5.恋を知る人

 井野いのうら雉男きじお。『百人に一人かかる催眠術』を使うと言われている、タレント。

 井野浦雉男の百人に一人を探す旅。全国を回り、各街かくまちの人々に片っ端から話しかけ、ロケ時間内に何人なんにん催眠術さいみんじゅつをかけられるかいどむ。そんな内容の、とあるバラエティの一コーナー。

 そのロケが、今日この街で行われるらしい。

 井野浦という男については、様々さまざまな可能性が考えられる。偽物にせものの催眠術師である可能性、本物ほんものの催眠術師である可能性。い催眠術師である可能性、わるい催眠術師である可能性。

 もし本物で、かつあく性質せいしつを持つ者であるなら。そんな男がこの街を歩くことを、私達は許してはいけない。

 私と宏登君は、二人でそのロケを監視かんしすることに決めた。

 そして当日、わせ場所の駅前へ行くと、宏登君と、彼の腕を抱く少女が居た。少女は何が気に入らないのか、私のことを睨みつけている。

「あんたが狐塚透子か……」

 少女は忌々いまいまに、私の名をつぶやいた。

「宏登君、この子は……」

「お兄ちゃんを下の名前で呼ぶな!」

 少女が私のすねげる。脛がにわかに痛みだす。

「こらみちるっ、蹴るな……!あぁ、紹介しょうかいするよ。こいつは俺の妹の花輪みちる。透子ちゃんの話したらついて来ちゃった」

 紹介されている間も少女は敵意を剥き出しにして私を牽制けんせいしていた。

 不得手ふえてだが、なるべく優しい声音こわねを意識して話しかける。

「そう……みちるちゃん。どうして今私のことを蹴ったの?」

「あなたが嫌いだから!私からお兄ちゃんうばおうとする泥棒どろぼうねこ!このっ、泥棒猫!」

 そのまま執拗にローキックを喰らう。両脛がジンジンと痛む。

「みちる!やめろったら!」

 宏登君がみちるちゃんを私の足元からはなした。攻撃が落ち着いた所で、もう一度いちど対話たいわこころみる。

「……あのね、みちるちゃん。私は別に、あなたからお兄ちゃんをろうだなんて……」

「……何で怒らない!」

 彼女は私の話の途中で、今度は地面を蹴りつけた。

「もっと冷徹れいてつな人だって聞いてたのに!子供相手にキレさせて、お兄ちゃんからの評価ひょうかげさせるつもりだったのに!」

「その……もう、これからはあまり人を嫌わないようにしようと思ったの。嫌いな所ばかり探すのは、やめようと……」

勝手かって改心かいしんするなぁっ!」

 勝手なのはどちらだろう。彼の妹は中々の性格をしているようだった。

「ごめんね、妹が粗相そそうを」

「とにかく……その子をむわけにはいかないわ。あなたはその子と帰りなさい。井野浦の監視は私が単独たんどくで行うから。今こうして話してる間にも、いつロケが始まるか……」

「ちょっとお話いいかなー?」

 後ろから話しかけられる。振り向くとそこにはカメラと集音しゅうおんマイクと、井野浦が居た。

 テレビ用の、貼り付けられたかのような井野浦の笑顔が、しかとこちらを捉えている。

「……っ」

 遠巻きに監視するつもりが、目標と接触してしまった。早く立ち去らねば。

「わぁー、井野浦雉男さんだぁ!百人に一人を探す旅ですよねこれ!」

「そうだよー」

「おい」

 宏登君は井野浦と楽しそうに握手あくしゅしていた。その腕をせて耳打みみうちする。

(何してるのよ)

「いやだってこれテレビだよ?俺達テレビ出れるんだよ?テンション上がらない?」

 彼の声は明るい。カメラを前に浮足うきあしっているようだ。

(あなた……最初の目的忘れてない?)

 小声で話している私達を見て、井野浦が不安気ふあんげな顔をする。

「あー、撮影さつえいNGかな?」

「いえ、大丈夫です!」

 何故かみちるちゃんが勝手に答える。

「お兄ちゃんが楽しそうにしてるだろ!合わせろ!」

 私はこめかみを押さえた。最初から一人で来ればよかった。

「三人の関係は?」

「友達と妹です」

「彼氏と泥棒猫です」

 二人が、井野浦とテレビ特有とくゆうの中身のない軽いトークを始める。

 ……作戦さくせん変更へんこうだ。実際にこの男の催眠術を受けてみよう。大丈夫だ、私は『現代催眠学基礎論』をあとがきと奥付おくづけ以外いがいのページを読み切った、催眠術の天才。多少たしょう先手せんてを取られても、無敵の『苛烈幻覚』ですぐに報復ほうふくできるはずだ。そもそも、この男が偽物である可能性も高い。

「よーし、じゃあ早速かけちゃうぞぉ!催眠術!あなたはレモンを甘く感じ~る、甘く感じ~る」

 井野浦がぶつくさとなえながら、仰々ぎょうぎょうしいおどりを見せる。

「はいできた!これ食べてみて!」

 皿にったさんれのレモンが、差し出された。

「すっぱい」

「すっぱい」

「すっぱい」

 誰の味覚も、変化することはなかった。

「あちゃあーっ!三連続失敗!仕方ありませんね、私の催眠術は百人に一人しかかからないので!気を取り直して次の方行ってみましょう!じゃあね、ご協力ありがとう!良い一日を!」

