5.恋を知る人
井野浦雉男の百人に一人を探す旅。全国を回り、
そのロケが、今日この街で行われるらしい。
井野浦という男については、
もし本物で、かつ
私と宏登君は、二人でそのロケを
そして当日、
「あんたが狐塚透子か……」
少女は
「宏登君、この子は……」
「お兄ちゃんを下の名前で呼ぶな!」
少女が私の
「こらみちるっ、蹴るな……!あぁ、
紹介されている間も少女は敵意を剥き出しにして私を
「そう……みちるちゃん。どうして今私のことを蹴ったの?」
「あなたが嫌いだから!私からお兄ちゃん
そのまま執拗にローキックを喰らう。両脛がジンジンと痛む。
「みちる!やめろったら!」
宏登君がみちるちゃんを私の足元から
「……あのね、みちるちゃん。私は別に、あなたからお兄ちゃんを
「……何で怒らない!」
彼女は私の話の途中で、今度は地面を蹴りつけた。
「もっと
「その……もう、これからはあまり人を嫌わないようにしようと思ったの。嫌いな所ばかり探すのは、やめようと……」
「
勝手なのはどちらだろう。彼の妹は中々の性格をしているようだった。
「ごめんね、妹が
「とにかく……その子を
「ちょっとお話いいかなー?」
後ろから話しかけられる。振り向くとそこにはカメラと
テレビ用の、貼り付けられたかのような井野浦の笑顔が、しかとこちらを捉えている。
「……っ」
遠巻きに監視するつもりが、目標と接触してしまった。早く立ち去らねば。
「わぁー、井野浦雉男さんだぁ!百人に一人を探す旅ですよねこれ!」
「そうだよー」
「おい」
宏登君は井野浦と楽しそうに
(何してるのよ)
「いやだってこれテレビだよ?俺達テレビ出れるんだよ?テンション上がらない?」
彼の声は明るい。カメラを前に
(あなた……最初の目的忘れてない?)
小声で話している私達を見て、井野浦が
「あー、
「いえ、大丈夫です!」
何故かみちるちゃんが勝手に答える。
「お兄ちゃんが楽しそうにしてるだろ!合わせろ!」
私はこめかみを押さえた。最初から一人で来ればよかった。
「三人の関係は?」
「友達と妹です」
「彼氏と泥棒猫です」
二人が、井野浦とテレビ
……
「よーし、じゃあ早速かけちゃうぞぉ!催眠術!あなたはレモンを甘く感じ~る、甘く感じ~る」
井野浦がぶつくさ
「はいできた!これ食べてみて!」
皿に
「すっぱい」
「すっぱい」
「すっぱい」
誰の味覚も、変化することはなかった。
「あちゃあーっ!三連続失敗!仕方ありませんね、私の催眠術は百人に一人しかかからないので!気を取り直して次の方行ってみましょう!じゃあね、ご協力ありがとう!良い一日を!」
「ありがとうございます!」
井野浦が手を振る。しかしそのままどこかに立ち去る気配がない。そしてカットの声がかかる。
「よし、
レモンの次は
「……こういうの、あるんですね」
「まぁ、これなしでやっちゃう所も多いけどね。うちはちゃんとやってるよ」
花輪兄妹は特に迷いなく、差し出された契約書に名前を記していく。私もサインし終え、井野浦に提出する。
「ありがとー、オンエアをお楽しみに……」
井野浦が契約書をチェックする途中、止まる。そして私に契約書を返した。
「……これ書いたの、君かな。読めないんだけど」
私が書いたサインは、
「あれ?透子ちゃんやっぱテレビ出るの嫌?」
「お兄ちゃんの映像も一緒にボツになるだろ、あんたもサインしろ」
「ええ……そうするわ。ふざけてごめんなさい」
今度はきちんと日本語でサインする。
