4.苛烈幻覚
伊嶋の襲撃から、数日が経った頃。
「和真君。『約束』を外しましょう」
透子さんは俺に向かって唐突にそう言った。
「あなたの『解除術』に課せられた五番目の約束……『5.自分自身にこの術を発動することはできない。』これは
「確かに、自分にも解除術が使えたら、もっと楽に僕を倒せたもんな」
横で伊嶋がうんうんと頷く。どの立場で言っているのか。
透子さんが俺の目の前にチェス
「和真君、目を閉じなさい」
目を閉じる。
「和真君、目を開けなさい」
目を開ける。
すると、
「この内いくつかは、私の『苛烈幻覚』による幻の駒。五分あげるわ。自分に解除術を使って、どれが幻か当ててみなさい」
言われた通りに、手を組んで解除術を使ってみる。しかし、目の前の駒が消えたりすることはなかった……いや、目を
いや、やっぱりこれじゃないかもしれない。いや、やっぱりこれかもしれない。一度疑いだすときりがなくて、何もかも信じられなくなってくる。
「これと、これと……あとこれ」
やっとの思いで答えると、俺が選んだ駒は全て消えた。選ばなかった駒も全て消えた。チェス盤も消えた。
「答えは、
「……ズルくないですか?」
「ズルも何もないわ。あなたは絶対に自己解除を可能にしなければならないの……絶対に」
透子さんの声には、強いこだわりを感じた。俺に対して、催眠術師としての能力以外の物を求めているかのようだ。
視線を机から透子さんの方に戻す。ふと、透子さんの手の甲に小さなかさぶたができているのを見つけた。
「透子さん、その手……」
「あぁ、これ……おそらく、伊嶋を殴った時の傷ね。歯にでも当たったかしら」
「殴った側なのにダメージ受けてるなんて、やわだねぇ」
伊嶋が鼻で笑っていた。どの立場で言っているのか。
「……そろそろかしら」
透子さんはそのかさぶたを眺めた後、爪で引っかいてはがした。再度開かれた傷口から、血がじわりと滲む。
「……何してるんですか?」
「治ったのか気になって、かさぶたを無理にはがしてしまう
分かるような、分からないような。
そんなことを考えていると、
「熱っ!」
と、悲鳴を上げる頃には火の手は
抗議の意を込めた視線を送ると、透子さんは俺の顔をじっと見つめた。
「な、なんですか」
「まだ……私のこと信じてる?」
いつぞやのやり取りを気にしているのか。
「え?まぁ……一度信じるって決めましたから。そうそう疑ったりしませんよ」
「そう……なら、いいわ」
透子さんは視線を傷口に戻し、そこに
けど、あれもすぐにはがしてしまうんだろう。そんな予感がした。
きっと本当に傷が治るまで、透子さんは確かめることをやめないんだと思う。
・・・・・・
朝。俺は自宅で父と朝食を取りながら、テレビのニュースを眺めていた。画面に俺が通う桶花高校が映る。
「……先日、謎の集団パニックがあった桶花高校ですが、今日休校が解かれるとのことです」
伊嶋の
「和真……お前、事件が起こった教室に居たんだろう?大丈夫なのか?」
父が心配そうにこちらへ視線を向ける。
「あー……まぁ、大丈夫だよ」
一度操られ、暴れさせられていた横江が今も健康である所を見れば、他の操られていた人達にも
「かーずーまーくーん!!」
唐突に自宅の前から俺を呼ぶ大声が聞こえてきた。横江美和の声だ。
「和真、今のは……」
朝食を食べていた父が
「かー……」
二発目が来る前にここを出なければ。
「いってきまぁす!」
俺はひったくるように鞄を持ち、急いで玄関の扉を開けた。
「あ、和真君おはよう」
横江は玄関先に居た。メガホン
「普通にインターホン鳴らせよ……」
「いや、大声で呼べば和真君のご家族にもアピールできるかなって思って。こういうのは事前にしといた方がいいからね」
こいつの告白は以前きっぱりと断ったはずなのだが、いつの間にか家族へ紹介する所まで話が進んでいる。恐ろしい
「だからお前と登校するなんて嫌だったんだ……」
登校中に他の催眠術師から襲われるかもしれないから、図書準備室に寝泊まりするか
「いやいや、私ほど和真君の護衛の
横江は
「はいはい」
適当にあしらって歩き出す。横江も一緒にてくてく付いてくる。
「はぁー、こんな風に和真君と一緒に登校できる日が来るなんて。勇気出して行動して良かったなぁ」
行動。とは、浅田さんに『人格上書き』を使ったことを言っているのだろうか。
「……まだ反省してないのか」
「うーん……そのことなんだけどさぁ。和真君はなんでそんな怒ってるの?」
横江が不思議そうに首を傾げる。