「ありがとうございます!」

 井野浦が手を振る。しかしそのままどこかに立ち去る気配がない。そしてカットの声がかかる。

「よし、編集へんしゅうてんできたね。じゃあ三人とも、これにサインしてくれる?」

 レモンの次は簡易的かんいてきけい約書やくしょが差し出された。差し出されたので読んでみると、どうやら出演しゅつえんすることに対し、合意ごういを求める物らしい。

「……こういうの、あるんですね」

「まぁ、これなしでやっちゃう所も多いけどね。うちはちゃんとやってるよ」

 花輪兄妹は特に迷いなく、差し出された契約書に名前を記していく。私もサインし終え、井野浦に提出する。

「ありがとー、オンエアをお楽しみに……」

 井野浦が契約書をチェックする途中、止まる。そして私に契約書を返した。

「……これ書いたの、君かな。読めないんだけど」

 私が書いたサインは、到底とうてい日本語にほんごとは認識にんしきできない文字で書かれていた。

「あれ?透子ちゃんやっぱテレビ出るの嫌?」

「お兄ちゃんの映像も一緒にボツになるだろ、あんたもサインしろ」

「ええ……そうするわ。ふざけてごめんなさい」 

 今度はきちんと日本語でサインする。

「……うん!今度こそOK!」

「これで俺も芸能人かぁ」

 違うと思う。

「良かったね、お兄ちゃん!」

「ははっ……さっき話した時も思ったけど、君は本当にお兄ちゃんが好きなんだね」

 井野浦がみちるちゃんを見つめる。

「うんうん、じゃあ今度こそ別の所へ行くよ!じゃあね、オンエアをお楽しみに!」

 そして、井野浦はスタッフ一同と共に駅前から移動し始めた。

「いやぁ、テレビで見た通りの明るい人だったなぁ」

 宏登君が遠ざかる井野浦を見送る。

「あなた……何か忘れてない?」

「……あっ、こっちもサイン貰えばよかった」

「そうじゃなくて。あの男がこの街にとって危険な存在かどうか、確かめるのが当初とうしょの目的だったでしょう」

「そうだった。じゃあ追いかける?」

 走ろうとする宏登君を留める。

「……いえ、もういいわ。結局私達にはかからなかったし……私の文字も読めなかったみたいだし。おそらくあの男は偽物でしょう」

「あぁ、あの文字あれか。『現代催眠学基礎論』に使われてた奴」

「ええ。本物の術師であれば読めるはずだし……そもそも、『百人に一人しかかからない』なんて約束を付けたりする術師はいないでしょう。使つか勝手がってが悪すぎるもの」

 みちるちゃんが私の脛を蹴った。唐突に。

「二人しか分からない話をするな!よく分からないけどねたましい!」

「こらみちる!」

「……今日は解散にしましょう。最終さいしゅう確認かくにんは、オンエアをお楽しみに、ということで」



 自宅のテレビで、くだんのコーナーを視聴する。私と花輪兄妹とのからみが流れた後、他の数人と似たようなくだりをして、街の紹介なども挟みつつ、最後に一人二人が催眠術にかかってめに入る。

「いやぁ、記録更新ならず!非常に残念です!ですがこの街の人達は良い人達ばっかりで、僕嬉しかったです!それでは、またいつかここで会いましょう!」

 そんな台詞で、終了。

 最後に催眠術にかかった二人も、どうにも胡散臭いリアクションだった。おそらく『百人に一人しかかからない』というみは、約束ではなくヤラセをやりやすくするための方便ほうべんだったのだろう。

 やはり、あの男は偽物だ。そう結論づけた所で、宏登君から電話がかかってきた。

『透子ちゃん!あいつやっぱ催眠術師だった!』

「……どういうこと?」

『っ、お兄ちゃんこれ解いて!私行かなきゃ駄目なの!駅前にっ、井野浦さんに会いに行かないとっ!』

 離れた所から、みちるちゃんの絶叫ぜっきょうが聞こえる。

『……聞こえただろう?オンエア見てからずっとこんな調子で、いくら止めても抵抗されるから今はふん縛ってるんだけど……なぁ、みちる。なんで井野浦さんに会いたいんだ?』

 声の主がみちるちゃんに変わる。

『決まってるでしょ!井野浦さんが大好きだから!』

 重度じゅうどのブラコンであるみちるちゃんからは、考えられない発言だった。催眠術によって心理を操られているとしか考えられない。

『くそっ……あいつ、みちるにこんな催眠術を……!』

 急いで玄関に向かい、くつく。

「宏登君……みちるちゃんの目的地は駅前なのね?」

『うん。何回も、駅前に行かないと。って言ってる……』

「分かったわ。あなたはそこでみちるちゃんを見ていて」

『あっ、ちょっ』

 通話を切り、玄関の扉を開く。



「……おかしいなぁ。俺はみちるちゃんって子を呼んだんだけど」

 ごう、と終電しゅうでんえきつ音がする。深夜しんやかった時間、人影は一人分ひとりぶんしか見えない。

「……私じゃ不足かしら?」

 駅前に、井野浦は居た。変装のつもりか、カメラの前ではしていなかったサングラスを付けている。

「そうだね。君達じゃあ、俺は満足できない」

「達……?」

 サングラス越しの瞳が、私の後ろを見据える。振り返ると宏登君が居た。

「宏登君。あなたは家に居なさいと……」

「一人で行かせる訳ないだろ……君を正義の味方に誘ったのは俺なんだから」

 宏登君が私の横に並ぶ。井野浦は、鼻を鳴らして彼の言葉を嘲笑あざわらった。この前見せた貼り付けられたような笑顔とは対照的たいしょうてきな、底意地そこいじの悪い笑顔だった。