「……うん!今度こそOK!」
「これで俺も芸能人かぁ」
違うと思う。
「良かったね、お兄ちゃん!」
「ははっ……さっき話した時も思ったけど、君は本当にお兄ちゃんが好きなんだね」
井野浦がみちるちゃんを見つめる。
「うんうん、じゃあ今度こそ別の所へ行くよ!じゃあね、オンエアをお楽しみに!」
そして、井野浦はスタッフ一同と共に駅前から移動し始めた。
「いやぁ、テレビで見た通りの明るい人だったなぁ」
宏登君が遠ざかる井野浦を見送る。
「あなた……何か忘れてない?」
「……あっ、こっちもサイン貰えばよかった」
「そうじゃなくて。あの男がこの街にとって危険な存在かどうか、確かめるのが
「そうだった。じゃあ追いかける?」
走ろうとする宏登君を留める。
「……いえ、もういいわ。結局私達にはかからなかったし……私の文字も読めなかったみたいだし。おそらくあの男は偽物でしょう」
「あぁ、あの文字あれか。『現代催眠学基礎論』に使われてた奴」
「ええ。本物の術師であれば読めるはずだし……そもそも、『百人に一人しかかからない』なんて約束を付けたりする術師はいないでしょう。
みちるちゃんが私の脛を蹴った。唐突に。
「二人しか分からない話をするな!よく分からないけど
「こらみちる!」
「……今日は解散にしましょう。
自宅のテレビで、
「いやぁ、記録更新ならず!非常に残念です!ですがこの街の人達は良い人達ばっかりで、僕嬉しかったです!それでは、またいつかここで会いましょう!」
そんな台詞で、終了。
最後に催眠術にかかった二人も、どうにも胡散臭いリアクションだった。おそらく『百人に一人しかかからない』という
やはり、あの男は偽物だ。そう結論づけた所で、宏登君から電話がかかってきた。
『透子ちゃん!あいつやっぱ催眠術師だった!』
「……どういうこと?」
『っ、お兄ちゃんこれ解いて!私行かなきゃ駄目なの!駅前にっ、井野浦さんに会いに行かないとっ!』
離れた所から、みちるちゃんの
『……聞こえただろう?オンエア見てからずっとこんな調子で、いくら止めても抵抗されるから今はふん縛ってるんだけど……なぁ、みちる。なんで井野浦さんに会いたいんだ?』
声の主がみちるちゃんに変わる。
『決まってるでしょ!井野浦さんが大好きだから!』
『くそっ……あいつ、みちるにこんな催眠術を……!』
急いで玄関に向かい、
「宏登君……みちるちゃんの目的地は駅前なのね?」
『うん。何回も、駅前に行かないと。って言ってる……』
「分かったわ。あなたはそこでみちるちゃんを見ていて」
『あっ、ちょっ』
通話を切り、玄関の扉を開く。
「……おかしいなぁ。俺はみちるちゃんって子を呼んだんだけど」
ごう、と
「……私じゃ不足かしら?」
駅前に、井野浦は居た。変装のつもりか、カメラの前ではしていなかったサングラスを付けている。
「そうだね。君達じゃあ、俺は満足できない」
「達……?」
サングラス越しの瞳が、私の後ろを見据える。振り返ると宏登君が居た。
「宏登君。あなたは家に居なさいと……」
「一人で行かせる訳ないだろ……君を正義の味方に誘ったのは俺なんだから」
宏登君が私の横に並ぶ。井野浦は、鼻を鳴らして彼の言葉を
「くくっ……正義の味方か。
おそらく、私がサインにあの文字を使ったことを
「そうね……甘かったわ。次があれば、もう少しマシな
「安心しろよ、次はない。今日から君たちは俺の
そう言って、井野浦は
「さっきの会話からして、催眠術が使えるのは君だけなんだろう!狐塚透子……だったか。君は、これをどこまで読んだ?」