「はぁ?」
「まぁ、泉の人格を消そうとしたのは、悪いことだと思ってるよ?前も言ったけど罪悪感がなかったわけじゃないしね。悪いことに対して、和真君が怒るのは当然だと思う。私も和真君のそういう所が好き」
ついでのような告白を流して、話の続きを聞く。
「でもさ、これって
「違う……確かに浅田さんは元に戻った。けど、代わりに二号が消えたんだ。そしてこれはもう、取り返しが付かない。それがお前の罪だ」
重く横江へ言い放つ。それでもこいつはまだ
「それもよく分かんないんだよねー……私テストの前に『勉強した直後の自分』を自分自身に上書きしたことあるけどさ」
こいつ……催眠術をそんなカンニング
「上書きを解除する時……和真君的には、私自身が消える時?別に何も思ってなかったと思うよ?そうじゃなきゃ今の私に戻ってないし……何が違ったんだろうね?」
何が違ったか。真っ先に思いつくのは、人として異常かどうかだ。
「うん……多分、和真君みたいに感じるのが普通なんだよね。変なこと聞いてごめん。私、少しおかしいから」
俺が答える前に、横江はひとりでに納得した。
どこかで聞いた台詞……今のは透子さんの言っていた台詞だ。あざとい奴だと思ったが、横江の表情は
「こういう所が普通の人は……和真君は、嫌い。うん、覚えた。もう嫌な気持ちにさせない」
隣から、ぶつぶつ呟いている声が聞こえる。
横江は俺に『ずっと
そんな
あくまで横江が自身の異常性を理解し、他人との
自分のそんな考えに嫌悪を感じる。あんなにこいつを嫌っていたのに、許す……やはり俺も催眠術師である以上、いくらか異常な部分があるのだろうか。
あるいは、二号の
「……横江」
「何?」
「消える
「無理。
「……登録。『人格上書き』の約束をいじって、今までに会った人間を登録できたりしないか?」
「いや。私の催眠術はもう『完成』させちゃってるから」
横江が言った『完成』……習得した催眠術に『これ以上この催眠術を
「だから、無理」
返ってきた答えは否定だった。
……いや、
やり場のない気持ちを
・・・・・・
「お、来たな」
放課後、横江と共に図書準備室へ行くと、伊嶋が机から振り返ってこちらを見た。机を挟んだ向かいには透子さんが座っている。
先日の
手足を
「見ろよこれ、この女めちゃくちゃ弱ぇの」
机の上にはチェス盤が置いてあり、勝負が
「……いつの間にか、
「別に……ただの
そう言って透子さんは
こんな奴と仲良くゲーム……違和感がある。一度受け入れるとは決めたが、まだ完全に乗り切れない。そんな俺の視線に、伊嶋が答える。
「なんだよ。このご
この
「いやー
「自分で言うかそういうこと。僕なら言わずに心に
二人が睨み合う。どうやら透子さんには
「僕だって反省してるんだぜ?もし次があるなら、いきなり一番強い駒を取ろうとはしない」
伊嶋は
「……そういう意味じゃなくてだな」
「そもそも、過去のことがそんなに大事かね。大事なのは今、僕がこうして君の
確かに、伊嶋は横江に比べて多くの情報を持っていた。どれくらいの人数が催眠塾に
「いずれ、全員僕の駒にして軍団を作るつもりだったからな」
しかしこういう発言を聞くと、やはり
そんなやりとりをしていると、透子さんが短く
「これからの話だけど……伊嶋君の襲撃から一週間。他の催眠術師からの攻撃はなかった。これ
「私達も別に、あの人達に命令されて透子さん襲ったわけじゃないしね」
「な」
二人が顔を
「……だから、今度はこっちから動くわ」
「動く。って……」
「横江さんや伊嶋君、その他の人達に向けて催眠塾を開いた二人組。その二人が居る廃ビルに行くのよ」
横江が言っていた……花輪みちると躯川誠。もう一冊の『現代催眠学基礎論』を
横江や伊嶋と手を組んでまで設定した目標だ。きっと達成してみせる。
「そこの二人がね」
「えっ」
当然といった様子で、透子さんが横江と伊嶋を指差す。指差された二人にも
「まずは
「俺と、透子さんは?その廃ビルに行かないんですか?」
「……
「す、捨て駒って……」
そう呼ばれた二人も、まぁそうだよね。と頷いて、疑問を持っていない。
「そんな風に人を使うなら、伊嶋と同じじゃないですか!」
「……この二人は人々に
透子さんにあらためて問われて、返答に困る。
「甘いんだねぇ、岩倉和真。
「うんうん。私は和真君のそういう所も好き」
二人が
「何にせよ、あなたが自己解除を身に着けない内は危険な目に合わせるわけにはいかないわ。というかそもそも危険でもないわよ。二人は