「くくっ……正義の味方か。ていして俺をらしめにやってきたわけだ……たして上手く行くかな?自ら催眠術師だとかしてしまうような、残念な頭で」

 おそらく、私がサインにあの文字を使ったことを揶揄やゆしているのだろう。とどのつまり、奴はあの場面で読めないフリをしてすっとぼけていたわけだ。

「そうね……甘かったわ。次があれば、もう少しマシなさぶりを考えておきましょう」

「安心しろよ、次はない。今日から君たちは俺の奴隷どれいになるんだからな」

 そう言って、井野浦はふところから『現代催眠学基礎論』を取り出した。やはり奴もあれで催眠術を習得したのか。

「さっきの会話からして、催眠術が使えるのは君だけなんだろう!狐塚透子……だったか。君は、これをどこまで読んだ?」

「あとがきと奥付を除いた、全部」

「ま、そんな所だろうな、だが俺はこれを半分はんぶん以上いじょう解読かいどく……え?」

 ほうけた顔に『苛烈幻覚』を発動させる。相手の周辺しゅうへん重力じゅうりょくを強め、地面へはりつけにする。井野浦は叩きつけられるようにアスファルトにいつくばった。

「うぐっ……何……っ!?」

「私の催眠術は『苛烈幻覚』……対象の五感を操ることができる。逃げようとしても無駄よ」

「ば、馬鹿なぁっ!ここまで精密せいみつで、多元たげん同時的どうじてき幻覚げんかく、クソ重い約束でなければ実用できないはず!いつの間に約束を満たして……!?」

「指を振るだけよ……私やっぱり天才なのね」

 あの本の最後から二ページ目を読んでの覚醒以降、私の成長はめになっていたが……どうやら並みの術師を叩き潰すには十分らしい。

 倒れて動けない井野浦に二人で詰め寄る。落ちた『現代催眠学基礎論』を宏登君が回収した。

「さて、私の催眠術を明かした所だし、今度はあなたの催眠術を教えてもらおうかしら」

 井野浦が歯を食いしばって私達を見上げる。そして観念かんねんしたかのように視線をろし、口を開いた。

「『こいひと』……対象を自分に恋させる催眠術。同時に発動できる対象は四人まで。小指は四本しかないからな……けどそれを不便ふべんに思ったことはない。解除した後でも、写真なりなんなりでおどせば同じことなんだからな」

 宏登君が歯を食いしばって井野浦を見下ろす。

「それを、みちるにするつもりだったのか……!それを今まで、何人の人間にしてきた!」

「はっ、怒った顔が似合うなぁ、正義の味方ぁ!」

 井野浦の顔面を蹴り上げる。

「ぐあっ……!」

「次に聞いたこと以外について喋ったら、その口を潰すわよ」

 血をらした口が、嫌にゆがんで動く。

「はいはい……じゃあこれで説明は最後だ。発動条件は、対象が一番好いている人間の名前が書かれた紙を、飲み込むこと……こんな風に」

 そう言い放ち、井野浦は何かを飲み込んだ。

 こいつ……ずっと何かを口にふくんで……。

「……吐けっ!」

 もう一度指を振る。『苛烈幻覚』で胃を刺激しげきし、強制的に嘔吐おうとさせる。足元にびちゃびちゃと吐瀉物としゃぶつがまき散らされる。

「うっ、おえぇっ……!っはぁ、手荒てあらだな……けど無駄だよ。『飲み込んだ』時点で既に約束は果たされてる……俺だって不本意ふほんいだったんだぞ?男なんぞにこれを使うのは」

 宏登君が、横の私を突き飛ばした。

「くっ……!?」

「大丈夫か、井野浦さん!」

 そしてしゃがんで、井野浦の手を取った。

「宏登……君……?」

「はははははっ!俺が飲んだ紙に、何て書いてあったか教えてやる!『狐塚透子』だよ!こいつがお前を想う気持ちは、絶対ぜったい服従ふくじゅうのろいになって俺へ移し替えられた!」

 深夜の駅前に、不快な笑い声が響く。

「本当は『花輪宏登』を飲んだ時点で、みちるちゃんと同時にお前もめにしたつもりだったんだがな……なんとも思ってないのか、ただ無自覚なだけか。まぁどちらでもいい。これで形勢逆転だ。おい、この幻覚を解け」