「あとがきと奥付を除いた、全部」
「ま、そんな所だろうな、だが俺はこれを
「うぐっ……何……っ!?」
「私の催眠術は『苛烈幻覚』……対象の五感を操ることができる。逃げようとしても無駄よ」
「ば、馬鹿なぁっ!ここまで
「指を振るだけよ……私やっぱり天才なのね」
あの本の最後から二ページ目を読んでの覚醒以降、私の成長は
倒れて動けない井野浦に二人で詰め寄る。落ちた『現代催眠学基礎論』を宏登君が回収した。
「さて、私の催眠術を明かした所だし、今度はあなたの催眠術を教えてもらおうかしら」
井野浦が歯を食いしばって私達を見上げる。そして
「『
宏登君が歯を食いしばって井野浦を見下ろす。
「それを、みちるにするつもりだったのか……!それを今まで、何人の人間にしてきた!」
「はっ、怒った顔が似合うなぁ、正義の味方ぁ!」
井野浦の顔面を蹴り上げる。
「ぐあっ……!」
「次に聞いたこと以外について喋ったら、その口を潰すわよ」
血を
「はいはい……じゃあこれで説明は最後だ。発動条件は、対象が一番好いている人間の名前が書かれた紙を、飲み込むこと……こんな風に」
そう言い放ち、井野浦は何かを飲み込んだ。
こいつ……ずっと何かを口に
「……吐けっ!」
もう一度指を振る。『苛烈幻覚』で胃を
「うっ、おえぇっ……!っはぁ、
宏登君が、横の私を突き飛ばした。
「くっ……!?」
「大丈夫か、井野浦さん!」
そしてしゃがんで、井野浦の手を取った。
「宏登……君……?」
「はははははっ!俺が飲んだ紙に、何て書いてあったか教えてやる!『狐塚透子』だよ!こいつがお前を想う気持ちは、
深夜の駅前に、不快な笑い声が響く。
「本当は『花輪宏登』を飲んだ時点で、みちるちゃんと同時にお前も
「俺からもお願いだ、透子ちゃん。催眠を解いてくれ」
宏登君が、井野浦の体に手を添えながらこちらに
「……何を言ってるか分かってるの!?目を覚ましなさいっ、そいつはあなたの妹を
「それでも、俺はこの人が好きなんだ!」
「さっき聞いたことを忘れたの!あなたのその想いこそ、催眠術で作られたまやかしなのよ!?」
「関係ない!好きだから!」
何度呼びかけても、彼からは
「っ、街の平和を守るんじゃなかったの!」
「俺は、そんなことより……!」
決定的だった。……普段の彼なら絶対言わないことを、彼は言った。否、言わされた。
私は、私の
「そう……これなのね。この能力の、催眠術の本質は……」
人の精神を
「何をぶつぶつ言ってる。さっさと俺にかけた催眠を解くんだよ!早くしないとうっかりこいつに、自殺しろ。なんて言うかもしれないなぁ」
「『苛烈幻覚』」
指を振る。宏登君は幻覚に倒れた。
「ん?気絶させたか。だが無駄だよ。『恋を知る人』の支配は肉体にまで
「なら、その命令が聞こえていないとしたら?」
宏登君は倒れたまま動かない。
「視覚も聴覚も嗅覚も味覚も、触覚も!五感全て奪われた人間に対して、あなたはどうやって命令するのかしら」
「お前、まさか」
指を振る。井野浦の体を燃やす。
「ぐあああっ!」
「解除法を教えなさい。それまで、あなたを殺し続ける」
井野浦が
「はぁーっ、はぁー……拷問か。嫌に現実的な手段を取ってくるなぁ!正義の味方がやっていい真似じゃないだろ……!」
「お
指を振る。
「あら……この針が一番痛いのね。じゃあ、ここから二日ぐらいはこれで行きましょうか」
私のその宣言に、井野浦の表情は
「が、紙ぃ!