そう言われればそんな気もしてくる。ので、これ
「そいじゃ、行ってきまーす」
「行ってきまーす。何か分かったら
マスクなどを付ける伊嶋と、手を振る横江、二人を
・・・・・・
コーヒーの匂いが
テーブルに置かれ、
「来ちゃったなぁ……」
二人を見送った後、俺も自宅に帰ろうと学校を出て、その足でこの喫茶店に
自分の
その上、目的の廃ビルに行くのではなく、近くの喫茶店に腰を落ち着けている所が手に負えない。
今からどうすべきだろう。今から廃ビルに行けば……二人のために行動すれば、精神的に二人を許すことになる。とはいえこのまま帰れば、俺は罪悪感を覚えてしまうだろう。悩んで、
人生において、このような
考えがまとまらないまま、またカップに口を付ける。とりあえずこの
そう思いつつカップをテーブルに置くと、一人の男が
いや、一人ではない。男は少女をお姫様抱っこしていた。……何故、この席に、何故、お姫様抱っこを。
「あんたが、岩倉和真か」
どくん、と心臓が跳ねる。少女の
「……どうして、俺の名前を知ってる」
「お友達からの
こいつ、透子さんを知っているのか。
お友達からの報告?俺達の
「お前は、お前達は……」
少女は俺の問いに答える代わりに、男の
「私が花輪みちる。こっちが躯川誠だ。私達が催眠塾の講師……横江か伊嶋から聞いてるだろう?」
「……っ、お前達が!」
「待ちな、そう声を荒げるなよ。今日はただ話をしに来ただけだ」
少女の顔には、変わらず薄い微笑みが張り付いている。何かを楽しんでいるのではなく、ただ目の前の俺に興味がないといった風だった。
話をしに来ただけ……その言葉を
息を整え、改めて少女に問いかける。
「……お前達の目的は何だ。どうして催眠塾なんて開いてるんだ。この街に催眠術師を増やして、一体何がしたい」
「とある催眠術が欲しかった」
少女はあっさりとそれを明かした。
「『強化術』……まぁ呼び方はなんでもいい。とにかく『他の催眠術の効果を強める催眠術』が欲しかった。けどね、あんたも知ってるだろうけど、催眠術の習得には強いモチベーションが必要だ。他の催眠術を強めたい……そんなモチベーションを持つ人間が生まれるには、どうしたらいいと思う?」
「……催眠術師を、増やす?」
「ご名答。催眠術師を
「……つまり、お前達は分かってやってたんだな。増えた催眠術師が、人を不幸にすると分かって……!」
伊嶋、横江。俺達が知らないだけで、他の催眠術師もその力を
こいつらさえ居なければ、二号があんな最期を迎えることはなかった。
「そうだな。もちろん分かってたよ」
「……もう一度答えろ。お前達の目的は何だ。そうやって『強化術』を手に入れて、他の人を不幸にしてまで何がしたい!」
「狐塚透子を殺したい」
少女の瞳が黒く光る。
耳を疑うことはなかった。彼女は今、はっきりと、一人の人間を殺したいと言ったのだ。
俺が殺意に
「
「……
そう答えても、少女の表情は変わらない。
「
「目的が
その言葉は、少女にとって
俺がそう答えた瞬間、少女の微笑みがはがれた。
殺意を口にする時でさえ崩れなかった少女の表情は、口元を
怒りに震わせた口元で、少女は話す。
「……そうか……あんたを代わりにしたんだな、あの女は……っ!お兄ちゃんのことも忘れてぇぇぇ……!」
少女はがりがりと自分の顔を
「聞けよ……聞きなよ、岩倉和真。あんたは私に聞くべきことがある」
顔を
「……どうして、透子さんを殺したいんだ」
・・・・・・
五年前。私が、本当に桶花高校の図書委員長だった頃。
私は図書室の静寂が好きだった。
読書のため、沈黙に支配された空間。それを保つために図書委員長になり、自分以外の委員の当番を減らしたり、生徒達が寄り付かぬよう人気の本の
そんな
しかしその静寂は、ある日から姿を消すことになる。とある一冊の本によって。
「すいませーん。この本、貸し出しお願いします」
放課後、図書準備室で読書していると、男子生徒がカウンターのベルを鳴らした。
読書を
「学年、クラス、出席番号、名前を」
「二年四組二十七番、
タイトルは、『現代催眠学基礎論』。
その本は背表紙が真っ青だった。それを見て、こんな本が図書室にあっただろうかと疑問に思う。これだけ鮮やかな目が覚めるような青で、奇妙な存在感を放っている本、
更におかしな点を見つける。その本はカバーフィルムによる処理がなされていない、
「これ……図書室の本じゃないわよ」
「えっ、あー……
男子、花輪君が得心のいった表情をする。その