「俺からもお願いだ、透子ちゃん。催眠を解いてくれ」

 宏登君が、井野浦の体に手を添えながらこちらに懇願こんがんする。

「……何を言ってるか分かってるの!?目を覚ましなさいっ、そいつはあなたの妹をなぶろうとしたのよ!」

「それでも、俺はこの人が好きなんだ!」

「さっき聞いたことを忘れたの!あなたのその想いこそ、催眠術で作られたまやかしなのよ!?」

「関係ない!好きだから!」

 何度呼びかけても、彼からは機械的きかいてきな答えしか返ってこない。自律的じりつてき意思いし決定けっていが奪われている様子だった。

「っ、街の平和を守るんじゃなかったの!」

「俺は、そんなことより……!」

 決定的だった。……普段の彼なら絶対言わないことを、彼は言った。否、言わされた。

 私は、私の逆鱗げきりんを知った。

「そう……これなのね。この能力の、催眠術の本質は……」

 人の精神をげ、操り、にじる。非道ひどうの極み。

「何をぶつぶつ言ってる。さっさと俺にかけた催眠を解くんだよ!早くしないとうっかりこいつに、自殺しろ。なんて言うかもしれないなぁ」

「『苛烈幻覚』」

 指を振る。宏登君は幻覚に倒れた。

「ん?気絶させたか。だが無駄だよ。『恋を知る人』の支配は肉体にまでおよぶ。俺が『起きろ』と命令すれば、どんな状態でも起き上がるんだ」

「なら、その命令が聞こえていないとしたら?」

 宏登君は倒れたまま動かない。

「視覚も聴覚も嗅覚も味覚も、触覚も!五感全て奪われた人間に対して、あなたはどうやって命令するのかしら」

「お前、まさか」

 指を振る。井野浦の体を燃やす。

「ぐあああっ!」

「解除法を教えなさい。それまで、あなたを殺し続ける」

 井野浦が酸欠さんけつの魚のように口を動かして、荒々あらあらしく息をする。

「はぁーっ、はぁー……拷問か。嫌に現実的な手段を取ってくるなぁ!正義の味方がやっていい真似じゃないだろ……!」

「お生憎あいにく。現実性が、私の役目だから」

 指を振る。く。かす。つぶす。千切ちぎる。でる。がす。す。そこで一番大きな悲鳴が上がった。

「あら……この針が一番痛いのね。じゃあ、ここから二日ぐらいはこれで行きましょうか」

 私のその宣言に、井野浦の表情は決壊けっかいする。

「が、紙ぃ!白紙はくしの紙を四枚飲めば、全部解除されっ」

 井野浦の服からメモちょうを取り出し、そのまま口に突っ込む。

「飲み込め」

 吐かせた時の応用おうようで、のどに刺激を与え、嚥下えんげさせる。

「んぐっ、うぅっ」

 それを確認して、更に指を振る。五感を遮断するのではなく、偽るのでもない。ただただ情報で窒息ちっそくさせる『苛烈幻覚』。

 井野浦はみにくい、れた断末魔だんまつまを残して、それきり動かなくなった。気絶させることができたようだ。

 駅前に、あるべき静寂がもどる。冷たく、むなしい夜風よかぜほほでた。

「……終わったわ。宏登君」

 彼にかけた催眠術を解く。

 これで五感が元に戻るはず……なのだが、何故か起き上がってこない。

「……宏登君?」

 しゃがんで、彼のみゃくはかる。正常だった。しかしいくら揺さぶっても何の反応もない。意識が戻らない。

 心臓が冷たく跳ねる。嫌な予感がする。私は、多少たしょう手荒てあらでも、催眠術で無理矢理むりやりに起こすことにした。

 それがごうぶかい力だと、理解しながら。

「起きて……!」

 脳に気付きつけになる刺激を送る。そうすると、彼は容易たやすく意識を取り戻した。

「う……」

 固いアスファルトの上で身をよじらせ、宏登君が起き上がる。

「あぁ、良かった……」

 彼の手を取ろうとする。寸前すんぜん、彼は私から退いた。

「うわぁあっ!」

 彼がひどおびえた様子を見せる。私は、彼が軽い錯乱さくらん状態じょうたいにあるのだと思った。視力しりょくが戻ったばかりで、私を敵か何かだと誤認ごにんしているのだと。

「……や、やめてくれ……っ!」

 しかし彼は、私の顔をしっかりと見据えてそう言った。

 ……初めてだった。彼の瞳ににごりのような物を見るのは。



 おろかだった。催眠術の本質ほんしつが、一人の人間から、全ての感覚をうばうということがどういうことか。私は結局けっきょく欠片かけらも分かっていなかった。

 私が奪ったのは、たかが数分。けれど、時すら感じられない彼にとって、その数分はまるで別の重さを持つ。

 何もない冷たい暗闇の中を、永遠にひとしいあいだただよった精神が、まともで居られるはずがない。ただその事実を、私は分かっていなかった。



「あんたをお兄ちゃんに会わせるわけにはいかない」

 井野浦を追い詰めてから一か月。不登校ふとうこうになった彼の自宅をたずねると、出てきたのは妹のみちるちゃんだった。

「会わせるわけにはいかない。って、どうして……」

「どうして?それはあんたが一番分かっているだろう?」

 彼女が、私を睨む。この前のような嫉妬などではない、明確めいかくな敵意が、その瞳には滲んでいた。

「……消えないんだと、言っていた」

 ぽつりぽつりと、語られる。

「五感を奪われる寸前に見た、揺れる指先が……消えないんだと言っていた。お兄ちゃんのまぶたの裏には、その残像ざんぞうがこびりついている。今この瞬間も、あんたに幻覚を見せられているんじゃないかと怯えている……どんな気持ちなんだろうね?目に映る物全て、現実かどうか確かめられないなんて」

「……そんな……」

「あんたに会えば、お兄ちゃんの病気はより重くなる……帰れ、せろ。あんたはお兄ちゃんの世界に居ていい存在じゃないんだ」

 そう言って、彼女が扉を閉めようとする。私はそれを止めるため、すぐさま指を立てた。指先に、冷たい視線が突き刺さる。

「私にも使うのか。それを……」

「ぐっ……!どいてっ!」

 指をたたみ、力づくで扉を開ける。歳が一回ひとまわり違う彼女の腕は、容易くぎょすることができた。

「なっ、待て……っ」

 彼女の制止を振り切り、家の廊下を進む。真っ直ぐ目指すのは宏登君の部屋だ。

 あり得ない。彼が私に怯えている?そんな訳がない。彼はそんな弱い人間ではない。

 部屋の扉を開け、彼と向かい合う。

「……久しぶりね。宏登君」

「あぁ……透子、ちゃん」

 彼が苦笑にがわらいながら私の名前を呼ぶ。その顔はやつれていて、瞳に、以前のような純粋さはなかった。

「どうして、学校に来ないの」

 彼は私から目を逸らして、数秒すうびょうなやんだ様子を見せてから、弱々よわよわしい声でつぶやいた。

「君に会うのが、怖かった……」

 目眩めまいがした。他人から言われた場合と、彼本人から言われる場合では、全く違う重さがあった。

「どうして……」

「何を見ても、何をしても、現実感がないんだ……君の『苛烈幻覚』なら、俺にどんな幻だって見せられる。そう考えたら、駅前で暗闇から目覚めたことでさえ……いや、それ以前の記憶が、確かな物かどうかすら……!」