井野浦の服からメモ
「飲み込め」
吐かせた時の
「んぐっ、うぅっ」
それを確認して、更に指を振る。五感を遮断するのではなく、偽るのでもない。ただただ情報で
井野浦は
駅前に、あるべき静寂が
「……終わったわ。宏登君」
彼にかけた催眠術を解く。
これで五感が元に戻るはず……なのだが、何故か起き上がってこない。
「……宏登君?」
しゃがんで、彼の
心臓が冷たく跳ねる。嫌な予感がする。私は、
それが
「起きて……!」
脳に
「う……」
固いアスファルトの上で身を
「あぁ、良かった……」
彼の手を取ろうとする。
「うわぁあっ!」
彼が
「……や、やめてくれ……っ!」
しかし彼は、私の顔をしっかりと見据えてそう言った。
……初めてだった。彼の瞳に
私が奪ったのは、たかが数分。けれど、時すら感じられない彼にとって、その数分はまるで別の重さを持つ。
何もない冷たい暗闇の中を、永遠に
「あんたをお兄ちゃんに会わせるわけにはいかない」
井野浦を追い詰めてから一か月。
「会わせるわけにはいかない。って、どうして……」
「どうして?それはあんたが一番分かっているだろう?」
彼女が、私を睨む。この前のような嫉妬などではない、
「……消えないんだと、言っていた」
ぽつりぽつりと、語られる。
「五感を奪われる寸前に見た、揺れる指先が……消えないんだと言っていた。お兄ちゃんのまぶたの裏には、その
「……そんな……」
「あんたに会えば、お兄ちゃんの病気はより重くなる……帰れ、
そう言って、彼女が扉を閉めようとする。私はそれを止めるため、すぐさま指を立てた。指先に、冷たい視線が突き刺さる。
「私にも使うのか。それを……」
「ぐっ……!どいてっ!」
指を
「なっ、待て……っ」
彼女の制止を振り切り、家の廊下を進む。真っ直ぐ目指すのは宏登君の部屋だ。
あり得ない。彼が私に怯えている?そんな訳がない。彼はそんな弱い人間ではない。
部屋の扉を開け、彼と向かい合う。
「……久しぶりね。宏登君」
「あぁ……透子、ちゃん」
彼が
「どうして、学校に来ないの」
彼は私から目を逸らして、
「君に会うのが、怖かった……」
「どうして……」
「何を見ても、何をしても、現実感がないんだ……君の『苛烈幻覚』なら、俺にどんな幻だって見せられる。そう考えたら、駅前で暗闇から目覚めたことでさえ……いや、それ以前の記憶が、確かな物かどうかすら……!」
「何を、馬鹿なことを……」
「あぁ……分からないだろうな。力を持つ君には、あの暗闇に囚われたことのない君には、馬鹿げた妄想を笑い飛ばせなくなった人間の気持ちなんて!」
彼の眼球は震え、恐怖を
「どうして、そんなこと言うの!私はあなたを幻覚で偽ったりしない!私が信じられないの!?」
しつこく問い直す。どうしても認めたくなかった。認めて欲しくなかった。しかしその願いは、現実にならなかった。
「信じる理由がない!」
彼の声が強く響く。まるで悲鳴だと、私は思った。
私は彼を抱きしめようと思った。
何も信じられない彼が
「宏登君……」
扉から離れ、部屋の中央へ歩き、彼に向かって手を伸ばす。
「っ、うわあああっ!」
彼は、私の頬を殴った。
「出てってくれ……」
背中を壁につけ、殴った腕で自分の頭を抱える。そのまま体を壁にずるずると
「お願いだから……ここから出て行ってくれ……!」
悲痛な声が、耳をすり抜けて心を
彼の部屋で、
不意に、服を掴まれて後ろに引っ張られる。抵抗する気力もなく、そのまま廊下へ連れ出される。
私を連れ出したみちるちゃんは、ゆっくりと部屋の扉を閉じた。彼の姿が扉の向こうに消えていく。彼の世界から、
「……気は済んだか?」
彼女は冷たく言い放った。
「私達は
死のうと思った。私はもう、誰とも関わってはいけない存在だ。
きっとそれすらも、彼への償いにはならないのだろう。全てが信じられない彼にとって、実在など関係がない。私の死すら信じられない以上、彼はありもしない幻覚に蝕まれ続けるのだ。
普段の彼なら絶対言わないことを、彼は言った。否、言わされた。人の精神を捻じ曲げ、操り、踏み躙る。非道の極み。催眠術によって。
彼だって頭では、この現実を疑うことがどれだけ
彼はもう、元の彼に戻ることはない。私の催眠術は、彼のことごとくを
催眠術は呪われた力だ。この世にあってはならない。だから私は、死ぬ前にあの本を