「道理で?」
「うん。その
私はこれよりもさっき中断した本を読みたいのだけれど……この本に気を引かれている自分が居るのも事実だ。先にこの妙な
一ページ目から、
「……読めるわよ、これ。あなたの読解力が低いだけじゃない」
「いや、俺も最初の方は日本語だなって分かるよ?でも後ろの方とかそういうレベルじゃないんだって」
彼が本の後ろを指差した。少し疑いつつも、差された箇所を開いてみる。
花輪君が、『ほらね?』とでも言いたげに瞳でウィンクを作る。
「確かに、まともな本じゃないわね。
私がそう言うと、花輪君は不思議そうな顔をした。
「……『読めるのは一部だけ』?一部でも読めたの?えっと、中盤って真ん中の方のことを言うんだよ?」
「馬鹿にしないで。分かるわよそれくらい」
「いやでも、俺真ん中の方も全然分かんなかったからさぁ」
「
その箇所を指差して、気付く。その文字は日本語ではなかった。それどころか文字なのかどうかすら疑わしい、奇妙な線の
だが、私はそれを
しかし、何故分かるのか分からない。どうして私は、この文章が。
「……読めるんだ」
彼の呟き。その声は、確かな好奇心を孕んでいた。そしてこの本に好奇心を抱いているのは私も同じだった。
本を閉じ、表紙を表に置いてもう一度題名を確認する。
「『現代催眠学基礎論』……これ本物だよ。本物の催眠術の教科書なんだ!」
カウンターと
そして二人で『現代催眠学基礎論』
私は図書室の静寂が好きだ。なので自分の当番も、仕事をサボりがちな生徒と
「ここは?このページはなんて書いてあるの?」
普通なら聞くことのない他人の声、感じることのない熱。うざったいけれど、どこか新鮮だった。でもやはりうざったい
「黙ってて……今集中してるの。というかあなた近いわ、少しあっちへ行って」
「だって遠いと読めないじゃん。その本を見つけたのは俺なんだから、俺にもそれを読む権利があるはずだ」
「どちらにせよ読めないんでしょう?あなたは」
何故か、この本を読めるのは私だけだった。これもこの本の謎の一つだ。
「多分、透子ちゃんには才能があるんじゃないかなぁ。催眠術師の」
「……
「じゃあ透子ちゃんは催眠術師について論理的に話せるの?」
「あなたよりはね。それと下の名前で呼ばないで」
「それなら……結局、催眠術ってなんなの?」
「それについては一ページ目、あなたも読めると言っていた箇所に書いてあったでしょう」
「読むことと理解することは別物だよ」
花輪君は何故か得意げにそう言った。ただ馬鹿なだけではないか。
「例えば……モールス信号があるでしょう。あれは画一的な記号の羅列に意味を持たせた物。催眠術も同じく、例えば指の動き、
「……えっと……脳をうまい
なんやかんや。六文字に
「それで?どうしたらそれができるの?」
「『約束』……が効果的みたいね」
二ページ目を開き、読み解いていく。ここは
「約束って、誰と?」
「いえ……この約束は、自分で自分に課すもの……らしいわ」
次のページではどんな『約束』が有効か、例と共に
「おそらくこれは、
「重い……『
時間。
「あなたの提案を鵜吞みにするのは
適当な
「人の五感を操る……まずは視覚。この見開きの右と左を入れ替えるわ。発動」
人差し指を振る。私も花輪君も、その動きを
「よし。じゃあ後十分はお
花輪君が私に笑いかける……もしかしてそのためにさっきの約束を提案したのだろうか。
「……別に、あなたと話すことなんかないわ」
「何か、さっきから俺に当たり強くない?」
「本が好きな人間は、
「えっ、じゃあ友達とかは?」
「居ない、必要ない……逆に聞くけれど、あなたは私と仲良くなりたいの?この本についての好奇心を満たすためだけなら、互いの自己紹介なんて必要ないでしょう」
「まぁね。でも俺には別の目的があるから……俺は、この街の平和を守りたいんだ」
「話の前後がおかしい気がするけれど……どうして、街なの?」
「いや、流石に世界とかまでは手が届かないなって。とりあえず近い所からね」
彼は頭を掻きながらそう言った。妙な所で現実的だ。
「大体、守るといっても何から守るのよ」
「これだよ」
目の前の『現代催眠学基礎論』が指差される。
「もしこれが本物でさぁ、もしいくつもあって、もし他の誰かも持ってて、もしそいつが悪用してたらやばいじゃん」
もし、が多すぎる仮説だが……可能性は否定できない。どの仮定にもある程度の
「悪用……ね」
「人の五感、記憶、あるいは心理すらも操れるんでしょ?