「何を、馬鹿なことを……」

「あぁ……分からないだろうな。力を持つ君には、あの暗闇に囚われたことのない君には、馬鹿げた妄想を笑い飛ばせなくなった人間の気持ちなんて!」

 彼の眼球は震え、恐怖をしぼったかのような涙を流す。

「どうして、そんなこと言うの!私はあなたを幻覚で偽ったりしない!私が信じられないの!?」

 しつこく問い直す。どうしても認めたくなかった。認めて欲しくなかった。しかしその願いは、現実にならなかった。

「信じる理由がない!」

 彼の声が強く響く。まるで悲鳴だと、私は思った。

 私は彼を抱きしめようと思った。

何も信じられない彼が不憫ふびんで、なぐさめてあげたくて。ここに居る私は本物だと、知って欲しくて。

「宏登君……」

 扉から離れ、部屋の中央へ歩き、彼に向かって手を伸ばす。

「っ、うわあああっ!」

 彼は、私の頬を殴った。

 脳髄のうずいにぶい音が響いて、頬がじんじんとした熱を帯びる。血の味と匂いが、口腔こうくうにもたらされる。

 かたむいた首を彼に戻すと、その表情は恐怖に染まっていた。

「出てってくれ……」

 背中を壁につけ、殴った腕で自分の頭を抱える。そのまま体を壁にずるずるとこすりつけながら、彼はその場に座り込んだ。

「お願いだから……ここから出て行ってくれ……!」

 悲痛な声が、耳をすり抜けて心をむしばむ。そして突き刺さるように理解した。私は彼を幻で偽ったのではない。彼から現実を奪ってしまったのだ。

 彼の部屋で、呆然ぼうぜんと立ち尽くす。部屋の隅で縮こまっている彼は、まるで以前と別の命であるかのように思えた。

 不意に、服を掴まれて後ろに引っ張られる。抵抗する気力もなく、そのまま廊下へ連れ出される。

 私を連れ出したみちるちゃんは、ゆっくりと部屋の扉を閉じた。彼の姿が扉の向こうに消えていく。彼の世界から、断絶だんぜつされる。

「……気は済んだか?」

 彼女は冷たく言い放った。

「私達はすよ、この街を出る。お兄ちゃんが、二度とお前と出会わないようにな……だから、お前は二度とこの街を出るな」



 死のうと思った。私はもう、誰とも関わってはいけない存在だ。

 きっとそれすらも、彼への償いにはならないのだろう。全てが信じられない彼にとって、実在など関係がない。私の死すら信じられない以上、彼はありもしない幻覚に蝕まれ続けるのだ。

 普段の彼なら絶対言わないことを、彼は言った。否、言わされた。人の精神を捻じ曲げ、操り、踏み躙る。非道の極み。催眠術によって。

 彼だって頭では、この現実を疑うことがどれだけ不毛ふもうなことか分かっているはずだ。ただ、そんな風に強がるには、私の見せた悪夢はあまりに冷たすぎた。

 彼はもう、元の彼に戻ることはない。私の催眠術は、彼のことごとくをおかした。

 催眠術は呪われた力だ。この世にあってはならない。だから私は、死ぬ前にあの本を破棄はきすることにした。

 図書準備室に入り、『現代催眠学基礎論』を手に取る。そして用意したライターで火を点けようとした。

 しかし、どうしても着火ちゃっか機構きこうに指がかからない。

 おそらくこれも、この本にかけられた催眠術の一つなのだろう。何人足りともこの本に危害を加えることはできないのだ。

「あなた、死ねないのね……なら、私も死ねない」

 私はこの図書準備室に、この本と共に隠れ住むことにした。もう二度と、誰もこの本を開かないように。そして、誰も私と出会わないように。呪われた私と本を、ここに封印ふういんするのだ。

 椅子に座り、図書準備室を眺める。彼によって失われていた静寂が舞い戻り、私一人になったここを再びおおった。

 ふと、彼が持ってきたティーセットが目に入る。ここで暮らすなら、いずれあれの扱いも覚えねばならないだろう。こうなる前に、彼に紅茶の淹れ方を聞いておけば良かった。

「うぅ……っ」

 こうなる前に、彼に色んなことを聞きたかった。こうなる前に、彼と色んなことを話したかった。こうなる前に、彼と色んなことがしたかった。こうなる前に、こうなる前に……。

「うぁあああ……あああ……っ」

 図書準備室に、泣き声が響く。

 この閉じた世界で、それを聞いたのは私だけだった。



・・・・・・



「……これで、全部だ」

 そう言って、花輪みちるは口を閉じた。

 所々ところどころ私怨しえんじった過剰かじょうな表現や、不確実ふかくじつな補完が入っていたように思える。だが彼女の気迫きはくから察するに、しんがたいが、大筋おおすじは真実なのだろう。

「透子さんに、そんな過去が……」

 花輪が、ここに座った時のような微笑ほほえみをつくなおして、再度さいどおれ勧誘かんゆうする。

「これで分かっただろう?あの女はお兄ちゃんを廃人はいじんに追い込んだ……復讐ふくしゅうするはわれにあり。どうだ?『街の平和を守りたい』んだろう?なら真っ先に排除はいじょするべきはあの女だ。そうは思わないか?」

「……思わない」

 そう答えると、彼女のまゆが一瞬ピクリと動いた。

「確かに……透子さんがしたことは許されることじゃないと思う。でもわざとやったわけじゃない。俺はあの人が誰かをこわしてる所なんて、一度も見てない……だから、俺は透子さんを信じる」