図書準備室に入り、『現代催眠学基礎論』を手に取る。そして用意したライターで火を点けようとした。
しかし、どうしても
おそらくこれも、この本にかけられた催眠術の一つなのだろう。何人足りともこの本に危害を加えることはできないのだ。
「あなた、死ねないのね……なら、私も死ねない」
私はこの図書準備室に、この本と共に隠れ住むことにした。もう二度と、誰もこの本を開かないように。そして、誰も私と出会わないように。呪われた私と本を、ここに
椅子に座り、図書準備室を眺める。彼によって失われていた静寂が舞い戻り、私一人になったここを再び
ふと、彼が持ってきたティーセットが目に入る。ここで暮らすなら、いずれあれの扱いも覚えねばならないだろう。こうなる前に、彼に紅茶の淹れ方を聞いておけば良かった。
「うぅ……っ」
こうなる前に、彼に色んなことを聞きたかった。こうなる前に、彼と色んなことを話したかった。こうなる前に、彼と色んなことがしたかった。こうなる前に、こうなる前に……。
「うぁあああ……あああ……っ」
図書準備室に、泣き声が響く。
この閉じた世界で、それを聞いたのは私だけだった。
・・・・・・
「……これで、全部だ」
そう言って、花輪みちるは口を閉じた。
「透子さんに、そんな過去が……」
花輪が、ここに座った時のような
「これで分かっただろう?あの女はお兄ちゃんを
「……思わない」
そう答えると、彼女の
「確かに……透子さんがしたことは許されることじゃないと思う。でもわざとやったわけじゃない。俺はあの人が誰かを
俺はもちろん、横江も伊嶋も廃人になったりしていない。後ろ二人は元からちょっとアレということもあるけど。
「そうか……甘いな。岩倉和真」
彼女の微笑みが剥がれ落ちる。出てきたのはどこまでも
「そりゃあ、お前はこれじゃ納得できないかもしれない。けど、俺から言わせれば許せないのはお前達だ!お前達が催眠塾なんて開かなければ、生まれなかった不幸がある……街の平和を守る。最初に言ったのはお兄さんなんだろう?そのお兄さんのための復讐なのに、こんなやり方間違ってる!」
「知ったことか!正しいとか間違ってるとか、もうそんなレベルの話じゃないんだよ!」
花輪が
視線を上げ、彼女を抱えている男と目を合わせる。
「……躯川誠、だったか?お前は何でこいつと一緒に居るんだ」
「見て分からないか?俺がみちるのことを、愛してるからだよ」
躯川が花輪を軽く持ち上げた。花輪がうざったそうに鼻を鳴らす。
「愛っ……そ、それならお前はこいつを止めなくちゃ駄目だろ!好きな人が復讐に
「正直……思う所はある」
「じゃあなんで止めない!」
「愛してるからだよ」
躯川は、表情も声音も変えないで喋る。その様子が、俺に妙な
「俺はみちるが大好きだ。
自律的な意思決定が奪われているかのような、
「催眠術か……!」
こいつ、井野浦とかいう男と、同じタイプの催眠術を習得している。
「ははっ、ご名答」
花輪はあっさりとその
「二人とも間違いだ。俺は催眠術なんかにかかっちゃいない。心の底からみちるを愛してるんだ」
「こんな風に自動で『
自嘲気味に笑いながら、彼女は躯川の胸を撫でた。
躯川誠が催眠術によって
「づっ……」
続いて、背中を背もたれに強くぶつける。ばうん、と座席が大きく
拳が、全く見えなかった。
「くくっ……こいつの催眠術の名前は『
「づぅっ……!おい、躯川!催眠術にかかってないつもりなら、俺に触れられたって
痛む額を押さえながら、躯川に向かって叫ぶ。
「そうだな……俺としても、
「……っ、めちゃくちゃだ、そんなの……!」
「あははっ、本当、便利で……意地の悪い力だよ」
花輪がそう言いながら、躯川の肩を叩く。それを
「狐塚透子をここに呼びたい。スマホはどこ?……って聞いても答えないか」
「やめ……うぐぅっ」
彼女の腕を
「言ったろう、勝ち目はない。無駄な抵抗はしないでくれ。あまりあんたをショッキングな見た目にしたくない。
「っ、誰かぁ……っ!」
カフェ中に届く声で助けを呼ぶ。しかし、
その
「お気になさらず」
二つ隣のテーブルに座る女性が、手に持つティーカップから目を離さないままそう
「このカフェでは現在、『大声』も『暴力』も、『普通のこと』になっています。ですから安心して続きをどうぞ。お気になさらず、お気になさらず……」
……
この状況は、あの人催眠術による物なのか。もしかしてあの人が、こいつらの言ってた、お友達。か?
