の視線にもう警戒はなく、何か俺を値踏みするような目つきに変わっていた。

「さっきぐらいのジャンプなら、ちょっとの間足が痺れる程度だな。その痺れも、本気を出せば一週間くらい先送りにできる」

「便利だな……」

 便利。この身体能力を見せて各スポーツ界から才能があるなど天下を獲れるなど言われたことはあるが、便利と評されたのは初めてだった。

「よし……あんたの好きな女の名前は?」

 何かを決めたように、花輪さんがポケットから濡れたメモとペンを取り出した。

「花輪……みちる」

「……ふざけてる?」

 花輪さんはメモから目を離さない。

「ずっと可愛いとは思ってたが……今日、いじめられてるのを知って……すごく、今花輪さんのことを守りたいと思ってる」

「悪趣味だな……まぁ、別にストックがあるわけじゃないし試すだけ試してみようか」

 花輪さんがメモに自分の名前を書き込んでいく。用紙はふやけてインクも滲んでいるが、器用にそれを書き終える。

 そしてそれを飲み込んだ。

「……えっ」

「ん……うんっ……はぁ、どうだ?」

「こっちの台詞だ……その、何故そんなことを」

「あぁー……テストしよう。『抵抗するな』」

 花輪さんがメモとペンから手を放して、俺の首に手をかけた。そこに彼女は思い切り力を込めて、俺の喉を絞める。

 すぐさま酸素が足りなくなって、頭の後ろが熱くなり、くらくらする。

 普通の人間なら、反射で首に力が入ったり暴れまわったり、服を汚してしまったりしてしまうんだろう。でも俺は俺の体を思い通りに動かせるので、彼女の命令通り無抵抗を貫くことができた。

「……息してよし」

「げほっ、えっ、ぐぅ……えほっ」

 彼女が手を放すと同時に、俺はその場に這いつくばってできる限りの息をした。数分かけて息が整い、話を聞く余裕ができると同時に花輪さんがもう一度口を開いた。

「……決まりだな。あんたは私の『恋を知る人』にかかった」

「恋を知る人?」

「私の催眠術だよ。これであんたは私の言いなり、お人形さんってわけだ」

「……?花輪さんの命令に従ったのは俺の意思だ。俺は催眠術なんかにかかっちゃいない」

「そういう風に『補正』がかかることも身をもって知ってる……催眠術でもなければ、黙って殺されるもんか。私が止めなきゃお前あのまま死んでたんだぞ?」

「でも、そうはしなかった。ちゃんと途中で止めた。絶対に俺を殺さないって信じてたから、俺は抵抗しなかったんだ」

「……何故見ず知らずの私を信じられる」

「……人を信じるのに、理由が要るか」

 俺がそう言うと、彼女は苛立つような、悲しいような、複雑な顔をした。



・・・・・・



 それから俺の自己暗示に『鉄迅』という名前が付いたり、みちるの生い立ちを聞いたり、一緒に復讐の計画を練ったり、試しにいじめていた奴に復讐したりしたのだが、語る価値はないので割愛させて頂く。

 それよりも語りたい、積極的に思い出したい過去がある。

 俺とみちるが、狐塚透子の居る街へ行くためのバスの中で、夕食を取っていた時のことだ。


「誠、このキャベツ食え」

「……ダメだ。ちゃんと野菜も食べた方が良い」

「食え」

「分かった」

 俺は花輪さんから弁当の容器を受け取り、キャベツを食べた。ソースが染みていて美味しかった。

 花輪さんは手を口に当てしばらく考え込んだ後、はっとして俺に尋ねた。

「お前……なんで私の命令に逆らえた?」

「……いや、命令通りちゃんと食べたが」

「その前に一度私の命令を否定しただろう。何でだ?お前は『恋を知る人』にかかったままのはず……奪った物だから術の強度が下がってる?そもそもこれくらいなら元から逆らえるのか……」

 思案する花輪さんに対して俺はたった一つのシンプルな答えを提示してみせる。

「だからいつも言ってるだろう。俺は最初から催眠術なんかにかかっちゃいないんだ」

 俺がこう言うと、花輪さんはいつも決まって『はいはい補正補正』と返すのだが、今回だけは違った。

「本当に……そうなのか?」

 花輪さんの瞳が儚げに揺らぐ。

「本当にお前は、私を、私になら殺されてもいいと思ってるぐらい、私を愛してくれているのか?」

 俺は、トンカツ弁当のレシートを二つに破いて、花輪さんの前に差し出した。

「試してみればいい」

 花輪さんはそれを震える手で、しかし丁寧に掴み取り、自分の口元へ持って行く。

 だが、それ以上手が進むことはなかった。

 口の手前で止まった手はそこで一層震えが酷くなり、ついに掴んでいた二枚のレシートをはらはらと落としてしまう。そのレシートに重なって、涙が落ちた。

「うっ……嫌だ……怖いぃ……!」

「……何が怖い?」

「うるさい……黙れぇ……!」

 俺の肩にしがみついて、彼女はしばらく泣いていた。そしてそのまま夜になって、車内が寝静まるとおもむろに腰を上げ、俺の膝の上に座った。

「……これは」

「お前、私を抱っこしたいって言ってただろ」

「言った」

「許可する」

「……いいのか?多分、四六時中、基本放さないと思うが」

「許可するっ」

 彼女の小さな体は、俺の中にすっぽりと収まった。自分のがたいの良さをこんなに祝福したことはなかった。

「それから……私のことは下の名前でみちるって呼び捨てにしろ」

「……みちる」

 みちるは俺の声に少し体を震わせた後、俺に完全に体を預けた。そして眠る前のような瞳で、独り言を呟く。

「……そうだ。私は復讐を誓ったんだ。そのためなら、もう他の誰も尊重しないとも決めた。今さら誰かをお兄ちゃんの代わりにしようなんて、それを理由に復讐をやめたりなんか、しない……」

 この独り言は、みちるの中のそれぞれの葛藤を解くために必要だったんだろう。俺は何も言えないまま、ただ彼女をひたすらに抱きしめた。

 何か伝わる物があると信じて。


 それから催眠塾を開くための準備をしたり、復讐のために狐塚透子を探る協力者を募ったり、催眠塾を乗っ取ろうとした生徒を返り討ちにしたりしたのだが、語る価値はないので割愛させていただく。

 これが、俺とみちるのこれまでの全てだ。



・・・・・・



「へぇ……そんなことが……」

 浅田泉が感嘆の声を漏らす。俺とみちるの馴れ初めが知りたいというので、話してやっていたところだ。

「確かに、みちるちゃんって小さいから、抱っこしたくなる……」

「黙れ。お喋りする暇があるなら、奴らがいつ来てもいいように気を張ってろ」

 みちるのその一言で、瞬時に俺も浅田泉も口を噤む。浅田泉のその命令への対応速度は軍人のような雰囲気を感じさせる。

 なるほど、おそらく『恋を知る人』の人を操る力は本物なのだろう。だが、俺にはなんらかの手違いで上手く発動しなかった。そうに違いない。

 そんな確信が一度も覆されないまま、時は来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る