 俺はもちろん、横江も伊嶋も廃人になったりしていない。後ろ二人は元からちょっとアレということもあるけど。

「そうか……甘いな。岩倉和真」

 彼女の微笑みが剥がれ落ちる。出てきたのはどこまでも冷徹れいてつな瞳。その冷たく鋭い視線が俺に向けられる。

「そりゃあ、お前はこれじゃ納得できないかもしれない。けど、俺から言わせれば許せないのはお前達だ!お前達が催眠塾なんて開かなければ、生まれなかった不幸がある……街の平和を守る。最初に言ったのはお兄さんなんだろう?そのお兄さんのための復讐なのに、こんなやり方間違ってる!」

「知ったことか!正しいとか間違ってるとか、もうそんなレベルの話じゃないんだよ!」

 花輪が激昂げっこうする。冷静に話ができる状態ではない。

 視線を上げ、彼女を抱えている男と目を合わせる。

「……躯川誠、だったか?お前は何でこいつと一緒に居るんだ」

「見て分からないか?俺がみちるのことを、愛してるからだよ」

 躯川が花輪を軽く持ち上げた。花輪がうざったそうに鼻を鳴らす。

「愛っ……そ、それならお前はこいつを止めなくちゃ駄目だろ!好きな人が復讐にかれているのを見て何にも思わないのか!?」

「正直……思う所はある」

「じゃあなんで止めない!」

「愛してるからだよ」

 躯川は、表情も声音も変えないで喋る。その様子が、俺に妙な迫力はくりょくを感じさせた。

「俺はみちるが大好きだ。行動こうどう基準きじゅんの全てがみちるなんだ……だから、みちるがやると言ったら俺はそれを手伝う。それがどんなことでも。これが俺の愛の形なんだ……これも、間違ってる。か?」

 自律的な意思決定が奪われているかのような、支離滅裂しりめつれつな物言い。それを聞いて理解する。

「催眠術か……!」

 こいつ、井野浦とかいう男と、同じタイプの催眠術を習得している。

「ははっ、ご名答」

 花輪はあっさりとそのごうを認めた。ついになるように躯川は首を振る。

「二人とも間違いだ。俺は催眠術なんかにかかっちゃいない。心の底からみちるを愛してるんだ」

「こんな風に自動で『補正ほせい』もかかる。便利だろう?」

 自嘲気味に笑いながら、彼女は躯川の胸を撫でた。

 躯川誠が催眠術によって洗脳せんのうされているなら……俺はそれを解除できる。そう思い付いた瞬間に、不意を突いて彼へ手を伸ばす。

 刹那せつなひたいに強い衝撃が走った。

「づっ……」

 続いて、背中を背もたれに強くぶつける。ばうん、と座席が大きくきしむ音がした。体にはたらいた力の向き、そして彼のかれたこぶし。そこで俺はようやく、自分が殴られたことに気付いた。

 拳が、全く見えなかった。

「くくっ……こいつの催眠術の名前は『鉄迅てつじん』。肉体にくたい強化きょうか自己じこ暗示あんじだ。伊嶋の人形と戦闘したことがあるだろう。それとこいつとじゃ、意識の有無、術としての強度、元の肉体が違う。あんたにはないよ」

「づぅっ……!おい、躯川!催眠術にかかってないつもりなら、俺に触れられたってかまわないはずだろ!」

 痛む額を押さえながら、躯川に向かって叫ぶ。

「そうだな……俺としても、是非ぜひみちるへの愛を証明したいんだが……駄目なんだ。みちるがそれを許容きょようしないかぎり、俺もそれを許容しない」

「……っ、めちゃくちゃだ、そんなの……!」

「あははっ、本当、便利で……意地の悪い力だよ」

 花輪がそう言いながら、躯川の肩を叩く。それを合図あいずに、躯川は彼女を腕から降ろした。自由になった花輪は俺の隣まで移動し、俺のかばんに手を伸ばした。

「狐塚透子をここに呼びたい。スマホはどこ?……って聞いても答えないか」

「やめ……うぐぅっ」

 彼女の腕をはらいのけようとするが、テーブル越しに躯川が俺の腕を掴み、テーブルに押し付けた。どれだけ力を入れても、躯川の拘束こうそくはぴくりとも動かない。

「言ったろう、勝ち目はない。無駄な抵抗はしないでくれ。あまりあんたをショッキングな見た目にしたくない。まんいち、狐塚透子がわれわすれるようなことがあれば不都合ふつごうなんだよ、そのまま静かにしていてくれ」

「っ、誰かぁ……っ!」

 カフェ中に届く声で助けを呼ぶ。しかし、きゃくたちだれ一人ひとりとしてこちらに振り返らなかった。

 その不自然ふしぜんさに、不気味な感覚をいだく。そういえば大声を出した時、殴られた時も視線を一切いっさい感じなかった。この異様いようは一体……。

「お気になさらず」

 二つ隣のテーブルに座る女性が、手に持つティーカップから目を離さないままそうつぶやく。すずしげな銀髪ぎんぱつが揺れていた。

「このカフェでは現在、『大声』も『暴力』も、『普通のこと』になっています。ですから安心して続きをどうぞ。お気になさらず、お気になさらず……」

 ……特定とくていの行動を、意識できなくさせる催眠術……?

 この状況は、あの人催眠術による物なのか。もしかしてあの人が、こいつらの言ってた、お友達。か?