「お前達、一体何人の術師を仲間に……」
「はは、何人も居たら良かったけどねぇ……あった」
花輪が俺のスマホを取り出す。躯川に腕を掴まれている以上、奪い返すことはできない。
そしてすいすいと操作して、目的の透子さんに通話をかける。
「もしもし。狐塚透子か?……うるさい、質問ならこっちに来てからしろ。廃ビル近くのカフェに来い。来なければこいつを殺す」
花輪はそう言って、カメラで俺の姿を映した。
「それじゃあ……さて、とりあえず目的は果たした」
「……これはただの暇潰しの雑談なんだけど、あんた、狐塚透子が来ると思うか?」
「……透子さんを呼んでどうするつもりだ?お前なら知ってるだろう。『苛烈幻覚』は無敵だ。何の
「先に私の質問に答えろよ」
「……来るさ。透子さんは来る。『街の平和を守る』……あの言葉に嘘はなかったと、俺はまだ信じてる」
そう答えると、花輪が鼻を鳴らして笑った。
「ふっ……そうだね。あの女はまだ正義の味方ごっこを続けている。それが答えだよ。岩倉和真……まぁ、
「どういう……ことだ」
「
果てしない怒りに、彼女の瞳の光が揺れる。まるで、地獄の業火のようだった。
「さぁ、そろそろ来てもおかしくないはずなんだが」
花輪が時計を眺める。
「やっぱり来ないんじゃないか、あの女。あんたのことなんかどうでもいいのかも……」
そんなことを言いながら、俺の目を一瞥する。そして何かを感じ取ったのか、俺が答える前に一人で納得していた。
「はいはい。まだ信じてるわけね……どうしてそこまであの女のことを信じる」
「一度……いや、二度助けて貰った恩がある。そして何より、あの人自身が『信じて』って言ったんだ」
「……そっちの方が理由にならないだろう。愚かだ。あんたこそ、狐塚透子に洗脳されてるんじゃないか?」
「人を信じるのに、理由は
俺は、意図的に地雷を
「お兄さんも、愚かだったって言いたいのか」
「人を苛立たせるのが上手い奴だなぁ……!決めた……狐塚透子を殺したら、今度はお前を……」
そこで、花輪の体が躯川の腕からがくんとずり落ちた。
「っ、誠!?」
躯川が意識を失う。それを
注目を操る催眠術師も同様に倒れ、意識があるのは俺と花輪だけになった。
「来たか……!」
こんなことができる人を、俺は一人しか知らない。隣の何もない空間に、人影が現れる。
「狐塚透子ぉ……!」
花輪が立ち上がり、透子さんを強く睨みつける。
「久しぶりね……みちるちゃん」
俺は
「怪我はない?和真君」
「……大丈夫です。それから、向かいの席で倒れてるのが躯川誠です。あいつ、洗脳の催眠術で操られてました」
透子さんがテーブルに置かれた『現代催眠学基礎論』を一瞥して、花輪に向き直る。
「やっぱりあなたがこの本を……どうしてこの街に?」
「……とぼけるなよ。復讐以外にないだろう」
「そう……なら、彼はいまだに……」
「お兄ちゃんのことか?お兄ちゃんは既に、あんたの
それを聞いて、透子さんの瞳にはっと希望が
「死んだからね」
そう呟く花輪は、両目から涙を流している。しかしその表情には、
「お兄ちゃんは死んだ、自殺だった……『もう何も信じられない』と書き残して、知らない内に死んでたよ……あはぁああ……!あんたがっ、殺したんだ!狐塚透子!あんたが殺したんだよぉ!ひひっ、はははははっ!」
透子さんの顔が絶望に染まる。
「そんな……」
「透子さん!しっかり!」
揺れる手を握ると、冷や汗でしとどに濡れていた。
「次は私が質問する番だな、狐塚透子。あんたなんで、私を気絶させなかった?何の危害も加えず
花輪が指を立てた。何か来る。
それを制するべく透子さんが、少し錯乱の入った大きな動きで指を振った。しかし何も起こらない。
「……!?どうして……」
「無駄だよ。あんたの『苛烈幻覚』は、既に私が『喰らった』。もう私の物なんだよ……!」
花輪の言葉が気になる。『喰らった』?『私の物』?