「本当、妙な所で現実的ね」
「それでさ、そんな奴らに
「……あなたのヒーローごっこに
「あぁ、そこは信じるよ」
花輪君は、特に考える素振りもなくそう言った。
「どうして?」
「人を信じるのに、理由は要らないだろ?」
「
「え……なんだろ、お
「何それ……あなた本当に
気が付くと、花輪君がニヤニヤしていた。
「……何よ、何が面白いの」
「いや、
「っ、別に、十分経つまでの
そう言い放ってから、思い出す。私が『発動』と
「おっ、そろそろか」
二人で姿勢を正し、少しそわそわしながら美術の教科書を見つめる。後十秒。心の中でカウントダウンする。九、八、七、六、五、四、三、二、一。
そこで唐突に、脳の一部が熱くなった。雲の中で、
そして理解する。この催眠術が成功するかどうかは、私が決めることなのだ。
ならば、本物にすることになんら迷いはない。
ページは、入れ替わった。
すぐにすぅっと元の光景に戻っていく。それでも、一秒か二秒、もしくはもっと短い間だったかもしれないが、それでも確かに二つのページは
催眠術は、成功した。
「うっ、うおお!すごっ、今入れ替わった!やっぱり本物!本物だ!すごい!」
隣で花輪君が
「……図書室ではお静かに」
「えっ……なんでそんな冷静なの」
感動はある……しかし驚きはなかった。この催眠術が成功することは、直前、私の中で
次の瞬間、
「はっ!?」
何をする。と抗議の意味を込めた目で睨み返すと、彼はまた笑っていた。
「ほら、催眠術が本当に成功したんだぜ!?もっと驚いて喜ぼうよ!」
どうやら、彼は張り手ではなくハイタッチのつもりだったらしい。手のひらが、じんじんとした熱を帯びる。
私のような人間が、誰かとハイタッチ。どちらかといえば、こちらの事実の方が驚きだった。
私の催眠術は『苛烈幻覚』と名付けられ、めきめきと能力を
いまや操れるのは視覚だけではない。他の五感も同時に一つまでなら操れるようになったし、発動にかかる時間は数秒まで
しかし、そのことについて特に
他の生徒達にもこの本を読ませてみたが、二ページ目以降を理解する人間は居なかった。花輪君も一向に読めるようになる気配がない。
私に催眠術師としての才能があるという、彼の推測。この現状を
つまりは当たり前のことなのだ。できる者にはできることができる。ただそれだけのこと。私はそれを、論理など
意外なのは、彼との関係だった。放課後、図書室に他の委員が居ない日を
私は他人が嫌いだ。
そして私は
しかし、今の所そうはなっていない。そんな
「じゃーん!ティーセット持ってきた!」
それどころか、彼は
「……楽しい?」
「え?まぁ、特技だしね。そこそこ……」
彼が
「お
「……楽しくなきゃ、来ないよ」
目の前に、淹れたての
「透子ちゃんは違うの?」
「下の名前で呼ばないで……私は、図書委員の当番を果たしてるだけよ」
そう言い放ち、話を
匂い、味、熱、声。いつの間にか、随分と刺激の多い場所になったなと、図書室を見回す。あいも変わらず私と彼しかいないが、もう閑散なんて感じはしない。
放課後、私は職員室に寄って鍵を借りてから図書室に向かう。いつもその間に彼が扉の前で待っているので、一緒に入る。それが
まぁ、いつも放課後すぐに教室を出られるわけでもないだろう。私は先に『現代催眠学基礎論』を読んで待っていようと思った。どうせ読めるのは私だけなので、彼と読む時間を合わせる必要はない。
図書準備室に入り、静寂の中、本を読み進めていく。そして
おかしい。読めすぎている。昨日まで一日に読み進められる量は一ページほどだった。この本を読むのに必要なのは催眠術師としての才能……その成長が、更に加速したということか。