「お前達、一体何人の術師を仲間に……」

「はは、何人も居たら良かったけどねぇ……あった」

 花輪が俺のスマホを取り出す。躯川に腕を掴まれている以上、奪い返すことはできない。

 そしてすいすいと操作して、目的の透子さんに通話をかける。

「もしもし。狐塚透子か?……うるさい、質問ならこっちに来てからしろ。廃ビル近くのカフェに来い。来なければこいつを殺す」

 花輪はそう言って、カメラで俺の姿を映した。

「それじゃあ……さて、とりあえず目的は果たした」

 用済ようずみになったスマホが雑に投げ捨てられる。躯川も俺の腕を離したが、掴まれていた箇所はずきずきと痛んだままだった。

「……これはただの暇潰しの雑談なんだけど、あんた、狐塚透子が来ると思うか?」

 悠々ゆうゆうと躯川の腕の中に戻った花輪が、俺にそう問いかける。

「……透子さんを呼んでどうするつもりだ?お前なら知ってるだろう。『苛烈幻覚』は無敵だ。何の勝算しょうさんがある?」

「先に私の質問に答えろよ」

「……来るさ。透子さんは来る。『街の平和を守る』……あの言葉に嘘はなかったと、俺はまだ信じてる」

 そう答えると、花輪が鼻を鳴らして笑った。

「ふっ……そうだね。あの女はまだ正義の味方ごっこを続けている。それが答えだよ。岩倉和真……まぁ、所詮しょせんけだが」

「どういう……ことだ」

ひとのろわばあなふたつ。あの女がお兄ちゃんを呪ったように、呪いは、あいつにもかかってるはずなんだ。きっとね……そうじゃなきゃ、おかしいだろうが」

 果てしない怒りに、彼女の瞳の光が揺れる。まるで、地獄の業火のようだった。



「さぁ、そろそろ来てもおかしくないはずなんだが」

 花輪が時計を眺める。

「やっぱり来ないんじゃないか、あの女。あんたのことなんかどうでもいいのかも……」

 そんなことを言いながら、俺の目を一瞥する。そして何かを感じ取ったのか、俺が答える前に一人で納得していた。

「はいはい。まだ信じてるわけね……どうしてそこまであの女のことを信じる」

「一度……いや、二度助けて貰った恩がある。そして何より、あの人自身が『信じて』って言ったんだ」

「……そっちの方が理由にならないだろう。愚かだ。あんたこそ、狐塚透子に洗脳されてるんじゃないか?」

「人を信じるのに、理由はらないはずだ」

 俺は、意図的に地雷をくことにした。俺と花輪の間にある空気が、歪み、震える。

「お兄さんも、愚かだったって言いたいのか」

「人を苛立たせるのが上手い奴だなぁ……!決めた……狐塚透子を殺したら、今度はお前を……」

 そこで、花輪の体が躯川の腕からがくんとずり落ちた。

「っ、誠!?」

 躯川が意識を失う。それを皮切かわきりに、カフェ中から人の倒れる音、食器等が割れる音が連鎖する。この空間に居る人間が次々つぎつぎに意識を失っていく。

 注目を操る催眠術師も同様に倒れ、意識があるのは俺と花輪だけになった。

「来たか……!」

 こんなことができる人を、俺は一人しか知らない。隣の何もない空間に、人影が現れる。

「狐塚透子ぉ……!」

 花輪が立ち上がり、透子さんを強く睨みつける。

「久しぶりね……みちるちゃん」

 俺は対峙たいじする透子さんの隣へ移動した。

「怪我はない?和真君」

「……大丈夫です。それから、向かいの席で倒れてるのが躯川誠です。あいつ、洗脳の催眠術で操られてました」

 透子さんがテーブルに置かれた『現代催眠学基礎論』を一瞥して、花輪に向き直る。

「やっぱりあなたがこの本を……どうしてこの街に?」

「……とぼけるなよ。復讐以外にないだろう」

 苦々にがにがしい顔で、透子さんはその答えを受け取った。その様子には衝撃しょうげき狼狽ろうばいもない。どこかで分かっていたのだろう。

「そう……なら、彼はいまだに……」

「お兄ちゃんのことか?お兄ちゃんは既に、あんたの呪縛じゅばくから逃れたよ」

 それを聞いて、透子さんの瞳にはっと希望がともる。だがその光は、すぐについえることになった。

「死んだからね」

 そう呟く花輪は、両目から涙を流している。しかしその表情には、愉悦ゆえつに満ちた笑顔が剥き出しになっていた。

「お兄ちゃんは死んだ、自殺だった……『もう何も信じられない』と書き残して、知らない内に死んでたよ……あはぁああ……!あんたがっ、殺したんだ!狐塚透子!あんたが殺したんだよぉ!ひひっ、はははははっ!」

 透子さんの顔が絶望に染まる。瞳孔どうこうが開き、足がふらついていた。

「そんな……」

「透子さん!しっかり!」

 揺れる手を握ると、冷や汗でしとどに濡れていた。きざみこまれたような震えが、手のひら越しに伝わってくる。

「次は私が質問する番だな、狐塚透子。あんたなんで、私を気絶させなかった?何の危害も加えず透明化とうめいかでここまで近付いた?……分かってるよ。情けのつもりなんだろう。まだ正義の味方のつもりなんだろう!……まぁ、答えはどうだっていいけどね。あんたは唯一ゆいいつ勝機しょうきを逃した。この賭けは私の勝ちだ」

 花輪が指を立てた。何か来る。

 それを制するべく透子さんが、少し錯乱の入った大きな動きで指を振った。しかし何も起こらない。

「……!?どうして……」

「無駄だよ。あんたの『苛烈幻覚』は、既に私が『喰らった』。もう私の物なんだよ……!」

 花輪の言葉が気になる。『喰らった』?『私の物』?