「まさか、相手の催眠術を、奪う催眠術……!?」
「ただ殺すだけじゃ収まんないんでねぇ。あんた達には、お兄ちゃんと同じ死に方をしてもらう……!『苛烈幻覚』」
立てた指が、振られる。
「あ……ぐっ……!」
繋いでいた手が引っ張られた。
「透子さん!」
花輪から聞いた話が
「大、丈夫よ……和真君。視覚だけは、残ってる。だから、大丈夫……」
透子さんは息を荒くしながらそう答えた。手足の感触、
しかし、透子さんが
何故、あいつは透子さんの視覚を奪わず残した?殺すつもりではなかったのか?
がたっ、と音がした。視線を透子さんから花輪の方へ戻すと、彼女はテーブルに腕をつき、鼻から血を流していた。眼球は血走り、息も術を受けた透子さん以上に荒い。術を使ったことで自分もダメージを負っているようだった。
「ぐ……っ、視覚が
花輪が空いた手で額を抑えながら俺を見る。その口振りから察するに、手加減したわけではないらしい。半分……おそらくそれが彼女が自分に課した約束の一つなのだろう。
「っなのに、この
予想通り……それが本当なら、別に『苛烈幻覚』を百%で使う手立てがあるということだ。そこで思い出す。『強化術』の存在を。強化した完全な『苛烈幻覚』を透子さんに使い、
花輪に飛びかかる。『奪う催眠術』を解除し、計画を
「眠るな」
次の瞬間、高速の拳が再び俺の額を
「ぐあっ……!」
「和真、君……!」
さっきは手加減されていたのか、まるで
「みちる!」
俺を殴り飛ばした躯川が、不安気に花輪の肩を抱く。
「起き抜けに一発ご苦労……次は私を抱えろ。実はもう立っているのも
「ああ、もちろん」
ここに来た時のように、花輪は躯川に抱きかかえられた。躯川の腰の位置から、倒れた俺達を見下ろす。
「一時間後、廃ビルに来い……そこで終わらせる」
「……
「そうか……浅田泉という女子を知っているだろう?」
花輪が俺の表情を見て、
「彼女が
笑う花輪を抱えて、躯川がカフェを出て行く。
客も店員も、皆倒れて動かないまま。静寂がカフェを包んだ。
・・・・・・
廃ビルのトイレ。私は個室で息を
「みちるちゃん、まだかなぁ……」
そう呟くと同時に、扉の開く音がした。誰かがトイレに入ってきた。心臓が跳ねる。慌てて口をつぐむ。見つかっちゃいけない。お願いだからこの個室は調べないで……。
「……私だよ、泉。出ておいで」
「あ……みちるちゃん」
ほっと胸をなで下ろして、個室から出る。
「誰にも見つからなかった?」
「うん」
「そう、じゃあいつもの部屋に戻ろうか」
躯川さんが抱えるみちるちゃんと一緒に、最上階、彼女と出会った部屋に戻る。
「どうだった?みちるちゃん。上手くいった?」
「ああ。無事に狐塚透子から『苛烈幻覚』を奪えたよ」
「良かった……でも、それなら私も連れていってくれればよかったのに。そうすれば奪ったその場で狐塚さんを殺せたんじゃないの?」
「それだと、催眠術の奪取が上手くいかなかった時、あんたへの洗脳が解除されるかもしれなかったから」
「そっかぁ……」
躯川さんが、みちるちゃんを椅子に降ろす。
「まぁ、全て計画通りだ。後はここで狐塚透子を待って……」
みちるちゃんが台詞の途中で、椅子から落ちそうになる。咄嗟に躯川さんが彼女の体を支えた。
「っ、みちる!大丈夫か!?」
「……ああ、大丈夫ではないね……数分おきに意識が飛びそうになる。『術喰らい』『恋を知る人』『苛烈幻覚』……流石に三つは
催眠術は、習得するだけで脳の容量を大きく
それでも、
「こんな状態で、無理矢理『苛烈幻覚』を使ったら、死ぬかもしれないな……」
「みちる……やっぱり」
「駄目だ。狐塚透子は『苛烈幻覚』で殺す……死んでも
躯川さんはそれ以上何も言えず、口をつぐんだ。
悲しいけれど、これがみちるちゃんの願いなのだ。私も黙ってその手伝いをしようと思う。
終わりの時は近い。
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