今の私なら、更なる先を読むことができる……そんな直感のままにページを
きっとこのまま最後まで。そんな考えがよぎった、最後から
『 』
私はそのページを、一瞬で理解した。
「あ、ぐうう……!」
脳が熱い。脳が何かでこじ開けられる。初めて催眠術を発動させた時に似ながら、その何倍もの感覚。脳に流れる
理解する。
私は
ふと、それを開いた人が居たことを、思い出す。
「透子ちゃん!」
声がする。その方向に花輪君が立っていた。いや、床が設定されていないので浮いていると言った方が
「うわっ、こっ、これは……!?」
この空間に圧倒され、花輪君が
それでも、彼のような反応が普通なのだろう。この世界は私以外に理解できないように創られているのだから。
彼は
「ここは私の『苛烈幻覚』が創った……世界よ」
彼が実際にここへ来たのか、それとも私の記憶から生じた幻覚か、
「ここから出て行きなさい。この世界は、私にとってのみ意味を持ち、私だけが理解する世界……私以外の人間はこの空間に耐えられない。正気を失うわよ」
しかし忠告とは
「……君は、どうなる」
「この世界に残るわ。私が私を
「それだと君は、また一人ぼっちじゃないか!」
彼が叫び、私に向かって一歩踏み出す。するとたちまち無数の針が現れて、彼の体は
「うぐっ……」
「いいのよ、一人ぼっちでも。永遠に解けぬ幻は、現実となんら変わらないから。他者の存在など要らない。私は閉じた世界が好きなの」
「なら、なんで俺に心を開いた!」
また一歩、また一歩、私と彼の距離が縮まっていく。
「思い上がりよ!私は……」
「嘘だ!本当は嫌いだったんだろう、図書室の静けさなんて!君を認める、誰かがずっと欲しかったんだろう!君はただ、自分の願いが
彼の言葉が途切れる。
彼の足はがくがくと震え、それでもなお前に進むことをやめない。
恐怖があった。私の世界が壊されてしまう恐怖。彼の精神が破壊されてしまう恐怖。
私は、彼が今すぐ目を
「寂しかったんだろう……?」
彼は、ついに私を抱きしめた。
「私は……」
私は、信じることにした。
そんな風に
「あっ……戻った」
痛みから解放された
「どうして、痛みに耐えてまで、私を助けてくれたの……?」
「……言っただろ?俺が助けるのは、近くの人からだって」
そう語る彼の声は、あくまで純粋だった。彼の夢は、
私は他人が嫌いだった。好く理由がない。けどそれは、嫌う理由ばかり探していたからだ。そしてそれは、とても馬鹿らしい生き方だったのだと、今なら分かる。
目の前に、嫌う所のない人間が居る。彼を見ることができないのは、嫌だ。
「……本当、お花畑ね。今回は無事に収まったから良かったけど、そうならなかった場合はどうするつもりだったの?あなた
「なんだよ。助けてあげたのに」
「あなたの夢には、現実性がないわ」
「……あっ、じゃあさ。今度から透子ちゃんがそれやってよ。現実性係ね」
「そうね……それがいいわ」
「あっ、下の名前で呼んでも怒らない」
彼は嬉しそうにそう言った。私が仲間に加わったことより、そっちの方が嬉しいらしい。
「……目ざといわね」
「よーし今度はこっちが下の名前で呼ばれるのを目標にするぞ」
「宏登君」
「やったぁ」
「ふふっ……」
久しぶりに笑った気がする。本当はずっと、誰かとこうしたかった。
図書準備室に、
・・・・・・
とある人間の
その脳が停止しないように、冷たい
その脳に、
その脳に装置で、空を見せたとしよう。バイオリンを聞かせたとしよう。花を
その脳が、あなたの物だったとしよう。
――『
あなたが見ている『これ』は、本当に存在するのだろうか?
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