「まさか、相手の催眠術を、奪う催眠術……!?」

「ただ殺すだけじゃ収まんないんでねぇ。あんた達には、お兄ちゃんと同じ死に方をしてもらう……!『苛烈幻覚』」

 立てた指が、振られる。

「あ……ぐっ……!」

 繋いでいた手が引っ張られた。うめごえをあげながら透子さんが倒れる。

「透子さん!」

 花輪から聞いた話が想起そうきされ、嫌な予感が脳裏のうりを駆け巡る。それを振り払うように、透子さんが震えながら手をげた。

「大、丈夫よ……和真君。視覚だけは、残ってる。だから、大丈夫……」

 透子さんは息を荒くしながらそう答えた。手足の感触、平衡へいこう感覚かんかくも奪われているなら、まともには動けないはずだ。およそ無事とはいえないだろう。

 しかし、透子さんが正気しょうきを保っているのも確かだ。おそらくだが、『苛烈幻覚』による精神せいしん失調は五感全てを同時に奪われなければ起こらない。それは今の透子さんから、そして俺自身の体験からもうかがえる。

 何故、あいつは透子さんの視覚を奪わず残した?殺すつもりではなかったのか?

 がたっ、と音がした。視線を透子さんから花輪の方へ戻すと、彼女はテーブルに腕をつき、鼻から血を流していた。眼球は血走り、息も術を受けた透子さん以上に荒い。術を使ったことで自分もダメージを負っているようだった。

「ぐ……っ、視覚が丸々まるまるのこったか……しかも対象は一人に限定。半分じゃこんなもんか」

 花輪が空いた手で額を抑えながら俺を見る。その口振りから察するに、手加減したわけではないらしい。半分……おそらくそれが彼女が自分に課した約束の一つなのだろう。

「っなのに、この負荷ふかか……!やっぱあんた天才だよ。こんなもの百%で使ってなんともないなんてさぁ……!半分じゃまだ殺せないか……まぁいい。予想よそうどおりだ」

 予想通り……それが本当なら、別に『苛烈幻覚』を百%で使う手立てがあるということだ。そこで思い出す。『強化術』の存在を。強化した完全な『苛烈幻覚』を透子さんに使い、くるわせころす。それがあいつの計画。

 花輪に飛びかかる。『奪う催眠術』を解除し、計画を破綻はたんさせる。だが、俺が彼女に触れるよりも早く、彼女が躯川に指を振った。

「眠るな」

 次の瞬間、高速の拳が再び俺の額を穿うがつ。視界が揺れ、その場に倒れ込む。

「ぐあっ……!」

「和真、君……!」

 さっきは手加減されていたのか、まるで砲弾ほうだんのような拳だった。一撃で感覚が酩酊めいていし、体を動かせない。意識を保つのでやっとだった。

「みちる!」

 俺を殴り飛ばした躯川が、不安気に花輪の肩を抱く。

「起き抜けに一発ご苦労……次は私を抱えろ。実はもう立っているのも精一杯せいいっぱいなんだ」

「ああ、もちろん」

 ここに来た時のように、花輪は躯川に抱きかかえられた。躯川の腰の位置から、倒れた俺達を見下ろす。

「一時間後、廃ビルに来い……そこで終わらせる」

「……したがうとでも?」

「そうか……浅田泉という女子を知っているだろう?」

 花輪が俺の表情を見て、口角こうかくを上げる。

「彼女が人質ひとじちだ……あんたは正義の味方なんだろう?これで逃げるわけにはいかなくなったなぁ?それでは約束通り待っているよ……くくっ、あはははは!」

 笑う花輪を抱えて、躯川がカフェを出て行く。

 客も店員も、皆倒れて動かないまま。静寂がカフェを包んだ。



・・・・・・



 廃ビルのトイレ。私は個室で息をひそめていた。

「みちるちゃん、まだかなぁ……」

 そう呟くと同時に、扉の開く音がした。誰かがトイレに入ってきた。心臓が跳ねる。慌てて口をつぐむ。見つかっちゃいけない。お願いだからこの個室は調べないで……。

「……私だよ、泉。出ておいで」

「あ……みちるちゃん」

 ほっと胸をなで下ろして、個室から出る。

「誰にも見つからなかった?」

「うん」

「そう、じゃあいつもの部屋に戻ろうか」

 躯川さんが抱えるみちるちゃんと一緒に、最上階、彼女と出会った部屋に戻る。

「どうだった?みちるちゃん。上手くいった?」

「ああ。無事に狐塚透子から『苛烈幻覚』を奪えたよ」

「良かった……でも、それなら私も連れていってくれればよかったのに。そうすれば奪ったその場で狐塚さんを殺せたんじゃないの?」

「それだと、催眠術の奪取が上手くいかなかった時、あんたへの洗脳が解除されるかもしれなかったから」

「そっかぁ……」

 躯川さんが、みちるちゃんを椅子に降ろす。

「まぁ、全て計画通りだ。後はここで狐塚透子を待って……」

 みちるちゃんが台詞の途中で、椅子から落ちそうになる。咄嗟に躯川さんが彼女の体を支えた。

「っ、みちる!大丈夫か!?」

「……ああ、大丈夫ではないね……数分おきに意識が飛びそうになる。『術喰らい』『恋を知る人』『苛烈幻覚』……流石に三つは無茶むちゃだったな。のう味噌が耳から溢れ出そうだ……!」

 催眠術は、習得するだけで脳の容量を大きく消費しょうひする。通常つうじょう一人ひとりにつきひとつまでしか習得できない催眠術を三つも、脳に収める。何もしていなくても、脳にかかる負荷は尋常じんじょうじゃないはず。しかもその内一つは天才と呼ばれる狐塚さんの『苛烈幻覚』なのだから。

 それでも、血走ちばしった目でみちるちゃんは笑った。

「こんな状態で、無理矢理『苛烈幻覚』を使ったら、死ぬかもしれないな……」

「みちる……やっぱり」

「駄目だ。狐塚透子は『苛烈幻覚』で殺す……死んでもゆずらない」

 躯川さんはそれ以上何も言えず、口をつぐんだ。

 悲しいけれど、これがみちるちゃんの願いなのだ。私も黙ってその手伝いをしようと思う。

 終わりの時は近い。

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